4.待ち合わせは屋根裏部屋で
〈1〉
歪んだ窓枠に切り取られた王都の景色は、淡灰色に滲んでいた。
晴れた日にはパンにたっぷりと塗った蜂蜜みたいな金色に光る城郭は、冷たい雨に濡れそぼって物悲しい。わたしは毛羽立ったショールで頭から肩口まで覆うと、泥が跳ねたブーツの爪先を腕の中に囲いこんだ。
二の郭にほど近い、三の郭の外縁部にへばりつくように広がる私娼窟は、非合法な娼館がひしめく影の町だ。
ここは王都でありながら城郭の内部ではなく、貧困と暴力と犯罪に支配された法の空白地帯だった。
三の郭の外縁部には昔から影の町が細長く広がり、陽の当たる路地の一歩むこうには薄暗い闇が凝っている。先々代の王のころに比べればずいぶん小さくなったそうだが、それでも光がある限り影を拭い去るなど不可能だ。
わたしがいるのは、とある娼館の屋根裏部屋だった。
埃と黴の臭いに充ちた室内にはほとんど陽が射さず、急な傾斜のついた天井は小柄のわたしですら腰を屈めなければならないほど低い。おまけにあちこち雨漏りしていて、部屋の隅で膝を抱えて縮こまるしかない。
もともと物置として使われていたらしく、室内には古びた調度や荷箱が無造作に放られている。物陰でカサカサとうごめく気配にぞっとして、わたしは息を殺して目を瞑った。
この屋根裏部屋に隠れてから――悪夢のような襲撃から、すでに三日が経っていた。
夜の森で意識を失い、再び目が覚めると屋根裏部屋の粗末な寝床の上だった。恐慌状態に陥ったわたしを根気強くなだめてくれたのは、娼婦たちの世話役をしている女性だ。
床に置いた食器を雨垂れが弾く不協和音だけが響く静寂に、傷んだ階段を軋ませる足音がまじる。薄目を開くと、狭い出入口の扉が控えめに叩かれた。
「お嬢さん、起きてるかい?」
「……はい」
干涸びた声を絞りだすと、くたびれたエプロンドレスの上に地味な色のショールを巻いた中年の女性が這いつくばるように入ってきた。
白髪まじりの亜麻色の髪を一本に編んで肩に垂らし、目元や首筋にはたるんだ皮膚が波打って皺を作っている。
それでもくっきりとした二重のはしばみ色の瞳にはハッと惹きつけられる華やかさがあり、右の口元にあるほくろがやわらかく持ち上がるとなんとも女らしくやさしげに映った。若いころはさぞ持てはやされた娼婦だったに違いない。
目が覚めてからの三日間、つきっきりで介抱してくれた女性――シリィさんは、形のいい眉をひっそりとしかめた。
わたしの足元に置かれた小さな籠の中の、すっかり固くなった黒パンと乾燥させた木の実がひと口ぶんも減っていないことに気づいたようだ。
「また食べてないのかい」
ため息まじりの言葉にうなだれるしかない。
だが、何かを口にしようという気力すら湧かないのだ。この三日ですっかり痩せ細り、骨が浮いた手首は青白く幽霊じみている。
「ごめんなさい……」
ぼそぼそと謝罪すると、「責めてるわけじゃあないんだよ」と頭を撫でられた。
「血まみれで気を失うような目に遭ったんだ。そりゃあ食いモンが喉を通らなくなるのは当たり前さ。ただ、ね。精をつけなきゃ、せっかく拾った命も危うくなっちまうよ」
色町の女らしく蓮っ葉な口調だが、少し掠れた声は日干しした布団のようにやわらかい。節くれ立った指から漂う石鹸の匂いに、鼻の奥がツンとした。
無性に母が恋しくなった。
幼いころは素直に甘えることができなくて、洗いざらしのエプロンドレスの膝のまろみも朧げだが――彼女と同じ、清潔なやさしい香りは憶えている。
……母は、どうしているだろうか。
ともに療養所へ移った父は。もしもふたりもあの夜のようなおそろしい思いを味わっていたらと考えると、震えが止まらなくなる。
大切なものを守るということは、なぜこんなにも苦しく難しいのだろう。
「あんたに何かあったら、あたしがイヌワシの坊やに殺されちまうよ」
苦笑するシリィさんが口にしたのは、この三日間で何度も聞いた名前だった。
イヌワシ――夜の森で倒れていたわたしを発見し、保護してくれた恩人。シリィさんは恩人の古なじみで、頼まれてわたしの面倒を見てくれていたそうだ。
シリィさんからの情報によると、イヌワシは坊やと揶揄されるほど年若く、めっぽう腕の立つ傭兵だという。つい最近まで国外の戦地を転々としていたそうだが、訳あってトゥスタに戻ってきたらしい。
まだ見ぬ恩人は、なぜかシリィさんの中でわたしの好いひとになっていた。どうやら、わたしを運びこんできたときの剣幕が原因のようだが――おかげで甲斐甲斐しく世話をしてもらえているのだと思うと、誤解の訂正を躊躇してしまった。
シリィさんにわたしを託したイヌワシは、三日後に戻ると言い残してどこかへ行ってしまった。言葉どおりであれば、今日、この娼館に現れる。
――目的は何?
たまたま通りかかった傭兵が助けてくれたなんて、あまりにも出来過ぎだ。
推測できるのは、襲撃者の仲間である可能性。だとすれば、シリィさんもウァイオレッテの一味ということになる――恩人のふりをして、再びわたしを捕らえようとしているのかもしれない。だからこの三日間、なるべく出された食事に手をつけないようにしてきた。
だが、いまさらわたしを騙して意味があるのだろうか?
シリィさんがウァイオレッテの一味だとすれば、さっさと正体を明かして、わたしを連れて王都から離れるべきだ。おそらくは、エーヴェヌルト侯爵家からの追っ手が王都じゅうに放たれているはずなのだから。
三日間、屋根裏部屋から階下の様子を探った限りでは、ここは真っ当な娼館として機能しているようだ。大勢の、どこのだれとも知れない人間が出入りする娼館に留まるより、早急に王都からわたしを連れ去って安全地帯で体勢を立て直すほうがいいに決まっている。
それとも、時機を狙っているのだろうか。
……シリィさんのはしばみ色のまなざしの、あまりの曇りのなさを信じきれない現実に、わたしは顔を伏せた。
「今日じゅうにはイヌワシが戻ってくるはずだから。それまでには、ひと口でもいいから食べて、元気な顔を見せてあげておくれよ」
労りに満ちた声に、わたしは小さく頷いた。籠の中身へ手を伸ばすつもりは、なかった。
シリィさんが階下へ戻り、窓の外に夕闇が降りてくると、小さな子どもがやたらめったらに作った積み木の家めいた建物がごちゃごちゃと並ぶ路地に灯りが浮かぶ。
床板の隙間からは光を透かして、娼婦たちの甘ったるい笑い声、甲高いおしゃべりが聞こえてくる。脂粉と香油の匂いが煙のように漂ってくる錯覚を抱き、わたしはショールで口元を覆った。
娼館の夜は長く、まともに眠れないほど騒々しい。娼婦たちは競い合って客を呼びこみ、浴びるように酒を飲ませ、寝台だけが置かれた部屋へ引きずりこむ。生々しい情交の一部始終は屋根裏部屋まで届かないので、わたしは頭痛に悩まされるぐらいで済んでいる。
……孤児院には、捨て子や娼婦の私生児という境遇のきょうだいも多かった。それでも、実の両親の庇護の下で生まれ育ったわたしはどれほど恵まれ、世の中の悲しみを知らずにいられたのか――痛感した。
「にいさん……」
遠く分かたれてしまった、わたしの幸福の金貨。
懐かしい冬の曇り空の色の瞳に、馬車から落ちていくウァイオレッテの顔が重なる。
わたしは堪えきれず嗚咽を洩らし、湿気にたわんだ床板の上に突っ伏した。
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