第75話 Day 1

ローザンヌ国際バレエコンクール。

レッスン1日目。

 ボーリュー劇場のお馴染みの地下室のメインスタジオ、四方から見ることが出来る場所に3メートル程の移動式バーが三列、前後にシンメトリーに6台置かれ、どこから見ても一目瞭然の配置。一つのバーに4人左右につき、流衣は正面から見て左、二列目のバーについた。先ずはクラシッククラスから始まる。ジュニア(A)クラスの女子は24名。パリオペラ座の元エトワールのアニエス・リュリ講師がフランス語訛りの英語で挨拶するとピアノが鳴りだし、いきなり始まった。


——音楽付きでバーレッスン、久しぶりで嬉しいっ。昨日のレッスン室のスタジオ1も広かったけどここも広い、さすがローザンヌ。

あちこちから見られてるし……緊張する。


 審査はまだ始まってないにも関わらず、正面の審査員席に何人かいる。出場者の付き添いの親や先生は、一階部分の上からしか観られない、左右の席には取材をしてる地元の新聞記者らしき人達とバレエ関係者の取材等、一般客は居なくても参加者から見たら、それなりの観客数である。

おまけにバレエに従事してる人ばかりで、視線の鋭さは別物であり、レッスンとはいえ空気で皮膚が切れそうなほどの緊張感があった。


——お迎えのお母さん達とか、暗転なしのおさらい会とか、狭い場所だから近くで見られるの慣れてるけど、視線の緊張感全然違う。 

舞台は客席が暗いから自分の世界に入り込めるけど、これ慣れるかな?

……なんかこれ土俵に見えて来た、お相撲さんってこういう雰囲気中で相撲取ってるんだ、凄いな。


 コンクール初めての緊張感からか、意味不明に相撲の土俵に立つイメージを作る流衣。


——え〜と、やっぱり集中出来ない。

皆んなはこの状況有りなのかな?

 

 流衣は目でチラリと確認した。

自分の前は白人の背の高い子、その前も白人でアメリカ人らしき人、自分の斜め前の審査員席の前のバーに田中さおり、その隣に平水姫。 

真ん中のその前方のバーにアジア人が数人、おそらく中国と韓国の人達が占めていた。流衣はさらに

視線をツツツと動かすと、隣のバーの金髪の子の向こうに、バジルといた女の子を発見した。


——あの子だっ、わーやっぱり美人さん。

そして同じクラスだ。

その隣の子も金髪碧眼で可愛いっ。

んんんっ?

いやちょっと待って、今気がついたけど、私の隣の女の子めちゃくちゃ美少女なんだけど?

クルクルの黒髪で瞳は……まさかの紫だよ⁈

嘘でしょ〜!

この位置、美少女に挟まれててあたしだけ地味で、逆に目立ってない⁈

うわーん大ショック〜!

もっと早く気付けあたし!

いや、気が付いても何も変わらないけど、もうこうなったら脇役で、引き立て役界隈のNo1を目指そうかな。

ああ、もうっ、何考えてんのあたし!

雑念ありすぎ!



 流衣はレッスンに集中する為に意識を自分の身体の中に向けた。

リュリ講師がバーについてる子供達の中を丹念に周り、手の位置、足の角度など少しずつ触り始めた。

講師は流衣の前で止まると声を出した。

「〈プリエをもっと強く〉」


——え、あたしに言ったんだよね。

〈強く〉……床を押すって意味だよね。

こうかな?


流衣は5番位置の踵に力を入れて踏ん張ってみたが、講師が目の前にいてドキドキして、ぎこちない動きをみせた。

「〈緊張しているの?〉」

流衣の緊張した面持ちに、講師はブランデーのような深いブラウンの瞳を流衣に注いだ。問いかけられた流衣は照れながら素直に答えた。

「〈はい〉」

「〈あら、客席に色男ロミオでも居たのかしら?〉」

緊張をほぐそうとした講師のジョークが飛び、小さな声でも会場内のほとんどの人間に聞こえたそれは、〈取材陣が年配の男性が多くて、緊張するほど素敵な男性など居ないでしょう〉の皮肉ユーモアで、流衣の近くの子がクスリと笑うことにとどまった。

「〈いいえ、美女オーロラだらけです〉」

「Oh la la!(あらまあ!)」

答えが返ってくる事も予想外だが、流衣の答えはさらに想定外だった講師が、フランス語で感嘆の声を上げると、周りの子達が声を出して笑った。



 そうこうしているうちにバーレッスンは終わり、次はセンターレッスン。アダジオ、ダンジュ、ジュッテ、ピルエット、を講師が次々と指示し、動きが大きくなるにつれ人数を半分に分けて、休む間もなくグランバットマン、スモールジャンプ、アレグロと続き、ミドルジャンプの前に講師からフェッテターンの要求があり、講師の軽いお手本の後、全員後ろに下がった。3人ずつ正面に向かってフェッテが始まる。ローザンヌに集まる国の代表とも言える、錚々たるメンバーのフェッテターンは実に壮麗で、その中の一人のはずの流衣は、普段見る景色とは桁違いな豪華絢爛な世界に感動の嵐。


——凄〜いっ!

なんて綺麗!

もうもうも〜う、バレエ団だよ!

あ、やば、もうあたしの番。


 回転が得意なはずの流衣も、この中においては “見劣りしない” 程度のレベルである。そこで講師はここでまたしても流衣に声をかけた。

「〈もっと速く脚を回して〉」

「〈回す?〉」

思わず聞き返した流衣だが、コーチングする場面では無い為、講師はアドバイスしただけで直ぐに行ってしまった。


——回す? 

フェッテだから回してるけど……?

パッセが足りないのかな、でもそれなら〈低い〉とか〈高く〉とか使うよね……。

「Rotate your legs faster」って、聞き違いじゃ無い。


 流衣がモヤッと考えてる内に、もう次のミドルジャンプに移り、グランワルツでセンターは終わった。

短い振り移しのアンシェヌマンに入ると、一気に通常のレッスンモードになり、流衣もまた講師の動きと自分の身体の動きに夢中になった。

 そしてあっという間に終了の拍手で締められた。

流衣は集中が解けて頭が真っ白、無意識で角の床に置いておいた自分のカバンの元に向かい、取ろうとしたら隣に置いてある荷物の子とバッテングした。流衣はその子を見るとバーで隣だった美少女だとわかり、その子が荷物を取るのを立ったまま待った。

「〈あなたのおかげなのぉ〉」

その子が荷物を手に取ると流衣に向かって話しかけて来た。

「え?」


——おかげ? 

何だろ……あれ?

瞳が青い、さっき紫色に見えたの見間違いかな?

そんな事より、この子本当に可愛いいな。


流衣は目の前に立つ人形さんに、思わず笑って日本語で言ってしまったのだが、少女は聞き返したのだと理解し、ひと懐こい笑顔を向けてきた。

「〈凄く緊張してたのぉ、でもあなたジョークで笑ったのぉ、安心した、嬉しかったぁ〉」

ちょっと変わった発音の片言の英語で話しかけられ、流衣も笑った。

「〈本当? 私も緊張してたの、仲間がいて嬉しい〉」

流衣は緊張してるのが自分だけじゃない事が分かって、嬉しさのあまりお人形さんの前で小さくジャンプした。

「〈私、パヴリィナ、ブルガリアから参加なのぉ、土曜日に15歳になるのよ〉」

パヴリィナが嬉しそうに微笑んだ。


——喋りかたも可愛い、コンクール中に15歳になるのね。

ブルガリア……ヨーグルト食べると美人の完成度上がるのかな。

そんなわけないか。


「〈私はルイ、日本から参加で15歳、よろしくお願いします〉」

「〈ルイ? 男の子みたい、次は午後からのコンテ、またねぇルイ〉」


パヴリィナは笑顔で荷物を持って行ってしまい、この後はシニア女子のレッスンがある為、参加者の荷物を置く場所を開けるために、流衣もここから出なければいけなかった。


——さっきのレッスン、何度も指摘されたのであたしだけだった……。

脚を回す……って……絶対そのままの意味じゃ無いよね。何がダメで指摘されたんだろう……うーん、あ、落ち込んでる場合じゃない、もう出なくちゃ、邪魔になってる。


流衣が気がつくと、周りはシニアの子達だらけになっており、邪魔だという視線をあからさまに浴び、急いで通路に出る。


——そうだ、シニアの女子見学できるんだよね、あの2階部分……じゃ無い1階だ。

ここでただ考えてても、答えがスチャッと出てくる訳ないし。

観てみよう、何かわかるかもしれない……!

それにしても、〈ルイ〉って、やっぱり男の子枠なんだ……最初聞いた時は複雑だったけど、なんだか凛々しくていいかも、へへっ。


汗で濡れたレオタードを着替えに、控室に向かう流衣は、通路の端と端で田中さおりとすれ違ったことに気が付かなかった。

「……シカトされた気がする」

「え、何?」

田中さおりが小さく独り言を呟くと、平水姫が聞き返した。

「何でもない……」

田中さおりは冴えない表情を浮かべ発言を否定した。

「さおりちゃん」

シニアクラスレッスンに現れた和泉ひなたが、田中に声をかけた。後ろから菅野麻衣子と、内海天音がついて入って来た。

「どうだった?」

内海が流衣の踊りの感想をジュニアクラスの二人に聞いた。

「普通」

田中さおりが無表情で答えた。

「えー、秘密兵器じゃなかったの?」

和泉が残念そうに言った。

「でも度胸あるよね。あの状況でみんなを笑わせるなんて」

平が感心して言った。

「それなあに?」

内海が不思議そうな面持ちで、二人の会話に説明を求めた。

「あれ、何がおかしかったの? 水姫ちゃん分かった?」

「ロミオとオーロラ……さあ」

「何? ロミジュリのじゃなくて、ロミオとオーロラ?」

菅野がキョトンとした表情を田中に向けた。

「先生がロミオが居た? って聞いて、あの子がオーロラですって答えたの」

接続詞の理解不足な田中さおりが微妙な説明をする。

「それで?」

「それだけ」

「それの何がおかしいの?」

「分からないけど、みんな笑ってた」

「でも中国と韓国の人は笑ってなかったよね」

田中は笑いが起こったその時、何が起きたか分からず、一瞬で周りを見渡した光景を頭に浮かべた。

「うん。ヨーロッパ系の白人の人達は受けてた、特にアメリカ人の女の子声出して笑ったよ」

平が思い出し笑いを浮かべる。

「?」

皆んなで顔を見合わせて不思議な顔をした。

 ヨーロッパ、欧米圏内、特に本場のイタリアなどはロミオは「女好き《プレイボーイ》」もしくは「女ったらし」的な位置の例えで出されることが多いことを、真面目な日本の女の子達は、ロミオとジュリエットは悲恋の物語としてしか見てない為気付いてなかった。しかし流衣は懐かしの洋画を観て育っていた為、その辺りは肌で理解していたのだ。

「アジア人には分からないジョークなの?」

「ねえ、もしかして狩野さんって帰国子女なのかな」

「だから英語喋れるのね」

バレエ留学経験なしと聞いていたので、急に帰国子女疑惑が持ち上がる。

「それは違うかも、濱田先生が『狩野さんは仙台から出るのも初めてみたい』って言ってたから」

菅野麻衣子は日本での出発前に、濱田からきいていたことを話した。


「コンクールも海外も初めてって……なんか凄いね」

平は、流衣が一般常識的(バレエ女子界隈限定)な枠に、全く引っかからない事に驚いてしまう。

「どうりで……」

田中さおりは、講師から何度も注意をうけていた流衣を思い出し、クスリと笑った。

「もう時間じゃない?」

クラシックレッスンが始まってしまうことを懸念して、菅野はシニア組に声をかけて中に入った。


 流衣は更衣室な戻り、次のコンテンポラリーの準備を整えて部屋を出た。予定通りメインスタジオを見渡せる場所に着くと、先客は居ない、さっきのジュニアクラスでは10名ほど居た人達は殆どがジュニアの付き添い、シニアクラスの付き添いは姿が見えないなか、流衣は労せずに正面から見える場所に陣取ることが出来た。スタジオを見下ろすと、スタッフがバーを片付けているところだった。


——これからセンターだ、ローザンヌのシニアクラス、流石に皆んな大人っぽい、背も高いし、2才くらいしか違わないのに……。


A《ジュニア》クラスと同じルーティンでB《シニア》クラスのセンターが始まった。いろんな人種が揃ってバレエを踊る姿は、映画のオーディションの場面を観るような、客観的な気分で落ち着いて見ることができた。そして数分もすると色々なことが見えてくる。


——ここから見てると動き方の違いが分かる……。

身体の向きってこんなにバラエティに飛んでたんだ、知らなかった。身体と顔の位置が微妙だけどみんな違う、鏡が無いだけでこうも違うのかな。それに音の取り方も、前半、中間、後半とそれぞれいるけど、中間にアクセント置く人多い。

後半も沢山いる、けどちょっとでも腕が残ると、曲に乗り遅れてるみたいにも見えて勿体無い!

前半は1.2.3……4人。

あれ、あの317番は菅野さん?

菅野麻衣子さんだ、うっわ、上手〜い!

強くて正確、二の腕が柔らかいよ。

……美沙希ちゃんみたい、腕が柔らかくて曲に乗ったキレイな踊り。

ん?

その近くでワンカウント目に乗って踊ってるの内海さんだよ。

ちょっと待って!

それに和泉さんと、もう一人名前わかんないけど……日本人だ。

前乗りで踊ってんの全部日本人だ。

皆んなリズム乗ってる!

分かる〜っ、だよね、そこだよね!

トウシューズが床に当たる音が気持ちいい!

小学校の体育の先生が、日本人はリズム感が悪いって言ってたけど、ウソだった〜!


 誰がどこで言い始めたのか分からないが、日本の音のリズムは重い、乗りが悪い。などと言われて妙な刷り込みを受けて来た。しかし実際は、他民族の音楽でも飲み込んで表現できる、非常に器用な人が多いのである。

流衣は目をパッチリと見開き見ていると、次はフェッテターンが始まった。


——待ってました〜!

うわっ、カッコいい、さすがシニアクラス!

見てて楽しいっ!

あ、317番の菅野さんだ、なんてキレイなワガノワ・フェッテ!

レベル違うしっ。

あ、周りの人も気がついたみたい……菅野さんの周りスペース開いた。

うわあ、お隣の背の高いダークブロンドの321番フランス・メソッドでキレイにフェッテ決めてる、このふたり凄い〜!


 ワガノワ式フェッテとは横に90度バットマンしてからパッセで回転すること、フランス式フェッテとは、脚をロンデしてから回転を継続する方法。ワガノワ・メソッドがダイナミックかつ華麗に見えるので、日本ではワガノワ式の教室が多い。

流衣は食い入るようにフロアを見つめた。


——今……321番さん、先生に何か言われて頷いた。さっき金髪の人にも何か言ってた、何言ってるのか分かんないけど、同じフランス・メソッドの人だった気がする……。

そっか、リュリ先生はパリオペのエトワールだから、フランスメソッドの人に声かけてるのか、思わず声掛けしちゃったって感じかな?

違うもんね、フェッテは特に。

……あれ?

じゃあ、あたしに声かけたの……あれって、あれはフランスメソッドだと思われたって事⁈

あたしワガノワ式なのに……えっ、えっ?

ちょっと待って、あたし……そういえば脚をロンデしてたかも……⁈


 日野が教えてたのはワガノワ・メソッド。ワガノワ式を無意識でやっていた流衣は、改めて動きを思い出してみたら、いつもと違う動きをしていた事が頭に浮かび愕然とした。


——確かにロンデしてパッセしてた!

やだ、何で?

フランス式フェッテなんて一度もやった事ないのに……!

間近に見たのだって、今日先生のお手本が初めてなのに。

……あ、……それだ。


流衣は気がついた。

リュリ講師がフェッテと言った時、一番前にいた日本人の子が聞き返した事を、そして言葉が通じないと思ったリュリ講師が、通訳を呼ぶより早いとターンして見せた事を……。

 世界のバレエ界の指導基準は、お手本で踊る事はしない、言葉で説明するのだ。教師がお手本を見せてそれを真似るのは個性を無くす。特に流衣の様に振り付けを一度で覚える子は、目で覚えてしまうことが多い、それでは映像のコピーに過ぎず、本人の個性では無い、それらの解釈によって本人の意識で身体をコントロールし、それを無意識で出来るように習得させるのが教師の役目であり、ロシアではそれを以前から実行しており、教師は椅子に座ったままというのが当たり前になっている。

そして流衣はその悪習を見事に体現してしまった。


——先生のフェッテ見て、綺麗だなと思っただけなのに……。

しかも気が付かないでそのまま踊っちゃって、先生はきっと中途半端なフェッテが気になって注意したんだ。

……鏡があれば気が付けたかも、いやそういう問題じゃない。

日野先生に真似しちゃいけないって、言われてたのに……。

やだ、あたし……全然ダメじゃない……。


 目に焼き付いたものを、無意識のうちに再現してしてしまうという、一番ダメなパターンにはまってしまった流衣は、いつの間にか身体を縮め体育座りの体勢になり、顔を伏せて自分の未熟さを反省するのだった。

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