第77話 Day 2
ローザンヌ国際バレエコンクール day2
女子49名全員が舞台でバーレッスン。流衣は舞台中央の一番奥の位置についた。
その位置に着いたのは、一番奥からどのくらい見えるのか、流衣は傾斜の確認をしたかったのだ。
——嘘でしょ〜!
先頭の人、背が高くて170センチはあるのに、その人よりあたしの方が目線高いよ?
舞台の前から一番奥での高低差が50センチあるって聞いたけど、それよりも近くて短いこの距離でこれだけの差、
なるほど、こういうことか。
……小学校の体育館の斜め床より全然マシだ、あっちはここまで傾斜なかったし、緑色の床って全然滑らないうえに歪んでるから、レッスンはそんなに出来なかったんだよね、イタリアン・フェッテの後ピケで移動しようと一歩踏み出したら、マイケル・ジャクソンみたいになって、臣くんが引っ張ってくれなかったらモロに倒れちゃって、危うくお笑いバレエになるとこだった。
地震による地盤沈下によって出来た床は、体育館中央部分に向かってすり鉢状に歪みが生じており、劇場の一定した作られた傾斜とは違い、傾斜の角度が場所によって違っているだけじゃなく凹凸まであった。
そこで流衣は、小さなジャンプや一歩踏み出し爪先で立つ練習を繰り返していた。
「It's noisy here, so be careful」
「……タイム」
倒れるのを阻止してくれた一臣が、流衣の腕を掴みながら話した英語が意味不明で『ありがとう』の前に思わずタイムをかけた。
「今……〈騒がしいから気をつけて〉って言った?」
「うん」
小学校の自由解放の日で子供達が数十人遊んでいた、バトミントンをしたり、鬼ごっこをしてるように走り回ってる子もいる、町内会の役員らしき3・4人の婦人が日舞の練習をしていたり、学校のジャージにトウシューズを履いてる高校生がいても誰も気にも留めないほど多種多様、そして体育館の広さに対してぶつかって危ないというほどの人数ではない。
「子供にぶつからないように気を付けてるけど……」
流衣は注意された意味が分からず、一応は自分が気をつけてる事を口にした。
「ぶつかる心配じゃなくて、子供達のはしゃぎ声は一定して無いから、バランスを取る妨げになるかと思って」
「へ? バランス?」
何のことか分からず流衣は目を丸くした。
「人間は耳から入る音でバランスを取ってるからね、雑音が入ると崩れるんだよ」
「え、そうなの?」
バレエでは回転技が多く、目が回らないように顔の動きを規制する、視界がバランスの鍵のように感じていた流衣は、耳が平衡感覚を支配してるとは思ってもみなかった。
「武道は〈五感〉を研ぎ澄ませと言う、動きの原理でもあるね。普通の運動にそこまで必要ではないけど、視覚と触覚と聴覚の〈三感〉は必要で、中でも聴覚一番が役割が大きいんだ。音の反響を使って無意識に位置確認してるからね」
流衣は一臣の説明を聞いて考えた。すると背後でぶつかる音がした時に、何が何処に当たったのか自然に想像している事に気が付いた。
「そういえば、明るい場所から暗い部屋に入る時にも、思わず耳を澄ませてるかも……」
視界が役に立たない時、音を頼りにするのは人としての本能である。
「目は騙されるからね」
流衣の腕から離した手で一臣が指した場所は、流衣が倒れそうになった所。バスケコート用ラインに隠れてそこからある段差が見えなかった。
「そこから下がってたんだ」
目の錯覚にしっかりと騙された事が判明して、流衣はガッカリした。
「ここの歪んだ段差はこの場所特定の物で舞台では心配いらない、床の傾斜もやり方さえ覚えてれば、角度に合わせて身体が動く、体を行使して行動するなら、耳から情報を入れる事に特化すると迷わずに動けるようになるよ、目は予後確認のためについてると思った方がいい」
「耳から情報を入れて目で確認……」
一臣は一息で言い切ったが、流衣は言葉の羅列に一瞬では理解できず戸惑うと、少し前の記憶がふと蘇った。
『単車のハンドルは腕の力で切れねえからさ、進行方向に身体倒して曲るんだわ、それで方向変えんの、最初のうちは結構な度胸勝負な』
『真っ直ぐ走るのはどうする?』
『は? まさかお前、エンジン掛けるとこから知らねーの⁈』
『いいから教えて』
——あれ?
ハクと臣くんの会話思い出した。
なんでだろう……?
それと、なんだっけ……。
『……とあとは体で覚えろ、慣れだな慣れ!』
ふたりの話の前後関係が分からないまま、流衣はハクの言葉が耳に残った
——進行方向に体を倒して曲がる。
『体で覚えろ』……『慣れ』……?
「……それってつまり『習うより慣れろ』って事?」
「そうだね」
「でも『百聞は一見にしかず』って言うよね?」
「それもあり」
「真逆だけど……どっち?」
「それは臨機応変に」
「なんかズルい……」
一臣の曖昧な返答に流衣はムッとして顔を逸らし、そのせいで一臣が笑うのを堪えた瞬間を見逃した。
「前から気になってた事があるんだけど」
一臣の指摘に、機嫌を損ねたはずの流衣の心は動悸に変わる。
「え? 出た! 今度はなに⁈」
それは鬼コーチへの切り替わりを意味する。
「……言葉の意味が違うんだ」
「へ? 言葉ってあたしの日本語が? 英語はいい加減だけど……」
英語が通じない時は、一臣のアドバイスが飛んで来るだろうと、流衣は思いつく限りで喋ってる。
「フランス語」
「ふりゃ、ん⁈ 」
一臣の投げた変化球に驚く。
「臣くんフランス語も喋れるの⁈」
「フランス語もスペイン語もラテン語から派生した言葉だから似てる所があるんだよ」
「あたしフランス語なんて喋ってないよ……あ、バレエ用語? でも……」
確かにバレエ用語はフランス語だけど、レッスン以外に使った覚えがなく首を捻った。
「さっき倒れそうになる前に回転したあと、デベロッぺって言ったよね」
イタリアン・フェッテを試みた後、ピケで一歩踏み出そうとして倒れそうになったのだ。
「……あたしまた『お独り言様』になってた?」
常日頃から飛び交うバレエ用語に気付かない流衣と、それに慣れた一臣。
「デベロッぺって『発展させる』って意味だけど、止まってたよね?」
「え〜と、……パッセからアチチュードを通って脚を伸ばす事だけど、確かにその後キープする所までデベロッぺって言ってる」
「ピケと言いながら、一歩踏み出した時倒れそうになったけど、本当にピケで立ったらバランスは崩れない」
「え⁈ ……それどう言う意味?」
何を言おうとしてるのかわからず、流衣は一臣に詰め寄った。
「ピケは『突き刺す』って意味だから、本当に突き刺してたら倒れない」
「!」
それは流衣に衝撃をあたえた。
「それは揶揄だけど、そのくらい強く踏み込めば、このくらいの段差なら立てると思う。それから歩く時も『床』『地面』って言いながら上に重心置いてるから、違和感があるんだけど」
「うそ……」
違和感と言われて流衣はドキッとした。
——重心が上……?
上体を引き上げてたつもりだけど、臣くんがバレエ知らないからそう見えた?
そうじゃない、それと重心が上では意味が違う!
バレエの重心は踵からの向きなのに、……あたし、傾斜を意識しぎて上半身で身体を持ち上げてたの?
「流衣が言ってたテールって、フランス語だと『地面』だから、英語に直すと〈a terre〉は〈on the ground〉バレエ用語だと用途が違うかも知れないけど」
〈on the ground〉「地面の上で」英語で言われると言葉は現実味を帯びた。流衣は一臣の疑問に答えを探し、バレエを習い始めの小さい頃を思い出した。
「足裏を床に付けるって習ったから、違うわけじゃないと思うけど……」
最初に習った言葉のまま覚えているため、言葉の意味を掘り下げて考えたことなどない。
「なるほど。それなら元々は足に力を入れて踏ん張るって意味じゃないかな、フランス語で『テール』は地球って意味もあるから」
「ちきゅう⁈ ええっそれって、地面と地球じゃ意味違くない⁈」
流衣の常識を軽く超えていく、言語の世界。
「英語もそうだし、ヨーロッパの言語は前後の接続詞で意味が変わるから、単語には幅広い情報が隠れてるんだよ、でも翻訳が間違ってる訳じゃない、日本語は漢字で意味わけして限定されてしまうからね」
「……英語の〈yes〉と〈no〉が返事じゃないって聞いてあたしが驚いたのと似てる?」
英会話に慣れてきた頃に一臣に名前を呼ばれて〈yes〉と言ったら否定され〈yes〉は日本語の〈結構です〉に当たり微妙な反対の意味を持つ、名前を呼ばれたら〈it's me〉「私です」と答えるのが正しいと言われたのだ。
学校で習うものと実用的に使うものは違う。
「それは最初に訳した人の罪だね」
罪作りな人が誰か分からず興味もない流衣は、ただ『地球』の二文字の重さだけが頭に腰を下ろした。
——あそこの床に比べたらここの床は平で優しい……。
ボーリュー劇場の舞台で動いてみて、改めて流衣は思った。
——臣くんの言った事少しづつ考えて、耳でバランスってどうなんだろうって、それまではあたし音楽を聴くことしか考えなかったけど、意識して踊ってたら、回転してる時に耳でズレを直してるの分かって、ビックリしたし……。
ピケの意味の『突き刺す』は足の形の事だと思ってた、でも本当は『地面に突き刺すように立つ』なんだ。昨日のレッスンでリュリ先生にも〈床を押して〉と注意されたのって、そういう事だ。
……『踏ん張る』……地球に脚をつけて踊るの意味があるなら、そのスケールで行くなら、バレエって、もっともっと地面に近い踊りなんだ……。
バレエ発祥のフランス語で、元の言葉で考えながら踊るのすごい大事。
……臣くんがハッキリと口にする事って、色々な経験を自分で学んだからだよね。自分は天才じゃないっていうけど、そこの謙遜さ意味わからないし……スペイン語喋れるからフランス語もわかるってもっと意味わかんないんだけど!
自分の経験を分析して行動出来る頭の良い人が “天才” って呼ばれるんだと思うし、あたしなんか日本語すらゆっくり考えないと理解出来ないし……。
臣くんが一番自分の事分かってないじゃ無い、ムカつくなぁもう!
臣くんのバカ〜!
あ……ごめんなさい。
……あれ?
なんかモヤモヤ取れた気がする。
初めての海外、初めてのコンクールに流衣は、自分が思うより緊張が激しく、一臣との会話を思い出してコッソリ八つ当たりすることで、2日目にしてようやく落ち着いたのだ。
バーレッスンが終わりセンター、昨日のレッスンと変わりないメニューの中、女子クラスが全員揃ってる事で、実力が浮き彫りになってきた。
広い舞台を横断するシェネ、番号の若い順に5人のグループに分けられ、10のグループが出来た。
流衣は2番手のグループ。
——バーが無くなったら舞台広いっ!
ジャンプは良かったけど、シェネで向こうまで行くの?
いやもう、前のグループ辿り着く前に止まってる。
分かるけど……。
初めての大舞台の広さに驚く流衣。他の子達を見てると最後の幕間まで続ける子が皆無で、大体が手前で止まり、そのせいで、最後のグループの子達が行く頃には片側にちょっとした人溜りが出来るようになる。
フェッテ、グランジュテと、スピードがあるものが続き、辿り着く側に渋滞が発生するが、第2グループの流衣は、行ける所まで行ってから後の人達を観察出来る場所に移動するようになった。
——菅野さんやっぱり凄い、それに321番の人、どこの国の人だろう、フランス語圏だよね、この二人ダントツだ。
シニアクラスの人達は見応えあるなあ、315番の人キトリのイメージだし、306番のアロンジェ色っぽいし、見てるだけでゾクゾクしちゃう。
人の動き見てるだけで楽しい。
……にしても何でこんなに混雑するんだろ?
そりゃ今日AとB一緒で人数は倍だし、この広いさで幕間まで行くの大変なのは分かるけど、止まった後に直ぐによければ、後の人の邪魔にならないのになあ。
流衣は不思議に思ったが、舞台中央でのアンシェヌマンが始まりそこに集中した。
——え〜と、トンベ、バドブレ、グリッサード。パクリュー繋いでヨイショ〜とグランジュッテ飛んで、アチチュード、からのファイ・アッサンブレ、くるりんと背中美人にエポールマン!
ここまでは昨日とほぼ一緒。
よっとっはっとバロネで移動、中央からフェッテW、カブリオール、シャッセ、アンボワッテ〜、みっちゃん思い出した。からのピケアラベスクきれい!
シソンヌで移動グラン・フェッテ、ピルエットはWアラベスクにアントルラッセ、これ好き!
各自でシュミレーションを終えると、今度は逆にBクラスから始めるように指示され、それを聞いた流衣はドキリとした。今までは2番手のグループ、でも逆に後ろから2番手となったら、最後気をつけなくてはならないと、余計な心配が出来た。
次々とアンシェヌマンが繰り出され、トップの一軍女子に見惚れたあと、他の子達が繰り出す技を見ていた。
——さすがにみんな上手い。
でも、昨日のアンシェヌマンもそうだったけど、なんだろう……バラバラ?
それともピアノが生演奏だから?
同じ振り付けでこれ有りなのかなぁ。
止まる位置や動くタイミングがみんな違うのを見て、その曲に乗り遅れてるみたいに見えて仕方ない。ピアノ演奏が誰に合わせてるのか、誰もピアノに合わせて無いのか、分からなくなっていく。
そして自分の番が来て前に進む。
——あたし先頭の2列目だ、舞台広いから5人はすんごい余裕。
でも向こう側はごちゃごちゃしてるなぁ、あたしそこまで行くんですけど……。
もうちょっと端っこに行って欲しいな〜って、そのままって、手前すぎない⁈
わわっ、止まれあたし!
セーフ!
ひゃー危なかった、ぶつかる所だった!
グランジュッテからのアントルラッセ出来なかった……一番好きなのに……まあ、しょうがないか。
舞台を使い切り、幕間まで行きたい流衣は道の途中にして動きをセーブしなければならない感覚が、どうにも中途半端でモヤモヤするのだが、ぶつかって転んで怪我するリスクより、ジレンマに悶える方を選ぶしかなかった。
そして2巡目。
——身体斜め、床を意識して踏ん張って、フェッテW。うん、カブリオール綺麗に出来た。
あれ、今度は結構スペース空いてる。
やった、これなら最後まで行けそう!
でも歩幅は小さくして、最後のグランジュッテからのアントルラッセ!
え⁈
流衣が飛んだ瞬間、その前のグループの一人が突然後ろに下がってきた。ぶつかると思った流衣はバランスを崩して着地に失敗して転んだ。
「ヒャ!」
滑って尻餅をついた流衣に皆の視線が集まった。
「〈大丈夫ですか⁈〉」
リュリ先生が飛んで来て流衣に話しかけた。
「イタタタ……はい」
「〈怪我は? 脚は大丈夫ですか?〉」
流衣は脚を動かして痛い所がないか確認した。
「〈脚は大丈夫です。お尻痛いです〉」
流衣は立ち上がってお尻をさすってみせた。
「〈怪我が無くてよかったわ、傾斜があるから気をつけて〉」
先生はホッとした顔で床の傾斜のせいだと言って、気をつける様に促したのだが、なんだか腑に落ちないまま流衣は頷いた。
「狩野さん、やられましたね」
後方の座席に座って見ていた三井が言った。このレッスンは審査対象ではないため見学が許されていたので、付き添いの教師は3人揃って見ていたのだ。
「これですか、濱田先生が言ってらしたの、怖いわ」
宍戸が腕をさすりながら言う。
「外国のコンクールでは気を付けないと、日本だと他の人に道を譲るって、当たる前にやってるけど、外人さん達はそれないですから。それに審査対象でも無いレッスンに本気は出しませんしね、うちの子達におとといの練習の時に言っといて良かったわ」
濱田が腕を組んだ姿勢で、自分の生徒じゃ無くて良かったと物思いに耽った。
「わざとじゃないんでしょうけど、あのアメリカ人の子、あそこで舞台方向に出てきますかね?」
三井が流衣が転ぶ原因になった、理不尽な動きをした子を見ていた。
「横にいた中国の子がフェッテしたから避けたのよ、アメリカの子は避けた方向が悪かっただけね」
濱田は更に奥にいた子の動きを把握していた。
「だから濱田先生が、舞台のセンター練習は横じゃ無くて前に進めとアドバイスしたんですね」
その他に、人にぶつかりそうになる時は踊るなとも言ったのだった。
「初日の貸しスタジオの練習、誰もあの子の事は誘わなかったんですよね」
三井は流衣を誘わなかったのは、自分だけではないという確認のためふたりに問いかけた。
「向こうから申し出がないのに、こちらから誘うのはお節介というものでしょう」
日野から生徒の世話を頼まれたとはいえ、日頃から親交がない濱田は練習まで面倒を見る義理はないと、当然の反応を見せた。
「そうですよね。私たちは自分の生徒だけで手一杯ですから」
宍戸も頷いた。
「何で日野先生来られなかったんです? 大事な生徒さんでしょうに」
「提携してる東京のスクールに、ワガノワのダンサーがきて
「ロシア語の通訳は貴重ですもんね」
「でもこの時期にですか……。やり方がなんともワガノワっぽいというか」
世界三大バレエであるパリオペラ座、ロシアのマリインスキー、イギリスのロイヤル、は其々にプライドを称している為に国際コンクールというものをあまり重視していない、ロイヤルはコンクールに協力的であるが、そのロイヤルやマリインスキーの学校から時たまローザンヌに出場する者が出るが、学校内では特に話題にされない、そんなレベルである。
「そうねぇ、そもそもローザンヌ・コンクールの日程そのものも、把握してないんじゃないかしらね」
そこに横槍を入れるほど興味がないという姿勢なのである。
「まあ、なんにせよ、あの子に怪我がなさそうで良かったわ」
自分の生徒では無くても、日本人の子供達に災難が降りかかる事は望まない先生たちは、濱田の言葉に頷いた。
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