4.新世界と魔王と馬小屋


 美しい。

 それ以外の言葉は、いや、その言葉ですらこの感動を表すには陳腐に思えた。

 空。

 雲。

 太陽。

 豊かな草原と、遠くに立ち並ぶ木々たち。


 それだけだ。

 悠遠ゆうえんの過去から変わらずに存在する、見知った景色。

 それだけなのに。



「……無限に広がる空も、輝き続ける太陽も……地下の世界にまでは踏み込んでくれぬ」


「うん……やっぱり綺麗だねぇ。だから忘れなかったのかもね、地上の景色を」


「ああ……これは朗報だ。世界はまだ、美しい」



 両手を広げ、そのまぶしさすら楽しみながら、ゼレウスは陽光を仰いだ。

 世界を支配する‶魔王〟になっても、それに価値がなければ意味がない。

 だからゼレウスにとって、この美しい世界に変わりがないことは朗報だった。



「ねぇ、やけに感極まってるけど、なんで? あなたたちは何者なの?」



 エレイナがいぶかしげに問いかける。

 あまりの感動からなんとも仰々しいセリフを吐いたゼレウスとフュージアだったが、当たり前に地上を生きているエレイナには彼らの反応は少々過剰に思えた。



「……二振りの剣によって、身体と魔力の両方が縛られていた。このダンジョンの奥でな。老化もしなかったが、動くこともできなかった。しかしついさっき、身体を縛っていたほうの剣が朽ちたのだ。だから外へ出てきた。それだけだ」


「剣……。その剣が朽ちるほど長い間、ずっと地下にいたの?」


「そうだ」


「ふぅん……事情を聞いても?」


「詳しくは話せん。我が保身のためにな」


「ふ……正直だね。じゃあ聞かないでおいてあげるよ。命の恩人だし」



 そう言って歩み出すエレイナの背中に「助かる」と礼を投げ掛けると、彼女はひらひらと手を振ってそれに応えた。

 近くの街へ案内をしてくれると言う彼女の背中を、ゼレウスはゆったりと追う。

 草原を力強く撫でる瑞風みずかぜが、新世界へ踏み出すゼレウスたちを優しく歓迎した。





  ◇





 ゼレウスにとって、幸運は三つあった。

 一つはエレイナに出会えたこと。

 もう一つは彼女が柔軟な思考と、ある程度の強さを持っていたこと。

 そして最後の一つは、自らの身が姿になっていたことだ。


 あのフクロウの魔物との戦いの最中さなか

 て付いた地面を砕いた際、ゼレウスは舞い上がる氷に映り込む自分の姿を見た。

 そして、本来頭部と背中に存在していたはずのとある部位が消え去り、自分が人間と変わりのない見た目になっていることに気がついた。


 見た限りエレイナの種族は『人間』だ。

 彼女を背に庇った際は互いの種族の違いから後々面倒なことになるだろうと思っていたが、自分の姿が人間と見分けがつかないのならその懸念はない。

 ……背中から剣を生やした不審者であることに変わりはないが。



「ですからこれはただの飾りですってば。目立ちたがりなんですよ彼。ほら、触っても怪我しないでしょ?」


「うーん、しかしですねイーサニリスさん…………あ、ホントだ」



 エレイナが一人の男と会話する様子を、ゼレウスは腕を組み、背中を差し出しながら聞いていた。

 男はエレイナに促されてフュージアの剣身を指でなぞったが、その指が傷つくことはなかった。

 聖剣フュージアは、持ち主がそう望めば『斬らない』ことができる剣だ。

 剣身の両辺に刃のついた諸刃の剣だが、その特性を活かせば峰打ちも可能である。


 現在、無事ダンジョンから脱出したゼレウスたちは近くの街へと移動し、当然の如く門衛に引き留められていた。

 フュージアの剣身をなぞり不思議そうな顔をする彼は、その門衛のうちの一人だ。


 ‶前線都市〟ロントリーネ。

 続く人族と魔族の戦争。

 ここはその最前線の街である。

 無事門衛たちから解放されたゼレウスは、街道の脇に用意されている簡易的なベンチに腰掛け、エレイナたちが話す様子を眺めていた。



「あれから八百年経ったとはな。そしてまだ戦争が終わっていないとは」


「あのあとみんなどうなったんだろうね? はーあ、これじゃあ観光とか言ってらんないかなぁ」



 がっかりした様子のフュージアと小声で言葉を交わす。

 この街への道中でいくつかの情報をエレイナから聞き出せていた。


 人族と魔族の‶千年戦争〟。

 人族の前線都市ロントリーネと、魔族の前線基地デニアス砦。

 そして──



「八人の魔王、か……」


「……‶彼〟は失脚したのかな? キミを魔王軍から追放した‶彼〟は……」


「……さぁな」



 人族が人間、エルフ、ドワーフ、獣人の四種族で構成されているのに対し、魔族は十の種族で構成されている。

 デーモン、ヴァンパイア、リザードマン、オーク、ハーピー、サキュバス、フェアリー、マーメイド、ゴブリン、オーガ。

 これらはゼレウスが魔王をしていた頃と変わりはない。

 しかし現在はゴブリンとオーガを除くそれぞれの種族に一人ずつ、合計八人の‶魔王〟が存在しているとのことだった。



「──では、彼が何か問題を起こしたら、イーサニリスさんにお問い合わせしますね?」


「……仕方ないか。はぁ……わかりました」


「では通行を許可します」



 どうやらゼレウスの身元はエレイナが保証する、ということで話は決まったようだ。

 エレイナから飛ばされた視線に従い、ベンチから腰を上げる。

 ゼレウスは門を通る彼女へと歩み寄り、声を掛けた。



「迷惑をかけるな」


「……ま、命の恩人だしね。悪いと思うならどこかのギルドに籍を作りなよ。あなたなら冒険者ギルドとかがいいんじゃない。強いみたいだし」


「なるほど。……それは金がかかるのか?」


「もちろん。……持ってないの?」


「残念ながら、かわいそうなことにね~。情けないねぇ、ゼレウスは」


「ふむ、返す言葉がないな」



 街道をエレイナと並んで歩きながら、ゼレウスは納得したように頷く。



「う~ん……じゃあ、とりあえずウチに来る?」



 その細い顎に手を当てしばし悩む様子を見せたあと、エレイナがそんな提案をした。

 瞬間、フュージアが驚愕の声を上げる。



「えっ、だ、ダメだよ、エレイナちゃんっ! ゼレウスは男で、キミはかわいい女の子! もっと警戒しなきゃ!」



 フュージアの言葉を受けて、ふとゼレウスは確かめるようにエレイナの姿を見る。


 彼女の身長は、一八〇センチを超えるゼレウスと頭一つ分程度しか変わらない。一六〇半ばほどだろう。人間の女性にしては高めで四肢もすらりと長く、スタイルがいい。

 快活な雰囲気の、整った顔立ち。

 年齢は十代後半から二十代前半ほどだろう。まだ顔に幼さが残っている。


 頭髪は炎を思わせる深紅だ。

 彼女は肩にかかる程度の長さのそれを後ろで一つにまとめている。

 いわゆるポニーテールである。

 歩く度に揺れるそれと長いもみあげ部分の髪が、彼女の女性らしさを強く感じさせた。


 ──ふむ、確かに器量しである。フュージアの言うとおり、彼女の美しさの中には『かわいさ』も多分に含まれている。

 まぁ別に、見目が良くなくとも異性は警戒すべきではあるだろうが。



「いや待て、よく考えろフュージア。エレイナも一人で住んでいるわけではないのだろう」


「あ、そっか」


「いや、あたしは一人暮らしだけど」


「……なんだと?」


「じゃあダメ! ひとつ屋根の下で男女が二人きりなんて! あ、ボクもいるけどさ!」


「そうだな。未婚の男女が同じ家で二人きりになるわけにはいかんだろう」


「ふぅん? 案外古風な考え方なんだ」


「!?」



 ゼレウスとフュージアの呼吸が重なる。

 両者の思考には同じ疑問が浮かび上がっていた。


 『え、ってそんな感じなの?』と。


 八百年のブランク。

 考えてみれば、永い時を経る間に当たり前だと思っていた常識も大きく変わっているのではないだろうか。

 というか種族間でも常識は異なるのだ。

 あまり考えなしに言葉を選んでいたら、どこかでボロを出してしまいかねない。


 ゼレウスの魔法はフュージアによって封じられてしまっている。

 本来ゼレウスの種族は魔法を得意とする種族なのだ。

 それが使えないのは痛い。

 そして八百年が経過したこの世界、どこに強者が潜んでいるかわからない。

 ここは人間の街だ。魔族であることがバレてしまえば、元魔王であるゼレウスでさえ窮地におちいり兼ねない。

 さらに現在のゼレウスは人間と変わりない容姿のため、魔族のもとへ向かうのも危険である。


 フュージアいわく、ゼレウスの種族的特徴が消失してしまっているのは、元は魔法が得意な種族だからだろう、とのことだった。

 魔封じの聖剣が、魔力に満ちた象徴的な部位を消してしまっている……ということらしい。



「ま、あたしも同じ屋根の下で寝ていいとは言ってないけどね」


「……む、どういう意味だ?」


「とりあえず向かおっか。着けばわかるよ」



 栄えた様子の街道を、周囲の訝しげな視線を受けながら進む。

 背中から剣が生えているため仕方がないことだ。

 エレイナについていくと、やがて通りから少し外れた住宅街へと足を踏み入れた。

 辿り着いたのは小さな一軒家。

 二階建てのそれには、玄関脇に備えられた花壇と、最低限の広さを確保された馬小屋があった。

 大きくはないものの、彼女一人で住んでいるとすればかなり立派な家だ。



「あなたが寝るのはあっちね」



 そう言って、エレイナはを指さす。

 その澄んだ桃色の瞳をあやしく細め、快活な顔立ちに冷たい笑みを浮かべながら。



「!?」



 フュージアから息を吞むような気配がする。



「ちょ、ちょっとエレイナちゃん、ゼレウスと話していい? 内緒話になっちゃうけど」


「ええ、どうぞ」



 フュージアに促され、ゼレウスはエレイナから少し離れた場所まで移動する。



「なんだ、フュージア」


「見ましたかゼレウスさん! エレイナちゃんのわっるい笑顔! 明るくて素直そうな子に見えたのに、ホントは性悪なのかな!?」



 囁き声で可能な限り叫ぶという器用なことをしながら、フュージアが捲(まく)し立てる。

 馬小屋を指しながら浮かべられた、エレイナの笑み。

 その妖しくも美しい笑みは、『いたずらっぽい』と呼ぶには少々鋭すぎた。

 とはいえ。



「別に性悪ではないだろう。見るからに怪しい我を泊めてくれるのだからな」


「あ、それ自覚あるんだ。……でも何か企んでるのかもしれないよ?」


「うむ。しかし命を救った分、味方にできる可能性も高い。それに恩を売れと言ったのはお前だろう」


「まぁそうだけど。でも馬小屋だよ~? いいの、魔王サマ?」


魔王だ。馬小屋といっても、見たところ馬もいない。であれば充分に広いし、ニオイもない。それに、背中から剣を生やした者が普通の寝床では寝られんだろう。わらの山の上で寝るのが最適解だ。我は馬小屋で眠るぞ」


「あぁ、かわいそうなゼレウス。普通にベッドで寝ることもできないなんて」


「そのとおり。ついでに『魔法を使えない』も理由に付け加えておいてくれ。両方とも、同じどこかの誰かのせいだ」


「どこかの誰か、なんて水臭いなぁ。ボクはいつでもキミの胸の奥にいるよ」


「ああ、物理的にな」



 今も胸に刺さったままの、聖剣フュージア。

 おかげでゼレウスが腕を組む際は、少し上か下にずらさなければならない。

 余談だが、そのせいもあって本来あるはずの威厳が出せないのが、今の彼の悩みの一つである。



「でも、なるほど。それじゃあエレイナちゃん性悪説は無しかな? あ、ゼレウスはそういう女の子のほうが好みだった?」


「別にそんなことはないが……それにたとえそうであっても、性悪なだけの者などおるまい」


「おぉ、いいこと言うね~。でも、ゼレウスは知らないだろうけど、ゼレウスが氷を砕いて喜んでる時、エレイナちゃんはキミを変なものを見るような目で見てたよ」


「なん……だと……?」



 ゼレウスの中に重大な懸念を残しながらも話し合いは完了した。

 エレイナのもとへと戻る。



「見たところ馬はいないようだが、藁はあるのか? 寝床に藁の山の用意を頼みたい」


「うん? 泊まることにしたんだ? 藁はないけど、まぁ用意してあげる。そうだ、夕飯はどうする?」


「食べたいぞ」


「あははっ、そう。じゃあ作ってあげるよ」


「いいのか? 助かる」


「恩を感じたなら、冒険者にでもなって稼いで、何倍にもして返すこと。あなたの実力ならすぐにできるよ。わかった?」


「尽力しよう」



 陽はすでに傾き始めている。

 エレイナに促されるまま、ゼレウスは彼女の家へと足を踏み入れた。

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