串柿のように甘く

西野ゆう

第1話

 黄色と黒で彩られていた街の色も、月が替わると同時にその色は赤と緑へと変わっていた。街を歩けばどこからともなく鈴の音が聞こえてくる。

「ハロウィンが過ぎたとたんにクリスマス」

 十一月最初の土曜日。中間テストを終えたばかりの高校二年生、こと季佳きよきったか伊沙いさは、映画館を目指して商店街を歩いていた。ほんの数日前までハロウィンの飾りつけで目を引いていた街が今では、クリスマスツリーの横で年齢も性別も様々なサンタが立って、客を呼んでいる。そんな様子を見て呟いた季佳美に、伊沙子は小さな笑いを溢した。

「何それ、俳句?」

 偶然にリズムを刻んだ季佳美の独り言を伊沙子がからかうと、季佳美は立ち止まって、随分と薄い色になった青空を見上げた。

「そんなつもりじゃないけど……。よし、それなら一句」

 空を見上げたままの季佳美に、伊沙子が期待を寄せる眼差しを向けた。

「うーん……」

 季佳美は商店街の真ん中で立ち止まったまま腕を組み、時折指先で顎を撫でている。

 三十秒ほどそうしていただろうか。だが結局何も浮かばなかったようで、再び歩き始めた。

「だめだめ。やっぱ私にはそんな才能ないわ」

「えー、なんだ。ちょっと期待してたのにな」

 とりとめのない話をしながら並んで歩く。季佳美は、この時期に恋人がいないという寂しさを感じていなくもなかったが、それは伊沙子も同じことだろう。浮いた話ひとつない二人で笑って歩ける今が、互いに嫌いではなかった。

 そんな二人が花屋の前を通り過ぎた時、二人とはまるで別世界の言葉が耳の中に飛び込んできた。

「妻と別れそうだよ……」

 季佳美と伊沙子は通り過ぎざま、思わずその言葉を発した男の方を振り返った。そして顔を見合わせたあと、早足でその場をやり過ごした。目的地である映画館の入り口に着いた所で、ようやく伊沙子が口を開いた。

「さっきのって……」

「うん……」

 季佳美も伊沙子の言わんとしていることを理解して頷いた。

「体育の赤木」

 異口同音に男の名が出てきた。

 去年まで季佳美たちが通う高校の体育教師だった男。授業は男子の受け持ちだったため、直接季佳美たちが教わることはなかった。それでも伊沙子に言わせれば、若いというだけで女子生徒からはそれなりに人気があったらしい。

「で、あの花屋の店員って、うちの高校の卒業生でしょ? 私たちの二つ上」

 伊沙子が季佳美に確認したその情報は、季佳美にとっては初耳だった。

「え、そうなの? 綺麗な人だな、とは前から思ってたけど」

 どちらからともなく遠く離れた花屋の方を振り返ると、ディスプレイされた植物に負けない華やかさを持ったエプロン姿の女性が、赤い実を付けたヒイラギの鉢を赤木に手渡している様子が小さく見えた。

「妻と別れそうって言ってたよね?」

 季佳美も確かにその言葉を聞いたのだが、結婚したことを男子生徒に冷やかされて照れていた姿を思い出すと、伊沙子の問いに「そんなわけない」と言いたくなった。赤木は同じ高校に勤務していた数学の教師と去年結婚したばかりなのだ。妻の方も転任して、今も別の高校で現役のはずだと季佳美は記憶している。ふたりの顔を思い浮かべ、再び心の中で「そんなわけない」と呟いた。だが結局、その誰に対してでもない慰めのようなセリフは最後まで喉から上へと昇ってくることはなかった。


 お気に入りの俳優が出演する恋愛映画を観ても、季佳美の心は晴れない。ファストフード店で遅めの昼食を摂っている間も、周りのカップル達の会話がいつも以上に気になっていた。

 家に帰ってもいつもより沈んだ様子の季佳美に、祖母の萌子もえこは翌日の仕事を与えた。

「季佳美。明日の朝、八幡さんのおばさんとこ行って、柿を採ってきて」

 季佳美の家から歩いて五分の所に八幡神社がある。萌子が言う「八幡さんのおばさん」とは、その神社の近くに住む萌子と同年代の女性のことで、琴葉家と親戚関係にあるわけではない。もちろん八幡という姓ではなく、道下みちした幸恵ゆきえという名だ。幼少の頃に神社の境内へ遊び場として訪れていた季佳美の面倒をよく見てくれていた彼女のことを、季佳美は「八幡様のおばちゃん」と呼んでいた。

 季佳美は高校生になった今でも、「道下さん」とは本人を前にしても呼ばない。その方が一般的には礼儀正しいのだろうが、今さら普通に呼ぶと他人行儀で、寂しい思いをさせるような気がしていた。

「おじさんが腰を痛めてるらしいから、しっかり頼むよ、若者」

 比較的高齢者が多い地域に住む萌子は、事あるごとに季佳美を「若者」と呼んでいろいろな作業に駆り出している。

 普段ならば「せっかくの日曜日に」と、気落ちするところだが、中学生以降足が遠のいていた神社の方へ行くのも気分転換になるだろうと、季佳美はその指令に快く応じた。

「採ってくるってどのくらい?」

「カラスに二、三個残して、全部採ったらいいじゃない?」

 萌子は簡単にそう言ったが、道下家にある柿の木は相当に大きい。どうやら大仕事になりそうだと、ついさっき仕事を与えてくれた感謝の気持ちは影を潜め、柿がたっぷり入った竹編みの籠を背負った自分を想像して天を仰いだ。

精々せいぜい奉公ほうこういたします……」

「なぁに、その言い様」

 朝のドラマの主人公の口調を真似た季佳美に、萌子は声をあげて笑った。


 翌日の朝は子供が数秒で描き上げてしまいそうな秋晴れで、虫の合唱とススキの息吹の中、柿の実が美しく浮かび上がっていた。

「おはようございまーす!」

 季佳美が玄関の引き戸を開けて声を上げると、玄関からではなく家の裏手の方から、背丈の三倍ほどある竹の棒を持った老婆が出てきた。

「あらぁ、キヨちゃん。大きくなったねぇ。もう立派な大人だわ」

 数か月前も同じことを言われていた季佳美は、逆に「おばちゃんは小さくなったな」と感じつつ愛想笑いで応えた。

「うーん、もうちょっと子供で居たいですけどね。あ、おじさんは大丈夫なんですか?」

「まあね。年だからあちこちガタがくるのよ。立って歩けないほどじゃないから平気。運動不足ですって、先生曰く。今も寝っ転がってテレビ見てるんだから。そうそう、採った柿はあのコンテナに入れてね。後でおじさんにバギーで運ばせるから」

 久しぶりに会った季佳美に、幸恵は嬉しさで口が弾んでいるようだ。季佳美から切り目を入れた竹の棒で絡めとった柿を受け取りながら、幸恵は夫のことや、孫のことを優しい声で話し続けていた。

「八幡様のおばちゃんとこ、ご夫婦仲いいですよね」

 季佳美の口から、ぽろっと零れた言葉に、幸恵は否定も肯定もせず笑った。

「毎年萌子さんの串柿を食べてるからね」

 季佳美は幸恵の言葉の意味がよく分からなかったが、その笑顔につられて笑った。

 ひとつの枝に多くの実を付けて大きくたわんでいた柿の木が重みから解放されて、若返って腰を伸ばしたかのようにシャキッと立っている。代わりに台車の上のコンテナには満杯の柿。季佳美がその台車をバギーの後ろまで引っ張っていった。

「キヨちゃんありがとう。今度は串柿持って遊びに来てね」

 運び終わった季佳美に、幸恵がビニール袋を渡しつつ礼を言った。

「いいえ、私も楽しかったです」

 言いながら季佳美が袋の中身を覗き込むと、まだ小さく青っぽい早生ミカンが袋の中に冬を呼び込んでいた。

 暖かな気持ちと共に小さな冬を連れて家路に向かう季佳美の胸は、ひとつ北風が撫でるごとに、まだ口に入れてもいないミカンの酸っぱさが広がっていく。訳も分からず訪れてきた孤独感に、季佳美は小走りで暖かな我が家の縁側を目指した。

 小高い南向きの斜面に建つ季佳美の家は、眼下に広がる海からの照り返しで、いつもよりも輝いて見えた。その日差しを浴びて、縁側では萌子が竹串と綱を用意していた。

「ただいま」

「ご苦労さん」

 短いやり取りの後、季佳美は靴を履いたまま縁側に腰掛けると、そのまま仰向けに転がった。乾いた木の香りを含んだ暖かな空気を、めいっぱい肺を広げて身体中に廻らせた。

「季佳美、柿は?」

「おじさんがバギーで運んでくれるって」

 季佳美がそう答えた直後、特徴のある軽快な排気音が聞こえてきた。

「こんにちは」

 本来ヘルメットを着用する必要のないバギーだが、台車を連れたバギーに跨る道下は、その頭にちょこんとヘルメットを乗せていた。季佳美が見ても、若い時はモテただろうと容易に推測できる程度には精悍な顔つきをしている。

「台車ごと置いてくから」

 そう言って台車をバギーから切り離すと、道下はそそくさと帰っていった。

「さ、始めようか」

 萌子はそう言うと季佳美にピーラーを渡し、自分は他の道具の準備に取り掛かった。

 毎年萌子の手伝いをしている季佳美は、何も言わずに柿の皮をひたすら剥いていった。剥き終わった柿から萌子が大きな鍋に沸かした湯に潜らせていく。その柿を今度は季佳美が一本の竹串に十個ずつ刺していった。

「そういえばね、おばちゃんとこの夫婦って仲良しだよねって言った時に、お婆ちゃんの串柿を食べてるからだって言ってたの。あれって、どういうことなのかな?」

 串に刺した柿を受け取り、綱で等間隔に縛っていた萌子が小首を傾げた。

「あれ、教えたことなかった? 串柿の意味」

「三種の神器のひとつって話は聞いたよ。鏡餅がナントカの鏡で、ミカンがナントカの勾玉で、串柿がナントカの剣」

 柿をさす手を止め、指折り三種の神器を答える季佳美に、萌子は少し呆れて笑いながらも頷いている。

「ナントカばっかりじゃないの。八咫やたのかがみ八尺瓊やさかにの勾玉まがたまあめのむらくものつるぎ。それに、ミカンじゃなくてだいだいね」

 三種の神器の正式な名前を覚える気などさらさらない季佳美は、少し舌を出して肩をすぼめた。

「だけど、それがどうして夫婦円満と関係があるの?」

 季佳美が最後の一本を萌子に渡して聞くと、萌子は軒下に吊るした串柿を顎でくいっと指した。

「この吊るし方よ。二本の綱で串を吊るしてるけど、綱の内側に六個、外側に二個ずつの柿があるでしょ?」

「うん」

「外に二つずつと、中に六つ」

 言い方を少し変え、意味深な笑みを浮かべながら萌子は季佳美の目を見ている。季佳美の方は、何を言っているのかまるでピンと来ていないようだ。

二二ふうふ中六なかむつまじく」

 萌子は両手でVサインを作り、次に開いた右手のひらに左手の人差し指を並べて、指で二・二・六と形作りながらそう言った。

「なんだ、得意のダジャレかぁ」

 納得した季佳美に萌子は大きく頷いた。

 日本の伝統的な縁起食のほとんどがダジャレで出来ているのだと、季佳美は以前から教わっていた。

「夫婦仲睦まじく、かぁ」

 赤木のことを思い出し、仕事のために夫婦で海外に行っている自分の両親が同じようなことになったらどうするだろうと、変に感情移入してしまった季佳美は、ひとつ決心をして頷いていた。

 一か月後、季佳美は学校から帰ると、軒下ですっかりやせ細った柿をひとつ手で揉んでみた。まだ少し残っている筋を、指で挟んで断ち切る。

「ちょっと早いかな」

 そう言いながらも一本串ごと綱から外すと、新聞紙でくるんだ。

「ちょっと一本貰っていくね」

 串柿の代わりにカバンを縁側に投げ置いて、再び駅の方へ向かった。

 新聞紙に包まれた怪しげな棒状の物。電車を降りて歩いている時も、どう持てばいいかいろいろ考えていたが、結局格好良く新聞紙に包まれた串柿を持ち歩くのは不可能だと諦めた時、季佳美は目的地に到着した。

 花屋の前に、棒状になった新聞紙をぶら下げた女子高生が立っている。

 店内の鏡に映ったその姿を見た季佳美が、花屋の前だとこの格好も意外と違和感がないな、などと考えていると、赤木と話していた店員が顔を出した。

「いらっしゃいませ。贈り物ですか?」

 鈴の鳴るようなかわいらしい声だ、と季佳美は思った。その彼女の前に立つ自分の姿の恥ずかしさに、躊躇うことなく要点を告げた。

「あの、噂で聞いたんですけど、赤木先生って離婚されるんですか?」

 突然の言葉に目を見開いた店員が、一瞬の間の後に声を出して笑った。変な質問に対して嫌な顔をしないのは、目の前に立つ珍客が、その制服で自分の後輩だと知れているからだろう。

「ヨシ君が? ないない」

 顔の前で大きく手を横に振って、あり得ないと何度も繰り返す。

「ヨシ君って呼ばれているんですか?」

 季佳美は彼女がそう呼んでいることを丁寧な言葉で確認したつもりだったが、彼女は別の意味で受け取ったようだ。

「家族とかからはね、そう呼ばれてる。……あれ? あなた、ヨシ君が私の従兄だって知ってるの?」

「え? 知らないです」

「ふーん。で、どうしてそんな話になってるの?」

 聞かれて季佳美は、最近仕入れた情報で、クラスの男子がコンビニ弁当を買う赤木の姿を度々見たという話を聞かせた。それでも彼女の顔から笑みは消えない。

「なるほどね。実は今ね、ヨシ君の奥さんは出産準備で里帰り中なの。だから一人暮らしなんだよね」

 季佳美はその説明を聞いて納得しかけたが、伊沙子と聞いたあの言葉のことが気になった。

「でも、先月ここで赤木先生が離婚するかもしれないって言ってたのが……、たまたま聞こえちゃったんですけど……」

 それを聞くと、さすがに彼女も腕を組んで眉間に皺を寄せた。

「離婚するって? 私に?」

「はい。妻と別れそうだって。そしたら、お姉さんがヒイラギを渡されていて……」

 首を捻りながらその時の事を思い出していた彼女はが「わかった!」と胸の前で手を一度大きく叩くと、再び声をあげて笑った。

「『妻と別れそう』じゃなくて、『トマトは枯れちゃいそう』って言ってたのよ。『トマトの冬越しは難しいな』って」

 笑い交じりにそう答えた彼女によく聞き取れなかった季佳美も、もう一度聞き返して理解すると、あまりのバカらしさに一緒になって笑った。

「ところで、えっと……」

「あ、すみません。二年の琴葉季佳美といいます」

「私は赤木ゆり。それは何?」

 ゆりは自己紹介を済ませると、季佳美が持っていた新聞紙を指さした。

「串柿です。赤木先生に差し上げようと思って……」

 季佳美が串柿を赤木へ渡そうと考えた理由を説明している最中、ゆりは何度か「かわいい」と繰り返して聞いていた。

「わかった。今日の帰りに寄るようにってメールしとくね」

「あの、勘違いしてたことは内緒にしておいてください」

 季佳美はそう頼みながらも、知られてしまうのは覚悟していた。それはそれで赤木も楽しんでくれるだろう。

 新聞紙からビニール袋に変わった荷物を持ち帰る電車の中、今年は両親のもとへも幸せな甘さ溢れる日本の味を送ってあげようと、袋の口からヒイラギの赤い実を見つめる季佳美だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

串柿のように甘く 西野ゆう @ukizm

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ