〈2〉
ガタンッ! と馬車が跳ねた。
「えっ」
揺れが大きくなり、一気に速度が上がったことを体感する。
「な、何が」
「お静かに。しっかり掴まっていてください」
侍女は厳しい口調で言うと、懐から短剣を取りだした。
揺れは激しさを増し、わたしは悲鳴を呑みこんで先代侯爵を抱きかかえた。怒鳴り声、悲鳴、金属を打ち合わせる音――
ダン! と外側から馬車の扉が叩かれた。ダンッダンッと何度も殴りつけ、まるで無理やりこじ開けようとしているかのように。
「お嬢様、大旦那様と後ろにお下がりください。おそらく敵襲にございます」
「敵襲!?」
いったいどういう意味だと問いただす前に扉が弾け飛んだ。どっと風が闇とともに吹きこんでくる。
闇は人の形をしていた。
「おのれ――」
侍女が声を上げて短剣を抜いた。それよりも早く銀の光が矢のごとく
頬に、熱い飛沫が散る。
鈍い音がして、気づくと侍女の背中から血まみれの剣が生えていた。
「ぐ……ぁ……」
侍女がくぐもった声を洩らす。
びくびくと痙攣したかと思うと、糸が切れた操り人形のように脱力した。
侍女の体がクッションの上に崩れ落ちた。白絹がどす黒い赤に染まる。
鉄錆の臭いが鼻腔を突き抜け、眩暈がした。
わたしは呆然と侍女を刺殺した人物を見た。
「ウァイオレッテ……」
喪服のような黒いドレス、ほどけて乱れた蜂蜜色の髪。
鬼火のように燃える青灰色の瞳がわたしを捉え、冷たくほほ笑んだ。
「お迎えに上がりましたよ、姫君」
「む、迎えにって」
「応援を呼ぶのに手間取ってしまい、遅くなりました。さあ参りましょう」
差しのべられた手はぬらぬらとした赤に汚れていた。嘔気がこみ上げ、わたしは片手で口元を覆った。
吹きこむ風に黒いドレスと金髪を膨らませたウァイオレッテが迫ってくる。その手が届く寸前、先代侯爵がウァイオレッテの腕に飛びついた。
「ご隠居さま!?」
「ッ、この!」
ウァイオレッテが長剣の柄頭で先代侯爵を殴打する。しかしどこにそんな力が残っていたのか、先代侯爵はけしてウァイオレッテの腕を放そうとしない。
「放せ、死にぞこないの老いぼれめ!」
「う、ぐぅ……」
いやな音がして、たちまち老人の顔が血まみれになった。
「やめて!」
制止しようと手を伸ばしかけたとき、先代侯爵がカッと両目を見開いた。
生者の領域を踏み越えた形相の凄まじさに、さすがのウァイオレッテも凍りついた。
文字どおり血反吐を撒き散らし、破鐘のような声が唸りを上げる。
「然様、私は死にぞこないだ。……だからこそ、今度こそ、彼女を失うものか」
ずぷりと、刃が肉の奥深くへ潜りこむ音。
ウァイオレッテの表情が歪んだ。ふらりとよろめいたその脇腹に、死んだ侍女の短剣が突き刺さっている。
「……っ、貴様ァ!」
先代侯爵は奇妙な笑みを浮かべた。慈しむようにも嘲笑うようにも映る、いびつな笑顔を。
「おまえは私の
「何を――」
そのとき、馬車が大きく揺れた。
先代侯爵とウァイオレッテが折り重なるように体勢を崩す。闇色の裳裾が黒い薔薇のように広がった。
「……!」
ウァイオレッテがこちらへ手を伸ばす――次の瞬間、ふたりは馬車の外へ消えた。
馬の嘶き、複数の叫び声が遠ざかる。わたしはその場にへたりこみ、開いたままの扉を成すすべ見つめた。
ごうごうと吹きこむ風が頬を叩く。
馬車は速度を上げたまま走り続けている。――御者は無事なのか?
ひゅ、と喉が鳴った。御者台側の小窓に飛びつき、覆いを跳ね上げる。
小窓のむこうに座った人影がぐらぐらと揺れている。全力で小窓を叩くと、御者らしき中年の男性がこちらを振り向いた。
わずかな灯りに浮かぶ顔は蒼白だった。口元から血を流しながら、必死に何かを叫んでいる。
――できるだけ遠くへお連れします。
――どうかお逃げください。
「そんな……!」
ぞっとした。
御者は死ぬ気なのだ。何度も小窓を叩いたが、前を向いた御者は二度とこちらを見なかった。
「お願い、やめて! もうやめて!」
恐怖と混乱が悲鳴と涙になって溢れ出る。激しい揺れに吹き飛ばされ、血溜まりの床に倒れこんだ。
猛烈な吐き気がこみ上げ、わたしは嘔吐した。
胃が空っぽになるまで吐き続け、馬車が速度を落としはじめたころには意識が朦朧としていた。ガタンッ! と突き上げるような揺れのあと、馬車はようやく停止した。
「……っ、けほ」
馬車の外に這いだすと、あたりは暗闇だった。
樹々のざわめきが聞こえる。居住区から離れたところにある森林区域かもしれない。
だとすると、まだ五の郭の内側だろうか?
御者台を確かめ、わたしは歯を食いしばった。
足元からすべてが崩れ落ちていくような気がした。悪い夢を見ているのだと思いたくても、体じゅうにこびりついた死の臭いがそれを許してくれない。
嗚咽が喉を突く。血が滲むほどくちびるを噛みしめ、両足を引きずって闇の奥を目指した。
進まなければ。
「……逃げなくちゃ」
生きて、戻るのだ。家族の許へ。いつかかれが帰ってくる、わたしたちの家へ。
足が重い。まるで泥濘を歩いているかのようだ。
視界が、意識が、急速に閉じていく。
闇が迫る――
だれかが、わたしの名前を叫んだ。
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