10.それを祝福と呼ぶならば

〈1〉

 ようやく帰ってきたわが家は、懐かしいほど変わっていなかった。

「リカおねえちゃん、おかえりなさい!」

 まだ五歳にもならない妹が笑顔で飛びついてくる。庭先で遊んでいた幼い弟妹たちが歓声を上げて駆け寄ってきた。

「ねえちゃんだ! すっげー、お姫さまみたいな格好してるー!」

「どこ行っての? 心配してたんだから!」

「ばっかだな、手紙が来て兄ちゃんたちに読んでもらったじゃん。院長先生の病気を治してくれるお医者が見つかったから、副院長先生と姉ちゃんもついてくって」

 両手や丈の長い外套の裾にまとわりつきながら口々に話しかけてくる。さて、どうやって収拾しようかと悩んでいると、弟のひとりがおそるおそる尋ねた。

「おねえちゃん、髪の毛……どうしたの?」

 弟妹たちがいっせいに口をつぐみ、肩につかないほど短くなった白髪を凝視する。

 子どもらしい鋭い感受性で何かを察したのか、何人かの弟妹が離れまいとするかのようにしがみついてきた。

 わたしは弟の頭を撫で、目線を合わせて笑いかけた。

「うっかり木の枝におさげを引っかけて取れなくなっちゃったのよ。仕方がないから切ったんだけれど、似合っていない?」

「ううん、そんなことないよ」

 弟はふるふると首を横に振り、わたしの腰に抱きついた。

「でも、もう黙っていなくなったりしないでね。ぼく、おねえちゃんがもう帰ってこないんじゃないかって……すごく怖かった」

「……ごめんね」

 けなげな訴えに胸が痛む。

 わたしは謝罪だけを口にすると、子どもたちに囲まれながら孤児院の玄関をくぐった。

 ベテル孤児院は二階建ての煉瓦造りの建物だ。母が孤児として暮らしていたころよりも以前に建てられた古い屋敷で、修繕をくり返しながらなんとか雨風を凌いでいる。

「リカ!」

 玄関ホールに足を踏み入れると、世話係のひとりである姉が両手を広げて飛びついてきた。

「あんたって子は、もう! なんの相談もなしに出ていって、どれだけ心配したと思ってるの!」

 締め殺されるような勢いでぎゅうぎゅう抱きしめられ、わたしは慌てて姉の背中を叩いた。

「ミ、ミアねえさん。ちょっと苦しい……」

「カロン兄さんが手紙を届けてくれたからよかったけど、院長先生たちまでいなくなるし、何か事件に巻きこまれたんじゃないかって兵隊さんの詰所に駆けこもうとしたのよ! それに、その髪はどういうこと!?」

 姉は涙目でまくし立てると、「無事でよかった……」と呟いてわたしの肩に顔を伏せた。

「ミアねえさん――」

「リカ」

 姉を抱きしめたまま立ち尽くしていると、同じ世話係の兄がやってきた。

「おかえり。いい医者が見つかってよかったな。だけど、みんな心配したんだぞ」

「……うん。ごめんなさい、ヒューにいさん」

 兄は眉尻を垂らして笑うと、親指でクイッと二階へ続く螺旋階段を指した。

「少し前にセロが帰ってきたんだ。憶えてるか? いちばん仲がよかったろ」

 心臓が跳ねた。

 ぐすぐすと鼻を鳴らしながら顔を上げた姉が説明してくれた。

「傭兵をしながらあちこち渡り歩いてたんですって。お世話になったお義父さんが亡くなったからトゥスタに戻ってきて、アレク兄さんに仕事を紹介してもらってこれから属領地に移住するって言ってたわよ」

「その前に、わざわざ挨拶しに立ち寄ってくれたんだ」

 兄が声をひそめて続けた。

「昔、世話になったぶんだってかなりの寄付金も渡されてさ。……院長先生たちもリカも留守だったから、手をつけないまま金庫に放りこんである」

 思わず苦笑した。傭兵時代にたんまり稼いだ財産のほとんどを孤児院に寄付するつもりらしいと先生から聞いていたが、どうやら本気のようだ。

「アレクにいさまに会って話は聞いているわ。母さんと父さんは、にいさまが手配してくれた王立の療養所にいるの。母さんの容態が落ち着いたら父さんが手紙をくれるそうよ」

 兄と姉は顔を見合せ、納得と安堵のため息をついた。

「よかった。それなら、院長先生もきちんと治療を受けられるのね」

「副院長先生もいっしょなら安心だ」

「いんちょーせんせい、だいじょうぶ?」

「いまどこにいるのー?」

 弟妹たちがいっせいに閉じていた口を開いた。

「ほらほら、質問はあとでゆっくりしなさい。そろそろ昼食の支度をするから、みんな手伝ってちょうだい」

「はーい」

 姉がパンパンと手を叩くと、渋々ながらぞろぞろと厨房へ向かう。ベテル孤児院で年長者の言うことは絶対だ。

「リカおねえちゃん、またあとでねー」

 名残惜しそうに手を振る妹を見送り、わたしはちらりと兄を窺った。

「セロにいさんは?」

「たぶん静養室にいると思うぞ」

 わたしは兄に礼を告げると、螺旋階段に爪先を向けた。

「なあ……リカ」

 不意に呼び止められ、階段の途中で振り返る。階下からわたしを見上げる兄は、少し困った顔に笑った。

「もしもセロについていくつもりなら、家のことは気にするな。兄さん姉さんたちも助けてくれるし、孤児院は院長先生たちが帰ってくるまでオレたちがしっかり守るから」

 言葉を失って立ち尽くすわたしに、兄はやさしく言い含めるように続けた。

「おまえ、ずっとセロを待ってただろ? 帰ってきたあいつの顔を見たらさ、ああ、リカに会うために命懸けで戻ってきたんだなって思ったんだ」

「……うん」

「どこへ行ったって、オレたちは家族できょうだいだ。帰ってきたくなったら、いつでもセロといっしょに帰ってこいよ」

 わたしは涙を堪えて頷いた。

「ありがとう――ありがとう、ヒューにいさん」

「呼び止めて悪かったな。早く行ってやれ」

 笑顔の兄に見送られ、わたしは螺旋階段を駆け上がった。

 逸る心臓を押さえて深呼吸をする。廊下を進んで静養室の前までたどり着くと、こわごわと扉を叩いた。

「――どうぞ」

 かれの声だ。

 把手を回して扉を開くと、冷たい冬の風が吹きつけた。

 正面の窓は開け放たれ、わたしのねぐらだったころよりも黄ばんだカーテンがひらひらと揺れている。

 簡素な寝台と衣装箪笥があるだけの小さな部屋だ。わたしのすべてだった、いまは恋しいばかりの揺り籠。

 吹きこむ風に栗色の髪を遊ばせながら、窓枠に長身の若者が凭れかかっている。

 シャツとズボンの上から鞣し革の防具を装備した身軽な出で立ち。衣装箪笥の上には、見慣れた外套とふた振りの長剣が無造作に置かれていた。

 若者の手には古ぼけた書誌があった。トゥスタや近隣諸国に伝わる伝承やお伽噺をまとめた子ども向けのものだ。ともに暮らしていたころ、かれが好んで読み耽っていた。

「よう」

 カーテンが翻り、窓の外へ投げていた視線をこちらに向けて若者がほほ笑んだ。

 窓のむこうの空は鉛色の雲に覆われ、いまにも雪がちらつきそうだ。わたしは息を吸いこみ、大股で窓辺に近づいた。

「そんなところで本を読んでいたら、また窓から落ちるわよ」

「ハッ、そうかもな」

 窓を閉めながら注意すると、かれは肩を竦めて書誌を閉じた。

 金褐色の髪が栗毛に変わると、昔の面影が色濃くなる。瞳の色だけが明るく澄んだ淡青だ。

 なんと声をかければいいのかわからず精悍な貌を見つめると、かれの髪色が先生と同じことに気づいた。

 ――まるで、実の姉弟のように。

「その髪……」

「ああ、昔みたいに染めてるんだ。目の色は変わっちまったけど、栗毛のほうが『セロ』だって通じるだろ?」

 かれによると、旧レイシア王家の血筋には青灰色の瞳を持つ子どもが多く生まれるらしい。ごく稀に、成長するにつれて灰色が抜けて青い瞳に変化する子どもがいて、かれの父親も同じ空色の瞳の持ち主だったそうだ。

 確かに、かれの従兄弟であるウァイオレッテも青灰色の瞳をしていた。思えばかれに似ていると感じたのも、血縁者なのだから不思議ではない。

「どうして昔は染めていたの?」

「身元を偽るためだよ。あくまでベテル孤児院で厄介になってたのは戦災孤児のセロで、レイシアのセレイウスとは縁もゆかりもない他人だってな」

 孤児院に迷惑がかかることを避けたかったのだと、かれは苦笑まじりに言った。

 わたしは外套の胸元を握りしめ、俯きがちに尋ねた。

「あのね、にいさまたちからぜんぶ聞いたわ。わたしが王妹だって知らされずに育った理由も、あなたの過去も、今回の騒動の原因も……」

「そうか」

「わたし……わたし、あなたのこと、なんて呼べばいいの?」

 かれが黙りこんだ。

 先生が用立ててくれた外套は上等な天鵞絨で織られ、深い赤色をしている。胸元で大きなリボンを結び、外套の下はごく淡い水色の簡素なドレスだ。頭にはドレスと同色の幅広のリボンを前頭部に巻いている。

 ただの町娘には不相応な、まるで貴族の令嬢が祝祭に沸き立つ城下へ遊びにきたような装いだ。着慣れない衣裳でかれの前に立つと、無性に気恥ずかしい。

「なんでもいいよ。セロでも、セレイウスでも――イヌワシでも」

 笑う声は昔のままやわらかい。

「ぜんぶ引っくるめて俺だから。レイシアのセレイウスとして生まれて、セロ=マルカスになって、ずっと傭兵のイヌワシだった」

 声につられて顔を上げると、煙るような睫毛の奥から見つめてくる双眸とかち合った。

「好きなように呼んでくれよ、お姫さん」

 揶揄まじりの口調には若干の照れと、わたしの戸惑いを肯定するやさしさが滲んでいた。

「……それならイヌワシって呼ぶわ。傭兵さん」

「うん」

 かれの――イヌワシの手が伸びて短い毛先に触れる。痛ましそうに眉宇が曇った。

「何か言われたか?」

「どうしたのって訊かれただけよ。弟には『おさげを木の枝に引っかけちゃった』って答えたわ」

 わざとらしく笑ってみせると、イヌワシはむっつりと顔をしかめた。男装のために髪を切ったことを未だに気に病んでいるらしい。

「そんな顔しないでちょうだい」

「自分に腹を立ててるだけだ」

 剣胼胝のある指が髪を掬ってはこぼす。くすぐったくて首を竦めると、硬い爪の先が頬に触れた。

 瞬いてイヌワシを見ると、名残惜しげに指先を握りこんだ。

「俺に会う気になったってことは、嫁にくるつもりなんだな」

「よ……そ、そうなるわね」

「正気か?」

 訝しむ問いに面食らう。イヌワシはぐしゃりと前髪を掻き上げた。

「俺は元敵国の王太子で、母親殺しの前科持ちで、薄汚い戦争屋だぞ。おまけに待ってるのは難題だらけの属領地の建て直しだ。苦労は目に見えてるし、いやな思いなんて数えきれないほど味わうに決まってる」

「……そうね」

 相槌を打ちながら、だんだん怒りがこみ上げてきた。

 気づかなかったわたしも悪かったとはいえ正体を黙っていた挙句、一世一代の決心をして会いにくればいまさらな御託を並べて受け容れず。いったいわたしの覚悟をなんだと思っているのだ?

「そうよ。あなたのお嫁さんになりにきたの」

 語気を強めて宣言すると、イヌワシは目を瞠った。

 腰に両手を当てて睨みつける。「レイシアのセレイウス」

「わたしと結婚したいの? したくないの?」

 イヌワシが咳きこんだ。

「わたしが何年あなたを待ち続けたかわかっている? 七年よ、七年。音沙汰もなければ素性もまともに教えてくれない男を、どうして待っていられたと思う?」

 一歩踏みこんで顔を覗きこむと、淡青の瞳が震えた。

「あなたが好きだからよ。どんなことがあっても信じて待とうと思えたから」

「――……うん」

「たとえこの先あなたと別々の人生を選んだとしても、きっと生きていける。あなたのことを忘れたふりをして、ときどき思いだしてこっそり泣いて、十年二十年過ごすうちに懐かしく思える日が来るわ」

 わたしは腰帯につけていた匂い袋サシェを手に取った。

 薄紫の布地の中に入っているのはポプリではなく、小さな聖燭だ。素朴な筆遣いで描かれているのは可憐な雪割草の花。

「だけどわたしは、トゥスタのローゼリカという名前を不幸な呪いにしたくない」

 運命は呪いであり、祝福である。

 錆まみれの銅貨にもなれば、光り輝く金貨にもなる。道に刻まれた轍が平坦ではないように、人生は浮き沈みの連続だ。

 確かに、わたしが選んだ道はひと際険しいだろう。喜びよりも苦悩や悲しみを数えるほうが多くなるかもしれない。

 それでも。

「胸を張ってあなたの隣を歩く権利が得られるのなら、悪くない人生だわ」

 心から笑ってみせると、イヌワシは困り果てたように眉尻を下げた。

「……やっぱり敵わないな、あんたには」

 聖燭を持つ手をそっと包みこまれる。傭兵は堂に入った所作で片膝をつき、恭しくわたしの手を押し戴いた。

「セレイウスの名と、黄金の鷲イヌワシの矜恃にかけて」

 貴婦人に愛と真心を捧げる騎士のごとく、幼き日の宣誓を形を変えてなぞる。

「わが剣は折れることなく、わが盾は砕けることなし。得がたき御身を生涯の報酬とすることをお許しいただけるのならば、この道の果てにこそ御身の勝利と栄光があらんとお約束する」

 これは契約の儀式だ。

 死に分かたれる最期の日まで、わたしの傭兵としていかなる困難にも屈せず戦い抜いてみせると。祝福の灯が燃える限り、その翼で雪風が吹き荒ぶ荒野を越えていけるのだと。

 ドッと押し寄せる感情の波に流されないよう眉間に力をこめる。きっと見られないような顔をしているに違いない。

 付け焼き刃の作法でも想いをこめて、ドレスの裾を片手で持って腰を低く落とす――先生直伝の淑女の礼だ。

「誓いのお言葉、謹んでお受けいたします」

 短く息を吸いこむ気配がした。

 腕を引かれて体勢を崩す。驚くわたしを両手で受け止めたイヌワシは、そのまま勢いよく抱き上げた。

「夢みたいだ」

 子どもみたいに破顔したイヌワシに抱きしめられた。遠慮のない腕の強さに涙腺がゆるみ、たくましい肩に顔を伏せた。

「夢にしないで」

「ああ……そうだな。夜の戦場の天幕で、剣を枕にして見飽きるほど見たよ。俺のものになったリカを抱きしめる瞬間を」

 完全に不意打ちだ。こんな場面に限って名前を呼ぶなんて卑怯すぎる。

 だからわたしは、ほとんど泣きながら告白した。

「ずっと――ずっとずっと待っていたわ。ずっと会いたかった、セロ」

「うん」

 頷く声は別れた日の、少年だったセロそのままだった。

「俺も、会いたかったよ。待たせてごめん。待っていてくれてありがとう」

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