〈2〉

「俺の国って――」

 農婦が息を呑んだ。

「兄さん、あんた……レイシアの生まれかい?」

 驚愕が声に出そうになり、慌てて口を引き結ぶ。

 イヌワシは片頬を歪めて笑った。

「何も憶えちゃいねぇけどな。世話を焼いてくれたのはトゥスタのひとたちだ」

「それなら、あんたの国はトゥスタじゃあないのかい」

 農婦の問いかけに若者は頭を振った。

「いまは亡くても、俺の故郷は確かにレイシアだ。それは変わらないし、忘れない」

「……若いってのに難儀だねぇ」

 農婦はくしゃりと笑うと、聖燭ふたつぶんの値段を告げた。イヌワシが差しだした代金を大切そうに受け取る。

「あいよ、確かに」

「婆さん、ここで会ったのも何かの縁だ。困り事ができたら傭兵のイヌワシを頼るといい」

黄金の鷲イヌワシ?」

 怪訝そうな顔をする農婦に、イヌワシは飄々と「俺だよ」と答えた。

「向かいの酒場に言って名前を出せば俺につないでもらえる」

「ずいぶんと縁起の悪い名前だね。金の鷲は〈武王〉の旗印だっていうのに」

「亡国の民らしい名乗りだろ? 戦場じゃ不吉なぐらいが験担ぎにはちょうどいいのさ」

 イヌワシはわたしの肩を叩いて立ち上がった。

 農婦はしげしげと若者を見つめ、ふと何かに気づいたように瞠目した。

 開きかけた口を急いでつぐみ、「ああ」と声を洩らす。

 年月と苦労にまみれてふしくれた両手を握りしめ、何度も首を縦に振る。

「必ず憶えておくよ――必ず」

 イヌワシは笑みで応え、わたしの背を押してその場を離れた。去り際に会釈をすると、農婦はまるで貴人を見送るかのように恭しく頭を下げた。

 路地を抜けると大きな通りに出た。人の流れに乗って歩きながら、ひょいと雪割草の聖燭を手渡される。

「ほらよ」

「あ……ありがとう」

 聖燭を胸に抱きしめ、イヌワシを見上げる。わたしの視線に、若者はからからと笑った。

「やっぱり知りたがりだな、ちび猫は」

「……傭兵は守秘義務があるんでしょう?」

「その通り。でもまあ、答えられる範囲でなら情報は開示可能だ」

 わたしの傭兵、現状において唯一の頼みの綱である若者はいったい何者なのか。

 確かめるなら慎重に。わたしはくちびるを舐めた。

「レイシアの生まれというのは本当?」

「ああ。戦争で父親が死んで、母親ももういない。野垂れ死ぬしかなかった俺を助けてくれたのがあんたの兄さん夫婦だ」

 つまりイヌワシはレイシアの戦災孤児で、十一になるまで国王夫妻の庇護を受けて育ったということだ。

 養い子であるならば義姉がわたしの身を預けるのも頷ける。イヌワシが恩人に報いるためにわたしを守るのも。

「トゥスタを離れて傭兵団に入った事情は訊いてもいい?」

 ハ、とイヌワシは短く息を吐いた。

 淡青の双眸から感情が抜け落ちる。ぞくりとするほど冷めた横顔だった。

「俺が人を殺したから」

 氷のような、それでいて青白い炎のような眸だ。

 どこかで見たことがある気がした。凍えそうに燃える瞳を、その奥底に広がる暗がりを。

「だからトゥスタにいられなくなった。俺は死んで罪を償いたかったけど、あんたの兄さんは許してくれなかった。どんなに苦しくても生きろ、生きてくれと剣を渡された」

 腰に帯びた長剣の片割れの柄を握り、イヌワシはわたしを振り向いた。

「それから……カウロに預けられた。剣を鍛えて傭兵としての処世術を身につければ、ちょっとやそっとのことでくたばることはねぇ。死んだほうがましだっていう目に何度も遭ったけどな」

「どうして――」

「人を手にかけたかだって? いくら弁解したところで、結局は手前勝手な理由に過ぎねぇよ」

 イヌワシの声はやさしかったが、踏みこむことを明確に拒んでいた。

「俺が怖くなったか?」

 仄暗い瞳、そこに途方に暮れたわたしが映りこんでいる。

 ふと、出会ったばかりのころのかれを思いだした。

 このひともまた絶望や地獄と呼ばれるものを知っている。この世の何よりくらい淵辺を。

「あなたは、ぼくに怖がってほしいの?」

 イヌワシは瞬いた。

「それとも同情して慰めてもらいたい?」

「……直球だな」

「どう答えればいいかわからないから。でも、ぼくはあなたを信じたい」

 外套の裾をつまんで引っ張ると、イヌワシは困ったように眉尻を垂れ下げた。

「昔、先生が言っていたの。信じることは何にも勝る勇気であり愛情だって。迷いも恐怖も否定しなくていい、自分の弱さに負けず信じ続ける心が道を作るんだ。アレクにいさまも、あなたを信じて――あなたに信じてほしくて剣を託したんじゃないかな」

 罪の象徴である剣が、いつかイヌワシにとって別の意味を持つ日、心から生きたいと望む日が来ることを祈って。

 イヌワシは目を伏せた。瞼のふちから伸びた睫毛が黄金色に光っている。

「聖燭祭の由来を知ってるか?」

 唐突な質問に戸惑いながら首を横に振ると、イヌワシは片手で聖燭を弄びながら続けた。

「夜が長くなる冬至のころは、日が暮れてから吹雪くと簡単に道を見失う。雪嵐の中で動けなくなって凍え死ぬことも珍しくない。だからありったけの燭火を灯し続けて、吹雪の夜でも迷わないようにしたんだ」

 やがて、来る年も家族や大事なひとが無事に帰ってくるように、健やかであるように願い、祝祭のあいだ聖燭を灯す風習が生まれた。

「雪夜のともし火みたいなひとだな、俺のお姫さんは」

「え?」

 イヌワシはいたずらっぽくほほ笑んだ。

「あんたが帰りを待ってる男は幸せ者だ」

 からかわれているのだと気づいてむうと睨み上げると、イヌワシは大きく肩を揺すった。

「さて、そろそろ懐かしの城下へ向かおうとするか。ぐずぐずしてたら日が暮れて門が閉じちまうぞ」

 その言葉にハッとする。いよいよ二の郭まで戻ってきたのだと思うと胸が詰まった。

 イヌワシが手を伸ばした。だれかの命の奪ったというその手は、わたしにとってこそ導きのともし火だ。

 信じよう、不器用なわたしの傭兵を。

 わたしは希望をこめてイヌワシの手を握り返した。 

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