〈2〉
寒さとひもじさに震えながら、いつの間にかまどろんでいた。
「――」
だれか、わたしの名前をささやいた。
抱き起こされて、頬をなぞられる。ごつごつとした、長く骨張った指を持つ手。父によく似た、胼胝のある硬いてのひら。
そっと顎を上向けられる。頬に、かすかな呼気が触れて――
「……ッ、……!?」
口を塞がれ、勢いよく液体を流しこまれた。カッと喉が焼けるような熱にわれに返る。
目の前に男の顔があった。
「ふっ……んぅ!?」
口づけられているのだと気づいたときには、くちびるを割って舌がぬるりと忍びこんできた。並んだ歯の裏側を撫で回され、言い様のない痺れが背骨を這い上がる。
わたしは全力で利き手を振り抜いた。
バチンッ! と凄まじい音がして、「いってェ!」と若い男の悲鳴が上がる。
ようやく解放された口元を押さえながら、わたしは自分を抱きかかえている相手を凝視した。
儚く揺らめく、カンテラの火あかり。
冬の、透きとおるように澄み渡った空の色が、不機嫌そうに睨んでくる。
「ったく、跳ねっ返りめ……」
見事に赤くなった頬を撫でさすっているのは、少年と青年の狭間にいる若者だった。わたしよりひとつふたつ年長といったところか。
頭の形に沿って整えた短髪は淡い金褐色で、風に揺れる麦の穂を思わせる。鼻筋の通った目鼻立ちは貴族の
首筋から肩にかけての輪郭はがっしりとしていて、骨格は立派な男性のものだ。筋肉でよろわれた手足の長さといったら、相当な上背の持ち主だと知れる。
若者は床の上にあぐらを掻き、膝の上でわたしを横抱きにしている姿勢だった。目を白黒させていると、ぐいと酒瓶を仰いだ若者にもういちど顎を掴まれた。
「ちょっ……!」
容赦なく口移しで液体を飲まされる。
眩暈がするような酒精の香り。おそろしく度数の高い火酒だ。
むせこみながら嚥下すると、ようやく若者の顔が離れた。おまけとばかりに濡れた口元を舐められ、呆然としていると「ごちそうさん」と笑われた。
「おっと」
先ほどとは反対の手を振り上げると、軽々と手首を捕らえられた。
「短気な女は嫌われるぞ、お
「あっ、あなた、何するのよ!?」
「気つけ薬を飲ませただけだよ。毒は入ってないってわかっただろ?」
いけしゃあしゃあとのたまう若者は、ちらりと手つかずの籠の中身を一瞥した。
「用心深いのはいいが、シリィ姐さんにあんまり心配かけるなよ」
「……あなたがイヌワシ?」
わたしの問いに、若者――イヌワシは肩を竦めてみせた。「知り合いにはそう呼ばれてるな、確かに」
ざわりと首筋の産毛が逆立った。
途端に暴れだしたわたしを、イヌワシは舌打ちをしただけで容易に押さえこんだ。
「放して!」逞しい腕に爪を立て、わたしは叫んだ。
「おい、落ち着けって」
「いますぐ放してちょうだい! あなたはだれ? ウァイオレッテの仲間なの? 何が目的なの!」
「……ああ、ったく、みゃあみゃあとやかましいちび猫が!」
すぐ近くで怒鳴られ、喉が凍りつく。わたしの表情に顔をしかめたイヌワシは、静かな声で「おとなしく、俺の話を聞け」と言った。
「いいか、お姫さん。俺はあんたの敵じゃない」
「……うそよ」
「本当だよ。俺は傭兵で、あんたの救出と護衛を依頼された」
幼子に言い聞かせるような口調で、イヌワシは語った。倒れていたわたしを助けたのも偶然ではなく、襲撃に遭った侯爵家の馬車を追いかけてきたらしい。
「依頼主は……エーヴェヌルト侯爵?」
「いいや」
イヌワシは、わたしの手に一枚の丸まった羊皮紙を握らせた。
淡青の瞳に促されて羊皮紙を開くと、流麗な先生の筆跡が現れた。
そこには端的な文章で、傭兵『イヌワシ』に『トゥスタのローゼリカ』の救出及び護衛を依頼するということ、引き替えに言い値どおりの報酬を約束するということが、この国の王妃の名において明記されていた。
トゥスタのユリエル――記名の横に押された、百合の花をくわえた梟の印章は、王の傍らでかんむりを戴くかの
「ユーリ先生……?」
どういうことだ。――どういうことだ?
先生の名はユーリ=ベテルのはずだ。夫である兄はアレク=ベテル。ふたりのあいだには男の子と女の子がひとりずつ――
そう、国王陛下と王妃陛下のお子さまたちと同い年で……同じ双子のきょうだいなのだ。
兄を、父を、亡き祖父をよく知っていると言っていたエーヴェヌルト侯爵。
先々代の王妹に似ているわたし。同じ雪割草色の瞳。
――わたしが最初からトゥスタのローゼリカだったとしたら。
「じゃあ、父さんと母さんは……先代の……」
イヌワシの指がやんわりとわたしの口を押さえた。ぽかんとするわたしへ、ひとつ首を横に振ってみせる。
「真実を解き明かすべきは、いまか?」
明度の高い色彩でありながら、氷のように冷ややかな視線が首筋をなぞる。
「思考を停滞させるな。あんたがいま、ここで成すべきことを見誤るな」
わたしは息を吸いこんだ。
「……あなたはわたしの味方?」
「そのつもりだよ、仔猫姫。あんたの先生から、教え子を無事に王城まで送り届けてほしいってご依頼だ。あんたの親父さんとお袋さんは、先生がなんとかするってさ」
「だから、生き延びることに専念しろってことね」
イヌワシはにやりと笑った。
「そういうこった」
わたしは、目の前の『傭兵』を見つめた。
王妃がイヌワシと取り交わした契約書には、わたしが先生への手紙に忍ばせた暗号文と同じものが隠されていた。従騎士の兄に託した手紙を受け取ったであろう先生からの、短くも強烈な激励。
――あなたの傭兵は、けしてあなたを裏切らない。
――あなたが『あなた』を信じる限り。
「あなたはわたしの傭兵なのね」
イヌワシは、ふ、とかすかに笑んだ。
「騎士様みたいに誓ってやろうか?」
「結構よ、気障な傭兵さん。傭兵は傭兵らしく、仕事の出来で示してちょうだい」
「……ハッ、まったく高飛車なお姫さんだな」
わたしはむうと眉をひそめた。イヌワシがたびたび口にする呼び名は、なんとかならないものか。
「ねえ、その『お姫さん』ってやめてくれないかしら。莫迦にされている気分だわ」
「ちびのくせに気位だけはいっちょ前に高いんだから、ちょうどいいだろ」
「なんですって!?」
「ほぉら、仔猫姫がよく鳴いてるぜ。みゃあみゃあみゃあみゃあ、元気なこった」
イヌワシは楽しそうに笑うと、くしゃくしゃとわたしの頭を撫で回した。意外にも子どもっぽい、少年らしい笑顔がぐっと胸が迫る。
――どうしてか、胸騒ぎのような既視感が沸き上がった。
こんな風に朗らかに笑う顔を、知っているような気がしたのだ。
「ねえ……わたしたち、前にも会ったことがある?」
イヌワシは両目を細め、いっそう口角を押し上げた。
幼い妹の質問に答える兄のような、やさしい声とまなざしを返しながら。
「さあな」
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