5.魔王の涙


「いいなぁ~。ゼレウスいいなぁ~」



 胸が騒がしい。

 といっても動悸どうきがするとか、そういう意味ではない。



「自分だけずるいなぁ~。どうなの、エレイナちゃんの手料理のお味は~? かわいい女の子の手料理のお味はァ!?」



 平たく言うと、胸元に刺さった聖剣がうるさい。



「おぉ……美味うまい……おぉお……」



 だが今のゼレウスにとってそれは、まるで朝露を揺らす小鳥のさえずりのような、心地良いものでしかなかった。

 そう、エレイナの手料理が、八百年ぶりの食事があまりにも……美味うますぎたために。



「な、泣いてる! ゼレウスが泣いてる!」



 思わず涙がほろりと零れるほどに美味いのだ。情けなくも仕方がないことである。

 その感動にゼレウスの語彙は奪われ、彼は「美味い、ぞ……うまい……」と呟き続ける壊れた機械と化していた。



「そんなに? ただのポークソテーだよ? ……まぁ喜んでくれる分にはいいんだけどさ」


「ウマイ……オォ……スープ、ウマイ……」



 スープを静かにすするゼレウスの呟きに、エレイナは「それもただのコンソメスープ」と呆れ半分に笑う。



「うぅっ……よかったねっ、ゼレウス……っ!」



 涙を流さないはずのフュージアからは、なぜか涙ぐんだような声が上げられていた。少し芝居がかった感じで。


 エレイナに用意してもらった夕飯。

 彼女の家のリビングにて、ゼレウスはそれを頂いていた。

 背もたれのあるイスに腰掛けているが、そのまま座ってしまえばフュージアが背もたれに当たってしまうため、少々行儀は悪いがイスの角度を変えて腰掛けている。


 メニューはポークソテーと少量の温野菜、鶏肉と野菜の入ったコンソメスープ、そして柔らかなパンである。

 どれもシンプルなものだ。

 だが美味い。

 腐っても元魔王。舌は肥えている。

 しかしエレイナの手料理は、ゼレウスを唸らせるに充分な出来だった。



「このパン……とんでもなく柔らかいな。我の時代にはなかったぞ」


「そうなの? ……どのくらい長い間あそこにいたわけ?」


「…………八百年だ」


「はっぴゃッ!!?!?」



 あまりの驚愕にエレイナが大きく目を見開き、両手でテーブルを叩きながら立ち上がる。

 声も、今まで彼女が発したどの声よりも大きかった。

 イスに座り直したエレイナが、長いため息を吐き出しながら背もたれに強く寄りかかると、木製のそれがぎしりと音を立てる。



「はぁ~~~……そう。道理で千年戦争も知らないわけだ……そりゃ、あたし程度の料理でも泣くほど感動できるはずだよ……」



 エレイナから同情の視線を送られた。

 さっきまで騒がしかったフュージアが沈黙している。

 おそらく『話して大丈夫なのか』と問いたいのだろう。

 もし歴史書にゼレウスの名が残っており、それが人間の文化圏にまで伝わってしまっている場合、この情報を足掛かりにエレイナがゼレウスの正体に気がつく懸念がある。

 いざとなればこの街から去ってしまえばいいが、面倒が起こることに変わりはない。


 それでも話したのは、知ってもらっていればこれから先の説明の手間が減るからだ。

 何かある度に彼女に『なんでそんなことも知らないの?』と問われるのは面倒である。

 それにあまりにも素性を話さずにいると、彼女に不信感を持たれる可能性が高い。

 魔族であることを隠すのなら、そもそも不信感を持たれないように振る舞うべきだろう。少なくともゼレウスはそう判断した。



「八百年間、ずっと起きていたわけではない。我はほとんど眠っていたからな。孤独の中を永く過ごしたのは、フュージアだけだ」


「……まぁ、ボクも仕方ないから寝てたけどね」


「そっか……あたしのパンも食べていいよ……はい」



 同情したエレイナからパンを分けてもらった。

 ウマイ。





  ◇





 藁の匂い。

 どこか香ばしさのあるその匂いは特別いい香りというわけでもないが、この久しさがあれば歓迎したくもなる。

 ゼレウスはエレイナから借りたランタンの火を消し壁に掛けると、これまたエレイナに用意してもらった藁の山の上に寝転がった。


 頭の後ろへ手を回して枕にしながら、仰向けになる。

 背中から生えたフュージアの剣身は藁の山にうずまり、就寝を阻害することはない。

 小さな馬小屋だが中は案外広く、寝返りを打っても仕切りや天井に剣身が当たる懸念はなさそうだった。



「どう、寝心地は?」


「ふ……最高である。今はこの暗闇ですら愛おしい……」



 ゼレウスが穏やかな笑みを浮かべる。

 魔力に満ちたダンジョン内部、常に魔力灯に照らされた地下の世界に暗闇は存在しなかった。

 月明かりが静かに降り注ぐ、冷たくも穏やかな夜の闇。

 ゼレウスにとっては、この宵闇ですら八百年ぶりなのだ。



「お風呂にも入れたらよかったんだけどねぇ~」


「服が脱げんからな……これは重大な問題だ」



 暗い藍色のローブに、裾の長い黒の上衣。ローブに隠れているが、下は幅広の長ズボン。

 それがゼレウスの服装だ。

 ズボンと前面の開いた上着のほうはそのまま脱げるが、前後にフュージアが貫通しているローブを脱ぐには、二度とそれを着ないという覚悟を持たなければならない。

 つまり、破くしかない。

 まさしく脱ぎ『捨て』なければならない状況。


 そして二度と手に入ることのない、魔王としての衣服。

 大事な一張羅だ。

 代わりの服があるわけでもない。

 今のゼレウスにローブを脱ぐ選択肢はなかった。

 さらにエレイナに浄化の魔法で身体と衣服の汚れを取り除いてもらい、衛生面でも問題がないこともその判断を後押しした。


 ちなみに魔族、人族問わず、八百年前から湯船に浸かる文化は存在した。

 魔力が許す限り、火も水も魔法で無限に用意できるからだ。

 かつて魔王だった頃のゼレウスも、風呂にはよく入っていた。

 どうにかしてフュージアが刺さった状態でも着脱可能な衣服が手に入れば、また入ることができるだろう。



「街並みもキレ~になってたね。でも、八百年経ったわりにはあんまり変化してないかなぁ」


「確かにな。時代を経るごとに建築物の背は高くなると思っていたのだが……この街はむしろ低くなっている。人族と魔族の違いもあるだろうが……」



 フュージアの言うとおり道には敷石が敷かれ、大通りから外れたエレイナの家の建つ通りも同様に整備されていた。

 しかし八百年前に比べ、背の低い建物が増えたようにも思えた。建築技術が進歩しているのなら、高く巨大な建造物が増えているはずなのだが。



「言われてみれば……人族の街ならボクもいっぱい見てきたけど、確かに低くなってるかも。なんでだろうね? そういえば、この街って前からあったの?」


「いや、なかったはずだ。この辺りの草原は当時から最前線の戦場ではあったが、どちらかといえば魔族寄りの領地だった。人族がここまで踏み込み、あまつさえ街を建てているとは」


「う~ん。でも、逆に言うとそれくらいしか進んでないんだよね。八百年も経ってるのに」


「うむ……人族に関してはわからんが、今の魔族には八人の王がいる、とエレイナは言っていた。それはつまり、魔族の勢力が八つに分かれてしまっているということだろう」


「そっか、内輪揉めしちゃってるのかも」


「ああ。……やはり魔王は一人で充分だ」


「でも……キミが玉座に着くためには、まずはボクをどうにかしないとね?」


「……現代の勇者か……」



 ため息交じりに呟く。

 魔法が封じられている現状、再び魔王に返り咲くなど夢のまた夢だ。

 ただ振るうだけならともかく、聖剣を抜くことができるのは勇者だけ。人族であれば誰でもいいというわけではない。



「ただ……ボクが地上にいなかった間、新たな勇者が生まれているかどうかは……」


「存在を感じ取ることはできないのか?」


「うぅん……近くにいれば……って感じかな」


「そうか」


「……ごめんね」



 浅い仲ではない。

 尋ねずともフュージアの言いたいことはわかった。それを否定しなければならないということも。



「……フュージア。地下の世界は退屈だったな?」


「え? う、うん、まぁ……」


「だが我に孤独はなかった。目覚めた時、いつもそばにお前がいたからだ」



 馬小屋の天井を見上げ、思い返すように後頭部を藁へと預ける。



「あの地底の世界で……退屈はあっても、孤独に苦しむことはなかった。それはお前のおかげだ、フュージア。だから謝る必要など、一つもありはしない」


「ぜ、ゼレウス……そんな風に思ってたんだ?」


「しかしお前の感じていた孤独には……最も永く共にいたこの我でも、真に共感することはできない。だからこそ……この新世界を共にゆこうではないか。もう孤独も退屈もなしだ」


「──っ!」



 ゼレウスが笑みを浮かべながらそう宣言すると、フュージアは息を呑み、声にならない声を上げた。

 彼は数回声を詰まらせるような様子を見せたあと、明るい声で冗談めかす。



「な、んだよ~! もう……なに? もしかしてボクを口説いてるのかな、ゼレウスくん? 生憎だけどボクは性別なし! 残念だったねっ!?」


「あぁ、残念だ」


「えぇっ!? ざ、残念なの!? ──っていや、じょ、冗談か。いつもの仕返しのつもり?」


「くっくっく……さぁな。さて……この復活の日に別れを告げるのは名残惜しいが、そろそろ眠るとしよう」



 そう言って目を閉じるが、フュージアの返事はない。いつもであれば『おやすみ!』と、明るい声を投げ掛けてくれるのだが。



「ね、ゼレウス。ちょっと報告しておきたいことがあるんだけど」



 落ち着いた声色。

 先程までのフュージアとははっきりと異なる、だがこれこそがのフュージアだ。

 人をからかうのが好きで常に飄々とした態度を崩さない、本来のフュージアの声だ。

 目を開き、ゼレウスは続きを促す。



「エレイナちゃんの持ってる剣はゼレウスも見たよね?」



 肯定を返す。

 魔物と戦った際は弓を武器にしていた彼女だったが、その左腰には一振りの剣がかれていた。

 見たところ片手で扱える程度の長さの、ほとんど装飾もないごく普通の剣に見えたが……何かあるのだろうか。



「あれ、‶魔剣〟だよ」


「──なんだと?」


「聖剣であるボクなら、あれに秘められた異質さに気づける。残念ながらその能力まではわからないけどね」


「エレイナは魔剣使いというわけか?」


「いや……おそらく違う。普通なら魔剣だけじゃなく使い手からも嫌な気配がするはずだけど……あの子からは全然。でも、永い時間を経てボクの感覚や魔剣の質が変わってる可能性もある」


「ふむ……」



 顎に手を当て、しばし考え込む。


 魔剣とは、ダンジョンの最奥に眠る秘宝だ。

 八百年前、その多くは魔族の手中にあった。

 フュージアが魔剣使いについての情報を知っているのは、当時勇者と共にそれらと戦った経験があるためだ。

 ゼレウスは魔王としてかつての魔王軍が所有していた魔剣のすべての外見と能力を知っているが、エレイナの持つ物は記憶に残るいずれとも異なる。


 聖剣が人族の勇者にしか使えないのと同じく、魔剣も自らの使い手を選ぶ。

 しかし聖剣と異なるのは、使い手が人族、魔族のどちらにも限定されていない点だ。

 つまり人間であるエレイナにも当然、魔剣を操れる可能性がある。


 思い返してみれば、あの剣の外見には少し古めかしさがあったような気がする。

 人族の領地にあるダンジョンで発見された物だろうか。

 それともこの八百年の間に新たに見つかったのか。はたまたその両方か。



「考えても仕方がない、か……」


「そうだね。とりあえず警戒のために、ゼレウスが寝る間はボクが起きておくよ。今度は呼んだらちゃんとすぐに起きること!」


「もう孤独を味わわせないと言ったばかりだろう。気にするな。お前も寝るがいい」


「なに言ってるの。キミに万が一があるほうがボクは嫌だよ。それに、さっきの言葉だけでその……頑張れる気がするからさ」


「……そうか。では頼んだぞ、我が……‶相棒〟よ」


「! ──うんっ! 安心して寝なよ! おやすみ、ゼレウスっ!」


「ああ、おやすみ、フュージア……」



 目を閉じる。

 朝を待つために、ただそのためだけに眠るのは久しぶりだった。

 弱いまどろみが、少しずつゼレウスを新たな朝へと導く。

 彼は迷うことなくそれに身を任せた。


 夜は更けていく。

 大きな期待の中に、一抹の不安を残しながら。

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