第62話 出発前夜
ストレッチと筋トレを日々の日課に足し、ひたすらレッスンに明け暮れた日々は、あっという間にローザンヌ出発前日になった。
「流衣ちゃん、ちょっといい?」
レッスンが終わり、クラス仲間の美沙希達にひとしきり激励されて別れた後、帰り支度をしてると更衣室の奥から出て来た先生に聞かれた。
「いよいよね、緊張してる?」
と言ってる先生も緊張の面持ちだが、なるべく顔に出さないように本日のレッスンを終えた。
「少し……」
それに流衣は笑顔で応えた。
「明日の夕方の便よね、新幹線で東京まで行くんですって?」
不便じゃないかしらと先生は思う。
「夜行バスで行こうとしたら、鬼コーチの大反対にあいまして……」
「却下」
ソファ席に深く腰掛け、大腿四頭筋のストレッチの為に、両手を前後に伸ばして行う、エジプト壁画のポーズを取る流衣を前に、腕を組んだコーチはダイレクトに否定した。
「どして? 夜行バス安いし、成田まで行くから楽だし」
時間より乗り継ぎが怖い方向音痴。
「成田まで何時間乗ってるか分かってる?」
「8時間くらい?」
——多分。
「フライトは?」
「じゅう……5、16時間くらい?」
——のはず。
「つまり、24時間以上座りっぱなしで脚に負担をかけて、エコノミー症候群案件モニターになりたいわけ?」
「ごめんなさいコーチ、新幹線にします」
「よろしい」
以上、回想でした。
「鬼コーチ?」
先生が不思議そうに聞きます。
「……えーと、詳しい人に聞いたら脚を曲げておく時間が短い方が良いみたいなので……」
一臣が筋トレ&ストレッチのコーチしてるとかの経緯を上手く説明出来ない流衣は、スルー希望に転じる。
「? まあいいわ。流衣ちゃん、本当にひとりで大丈夫なの?」
「ひとりは慣れてるから大丈夫です。現地ではツアーの人達と行動すれば良いし、ホテルも東京のバレエ教室の人達と一緒なので、会場に着いてしまえば何とかなります」
「私が一緒に行ければ良かったんだけど……本当にごめんね」
流衣に先生の分の旅費を出せる力は無かった。けど、先生はこんなチャンスは滅多に無いと自費でも行くつもりだったのが、研修会と重なってしまってどうしても都合がつかなかった。
「そんな先生、私がローザンヌに挑戦できたのは、
先生や皆んなが手伝ってくれたおかげです。ホテルやツアーの手続きは先生に手伝って貰って、ホテルから会場迄の詳細な地図を作ってくれた友達(鬼コーチ)に……。美沙希ちゃん達から衣装まで作って貰っちゃって……。私、どうお礼を言えばいいのか……」
流衣は言葉に詰まった。
「流衣ちゃん、こうゆう時はね、甘えていいのよ」
逆の立場だったら、全力で応援する流衣の人柄は皆も良く解ってる。今までの頑張りを見てきた皆は、本心から成功して欲しいと思っている。
——市民センターの教室でバレエシューズでつま先立ちして踊ってる流衣ちゃんの姿、昨日みたいなのに、あれから10年経つのね。
日野は懐かしさを噛み締めた。
「今更だけど、お母さんなんて言ってる? ローザンヌに行く事」
「え……」
流衣は以前光莉に同じ事を聞かれて、好きにしなさいと言われたと、答えた事があった
『家の手伝いもしないのにスイスですって⁈ 良いご身分ですこと! お好きにどうぞ、勝手に行ってくると良いわ、私にはなにも期待しないで頂戴ね!』
「『好きにしなさい』って言われました」
母に怒鳴られながら言われたことを思い出し、聞き慣れた言葉は飲み込んで伝える。
「それだけ?」
それだけの筈は無いと思い聞いた、日野は母親の性格を知っている。
「えっと……」
流衣が母親を庇って口籠ったのを見て、日野は決心した。
「流衣ちゃん、お母さんの実家のこと聞いたこと
ある?」
予想外の日野の質問に流衣は戸惑った。
「……いえ」
そうだろと思ったがあえて日野は聞いた。
「お母さんからは何も聞いてない? ご兄弟の話しとか」
——お母さんに兄弟……?
「いえ、あたし何も……」
流衣は何も知らなかった。気軽に話すような母親では無いし、流衣も自分から聞いたことはなかった。
「前回の合同発表のリハーサルの時に、流衣ちゃんお母さんに送ってもらって来たでしょ? その時に江刺さんの所の生徒の親御さんにね『あのひと
初めての合同発表会で荷物も多く、その日たまたま遅番で家にいた母親に、頼み込んで会場まで送って貰った。その時に入口で引き返す母親を目撃した保護者に、日野は尋ねられたのだ。
「その人が言うにはね、妹さんと弟さんが居たらしいの……双子のね」
「双子の……?」
流衣は驚いた。
確かに母親の卒業アルバムには〈針生〉と書かれてあり、母の旧姓は針生で間違いはない。両親の親である流衣の祖父母の写真が数枚あった、その中に10人ほどが写っている母方親族と撮った古い集合写真に、小さい男児と女児が居たのを思い出した。しかしそれが兄弟だとは聞いて無い、てっきり母の従兄弟なのだと、勝手に思い込んでいた。
「お母さんと歳が離れてたから、ご両親は双子ちゃんを大事に育ててたみたい、勿論お母さんも可愛がってらしたそうよ」
「……」
流衣は日野の声を上の空で聞き、一度見ただけの写真がゆっくりとクローズアップされ、自分に面影が似ているその姿がクッキリと焼き付けられた。
「でもその妹さんの方がね、……お母さんの婚約者の方と恋に落ちて、駆け落ちしたらしいの」
「え⁈ 」
「その相手の方の家がね、地元の代議士先生のご実家でね、名士というかなんというか、田舎の土地柄騒ぎが大きくなって、お母さん達はその土地に居づらくなって、一家で引っ越したんですって」
流衣は頭の中がゴチャゴチャして何も喋れなかった。
「その後に双子の弟さんの方も、借金作って逃げたそうで、ご両親とお母さんが10年以上も働いて、借金を全て返済して、落ち着いたあとにお見合いして結婚したそうなの」
先生が何故そんな事を言い出したのか、流衣は分からないまま、黙って話を聞いていた。
「変な事を聞くけど、流衣ちゃん……お母さんに叩かれたことある?」
日野の質問にドキリとする流衣。
「……いいえ。叩かれた事はないです」
足を床に踏み付けたり、テーブルを叩いて音を出して脅されたことはあっても、直接叩かれた事はない。
「それが、お母さんが出来るギリギリの愛情表現なのね」
流衣は雷に打たれたような衝撃が走った。
——愛情……?
身体への暴力と言葉の暴力の差が分からない。
「流衣ちゃんと妹さんが重なって、なじったかも知れない、でも娘には手を挙げられない。不器用でなんて可哀想な人なのかしら」
「可哀想……」
「人はそれぞれ愛情の尺度が違うのよ、流衣ちゃん……辛いとは思うけど、お母さんは気の毒な人なの、恨んではダメよ、あなたは違う場所に行き着く人なのだから」
可哀想な人
気の毒な人
別の場所に行き着く人……。
その日の帰り道、日野の言葉は流衣の頭の中で
虚しく回った。
流衣は分かっていた、人を恨んで生きるのは辛い事だと、母親からキツイ言葉を受けるたび、嫌悪感が増してもそこからは何も生まれない、だからこそバレエに逃げて来た自分がいた。
でもどうしても、日野が言うように母が可哀想な人には見えなかった。
『そっくり』
『だからいつも』
——〈あの子と〉……そういう意味だったんだ。
母が途切れさせる会話が、ここで繋がった。
——どうして……?
あたし……お母さんの妹さんじゃないのに……。
『手を上げないのが愛情表現なの』
——なんか違う……
殴られたら、助けを呼べたはず。
そうならなかったのは、母親が世間体を気にする人間で、人に非難されたくないという性格のせいだ、日野が言う愛情ではなく、保身に走ってるだけの母親が卑怯に見えた。
それに、もし母親に殴られてそれが公になったとしたら、児童虐待として扱われて、児童相談所に引き取られてしまい、バレエどころでは無いだろう。
流衣は考えがまとまらず、流れる景色の中で、虚な細い月を目で追いかけた。
「先生、何故あの事、流衣ちゃんに言ったんです?」
更衣室で話していた二人の会話を、事務所の片隅で聞いていた香緒里は、日野に問いただすような口振りで言った。
「酷だったかしらね」
「なんで今なんですか? 出発前に心が乱れる事言って、流衣ちゃん今頃動揺してますよ」
日野は問い詰められ、困った顔をした。
「……震災のせいで今年は無かったけど、市民センターで毎年秋に収穫祭りがあって、そこで各教室毎に発表する機会があったのね」
唐突に日野は懐かしい話しをし始め、香緒里は話をはぐらかされたと一瞬怯むも、日野の真相を探るために話を続けた。
「市民センター? 出張レッスンに行ってる所のですか?」
今は香緒里が師事しに行っている、流衣が通っていた市民センターは、小学校の隣で学童保育もその場所にあり、体育館と図書室まである規模の大きいセンターである。その場所で色々な習い事の教室があり、バレエは小学生のみのクラス、十数人が習いに来ていた。
「小さい舞台で発表するの、勿論お金もかからないし、団体さんひとつで発表時間30分以内って括りでね、うちは毎年3曲ぐらい出してたんだけど、流衣ちゃんが入った年も3曲出して、その全部に出たのよね」
バレエの発表会やおさらい会のように、ほぼ身内で埋まるというより、パレードの見物に近い物で、身内より一般客が多く入り混じるものだった。
「確か、流衣ちゃん一年生の四月から習いに来てたんですよね、って事はバレエ初めて半年くらいで3曲? それ凄くないですか?」
今の流衣からは想像に難くないが、小学1年で半年やそこら習っただけで、それだけ踊れるのは脅威である。
「そう、振り付け一回で覚えるから、半年どころか3ヶ月もかかんなかったの」
「最初っから天才肌ですか、流石ですね」
香緒里は感心しながら頷いた。
「そうね、でも振り付けを覚えるだけなら、たまにいるわよ、真っ先に覚えて真ん前で踊る子」
「あー確かに」
そのタイプでは無いのに、何故か理子を思い出す香緒里。 しかし、“それめっちゃ失礼やない?” と言ってる理子が頭に浮かび、すぐさま打ち消した。
「一番前の席はね、やっぱり生徒の親御さんがビデオ構えて陣取ってたけどね、後ろはふらっとやって来たお客さん」
舞台の出し物を観るのではなく、歩き回って疲れた年配の人や、小さい子を連れたお母さん等、が椅子に座るのを目的にして来る場所。
「そのお客さんたちがね、2曲目が始まると「あ、あの子だ」って流衣ちゃんを見ながらざわついて、注目を浴びた、あれが忘れられない」
日野はその時の光景を思い出し身震いした。
バレエなど知らない、演目も興味がない中で座ってる人達から注目を浴びることの重要性は、舞台を経験した者でなければわからない。
「流衣ちゃんはこの数ヶ月でとても上達したわ、ローザンヌの決勝が夢じゃなくなるほどにね。でもコンクールで大事なのは上手く魅せることじゃないわ、審査員、スカウトの目をどう動かすかなのよ! それには誰よりも強い個性が必要なの」
「それは確かに」
「上達したが故に、他の選手達との差が無くなり、人目を引く個性が失われたのではと……。私の考え過ぎならいいのだけどね。それにね、気掛かりなのは、ローザンヌに行ったとなると、その後に日本のコンクールに出場した場合、色眼鏡でみられる事なの」
日野はため息を吐いた。
ローザンヌで留学資格(奨学金)が得られなかった場合、日本国内のコンクールに出る事になる、しかし、ローザンヌ国際バレエコンクールにチャレンジしたとなれば、例え予選落ちだろうとも、どうしても高いレベルで見られる、かなりハードルが上がってしまう。
「〈最初で最後のチャンス〉ぐらいの気持ちで挑んで欲しかったの。お母さんのことで流衣ちゃんの踊りが乱れるほど弱い子では無いけど、それでもちょっと……残酷な事を言ってしまったわね……」
「……日野先生……」
香緒里は、わざと流衣の母親の過去を曝け出す事で、流衣の演技力の底上げを測ったのだと知ると、罪悪感と懺悔で心を痛めでいる日野の心中を察し、同じ様に心を痛めのであった。
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