〈2〉
どれほど抱き合っていただろうか。
わたしが洟をすすると、イヌワシが小さく笑って背中を撫でた。浮き上がっていた爪先が床板を踏む。
「泣くなよ、お姫さん。俺は威勢よく
「な、なによそれ」
外套で顔を隠しながら凄むと、意に介するどころか仔猫の甘噛みをくすぐったがるような微笑に直面した。
「怒ってるあんたもかわいいって意味だよ」
焼きたてのパンに塗った蜂蜜が甘くとろけるような、腰が砕ける破壊力だ。衝撃のあまり涙が引っこんだ。
イヌワシの場合、わたし自身も口にした「好き」という言葉が妙にずしんと響く。深いというよりも重くて大きい。とにかく大きい。
ざらつく親指の腹が眦に触れて涙の痕を拭い取る。おとなしく甘んじていると、イヌワシは薄く目を細めた。
「正直に言ってくれ。俺の罪状を聞いて、どう感じた?」
「……お母さまのこと?」
かれはゆるりと首肯した。
「前に話したとき、『俺のことを信じたい』って言ってくれただろ。だけど実の母親を殺したと聞いて、同じように思ってくれるか?」
翳りを帯びたまなざしに、ただただ悲しくなった。
疑われたと失望したわけではない。重い罪を自分の一部として背負い続けることは、癒えない傷を抱えて生きることに等しいと悟ったからだ。
悲しく、痛ましく、苦しいほどにいとおしい。
わたしは頬を包む手にてのひらを重ねた。
「あなたが生きていてくれてよかった」
かすかな吐息。安堵にも諦観にも聞こえたそれは、熱を持って額に触れた。
羽根が掠めたような接吻に首を竦めると、イヌワシは喉の奥で笑った。
「ありがとう。そう言ってくれるなら、生き延びた甲斐がある」
かれは言葉少なく語った。日に日に正気を失っていく母親と父親の亡霊とともに暮らしていた地獄を。
鉄格子のむこうの灰色の空。父親の名前をささやくねっとりとした母親の声。
ふと目を覚ますと母親が掛布の中に潜りこんできて、体をまさぐられ、無理やり接吻をされて恐怖と嫌悪感を抱いた夜。
救いの手が差しのべられる寸前に起きた心中未遂。首元から血を流しながら、夫はだれにも渡さないと嗤う母親の姿。
ようやく射しこんだ光と、その下で過ごした儚い日々の思い出。
「姉上が俺の母上だったらよかったのにと思ったよ。姉上と兄上の息子に生まれたかった。そんな夢を、何度も何度も描いた」
心から願ってやまなかったのだとわかる口ぶりだった。返すにふさわしい言葉を見つけられず、イヌワシの腕の中でじっと耳を傾けた。
「母を手にかけたときのことは、よく憶えてない。姉上を殺そうとしてるんだと気づいた瞬間、信じられないほどの怒りが沸き起こって――体が動いてた」
イヌワシはクッと喉を鳴らした。
「母は呆然とした顔で振り向いて、俺の名前を呟いて事切れた。それを見て、俺は『ざまをみろ』と思った」
広い肩がわななき、わたしの体を掻き抱く。顔を伏せたイヌワシの髪が頬をくすぐった。
「所詮、俺も父親と同類なんだ。人の皮を被った血まみれの怪物だ」
「そんな――」
「いいんだ、本当のことだから」
イヌワシは首を横に振り、顔を上げて薄く笑んだ。
「追放処分が決まったとき、姉上たちにも見捨てられたと感じた。ほとんど自暴自棄になってたよ。そんなときに、ここで小さなリカと出会った」
「さぞ生意気で憎たらしい『妹』だったでしょう?」
「そうだな。生意気で、憎たらしくて、疎ましくて、嫌いだった。でも、あんたは……窓から飛び降りたおれを助けようとして追いかけてきた」
空色の瞳が涙でうっすら光っている。
「必死な形相で俺の腕の中に飛びこんできた女の子を抱き止めたとき、急に視界が開けたような気持ちになった。とにかくこの子を守らなくちゃと思った。死のうだなんて考えはどこかに吹き飛んでた」
雪灰色の髪に触れ、イヌワシは睫毛を伏せた。
「あんたが熱を出して死のふちをさまよってるあいだ、生まれてはじめて神に祈った。どうかリカを助けてください、そのためなら心を入れ替えてどんなことでもします、生涯をかけて与えられた使命を全うしますってな」
わたしは両手を伸ばして若者の頬を包みこんだ。
「運命のコインの昔話を聞かせてくれたとき、『人の行いによって運命は決まる』って話してくれたわよね」
「……ああ」
「わたしはきっかけに過ぎないわ。きっと運命を決めたのは、わたしを守ろう、死なずに生きようって思ったあなたの行動そのものよ。あなた自身が、あなたを暗闇からおひさまの下まで導いたのよ」
イヌワシは睫毛を揺らしながら持ち上げると、懐から細い銀の鎖を引っ張りだした。
シャラリと涼しげな音を立て、鎖の先についている懐中時計が転がり落ちた。時計を覆う銀製の蓋には繊細な装飾が彫りこまれ、鳥の意匠があしわれていた。
「これは――」
「旧レイシア王家の、金の鷲の紋章だよ」
大きな嘴と鋭い眼を持つ猛禽が横を向き、片翼を広げた図柄だ。鷲を囲うように蓋のふちには蔓草が伝い、小さな葉の陰に文字がひとつずつひっそりと刻まれている。
「こ、れ……『これを有するは、レイシアの地を守護する者なり』」
刻まれた一文を読み上げると、イヌワシは噛みしめるように頷いた。
「冬至の祝祭に届いた、兄上と姉上からの贈り物だよ。いっしょに渡された手紙に、贖罪をじゅうぶんに済ませて帰国の目処が立ったあかつきには属領地の統治を任せたいと書かれてあった」
王ではなく、されど王なき国の守護者として。レイシアのセレイウスの名にふさわしい人生を歩んでほしい、胸を張って時を重ねていってほしいと願って。
「自分の運命がわかった気がした。俺が継ぐはずだった王冠も玉座も燃えてなくなったけど、クソ親父が死んで放りだしたレイシアの民がいる。かれらの王にはなれなくても、レイシアのセレイウスにしか果たせない責務があるのなら――それこそが俺の使命なんだって」
イヌワシはほほ笑んだ。
「許されるなら、セレイウスの隣にはあんたにいてほしかった。本当の家族になって、どちらが死んでもいつか並んで眠れる日が来るんだと約束してくれるなら――もう何も怖くない」
引っこんだはずの涙がまたこみ上げてくる。わたしは何度も頷き、爪先立ってイヌワシの首に抱きついた。
「おかえりなさい」
「――……ただいま」
力強い両腕が背中に回り、深く抱えこまれた。わたしのすべてを確かめるような抱擁だった。
お互いの体温が溶け合ってのぼせそうになるころ、窓硝子を叩くごく軽い音が聞こえた。
「雪が」
抱擁をゆるめてイヌワシが呟く。かれの腕に囲われたまま視線を向けると、灰色の雪片がちらつきながら窓硝子を掠めていった。
「降ってきたな」
「どうしよう。積もる前に急いで王城へ戻ったほうが……」
「頃合いを見計らって迎えの馬車が来るから心配ないさ」
ふとイヌワシは眉をひそめ、両手をわたしの肩に置いて一歩離れた。
「俺のことより、ほかのきょうだいと時間を作ったほうがいいんじゃないか。事が済んだら、もう孤児院に戻れないんだぞ」
わたしは苦笑した。
「このあと弟や妹と話してくるわ。みんな驚くかもしれないけど」
「……間違いなくちびどもからは敵と見なされるな」
げんなりした様子で頭を掻くイヌワシに、わたしは兄とのやりとりについて話した。
「ヒューにいさんがね、家のことは気にせずあなたについていけって言ってくれたの。どこへ行ってもわたしたちは家族できょうだいだから、帰りたくなったらいつでもあなたといっしょに帰ってこいって」
「そうか。……ここも、俺の家だったんだな」
イヌワシは目を細め、「リカ」と声をひそめて呼んだ。
「駒鳥――いや、カロン兄貴から連絡があった。コヨーテの残党が全員捕縛されたそうだ」
「ウァイオレッテも?」
驚いて尋ねると、イヌワシは短く首肯した。
「明朝、両陛下直々に尋問が行われることになった。場合によっては、その場で沙汰が下されるかもしれない」
「そうなの……」
「俺にも同席するようにとのお達しだ。可能ならば、あんたも」
当然といえば当然だ。王妹ローゼリカは今回の事件の当事者であり、いずれ属領地の統治を担う次期レイシア公の妃になる立場なのだから。
「どうする?」
気遣わしげに問うてくる婚約者――という表現をすると気恥ずかしくてたまらない――へ、わたしは「もちろん」ときっぱり答えた。
「同席するわ。あなたといっしょに」
あの悪魔に言ってやりたいことや訊きたいことは山のようにあるけれど、それ以上に事件の顛末を見届けなければと思った。
イヌワシはわかっていたとばかりに笑い、ポンポンと肩を叩いた。
「まったく、俺のお姫さんは頼もしい限りだな」
「あら。かわいげのない女は嫌い?」
半眼で見上げると、イヌワシは真顔でのたまった。
「いや、あんたはじゅうぶんかわいいだろ? むしろかわいげに溢れててどうしてやろうかってぐらいなんだが」
「……そ、そう」
まずい、顔から火を噴きそうだ。ここは戦略的撤退の一択である。
「そろそろ昼食の準備ができるころだろうから、下へ行きましょうか。みんなを待たせたら悪い……し」
さりげなく扉へ向かおうとした刹那、後ろから抱き竦められた。声にならない悲鳴を上げて硬直する。
身長差を利用して覆い被さるように抱えこまれてしまえば動けない。片手は腹に巻きつき、もう片手は頬に添えられて振り向くようやさしく促してきた。
「逃げるな」
命令形とは裏腹に、切なくなるような声音で懇願する。心底ずるい男だ。
半べそでそろそろと視線を向けると、子どもっぽく拗ねた表情のイヌワシと目が合った。淡青の双眸が湛える熱情は、まったくもって無垢な子どものものではありえなかったけれど。
「だれか呼びにくるまで独占させろ」
「ど、独占って」
「七年だぞ。どれだけ俺が我慢してきたと思ってるんだ? ちびどもに『リカお姉ちゃん』を返すのは、俺のリカを堪能してからだ」
ぽんぽん飛びだす発言のどれもが衝撃的すぎて処理できない。頭は沸騰しそうだし、心臓は爆発寸前だ。
口を開けたり閉めたりするしかできずにいると、若者の顎が額に乗った。火傷しそうな吐息が耳朶に吹きかける。
「リカ――目を閉じて」
まるで魔法にかけられたかのごとく、するりと瞼が下りた。
ああ、そういえば人生で二度目の口づけなのだな……なんて現実逃避をしているうちに、わたしは狡猾な傭兵によって乙女のくちびるをまたしても奪われてしまった。
それから妹が呼びにくるまでのあいだに起きた出来事は、わたしと傭兵のみが知る機密事項である。
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