第56話 追憶の檻

「…すげぇ、曲がりなりにもやり切った」

いつの間にか仕込みが終了してたハクが、タバコを咥え文字通り〈上から目線〉で言った。

「座って」

一臣が死屍に声をかける。

「まだあるの……」


——うそぉ、もう1ミリも動けない、おなかまげるのもつらい……。


「ストレッチ、クールダウンしないとせっかくの筋トレが無駄になる」

「ストレッチ……」

よろよろしながら座る。

「内転筋から」

「内てん……」

「内太もも」

漢字が脳内に浮かばず、どこの部位か考えるよりも早く、一臣が答えた。

「開脚ね」

流衣は開脚して上半身前屈。床に紙一枚入る隙もない、ストレッチとゆうよりリラックス。筋トレにくらべたら。

「寝ちゃいそう……」

流衣がボソっと言った。

「プランクもう3分追加する?」

聞き逃さない一臣。

「また? 何で⁈」 

メニューをこなした筈なのに、追加しようとする一臣が真面目に鬼に見える流衣。

「余裕ありそうだから」

「地獄耳……」

「何か言った?」

聞こえなかったのか、聞こえないふりをしたのかは不明。

「誤解ですコーチ、ストレッチだからです、筋トレは本日活動限界です」

『もう、土下座でも何でもするので許して下さい』くらいの流衣。

「ストレッチも活動限界まで」

「これ以上どうすれば……床に潜るの?」

とゆう流衣に対して一臣は。

「ここ」

流衣の右脚の位置を確認しながら、骨盤をぐっと押した。

「あれ?」


——なんか違う。何でだろう?


「股関節が入って無かった、右脚気をつけて」

「右脚……」


——そういえばいつも痛めるのは右脚、この間捻ったのも右脚、それ股関節からきてたの?

前に臣くんに〈タックイン〉してるって言われて、すごいショックだったけど、それもなのかな……。


そしてストレッチは続き、内転筋、大臀筋、腹直筋の上下、外腹斜筋、今日筋トレした所念入りに。更に、脚、ふくらはぎ、背中、足首、腕、手、肩、首、と、筋トレしてない部分も。

「今日から、毎日このルーティンでやる。筋トレは毎日違うけど、ストレッチは同じ事やるから覚えといて」

「筋トレはどうして同じじゃないの?」

流衣は素朴な疑問を一臣に投げかけた。

「筋トレした部分は一度筋肉が破壊されて、治るまで約48時間かかる。その治った筋肉の上に新たに筋トレして始めて筋肉が付く、毎日トレーニングすると筋肉を破壊し続けることになるから意味がない」

「そうなの?」


——知らなかった……毎日するのがいいと思ってた。

筋トレだけじゃなくて、ストレッチも今までやってたのと質も量も違う。

ルーティン……全然頭に入ってないけど大丈夫かな?


関節から筋肉に至るまで、初耳学が多過ぎてキャパ越えな流衣は、動きを止めて考えた。

「まだ、ストレッチ終わってないけど」

「えっ、ウソ、まだあるの?」

終わったと思ってた流衣は完全リラックスムードが一転、今度は何⁈ と恐々。

「仰向けに寝て、膝抱えて」


——ダンゴムシみたい。


「左右に揺れて」

ユラユラと揺れてみる流衣。


——あれ、これ……。


「臣くん、これどこのストレッチ? 気持ちいいだけなんだけど」

流衣が気持ち良さそうに揺れてるのを横目で、眺めながら。

「ご褒美」

本当は腰のストレッチ、けど流衣にその説明はいらないと一臣は思った。

「ご褒美?」


——そんなのあるの? でも、確かに。


「ふふっ、うん、これ気持ちいい」

ちょっと楽しくなってきて、流衣は笑いだす。

「手足を上に挙げてぶらぶらして」

「こう?」

言われた通りに、ぶらぶらと手首と足首を揺する。

「これで、先端に集まってる血液を促して、心臓に送る、最後はこれで締める」

一臣の説明を聞いて流衣。

「これ凄く楽しい、やってて良かったっ」

楽しそうな笑顔が、さらに嬉しくなって笑い出した。そんな和やかな雰囲気になっていると。

「やっぱり、女の子が居るっていいなぁ」

声が聞こえて来た。

「だから! いきなり俺の後ろに立つなっつーのよっ」

世界一のスナイパーの声に、マスターが帰って来たのを皆んな気が付いた。

「マスターお帰りなさーい。今日はどうだった?」

ご機嫌な流衣。

「うん。勝ったみたいなもんだよ」


——また負けたな。

……まあ、武士の情けで言わんといてやるわ。


マスターのチョイ負けの言い訳を、義侠心を駆使して心で呟くハクは、詰まるところ同じ星の人で有る。


「マスター、マスターのプロテイン流衣に貰っていい?」

一臣はマスターに確認を含めて頼んだ。

「プロテイン? まだあったっけ?」

しかし、マスターはプロテインの事などすっかり忘れていた。

「まだって、3キロもあってほぼ残ってんのに? しかも味の違い確かめるため、一杯ずつ飲んでそれっきり放置のくせに」


——しかも、ココア味、バニラ味、ストロベリー味って乙女かよっ。


武士の情け継続中のハク。

「あー、飲まねーなら捨てろって、ハクに言われてたやつか! 僕の三日坊主が役に立つとは思わなかったな、飲みかけでいいなら全部あげるよ」

マスターは仏の微笑みを浮かべる。

「ありがとうマスター」

流衣は大きく手を振った。

「ほら、だからいつも言ってるだろ、何でも捨てればいいってもんじゃないよ、立派に役に立つじゃないか」

ドヤ顔のマスター。

「いや、そこ偉そうにすんなよ。断捨離じゃなくて、買う前に考える方向性でいってくんね? 余計な物が多くて、必要なもんが入んねんだよ!」

店の管理を丸投げ状態にされてる従業員。キレる。

「まあまあ、お店も好きなだけ使っていいからね、頑張るんだよ、流衣ちゃん」

ハクの話は半分で、とことん流衣に甘いマスター。

「うん。私、頑張るね」

流衣は、今、マスターに手を振った時に走った前半身の痛みに衝撃を受けた。


——これ、筋肉痛……?

ウソ⁈

もう? 

これからレッスンあるのに。

あたし……このあと動けるんだろうか……?


しかし、その不安はレッスンが始まった途端、解消される。


バーについた。


——あれ?


スッと、アンディオールが入る。

タンジュ

足が床に吸い付いてるみたい。

グランバットマン

勢いが無くても素直に伸びる。

センターへ

腹筋が痛いせいでそこに意識が集中。

自然に引き上がる。


——これって……!


パンシェ

力まずに足が上がる。

アラベスク

身体の中心が決まる。

シェネもピルエットも

最後の一回転に反応出来る。


——身体が正しい位置に勝手に入って行くみたい……!

凄い、楽しい!


側で見ていた先生も気がついた。

「流衣ちゃん。今日どうしたの?」

「え、変ですか?」

「いいえ、凄く自然に引き上がってて綺麗よ」

流衣の顔がパッと明るくなった。

やっぱり、先生から見ても違うんだ、

これが、筋トレの成果なの?


「ストレッチだよ」

帰り道で一臣に今日のレッスンの話をするとそんな答えが返ってきた。

「筋トレの効果は一日じゃでないから、それはストレッチ成果」

「そうなの?」

「ストレッチで筋肉が柔らかくなったせいで、骨格か、関節が正しい位置に戻って、動かす時に違和感が無くなっただけ」

「そっか……」


——そういう事なんだ、だからストレッチって大事なのね。

今まで先生に筋肉の疲労を取る為って言われてやってたけど、やるからにはちゃんと意味があるんだ……しかも、奥が深い。


『メンテナンスが全然足りない』と言った一臣の言葉の意味を、ここでようやく流衣は理解した。

「臣くんって凄いね、まるで整体の先生みたい、なんでこんなに詳しいの?」

その問いに一瞬、一臣の体に力が入った。


——あれ?

……臣くんの顔がこわばってる。

私、地雷踏んじゃった⁈


流衣が久々の地雷原到達にどきどきした。

「姉貴がスポーツトレーナーで、中3で怪我した時勉強させられた」

一臣は姉が亡くなってから初めて口にした『姉』という言葉に、自分でも驚く程自然に出た事に戸惑いながらも話し始めた。

「怪我したの?」

一臣は素直に頷いた。

「中3の時に練習試合で捻挫して、次の日の試合に出ようとしたら『捻挫は靭帯損傷だから甘くみるな』って、怒られた」

一臣はそこで言葉を切った。

「怒られた? 臣くんが⁈」

「……」

流衣が驚いてる部分にちょっと引く一臣。

「あ、ごめん……」


——思わず声に出しちゃった。

でもそれ見たかったな……。


マニアに近い言動を、声に出さずに密かに思った。

「そこから、骨格と靭帯、筋肉の基本を勉強した」


——いや、させられた。


「これ読んでおいて」

言いながら、一臣の机の上にスポーツトレーナーの教科書と参考書を山積みする姉の結子。

「俺、受験生なんだけど」

無駄だと分かってても一応言ってみる一臣。

「へ? 何で受験すんの? あんたスペイン行くんでしょ?」

前期の試験日まで未だ間がある九月とはいえ、大人しく受験勉強しようとしていた一臣に、医学書が睨む様に圧迫感で迫る。

親父おやじの命令」

『卒業後にすぐに行くにしろ、九月に始まる向こうに合わせるにしろ、それまでは、日本の中学生としてみんなと同じ苦労を味わいなさい』

一臣は進学の相談をした時に言われた事が、理に適ってない気がした。自分が受験しなければその分合格する人間が居るはず、留学する事が決まってる以上、途中で退学するのなら学校にも迷惑では無いかと、生真面目な父親の意見が珍しく頓珍漢だと。

「あー、パパ昭和だからなあ」

姉は笑いながら父親を理解した。

「平成生まれ俺だけだけど」

弟は冷静。

「ちょっと可愛く無いわよ。そういう事じゃ無いでしょ」

8歳上の姉は昭和生まれ。

「じゃあ、何の話?」

「やっと生まれた、息子を少しでも長く側におきたいのに、素直に言わない意地っ張り世代の話」

「……ふーん」

反応に困る思春期の男子。

「だから可愛くないわよ」

「そう言われても……、俺が行かなきゃいいの?」

「何言ってんの、逆に早く行って私のサッカー理論実践して欲しいわ」


——勝手なこと言うな……。


「ま、とにかく靭帯と筋肉については勉強しといて損はないから、これさえ知っておけば、捻挫した後試合に出ようなんて思えなくなるから。それに自分でケアできる知識があった方が、いざって時に医者と対等で話せたほうが絶対いいでしょ?」

「そうだね」

「あのねぇ、そんな他人事みたいに……」

素っ気ない弟に、しびれを切らす姉。

「うちの院に、怪我のアフターフォローで学生さんよく来るけど、なかには、明らかに初期診断ミスで治るものも治らなくなってる子が何人かいるの、でも言えないし……辛いよそうゆうの。……だから一臣にはそうゆう目にあって欲しくないのよ」

姉の本心は弟が心配でしょうがないだけ。

「昭和だね」

「え、なんて言った?」

「何でもない」


「じゃあ、一年近く勉強したんだ」

横から流衣の声が聞こえて、一臣は現世に帰った。

思い出はほんの一瞬。


——一年かぁ……臣くんがそんなに勉強したんならもうプロだよね、臣くんって基本を学んだらすぐに応用出来る人だし。


流衣が自分目線でつらつらと考えていると、一臣が話し出した。

「もっと貪欲になった方がいい」

「え?」

流衣は顔を上げて一臣を見つめた。

「海外では、特にヨーロッパでは、大人も子供もひとつの個人として扱われるから、覚悟を決めてかからないと迫力負けする」


——ひとつの個人。


——迫力負け。


「日本だと、協調性は人と合わせる事だけど、世界ではその才は弱さだと思われる。向こうで必要な協調性は、現地の言葉で話す社交性の事」

「人に合わせる事と現地の言葉で話す事……」

確かに違うと流衣は思った。

「スポーツは点数で勝敗が決まる。アスリートなのにバレエは芸術だから、個人の主観が物を言う。それに訴えかけるにはより強い個性がいる。俺やハクをこき使って利用するくらいの強さがあってもいいと思う」


——強さ……。

ハクや臣くんを使うって、どーすればいいんだろう? 

……じゃなくて、ただの例えで本当にやれって言ってる訳じゃないよね、きっと……。

うーん……。


「そんなに考え込む事じゃないと思うんだけど」

眉間に皺を寄せてまで考え込む流衣を見て、一臣が方向転換する様に示唆した。

「自分の想像力の貧困さに負け組感半端なくて、すってんてんなの」

「……何言ってんのか分からないんだけど」

「臣くんは勝ち組だから分からなくていいです」

「……」

つかみ所が無くなり一臣は沈黙した。

いつもならここで色々とし話し出す流衣が、何故か黙り込んでしまった。一臣はいつもと同じく斜め後ろから眺めてみるが、表情が見えない。わざとそうしてるらしい。


——怒ってる……?


会話の途切れた理由がわからないまま、一臣は自分が余計な事を言ったのかと考えた。

「……あのね」

沈黙を破り、なにかを決心した流衣が話しかけて来て、一臣は応える為に身構えた。

「さっき、……叱ってくれてありがとう」

まったく予想して無かった流衣の言葉に、一臣は改めて流衣を見つめ直す。

「今ね……不安で、……もの凄く怖いの」

目が合うと泣きそうなのがバレるので、流衣は無理矢理に横を向いていた。

「東京のバレエスクールでレッスンを受けて、そのクラスの人達みんな凄く上手で、何で私が審査に通ったんだろうって思ったら辛くなってきちゃって、身長を理由に逃げちゃおうかなっ……て思っちゃって……」

「……」

悲しげな声で話す流衣の言葉を一臣は黙って聞いた。

「踊るたびにどんどん苦しくなっていって、弱音を吐いたら、指摘されて、カチンとときてムキになって動いてたら頭が真っ白になっていって、ちょっとスッキリしたの」

我ながら単純だなぁと思った流衣。

その不安は自身の通っているバレエスクールの小ささゆえだった。比べるものが少ない上に情報量が圧倒的に足りない。

「だからその……、優しくされたら心が折れそうで、あのくらい強く、ハッキリ言ってもらえて良かったなって……」


——頭がごちゃごちゃで何言ったらいいのか分からない。臣くんみたいにキレイに整理して喋れたらいいのに……やっぱりダメだな、あたし……。


「ビデオ応募数300、本選通過が79名。その20%の中に入った事を誇りに思うべきだ」

「臣くん?」

 一臣の声のトーンが強く、真摯だったので流衣は思わず泣きそうな顔のまま振り向いた。

「留学目的のコンクールに技術の僅差は関係ない、むしろ技術以上に関心を惹く何かがあったと、他人より惹かれるものがあると、自信を持った方がいい」

一臣は言いきった。


——何かって、なんだろう……。


染み込んだ不安をぬぐい切れない流衣は、また弱音を吐いた自分を、一臣が叱ってくるのかと思ったが何か違った。

「審査員の目は節穴じゃない」

一臣は揺るぎない面持ちで断言する。

「審査員……」


——そうだ、確かに私、審査に通って選ばれたんだ。もっと、自信を持たなくちゃダメだよね。

難しいけど……。

なんか……さっきからずっと、臣くんが庇ってくれてるよう気がするんだけど、元気づけてくれてるような、心配されてるような……。


もう一度見つめてみるが、いつも通りの一臣で、表情からは何も分からない。


——気にしてくれてるって、思っちゃおうかな。


「うん、臣くんがそう言うならそう思う事にする」

流衣は笑顔で応えた。


——やっと笑った。


前を向いて軽い足取りで歩き出した流衣が、何だか楽しそうに見えて一臣はホッとした。

一臣は流衣の後ろ姿を目で捉えながら、足を早めて追い越す。


追い抜く瞬間にポンと流衣の背中を押した。


——臣くん、今『頑張れっ』って言った?


流衣は、一臣の気持ちを受け取った。

触れられた背中が暖かい。

流衣は小走りで一臣の背中を追いかけた。


「また明日」

「おやすみ」

アパートの前でいつもの挨拶が済むと、流衣は階段を上がり三段ほど行った所で止まって、一呼吸おいて振り向いた。

「今日、バカって言ってごめんね」

少しはにかんで謝った。

「……気にしてない」

流衣は嬉しげに笑い。

「おやすみなさい」

と言って一気に駆け上がって行った。

 鍵を開ける音がする。夜遅いので周りに気を遣って静かに扉をあけ、そっと閉めたあとゆっくり鍵を掛ける。その姿が一臣の頭の中の画面に映るように描かれる。

一連の動作が終わると一臣は帰途につくのだが、今日はその場に立ち竦んだ。


『もの凄く怖いの……』


そう言って、泣きそうな顔を見せない様に限界まで横を向いてる流衣を、後ろから抱きしめそうになって必死に堪えた。


苦しい……。


息が出来なくなるほどに……。


一歩踏み出そうとするたび、胸のしこりが疼き身動きが取れなくなる。

忘れたくても忘れられないあの日の光景が、振り払っても何度も何度も心に戻る。

取り残された雪景の思いに、出口の見えないまま刻々と時は過ぎて行く。

あの日、あの時から心が凍りついたままなのに。


流衣といるときだけは忘れていられる。


自分を嬉しそうに見上げる笑顔が脳裏に浮かび、胸が締め付けられる……。


『笑わない』


『感情は隠し通してみせる』


日に日に募る流衣への想いを抱え、自ずから決めた戒めで、がんじがらめになり踏み出せない。


——流衣が居なくなったら、俺はどうしたらいいんだろう……。本当は応援なんかしたくない。コンクールで留学が決まったら自分の手の届かない所に行ってしまう。でも、自分の身勝手な思いで、あいつの今までの努力を無駄にしたくない……。

……矛盾してる。


答えの出ない思いを抱えたまま一臣は歩き出した。

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