第63話 先手必勝

 一言も発しない流衣を乗せて、一臣は自転車を走らせた。何も喋らない事が一臣には不可解であった。


——感情に変化が起きた時は、歌うかボヤくのに、今日は静かだな。


明日、いよいよスイスに向かって出発する、緊張するのは当然と言えば当然だが、後ろからは、歌声も読経の様な計算式も聞こえて来ない。かといって緊張の張り詰めたものとは違う空気が漂い、流衣の様子は今までとは一線を引いたものだと一臣は思った。


——背中で良かった。


もたれ掛かる流衣の頭の重みが、そのまま信頼度と重なり心地良かった。静かな流衣はしおらしくて、目の前に居たら抱きしめてしまうかも知れないと、一臣は心でひっそりと思った。

自転車が『時玄』が見える交差点に差し掛かり、赤信号に変わったので、一臣はスピードを緩めゆっくり止まった。

止まった自転車から、なにを思ったのか流衣がするりと降りた。一臣は何事かと後ろを振り返った。マンションビルの間を何か探す様に頭を動かし、驚く一臣の視線を気付かずにふわふわとしている。


——?


流衣の不可解な言動は今に始まった事では無い、しかし目的地に到着する前に、何も言わずに自転車から降りたのは初めての事で、自分から離れた流衣を一臣は目で追い、その行動が不安を誘い顔が曇った。

信号が変わり、急かされた様に歩き出した流衣の後を、一臣は自転車を引いて歩いて付いて行った。『時玄』がテナントとして入っているマンションの、隣の雑居ビルの非常階段である螺旋階段に、流衣はトトトッと登った。

「見えた」

流衣が見る方向を、一臣は流衣の横に並んで見上げた。するとそこにはビルの間から頼りなげな三日月が見えた。

三日月を目で追いながら、流衣はずっと日野の言葉を考えていた。


——気の毒なのか、可哀想なのかはよく分かんない……。

あたし、お母さんの言ってる事は嫌だけど、お母さんが嫌いなわけじゃ無い。

ちょっと怖いだけ……。


流衣はそこまで考えて、考えるのをやめた。

何を考えても、どう考えても、結論が出ない。

考える代わりに月に向かって手を伸ばした。

「臣くん……大人って複雑だね」

同じ目線で見る一臣には、今にもビルの影に消えそうな月を、流衣が捕まえようとしてる様に見えた。


——掴めそうで掴めない……違う。

掴みたくても掴めない……かな。


「いろいろ考えてみたけど、複雑すぎてやっぱり

わかんないや」

伸ばしてた手を、螺旋階段の縦枠を掴んで、そこに頭をもたれかけた。

「時間が経てば、あたしにもわかるようになるのかな……」

流衣はため息混じりの独り言のような声色で一臣に語りかけた。

流衣の顔を真横で眺め、一臣は黙って聞いていた。

「……あれ?」

一臣の顔が目の前に見えて、我に帰った流衣は思わず声を出した。一臣の顔があまりに近すぎて、避けようにも、動いたら触れてしまいそうで、視線だけ下に動かした、怖気付いて緊張が走る。流衣は一臣にそれを悟られないよう、誤魔化そうと続けて喋った。

「臣くん……いつもここから見てるの? 高すぎて怖く無い?」

「そんなわけないし……」

流衣の滑稽な問いかけに、感情を押し殺した日本語で答えると、一臣は視線を逸らしている流衣の頬に唇を寄せた。


——あ……。


挨拶では無く、明らかにキスされた。

流衣は一瞬固まり、気が付いた。

「あたし、約束……破っちゃった……」

待ったをかけずに日本語で話していたと、抜け落ちていた事実に動揺した流衣は、うっかり一臣の顔を直視してしまう。

瞬きの音が聞こえる程近い距離で見つめ合い、張り詰めた空気に思わず息を呑んだ。真っ直ぐに自分を見つめる一臣の視線が、瞳から唇に移った瞬間、流衣は目を瞑った。

ふたりの唇が重なり合い、熱い吐息が漏れた。

触れ合った唇は、ついばむように幾度も押し付けられ、やがて熱いものへと代わり、どんどん流衣の思考を奪って行く、呼吸をしようと開いた唇の隙間から一臣の舌が入り込み、柔らかく暖かい感触が流衣の中を満たした。舌を絡め取られ痺れる身体から力が抜け、崩れ落ちそうになると、流衣の腰に手が周り身体を支えながら力強く引き寄せられた。

不意に襲われた情熱的なキスに流衣は何も考えられず、一臣の腕を掴む指先だけが、ただ一心に愛情を伝えた。

 後ろの脇道を大きな車が通過して行き、エンジン音で流衣がピクリと反応した。

流衣の身体が痙攣する様に反応した事で、一臣は我に帰り、慌てたように流衣から離れた。

一臣は一歩、二歩と離れると、流衣に背中を向けたまま、立ちすくんでいた。

 流衣は目の覚めきらない子供みたいに、まだ夢の中に取り残され彷徨う虚なげな表情で、茫然と一臣の背中を眺めた。

店の前の雑居ビルの非常階段にいる流衣、その前の駐車場スペースに立つ一臣の姿は、切り取られた静止画のように時間が止まった。

「おーい。お前ら何でそこにいんの?」

ハクの声が聞こえ、時間が動き出した。

帰る客の見送りに外に出たハクは、二人を見つけ声をかけた。

「おい流衣。マスターが出発前の花向けって、ケーキ作って待ってんぞ」

ハクは近寄って流衣に向かって話しかけた。

「えっ、ケーキ⁈」

それを聞いた流衣がピョンと階段から飛び降りた。

「プロテイン入りのパンケーキだけどな。ムキになってデコってたから見ものだぞ。客も引けたし、表から入んな」

「わーい、そうするっ」

跳ねるように店に向かう流衣を見てから、一臣は停めていた自転車を動かして歩き始め、自分の軽薄な行動に卑しさを感じ、暗然として声も出ず顔も上げれなかった。

いつもの様に店の裏手に自転車を置いて振り返ると、タバコに火をつけたハクが身構えて立っていた。

「……見たぞ」

ハクの一言にちょっと視線を落とす。

「のぞき趣味?」

「ざけんな、エロガキっ」

ハクは斜め上から語気を荒げて喋る。

「……ガキは合ってる」

片方は認め一臣は大人しくハクに視線を戻した。

「何やらかしてんだよ」

「やらかし……って」

「あーのーなー!」

ハクは頭を抱え大きなため息をついた。

「 残酷だからアイツの気持ちに応えねえって、言ったのお前じゃねーか! 言ってることとやってる事違くね?」

憤怒のあまりハクは鼻と口から一気に煙を吐いた。

「そうだけど……気がついたら、キスしてた」

「おまえは本能型の大将軍か? それともただのドSか⁈ 散々突き放して、冷たくあしらっておいて、何だいまさら!」

一臣は何を言っても言い訳にしかならないと思い、黙ってハクのお説教を聞いた。

「いまさら……そりゃおまえ……ずるいって」

「ずるい……」

狡いの一言に一臣は胸が痛んだ。

「だろーが? しかもあいつ明日出発じゃねーか! ……ったく、アホかっ」

ただでさえ緊張する時に、動揺させる様なことをした一臣に、ハクは苛立ちを覚えた。

「……」

一臣は何も言えず下を向いていた。

「今日は俺があいつ送ってっから、おまえはもう帰れ。明日の見送りの仙台駅には遅れずに来いよ」

「……分かった」

下を向いたままの一臣に反省を促し、ハクは店に戻って行った。


——ハクが言った事は分かってる。

ずるい……確かにそうだ。

他の事で頭が一杯で、一度も俺を見なかった流衣を見てたら、心の一部を削がれる様な感覚になった。

それが悔しくて……振り向かせようとした。

流衣が自分の事を思ってるのが当たり前だと思ってたなんて……まるで駄々っ子だ。

最低だな。


『時玄』の外壁に寄りかかり、下を向いたまま、一臣は自分の取った子供じみた行動に打ちひしがれた。

店の中から、マスターの計らいが成功した事を物語るように、流衣の歓声が聞こえて来た。流衣が喜ぶ姿を想像して、一臣は帰ろうとして鈍く身体を動かした。

その時、突き刺す様な鋭い視線を感じ、一臣は反射的にその場所を見た。


——……セキ。


セキはゆっくりと、そして真っ直ぐ一臣に近付いて来る。


——あのままで終わるとは思ってなかったけど……。


姿勢を変えぬまま、セキの動きを見つめる一臣は、店の中から時折聞こえる笑い声を背中に、一歩前に出た。

一臣が動くとセキは止まってニヤリと笑った。

「まさか、あのままで終わると思ってねえよな」

「……なんのよう?」

「話付けに来た。場所変えねえか?」

ハンチング帽に色付きの眼鏡、変わらぬ風貌のセキは、軽く顎を動かした。

「俺をここから引き離して、中に何か仕掛けんの?」

以前の所業を考えると、セキが悪巧みを仕掛けてると考えるのが妥当であった。

「残念だがオレ一人だ、役不足か? けど仕方ねぇ、梶は拘置所に移送されて、安原は休学中だ、ほかの連中はもう関わりたくねえとよ」

セキの話から、梶は未成年ではあるが、凶悪犯罪という案件と十九歳という年齢から、通常起訴されている事、あの時刺された安原が無事だと分かり、少し憂いが晴れた一臣だが、セキに据えた視線はピクリとも動かさなかった。

「まっ、流衣に何かあるとハクの野郎まで怒り出すしな、ったくおまえら女の事になると……ッ!」

セキが話してる最中に、一臣の拳がセキの腹に炸裂し、くの字になったセキの後頭部に続けざまに肘を打ち付け、声を上げる間も無くその身体はアスファルトに落ちた。

「お前の口から流衣の名が出るのは許せない」

 あれ以来、一臣はセキの事をおくびにも出さなかったが、その実かなり腹に据えかねていた一臣は、事の引き金を引いたセキの口から流衣の名を聞き、反射的に体が動いた。

「……いきなりかよ」

不意打ちで溝落ちに拳を捩じ込まれたセキは、咳き込んだあと大量の涎を吐き出し、唸るように声を出した。

「まさか、先に手を出した方が負けなんて都市伝、信じてないよね?」

喧嘩もスポーツも先手必勝だと思っている一言に、セキはもう一度唾を吐いた。

「話ならここですれば良い」

陽動作戦を用いたセキの言う事など、聞く気は微塵もないという態度を取る一臣。

「動きたくねえならそれでいいけどよ、内容が聞こえたらマズイのはオマエの方じゃねえの?」

したり顔で先程と同じくニヤリと笑うセキ。

「?」

セキの余裕の意味がわからない一臣は、膝を付いているセキの顔を探りながら睨み返した。

「オマエの顔色変えさせる女は、あいつだけじゃねえだろ」

「女?」

訝しげに見る一臣にセキは不敵な笑いで返す。

「藤本結子」

姉の名を聞いた一臣の眼が鋭く光った。

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