〈2〉

 かれが……母親を手にかけた?

 愕然とするわたしに、アレクにいさまが淡々と説明した。

「心中未遂から二年が過ぎて、王妃も順調に回復してると報告を受けたんだ。精神状態もだいぶ落ち着いてきて……ひと目でいいから息子に会いたいという嘆願の手紙が届いた」

「会わせるべきかどうかずいぶん悩んだわ。アレクやお義父様とうさまと相談して、弟の気持ちを尊重することにしたの」

 王太子は当初困惑したが、王妃からの手紙を読んでいちどだけなら会ってもいいと答えた。

 兄夫婦は王太子を連れて王妃の療養先を訪ねた。

 小さな病室で三人を迎えた王妃は穏やかな顔つきで、すっかり心の病が癒えたように見えた。

「でも、それは演技だった。王妃の心は過去に囚われたまま――弟に執着し、わたしを憎悪していた」

 ほっそりとした首筋に触れ、かつて王妃に殺されかけたことがあるのだと先生は語った。

「わたしは産みの母に瓜ふたつだそうよ。ヴランヒルトはわたしにアニエスタの面影を探し求めていたの。再婚して世継ぎの弟を儲けても、ずっと……王妃は母の幻影に懊悩し、夫を惑わすわたしを憎んでいた」

 アニエスタという女性は、まるで運命の女神のようだ。死してなお何人もの運命を狂わせ、破滅へ導こうとする。

「王妃にとって、わたしはヴランヒルトの身代わりである息子を奪い取った女でしかなかった。わたしたちが油断した隙を突いて、王妃はわたしに襲いかかった」

 前科のために、王妃の病室に凶器となり得る刃物の類いは一切置かれていなかった。王妃は叫び声を上げて先生に飛びかかり、かつてと同じく首を絞めようとした。

 しかし、アレクにいさまや護衛の騎士たちが黙って見ているはずがない。王妃はあっけなく引き剥がされて拘束される……はずだった。

 だれよりも早く動いたのは王太子だった。

 反逆の抑止として簡単な護身術すら学ぶことを禁じられていた少年は、騎士のひとりから剣を奪取すると躊躇なく王妃を斬り捨てた。

「目を疑ったわ。信じられなかった。練習用の木剣にすら触れたことのない子どもが、まるで手練れの暗殺者のようにひと振りで人を斬殺したのだから」

 血溜まりに倒れ伏す母親の亡骸を見下ろす王子の横顔は、〈武王〉と畏怖された父親を否応なしに彷彿とさせた。

 危険分子の烙印を押されるにはじゅうぶんすぎた。

「表向きには、王妃は病死したと処理した。だが事の真相を知った諸侯からは、一刻も早く王太子を追放すべきだという声が上がった」

「そんな――」

「ユーリを守るためとはいえ、子どもながらに王の前で迷いなく人を殺す行動力や底知れぬ剣の才能を見過ごすわけにはいかなかった。いつかその刃が王家や民に向かったらどうするつもりだど、家臣たちに詰め寄られてな」

 アレクにいさまの口調には、何年経とうと薄れぬ苦渋が染みこんでいた。

「俺はトゥスタの王だ。王として考えて決断しなくちゃならない」

 そして、かれは寄る辺を失った。

「あいつは死を望んだよ。いっそ俺の手で裁いてほしいってな。だが俺は、あいつに生きてほしかった。どんなに苦しくても生きてくれと、剣を託した」

 凍えるように燃える淡青のまなざしが脳裏をよぎった。

 かれが――イヌワシが抱える途方もない闇に、わたしはただただ悲しみで胸が潰れそうだった。

 いったいどんな気持ちで剣を受け取り、王城から去ったのだろうか。姉を守るために母を殺した罪を背負い、行く先も帰路もわからずに。

「俺は王太子をある傭兵に託した。十七年前の戦争で世話になった傭兵団の長で、気難しいが信頼の置ける男だ。何があっても自分の力で生きていけるように鍛えてやってくれってな」

「……〈大鴉〉のカウロ・ジェーダ=マルカス?」

「ああ」

 わたしはいちど瞑目し、息を吸いこんだ。

「イヌワシは――レイシアの王太子なんですね」

「そうだ。元の名前は、レイシアのセレイウスという」

 セレイウス。ずっと知りたかった、イヌワシの本当の名前だ。

 睫毛にまとわりつく涙を払い落とし、アレクにいさまを見据えた。

「子どものころ、一年だけ孤児院でいっしょに暮らした男の子がいました。わたしより二歳上で、栗色の髪に灰色がかった青い瞳をしていて……わたしは『セロ』と呼んでいました」

 かれの名前を口にするのは何年ぶりだろうか。先生がそっとわたしの肩を撫でた。

「あなたからの手紙で何度も読んだわ。いちばんの仲良しで、大好きな兄さんだと」

「理由があって遠くに行かなければならないけれど、いつか必ず帰ってくるって約束してくれました。……セロは、イヌワシなんですか?」

 兄夫婦は深々と頷いた。

 嗚呼――すべてがつながった。

「マルカス殿はわたしたちの依頼を引き受けてくださったけれど、遠国の紛争に関わっている最中ですぐに迎えをよこすことは難しいとおっしゃったの。準備が整うまでのあいだ、セレイウス……セロをベテル孤児院で預かっていただいたのよ」

「父さんも母さんも承知していたんですね」

「ええ。カロンや、わたしたちの下で働くベテルの弟妹たちも協力してくれたわ」

 孤児院を旅立ったセロは、斯くして傭兵のイヌワシとなった。

 ここで疑問が生じた。

 罪を問われて国外追放となったはずなのに、かれはなぜ王家に招聘されたのか。養父が傭兵稼業から足を洗ったり亡くなったりしたらトゥスタへ戻る取り決めだったと話していたが――

「どうしてセロは戻ってくることができたんですか? 今回の出来事に関係があるんですか?」

 わたしの質問に、アレクにいさまはトントンと指で膝を叩いた。

「ああ。ここからが、おまえが巻きこまれた騒動についてだ。まずセロの帰還の理由だが……属領地のためだ」

「いまの属領地がどういう状態か、リカは知っている?」

「……トゥスタ王家への根強い反発があって、なかなか統治がうまくいっていないと聞きました」

 言い淀みながら答えると、先生は苦笑を滲ませた。

「そのとおりよ。どんなに優秀な行政官を派遣しても領民と良好な関係を築けず、小競り合いが頻発しているの。統治が滞れば治安も乱れるし、領地の復興は遅々として進まない」

「いまでこそ表立って反旗を翻そうとする輩はいなくなったが、セロを担ぎだして旧レイシア王家を再興させようと考えているやつは存在する。セロ本人の意思に関わりなく、な」

 兄の言葉に、少なくともかれ自身にレイシアという国の王となるつもりはないのだと知った。

 それでも、戦火に焼き尽くされて失われた国こそが自分の故郷なのだと断言していた。

「セロは――属領地に帰るつもりなんですか?」

 アレクにいさまは薄く目を眇めた。「ああ」

「ゆくゆくはセロに大公……王族に準ずる地位を与えて属領地の統治を任せるつもりだった。有力な貴族を王家の養女に迎えてから妻合わせるか、ジヴリエラが適齢期になったら結婚させるか、いずれにせよ王家と縁続きになれば俺たちが後ろ盾になってやれるからな」

 あくまでトゥスタの属領地ではあるが、旧レイシア王家の直系であるセレイウス王太子によって統治されるのだ。領民の荒んだ感情はいくばくか和らぐに違いない。

 しかし、復興の道のりは平坦ではないだろう。トゥスタ王家に屈したと反感を抱く領民もいれば、あからさまに石を投げつけられるような辛酸も味わうかもしれない。

 かれは選んだのだ、先生のように。

 凍てつく荒野を裸足で歩き続けるような人生だとしても。帰るべき国を、いつか眠る土地を。

「でも、セロを追放させた貴族たちが納得するんですか? それに、結婚って……」

 大公にふさわしく着飾ったかれがわたしではない女性と婚礼を挙げる光景を想像し、どうしようもなく胸が軋んだ。

 王家の後ろ盾を得るには、確かに王女や王家に連なる家柄の相手と婚姻を結ぶことが得策だ。わたし以外のだれかの手を取ることをかれが選んでいたとしたら……どうすればいいのだろう?

 泣きそうになりながら俯くと、先生に睨まれたアレクにいさまはわざとらしく咳払いをした。

「この七年、俺たちも何も手を打たなかった訳じゃない。根回しを重ねてセロを迎える準備を進めてきたんだ。それと結婚相手だが、候補は複数人いるが――最も有力なのは、おまえなんだよ」

「……え?」

 ぽかんとするわたしに、先生がしなやかな指を一本ずつ折って教えてくれた。

「王妹であること。ただし王位継承順位はジヴリエラよりも低いから、子どもが生まれたとしても王位に影響が少ないこと。年ごろが近いこと。元来、王太子であるセロと身分的に釣り合いが取れること」

 そして――と言葉を切り、濃褐色の瞳をきらめかせてささやいた。

「何より、セロ自身があなたとの将来を望んでいる」

「わたしと?」

「そうよ。孤児院を出たセロから手紙が届いたの。トゥスタに戻って属領地の領主になる日が来たら、リカと結婚させてほしいと」

 アレクにいさまは複雑そうな顔で後頭部を掻いている。

「子ども同士の他愛ない口約束だと片付けるには熱烈な内容だったな。病弱で引きこもりがちだったおまえと引き合わせて、うまく打ち解けてくれりゃあいいとは思っていたが……まさか一生の相手として見初めるとは考えもしなかった」

 じわじわと顔が熱くなっていくのがよく分かった。「ああ」とも「うう」ともつかない呻き声を洩らしていると、先生はほほ笑んだ。

「嬉しかったわ、セロが未来に目を向けてくれているのだとわかって。あの子の道行きを照らしてくれる光が灯ったことが、嬉しかった」

「ただ、公的におまえの存在は伏せられたままだ。かつての敵地に嫁ぐことに、親父や……特にお袋はいい顔しなかったしな」

 父に見初められて王妾として城に上がった母は、身分差のために苦労したそうだ。娘のわたしに似たような思いを味わわせたくないと考えたのかもしれない。

 ローゼリカ王女はセレイウス王太子の許嫁候補のまま、縁談は保留となった。すべてはかれが無事に帰還を果たしてから進むはずの話だったからだ。

 だが、属領地の統治問題に思いもよらぬ外野が横槍を入れてきた。

「今回の一件でおまえを誘拐したのは、グルジールの連中だ」

「グルジールって……属領地の北の?」

「ああ。グルジールは王位の継承をめぐって内戦状態だったが、争いに負けた第二王子の一党が属領地から国内へ潜りこんだんだ」

 王子と呼ばれていたウァイオレッテ。あの美しい悪魔は、グルジールの王族だったのだ。

「グルジール王家にはヴランヒルトの異母妹が嫁いでいる。第二王子はその息子で、レイシアの縁故を頼りに逃げてきたんだろう」

「じゃあ第二王子はセロの従兄弟?」

「系図上ではな。セロにしてみれば、自分に成り代わって故郷とおまえを掠め取ろうとした憎いコヨーテでしかないと思うぞ」

 わたしは唾を飲みこんだ。

「セレイウス王太子のふりをしようとしていた……ということですか?」

「属領地で旧レイシア王家の再興を願う領民の声を聞いて思いついたんだろう。血筋でいえば自分にもレイシアの玉座に就く権利がある。当の王太子が行方知れずなら、ってな」

 なんて勝手極まりない言い分だろう。呆れ返るわたしに、先生は首を横に振ってみせた。

「理解する必要はないわ。権力に魅せられた愚者の末路はひとつなのだから」

 王妃のかんむりを戴くひとの言葉は重かった。

「第二王子にあなたの存在を教えたのは、十二年前に誘拐未遂を起こした貴族の一味だったの。かれらは第二王子と結託し、あなたを人質に取ってレイシアの独立とアレクの退位を要求しようとしたのよ」

 ウァイオレッテがエーヴェヌルト侯爵家に潜りこめた理由も合点が行った。内部からの手引きがあれば、隠居した先代当主の側妾のひとりに成りすますなんて容易だろう。

 王家と距離を置かざるを得なかったわが家の事情を利用し、親切な慈善家を装って接近した。わたしは見事に悪魔たちの策略に嵌まってしまったのだ。

「今度こそ許すわけにはいかなかった。わたしたちは傭兵イヌワシに王妹の救出を依頼し、コヨーテ狩りを決行した」

 先代当主を利用されたエーヴェヌルト侯爵家の支援も得て、王都を舞台にした大規模な狩猟がくり広げられた。

 ずっと気がかりだったご隠居さまの安否を尋ねると、先生は目を伏せた。あのまま亡くなられたのだと察し、わたしはうなだれた。

「これが今回の騒動の全容だ。ここまで聞いて、おまえの出自を踏まえた上で――リカ。おまえに選んでほしい」

 アレクにいさまはやさしくも厳しい口調で告げた。

 のろのろと顔を上げると、王の威厳に満ちた金緑色の瞳が静かに光り輝いていた。

「王妹ローゼリカとしてレイシア公セレイウスの許へ嫁ぐか。王族の籍を抜けて王家との関りを一切断ち、すべてを忘れて市井の娘として生きていくか」

「すべてを忘れる……」

「俺たちのことも、セロのことも忘れろ。二度と会わず、ただのリカ=ベテルとして平穏に暮らすんだ」

 息が止まるかと思った。

「正式に王妹となれば、相応の責務を負うことになる。ゆくゆくはレイシア公妃だ。いままでのように守ってやれなくなる。必要となれば利用もするし、切り捨てる可能性だって皆無じゃない」

「少しでも迷いやおそれがあるのなら、このままセロに会わず孤児院へお戻りなさい」

 それがあなたたちのためだから――先生はわたしの手を両手で包みこんで呟いた。

 あまりにも唐突で残酷な最後通牒だ。ただただ呆然と座りこむしかない。

 ……かれはいま、どうしているのだろう?

 わたしの訪れを待っているのだろうか。それとも来てくれるなと願っているのだろうか。やさしいあのひとは、きっとわたしが臆病な選択をしたとしても責めはしない。

 律儀に約束を守るくせに、最後の最後でわたしの気持ちばかり優先する。やさしくて、ずるい男だ。

 ――どんなことがあっても離れたくない。地獄の底までいっしょに堕ちてもかまわない。

 答えは、とっくの昔に決まっていた。

 わたしは先生の手にもう片手を重ねた。先生が小さく息を呑む。

「あのひとは、わたしの幸福の金貨なんです。あのひとにとっては、わたしが」

 いちどは手放した運命を今度こそ取り戻しにいこう。もうはぐれてしまわないように。

 答えるわたしの顔は、きっと情けない泣き笑いだった。

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