第13話 勇者は新たな名前を授かる

「俺の……日本での、名前!?」


 ネイサンは渡された封筒を開ける前に、育代いくよから告げられた言葉に驚愕した。

 なんと昨日この地に降り立ったネイサンに、もう新しい名前が与えられたのだ。


「育代さん、随分早いですね」


 民夫たみおがネイサンの代弁をした。

 その民夫ですら、育代の作業の速さに驚いていた。


「まぁ、わしに掛かればこんなもんよ」


 そう言って育代は左手でサムズアップをした。

(※このお話はフィクションです。市役所等で適切な処理をしてもらうのが本来の形です)


「流石、人脈が広いですね」

「伊達にこの生活をしとらんよ」


 民夫と育代の二人は同時にワッハッハと笑い始めた。

 そんな二人の間でネイサンはずっとウズウズしていた。

 早くこの封筒を開けて、自分の名前を確認したいのだ。


「おーい、そこの笑ってるお二人さん。一人早く開けたくてウズウズしてる人がいるぞ〜」


 キッチンから声が聞こえて来た。

 ネイサン達がキッチンに振り返るとそこにはこうが流し台にいた。


「なっーーーウズウズなんてしてないぞっ!」


 嘘である。

 早く開けたくてしょうがないネイサンである。


「あ、ごめんなさい。ネイサンさんは早く自分の名前を知りたいですよね!」

「くっ……」


 ネイサンは恥ずかしい故、奥歯を噛んだ。

 民夫の顔を見ると後光が差していて、キラキラと輝く黒い星が散りばめられていた。


「さぁ、ネイサン。開けてみなされ」


 育代がゆっくり優しい声で催促した。

 ネイサンは一度、育代の方を向いて頷く。

 そして、封筒に目を戻して封筒を開けた。


「んぐっ……」


 ネイサンは思わず生唾を飲み込んだ。

 何故かとてつもなく緊張している。

 額や背中には大量の汗が噴き出ていて、思わず腕で拭いたくなった。


「…はぁ…はぁ…はぁ…」


 呼吸も自然に浅くなる。

 それにより、少し視界もぼやけてくる。

 そんなネイサンを心配そうに見守る三人。

 民夫はキラキラと後光を輝かしていたが、心配そうに見守っていた。

 キッチンにいる酵は口を開けて阿呆面でネイサンの名前がどんなのかを待っていた。

 全てを知っている育代は顔色を変えず、ただ真剣にネイサンの顔を直視していた。


 封筒を開け、中の紙を一枚ペラっと取り出したネイサン。

 その紙に書いてある氏名に着目する。


「ーーー!?」


 ネイサンは再び驚愕した。

 それは単純な驚きだけでなく、嬉しい気持ちなども含まれていた。


「ネイサンさん、どんな名前でしたか?」


 民夫が少し気にかけながらネイサンに訊いた。

 するとネイサンは、


「…『姉川あねかわいさみ』…だそうだ」


 姉川 勇ーーーそれがネイサンの新しい日本での名前である。

 新しい名前を貰ったネイサンは不思議とこれからの生活が楽しみになった。


「なるほど、ネイサンだから姉川か」


 酵が独り言を言いながら一人で納得していた。


「酵、どういう事だ?」

「いや、お前の名前はネイサンだろ?日本では姉の事を言うだ」

「……えっ?」


 どうやら、ネイサンは自分の名前をちゃんと理解出来ていなかったようである。


「てことは、俺はずっと自分の事を姉だって言ってたのか?」

「そう言うことになるな」

「……」


 急にネイサンは恥ずかしくなってきた。

 頬を赤らめ、沸騰しそうであった。

 すると、すかさず民夫が言い添えた。


「でも、ネイサンさん。名前の方は『勇』と勇者らしい名前じゃないですか」


 と励ましたが、ネイサンにとってはもうどうでもよくなっていた。


(俺はずっと皆んなに姉だと言っていたのか…)


 ネイサンは頭の中で何度もその言葉が響き渡っていた。


「ところで育代さん、どうして川にしたんですが?」

「ん?適当じゃよ」

(適当に決められたー!)


 頭の中ではさっきから同じ言葉が響き渡っていたが、どんな時でもツッコミは忘れないネイサンであった。




「あ、そうじゃ。その封筒の中、まだ何か入っているじゃろ」

「あ、本当だ。……これは、カード?」


 ネイサンが封筒から青いカードを取り出した。

 それはとても重要なカードである。


「それは『健康保険証』じゃ。自分の身分がわかる物じゃから、しっかり持っておくように。絶対に無くすんじゃないぞ」

「あぁ、分かった」


 ネイサンは無くさないように、封筒に保険証を入れた。


「あぁ、あとこれも渡しておこう」


 また育代が何かを思い出し、懐から何かを取り出した。

 それは長方形の紙であり、誰かの肖像画が描かれていた。


「こ、これは何だ?」


 また見たことがない物に、ネイサンは困惑していた。


「一万円札じゃ!」


 皆んなの命の源、一万円札であった。

 育代は人差し指と中指で一万円札をヒラヒラさせていた。


「一万円札ってなんだ?」

「なん……だと……」


 酵は戦慄した。

 この世界に一万円札を知らない人間がいるとは。

 そう、硬貨も知らなかったネイサンにとって、お札も分かるはずが無かったのだ。


「ネイサンさん、これも昨日の硬貨同様、これで物を買う事が出来るんですよ」

「なるほど、そうなのか」


 民夫がネイサンに説明した。

 皆さんもこの光景に慣れて来たでしょう。


「だが、どうしてこれを俺に渡したんだ?」


 ネイサンが育代に当然の疑問を呈した。


「どうしてって……おぬしら、これから買い物に行くのじゃろ?」

「「……あっ」」


 ネイサンと民夫が同時に声を上げた。


「そういえばネイサンさん、一文無しでしたからね……」

「そ、そうだった。だが育代さん、本当に貰って良いのか?」

「あぁ、勿論。その代わりちゃんと物を買うのと、その内ちゃんと仕事もするんじゃぞ」

「分かった。その約束、必ず守るぞ」


 交渉妥結。

 ネイサンは育代が持っていた一万円札を取った。


「育代さん、ありがとう」

「あいよ」


 ネイサンは律儀にお礼を言った。


「よし、それじゃあ民夫、案内を頼む」

「分かりました、勇さん!」

「…………あ、俺の名前か!」


 一瞬、自分の新しい名前を忘れていたネイサンであった。




「育代さん、どうです、彼?」


 ネイサンと民夫の背中を見守っていた酵と育代。

 二人の背中が見えなくなった後、酵が育代に問いかけた。


「分からん。だが、あやつは純粋で素直な子だ。きっと大丈夫じゃろ」

「それなら良いんですが……」


 二人の会話は食堂内の賑わう声に霧散した。

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