7.イヌワシとコヨーテ

〈1〉

 真冬の陽はあっという間に翳る。

 夕闇が迫る曇り空の午後、家々の軒先や窓辺には聖燭を入れたランタンが吊り下げられ、橙色のやさしい光を投げかけている。繊細な透かし彫りが施された真鍮細工の覆いと硝子の壁面でできたランタンは、まるで小さな鳥籠のようで愛らしい。

 ランタンの灯りに彩られた王都には大勢の人びとが城壁の外から訪れる。華やかな祭を楽しむ観光客、聖燭売りのような行商人。街のあちこちで歌舞や芝居、曲芸を披露する旅芸人たち。

 裏通りの暗がりには子どもは入れてもらえない芝居小屋やおどろおどろしい見世物小屋が建ち、夜の香りを煙のように身に巻いたが浮かれ烏の袖を引く。シリィさんがいる私娼窟にも多くの客が流れこんでいるに違いない。

 イヌワシが安く手に入れた毛織りの襟巻きに鼻先まで埋め、わたしはリュートの音色に耳を澄ませていた。

 二の郭の城門近くにある広場は日没を過ぎても賑わいが絶えない。あちこちに飾られたランタンに火が灯り、音楽が鳴り響き、屋台からは香ばしい匂いが漂ってくる。

 祭の長い夜、人びとは熱い火酒や果実酒で体を温めながら浮かれ騒いで朝まで過ごす。聖なると陽気な喧騒が闇から現れる悪しきものを退けると信じられているからだ。

 広場の片隅でリュートを奏でているのは老境の吟遊詩人だ。足元の帽子にコインが投げこまれると弦をひと撫でし、張りのある声で歌いだす。


 これは王なき国の歌 

 いまは昔、かつては赤き軍神の国

 しかし天使の裁きが火矢となって降り注ぎ、雲を衝く錐の城は燃え落ちた

 緋色の玉座は真っ黒焦げ

 黄金のかんむりは煤まみれ

 王なき国には灰の雪が降り積もる


 王なき国とは属領地のことだ。

 かの地でユリエル王妃は〈死天使〉と忌み嫌われているというウァイオレッテの台詞がよみがえり、思わず眉間に皺が寄る。

 エーヴェヌルト侯爵は彼女を『レイシアの亡霊』と呼んでいた。わたしを復讐の火矢に仕立て上げると言っていた、その標的は――

「灰の雪が降り積もる、か」

 呟きが雪片のように落ちてきた。

 睫毛を跳ね上げると、湯気を立てる杯を両手に持ったイヌワシが傍らに立っていた。近くの屋台で飲み物を買ってきてくれたらしい。

温葡萄酒グリューワインだ。熱いから気をつけろよ」

「ありがとう」

 わたしは差しだされた杯を受け取った。杯は簡素な土器で、飲み終えたら砕いて道端に捨てる。

 湯気とともに肉桂シナモンの香りが鼻をくすぐった。葡萄酒に香辛料や糖蜜シロップを混ぜてあたためた温葡萄酒は、冬至の祝祭には欠かせない。

「飲み終わったら宿に行くぞ。ぼやぼやしてると降りだしそうだ」

 イヌワシの言うとおり、空には厚い雪雲が垂れこめていた。

 ここ最近、何度か小雪がちらついたが、今夜は積もるほど降るかもしれない。

「……ねえ傭兵さん。明日こそ城内に入れそう?」

 そっと小声で尋ねると、イヌワシは吟遊詩人へ視線を投げたまま「いんや」と答えた。

「残念ながら二の廓で待機だ。駒鳥が迎えにくるまでな」

「駒鳥?」

「白梟の使いだよ。城へ俺たちを迎え入れる支度ができたら駒鳥がやってくる」

 なんとも暗号めいたやりとりだ。兄である王は黒獅子、王妃は白梟、その使者の駒鳥。傭兵のイヌワシと迷子の仔猫姫。

 ため息が湯気に溶けた。

「二の廓に入って三日も経つのに? もう祭がはじまったよ?」

「仕方がねぇだろ、雇い主のご意向なんだから」

 イヌワシは肩を竦めるばかりでそっけない。

「そもそも、ぼくたちを迎える支度ってどういう意味? 先生はウァイオレッテたちよりも先にぼくを保護しようとしているんでしょう?」

 淡青の瞳がちらりと一瞥する。温葡萄酒を舐めたイヌワシは低く呟いた。

「いまは狩りの真っ最中なんだよ。野兎の皮を被ったコヨーテ草原狼がこの国に入りこんだんだ」

「コヨーテ?」

「あんたを拐った張本人だよ。属領地帰りって経歴になってるが、トゥスタの民じゃない」

 杯の中の水面が震えた。

 息を詰まらせたわたしの様子に、イヌワシは眉をひそめた。

「勢いが衰えたとはいえ、エーヴェヌルト侯爵家にはまだそれなりの影響力や財力もある。だがロナキア公妃の一件以来、王家から遠ざかっていた。おまけに先代といまの当主は折り合いが悪くて、先代は隠居してから別邸に引きこもって若い側妾を何人も囲ってたって話だ。王家の目が届かないところで謀略をめぐらすにはうってつけだったのさ」

 側妾という生々しい単語にどきりとした。

 先代のエーヴェヌルト侯爵はウァイオレッテを自分の人形所有物と呼んだ。そして彼女ともども疾走する馬車から――

「ウァイオレッテは……ご隠居さまの側妾という身分を利用して何を企んだの?」

「反吐が出る人形芝居だよ、お姫さん。操り人形はあんた、糸を操る人形使いはコヨーテ、観客は黒獅子と白梟」

 ウァイオレッテはわたしの出自を踏まえた上で『ローゼリカ姫』を傀儡に仕立て上げようとしたのだ。王家を陥れ、玉座とかんむりを手にするために。

 いまさらになって戦慄する。父と母は王の両親であり、ウァイオレッテの手駒になったわたしもまた王と王妃にとっての人質なのだ。

「ウァイオレッテはぼくを復讐の火矢にすると言っていたんだ。レイシアがトゥスタに焼き払われて王なき国になったように、彼女はトゥスタを王なき国にするつもりなの?」

「それはコヨーテの口から聞かないとわからねぇな。しかし……復讐か。運命の女神にでも復讐するつもりだったのか?」

 運命、と、口の中で反芻する。

 イヌワシは杯のふちを爪先でカツンと弾いた。

「運命はコインの裏表みたいなモンだ。幸運の面が表に来れば祝福だと感じるし、不運の面にひっくり返れば呪われてると思いこむ。呪って呪って呪い続けると、終いには本当に運命っていう無貌の怪物に呪われちまう」

 無貌の怪物。人の感受性によって如何様にも姿を変える形なきもの。

 ウァイオレッテは生まれ持ったコインを磨くのではなく、他者の金貨を奪うことを選んだのだろうか。

「で、支度ってのはコヨーテ狩りが終わるまでってことだ。王の猟犬が都じゅうに放たれて、祭に乗じて悪さを働こうって不届き者を片っ端から引っ捕らえてる」

「もしかしてあちこち移動しながら王城を目指していたのは、時間稼ぎと敵の誘導が理由?」

 コヨーテの群れを一網打尽にするならば、地の利を生かし、標的であるわたしを餌にして檻の入り口まで誘いこむのが得策だ。

 イヌワシは片目を眇めた。

「腹が立ったか?」

 それは王家がわたしを餌として利用したことを事実と認める発言だった。

 ずるずると視線が下がり、冷めはじめた温葡萄酒の水面に落ちた。

「……わからない。だけど、その手段を選ばなければならないとしたら、先生は迷わず選ぶと思う」

 先生のやさしさに何度も救われた。だが同時に、ときに冷酷なほど合理的な決断を下すひとだと知っている。

 きっと兄も同様に、必要とあらばわたしを利用し切り捨てるだろう。

 王家は常に民を――国を第一に考えて動いている。トゥスタに仇成す者がいるならば容赦なく牙を剥く。

「きっとその選択は正しい。だって先生たちには責任があるんだ。トゥスタの蒼生ひとびとに対する責任が。玉座もかんむりも、責任を果たすという約束の証でしょう?」

 わたしが家族を、孤児院を、かれが帰ってくる場所を何があっても守ろうと決めたように。

 兄夫婦もかんむりを戴いて玉座に就いた日、この国を守り抜くと誓ったはずだ。

 顔を上げ、イヌワシに笑ってみせる。わたしは大丈夫だと。

「ぼくは先生たちを信じるよ。あなたといっしょに王城までたどり着いてみせる」

 イヌワシは目元を綻ばせた。「上等だ」

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