第37話 最後の賭け

 流衣は掃除が行き届いているのか、古い作りだが綺麗なトイレを見渡し、ふたつ並んだ奥の個室に入り鍵を閉めて、洋式の便器を見る形で扉に寄りかかった。


——どうしよう……。

窓がないから逃げられ無い。

携帯も無いし……。

誰か……入って来ないかな?

職員さんってどこにいるのかな、フェリーの所に居るのかな?

さっきの煙草を吸ってた人に大声で「助けて」って叫べば良かった?

……でも、すぐ前と後ろにあの人達がいて、捕まって……車に力づくで戻されて……怪我するかも……踊れなくなるかも知れない。

……いつまでもここに居られない……どうしよう……。


 流衣は考えても考えても、逃げる方法が何も浮かばなかった。

 トイレの壁に貼ってあるお決まりの注意書きを眺めていると、日常生活を思い出しそこに向いていった。


——何でここに居るんだろう……。

明日学校なのに……行けるかな。

来月のローザンヌはどうなるのかな……。

……やだな、何考えてんのあたし……。

……行けるわけない……。

この後、どうなるのか分かってる。

それなのに、怪我の心配しちゃって……馬鹿みたい。

……バレエだって……どうなるの……?

どうしよう……怖い……怖い……。


涙がこぼれてきた。

恐怖に震える身体を自身で抑えながら、溢れる涙を何度も何度も拭った。


バタン。


入口のドアが閉まる音が聞えて流衣はハッとした。


ガタ。

ガチャン。


明らかに隣に入った音だ。

ドキンドキンと心臓が早なるのを抑え、流衣は耳を澄ませた。


——だれ? 女のひと?

でも、あの男達ひとたちかも知れない。


疑心に囚われた流衣は落ち着かずザワザワしたものが体中に湧き出す。


その時。


ジャー、ピピッ、ピピッ。 ピピッ、ピピッ。

 

聞こえてきたのは紛れもなく〈音姫〉の音だった。


——女の人だ!

助かった!


流衣は〈音姫〉を使った事で女性だと判断した。

「あのっ、すみません。すみません!」

流衣は隣のトイレの間の壁の板を叩いて叫んだ。

カチと音がして〈音姫〉を止める音がした、こちらの声に気がついた様だ。

流衣はチャンスとばかりに続けて訴えた。

「お願いします、助けてください! 男の人達に捕まってるんです! ここから連れて行かれちゃう、警察呼んでください! お願いします」

壁に縋る様に近づき流衣は必死に訴えた。


ジャー……。

ガチャ、バタン。

水を流してカギを開け扉を開閉する音がした。


——やだ、行っちゃう!


「お願いします! お願いします! 助けて……」

すがる思いで外の人物に助けを求めると、足音が扉の前で止まった。


「……変な気起こすなって言ったよな」


——え……。


聴こえたのは安原の声。


ドカッ!

バリッ!!


 安原が扉に蹴りを入れると、古いドアの鍵が壊れドアが開いてグレーのパーカーが目に入り、流衣は身体が固まって動けなかった。

「来な」

安原はなかなか出て来ない流衣を連れに来たのだ。

 流衣は壁にすがったまま腰を抜かして動けなかった。

「チッ! 面倒かけんな!」

安原は流衣の制服のえり首を掴んで、個室から引き摺り出した。

「キャア!」

引きずられて床のタイルに体を擦られ流衣は思わず悲鳴をあげ、安原が手を放すとその場でだんご虫の様に体を丸めた。

安原は流衣を見下ろすと口を開いた。

「……大人しくしてれば、あんたは殺されねぇから、黙っていう事聞いてな」

静かな声だったので、流衣は思わず顔を上げた。 

「あんたは……って?」

常軌を逸した目つきの梶と比べたら、常人の雰囲気の安原に流衣は聞き返した。

「泣き黒子を殺すかどうかは、梶の気分次第だかんな」

諦めたような冷めた言い方で重要な事を言う安原に、流衣は気分が悪くなった。

「気分次第って……そんなっ! それでそんな酷い事出来るの、なんで?」

流衣はよろけながら立ち上がって安原の目の前に立つ。

「泣き黒子とは因縁があるかんな、やる理由はあんだよ。理由なら後で彼氏に聞きな、……聞ける状態かどうか知らんけど」

「……違う。臣くんは理不尽な事はしない、絶対に違う!」

何があったのかは知らない、でも普段の一臣の行動を考えたら、自分から揉め事のタネを作る様には思えなかった流衣は、首を振って否定した。

「お願いだから、そんな酷いことしないで、殺すなんて、そんな事するのやめて!」

「うっせえな、行くぞ。これ以上遅くなったら梶がキレる」

流衣は “キレる” にギクリとし黙ると、安原は出入口のドアに向いた。

「ひとつ教えてやるよ」

安原は体は前を向いたまま、顔だけを捻って喋り出した。

「梶はな、相手が嫌がるほど興奮する性癖があるんだよ、まえに嫌がって暴れた女子高生は、殴られて鼻を折られた、もしあんたが泣き喚いていたら、車の中でも押さえ付けて犯されてたかんな、抵抗しなきゃ殴られないし、一発で治まっかも知んねえから、大人しくしてんだな」

言い終わると安原はドアを開けてトイレから一歩出た。

 安原が忠告として口にした言葉の中身は、流衣にとっては何の救いもなかった。大人しくしてようが、結局は自分は傷物にされて、一臣は殺されるかも知れない。

「もう戻ったのかよ」

女子トイレから出て見ると梶の姿は無く、先に戻ったのだと安原は言った。

「車まで前を歩きな」

流衣は言われた通り、安原の前を歩いた。誰もいないロビーを真っ直ぐ歩き、正面の出入口から出た。建物から出て右手の、駐車場に向かって歩く目の端に、フェリーからターミナルに向かって歩いてくる女性らしき人物が見えた。


——女の人がひとり、建物に向かってくる、まさかトイレ? 

男の人……旦那さんらしい人が反対側の駐車場に向かって歩いてる。


 フェリーに乗船した者を見送りに来たのか、中年の夫婦が歩いてる、さっきまでいた人達の姿はない、埠頭の職員らしき人物が見えるが、遠かった。


——あの女の人に向かって『助けて』って

 叫びたい! 

でも、叫ぶ前に押さえられる……きっと。

それならいっそ走ってみたら……

ひょっとして……。

まだ遠い……!


その距離は100メートルはあった

どうせ結果が同じなら、例え殴られても助けを求めて足掻いてみようと流衣は思った。


「おい!」

中年女性を見て落ち着かなくなった流衣の思惑は、安原に筒抜けだった、背後から押され早く歩くように促された。

「はい」


——……そこまで走る……追いかけられて捕まっても、見えるとこまで近づけたら、絶対変だって気付いて貰える!


 それを見た中年女性がおかしいと通報してくれる事に、流衣は賭けた。

車まで近づき、サイドミラーに映る女性が、建物の入口に近い所まで来たのを確認した、流衣は実行に移した。

安原が後部ドアを開けた瞬間に流衣は体を翻して走り出した。

「なっ⁈」

驚いた安原は咄嗟に掴もうとしたが、流衣はそれを掻い潜り、一目散に走った。

本気で走ったのは小学校の運動会以来だが、そこでも出した事ないくらいの全力疾走。


——もう少し、あと少し! 早く、速く! 


遅い、自分の足が焦ったい。

時が止まったみたいに感じた。

2、30メートルの距離が蜃気楼のようにみえた。


——あと少し……!


流衣はとうとう中年女性のすぐ目の前まで来た!

女性も走って目の前まで来た女子高生と思われる人物に気付いてを足を止めて流衣を見た。

「……!」

流衣が喋ろうとした時、出入口のガラスに映る安原が見えて、流衣は凍りついた。

安原はまだ車の前にいた、全く動いていなかったのだ。


——なんで……。


流衣が混乱していると恐ろしい景色が目に映った。


梶がいた。


女性の後ろに立っている。


「あなたどうしたの? 大丈夫?」

女性はこんな場所で、たった一人で制服を着た女子高生がいる事に驚き親切に話しかけた。


流衣は心臓が止まるのでは無いかと思った。

梶がほんの2、3メートルの距離で、サバイバルナイフを胸まで掲げてチラつかせている。


——神さま……!


 神に祈るが現実はよく分かっていた。自分がアクションを起こしたら、関係ないひとが痛い目に遭う事を。 終わった……と思った。

呼吸が整わず、流衣は必死に息をすった。

「ちょっとあなた大丈夫?」

真っ青の流衣が気になり、女性は背後の梶の気配に気づかずに心配して声を掛けた。

「はい……あの、走ったので、息が……」

流衣は自分と同じくらいの背丈で、親と同じ年代の上品な物腰の女性越しに梶を見る。梶は相変わらずの気味の悪い笑顔を浮かべていた。流衣は深呼吸をすると、女性に向いて話した。

「あの……携帯が落ちてなかったですか? あたし、どこかで落としたみたいで……」

「携帯? 見かけなかったわね、ここで落としたの?」

女性は驚いた顔をして、来た道を振り返った。

すると、梶は抜け目なく数歩下がった。

「いえ、それがどこに落としたのか分からなくて……。あの、話しかけてすみませんでした!」

流衣は深々と頭を下げると、相手の女性の顔を直視出来ずに、顔を上げないまま反転して戻ろうとした。

「いいえ、いいのよ。警察に届いてるかもしれないから、行ってみるといいわ」

「はい、あの、ありがとうございます」

一旦足を止めて女性に礼を言うと、流衣は逃げるようにその場を離れた。


——……自分が原因で他人ひとが傷つけられるくらいなら、自分が死んだ方がマシ……


 流衣が込み上げるものを押さえて車の前まで行くと、安原は何も言わずに、めんどくさそうにドアを開けた。

「あっち向いて ふたりで まえならえ〜。こっち向いて ふたりでまえならえ〜」

流衣が入ろうとすると歌声が聞こえ動きが止まった。ターミナルの後ろから回り込んで、梶が歌いながら車に近付いてきた。

「手をよっこにー あっらあぶない アッタマをさげれば ぶっつかりまっせんっ」

笑顔で歌いながら近付いてくる梶には、目が離せないぞましさがあり、流衣は不気味に響く歌を聴いていた。

「ぐるぐるぐるぐる ぐるぐるぐるぐる ぐーるぐる ぐるぐるぐる ぐるぐるぐる ぐーるぐる」

梶と目が合い、その中に怒りが見え流衣は息を呑んだ。

「パッチンパッチン ガシンガシン パッチンパッチン ガシンガシンッと!」

歌のフレーズに合わせて、梶は流衣の顔を目掛けて肘を振った。薙ぎ払ったその肘は流衣の左のこめかみに当たり、殴られた勢いで開いていた後部座席に投げ出され、そのあまりの痛さに一瞬で目が眩み身体が縮まった。

「ゔ……」

呻き声しか出ない。殴られた経験のなさから、身構えず素直に殴られ、体の軽さも手伝って車の中に飛ばされて失神せずに済んだが、梶の一撃は、流衣から逃げようとする気力を奪った。

「おっしまい。っと、へへへっ」

痛みを堪えてる流衣の体を押し込み、梶は車に乗り込んだ。

「へっ、おまえあったま悪いだろ、バカが」

一部始終を見てたマサも便乗して罵った。

安原も運転席に乗り込むとポケットからキーを取り出しエンジンをかけた。

 まだ目から火花が散っている、流衣は梶の肘が入ったこめかみを抑え、その衝撃で体はまるで他人の様にいう事をきかない、それでも男達に触れない様に体を丸めようとした。そのそばに、置いていった流衣の携帯が点滅しているのに気付いた梶は、それを手に取った。

「ん〜? 『ハク』って誰だ?」

携帯を開き、着歴を見ると梶は首を捻った。


——……ハク? ハク……なんで……。

やだ、あたしの携帯に触らないで、返して……。


「返し……」

目を開けたら眩暈がして、流衣の言葉はほとんど音にならなかった。


「あのデカい奴だよ」

圭太が助手席から喋った。

「あん? 天然パーの奴か。しっかし男からの着信だらけだな、おまえなかなかビッチじゃん」

天パーの髪にわざわざ “天然” と喚起させる言い方をする梶に、反旗する気力すら無い流衣は触って欲しく無い一心で、携帯を返してと心で繰り返した。

「ウホホッ タイムリーな巨人ちゃん」

梶の浮かれた声で、ハクから着信があるのだと流衣は察し、顔をあげた。

「おまえ出ろ」

梶は流衣に携帯を投げた。

携帯手繰り寄せ着信を見て〈ハク〉の文字を見た瞬間、一昨日おととい、電話で話した時を思い出した。


——あの時はあんなに楽しかったのに……。


苦しくて泣きそうになったので、流衣はそれ以上、考えるのをやめた。


「余計な事言うんじゃねーぞ、顔の形変えたくなかったらな」

この男は本当にやるだろう、人を殺す事も恐らく躊躇しない、何とも思わない人間もいるのだと、流衣は人の怖さを知った。


——……ハク……助けて。

 お願い……お願い、臣くんを助けて……。


心の中で繰り返し、流衣は受話ボタンを押した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る