パァン! と渇いた音がひとり暮らしの部屋に響く。さっきまで映画館で繋いでいた右手を思いきり振るって、私は彼の頬をひっぱたいた。

 衝撃で、彼は私から視線を外す形になり、そのまま止まる。

 私の手のひらは震えているし、彼の顔は戻ってこない。

「奥さんとは別れるって言ったよね」

「ごめん。もうしばらく待って欲しいんだ」

 正面に向き直った彼は、でも視線は合わせず、うつむき気味のまま続ける。

「本当に、夫婦としては終わってるんだ。でもやっぱり、子どものことを考えると」

「付き合う時、私に子どもたちのお母さんになって欲しいって言ったよね。そのつもりで、こっちも関係を続けていたのよ。私じゃ、だめなの?」

 彼の言葉が終わるのも待てず、言葉の途中から被せるように気持ちをぶつける。

「だめじゃないよ、ただ……」

「ただ、何?」

「嫁と喧嘩してるのを子どもに聞かれてね。『お父さんとお母さん、別れたりしないよね』って泣かれてしまって」

 そんなの知らない。泣かせる覚悟はしていたはずだし、今泣きたいのはこっちだ。

 思わず責めるような口調で、彼に言って欲しかった言葉を投げつける。

「当然そのあと聞いたのよね? ごめんな。お父さんとお母さんは別れるんだ。どっちと一緒に居たい? って」

 そんなことを彼が言うはずないのは知っているから、嫌な言い方でしかない。彼は顔を上げ、目を大きく開き、責めるように私を見た。

「そんなこと……言えるわけないだろ!」

 急にスイッチが入ったように、口を縦に大きく開け、声も大きくなる。なぜだろう、鳥のヒナが餌を欲しがっている顔に似ている。

「『そんなこと』をする約束を私にしたのはあなたでしょ」

「だからもう少し待ってって言ってるじゃないか! それを……君がそんな意地悪な人だなんて、知らなかったよ」

「こっちが何年待ってると思ってるのよ」

 彼はひとつ、大きくため息をついた。さっきまでの威勢の良いヒナ鳥の面影は消えている。

「もういい。もう終わりにしよう。もう、待たなくていいよ」

「そうね。もう待たないわ。せいぜい、これからは奥さんを大事にしてあげるのね」

 そのまま、彼は出ていった。私は自分のお腹にやさしく右手を添えて呟く。

「今日は、あなたのことを話すつもりだったのにね。ごめんね」

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