〈2〉

 チャリ――ン、と帽子に投げこまれたコインが跳ねる音が響いた。

 わたしとイヌワシは同時に吟遊詩人のほうを向いた。

 吟遊詩人の前に人影が立っていた。

 糸杉のようにすらりとした、おそらくは青年だ。ざんばらな金髪に、薄汚れた外套を引っかけて長剣を帯びている。

 吟遊詩人がゆっくりと青年を見上げた。皺まみれの双眸を細め、恭しく礼をする。

「どんな歌をお望みで?」

「――『祝福』の歌を」

 すり切れたテノールがささやく。どこか聞き覚えのある、男にしては高い声。

 吟遊詩人は居住まいを正し、リュートを抱え直した。


 祝福はいずこ 救い主はいずこ

 魔女の呪いが炎の雨となって王国に降り注ぐ

 栄光はいずこ 光輝なる王はいずこ

 灰土の野に風の弔歌が木霊する


 打って変わって、重く暗い曲調で演奏がはじまった。

 浮かれ騒いでいた人びとは口をつぐみ、息を潜めて耳目を凝らす。

 冒頭の歌詞と旋律をくり返した吟遊詩人は、リュートを激しく掻き鳴らした。

 

 黎明はいずこ われらの王はいずこ

 嘆きは祈りに 弔歌は軍靴の音に

 勝利はいずこ 軍神の王子はいずこ

 暁の空にはためくは救国の御旗


 リュートの調べに合わせ、青年が靴の踵を打ち鳴らす。さながら軍靴の音を響かせるかのごとく。

 聴衆は渦巻く歌声の潮流に引きずりこまれていた。

 ただひとり、青年だけが王者のように佇んでいる。


 魔女はいずこ 滅ぼすべき怨敵はいずこ

 軍神の王子は剣の凱歌を高らかに謳う

 祝福はここに われらの王はここに


 反復する歌詞と旋律は、わたしに混乱をもたらした。

 この内容は、先ほどの歌とまるで逆だ。裁きを下した天使は炎の雨を降らした魔女であり、軍神の王子によって報いを受けるだろうと締め括られる。

 ――これは復讐の布告だ。

 吟遊詩人が最後の歌詞をみたび歌い上げた。

 沈黙の広場に青年の拍手が音高く反響する。もう一枚コインを帽子に投げ入れると、吟遊詩人が仰々しく頭を垂らす。

「すばらしい。実にすばらしい歌だ!」

「お褒めに預かり光栄の至り」

 人びとは不気味なものに出くわしてしまったかのように遠巻きにささやき合っている。レイシアと、失われた国の名を。

 そんな空気をせせら笑うように、あるいは愉快そうに青年が肩を震わせた。

「太陽の復活祭にこそふさわしい歌だ。――そうは思わないか?」

 おもむろに青年が振り向いた。

 やつれた白皙の美貌、鬼火じみた青灰色の瞳を目の当たりにしたわたしは硬直した。

 ――ウァイオレッテ!

 間違いない、あの悪魔だ。馬車から転落しながらも生き延び、わたしを捕らえるために再び姿を現したのだ。

 視線が合うと、ウァイオレッテはとろりとほほ笑んだ。

「迎えにくるのが遅くなってしまったね。待ちくたびれただろう?」

 恋人にでも聞かせるような猫撫で声に鳥肌が立つ。悪魔が女の皮を被った男だったという衝撃と恐怖に凍りつき、悲鳴も出せない。

 不意にイヌワシが杯を石畳に叩きつけた。

 ウァイオレッテの眉が跳ね上がる。イヌワシはわたしを背に庇って前に進みでた。

「うちのちび猫に何か用かい、色男さんよ」

「……貴様がイヌワシとかいう傭兵か」

「へえ、わかってんなら話が早いな。せっかくの祭の宵に水を差す不粋な真似はやめて、おとなしくテメェのお山に帰ったらどうだ?」

「帰る? ハッ!」

 ウァイオレッテは鼻を鳴らし、忌々しげに顔を歪めた。

「ああ、帰るとも。貴様の主人に奪われたものを取り戻してな!」

「くたばり損ないのコヨーテが、何を勘違いしてやがる」

 イヌワシは冷ややかに吐き捨てた。凄みのある声が静寂を打つ。

「失ったものの埋め合わせを受け取る権利があるのは、理不尽を強いられた民草だ。時代遅れの大義を振りかざす連中なんざ、とっくにお呼びじゃねぇんだよ」

「貴様ッ……!」

 激昂したウァイオレッテが長剣を抜くと、周囲から悲鳴が上がった。

 祝祭のともし火に凶刃がぎらりと光る。

 イヌワシは外套の裾を払い、二本の長剣の柄に両手を置いた。

「俺から離れるなよ」

「う、うん」

 わたしは傭兵の背中にしがみついた。ウァイオレッテの美貌がどす黒く染まる。

「黄金の鷲を名乗りながらトゥスタ王家に与する不届き者、その首級くび斬り落として魔女への手土産にしてくれる!」

 ウァイオレッテが石畳を蹴りつけて長剣を振り上げた。イヌワシの外套が翻り、銀の閃光が斜めに交差する。

 鋼の噛み合う音が耳をつんざいた。 

 ウァイオレッテの長剣をイヌワシの双剣が受け止めていた。

 刃のむこうでウァイオレッテが歯を剥きだしにしている。対するイヌワシの口ぶりは飄々としたものだった。

「あいにく、俺の首級は売約済みだ」

「おのれ、下賤な傭兵風情が!」

 火花を散らして刃がぶつかり合う。イヌワシはウァイオレッテの斬撃を柔軟に受け流している。

「王子!」

 吟遊詩人が立ち上がってリュートを投げ捨てた。丈の長い外套の陰から中剣を抜き放ち、イヌワシに斬りかかる。

 蹴り飛ばされた帽子からコインが騒々しく散らばった。

 どよめきが起こり、人びとが慌ただしく逃げ惑う。遠ざかる人波に逆らって男たちがふたり飛びした。

 わたしは息を呑んだ。男たちはイヌワシめがけて剣を振りかざす。

 イヌワシが重心を低く落とした。

 短い息遣いに次いで風を斬る音が聞こえた。さながら舞い踊るかのごとく、あるいは翼を広げて蒼穹を旋回する猛禽のように、イヌワシは体幹をひねって双剣を振るった。

 襲撃者たちが次々と弾き飛ばされ、喜劇役者よろしく石畳に転がった。

 唖然とするウァイオレッテに剣先を突きつけ、イヌワシは肩を竦めた。

「流民の祈祷剣舞だよ。傭兵にゃ流民の出のやつもごろごろしてるから、傭兵団育ちはいやでも覚えこまされる」

「流民の傭兵団……貴様、もしや〈大鴉〉の子飼いか!」

 ウァイオレッテは怒号を上げた。激情に駆られるまま長剣を振り回すが、イヌワシは顔色ひとつ変えずに刃をいなす。

「おのれッ、おのれおのれ! いちどならず二度までもわが道を阻むとは、生かしておけぬ!」

「同感だ。――俺も、テメェを見逃す気はねぇよ」

 イヌワシが一歩踏みこんだ。

 腰を落として両腕を下から振り上げる。地上の獲物に狙いを定めた猛禽が急降下するかのようだった。

 しなやかで変則的な剣筋にウァイオレッテが動きを止めた刹那、片方の刃が雪白の面を斬り裂いた。

 血飛沫とともに絶叫が迸る。

 顔の左半分を真っ赤に染めたウァイオレッテが長剣を取り落とし、石畳に崩れ落ちた。襲撃者たちが口々に「王子殿下!」と叫ぶ。

「投降しろ」

 刃の露を払い、イヌワシが淡々と告げた。

「おまえたちに逃げ場はない。王の猟犬が騒ぎを嗅ぎつけてすぐにやってくる。武器を捨てて縛に就け」

「ほざけ!」

 ウァイオレッテを庇って中剣をかまえた吟遊詩人がイヌワシを睨み、ハッと瞬いた。

 その表情は聖燭売りの農婦と同じだった。驚愕に両目を瞠り、イヌワシの顔を凝視する。

「そ、そんな……まさか、貴様、いや、あなたは――」

「この顔に見覚えがあるか?」

 イヌワシが喉を鳴らした。ひどく滑稽そうに。

「よく似ているだろう? いまは亡きレイシア王妃のお墨付きだ」

 ――このひとは話をしているの?

 イヌワシが遠ざかったような気がして、震える手で目の前の外套を引いた。

 若者の肩がわずかに跳ねる。

 不意に、視界の端で襲撃者のひとりが動いた。懐から何かを取りだし、近くのランタンに向かって投げつける。

「リカ!」

 イヌワシが覆い被さってきた瞬間、凄まじい破裂音が閃光とともに迸った。

 煙の臭いが充満する。わたしは目と耳を塞いで縮こまった。

 音と光の嵐はしばらく続き、ようやく治まったときにはウァイオレッテたちの姿は消えていた。

「くそ、癇癪玉なんか撒きやがって」

 あたりにはランタンの破片が散乱し、火が点いたものがいくつも転がっていた。このままでは火事になってしまうとへたりこんだまま考えていると、強く肩を揺さぶられた。

「しっかりしろ。怪我はないか?」

 焦った様子のイヌワシに尋ねられ、わたしはようよう首を横に振った。

「……さっき、わたしの名前を呼んだ?」

 呆然としたまま素の口調で問い返すと、イヌワシは虚を衝かれた顔をした。

 リカ=ベテル。物心ついたころから慣れ親しんだ自分の名前だ。

 いまとなっては、本当の名前かどうか定かではなくなってしまったけれど。

 先生に遣わされたイヌワシがわたしの名前を知っているのは当然だろう。だが、頑なに個人名で呼ぼうとしなかったのに、土壇場で口を衝いたのはどうして?

 お姫さんでもちび猫でもなく、リカという呼称がいちばんなじみがあるからだとしたら。

 ――わたしは、ずっと昔からこのひとを知っている。

「教えて、傭兵さん。あなたは……だれなの?」

 空色の瞳が迷うように揺れる。

 王城からの応援が到着するまで、わたしたちは答えのない沈黙を挟んで向かい合っていた。

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