第66話 償い
俺が殺した……。
一臣の告白は流衣を黙らせた。
「あの日言ったんだ……死ねって」
一臣は色んな感情飲み込まれていた、もがく様に押し殺した声を聞いて、流衣は聞く事にした。
「……どうして?」
一臣はゆっくりと話し出す。
「前の日の夜……姉貴が電話で話してるのが聞こえて来て……」
自室に入る為に姉の部屋を横切る一臣は、姉の部屋の戸がしっかりと閉まってない事に目が行った、そのほんの少しの隙間から声が聞こえて来た。
「出血が止まらなくて、……うん、今日病院行って来たの」
——出血?
いつもなら声が聞こえても部屋の前を素通りする、けど内容が気になりその時は、一臣の足が止めてしまった。
「そう、薬は貰ってきたけど、それでも止まらなかったら、もう一度手術になるって言われたの……そうか、やっぱりそうなのね」
——手術……。
姉の友達に看護師がいることは知っていた、相談内容が手術と聞くと、どこが悪いのかと心配になった。
「そうなんだけど、……中絶したんだから仕方が無いよ……」
——え⁈
“中絶” の一言は一臣に衝撃を与えた。
「……どっちの子が分からないのに産めるわけないもの、もう子供が産めなくなっても自業自得で、仕方ないよね」
“どっちの子が分からないから中絶した”
それは一臣の頭から離れなかった、子供好きの姉は、お使いに行く幼い兄弟にもらい泣きし、子供の虐待死のニュースが流れると、本気で激怒していた姿が思い浮かぶ。
「誰とどう付き合うかは自由だと、分かってるつもりだった」
一臣の声は震えていた。
「それなのに、汚らわしい存在に思えて仕方がなかった」
流衣は携帯を握りしめて黙って聞いている。
「朝に、玄関で出る時間が重なって、いつも通りに明るく笑って話す姉貴に、急に嫌悪感が湧いて来て……」
「ねえ、一臣の卒業祝いと、お母さんの誕生日祝い一緒に祝おうって話してたの、焼肉が良い? お寿司が良い?」
靴を履きながら結子が問いかけると、一臣は冷たく言い返した。
「……肉食べれんの?」
「え? 何?」
弟の冷ややかな声を聞いて姉は振り返った。
「人ひとり殺しておいて食べれんの?」
「一臣……」
昨日までと違う弟の冷たい態度と視線で、昨夜の話を聞かれていた事を瞬時に悟った。
「ニュースとか見ててさ、子供殺すなら自分だけ死ねばいいのにって、いつも言ってるのに自分の子供には当て嵌めないんだね」
失意のあまりそう言い放ってしまった一臣。
姉は哀しげな顔をして、何も言い返さずに出て行った後ろ姿を見て、一臣はしまったと思った。
明らかに言い過ぎた、けど今更引っ込みが付かない一臣は、うやむやにしたまま登校した。
運命が変わったのはその日。
2011年3月11日 14:46分
マグネチュード9の大地震、大津波、未曾有の大震災。
「あの日、夜中に親父がずぶ濡れで帰って来て、『結子と連絡が取れない』と言った時、酷い胸騒ぎがして、蝋燭の灯りの中で、雪が降りしきる外の景色を揺れる窓から一晩中見ていた。3日後にようやく姉貴が行った仕事先がわかって、3人で向かったんだ、普段は車で1時間で行ける場所に、丸一日経ってようやく着いた避難所は、遺体安置場所と隣り合わせで異様な雰囲気だった」
嫌な予感は的中した。
避難所に姉の姿は無く、避難所に用意されていた名簿に記名はなかった。次に向かった遺体安置所で見た景色は、殺伐とした現実だった。体育館の敷地内に無数に寝かされた遺体は何十、何百を超え、子供、女性が優先的にブルーシートが掛けられているが足りず、誰かの好意か上着が掛けられてある遺体もあるが、新聞紙が掛けられている事がせめてもの手向けのようだった。
その中を一人一人、上に掛けてあるものを退かしながら確かめていった。
「ひどい景色が広がってて、遺体に触れなくてフラフラしていたら、母さんの悲鳴が聞こえて来て……」
一臣は声を詰まらせた。
変わり果てた娘にすがって泣く母、そこに駆けつけ抱き抱える父。けれど一臣は、これは現実じゃ無いと、目の前の物もただの泥の塊だと、決して姉ではない何か、そう思いたかった。
そんな一臣の願いも虚しく、両親が必死になって顔の泥を拭い、出て来た顔は間違いなく姉の結子だった。そして更に酷い状態だと分かったのは、父が自分のコートで姉の身体を覆う為に、ブルーシートを退けた瞬間だった。
「……両足の膝から下がなかった。……体中泥だらけで洗う水も無くて、周りからすごい臭いがして……。その場に立って見ていたら、嘘で塗り固めたみたいな気がして来て、映画のシーンを観てるみたいなおかしな感覚になって……何かが無くなって……」
現実を受け止められなかった一臣は、そこで感情を捨てたのだ。
——臣くん……泣いてる……。
流衣には分かった、一臣は姉に謝りたいのだと、けれど、許してくれる相手はもういない。
やり切れない、行き場の失った思いが重くのしかかって、感情を捨てる事でなんとか正気を留めた。
「安積圭一ってね、私達の2個上の先輩」
水瀬は話し出した。
「バレー部のキャプテンでね、カッコよくて人気もあったし、結子も憧れてたのよね。でも彼は東京の大学行ってしまったから、憧れの先輩だけで終わってたの。でも夏ぐらいかな……、先輩大学卒業後にこっちに帰って来たらしくて、結子、仕事先で会ったって言ってね……付き合い出したのよね」
水瀬はそこで一呼吸入れた、一臣に気を遣い言葉を選びながら話す。
「先輩……女癖の悪い人でね、何人も女がいて……結子もそのひとりだったのよね。結子も分かってて、割り切って付き合ってたみたいだけど、でもあの子、夢見る人だったから、付き合ってる内に先輩が私だけ見てくれるって、思ってたんじゃないかって思うのよ」
〈夢見る人〉
〈コンクールで入賞したら、お母さんもあたしの事見直してくれるかもしれないでしょ?〉
そう言っていた流衣と重なる。
「ある日ね、結子から電話がかかって来て、凄い勢いで『先輩が氷室になったのは、子供のいない叔父さんの為に養子になったんじゃなかった!』って言うの『大学のサークルの飲み会で女の子酔わせて、大勢で乱暴したって……。どうしよう、ミナミナ、私怖い!』って、すごく動揺して取り乱していたから、落ち着かせて、先輩と別れる様に言ったの。結子も納得してくれて、私、必ず電話で話す様に言ったんだけど、結局呼び出されてその場にいったら、……友達も連れて来たって」
一臣は動悸が激しくなった。
水瀬は重苦しそうに続けた。
「最後だから楽しもうぜ、って言われたって、私、なんでそんなの受け入れたのって聞いたらね、『断っても無駄だって分かったから、抵抗して乱暴されるくらいなら、一日我慢して終わりにしたかったの』って言ったわ」
一臣は目を瞑った。
「怖いから早く終わらせたくて、楽しんでるふりをしてたら、中に出されて挙句に妊娠、最悪よ」
「犯罪なのに……」
一臣は小さく振り絞るように言った。
「……性犯罪の被害者に、警務官がなんて質問するか知ってる?」
看護師の水瀬は、目を伏せたままの一臣に、自身がよく耳にする話をする。
「女は怖くて動けないのに、『何故抵抗しなかったのか、何故声を上げなかったのか、逃げようと思えば逃げられたのではないか? 性器を触られてどう感じたか』なんて聞くのよ、そんなのただの侮辱よ、結子はそれに耐えられないと思ったから、我慢する方を選んだのよ」
一臣は耐えられず下を向いた。
「サークルで犠牲になった子はまだ一歩も外に出られないそうよ」
「あの日……本当は行く予定が無かった、遠くの沿岸部の別の医院に行ったって、向かってる車の中で親が話してるのを聞いた。……俺のせいだ……」
家に帰りずらい姉が、遠い場所の仕事を引き受けたのだ。朝のあの自分の態度が無ければ、姉はお祝いの為に早く帰って来た筈だと、一臣は思った。
『臣くん……』
涙声の一臣に、流衣はもう一度名前を呼んだ。
「……苦しんで、立ち直ろうとしてる人間に追い打ちをかけた……最低だ」
一臣は必死に嗚咽するのを堪え、しかし涙は抑え切る事は出来ず、ただ流れるに任せた。
『……臣くんのお姉さん、今頃きっと、こう思ってるよ』
決心したような口調で、何かに押されるように、流衣が言った。
『やあねぇ、あんたがそんな事、本気で言うわけないって、一番分かってるのは私でしょ?』
「姉っ……」
それは結子の声に聞こえた。
『ってね、笑ってると思う……』
改めて聞くと流衣の声と姉の声は全く似ていない、姉の声だと思えたのは自分がそれを望んでいたからだと思えた。
『……あたしね、小学生の時の友達ね、津波で亡くなったの』
流衣がポツリと話し始めた。
『奈絵ちゃんって子でね、うちの小学校は各学年一クラスしか無くて、あたしの学年6人しかいなくて、女子は二人だったの、6年間同じクラスでいつも一緒で……でも、中学校は近くの学校と統合されて、一気に五クラスになっちゃって、奈絵ちゃんとは離れ離れになるし、人が多くてそれだけで一杯一杯で、三年間もあったのに同じクラスになれなくて、一度も話さなかったんだ……』
仲良くしてたはずの同級生は、振り返ってみると、性格も考え方も違っていて、同じクラスでも無いと、話す話題すらない事に気がついた。でもその同級生が死亡者名簿に載ってるのを見て、流衣はショックを受けた。
『卒業式で遠くから見かけた姿が最後だと分かった時に、すごく後悔したの……。なんで学校で見かけた時に声をかけなかったんだろって、何度も見かけたのに……。あの日から、今まで当たり前だと思ってたことが、今度で良いかなって思ってたことが、そうじゃ無くなっちゃった……』
日常の概念を根底から覆した震災は、残された人々に重い十字架を背負わせた。
残されて〈生きる〉という人生の課題。
一臣は流衣の声をじっと聴き入った。
『奈絵ちゃんだけじゃ無くてね、近所の人とか、知ってる人がたくさん死んじゃったの、悲しくて、何で自分は生きてるんだろって考えてみたけど、生きてる自分と、亡くなったの人達の差が何なのか分からない、時間も元に戻らないし……。それならせめて、明日死んでも後悔しないように、一生懸命生きてみようかな……って。あたし……あたしもね、いつか向こうに行くから、向こうで会った時に “頑張ったね” って言って欲しくて……』
想いを綴る流衣の声が、贖罪の一編の祈りに聞こえる。
償いは生きる事で果たされる。
……アナタハ イキテル……。
ドキリとして、声のする方に一臣は顔を向けた。
……だから、笑って。
部屋の片隅の仄暗い青い吹き溜まりが、ゆっくりと白く暖かい光となり、姉の結子の笑顔に変わった。
——姉ちゃん……ごめん。
……馬鹿ねえ。
震災が無かったら、もし姉が亡くならなければ、交わされたであろう会話を果たし、心のわだかまりが陽射しに溶ける雪のように無くなっていく。
携帯の向こうから、搭乗案内のアナウンスが聞こえて来た。除雪作業が終わり、順次に搭乗が再開された。
『あ……』
数メートル先の同じフライトの人達が慌ただしく、準備を始め、流衣はどちらにも後ろ髪がひかれるようで、思わず息を呑んだ。
「行ったほうがいい」
『うん……』
一臣に促されるが、流衣はまだ会話を切りたく無いという意識がはたらいた。
「今日、遅刻してごめん」
流衣の心境に気付き、一臣は朝の失態を謝った。
『ふふっ』
流衣はうんと言おうとして声にならず、思わず笑ってしまった。
『……お土産何が良い?』
言ってから、今の場にそぐわない話題だと思い、流衣は冷や汗をかいた。
「流衣の武勇伝」
いつもの落ち着いた声で答えた一臣に、流衣は途端に元気になった。
『うん、それなら任せて!』
一臣の後押しを受けて明るい気持ちで旅立つ流衣
通話口の向こうで一臣が微笑んでいる事までは、流衣の想像は及ばなかった。
「……ごめんね。ショックよね」
水瀬が聞くと、一臣は帰ろうとして歩き出した足を止めた。
「その……やっぱり、結子のこと軽蔑する?」
「それは無いです」
一臣は振り返り姉の友人を静かに見つめ、迷いのない声で答えた。
「……そう」
水瀬の声は少し安心したようだった。
「けど……」
一臣は空色に映る雲を見上げた。
「馬鹿だと思います」
そして再び歩き出した。
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