第8話 勇者は日本食を食べる

 育代いくよがフライパンの蓋を取ると、醤油の甘くて香ばしい匂いが辺りを幸せに満たした。

 フライパンの上に乗っているブリの照り焼きは、醤油によって茶褐色に光輝いていた。

 しかし、ネイサンはブリを見ても聞いても分からず、育代に一体何なのか訊いてみた。


「育代さん、ブリってどういう食べ物なんだ?」

「ブリとは魚の事じゃ」

「さ、魚っ!?」


 ネイサンは二歩、後ろに後退った。


「どうしたんですか?」


 ネイサンのいきなりの豹変に、民夫(たみお)は少し心配になった。


「魚なんて食えた物じゃない!ドロッドロのブニブニで泥を食べてるのと代わらない……」


 ネイサンが勇者として生きていた時代。

 すなわち、ラノベの中での魚は水分を多く含んでおり、臭いや食感、味までもが最悪なのであった。


「ネイサンさん、大丈夫ですよ。ここのお魚は身がしっかり詰まっていて、とっても美味しいですよ!」


 民夫がネイサンを説得しようと試みたが、ネイサンの魚に対する嫌悪感はとても酷かった。


「嫌だ!俺は魚なんて食べたくない!」

「本当に美味しーーー」

「うるさいわね、あんたそれでも勇者だったの!?」


 民夫の発言を遮ったのは便よすがであった。


「魚一つで叫んで、情けない……。大体、食べても無いのにマズイと決めつけたりして、魚に対して何より育代さんに対して失礼じゃない?」

「うぐっ……」


 ネイサンは何も言い返せなかった。

 全て便の言う通りであった。

 ぐうの音も出ない…。

 しかし、それでもネイサンは食べたくない気持ちの方が強かった。

 その気持ちが顔に出ていたのであろう。

 便が一つ溜息を吐いた後、ネイサンの目を見ながら語り始めた。


「あたしもね、ここに来る前、要は元の世界に居た時は魚なんて一度も食べた事がなかったわ。あたしの所も臭いや味が本当に酷かったから」

「……」


 ネイサンは黙って便の話を聞いていた。


「でもね、育代さんの作る魚料理を食べて、世界が一変したわ!今まで食べてきた料理の中で一番美味しかったの。だから、あんたにもこの料理を食べてもらいたい」


 便はネイサンにこのブリの照り焼きを味わってもらいたい、その一心で願いを込めた視線を送った。

 その熱い視線にやられたネイサンは「……分かった」と一言洩らした。


「やった!」


 民夫が子供の様に喜んだ。

 巨内きょだいは特に変わらず、鍛冶炉かじろは右手でサムズアップをした。

 しかし、ここでネイサンは一つ思い出した。

 それはついさっきの事である。


「ちょっと待て。便、お前和食だって言われた時、ちょっと嫌な反応してただろ」

「……」


 ネイサンに痛い所を指摘された便は、慣れていないのであろう口笛を吹いて誤魔化した。


「おい」

「うぅ……和食は苦手な物多いけど、ちゃんと食べてるわよ!」


 やはり子供っぽい便であった。




「あ、育代さん、今日の和食のメニューは?」


 まるで思い出したかの様に民夫はメニューを訊いた。


「あぁ。今日はご飯にほうれん草のおひたし、なめこの味噌汁、ブリの照り焼きじゃ」

「それじゃあ、プラスで唐揚げを貰っても良いですか?」

「あいよ。それじゃ、600円じゃな」


 民夫は懐から600円を出し、手前のテーブルの上に置いた。

 分からない単語のオンパレードであったネイサンは、民夫が出した金貨に興味を示した。


「なんだそれは?」

「えっ、これですか?これはお金ですよ」

「オカネ?」

「そうです。これで物を買ったりするんですよ」

「はぁ、なるほどな」


 ネイサンは500円玉を持ち上げ、観察してみた。

 金属らしくキラキラと光っており、なかなかの重量がある。

「500」と書かれている下に、「平成七年」と書かれていたが、これまた何のことか分からなかった。


「あ〜、そういや、おぬしの話にお金という概念はなかったの」

「あぁ、そうだ」

「じゃあ、どうやって物を手に入れてたのよ?」

「物々交換だ」

「……」


 その場の空気が冷ややかなものとなった。

 キッチンの中にいる人達も動きを止めた。


「え、俺なんか変な事言ったか?」


 ネイサンは周りをキョロキョロして様子を伺った。

 そんな冷え冷えな中、口を開いたのは民夫だった。


「遅れているな、と」


 民夫の顔は笑顔であるが、どこかぎこちなかった。




 ネイサンは民夫と同じメニューを頼んだ。

 もちろんお代は民夫が払う形となったが……。

 トレーを持ってきて育代から配られる料理を待った。

 暫く待っているとご飯、おひたし、味噌汁、ブリの照り焼き、お新香、唐揚げが三個とそれぞれ違うお皿に乗って配られた。


 キッチンとは別の所にドリンクバーが設けられており、これは無料とのことである。

 何も分からないネイサンはこれも民夫と同じく烏龍茶を選んだ。


 料理、ドリンクどちらも用意出来た5人は固まって食べる事にした。

 徐々に集まって来る人々の視線に囲まれながら……。


「それでは、頂きましょう」


 民夫が一声掛けると、ネイサン以外は


「「「いただきます」」」


 手を合わせて、挨拶をした。

 勿論、話すことが出来ない巨内は手を合わせただけである。

 ネイサンは何の事か分からなかったが、小さく「いただきます」と、皆んなに倣って呟いた。

 すると、どこからか小さくクスクスと笑われた様に聞こえた。


 ネイサンは初めに何から食べようか迷っていた。

 どれもネイサンにとっては美味しそうに見えたからである。

 しかし、そんな迷いは直ぐに露と消えた。

 ネイサンの目にはブリの照り焼きが映っていた。

 ネイサンは箸が使えない為、スプーンでブリを掬い、口の前まで持ってきた。


「……んぐっ」


 生唾を飲むネイサン。

 どうしてかスプーンを持つ手が凄く震えていた。

 そんなネイサンを温かく見守る四人。

 絶対に美味しいから食べてほしいという一心である。

 ネイサンは覚悟を決め、ブリに齧り付いた。

 噛みちぎり、何度か咀嚼していく。

 そして飲み込んだ。


「…………お、美味しい!」


 食堂内にワッと大歓声が巻き起こった。


「よっしゃー!」「やったわ!」


 民夫達は立ち上がって万歳をしていた。

 そして、周りの人達は拍手をして祝福してくれていた。

 更にキッチンでは泣いている人までいた。


「カッカッカ!これだからここでの生活はやめられんのじゃ」


 育代は密かに喜びを噛み締めていた。

 ネイサンはただブリを食べただけで、どうしてこんなに盛り上がっているのか分からなかった。


(変な人ばっかだな)


 そんな事を考えながら、ネイサンはブリの照り焼きを黙々と食べ続けた。


(でも、ここは賑やかで好きな空間になれそうだ)


 ここにいる人達に温かく迎え入れてもらえてると思い、ネイサンの顔から自然と笑みが溢れていた。




 その後、ネイサンは全ての料理を平らげた。

 なめこの味噌汁が余程美味しかったらしく、いつの間にか3杯もお代わりしていた。

 これには他の皆んなも驚いていたが、便は特に驚いていた。

 実は彼女は野菜が嫌いなのである。

 しかし、彼女も大人。

 見た目は小さいが、立派な大人のレディなのである。

 これで食べられなかったら示しがつかない。

 というより、絶対からかわれる。

 苦い顔をしながらもゆっくりと何とかおひたしを食べ切った。


 全員が食べ終えると、ネイサン以外の4人がまた手を合わせて、挨拶をした。


「「「ごちそうさまでした」」」


 ネイサンも皆んなに倣って、


「ごちそうさまでした」

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