第61話 胸騒ぎ
「香緒里先生、何故泣いてるの?」
その日のレッスンが終わり皆が帰宅したあと、日野と香緒里が、事務室で作業をしていると、香緒里の目がウルウルしてる事に日野が気が付き、驚いて声をかけた。
「上級クラスの子達、みんな優しくていい子だなと思って」
「見てたの? あの衣装」
「すみません。……覗き見してました」
流衣を囲んで、みんながワイワイしてるのを窓の外から見ていた香緒里は、ずっと堪えていたものが事務の単純作業をしていたら堪えきれなくなり、時間差で感動したのだ。
「別に、謝らなくてもいいじゃない。入って来ればよかったのに」
「何となく入れませんでした、……私まだ新入りなので」
元々いたもう一人の講師が、震災の後に東京に行ってしまったので、香緒里は入れ替わりに入ってきたのだ。まだ一年たっていないので部外者の気がしていた。
「でも、普通だったら妬まれるのに。……流衣ちゃんって不思議な娘ですよね」
「不遇だからね」
〈不遇〉流衣の境遇のことをそう表現した。
「運が悪いとゆうか人災じゃないですか、流衣ちゃんの場合。あのお母さん何なんですか?」
香緒里は流衣の母親に怒りをあらわにする。
「うんまあ、色んな人がいるからね」
日野はその事は余り触れない様にしていた、なんせ女性だらけの現場である。ひとりの耳に入ったらあっという間に皆の話題になると思った。
「でも、おかしくないですか? ローザンヌ出場する娘なら普通は自慢しますよ。それなのに費用を全部自分で稼がせておいて、家の手伝いまでさせます⁈」
「家の手伝い?」
それは初耳。
「私、流衣ちゃんにお米の研ぎ方教わったんです、こっちに来て初めて自炊したんですけど、上手く炊けなくて」
恥ずかしいそうに話す香緒里。実家暮らしだった為、家事をした事が無かった。
「よく聞いたら、ゴミも朝捨ててるし、お風呂も洗ってるし……。それなのに、『ゴミは朝出る時だし、お風呂も私が最後だから、両方ついでですよっ』って笑いながら言うんです」
香緒里は朝玄関に置いてあるゴミを跨いで出勤していた父、それを見ながら自分も通り越して登校していたことを思い出す。
「それは流衣ちゃんが自主的にやってるんだと思うけど」
流衣が、母親の機嫌を損ねないように必死になってる姿が見えてくる。
「でも、今、この状況ですよ? コンクールが目前に迫ってるのにさせます? 全然普通じゃないです! 自分の娘なのに、可愛く無いんですかね⁈」
香緒里の怒りが収まらない様なので、日野は考えた挙句、事情を話す事にした。
「私ね、人伝てに……彼女の妹さんの事聞いた事があってね」
「彼女って、お母さんの事ですか? 妹さん?」
「そう、流衣ちゃんのお母さん。彼女にね、だいぶ歳が離れた双子の兄弟がいたんですって男女の」
「双子ちゃんですか。ちょっと憧れますね」
姉と二人姉妹の香緒里は、妹が欲しかったと思った事を思い出し、それが双子だったら周りに自慢したのにと思った。
「そうね、その子達ね、周りからも評判になる程の美男美少女の双子で、両親もお母さんも凄く可愛がって育てたらしくて、双子達はそれが分かってて、凄いワガママだったらしいの」
呆れた様に溜め息をつく日野、香緒里は日野の表情を読み取り、黙って聞くことにした。
「人懐っこいくて可愛いふたりに、手を焼きながらも家族は大事に育てたんでしょうね。まあ、そこまではよく有る話よね。ある日、お母さんに地元の名士の息子さんとの縁談が持ちあがって、トントン拍子に話しが進んでお式の準備をしてたら、その相手の男性が妹のほうと駆け落ちしちゃって、大変な騒ぎになったらしいのよね」
「ええっ、そんなっ」
20代の香緒里には、縁談や名士や駆け落ちは、身近に無いキーワードだった。
「あろうことか、お式の3日前」
「酷い……」
さすがに香緒里も気が滅入る。
「お式の事で出入りしてるうちに、人懐っこい妹を好きになったって事だと思うけど、駆け落ちはねぇ……子供じゃ有るまいし」
日野は呆れ顔で何度目かの溜息をつく。
「……ひょっとして、妹さんに似てます? 流衣ちゃん」
香緒里が核心を突く。
「多分ね……。それで居た堪れなくて、夜逃げ同然に村を出たって」
「え? 被害者なのに?」
「田舎なんてそんなもんよ、男が悪くても好奇な視線は女に行くの」
まだまだ根深く残っていた昭和時代の部落事情。主に農村部で色濃く残されていた。
「……」
香緒里は都会に住んでたわけでは無いが、そこまでの田舎事情はよく分からず黙ってしまった。
「追い討ちをかける様に、弟の方も博打で借金作って逃げたらしくてね」
「ええ⁈ そんな! それでどうしたんですか?」
「ご両親とお母さんで10年以上かかって借金返したみたい。その後父親が病気で亡くなって、母親も体壊してしまって、死ぬ前にどうしても孫の顔が見たいと言われて、お見合い結婚して、流衣ちゃんが生まれたそうなの」
流衣の母親と同年代の日野は、感覚的に心情が分かって心が痛んだ。
「……先生、それ、それじゃあ、流衣ちゃんのお母さんの人生って一体……」
さっきまで、怒りを感じていた香緒里もさすがに同情する。
「だから………色んな人がいるって言ったでしょ」
「何か、虚しいですね」
香緒里は複雑な心境になった。
「散々苦労した挙句、産まれた娘はその元凶を作った妹そっくりで、自分の好きな事をやる為に一生懸命な流衣ちゃんと、自分の欲望に忠実だった妹は同じ人種にしか見えないでしょうね」
「そんなの酷いです。流衣ちゃん何も悪くないのに、勝手に重ねられて、時代が違うと言われても納得は出来ません」
日野とは違い、香緒里はそれ程寛大にはなれずに、自然と怒りが湧いてくる。
「そうよ。だからね。あの子に海外で勉強させたかったの、お母さんと切り離したくて」
「だから、ローザンヌを薦めたんですか?」
「一番最初に見えて来たのがローザンヌだっただけよ。留学資格が取れて奨学金が出るコンクールに片っ端から出すつもりでいたんだけど、なんせ、震災の後食料品でさえ買うの大変だったからね」
——夏頃ようやく落ち着いてきて、気が付いたのが九月のビデオ審査だった、まだ間に合うって応募して。ダメで元々と思っていたから、通ったって分かった時は本気で鳥肌が立ったわ。
何度思い出しても興奮する日野は、香緒里に説明する為、震災の前と後の事を思い出として語り出した。
「中学に上がるときにね、流衣ちゃんバレエ辞める気だったの」
「そうなんですか?」
「美沙希ちゃんと話してるのが聞こえてね、あんなに楽しそうに来てるのに、どうしてなのか気になって、あのお母さんに聞きに行ったの」
「先生、以前からあのお母さんの事気づいてたんですか?」
「当たり前よ、『チケット代持てないので公演(発表会)には出しません』って言った人だもの。だから案の定。『バレエなんか続けて何になるの、バレリーナになんかになったって、食べていけるわけないでしょ!』って凄い剣幕で怒られちゃってね」
先生思い出して苦虫を噛み潰す様な表情になった。
「こうも言われたわ 『バレエ団に入ったとしても公演の度にチケット代持たせられて、一生親に世話になる気なの? レッスン代だって馬鹿にならないのに冗談じゃ無いわ!』って、……言い返そうと思ったけど、やめたわ」
実際、今の日本のプロのバレエ団はそんなにチケット代に縛られる事はない。けど、昔かたぎの人は聞く耳持たないだろう。それに習い事としてみるのならば中学になるとレッスン代は倍になる。本格的にやろうとするなら、更に多くお金が掛かるのは現実問題である。
「何か……耳が痛いです。公演に出る度、ウチの母も凄く困ってました。主役じゃないからそんなに枚数は来ないんですけど、売れるわけないから、ほぼ自腹ですもん」
香緒里は親に世話になった事を、大人になってありがたいと思えるようになった。
「月謝はそのままでいいから、続けさせて欲しいと頼み混んじゃった。……他の人には月謝の話しは秘密よ」
口に指を当てて香緒里にお願いする。
「もちろんです」
そんな裏事情話しても何のメリットもない。お馬鹿な烙印を押されるだけ。
その時までは、まだ打算的だった、流衣をかわいいとは思っていてもまだ一生徒で、優秀な生徒をクラスから減らしたくない一心だった日野。
「中三の時、『受験の為に暫く休みます』と言われた時、このまま辞めるんだろなって、もう帰って来ないんだろうなって何となく思ったの」
しかし、それまでの日常は全て震災で変わった。
3月18日、震災から7日目に流衣がふらっと現れた。
お互いの無事を喜び合うと、流衣は食べ物も満足に買えない状態の中、とても静かに大人びた表情で、流衣が日野に聞いた一言が心に響いた。
「先生、教室は……レッスンはいつからやるんですか?」
「誰がひとりでも来たら、いつでもやるわよ」
先生がそう答えると、流衣は嬉しそうに目を輝かせて。
「じゃあ明日、午後から来てもいいですか?」
流衣はそれだけ言うと、その日は帰った。
次の日、午後一番に現れると、真っ先にバーに向かった。そのバーに手をかけ、ゆっくりと頰つくまで両腕を伸ばし切り、目をつぶって感触を確かめる。まるで久しぶりに会う恋人との再会のハグのように見えた。ひとしきり懐かしんだ後、四ヶ月振りのバーレッスンを延々と三時間。丹念に身体を慣らし続けた。何かを忘れる為なのか忘れない為なのか。節電の為照明の必要な夜は無し、昼間だけ暖房も無い部屋でひたすらに続けた。
そんな日々が続き
「先生、私、家ごと流されたんです」
ある日、ボソッと流衣が口にした。
「ええ⁈ 大変だったんじゃない! よく……無事で良かった」
先生驚きとともに、何故今までいわなかったのかと、言おうとしたが〈言えなかった〉が正しいのだと悟りそれ以上はなにも聞かなかった。
「屋根の上まで登って助かったんですけど、私、気が付いたらレッスンバック握りしめてたんです。無意識にあんな時に、必死になってる時にバレエの物が詰まったバック持ってくなんて……って自分でも驚いて、私バレエ踊りたい、踊らなきゃって思ったんです」
先生は回想から目を覚まし懐かしむように微笑んで、香緒里に向き直った。
「大人になったのよね、それまでは踊るのが楽しくて、元気いっぱいに踊っていたのに〈踊れる事自体が幸せなんだ〉って、そんな踊りに変わったの」
けど、それが余計に母親の気に障ってる事も分かっていたが、どうする事出来ない。おそらく何をしても〈間〉に触るだろう。
「震災後……でも先生、私その前の流衣ちゃんの踊り知りませんけど、流衣ちゃんの踊り最近変わった気がしません? 柔らかくなったとゆうか優しくなった。とゆうか……」
香緒里のその言葉に先生は流衣を送迎している表情の無い男子を思い出した。その子といる時の流衣の嬉しそうな顔も、安心して頼り切ってるのも。
「まぁ、そうかもね」
バレエはほぼ恋の踊りだから、とても良い事だけど意識されると困るので、気付いて無い香緒里には、そのままでいてもらおう……そう日野は思ったのだった。
「逃げちゃだめだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃ駄目だ」
「?」
一臣が自転車を走らせていると、後ろから何か呪文の様なものが聞こえてきた。
泣いちゃだめ。と言う言葉を使うと本当に泣きそうだったので、違う言葉で自分を鼓舞してた流衣。みんなが色々考えて、衣装を作ってくれてる姿を思い描くだけで、胸がキュとなる思いがする。嬉しさが溢れる。その幸福感に浸って踊っていたけど、レッスンが終わってもまだ、暖かさに満たされて、心が淡い桜色に染まる。
「ひっとりっじゃないって……スッテキっなことっねぇ」
唐突に、小声だけどハッキリと歌った。
——さっきから約束違反の日本語で、しかも意味不明。突然歌うし……。こうゆう時のこいつは切羽詰まった状態で、ギリギリで必死の時。けど、なにを悩んでるかまでは届かない。それがバレエのことなら尚のこと俺は蚊帳の外で、静観するしかない。
約束違反の日本語は、取り敢えずスルーする事にした一臣。
一方で、流衣は心境が複雑過ぎて落ち着かない。アニメの名言を言ってみたり、歌ってみたり、自分を誤魔化そうとしてみたけど。
——やっぱり変。
焦る様な……駆り立てる様な……でも急ぎたくなくて。
行きたい、行きたくない。
バレエ踊りたい、上手くなりたい、何でみんな一緒じゃ無いんだろう、留学出来るって決まった訳じゃないけど……。
少し上を見上げて、複雑な感情の一番の存在をよくよくと見つめる。
——私が日本語で喋ってるのも、歌ったのも、気が付いてる筈がなのに、何も言わない……。
いつも通り……違う。
何か冷めてる気がする。最近、目が合うとすぐ逸らされる。でも何か言いたげで……聞きたいけど、聞けない。怖い。こんなに近くにいるのに、凄く……遠く見える、なんか苦しい……。
『大事に思ってる』 って言われて舞い上がったけど『大事』って『好き』とはちょっと違う気がする……。
臣くんが、ただ単に友達として『大事』って言ったんだとしたら、私、ものすごく取り違いしてる痛い女だよね。
同じクラスで席も隣りで、最初はなんとなく身近に感じて話しかけて、その内どんどん気になり始めて……。
でも臣くんって、頭は良いし、冷静で落ち着いてて、面倒みが良くて、優しくて、……カッコいい……。まるで別世界の人みたい。
それに引き換え、あたしなんかお手伝いも満足に出来ないし、頭は悪いし、のっぺら坊だし、取り柄と言ったらバレエだけで……。
あたし……えらい人好きになったんじゃあないだろうか。
こうゆうのなんて言うんだっけ……?
えっと『身分違い』
じゃなくて『身の程知らず』
そうだけど。
んーと、あ……『不釣り合い』……か。
考えて、考えて、考え込みすぎて、流衣は落ち込んでしまった。
いつになったらこの状況から抜け出せるんだろう。
〈Libera me〉
——ん?
頭の中に弾けるように出て来た言葉に、流衣の思考は誤作動を起こして止まった。
「I've arrived」(着いたよ)
一臣が声をかけた。
既に『時玄』の前まで来ていた。ここで立ち呑みスタイルのBARの様に、プロテインドリンクを身体に流し込んで帰るのを習慣化していた。
最初は帰りに立ち寄ってまで、飲まなくてもと思ったが、毎日続けていたら最近凄く調子がいい。
——流石コーチ……鬼だけど。
サッとお店を覗いて見ると。お客さんでいっぱいだった。
——混んでるって
「It's crowded.」
だよね。
「Oh well」(しょうがないね)
金曜日は大体こうだという意味を込めて、サラッと返事が返って来た、一臣の声に違和感はなかった。
——臣くん……普通だ。
ふたり静かに中に入り、流衣はいつも通り牛乳にプロテインの粉を入れてると……。
「that's less」(それじゃ少ない)
と指摘された
「It's This less?」(これ少ないの?)
手が止まった。
「another spoon」(もう一杯入れて)
一臣は助言した
「so many……」(こんなに多いの……)
今まで、少なく入れてたらしい。付属スプーン山盛り二杯なのにサラッと二杯しか入れてなかった。典型的な説明書読まないタイプ。それでも体調が良くなったので、結果オーライだった。
会話してると、一臣がいつも通りの口調だったので、めんどくさいと思われてると感じたのは自分の錯覚だったと流衣は安心した。それと同時に一臣の流暢な英語の発音に抑揚が感じられた。
「In English……」
語尾が濁ったので聞き取れなかった一臣は
「Sorry?」(なに?)
つい聞き返した。
——英語だと、臣くんの声に感情がこもってる様に聴こえるんだけど、それは私の良く耳かな?
なんて英語に訳せないよ。
「……Never mind」(何でもない)
そう言うしか無かった。
——こうして会話出来るだけで、楽しいからいっか。
プロテインを思い切りシェイクして、噛み締めながら飲み出した。
——うん、甘くて美味しい。
流衣が嬉しそうに何かしてる姿を、一臣はいつものように見入っていた。
「……?」
唐突に、その笑顔が消えかかって見えた。ギョッとした一臣は、頸を振ってから何度か瞬きした。
微笑んでる流衣の横顔がはっきりと見え、ホッとして胸を撫で下ろす。
——気のせい?
妙な胸騒ぎを覚え、それが暫く一臣の心を乱した。
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