第60話 ひとりじゃないの
教室の中を覗くとまだレッスン中だった。教室横の廊下を通り越して、事務室兼更衣室に入る。着替えて準備は整ったものの、教室はまだ使えない。流衣は事務室の机を借りて、小さなCDプレイヤーを使い、曲を聴きながらイメージトレーニングする。
——うん。この感じ……。
このイメージ通り出来れば……。
教室から、“お疲れ様でした” の声が聞こえてきた。レッスン終了の挨拶を耳にした流衣は、一刻も早く実践したくて、そそくさと教室に入って行く。
「おはようございます」
「おはようございます。お先しますね」
流衣が挨拶すると、30代以上の様々な年代の女人達とすれ違う。帰る人や残って、今日やったアンシェヌマンのおさらいをする人達の中を、流衣は頭を下げながら、間を縫うように、バーに着く。いくら早く実践したいと思ってもバーは省略しない、一番から丁寧に身体を伸ばしていく。
このバーレッスンを見ていた、居残りの大人バレエの人達が、流衣のバーが普通ではない事に気がついた。
「凄いわね。なんかレベルが違うわ」
ヒソヒソ話しが始まる。
「なんてまあ細いのかしら」
「……ねえ、ひょっとしてこの子じゃない? 海外のコンクールに出るって子」
「あららぁ、そりゃあ上手よね〜」
丸聞こえのヒソヒソ話を展開する無敵主婦軍。ダイエットや運動不足解消の為、と称して大人バレエを始めた人達は、ローザンヌには疎く、ただのコンクールとして消化していた。
流衣は今までバイトの時間、最近は『時玄』でのストレッチ時間だった為、この時間に来る事が無かったので大人バレエの人達と面識はなかった。
身体の向きを変え、右手でバーを始めると、自分を見てる大人クラスの人達が目に入る。集中し過ぎて噂話は耳に入らず、自分の事を噂されてると気付かずに、目があったので、ニコッと笑って頭を下げた。
「あら。可愛いい」
流衣の顔を正面から見た40代の女性が言った。
「上級クラスの女の子からお辞儀されたの、初めてかも」
以前に別の教室に通った事がある女性が言った。
他のスタジオのクラスの子が無愛想な訳ではない。クラス数が多い為、いちいち別のクラスの人にまで挨拶してないだけだが、たまにマウントを取る上級者も存在してるのは事実である。
「いいわねぇ、才能があって可愛い娘ならお母さんさぞかし自慢でしょうねぇ。うちなんて男の子だから羨ましいわ」
「あらミカちゃんも? うちなんか男3人よ。娘と買い物するのが夢だったのに……ほんっとつまんないったら……」
ひとり50代らしい女性が不満そうに言った。
「そういうものですか? うちひとり娘ですけど、好みが全然合わなくて、買い物行くと『ママの趣味ムリ』って言われますよ」
「そりゃそうよ、由美ちゃんの所はまだ中学生でしょう、女の子は結婚したら変わるもの」
自分がそうだった経験を語るミカと呼ばれる主婦が、同じ40代の由美という主婦に言った。
「ミカちゃんはまだ40なったばかりでしょ? もう1人頑張ってみたら?」
「頑張ってみて、また男だったらって考えたら怖くて産めません」
「わかるわ〜。うちそれで三人よ、寄ると触るとケンカするし、ちょと目を離すといなくなるし、今になると懐かしいけどね」
世間話しの花が咲き始め、主婦達は教室から賑やかに出て行くのだった。
流衣は一人きりになり、急に教室がシーンとなった。
「自慢なのかぁ……」
流衣がポツリと呟いた。
——あ、ダメダメ、集中しなくちゃ。
気にしない、気にしない。
改めてバーに向かい、足一番からゆっくり流れるように動く。
——優雅に、綺麗に、骨盤真っ直ぐ、右の股関節、角度注意して。
左は違和感なく入るけど、でも疎かにしちゃダメ。
はやる気持ちを抑え、バレエを踊る為のコンディションをしっかりと作っていく。
——うん、いい感じ。
バレエシューズからポアントに履き替える。
「……んふふっ」
誰もいないので、流衣が声を出して笑った。
——小三からはいてるのに、ここ何年かは毎日履いてるのに、ポアントを履く瞬間、好きっ。
ポアントの感触を手で確かめて、ゆっくりと足を滑らす様に入れて紐が足にフィットする用に緩くもキツくもなく締めてゆく。
——うん、今日も良く出来ました。
さて、実践!
スワニルダは三拍子だから、四拍子のオーロラでやってみよう。
曲をかけて、まずはいままで通りに動く。練習用のCDなので、同じフレーズを繰り返す、そのまま2回目、アティテュード、パッセ、シャッセを繰り返す。流衣は一連の動作を半拍子まえから動き出す。
——4の後でアチテュード、1で止まる次はパッセ。シャッセ早く、ピケで脚を入れ替えて4の後ろで次の動き、1は確実にキープ。バランセも引き上げの位置を高く、下げない。
うん、これ!
破顔一笑。
——踊る時、ずっと悩んでた違和感。しっくりこなかったのは、踊り方じゃなくて、動くタイミング。曲に乗るってこういうことだったんだ。
流衣は嬉しくなって、ペザント、スワニルダ、フロリナ等、試行錯誤しながらも、一つ一つ踊りながら確かめていった。
その流衣を窓の外から眺めている人物がいた。教室の窓は『時玄』とは逆。外から見えて、中からは鏡仕様になっている。
「美沙希ちゃん?」
戻って来た先生が流衣と同じ上級クラスの美沙希に声をかけた。
「どうしてここから見てるの? 中に入れば良いのに」
そう言ったあと、日野も続いてなかを伺った。
「……凄いな、と思って」
「流衣ちゃん?」
昨日迄と違う流衣の動きに、日野は我が目を疑うほどだった。
「先生……私ね、流衣ちゃんがローザンヌのビデオ審査通ったって聞いて、私も出せば良かったって思ったんです」
美沙希はこの教室以外に、仙台で一番大きいバレエスクールにも通っている。色んなコンクールに出場してて、中学三年生の時埼玉のバレコンで、6位入賞した強者。その美沙希に遜色なかったのが流衣だった。
「良かった、出さなくて」
ローザンヌ国際バレエコンクールは技術より将来性を見るもの。
ここ数ヶ月の流衣の上達ぶりには、周りの人達が驚きを隠せなかった。
「私の方がキレイに踊れると思ってたのに、いつの間にこんなに差がついたんだろう」
——流衣ちゃんの踊りはいつも可愛いかった。
それが、可愛い部分に華麗さが加わって、何だか凄く可憐に見える……。
私には絶対に出来ない踊り方。
「流衣ちゃんっていつもそう。私の方が先に行ってると思っててもいつのまにか目の前にいるの、凄く悔しい」
二人が競うように上達するのを、間近で見てきた日野は、美沙希にどうフォローするか、思い悩んでいた。
「人には伸びる時期がある、流衣ちゃんはきっと今なのね、あなたはこれからよ」
先生は美沙希をなだめる様に言った。すると美沙希が笑顔になり、弾き返す返答をした。
「やだなぁ先生。慰め無くても大丈夫です。羨ましいけど妬んだりしてませんよ、私」
美沙希の表情は、日野が驚くほど晴々としていた。
「流衣ちゃんにはもっと先に行って欲しい、行けるとこまで……」
美沙希が、そうは言っても少し寂しげな顔をするが、何かを決心するように、表情を切り替えて部屋の中に入って行く。
日野は小さな頃から見てきた美沙希が、自分が思っている以上に大人で、流衣との間にライバル以上の絆があると感じた。
「美沙希ちゃん!」
流衣は、美沙希に気が付き音楽を止めに行く。
「流衣ちゃん! 凄く良い! どうしたの? まえのレッスンの時と踊りが違うよ?」
美沙希はさっき見た衝撃をそのまま伝える。
「ホント? 良くなってる?」
自分で見るのと客観的に見るのでは違いが出るので、一番身近なアドバイザーである美沙希に褒められて思わず高揚した。
「うん。なんて言うか、軽くなって……美しかった。ヨーロッパの人が踊ってるみたい。どう踊り方変えたの?」
「私も聞きたいわ」
美沙希の後に入ってきた先生も興味ある。
「踊り方とゆうか……アクセントの取り方を変えてみたんです」
「アクセント?」
「リズムカウントのアクセントを半分前に」
流衣は言葉で上手に説明出来ないのがわかってるので、踊りながら説明する。
「イタリアンフェッテだとすると、1・2、でエカルテ、ドヴァンのデヴェロッペ。3で回転、4でアティテュード。これを、1の前から動いて、1の後半から2まで、デヴェロッペをキープ。3より少し前から速く回転して4でアティテュードをキープ」
美沙希と先生は目を大きく見開いて流衣の動きを見る。しかしこれは音楽が無いと、微妙な違いが分からない。
「流衣ちゃん、音楽かけて踊ってみせてくれる?」
「はい」
先生が曲の準備をする。イタリアンフェッテと言ったので、コッペリア第3幕のスワニルダのバリエーション。
音楽がかかり、流衣は踊り始める。すると、明らかな違いがハッキリとしてきた。流衣が言いたかった事、今までと動きは変わらない。
けど、半テンポ早く動き始めることで、流れるように見える、それによってキープも長く感じる。もちろん回転や切り替えなど、若干速く動いてはいるが、技術的にはそれ程違いはない。気持ち良く踊り終えると、にっこり笑って軽くレヴェランス。
「……綺麗」
美沙希はそのまま感想が出た。
「……」
先生は言葉にならなかった。
——半テンポ上げて。回転を速くして、言葉で言うのは簡単だけど、それが出来るなんて。流衣ちゃんの順応力の高さには本当に驚いてしまう。
これは……でも……。
「テンポを変えただけで、こんなに曲の雰囲気が変わるものなの?」
美沙希の流衣に対する質問で、日野は思考が遮られた。
「うーんとね、半テンポとゆうか、ひとつのカウントを前半と後半に分けたの」
「分ける?」
「そう、それでカウントが倍になって、細かい所で動きを完結させて、素早くキープに移るってのをやってみたら、長くキレイに見えるようになって……」
説明してる間に、流衣、訳がわからなくなって来た。
「え?」
「ン?」
当たり前だか、先生も美沙希も『なんの事?』と混乱状態。
——えーと、踊りに表情を付けようと思って早く動くと
流衣、頭の中で説明のシュミレーションをしてみたが言葉にするとやはり上手くいかない。
「もういいよ、流衣ちゃん」
美沙希がそんな流衣の肩をぽんぽんと叩く。
「そうね、流衣ちゃんが分かってるならいいわ」
ふたり共、流衣の性格をよく理解していてこれ以上追求しない。
「それは錯覚効果」
「?」
後日、流衣はその出来事を一臣に話した時、そんな言葉が返って来た。
あっさり答えた一臣に、流衣は〈疑問符〉しか出て来ない。
「視覚効果と同じく、同じ線でも、矢印(→)の矢先の向きを変える事によって、長さが違く見えるのと一緒で、動きの長さが同じでもひとつの音で見るのよりも、ふたつの音を跨ぐ事によって長く感じる。視覚と聴覚を同時に錯覚させてる効果だよ」
「なるほど」
——何で臣くんは、あたしが言った事すぐ説明出来るんだろう……。
誰も私の話を理解出来ないのに。
あたしでさえ自分の言ってる事わからなくなるのに……。
一臣の説明を聞いて、流衣は不思議過ぎて謎の境地に落ちる気分になるのだった。
「おはようございま〜す」
変化を遂げた流衣の踊りを見て、感動冷めやらぬうちに、発表会の時の虫垂炎騒動からすっかり立ち直った陽菜が元気に入って来た。
今日はこれから上級クラスのレッスンである。
「おはよう。陽菜ちゃん今日は早いのね」
いつもギリギリの陽菜に日野はからかうように言った。
「今日は約束だもん。みっちゃんも柚茉りんも来たよ」
「おはよう陽菜ちゃん。約束ってなあに?」
流衣は何のことか分からず陽菜に聞く。
「あ、こらっ、陽菜!」
美沙希は慌てて “しーっ” と、指を口元に当てて陽菜を叱った。
「あっ、ヤダ」
陽菜も焦って口を塞ぐ。
「?」
あれ? って顔をする流衣。
「もー、ダメやなぁ陽菜。バレるやん」
「おかし〜。でも、光莉ちゃんも来たから大丈夫よ」
とクスクス笑いながら柚茉が入って来た。続いて光莉も入って来て、いつもの顔ぶれが揃った。
「これで全員揃ったね。じゃ」
美沙希が廊下に置いて隠してた、大きな紙袋を持って来て、流衣にフンワリと差し出した。
「皆んなからのプレゼント」
サプライズプレゼントが用意されていた。
「えっ?」
流衣は驚いて皆んなを見渡した。
「ありがとう。でもどうして?」
「やだなぁ、ローザンヌ出場のお祝いだよ」
光莉がクスクスと笑いながら言った。
光莉の笑顔に安心した流衣は、喜んで受け取ると大きさの割に軽い、その中身を瞬間で理解した。
「わっ……」
流衣が開けてみると中から出て来たのは、ふんわりとした、ロマンチックチュチュ。小さなエプロンがついた村娘らしい、スワニルダの衣装だった。
「あら素敵!」
日野が思わず声を発した。
オーガンジーのふんわりとし部分は黄緑色、生地が重なってる部分だけ色が見えるくらい淡い色合い、エプロンの所がこれまた綺麗な若草色。
——なんて可愛いの……。
流衣はクリっと目を見開き、衣装を広げて見惚れて声が出ない。
「すご〜い、美沙希ちゃん。売り物にしか見えないよ」
光莉が絶賛する。
「美沙希ちゃんの手作りなの⁈」
流衣は超びっくり顔を美沙希に向けた。
「違うよ、元々形があるものアレンジしただけだからそうでもないよ」
手先が器用な美沙希にとって、この程度のアレンジは朝飯前。
「凄いキレイ。それに胸に付いてる花やテープも可愛い。それに、凄く軽い」
スワニルダに限らず、村娘役の衣装はフワッと感を出す為に生地を何枚も重ねる為、見た目のフワッと感とはほど遠く重い。けどこれはチュチュと変わらない程軽かった。
「これも結構重かったの、古い衣装だったから」
と美沙希。
「皆んなでね、お祝い考えていた時、やっぱり衣装がいいよね。お話してたの」
光莉がみんなの顔を見渡した。
「普通に買うとたかいし、レンタルだと、皆んなピンクとかオレンジとかよくある色ばっかりだし」
陽菜がつまんなそうな顔をして言った。
「そん時にうちな、衣装大放出してんの見つけてん、ネットで」
理子のドヤ顔。
「この色だと〈四季の精霊〉の春と色被るって話したんだけど」
柚茉の一言は、発表会の準備中と時期が被っている事を物語った。
「流衣ちゃんこの色似合うよねって、皆んなの話しで決まって、美沙希ちゃんに手直しして貰ったの」
「そんなに……」
みんなが考えてくれてたなんて知らなかった流衣は、感激してそれ以上言葉が出ない。
「エプロンとか生地屋で買うたけどな、花やテープは百均やねん、チョー安く済んだんやそれ」
「みっちゃん、安いとか言ってダメじゃん」
「何で? ええやん、その方が気ィ使わんやろ?」
安い自慢の関西人、心情を語る。
「スカートの生地がね、5枚も重なってもたついてたの、だから思い切って3枚取っちゃった」
陽菜とみっちゃんのノリツッコミをサラッと聞きながして、テヘペロ顔の美沙希が言った。
「生地が少ないのに、こんなにふんわりしてるなんて……どうやったの?」
日野は興味深々でスカートを眺め回す。
「裾に入れたテグス二重にしてみました」
裾テグスまでは、衣装には結構使う技である。
「外した生地をちょっと使って、スカートを〈全円〉にして、フェッテの時もたつかないように、縦にもテグス入れました。パッセで脚を上げる角度の邪魔にならないように斜めに」
皆んな一斉にスカートに注目。
「本当だ」
「この位置、絶妙……」
「美沙希ちゃん凄〜い」
「……職人」
「自分、これで食っていけるんちゃうの?」
「流衣ちゃん、泣いちゃダメ!」
陽菜が叫んだ。その通りウルリと来ていた流衣。
「まだ早いよ、これ着て本選に出ないと」
光莉が諭すように言うと、流衣は必死に堪えた。
「表彰式はクラシックの衣装だよね」
だから頑張ったんだからと言いたげな美沙希。
「これ着て、うちらの名前言うてぇな、まっとるで」
ローザンヌはアカデミー賞では無いので、コメントは言わない、賞を受け取るだけ、勿論、皆んな知っている。理子なりに励ましたのだ。
皆んな、笑いながら、そうそうと頷いた。
「うん、そうだね。頑張ってくるね」
泣かずに喋れるのがこれが限度だった。
〈ありがとう〉と、言ったら間違いなく泣く。
ローザンヌ挑戦の為、気を張ってた自分がひとりぼっちになった様な気がしてた流衣は、みんなの優しさとその励ましに触れて、踊る事の楽しさと褒められる事の嬉しさを思い出して、心が暖かくなっていくのを味わい噛み締めていた。
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