第30話 楽屋雀
聖夜が明けた日曜日、流衣はいつもより1時間早いバスに乗った。午後からバイトに行くため、午前中 少しでも練習しようと考えたからだった。
教室に着くと、当たり前のように誰もいなかった。がらんとした寂しい教室を一旦後にし、流衣は着替えるため更衣室に向かった。
「おはようございます」
「おはよう」
聞こえてきたのは日野の声だった。
「日野先生? 今日は香緒里先生じゃないんですね」
流衣は仕切り越しに覗き日野を確認した。
「香緒里先生は一足早くお正月休みで里帰りよ」
「お正月!?」
もうそんな時期だと改めて驚く流衣。
「あはは。そうよね、分かってても驚くのがお正月よね。でも流衣ちゃんの場合は年が明けたらもうローザンヌよ」
今回のローザンヌ国際バレエコンクールは一月の終わりから二月の始めまでである。
「先生……」
日野から現実を語られ、日が近づくにつれ喜びより恐怖が湧き出し、流衣は辛くなった。
「現実、現実。練習あるのみ! って言いたいとこだけど、流衣ちゃんの場合はオーバーワーク気味だから少し休んで! 昨日だって午後から9時まではやりすぎよ、今日は早目に切り上げてね」
「今日はお昼までにします」
「それは良いわね。身体を休めるのもレッスンの内よ」
「はい」
発表会後の静かな教室を独り占めして、流衣は床に座って足の筋肉を柔らかくほぐし始めた。
——身体を休めるのもレッスンの内か……。
先生には、午後からバイトですなんて言えない……。
タオルを丸めて足の下に入れる。
180°以上の前後開脚。
——いくらレッスンをしても不安……。
コンテンポラリーのせいかな?
違う、スワニルダもそう、踊れば踊るほどしっくりこない……どうしてだろう?
流衣は身体の向きを変えて左右の開脚。
右手を上げてゆっくり呼吸。
10秒かけて上半身を左足に倒して行く。
——不安と言えば。 昨日帰りながら臣くんに予定聞かれたけど、いつも通りって答えちゃった。臨時でバイトする事になったの言ってないけど、今日は『時玄』休みだから、あたしがバスで帰るだけだし……良いんだよね?
「遠慮」じゃないよね……?
流衣は柔軟しながら考え続けた。
——なんか最近へん……。
モヤっとするというか、しっくりしないというか、臣くんが……分からない。
『このままでいて』
——臣くん、それってどういう意味ですか?
あたし……ちょっと思いが通じたのかと思って嬉しくて抱きしめ直したのに、『時玄』についた途端いつも通りの業務状態に戻っちゃって、その後の家までの帰り道でもそうだった……。ひょっとして「走り易いからそこに掴まってて」って意味だったのかな、って思ったんですけど、そうなの?
タイミング逃しちゃってもう聞くに聞けないし。
あれってあたしが良く思っただけで、やっぱり面倒かけてるだけなのかな……。
自分に好意を示す言動の後、それを打ち消す行動を取る一臣に、意味が読み取れない流衣は、抑圧されたモヤっとした感情が不安感を呼び自己否定が強くなる。
「う〜ん……ダメだ。何を考えてもモヤモヤする。とりあえず動こう」
迷路に捕まった勇者様御一行同様に、出口を求めてウロウロし続けるなら、モンスターと戦ってスキルを上げる方を選び、曲をかけてバーレッスンを始めた。
そして、教室の裏通りに面した駐車場のフェンスが途切れる道路沿いに、流衣が室内に入ったのを確認し、ゆっくりと動き出すグレーのプレマシーがあった。
葉のない街路樹の間からチラホラと雪が舞い始めた。信号待ち中の車の助手席から窓を開けて雪を見たハクが溜め息混じりに口にした。
「やっぱな」
「朝より冷えると思ったら雪かよ」
ウンザリしたセキがハンドルを抱え身を乗り出して言う。
「珍しくお前が乗り打ち誘うから、雪降ってきたわ」
ハクのいつもの軽口に、これまたいつも通り眉間に皺を寄せるセキ。
「打つのは誘ったが乗り打ちなんて言ってねえ、てめえと収支折半なんてしねえぞ」
「オレだってお前の損失補填なんかごめんだわ」
二人揃って自分が勝って、相手が負けると思っているために出る言葉である。
「マジでさ、お前が誘うの珍しくね?」
「ヒマだからよ……今年もうバイトねぇし」
三連休どころか長期休暇になっていた。
「あ? そんなに仕事ねえのかよ」
「現場は忙しいんだけどよ、これ以上働くと控除外されっからな」
十六歳から扶養に入る為、パートの主婦と同じ領域。
「そっか、お前ん家は会社員か」
年下と思えない風貌に加えて、会話にも違和感がないセキが、高校生である事をいつも忘れてるハク。
「しかしな、何で打つ時間ずらしてまで、あいつが教室に入っていくの見に来た?」
車に乗るなりパチ屋では無く、流衣のバレエ教室に向かえと言ったハクに、セキは疑問を投げかけた。
「頼まれた生存確認」
ハクは虚無感を漂わせた。
「……誰に頼まれたって?」
「一臣に決まってんだろ」
「自分でやりゃあ良いじゃねーか」
見てるだけなら自分の自転車で来て見とけ! と思ってしまうセキ。
「あいつは絶賛浮気中」
「う? わっチッ!」
セキは驚きのあまり咥えてたタバコを落として、上着の裾に焦げを作った。
「ねぇあゆみ、まだ〜? カラオケ行かないのぉ?」
ユルふわの茶髪女子は、自分のピンクのパーカーの裾を伸ばしながらあゆみに話しかけた。
「ん〜っ、ちょっと待って」
あゆみは鉄拳の格闘ゲームでどこにいるか分からないAAAと対戦中。
「〈飛鳥〉強〜い。アユアユの〈三島〉負けそう〜」
ショートボブの黒髪に黒のワンピースからレースのスコートをのぞかせ、エナメルの厚底靴を履いた女子が、両手を顔に当てて格ゲー好きで負けなしのあゆみに言った。
「え〜うっそぉ、あゆみが負けんのっ?」
「ちょっと黙ってて! あーッ!!」
絶叫と共に“ you lose” の文字が出る。
「やーん。負けちゃった〜」
両手を握り顔に近づけてあざとい演出する黒ワンピース女子。
「飛鳥に勝利ポーズ取られた……。こいつ上から目線でチョー腹立つっ!」
あゆみは腹立ち紛れに画面をバンッと叩いた。
「めっちゃ八つ当たりぃ〜」
高い声でケタケタ笑いながら言うユルふわ女子。
「アユアユどんまーい」
「ちょっとクミ……その喋りめっちゃ違和感なんだけど」
「だから〜。先週から急にゴスロリ系に走ったと思ったら、髪も喋りも変えてるし〜クミやば過ぎ」
ギャルからロリータに趣旨替えした友人に違和感しかないふたりのギャル。
「え〜だってかわゆくない? フリルとレースでめっちゃフワフワした感じが、キュン……」
久美子が語尾を濁して一点を見つめているので、久美子の視線の先をあゆみ達も振り向いて見た。
三人に近付き距離を置いて立ち止まった一臣は、女子を一人づつ機械のように確認し眺めると、あゆみの前で視線を止めた。
「あーっ。この前あゆみの事振った男じゃん!」
「あ、イズミッチが前に言ってたイービーンズの前で会った男子!? ……これが」
一臣を見てあの時のことを思い出し、ピンクのトレーナーに似合わない憤慨した顔を向けたイズミ。久美子はありえないと言った顔で、一臣と男好きする顔のあゆみを交互に見る。
「ちょっといい?」
一臣はあゆみに話しかけた。
「……なんかよう?」
以前、誘いを断られたとき、手ひどい言い方をされたのと、イズミが追い討ちをかける様に「振られた」と連呼したため、あゆみは気分を害し気まずそうに視線を逸らした。
今まで戦ってた台から離れて、休憩用の椅子にむかった。
「聞きたいことがあるんだけど、だめかな?」
一臣は警戒されてるのを感じて、距離を置いて後を追いながら、丁寧に落ち着いた声で尋ねた。
「何それ〜。いまさらあゆみのこと気になんの?」
あゆみの友達のふたりも後に続き、下手に出て来た相手に警戒心を緩め女子特有の〈好きなら好きって言いなよ〉状態に持っていこうとする。
「いや。この前一緒にいた奴……“マサ” と呼んでいた男の事を知りたいんだけど」
「えーっ、何であいつ?」
久美子が速攻で反応し、露骨に嫌な顔をした。
「あいつスケベでキモい、マジ嫌い」
イズミも苦い薬を飲んだみたいに舌を出して嫌な顔をした。
休憩用ソファは一人掛けひとつ、独立した灰皿を挟んで二人掛けがひとつ。
人数が合わない為、みんな座るのをためらった。
「君たちも知ってるの?」
一臣があゆみ以外の女子に目を向けた。
“君たち” と言われた瞬間、自分らが知っている男共とは人種が違うのだと感じたイズミと久美子は、あざける視線から一転して、いい男に見えてきた。
「教えたげる!」
すかさずあゆみが応えた。
「!」
イズミと久美子は横から割り込まれた感覚を覚えた。
——あゆみって本当抜け目ない。
——すぐ目立とうとすんだよね、だから他の女子に嫌われんだっつーの。
ふたりのイライラ感を分からないのか無視してるのか、あゆみは話を続けた。
「何でも答えてあげる。だからその前に教えて」
ひとり用のソファにドンと座り、偉そうに足を組むと交換条件を出して来た。
「何?」
一臣は真っ直ぐに聞き返した。
「男って何で浮気すんの!?」
「……」
一臣は躊躇した。
「付き合い出して暫くすると必ず浮気すんの! どうして? 飽きるの? 何で彼女以外とHすんの⁈」
あゆみは必死の形相で顔を赤らめ、悲しみに溢れた顔で泣きそうになっている。
——お前がビッチだからだよ。
横の女友達はふたり同時に思った。
——んなの元カレに聞けよ、何でこの人なんだよ。
久美子は呆れて見ている。
——さり気なく同情買おうとしてんのもムカつく。
イズミは男に媚を売るあゆみに辟易している。
「それは俺じゃ無くて彼氏に聞くべき事だけど、敢えて意見を言えというのなら、「男って」の所が根本的に間違ってる。女だって浮気するでしょ」
一臣が語り始めた。
「あたしそんな事した事ないよ。でも男ってほとんどが浮気するじゃん!」
あゆみが拳を握り締め立ち上がって強く言った。
「だからそこが間違ってる。する人としない人、じゃなくて、出来る人と出来ない人だよ」
——するしない、出来る出来ない……??
三人は一臣の言った言葉の意図が分からなかった。
「何が違うの?」
あゆみは信じられなくて食い下がる。
「浮気ってしようと思えば誰でも出来るから〈しない人〉の括りがおかしい。それと男だけ悪者にするのも違う。付き合ってる相手のことを大切に思ったら男子でも女子でも浮気は〈出来ない〉よね」
3人はドキッとした。
「でもさ、男って女より性欲あるじゃない?」
「だよねー、おんなじじゃないじゃん?」
あゆみとイズミがここぞとばかりに一臣に詰め寄り次々と質問する。
「それはオフェンスとディフェンスの違いみたいなもので、役割は違ってもどちらも必要不可欠だよね」
一臣はふたりに間合いを取り、軽いゼスチャーで空間を作り直した。
「オフェンスとディフェンスってなに?」
イズミは周りを見渡し、一番答えを聞きやすいあゆみに向かって聞いた。
「あんた〈スラムダンク〉好きなんだから知ってんじゃん」
あゆみが座り直して答えた。
「マジ〜、流川と三井君の関係なの? めっちゃイケる〜!」
「そのふたりどっちも攻める方じゃん。それを言うなら花道と流川じゃね?」
イズミのアホっぽい発言に思わずギャル化した久美子。
「ハズレてはないけど、バスケは基本的にボールを持つ奴がオフェンスでそれ以外は全部ディフェンスに変わる変動型なんだけど……」
一臣は語尾を濁した。
「そーなの〜?」
「よくわかんない」
だからボールを手にした瞬間に雰囲気がガラリと変わるのがバスケの醍醐味、と一臣は言いたかったのだが、キャラクター推しの女子にはあまり関係ないようなので、それ以上の解説は不要だともとの話を続けた。
「話しを戻すけど。身体の機能的に男の方が衝動的になりやすい動物なのは間違いないけど、彼女の事が本気で好きで失いたくなかったら、どんな誘惑があっても男は理性で抑え切るよ」
それがパートナーに対する思いやりで、人としての根本的な考えであるとの考えを一臣は示した。
「本気で好き……?」
あゆみはショックで体から力が抜けた。
「……理性で抑える」
そんな言葉初めて聞いたイズミ。
「失いたく無いって……それマジでかっこいいじゃん!」
照れもなく真顔で言い切った一臣に、久美子は感動してコスプレを忘れ去り完全にギャルに戻ってしまった。
「浮気出来ない人なら……じゃあ、あんたあたしと付き合ってよ!」
あゆみは悔し紛れの勢いに任せて告白した。
「はあ!?」
久美子は呆れて声に出した。
——普段のあゆみは良いけど、男が絡むと見境なくてマジでムカつくわ。
異性がらみのあゆみの無神経さが、久美子は嫌いだった。
——あたしムリ。
今この場所で自分には言えないそれを言えるあゆみが、マジスゲエと思ったイズミ。
「それは無理だね」
が、一臣は即答で断る。
あゆみは声が出なかった。
——ぷっ。
——あゆみが連チャン振られた!
ふたりはいい気味とほくそ笑んだ。
それはあゆみにも伝わって、じわっと恥ずかしくなってやはり食い下がった。
「何で? あたしは浮気なんかしないよ。それとも彼女いるの!?」
「それ以前に君の個体に興味持てないから」
それに対して無神経のさらに上を行く一臣は、女では無く人としての個体認識であると断言し、更に興味なしと言い切った。
「!」
瞬間、あゆみの顔がカアッと紅潮し真っ赤になった。
——この人ヤバくね? あゆみを女扱いしないやつに初めて会った。イケメンで中身も良さげな男に、ここまで完璧に振られたらあゆみも懲りるかもな。
と久美子は思った。
そのあゆみは一旦赤くなったあと真顔に戻り現実を知った。
——……あたし今まで、どの男にも興味持たれてなかったんだ……。
雑談の読者モデルの様な顔立ちに釣られた男の子達に、告って振られたことがなかったあゆみは、一臣のセリフで自分に何も無いことに気が付いた。そして自分自身も、相手の男に外見しか求めてない事に気が付いてしまった。
——だから身体だけの関係に……彼女からセフレになってたんだ。……なんかサイテー。
「あゆみぃ。元気だしなよ。彼氏欲しいなら、ウチの彼氏のカズくんの友達紹介したげるよ、イケメンじゃ無いけど、みんな優しいよ?」
落ち込んで黙り込んでいるあゆみに、イズミが声をかけた。
「うん。けどしばらくひとりがいいや」
あゆみはしばらく彼氏はいらないと声に出した。
——んな事言っても、一カ月男切らした事ないっての自慢なくせに、本質は変わんねーんじゃね?
あゆみが〈イケメンじゃ無い〉所に引っかかったのだと久美子は思った。
「他に質問無ければ、俺の質問の答えを聞いていいかな」
一臣は頃合いかと切り出した。
「あー、マサ? ……あいついつも変だし……」
あゆみは気が重いまま、答えようとしてもマサのことが思い浮かばなかった。
「河田雅樹はさ、ウチらと同じ
代わりに久美子が、自分達が中学と高校の同級生だと言って笑った。イズミも続いた。
「あいつさ〜、原付乗り回してんの学校にバレて、停学くらったんだよね」
口の重い投げやりなあゆみをほっといてふたりの女子が話し始める。
「座ったら」
一臣は二人掛けのソファを視線で示すと、久美子とイズミは顔を見合わせて、ふたり同時にソソっと座った。
「それで?」
女子達の正面にしゃがみ込んで、一臣は話しを聞く体制に入った。
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