第58話 アンフェア
ご飯を食べてストレッチと筋肉トレーニングを終えても、一臣は姿を現さなかった。流衣はバレエ教室までバスで行こうと決意する。まず、バス停まで5分歩いて、この時間に1時間に2本しか無いバスに乗る。しかしこのバス、循環するので、住宅地をグルッと一周。25分も乗る。そして別路線バスに乗り換えて、更に10分。そこから更に8分ほど歩いて到着。約50分、乗り換え時間のモタ付きを考えると、1時間はかかる。いつもだと、一臣に自転車で送ってもらい20分程で着くので、この差は大きい。
——このバスに乗ってる時間、スッゴイ損した気分……。自分でチャリでここまで来るのでさえ、早くて楽だと思ってたけど、その自転車が壊れてからずっと臣くんに送ってもらって、その頃より早く着いてたのって凄い事だったんだ……。
一臣は信号で停まらないように、道を切り替えて走っていただけなのだが、乗ってるのはマスターのママチャリで、26インチでタイヤサイズは同じ、変速ギアなし、近道無し。それなのに何故早いのか流衣は分かってなかった。
——こき使っていいとは言われたけど、トレーニングから送迎から何もかも頼りっぱなしで、さすがに面倒くさくなったのかな……。
……ダメだ、考えすぎでわけわかんない、とにかく今は踊りに集中しよう。
着替えてレッスン室に向かう。先程までトレーニングしていたので、バーで、軽く5番まで確認して、身体にこれから踊ることをいい聞かせる。そして、コンテンポラリーからはいる。
「うーん」
唸ってしまった。
ローザンヌに挑戦する為にコンテンポラリーを始めてみたものの、DVDを観だからといってわかる物ではない。自己流解釈では限界があり、金田先生のツテで、コンテの先生に教わりには行ってきた。美沙希にも日野にも見てもらってお墨付きは貰った。
『コンテの解釈はひとによって様々だから、あなたの理解で表現するのよ』
コンテのハナ先生に言われた事を思い出す。
——解放かぁ……。
流衣はコンテンポラリーをひと通り踊った後、やはり何か物足りなさを感じた。けれどこれ以上やっても答えが出ない気がしてため息が出た。
本日の通常のレッスンは中学生のクラス。陽菜は今日お休みという事で、とても静かレッスンになった。バーとセンターが終わり、踊りの振り付けに入ると流衣はそこには参加せず、一人離れて自分のクラシックバリエーションの練習を始めた。
レッスンが終わってからも、流衣はひとり残って、黙々と鏡と向き合い、眉間に皺を寄せ悩んでいた。
「なんか違う」
ボソッと独り言。
——何かが違う、とゆうか、こうじゃない……。
なんだろう、この動き……決まらない。鏡のせいかな、正面からしか見えないから?
ううん、それも違う。前に、先生にビデオ取って貰って客観的に自分を見たけど、同じだった。
「流衣ちゃん大丈夫? もう11時を過ぎてるわよ」
鏡を相手に悩みながら色々とやっていると、日野が心配して顔を出した。通常のレッスンは9時で終わり、その後みんなで掃除、だいたい9時10分頃には退出する。オーバーワークにならないように10時までにするようにと先生から言われていたが、今日は11時を回っていた。
「先生。ごめんなさいもう少しいいですか、わかりそうで解らない所が……」
「気にし過ぎじゃないかしら、こん詰めても結果は出ないものよ?」
「んと、もう少し……」
日野は注意するのだが、しっくりこないまま終わりたくない流衣は食い下がった。
「私は事務処理があるから大丈夫だけど、いいの? あの男の子1時間以上、外で待ってるけど?」
「ええっ!」
流衣、驚く事山の如し。
すっとんきょうな声をあげて携帯を見る。
——ウソ!
私メールしてない、臣くんからも何も来てない!
1時間どころじゃないっー!
「やだっ」
慌てて外に出ようとして、ポアントを履いたままだと気が付いて止まった。
「ああっ!」
急いでトゥシューズを脱いでひとつにまとめ、バックにしまって外に駆け出す。
「流衣ちゃんったら……、ポアントだけじゃ無いでしょうに……」
あっけに取られて、止める間もなく行ってしまった流衣に日野は苦笑いしてしまった。
「臣くん!」
一臣はいつもの門の所で待っていた。呼ばれたので振り向くと、水泳のクイックターンさながらに視線が泳いだ。
「ごめんなさい。メールするの忘れて、待たせちゃって」
「いいけど、それ……」
一臣の泳いだ視線が、自分の身体に戻って来たのに気が付く。
「!」
ノースリーブレオタードにスニーカーとゆう、珍妙な恰好で公道に出ていた。只今の気温0度。多くはない通行人の好奇な視線が痛い。あまりの恥ずかしさに、悲鳴も上げられず口元を押さえてスライドする様に一臣の後ろに隠れた。
「このまま中までお願いします……」
「いいけど」
流衣を背後に隠した状態のまま、帆立が移動するみたいな動きで入口まで行くと、笑いながらジャージの上着を手に持つ先生の出迎えを受けた。
「慌てるからそんな格好で、風邪でも引いたらどうするの」
ジャージを羽織らせながら、軽くお説教する先生。
「すみません。着替えてきます」
流衣はコソコソと更衣室に向かった。
「やれやれ」
先生改めて一臣を見る。目があったので一臣は小さく頭を下げた。
「いつもご苦労様だわね。流衣ちゃん、バレエ以外の判断基準が気薄だから大変でしょう」
長い付き合いなので、先生は流衣の性格を理解していた。
「……別に」
いつもの淡白で無表情な一臣。けれども先生は普通の男子高生とあまり面識がない為、こんなものなのだろうと思って、気にして無かった。
「でも良かった、あなたが送ってくれる様になったから私も一安心よ、いつも夜遅くひとりで帰ってるから、気が気じゃなくてね」
若い娘ばかり預かっているので、先生も苦労していた。
「流衣ちゃんだけなのよね、親御さんの送迎が無いの。まあ、あの子のお母さんバレエ嫌ってるから仕方ないんだけど、それにしても……」
日野はそこまで言ってから “しまった言い過ぎた” と目を見開き口を濁した。
他に人が居ないのでつい気が緩んだ。
「いけない、来月のスケジュール作らなきゃ。暖房効いてるから、あなたはこのレッスン室の中で待ってて。流衣ちゃんの事よろしくね」
部屋のドアを開けて、一臣に中に入るように誘導した後、付け足すように言い残して、日野は事務屋に帰って行った。一臣はさっきまで流衣が鏡と睨めっこしてた部屋で、先生のセリフが以前自分が流衣の母親に感じた違和感と同じだと思った。日野は『流衣ちゃんのお母さんバレエ嫌いだから』といったが、違う事はよく分かってる。
——母親は流衣を嫌ってる。
……バレエじゃなくとも、流衣がやっている事は、全て否定するはず。
流衣が毎日居るこのレッスン室の中を、一臣は鏡に映りこむ自分を取り込み見渡した。グラウンドで走り回っていた自分が見ていた景色とはかけ離れた、鏡と手摺りだけの部屋の中で、音楽と人によって様々な空間に生まれ変わり、離れた時代へとタイムスリップし、まさに夢の中へ
流衣が全てをかけてここに来る理由。
——現実逃避は罪じゃ無い。
むしろそうするべきなんだ……心の平穏の為に。
それに引き換え……。
自分の姿を見て、一臣は自分の行動の不様さに
呆れていた。
ガチャ、とドアが開いて、制服に着替えた流衣が入って来た。
「……待たせてごめんね」
シュンとして謝ってる流衣を見ると、髪の毛が濡れている。レッスンが終わるといつもシャワー浴びてから帰るのだが、今日は一臣を待たせているので急いで浴びて、乾かすのもそこそこで出て来たことが伺える。
——そんな濡れた髪で外出たら風邪ひくし……。
一臣はひとつ溜め息をつくと。
「クールダウンは?」
「あ……」
“ここでやって” と指で床を示す一臣。
流衣は大人しく柔軟を始めた。暖房が効くこの部屋で、10分も居れば髪が乾くと判断した一臣の行動に流衣は気付かない。
キレイに開脚して一臣に注意された事を思い出して右脚に気を付けながら流衣はストレッチする。
それをゆるい体育座りで眺めながら、一臣はゆっくり口を開く。
「俺、整体の資格あるわけじゃないから」
流衣は視線だけを一臣に向ける。
「資格?」
「トレーナー資格を取れるのと、同じ勉強したから筋トレやストレッチは解るけど、整体は国家資格が必要で、骨の事に関しては……出来ない」
正確には、柔道整体と鍼級師が国家資格で、他の整体、トレーナーの資格はその流派事の試験がある。
「バレエの柔軟性はスポーツトレーナーの域をちょっと越えてる」
「そうなの?」
「バレエや新体操は専用のトレーナーがいる」
流衣は一臣が何を言いたいのか考えた。
「……だから今日来なかったの?」
「見てたら……、余計なことやりそうで、邪魔しそうだから」
流衣の問いかけに、少し間を開けて一臣は答えた。
「えっ、やだ、邪魔じゃない」
流衣は改めて一臣の真ん前に向き直った。
「ひとりだとフォームが合ってるかどうか分からないし……だから側にいて見てて欲しい」
流衣は心細くて、一臣にそばにいて欲しくて仕方ない。
「……俺でいいの?」
「うん。一緒にいて」
思い詰めた顔で必死でお願いする流衣に、一臣の心が緩んだ。
「了解」
「ほんとに?」
流衣はホッとして胸を撫で下ろした。
安堵の表情の流衣からようやく視線を外して、一度うつむき続いて窓の外を眺めてから、一臣は鬼コーチの顔に戻り提案する。
「もうひとつ必要」
「えっ」
——何? 今度は何⁈
折角ホッとしたのにっ。
胃のキリキリから心臓がドキドキに変わる。
「今から俺との会話、日本語禁止で」
「はえっ?」
流衣の日本語がおかしくなる。
「え、英語で? 喋るの?」
「オッケイ?」
一臣はわざと、ベタに来た。
「ウソっ、もう⁈」
困惑する流衣を尻目に頷く一臣。
「は……、イエス」
——何これ⁈
臣くんの新しい嫌がらせ?
何でこう次々……私、本当は物凄く嫌われてるんじゃないだろうか……。
悩んで悶々と考える。横で一臣がボソッと言った。
「……it dry」(乾いたかな)
「え? あ、パードン?」
聞き取れなかった。
「Let's bounce?」(もう行く?)
「イエス。……臣くん発音完璧なんだけど……」
心の声ダダ漏れである。
「I'm not god at English」(俺、英語苦手だけど)
「……嫌味にしか聞こえないんですけど」
聞き取れても喋れない。英語科一年生女子。同級生の男子からやたらと劣等感を刺激される。流衣はエアコンと証明のスイッチを切って外に出る。
「What happens break your promise?」
先に外に出た一臣が振り向きながら言った。
「ブレークプロミ……」(約束破ったらどうなる?)
一瞬ドキッとするが、拗ねている流衣はさらにムキになった。
「分かってるってばっ」
靴を履きおえて、前を向いたら一臣と目が合ってしまう。数歩程前に居た一臣は立ち止まり、流衣を見つめる。
——あれ…?
何か……雰囲気が……。
一臣がゆっくり自分の方に近づいて来る。
——え、うそだよね。
流衣は心臓が早鐘の様になるのを感じた。後ろに引いたが、すぐ入り口のドアで塞がれそれより下がれない。目の前まで来た一臣は流衣の顔に手を伸ばす。その瞬間、手で顔を隠してガードするかの様に下を向いた。
——あれ?
不意に首の周りが暖かくなった。一臣が自分のストールを流衣に巻いたから。
「Estoy en problemas si me restrio ahora(今、風邪引かれると困る)」
流衣はキスされるかと逃げた自分が恥ずかしかった、しかしそれより一臣の発音が違う事に気が付いた。
「えすとい、えん……? 英語?」
一臣、変換し忘れました。英語よりスペイン語が楽な一臣は、一度スペイン語で考えてから英語に直していたので、不具合が出た。
「Es espanol(スペイン語だけど)」
「I'm not saying only English(英語だけとは言って無い)」
確かに「日本語禁止」と言っただけだった。
「ええっ、ず……」
聞き取れたけど、返せない。
「ずるいって、なんて言うんだっけ?」
「Unfair」
真面目に答える。
「あ、そうだ、アンフェア、アン……あ、んーと。臣くん、やっぱり明日からじゃダメ? 何か今日疲れちゃって、頭が回んないの……」
流衣とうとう降参しちゃいました。ちょっと涙目。
その表情に一臣、ドキリ。
「帰ろ?」
一臣は黙って自転車にまたがると、流衣もいつも通りカバンを自転車のカゴに乗せ、後ろに座り右手で一臣に掴まった。左手は一臣に掛けてもらったストールに触れギュッと掴んだ。
「臣くんのストール暖かいね」
筒状の筈のスヌードにある縫い目に違和感を感じても、それ以上何も言わずに、一臣の背中にもたれかかった。
走りながら、流衣の存在を背中で感じてる一臣は、その行動が不思議でしょうがなかった。
——自分からは平気でキスして来るくせに、俺が近づくと逃げる。かと思うとこうして背中にくっ付いて来る……。
流衣ちゃん判断基準が気薄だから。
こいつ、それを本能的にやってんだわ。
ふたつの言葉が浮かんできた。
「Escuchame . pero…esto no esta mal(聞くだけ野暮、けど……)」
今日、何度目かの溜め息と共に呟く。
——臣くん、今何か言った、スペイン語かな。
流衣は一臣の背中に頭をつけたまま動けなかった。体力と気力の限界点に到達。朝イチの一臣のスルーでのショック状態からのひとり筋トレ。メール忘れて二時間以上待ちぼうけさせてしまうし、明日からはトレーニングに付き合ってくれると言われてテンション上がったかと思えば、日本語禁止令で思考停止して簡単な単語も出てこなくなってしまった。
「臣くん」
自転車走行中に小声で言われたので聞き取れなかった一臣。けれど、聞き返したりしない耳を澄ませて次の言葉を待つ。
「私……、ポンコツでごめんね」
〈ポンコツ〉
「Asi se…… pero, no esta mal(そうかも……けど、それも悪く無い)」
——臣くん、何か言ってるけど、スペイン語だよね。全然分かんない、ずるいなぁ……。
あ、アンフェア……。
声を出せないほど疲れ果てて、その日、流衣の一日は終わった。
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