第72話 憧れのローザンヌ
ローザンヌ国際バレエコンクール。
日曜日のエントリーから始まり、月曜日から木曜日までの世界的インストラクターの講習。金曜日の予選、土曜日の本戦で締めくくる、スイスのジュネーブで毎年行われる世界的に有名な国際バレエコンクールである。
流衣は日本からの参加者たちと同じツアーでここまで来た。日本からの参加者は全部で十二名、その内流衣を含めた五名が同じツアーで、ホテルも一緒だと分かり一緒に行動することになった。
「日野先生から貴方のこと頼まれてるの、わからないことがあったら何でも聞いて頂戴ね」
成田空港でそう流衣に話しかけて来たのは、東京のバレエ学校の教師、タカダバレエの濱田だった。濱田は自身もローザンヌ経験者で、教師として付き添うのは今回で四回目のアラフィフのベテラン教師。
他に付き添いの教師は二名。それぞれ所属する教室は違っても、ローザンヌだけでは無く他の国際バレエコンクールや国内のバレコンでも顔馴染みの3人、そして生徒同士も知っているらしく、全くの初対面は流衣だけであった。
「よろしくお願いします」
挨拶したけれど、その後スイスのホテルに着くまでほぼ言葉を交わすことはなかった。出発時間こそ2時間以上遅れたが、トランジットが4時間あった為、逆に待ち時間がなくなりキレイなスルーパス状態。国際線のターミナルは案内から何から自国語と英語表示、ワルシャワでの乗り継ぎもスイスでも迷う事はなく、入国審査はフリーパス。国際空港に着いたのは現地時間の午前中、そこからスイスの鉄道に乗り数十分でローザンヌ駅に到着、駅からはバスでホテルに移動、と呆気ないほど何事もなくホテルに到着した。
「狩野さん、これからどうするの?」
ホテルの部屋の確認が取れて早いが入れる事になったので、濱田は流衣に日曜日のエントリー迄どうするか聞いて来た。ホテルは朝食しか付いてないので、部屋には入れるが明日の朝まで食事は出ない。本日分は外食するしか無い。
「ボーリュー劇場の下見に行こうかと思ってました」
「それなら土曜日に一緒に行かない? 今日は私達は少し休んでから、街中を回ってみようと思ってるの」
観光というほどでは無いが、街並みを観て西洋の雰囲気を味わうのも醍醐味である。
「土曜日に一緒に行って良いんですか? ありがとうございます。でも今日は部屋で横になりたいと思います。飛行機で眠れなかったので……」
「あら、それなら休んだほうがいいわね。じゃあ明日、朝食時に待ち合わせでいいかしら?」
「はい。よろしくお願いします」
朝食で待ち合わせをして、その後一緒に劇場の下見に行く事になって安心した流衣は、皆んなと別れてひとり部屋に入ると、靴を脱いでベッドにダイブした。
「やーん。すごい凄いっ、セレブな贅沢、ダブルベッド独り占め〜!」
——脚のこの解放感〜!
ダブルの部屋なんてスッゴイ贅沢だと思ったけど、日野先生が、シングルだと部屋もベッドも狭いから、ダブルが良いわって、予約取ってくれたけど本当に広くて嬉しいっ!
日野先生ありがとう〜!
飛行機……座ったままって、思った以上にしんどかったな。
もうこのまま一回寝ちゃおう……と、待った、時間直して携帯充電して目覚ましかけないとっ。
「えっとコンセント……あった!」
机の横の部分に差し込み発見。
「……丸い……」
流衣はジッと見た。差し込み部分が二つ丸く棒になってる、日本の平べったい物とは形状が違った。
「臣くんが言った通りだ」
流衣は荷物を開け、一臣が渡してくれた2個口と3個口用の二種類のコンセントを取り出した。
「わー、こっちピッタリ、さすが臣くん」
「ヨーロッパは電圧が違うから、変圧器がいるんだよ」
「変圧器?」
「そう、日本だけ100vで他の国は200v以上だから」
「日本だけなの?」
「……深く考えなくて良いから、取り敢えず2本タイプと3本タイプ、二種類持って行けば間に合うと思う、両方駄目だったらフロントに言えば良いよ」
と言われて両方とも借りて来た流衣。コンセントにケーブルを差し込んで点灯をじっと眺め、改めて一臣の心配りの細かさに驚く。
——臣くんって、スケジュールが分刻みの売れっ子芸能人のマネージャーとか出来そう……しかも敏腕ついちゃうやつ。
売れっ子……芸能人ってお笑い芸人さんかな、俳優さんかな、アイドル?
AKBみたいな可愛い子に好かれそう、いや絶対好かれる、なんかそれやだっ。
……もしあたしがバレエでプロになったら、臣くんにマネージャー頼んじゃたりするのはどうだろう……。
いや〜んそれめっちゃ理想っ。
待って、プロのバレリーナってマネージャーとかいるの聞いた事ないんだけど……だよね?
あたしが知らないだけかな?
バレエ団に所属するからかな?
そういえば、フリーのバレエダンサーってあまりいないんような……男性のダンサーくらいかな。
ギエムってフリー?
ああ、ごめんなさいレベル違った!
……あれ?
芸能人って、アイドルだって会社に所属してるんだよね、それってダンサーがバレエ団に所属してるのと同じだよね、何でマネージャー付いてるの?
?
……?
余計な事を考え過ぎて、別世界の深い闇に気付きそうになる流衣だが、プールの底にタッチして浮上する、何か切り替わるような感覚に襲われた。
「狩野。次、読んで」
「はい」
流衣は指名されて立ち上がった。
「72ページだよ」
教室の中で一臣が国語の教科書を右手に持ち、左手で机に72と書いた。
「はい。えっ、あれ?」
読もうとしたが教科書がない、流衣は辺りを見渡し探した。
「そろそろ乗らねえと」
「うん、待って」
ハクが新幹線に乗れと急かしてるが、流衣はまだキョロキョロして探してる。
「待って美沙希ちゃん、無いの、あたしのタンバリン」
美沙希が舞台袖で手招きしているのが見えた流衣。
「飛んで!」
「秋山さん」
「僕の時は、舞台でインプロヴィゼーションがあったよ」
——舞台で⁈
ピピピピッ、ピピピピッ、ピピピピ……。
——目覚まし……鳴ってる!
流衣は驚いて飛び起きた。
目覚ましの音を止める為に携帯を手に取って、開いた。
時計は7時15分を示している。
——えっ、夜の?
違う違う。
24時間表示してあるから朝だよね。
ここ、ローザンヌ……ん?
日本の時間?
……え〜と、じゃあ日本時間でマイナス8時間ってこと?
でもホテルに着いて部屋に入ってからスイス時間に時計直したよね……。
ということは……今、土曜日の朝⁈
流衣はベットから飛び降り、バスルームに向かった。
朝食の時間は7時からとフロントで言われていた、時間は約束してないが、皆んな未だ食事中のはずでまだ間に合うと、慌てて身支度をしようとしたが、着替えもしないで寝てしまったので、そのまま行ける事が判明。
——いやーもーっ、制服のまま寝ちゃった!
だらしないっ、けど言わなきゃわかんない!
髪の毛とかして、顔洗って、そうだベッド直さなきゃ!
流衣はベッドに戻ると毛布をベッドから退けて、シーツを引っ張って外そうとした。
「あ……ベッドメイクしなくて良いんだ……」
自分が客で止まってる事を忘れて、つい先月までやっていたホテルのバイトの習慣が出てしまった。しかもいつもの通路やラウンジの清掃より、正月三が日の時給につられて臨時のバイトでやった、お客様の退室後のルームクリーニングが身体に染み付いてしまっていた。
「頭が混乱してる……いっぱい寝ちゃっただけで、まだ土曜日でエントリーは明日の日曜日だし、慌てなくて大丈夫だよね、落ち着け自分……」
深呼吸で息を整え気を落ち着けて、シーツを直しベッドに毛布を戻して、カードキーを抜いて朝食の会場まで足を運んだ。
会場に行くと、そこには一目でわかる華やかな団体がいた。というより客らしき人達は日本人しか居なかった。その日本人の集団をよく見ると、体型も雰囲気もバレエダンサーの男子がふたり増えている。そのふたりの男子は流衣を見て少し不思議そうな顔をした。
「おはようございます」
流衣は近付きながら挨拶をした。
「おはようございます」
静かな声であちこちから挨拶が聞こえて来た。
皆んなは既に食べ終わっている様だった。流衣も食べ物を取りにビュッフェに向かう。
「……またよ」
流衣が後ろを向くと、囁き声とクスリと笑う声が聞こえた。
——?
何だろ……あたしに言ったのかな……?
寝癖は直してきたけど、服になんか着いてる?
流衣は自分の体を確認したが、何も見当たらなかった。
「……まあ、いいか」
流衣がブュッフェに向かうと、食べ物の匂いを嗅ぐと、食事をして無かったことに気が付いたようにお腹がグウとなった。飲み物のコーナーの前で濱田先生と他のふたりの先生が、海外では使い勝手がいい、スマートフォンを見ながら話し込んでいた。流衣を含め他の子供達はガラケーである。
「おはようございます」
先生方に挨拶して、流衣がトレーを手に持つと、濱田が話しかけてきた。
「おはよう。狩野さん。ちょっと……今日の予定が変更になりそうなの」
「変更ですか?」
流衣は何のことかわからず、目をパチクリさせた。
予定とはボーリュー劇場の下見の筈。
「テロの爆破予告があったらしくて、劇場が閉まってるかも知れないの」
「爆破予告⁈」
もう一人の先生が言った聞き慣れない言葉に流衣は驚いた。流衣が驚いて声を出したので、食事中の子供達の何人かがこちらを振り向いた。
「私は向こうに説明してくるわね」
ひとりの先生が、そちらのテーブルに向かっていった。
「あの、爆破予告って……」
流衣は予想外のことに驚きドキドキしたが、先生達は特に顔色を変えてなかった。向こうのテーブルからもざわつきが聞こえたが、流衣ほど驚いてる子は居なかった。
「ああ、ごめんなさい驚いた? 爆破予告があったのは、隣のフランスだから大丈夫なのよ。それより朝食取ってらっしゃいな。食べながら話しましょ」
濱田が立ち尽くしてる流衣に食事をする様に催促した。それを受けて流衣はブュッフェコーナーで、丸いパンとジャガイモを千切りにして焼いたガレット、ハム、チーズを器に乗せて、牛乳とオレンジジュースをコップに注いで、テーブルに向かった。
三つ分のテーブルを占領していた彼らの所に空きはなく、流衣は四つ目のテーブルにひとりで着いた。
「じゃあその場所が、レマン湖の向こうのフランス側なんですね?」
出場者のひとり菅野麻衣子が言った。
「そうなの、近いでしょ? 多分、今日は劇場公開はしないと思うわ」
教師の内一番年配である三井が、コーヒーを飲み答えた。
「スイスだからテロの攻撃目標にはされないけど、駅とか商業施設で人が集まるところは、警備が厳しくなるものね」
ため息混じりに困った顔をする濱田。
「じゃあ劇場の見学は出来ないんですね」
菅野の隣に座ってる田中さおりがガッカリして言った。
「二人も断念だね、せっかくアメリカから予定通り着いたのにね」
三井が男子に向かって話した。
「それは仕方ないです。こっちでのテロはちょっと驚いたけど、フランス側での事ならなんか納得しました」
藍色のジャケットを着た、少し大人びた男子が言った。
「アメリカなら良くあるし、出発前日に近くの高校で銃撃事件あって、駅とか封鎖されるかとドキドキしちゃったよ、けど死傷者が出なかったし犯人すぐに捕まったからニュースにもならなかった。アメリカもう半年経つけど、慣れた自分が怖いです」
留学して半年と言う、一目でジュニアクラスと分かる男子が、銃撃事件に慣れたと微笑みながら牛乳を飲み干した。
「
三井が訝しげに眉を寄せて聞いた。
「良いですよ。……でも夜は出歩けないし、ホームレスとジャンキーはあちこちにいます」
およそ似合わないジャンキーという単語を、あどけない顔で発する。
「……アメリカですもんね」
流衣は10時間爆睡した頭で、耳慣れないテロや爆破予告、銃声の言葉が羅列して混乱してる所に、初見の男子ふたりがアメリカに留学中で、直接ここに来て合流した事を知り、今日の予定の劇場見学が無くなったと会話から理解した。
「麻衣子さんが行ったのもボストンでしたっけ?」
「シアトルよ、サマースクールで」
「和泉さんはスイスよね」
「はい、チューリッヒです。渡辺雪菜さんも一緒で、彼女は当日に直接ここに来るって言ってました。私は留学ピザが切れたので秋に日本に戻って来て、そのまま参加することになって」
「え? ピザ切れたのわからなかったの?」
藍色のジャケットの男子、
「うっかりしちゃってて、日本大使館に相談したんですけど、日本で手続きした方が楽だと言われて、今は休学してます」
「それはドジったね」
和泉は指摘されてしょんぼりと頷いた。
「平さんはドイツだっけ?」
「はい。一年留学してました」
「え、ドイツってどんな感じ?」
「……うーん、日本と似てるかも、海外って時間にルーズだと聞いてたけど全然そんな事なくて、時間は守るしみんな真面目で静かです。あと、他の学校は分からないけど、私が行ってた所は半年に一度レオタードとポアントの支給があるんです」
「へぇ、それ良いね」
「ただ良くわからないのは、学校はドイツ人多いけど、バレエ団員は殆ど外国人なんですよね」
「そうなんだ」
「ロイヤル希望の人いる?」
濱田が子供達全員に問いかけると、7人中5人が手を上げた。ロイヤルとは言わずと知れたイギリスのロイヤルバレエスクール。
「あらら、狭き門ね」
教師の三井が笑って言った。
「やっぱり憧れます」
「ユニークな感じがあって、バラエティに富んでて、『イギリス』って感じが好き」
「クラシックやコンテ、キャラクターダンスと幅広く学べるのアメリカも同じですけど、ロイヤルは別格というか、ヨーロッパの風土と独特の歴史的感性があって、新しい自分を発見できそうな気がします」
「ふたりは違うのかしら?」
濱田は手を挙げなかった菅野と流衣を見て聞いた。
「私はコンテンポラリーをもっとやりたくて、モダンも興味ありますし、ローザンヌのコーチングでしっかり見極めたいと思います」
菅野はしっかりと語った。
「さすが菅野さん……」
隣の田中さおりが呟くと皆んなも頷いてる。どうやら菅野は皆から一目置かれてる様子、その雰囲気の中、次に何を言うのかと流衣に視線が集まった。
「あたしは……その、勿論ステキだと思うんですが、憧れ過ぎて片思い中なので、失恋した時のために口に出さない方が良いかなって思って」
モジモジと恥ずかしそうに言う、菅野とは対照的すぎる流衣のとぼけた表情に、みんなから一斉に笑いが起こった。
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