8.王城にて

〈1〉

 染め粉を洗い落とした髪は見慣れた白さを取り戻し、まるでこれまでの出来事が夢だったかのように錯覚した。

 だが、女官が丁寧に梳る毛先は顎のあたりでぷっつりと断ち切られている。化粧台の前に座ったわたしは、鏡の中の少女と見つめ合いながら思案に暮れた。

 ――やはり、これは夢ではなく現実なのだ。

「王妹殿下、お支度が調いました」

 亜麻色の髪の女官――マイアさんが鏡越しにほほ笑みかける。

 姉たちよりは年嵩だが、母よりずっと若い。親愛が滲む灰色のまなざしに戸惑いながら頷く。

 鏡の中の少女はライラックの花のような薄紫のドレスを身に纏っていた。装飾は控えめで、すっきりとした意匠が大人びている。

 右耳の横に飾った大ぶりのコサージュのおかげで髪の短さが目立たない。口元はほんのりと蜜紅に彩られ、血色がよく見えた。

「よくお似合いですよ」

「……ありがとうございます」

 わたしはいま王城にいる。正確には城内で最も上層部に位置する〈上の城〉の一室だ。

 一の郭には煉瓦造りの城館が三棟、高低差を利用して段々に並んでいる。それぞれ〈上の城〉、〈中の城〉、〈下の城〉と呼ばれ、これらをまとめて王城と称する。

 わたしがいる〈上の城〉は王族の居城、〈中の城〉には廷臣たちが詰める政庁や迎賓館、書庫などがあり、〈下の城〉は最も規模が大きい。厨房や洗濯場、鍛冶場、城内で働く使用人の住居、食糧や武器の貯蔵庫、厩舎や家畜小屋など、文字どおり王城を支える人と物が集められている。

 広場での襲撃から一夜明け、そろそろ午後のお茶の時間に差しかかるころだ。

 あれからすぐに駒鳥が兵士を率いて駆けつけ、慌ただしく王城に向かった。緊張の糸が切れたのか、城門をくぐった直後で記憶が途切れている。

 目覚めると、エーヴェヌルト侯爵家の別邸にも劣らぬ上等な寝室だった。

 やさしい象牙色の壁や天井には小花模様が散りばめれ、調度品も同系色で統一されている。幽閉されていた部屋とは対照的にホッと落ち着く雰囲気だった。

 夢も見ないほど深く眠り、太陽は中天まで昇っていた。部屋付きの女官であるマイアさんから現状を説明され、遅い朝食のあと国王夫妻と対面することになった。

 ふるまわれた食事はなんともおいしそうなご馳走だったけれど、口にできたのは小さな白パンひとつきり。気を利かせたマイアさんが蜂蜜入りのホットミルクを用意してくれたので、ちびちびと飲み干した。

「緊張されていらっしゃいますか?」

 マイアさんが穏やかな口調で尋ねる。わたしは両目を伏せた。

「実感が持てないんです。わたしが国王陛下の妹だなんて」

「無理もございませんわ。殿下は市井の方としてお育ちになられたのですから」

「兄たちや両親は、どうしてわたしの出自を隠していたんでしょうか?」

 思わず疑問をぶつけると、マイアさんは困った風に眉尻を垂らした。

「申し訳ございません。わたくしの口からはお答えできないのです」

「あ……そう、ですよね」

 マイアさんは言葉を探すようにそっと切りだした。

「わたくしは長年王妃陛下にお仕えしておりますが、陛下は殿下からのお手紙をそれはそれは心待ちにしておいででした」

 孤児院の私室の、書き物机の抽斗に大切にしまいこんだ手紙の束を思いだした。

 文字ことばでしか知らないそのひとに何度励まされただろう。つらいことも悲しいことも嬉しいことも、先生は見えない両腕でわたしの心を抱きしめてくれた。

「時には国王陛下とごいっしょに、昔の手紙を読み返しては殿下のご成長をお喜びになられておりました。いつか城へお迎えになる日を心から楽しみにされていたことは、けして嘘ではございません」

「――はい」

 わたしはマイアさんの目を見て頷いた。

「わたしも、同じ気持ちです」

「でしたら問題ございませんわ。殿下のお気持ちを率直に申し上げればよろしいかと思います」

 マイアさんはにっこり笑って勇気づけてくれた。

 見計らったように、外で控えていた別の女官が迎えが到着したことを告げた。

 マイアさんに案内されて隣接する居間に移動すると、簡略的な騎士服姿の男性が待っていた。

「カロンにいさん!」

「お迎えに上がりました、王妹殿下」

「もうっ! こんなときにふざけないでよ!」

 わざとらしい口ぶりを責めると、カロンにいさんは苦笑した。

 短く刈りこんだ夕陽色の髪が駒鳥の羽色を彷彿たさせる。王妃の使者である駒鳥は、この兄だった。

「ふざけてなんかいませんよ。あなたは正真正銘国王陛下の妹君、ローゼリカ王妹殿下なんです。城下ならまだしも、城の中で間違っても『仔猫ちゃん』なんて呼べませんよ」

 途端に咳払いが聞こえた。マイアさんが半眼でカロンにいさんを睨んでいる。

「ほらね?」

 思わず口をへの字に曲げると、カロンにいさんは肩を竦めた。

「ではせめて『姫様』でお許しを。私は一介の従騎士に過ぎませんので」

「……わかったわ」

 わたしは渋々承諾した。

 従騎士は正式な騎士階級ではなく、騎士の単なる従者とされている。一般的には騎士見習いの少年少女が通過儀礼として数年間従事する役割だが、カロンにいさんのように自らの意思で従騎士に徹する場合も少なからずあるらしい。

 カロンにいさんの主人は国王の護衛を務める宮廷騎士アレク=ベテル――長らくわたしが信じこまされてきた実兄の仮の身分すがただ。

「支度が済んだのなら参りましょう。両陛下がお待ちかねです」

 マイアさんに見送られ、わたしはカロンにいさんとともに国王夫妻の許へ向かった。

 不意に心細さに襲われ、わたしは両手を握りしめた。

 ずっとそばにいてくれたイヌワシは、何も答えないままカロンにいさんにわたしを託して消えてしまった。

 ――わたしの傭兵。あなたはいまどこにいるの?

 王城で働く人びとにすれ違うたび、だれもが驚き顔で足を止め、そして感慨深そうに頭を垂らす。磨き抜かれた窓硝子に映るライラック色のドレスの少女は、確かにわたしの顔をしていた。

「ねえ、カロンにいさん。にいさんは……イヌワシの本当の名前を知っているの?」

 声を潜めて尋ねると、カロンにいさんはちらりと一瞥を投げて寄越した。

「知っています。あの方が何者なのか、なぜ姫様の傭兵になったのかも」

 やはりカロンにいさんもイヌワシの正体は教えてくれなかった。わたしはもどかしく訴えた。

「わたし、ずっと昔からあのひとを知っている気がするの。はじめて会ったときからずっと――」

 カロンにいさんは立ち止まり、サッと周囲に人気がないことを確認するとわたしに向き直った。

「リカ」

 小声で呼ばれたのは、慣れ親しんだわたしの名前だった。

 カロンにいさんはくしゃりと笑い、背をこごめて顔を覗きこんだ。

「アレク兄さんとユーリ姉さんから貰った贈り物を憶えてるか?」

「……うん」

「じゃあ、あいつにも訊いてみろ。ガキのころ、冬至の祝祭に貰った贈り物を」

 意図が掴めず瞬くわたしに、カロンにいさんは笑みを深めて続けた。

「いつだったか言ってたよ。おまえはあいつにとって幸福の金貨なんだって」

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