9.未孵化の姫君と孵らざる王について

〈1〉

 十七年前、トゥスタは戦争の末に隣国レイシアを併合した。

 両国の対立の歴史は古く、たびたび武力の衝突と冷戦をくり返していた。先王フェンリック――父の治世は幾度目かの冷戦下で、国王の叔母であるロナキア公妃セヴィエラ夫人が人質としてレイシアに留め置かれた。

 当時のレイシアを治めていたのは〈武王〉ヴランヒルト。剣と戦の名手と謳われる一方、苛烈な独裁者としておそれられていた。

 ヴランヒルトにはアニエスタという最愛の王妃がいた。美しく聡明だが、王を相手取って一歩も退かぬ意志の強さは、女性の社会的な地位が低いレイシアでは歓迎されなかった。

 それまでの慣例を破って積極的に政に携わろうとするアニエスタをヴランヒルトは疎んじ、国王夫妻のあいだに亀裂が生じた。そして、アニエスタが不貞を犯したことで破局を迎える。

 夫から心が離れたアニエスタは別の男と逢瀬を重ねるようになり、ついに露見したのだ。怒りに狂ったヴランヒルトは、自らの手で妻と情夫の首を刎ねた。

 そればかりかアニエスタと情夫の親族、密通を見逃したとされた家臣や城の使用人、更にその親族に至るまで、多くの人間を残虐に殺した。国じゅうに吹き荒れた赤い嵐のあとに残されたのは、アニエスタが産んだ赤ん坊――先生だった。

 ヴランヒルトにはアニエスタ以外の妃はおらず、子どももいなかった。正嫡の王女か、はたまた罪人の娘か。真実を明らかにする手立てはなく先生は塔の上の虜囚となった。

 それから十年間、先生を育てた女性こそセヴィエラ夫人だ。

 彼女は生前のアニエスタと交流を持ち、生まれてくる子どもの教育係を任せたいという遺言を託されていた。奇妙なことにヴランヒルトはアニエスタの遺志を汲み、先生の養育をセヴィエラ夫人に一任した。

 冷戦が終わり戦端が開くと、セヴィエラ夫人は先生をレイシアに残して帰国せざるを得なかった。トゥスタに戻ったセヴィエラ夫人は、唯一の王子として王城に迎えられて間もないアレクにいさまを厳しく教育した。

 同じ女性が母代わりとなった先生とアレクにいさまは、十七年前の戦争の最中にはじめて顔を会わせた。

 いったいどんなめぐり合わせがあったのかと思えば、なんと密偵に扮したアレクにいさまが自らレイシアの王城に忍びこんだのだという。

 唖然とするわたしに、先生は懐かしそうに笑いながら語った。

「どうやって塔の最上階まで上がってきたのか尋ねたら、このひとったら笑って『よじのぼってきた。木登りが得意なんだ』だなんて笑って答えたのよ。猫にでも化かされているのかと思ったわ」

「俺も若かったんだよ」

 アレクにいさまは決まり悪そうに首の後ろを掻いている。

「立太子を済ませて以来、大叔母上は臥せりがちになった。それからぽつぽつと前王妃のことや、ユーリのことを話してくれるようになったんだ」

 アレクにいさまの即位から間もなく逝去したセヴィエラ夫人は先生のことを最期まで気にかけ続け、いつかトゥスタへ自分の娘として迎え入れてほしいと言い残した。アレクにいさまが危険を犯してまで敵地に潜入したのは、どうしても自分の目でセヴィエラ夫人の忘れ形見を確かめたいと思ったからだという。

「このひとはね、わたしの運命だったのよ」

 先生は深く澄んだまなざしをアレクにいさまに向けた。

「ヴランヒルトには新たに迎えた王妃とのあいだに王子が生まれていたの。わたしの命はいつ摘み取られてもおかしくはなかった。籠の中で朽ちゆくだけのわたしの許へやってきた運命が、アレクだった」

「そんなたいそうな存在じゃないさ、俺は」

 アレクにいさまの口調が苦い色が帯びる。

「自国の利益のためにユーリを誑かしたようなもんだ」

 トゥスタを歴史的な勝利へと導いた塔の上の軍師――吟遊詩人が歌うユリエル王妃の活躍は、彼女の抜きんでた知略に目をつけたアレクシオ国王のだった。

 密かに両手を握りこむ。

 わたしをコヨーテの群れを炙りだすための餌に仕立て上げたように、アレクにいさまは先生を手駒として利用したのだ。トゥスタを守る王の責務に則って。

「先生は……承知されているんですか?」

 逡巡しながら尋ねると、濃褐色の瞳がやさしい線を描いた。「ええ」

「冬の荒れ野を裸足で渡るような、赦されることのない罪を背負う人生だとしても。生きて、このひとと同じ道を歩いていきたいと望んだから」

 血と炎の色に爛れた翼で、先生はアレクにいさまの手を取って塔の上から飛び立った。このひとを信じようと、どんなことがあっても離れたくないと、地獄の底までいっしょに堕ちる想いで。

 脳裏で白いカーテンが巻き上がる。

 窓から吹きこむ雪風。冬空に身を投げようとしていた少年へ必死に手を伸ばした。

 栗色の髪と青灰色の瞳をした男の子の横顔が、翻るカーテンの残光にちらつきながら麦穂色の髪と空色の瞳をした若者に変わる。振り向くの睫毛の上を金色の光が走る。

 ――リカ。

 わたしは吐息を震わせた。

 約束どおり、あのひとはわたしを守るために帰ってきてくれたのだ。騎士ではなく、傭兵になっていたけれど。

「先生はアレクにいさまを信じているんですね。アレクにいさまも、同じように」

 わたしの答えに、ふたりは穏やかにほほ笑んだ。「よくできました」と褒めるかのように。

「終戦後の流れはリカも知っているわね。わたしはセヴィエラ夫人の夫君であるロナキア公の養女になって立后し、王家に嫁いだ。ほかのレイシア王家の生き残りは王妃や幼い王太子をはじめ女性や子どもばかりだったから、生涯幽閉を条件に辺境の領地に送られたわ」

「はい。確か、レイシアの王妃様が八年前に亡くなられたとお聞きしました」

 スウ……と空気が重くなった。

 先生が痛ましそうに目を伏せ、アレクにいさまが眉間に皺を刻んでいる。

「ええ……そうよ。それがすべての発端なの」

「俺たちの失態だ。気づいたときには事が起こっちまったあとだった」

 両腕を組んだアレクにいさまは、虚空を睨み据えた。

「敗戦後、王妃は心身を病み、ヴランヒルトそっくりに成長していく王太子へ異常に執着するようになった。息子を亡夫の名前で呼び、まるで恋人にでも接するかのような言動を見せて、王太子が他者と関わることを激しく拒絶した」

「え――」

「報告を受けた俺たちは、王太子の安全を優先して王妃と引き離すことを決めた。ところが別れの前日、監視役の目を盗んだ王妃が暴挙に出た」

 いちど言葉を切り、アレクにいさまは重々しく吐き捨てた。

「隠し持ってた食事用のナイフで王太子の腹を刺して、更に自分の喉を掻き切って心中を図った。いまから十年前のことだ」

「そ……んな!」

「幸い、ふたりとも命に別状はなかった。だが、まだ八歳だった王太子は……心に深い傷を負った」

 あまりの惨劇に絶句する。先生はわたしの肩を抱き寄せ、やさしくさすった。

「わたしが彼女を追い詰めたようなものよ。わたしは、父親と故郷ばかりか、母親まで弟から奪ってしまったの……」

 弟と、先生は王太子を呼んだ。

「血がつながっているかどうかは関係ない。あの子はわたしの弟で、今度こそ守ろうと決めたの。アレクがリカを守ってきたように」

 わたしはとっさに兄を見た。

 アレクにいさまは眉間の皺を揉みほぐし、ぐっと顔を上げた。

「俺たちがベテル孤児院の周辺と関わりを断ったのは十二年前だ。当時、王妹であるおまえの誕生は、王城の限られた一部の人間しか知らされていなかった」

 このころ、先生はアルテオ王子とジヴリエラ王女を出産したばかりだった。わたしの甥と姪である。

 難産の末に産まれた双子は玉のように健やかな赤ん坊で、お世継ぎの誕生に国じゅうが祝福に沸き立っていた。だが、それを快く思わない者も少なからず存在した。

 祖父が行った大改革によって没落した保守派の貴族――ウァイオレッテの口を借りれば、現在の王家を真の統治者として認めていない派閥。エーヴェヌルト侯爵家はその筆頭だ。

「保守派は貴族主義、血統主義で頭が凝り固まった連中だ。俺の代になっても世襲貴族が羽振りを利かせてた時代が忘れられないんだよ。若い子弟の中には柔軟な考えを持ってる人材もいるが、年寄りどもときたら黴の生えた黒パンみたいにカチカチだ」

「か、黴ですか」

「ああ。連中はユーリや子どもたちを認めちゃいない。由緒正しい貴族の娘を妾妃に迎えて子を儲けろと、堂々と陳情してくるんだ」

 後宮が廃されたのは祖父の治世だというのに、保守派の貴族はよほど過去の栄華に執着しているらしい。

 そしてとうとう、かれらはわたしの存在を探り当てた。

「エーヴェヌルト侯爵家の分家筋に当たる保守派の貴族がおまえの誘拐を企てたんだよ。王位継承権を持つ王妹と子弟を結婚させれば、姻戚として王家に干渉することができる。あわよくばおまえを傀儡の女王として即位させて実権を握ろうって算段だ」

「ただ、これは首謀者の独断だったようなの。当のエーヴェヌルト侯爵家は寝耳に水で、特に保守派の中でも中立の姿勢を取っていらっしゃるいまのご当主は率先して首謀者の捕縛に協力してくださったわ」

 自分の知らないところでそんな陰謀劇が起きていたなんて。思わずぶるりと肩が震えた。

 先生が気遣わしそうに背中をさすってくれる。

「顔色が悪いわね。少し休む?」

「いいえ……平気です。続けてください」

「無理はするなよ」

 アレクにいさまは渋い口調で念押しした。

「誘拐は未然に防がれ、首謀者も処罰した。だが今後もおまえに危険が及ぶ可能性は消えたわけじゃない。少なくともおまえの身の安全が確保されるまで、俺たちは表立って孤児院と関わることをやめた」

「じゃあ、母さんが病気になってもにいさまを頼ろうとしなかったのは――」

 わたしを守るためだったのだ。

 療養所に送りだす直前、最後に見た両親の姿がよみがえる。

 痩せこけた母の手を握りしめて俯く父の背中。母は命を削り、父は苦悩しながら、わたしを守り抜こうとしていた。

 止まったはずの涙がこみ上げる。泣いたら話が聞けなくなってしまうと思い口を引き結ぶと、そっと肩を抱き寄せられた。

「あなたは何も悪くないわ。ご両親に深く愛されているのだとわかっていればじゅうぶんよ」

 本当にそうだろうか。

 心のどこかで、ずっと両親を恨んでいた。静養室の窓辺から外界を睨み下ろすことしか知らない癇癪持ちの子どもが消えないまま蹲っている。

「おまえは子どもだったんだ、リカ。大人の庇護と愛情が必要不可欠な、守られるべき子どもだった」

 諭すようなアレクにいさまの言葉は、深い嘆息にいちど切れた。

「それはレイシアの王太子も同じだ。だからこそ、この手で守ってやりたかった」

 膝の上で握りしめていた拳を開き、アレクにいさまは空のてのひらをじっと見つめた。

「話を八年前の件まで戻そう。俺とユーリは王太子を王城に引き取って療養させることにした。もちろん臣下の反発はあったが、ロナキア公が後見人になってくれた」

 ロナキア公の猶子という立場を得た王太子は兄夫婦の庇護の下、少しずつ心と体を回復させていった。

 雪解けを告げる早春の陽だまりのような、ただただ穏やかな時間の中で。

「子どもたちにとって、弟はよい兄様だったわ。運動や馬術の練習よりも、古い物語や歴史書を読むことが好きでね。よく子どもたちを膝に乗せて読み聞かせをしてくれたものよ」

 懐かしそうな先生のほほ笑みに、書誌のページを静かにめくる少年の指先を思いだした。

 やわらかな窓あかりの下で聞いた、いくつもの物語を教えてくれたやさしい声を。

 知っていると直感した。わたしは、見知らぬ国の王太子を知っている。

 孤児院に来る前、かれが別れを告げなければならなかった家族は親代わりの兄姉とその子どもたちだった。甘えん坊の小さな弟妹は、アルテオ王子とジヴリエラ王女のことだったのだ。

 舌が回らない口で「にいたま」と呼ばれることが何より嬉しかったと語っていたかれは、なぜ愛する家族の許を去らねばならなかったのか。

「たった二年よ」

 両目を潤ませ、先生は悔恨をこめて言った。「いっしょに暮らせたのは、たったの二年ぽっちだった」

「どうして――」

 答えは、あまりに残酷だった。

「実の母親を、殺したの」

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