9.軋轢。強襲


 八百年前より、弱い。

 それがゼレウスの抱いた正直な感想だった。


 技術は洗練されているように感じる。

 だがそれだけだ。

 八百年前の人族、魔族の瞳に浮かんでいた、ギラギラとした感情。

 『この戦争を終わらせてやる』という、強い意志の光。

 彼らにはそれがなかった。



(この戦争が……あまりにも長すぎたため、か……)



 千年続く戦争。

 疲弊した国々。

 歴史書の中に散っていった、かつての英雄たち。

 千年続いた戦争を自分が終わらせられると、誰が思えるのだろう。

 自分が千年に一度の存在だと、誰が思えるのだろう。

 皆、こう考えるのだ。



 ──この戦争が、自分が生きているうちに終わることはない、と。



 血溜まりに沈むオークと、冒険者たち。

 彼らがその事実を証明していた。

 諦観に包まれた人類を突き動かすのはきっと……『憎しみ』だ。

 同胞を殺された恨み。

 領地を奪われた苦しみ。

 未来を失った悲しみ。

 ただそれだけが、戦争をやめられない理由となっていた。



「うぉおぉおおおっ!!」



 戦場に転がる死体へ目を向けていたゼレウスに、オークが一人斬りかかってきた。

 その表情には決死の覚悟が浮かんでいる。

 命をかける理由は憎しみか、苦しみか、悲しみか。

 それとも……怒りだろうか。

 オークの瞳を覗き込む。



(む? これは……。──なにッ!?)



 ゼレウスはオークの瞳にそのいずれとも異なる輝きを見つけた。

 それがどんな感情なのかと疑問をいだく。

 だがその瞬間、対峙するオークの側頭部目掛けて一本の矢が飛んできた。

 ゼレウスは驚愕しつつも斬撃を躱すと、オークを蹴り倒すことでその矢を回避させる。


 ゼレウスにとって魔族は同胞だ。できるだけ殺させたくない。

 そう思っての行動だったが、今までゼレウスはオークを殴り飛ばしたり蹴り飛ばしたりするのみで、トドメどころか致命傷すら与えていない。

 一度たりとも。


 だからその意図を誰かに気づかれてしまうのも、きっと必然だった。



「……どういうつもり、ゼレウス?」



 弓を構えた赤い髪の少女に、鋭い眼差しを向けられる。



「エレイナ……前線まで来ていたのか」


「ええ、あなたを援護できるようにね。だけど……さっきからなに? 本気で戦ってる? 本気で……で」


「…………」



 気絶し倒れるオークをそばに、ゼレウスとエレイナは向き合った。

 立ち止まる彼らに気を遣ったのか、冒険者たちが前線を押し上げ、少しだけ会話をする時間と空間が生まれる。



「どうして何も答えないの? ……まぁいいか。こうすればわかる」



 エレイナはそう呟くと弓に矢をつがえ、その矢尻を倒れ込むオークへと向けた。

 そして何のためらいもなく放つ。



「やっぱり……!」



 エレイナの瞳が忌々しげに細められる。

 疾風が駆け、エレイナの放った矢は掴み取られていた。

 ゼレウスは手に握ったそれを真剣な表情で見つめる。

 狙いは寸分の狂いもなく、正確に定められていた。

 オークの頭部へと。



「ゼレウス、これは戦争なんだよ? 人族にとって魔族は敵。それはあなたの生きていた八百年前から変わらないでしょ? オークがどんな生き物なのか、知らないわけじゃないよね」


「う……ぐぉ……?」



 オークがうめき声を上げながら目を覚ます。

 復帰が早い。立派な戦士である証拠だと、ゼレウスはひそかに感嘆の声を漏らした。

 だがゼレウスと違い、エレイナはその様子を冷たい目で見やりながら言葉を続ける。



「人族の女を連れ去って、犯して子どもを産ませる。正真正銘のクズどもだよ。いや……人族の、絶対に相容れない敵だ」



 もちろん知っている。

 オークの特性の一つ。

 しかしその特性は魔王であったゼレウスから見れば、オークという種族全体の『弱点』だった。

 戦争をしている相手をさらわなければ繁殖すらできないなど、弱点と言わずしてなんと言うか。

 しかし人族からすれば、男を攫うハーピーと並ぶ最悪の敵であることに変わりはないだろう。



「そうだな。だがそれがオークの宿命なのだ。人族を連れ去らねば……オークは滅びてしまう」


「……驚いた。ゼレウス……あなたはどっちの味方なの?」



 驚愕にひと時目を見開いたあと、エレイナが瞳に鋭さを宿す。

 言いながら、彼女は左腰に佩いた剣へ手を伸ばしていた。

 ゼレウスが敵だと知った時、すぐにそれを抜けるように。



「ま、待て……我らが王は……ギグル・ア・グル様は、クズなどではない……!」



 ゼレウスの背後から、そんな声が上がった。

 身を起こし、しかし痛みに膝をつきながら、オークの彼は再び声を上げる。



「我らが王ギグル・ア・グル様は改革を進めておられる……! 人族の女を丁重に扱うようすべてのオークに通達し、その肉体に過度な負担をかけないよう──」


「どうでもいい。結局、無理やりだってことに変わりはないでしょ」


「っ…………」



 オークは閉口する。

 エレイナの言うとおりだからだ。オークが人族相手に同意を得られるはずもない。

 しかしゼレウスは意外に感じていた。

 八百年前のオークは野蛮という言葉では足りないほどに粗暴で、今のように人間の女を前にしてまともに会話をしていることさえありえなかった。

 オークが変わったかどうかはまだわからないが、少なくとも八百年前からは大分進歩しているように思える。


 しかし対照的に、オークを見下ろすエレイナの瞳は強い感情ににごってしまっていた。

 彼女の澄んだ桃色を覆いつくす、憎しみの色へと。

 ここは最前線の街。

 わざわざここへ集まる冒険者たちは、皆魔族を殺しに来ているのだ。



「人族にとって……そういう行為には大切な意味がある。ただ子どもを作るだけのものじゃない。オークにはわからないでしょうけど」


「確かに、かつての我々はそれを理解していなかった……だがもう皆が理解している! 我らが‶騎士王〟はそうやって──」


「──なにやっとんじゃぁああッ!!」



 突如響いた女性の声。

 オークとエレイナの間に立ちつつ、その両方を視界に収めていたゼレウスの背後からそれは聞こえた。

 同時に、鋭く近づく足音。



「上段! 伏せて!」



 背後を視認できるフュージアから飛ばされた指示に従い、ゼレウスは膝を折った。

 だが──



(なにッ!? 低い!)



 ゼレウスはしゃがみ込みながら振り返ろうとしたが、眼前に現れた小さな足先を見て、咄嗟に防御態勢を取った。

 右手を持ち上げ、想定より低い軌道を描くその蹴りをガードする。


 重い衝撃。

 その華奢な脚からは想像もできぬほどの膂力で蹴り飛ばされたゼレウスは、地面を滑って威力を殺した。

 靴底が描いた軌跡が、わだちのように草原を抉る。



「ごめんゼレウス、ちょっと見誤った!」


「いや、助かった」



 フュージアの謝罪に礼を返しながら、ゼレウスは蹴りを放った何者かを見据える。


 視線を上げたゼレウスの瞳に映り込んだのは、美しい銀糸の束だった。

 彗星のような軌跡を描いたそれは、持ち主が止まるのに合わせてふわりと広がりながら煌めき、やがて重力に従って垂れ下がる。


 十四・五歳ほどだろうか、それは幼い少女に見えた。

 裾の短い黒のワンピースに、同じく黒の外套。裾の長いその外套は少し紫がかっており、裏地の部分は華やかさとどこかはかなさを感じさせるふじ色だ。


 しかし最も目を引くのは、彼女の細く白い腕が抑える、大きなつばの先の折れた三角帽子だった。

 いわゆる魔女帽子。

 外套と同じ配色のその帽子の下から紅い瞳が覗く。

 片膝をついたオークが、驚愕混じりに彼女の名を呼んだ。



「り、リーシャ殿……!」


「安心しろ! もう卑劣な尋問などさせはしない! 私が来たからにはな!!」


「いや、別にそういうわけでもな──」


「貴様! こんな戦場のど真ん中で尋問とはいい度胸だ! そして卑劣! 負傷した他のオークから聞いたぞ! 身体に剣の刺さった、ふざけた奴が暴れていると! いや、待て……貴様……」



 リーシャと呼ばれた彼女は、複数のオークを引き連れていた。

 周囲を見れば、冒険者たちの上げた前線が、ゼレウスたちのいる範囲だけ局所的に突破されているのがわかる。

 ゼレウスを蹴り飛ばした膂力を以って戦線を突破してきたのだろう。

 おそらく、あの銀髪の少女が。


 彼女は訝しげな表情を浮かべると、ゼレウスに向かって歩を進め始めた。

 ゆっくりと、先程まで持っていた警戒心を投げ捨てたかのように。



「……エレイナ。詳しい事情を話せば、我らはたもとを分かつこととなる。それが嫌だから聞かないでおいてくれ、と言って……納得できるか?」



 ゼレウスはエレイナのほど近くまで蹴り飛ばされていた。

 歩み寄ってくるリーシャとその背後のオークたちから、彼女を背中に庇うような位置関係。

 ゼレウスは近寄ってくる少女を警戒しながら、振り返ることなくそう問いかけた。



「……無理。都合良すぎ。しかもそれ、『自分は敵だ』って言ってるようなもんだよ? それに、そもそもあなたがあたしに固執する理由もないでしょ」


「ないな。だが一宿一飯の恩がある」


「そんなことで…………確か、あなたは保身のために事情を話せないと言ってたわよね。オークを殺さないのもそのため?」


「……いや、違う。これは──」


「──やっぱり!!」


「……なにっ?」



 予想外に近くから上がったその声に、ゼレウスは思わず疑問を露わにした。

 エレイナに意識を向けていたために気づけなかったが、いつの間にか銀髪の少女がすぐそばにまで来ていた。

 彼女はゼレウスを見上げる瞳に納得を宿しながら言う。



「貴様、魔族だな!!」



 ゼレウスが隠していた秘密を、最も知られたくない者の前で。

 驚愕に口を結ぶゼレウスたちの様子には気づかず、彼女は笑みを浮かべながら言葉を続けた。



「私のが動かんからな! 間違いなく貴様は人族ではない! ……しかしなぜ人間の姿をしている? 同胞ではないようだし……その剣が関係しているのか?」



 ぎしり、と音がする。

 ハッとしたようにゼレウスは振り返った。

 跳ねるように後退しながら弓を構える、エレイナの姿。

 その矢尻はゼレウスへと向けられていた。



「待て、エレ──」



 ゼレウスはエレイナを制止しようとした。

 脅威だからではない。たとえこの近距離で矢を放たれても、ゼレウスはそれを掴み取ることができる。

 重要なのはエレイナと敵対するつもりはないということだ。

 それを伝えようとしたのだが、しかしその言葉は背後から上げられる叫び声に覆い隠された。



「あぁあ゛ッッッづぅうぅぅううぅぅう゛ッッッッッ!!!!!!??」


「!!? なんだ!?」


「ぜ、ゼレウス!」



 フュージアの焦燥に満ちた声を受けながら、再び振り返る。

 そこには草原で仰向けになってゴロゴロと転がる、銀髪の少女の姿があった。



「り、リーシャ殿ぉお!!」


「姫様をお助けしろォ! 一刻も早く‶夜陰の三角帽子〟を被せるのだ! 全隊、突撃ィーーー!!」



 オークの号令が響き、次いで地響きのように重い足音と怒号が轟く。

 ゼレウスは状況が掴めずにいた。

 少女は「ぐわぁああああぁあ!!!!」と叫びながら、顔を抑えてゴロゴロと転がっている。

 唯一背後の様子を視認できていたフュージアが口早に伝えた。



「ボクの切っ先が彼女の帽子に当たったんだ! キミが振り返るから! だから気をつけろって言ったのに! あぁあ! めっちゃパンツ見えてる! 見ちゃダメだよ、ゼレウス!!」


「言ってる場合か……!」



 なぜか「黒!!」と彼女の下着の色をわざわざ口に出すフュージアを無視しつつ、ゼレウスは転がる少女の隣に立つ。


 帽子だ。

 オークもフュージアも、帽子について言及していた。

 彼女の被っていた黒い魔女帽子は、本人の言うとおり、フュージアの剣身に当たって落ちてしまったようだ。幸い、ゼレウスとの身長差ゆえに少女が傷つくことはなかったが、主を失った帽子はポツンと草原に立っている。


 よく見ると、少女の身体からは白い煙が上がっていた。

 シューシューと音を立てて昇るその煙からは、何かが焼けるような匂いと──



(──灰の香り。こいつ、ヴァンパイアか!)



 得心がいった。

 であればあの膂力にも納得できる。

 そしてこの帽子は、ヴァンパイアの弱点である『日光』を防いでくれる物なのだろう。


 ゼレウスは急いで帽子を手に取ると、転がる彼女の顔面にそれを落とした。

 その瞬間、少女はピタッと転がるのをやめ、仰向けのまま両手両足を広げる。

 まるで顔面から帽子が生えているかのようで間抜けな光景である。


 少女はその体勢のまま片手をスッと上げ、オークたちの突撃を止めた。

 そして掲げた手がそのまま、パチンと指を鳴らす。

 瞬間、ゼレウスとエレイナは警戒を露わにした。

 突如広がる、黒い影のようなものに。

 それはゼレウスたちを囲うように円状に展開されると、そのまま包み込むように半球状の壁を創り出す。



「これって……」


「闇魔法だ」



 フュージアの呟きに、警戒を解いたゼレウスが答える。

 黒い影に包まれているが、不思議と視界は暗くない。

 影のおりに囚われたのはゼレウスとフュージア、エレイナ、そして銀髪の少女のみ。



「──内緒話をしようか」



 上体を起こした少女が帽子を頭頂部へずり上げ、紅い瞳を覗かせる。

 腰を落としたまま片膝を立てた彼女は、その上に肘を置きながら、整った顔に怜悧れいりな笑みを浮かべた。



「え、なんでこの流れでカッコつけられるの、この……」



 フュージアの言葉にゼレウスも「うぅむ……」と頷く。

 銀髪の彼女からは、まだプスプスと煙が上がっていた。

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