第73話 ハンディキャップ
地図から顔を上げて正面を見る流衣の目の前に、明日からの勝負の場所が映った。
「これがボーリュー劇場……」
一臣に作って貰った地図を握りしめてひとりでここまで来た流衣は呟いた。
朝食の時に日本人出場者達との会話の後、劇場の場所を熟知してる先生達に引率されてる子達は、見学は止めて各々に過ごすことに決めた。流衣は場所だけでも確認したくて来たのだ。
雑誌に載ってるヨーロッパの劇場はオペラハウスの様な豪華な作りであるのに対し、ボーリュー劇場は実に機能的な造りになっている。華々しさが無い代わりに、シンプルな造りだからこそ迫って来る重圧感があり、風格を醸し出していた。
「凄い迫力」
建物に圧倒されて、ポロリと感想が口から出た流衣だが、その実、心ここに在らず。
——皆んなしっかりしてる……。
ローザンヌに憧れて、そのローザンヌに行けるってだけで浮かれてた自分が恥ずかしい。
留学経験が無いのもあたしだけみたいだし、みんなとすごい差がある……。
周りの他の参加者達との違いに、打ちのめされて落ち込んでいた。
「あーもう! 始まる前から落ち込んでどうすんのって、臣くんが見てたら絶対言われるから! 落ち込むなら終わった後。はい!」
独り言で自問自答してる流衣に、観光客らしい年配の白人夫婦から奇異の目を向けられた。
「あ……。うるさくしてごめんなさい」
気がついた流衣は咄嗟に日本語で言ってしまった。なんと言われたのか分からない夫婦は戸惑い、不思議そうな顔をされてしまい、流衣はそそくさと早足で劇場を横切り裏手に逃げてしまった。
——恥の上塗り……、あたしローザンヌ来て何やってんだろ、やーんもーっ、恥ずかしいっ。早く劇場の入口確認して買い物に行こう。
流衣が歩道の石畳をみながら建物に沿って歩いて行くと、前の方で話し声が聞こえて来た。顔を上げて見ると10代と思える男女が、倉庫にしか見えないボーリュー劇場の出入口の前で、何やら話してる。二人とも姿勢が良く、女の子はダウンジャケット、男子はキルティングのダウンコートと厚着していて、体型が分からなくても立ち姿は明らかに
ダンサーである。
男子の方は笑いながら喋ってるが、女子はあまり機嫌がいいとは言えない表情。
——ローザンヌの出場者かな?
女の子はあたしと同じくらい、栗色の髪で綺麗な顔立ちお姫様みたいな子だなぁ、男子は180位?
王子様というより、ドンキのバジルが似合う顔立ちでイケメンさんだ。
コッソリ写真撮って部屋に飾れる位の美男美女!
……でも、カップルとかより友達っぽい雰囲気してるけど、同じバレエ学校とかなのかな?
英語じゃ無いけど、何語話してるんだろう。
入口に警備員っぽい人立ってるし、そこで喋ってるって事は、やっぱりテロのせいで見学出来なくて困ってる話かな?
「……エスタジョポル、ドスホス」
——ん?
男の人、今、2《ドス》って言った……スペイン語⁈
流衣が知ってる単語が出て来て、どうやらスペイン語で話してると分かり、視界に入れつつ正面から見ない様に二人を気にした。
「……リディコオロ」
女の子が吐き捨てる様に言うと、男の子から離れてこっちに向かって歩いて来る。歩道が広いので、流衣は避けるでもなくその場に立っていた。女の子は流衣をチラリと目を動かしてみた後、足を止めずに通り過ぎた。
「ハポネ」
女の子がすれ違いざまに小声で言った事を、流衣の耳は律儀に拾った。
「ん?」
——ハポネ?
それなんだろ……。
「Your clothers are Japanese school
uniforms,right?」
流衣が女の子を呆然と見送っていると、後ろから英語で声を掛けられた。流衣が振り向くとそこには女の子と話してたバジルがいて、流衣を不思議そうに眺めていた。
——英語だ……「日本の学校の制服?」って聞かれたよね……。
「〈はい、私の日本の学校の制服です〉」
流衣は英語で答えるとバジルは表情を変え、顎を引いて流衣を眺め明るく言い放った。
「〈すごい、日本の制服着てる女子高生初めて見たよ、感動だ〉」
——“感動”……制服着てる高校生が?
制服って珍しいのかな、でもヨーロッパも欧米も制服の学校あるよね。少ないかも知れないけど。
このバジル君は制服マニアなのかな?
めっちゃ見られてるけど……。
え〜と。
「〈ローザンヌ、出場する人なのですか?〉」
流衣は英語で聞いてみた。
「〈そうだよ。君も? ダンサーだよね〉」
バジルは流衣の足元を見て笑顔で言った。
「プッ〈はい〉」
自分の足元を見て思わず流衣も笑った。無意識で立つと思わず足が一番になる分かりやすいバレエダンサーの所作に、自分の足元見て思わず笑った。
「〈僕はスペイン出身でアメリカから参加のクリスティアーノ・ロナウド。18でB《シニア》クラス〉」
16までがAクラス、18才までがBクラスと分けられている。
「どおりで大人っぽい……と、〈私はA《ジュニア》クラスで日本から参加のルイ・カノウです〉」
バジルがさも面白いと言った顔で、にやりと笑う。
——あ、笑われた。
日本の制服を着てるって言ってたのに、また日本人だと何度も念押ししちゃったからかな。
「〈ルイ? ……男の子の名前だね。日本では女の子に付ける名前なの?〉」
「え? そうなの⁈」
思わず日本語で聞き返してしまい、バジルがキョトンとしたので慌てて言い直す。
「え〜と 〈女の子だけじゃ無くて、男の子にも付けられます〉」
「〈へー、日本は長い歴史と文化があって、言葉には厳格な決まりがありそうなのに、男女の区別が無い名前があるって不思議だね〉」
「
流行りの言葉の変化が恐ろしく早く、日本人である自分が全くついて行けないくらい、常に変化してる母国語。そんな日本語が外国人から見て厳格とだと思われてる事がイマイチ理解できない。個人的な感想なのかと、流衣は首を傾げて考えるが、目の前のバジルの態度は流衣の想像を超えて来た。
「〈ゆるゆる!〉」
何故か目を輝かせて “ゆるゆる” に反応する。
「あれ? なんでそこ? ゆるゆるっ〈おかしい?〉」
「〈日本のオノマトペだ! “ゆるゆる” ってどんな意味?〉」
——意味?
“ゆるゆる” の意味⁈
いや考えた事なかった!
あらためて……“ゆるゆる” ってなに?
「〈柔らかい……サイズが合わない?〉 なんか違う、え〜と、ゆっくりと、ふわふわ? そろそろ……とかも近いかな?」
「〈“ふわふわ” ! “そろそろ”⁈ 素晴らしい!〉」
「いま、アメージングって言った……? なにがすごいの」
目の前のスペイン人が、予想外にも嬉々として喜んでる姿をみて、流衣は呆気に取られてつい日本語がでてしまう。
「〈ところで君、その制服だけで寒そうなんだけど、大丈夫なの?〉」
急にシリアスな顔をするバジルは、しっかり防寒してる自分とは段違いな、防寒具はストールと手袋だけの軽装に見える流衣に、違和感を感じた事を口にした。
「〈いいえ寒くないです、私は日本で寒い地方に住んでるので、ここ暖かいくらいです〉」
一見寒そうに見えるが中のセーターの袖を伸ばして手袋を嵌め込み、足はタイツの上に裏起毛のスパッツ、首は百均のネックウォーマーに一臣のふんわりストールでWガード、制服のブレザーだけの軽装に見えるが、寒さを感じる風が侵入する隙間が無い。
——こっちの方が気温は低いけど、仙台は吹きっさらしで風が強くて、めっちゃんこ寒いし、それに比べたら、自転車で走るわけでもないから全然平気だ。日野先生に風邪ひかない様に気をつけなさいって言われたけど、この分だと外じゃ無くて、室内で動いた後の暖房に気をつけなくちゃ。
思わず日野の忠告を思い出すと、スペイン人が驚いて流衣に向かって叫んだ。
「〈暖かい? こんなに寒いのに、日本人どうなってるの? 忍者⁈〉」
「ええっ、何その誤解⁈ 〈違う違うっ、そんなわけないっ、忍者でも侍でも芸者でも、寿司でも天ぷらでもないから!〉」
流衣が全身を使って、思い付く限りのステレオタイプを否定してると、バジルは声を出して笑い出した。
「グラシオッソ! ウナムヒラインテレサンテ!」
そして早口でスペイン語で喋ると、流衣にはほぼ聞き取れない、聞き取れたとしても意味はわからない。
「グラシ遅? うなムヒ、インテリさん??? え〜と、痒み止めが出て来たけど、スペイン語だから違うよね……、意味は知らない方が世の中は平和かも知れない」
馬鹿にされたような気がした流衣は、追求を辞め日本語で呟き、賢そうな擬人化した虫刺され液が、何故かスローモーションで目の前を通り過ぎた。
「〈と……そろそろ行かないと。ありがとうルイ、君のおかげで楽しい時間が過ごせたよ。明日からお互い最善を尽くして頑張ろう。じゃあ、また!〉」
言うだけ言うと、バジルは踵を返して軽快な足取りで行ってしまった。
——風みたいに行っちゃった……。
……生まれて初めて外人さんと会話……。あんなに日本語とごちゃ混ぜにして喋ったのに、変な顔されなかった。
「あたしの英語通じるかな……」
ストレッチ中、流衣がタイムをかけて日本語で一臣に話しかけた。
「問題ない」
一臣は一言。
「本当? 臣くんは予測して会話してない?」
「予測はしてるけど、それと英語力は関係ないよ。ヨーロッパなら特に、皆んな片言の英語だから」
「うん……けど英語が咄嗟に出るかどうか……」
「その時は考えるより日本語で喋った方がいい」
「日本語? なんで⁈」
流衣は驚いて聞き返した。
「その方が感情が声に出るから大筋が伝わる」
「そうなのかなぁ……」
納得し切れてない流衣に一臣は説明を続ける。
「相手が黙ると、自分が優位に立ったと思うのが世界の常識、次から確実に見下して来る、笑って誤魔化すのだけは絶対やっちゃいけない」
「……あ、なんかやっちゃいそう」
「その時に日本語で話すと、英語が出て来ないんだって伝わる。でも黙って笑うと頭が悪いと思われるんだよ」
「そういう事⁈」
「そう」
——臣くん……スペインでどれだけ苦労したんだろう。
いくら臣くんだって、最初からスペイン語が出来たわけないし、それまで色々あったんだろうな。あたしなんか元々馬鹿だから、相手からそう思われてもしょうがないけど、臣くんが頭悪いと思われたらしんどいだろうな……。
「……帰ろ」
一臣との会話を思い出し寂しくなった流衣は、振り返って今来た道をホテルまで帰る為に歩き出した。
——あたし……なんであんな事言ったんだろう……。悩んでる人に向かって、慰めるどころか自分のことばっか喋っちゃうし……。臣くんが泣いてるのわかったら、言葉が出なくって、頭回らなくって、思いつく事ヘラヘラ話して……馬鹿みたい。
初めての飛行機の中から現地到着まで、そんなつもりはなくても緊張し通し、ホテルではその疲れから瞬殺で爆睡してしまい、寝起き後の朝食で周りとの違いを見せつけられ何も言えなくなり、外に出て劇場を見てようやく落ち着き気を取り戻した。ここでようやく出発前の一臣との会話を思い出して反省し出した。
——気になるけど、どうしたらいいんだろ、電話……って国際電話って事だよね、通じるのかな?
日本いま何時?
臣くん何してる時間?
メールの方がいいかな、でもなんて打とう……。
考えがまとまららないままホテルに到着し、部屋に入ると無意識で部屋着兼パジャマ、である学校のジャージに着替える動作から既にストレッチに入っていた。
——あ、今日はポアント履けないのか……。
この部屋の広さだと、椅子の背もたれ掴んでバーレッスンは出来るけど、ポアント履けないのはなんか寂しいなぁ……仕方ないけど。
それに、さっきからずっと考えてるけど、メールの文章が全く浮かんでこない……やばい、キャパ超えた。
だめだちゃんと動こう。
悪循環を繰り返す自分に限界を感じ、本格的に動き始めて頭が空になるほど続けて身体が汗ばむと、流衣の思考はリセットされて理性的に動き出した。
——臣くんの事は帰ってから、顔をみながら向き合って話そう。電話やメールじゃ伝わらない気がする、話が行き違って誤解されて、そのせいで集中力が落ちたら……そんなのダメ、全力が出せない事を臣くんのせいにはしない、だからこの事は胸の奥に仕舞おう。
「ふうっ」
全身の筋肉がほぐされた後に、程よく筋力を使い、流衣の額から一筋の汗が滴り落ちた。
「うん。このくらいの汗かくと気持ち良いっ」
時計は18時を指していた。スイスはこの時期白夜に近く、暗くなるのが22時頃で時間の感覚が鈍くなる
——わーっ、もう六時だ。
ボーリュー劇場見に行って、お昼も食べてなかったからお腹すいた……。
「あー!」
流衣は大事な事を忘れてた事に気が付き、大きく声を出してしまった。
——うそ、やだ!
買い物するの忘れてた〜!
日本と食事事情が大きく違う事を、一臣からは勿論、日野からも言われていた。日本でいうところのスーパー(食料品店)は夕方には閉まり日曜日はお休み、コンビニがあったとしても、おにぎりやサンドイッチなどの食品は無い事、レストランは時間をかけて会話を楽しみながら食事をするところで、ひとりで入るには敷居が高い場所だという事、などから昼間に軽食を買い込む以外食事を摂る方法がないと思っていた。朝食はホテルで取れる、コンクールが始まると、中で昼食は出るので何とかなるのだが、流衣のような付き添いの無い、ひとり参加の食事は難関である。
——イヤーん……。
せっかく臣くんが地図に食品店の場所にチェックしといてくれたのに、もう閉まってるよ。
明日は日曜日だからお店空いてないし……しかも、コンクールはエントリーだけで終わりだから食事出ないし……また朝食だけかも知んない
もう、うっかりでがっかり……。
1日目は爆睡で過ごし、2日目は空腹で過ぎて行くあんなに憧れたローザンヌでの出だしは、バレエとは関係ない思い出で流衣なのであった。
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