3.人形たちは夜に惑う

〈1〉

 トゥスタの王都は、別名を〈蜂の巣〉という。

 五つの城郭と無数の路地が張りめぐらされた煉瓦造りの都市を物見の塔から望むと、まるで断ち割られた蜜蜂の巣のごとき街並が広がっている。

 琥珀色の王城が聳える一の郭は、許可を得た者でなければ立ち入ることのできない『城内』だ。単に城下といえば旧市街の二の郭を指し、わたしが生まれ育った孤児院はここにある。

 最も大きな三の郭は庶民の町であると同時に、たくさんの商家や職人の工房が軒を連ねる活気に溢れた街区だ。

 城壁をひとつ越えた四の郭は、一転して貴族の邸宅や官舎が立ち並んでいる。いちばん外側に位置する五の郭は王領の農用地や貴族の荘園などで占められ、どこまで行ってものどかな田園の景色が続いている。

 エーヴェヌルト侯爵家の別邸は五の郭にあり、わたしと先代侯爵の身柄はその日の夕刻には四の郭にある本邸へ移されることになった。

 何やら慌ただしく走り回る使用人を尻目に、わたしは着の身着のまま黒塗りの馬車へ押しこめられた。

 とはいっても、もともと持ち物といえば銀細工のペンしかない。

 衣装部屋の中でいちばん地味なドレスに着替え、髪は邪魔にならないよう低い位置でひとつに結わえた。足が痛くて仕方がなかった踵の高い靴ではなく、背格好の近い侍女に頼んで踵の低いブーツを譲ってもらった。

 従僕に急かされて馬車へ乗りこむと、毛布に包まれた先代侯爵がクッションの山に沈んでいるではないか。

 付き添いらしい年配の侍女が隙のない所作で一礼してみせた。

「ご隠居さまと同じ馬車なんですか?」

「旦那様からは、なるべく人目を避けて大旦那様とお嬢様を本邸へお連れするよう申しつけられております。警護の都合上、馬車は一台とさせていただきました。ご不便をおかけいたしますが、どうぞご理解ください」

 申し訳なさそうに答えた従僕は、馬車の階を上がるあいだ、ずっとランタンを掲げて足元を照らしていてくれた。

 すでに日没は過ぎ、別邸の前庭には夕闇が紗幕となって下りていた。

 なるほど、確かに夜陰に紛れて移動するには黒塗りの馬車は持ってこいだ。わたしと先代侯爵が一台の馬車に乗り合わせたほうが警護もしやすい。

 わたしは従僕へ頷き、先代侯爵の向かいの座席に座った。

「セイラ……」

 不意に身を乗りだした先代侯爵が手を伸ばしてきた。いまにも倒れそうな老体をすばやく侍女が体を支える。

「大旦那様――」

 侍女となんとか落ち着かせようと声をかけるが、先代侯爵は「セイラ」とくり返すばかりで座ろうとしない。

「あの、よければご隠居さまの隣に座りましょうか?」

「しかし……」

「わたしがそばにいれば落ち着かれると思います。馬車に乗っているあいだだけでも、そうしたほうがいいのではないかと……」

 侍女と従僕は顔を見合わせ、それぞれ「ありがとうございます」と頭を下げた。

 案の定、侍女とわたしが席を入れ替わると先代侯爵はおとなしくなった。

「セイラ、セイラ」

 先代侯爵は震える手でわたしの手を握りしめた。縋るような力に、思わず胸が締めつけられる。

 おそらく『セイラ』とは、わたしが似ているらしいロナキア公妃のことなのだろう。国母セヴィエラといえば、いまなお民衆から崇拝を受ける伝説的な女傑だ。

 先々代の王妹でありながら、近隣諸国から〈トゥスタの牝狐〉と畏怖されるほどの能吏だった。二代に渡って王妃なき王家を支え、亡き隣国レイシアとの冷戦時には人質として敵地に赴き、十年ものあいだトゥスタを侵攻から守り抜いた。

 今上の王妃となった姫君は、罪人の子とされた身上を憐れんだロナキア公妃が母親代わりとなって養育したと伝わっている。

 帰還後はの王子を立派な君主へと育て上げ、その戴冠を見届けて世を去った。彼女の死に国じゅうが嘆き悲しみ、葬儀の日には王都の家という家が弔旗を掲げ、〈蜂の巣〉は黒一色に染まったそうだ。

 子どものころから歌や芝居で凄まじい活躍ぶりを教えこまれた偉人に似ているなんて、畏れ多くて眩暈がしそうだ。

 庶民の、特に女性のあいだで、ロナキア公妃は熱狂的な人気を誇っている。何を隠そう、わたしの母や影響を受けた姉たちがだ。

 更には先生も熱烈な支持者らしく、ロナキア公妃の横顔が刻印された記念の銅貨を手に入れる苦労話を嬉々として手紙に書き綴っていた。

 かつてロナキア公妃は先代侯爵の兄に降嫁した。義理の姉弟だったならば、愛称で呼ぶほど親しかったとしてもおかしくはない。

 でも――本当にそれだけ?

「それでは出発いたします」

 われに返ると、従僕が馬車の扉を閉めようしていた。慌てて「待ってください!」と引き留める。

「いかがされました?」

「あの、閉じこめられていた部屋の書き物机の上に家族へ宛てた手紙があるんです。ウァイオレッテに命令されて書いた嘘の内容だから、処分して……」

 そこで思いだした。先生への手紙は嘘ではない。

 ――常に『最善』を尽くしなさい。

 ――たとえ手駒が少なくても、冷静に状況を分析して、使えるものを効率よく利用しなさい。

 短気なわたしを諭す先生の言葉がよみがえる。何を信じればわからない状況下で、生き延びるためにはどうすればいい?

 わたしは従僕の顔を見つめ、動揺を気取られないように続けた。

「……王城で従騎士として働いている、カロン=ベテルという男性に渡してもらえませんか。同じ孤児院で育った義兄なんです。きっと、わたしがいなくなったって知らせを受けて、探し回っているはずです。いつ帰れるかわからないから……いまは嘘でもいいから、家族を安心させたいので……」

 いかにもつらいとばかりに目を伏せると、従僕は深く頷いた。「必ずお渡しいたします」

「よろしくお願いします」

 今度こそ扉が閉まり、馬車が動きだした。

 おそろしく座り心地のいい座席でも振動は伝わってくる。先代侯爵は小さく呻き、ぐったりとクッションに凭れかかった。

「ご隠居さま、大丈夫ですか?」

「ああ……」

 先代侯爵はぼうやりと瞬き、わたしの顔を見つめた。

「これから、どこへ行くんだい」

「侯爵家の本邸に向かっているそうですよ。侯爵さまがお迎えにこられたでしょう?」

「侯爵……? 兄上が?」

 わたしを『セイラ』と認識している先代侯爵は、爵位を世襲する以前の過去をさまよっているらしい。折れそうな首をカクカクと横に振っている。

「だめだ、セイラ……行ってはいけない」

「ご隠居さま?」

「兄上、兄上……ああ、なぜ、セイラにあのような仕打ちを」

 先代侯爵は両手で顔を覆い、声を詰まらせてすすり泣いた。

 折れ曲がった背中をさすりながら、なんとか宥めようとして――

 馬車の外で叫び声が上がった。

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