第27話 もがきと足掻き

 足元から水が沸いて辺り一面を覆い、仄暗い水の中からまた声がする。


……笑エルノ……


姉の声だ。

一臣は声の方向に目だけを動かした。


それは……泥だらけの人形ひとがたをして目だけを大きく開いた物だった。


……ワタシ……シンダノ……


それはゆっくりと体を起こし、一臣に向かって手を伸ばした。一臣はおののいた、が、たじろがなかった、後ろに流衣が居る。


「臣くん?」

止まったままの一臣に、何が起きたのか分からない流衣は声をかけた。

しかし届かず、一臣は微動だにしない。


……アナタハ……イキテル……


一臣にしか聞こえない無機質な姉の声が、攻める様に一臣の心を揺さぶった。


——ごめん。もう笑わないから、だから……


「臣くん!」


流衣が一臣の上着を掴んで大きく引っ張って叫んだ。


「あ……」


一臣はハッとして流衣を見ると、周りの景色が見えて来た、国道沿いの大きな歩道。未だ昼に届かない太陽の柔らかな日差しが頬にあたる。


——……流衣。

アレは……消えた……?

いやまだだ、未だ……そこにいる。


曇りガラスにボンヤリと映る枯れ枝のように。暗い水は監視するように一臣の影と重なる。


「どうしたの? 大丈夫?」


流衣が不安そうな顔してる。


「……何でも無い」


流衣が見た一臣は青白く何でも無いという顔では無かった。


——臣くんのこの顔、前に見た事ある。

『時玄』で排水溝の匂い嗅いだ時だ、あの時以来……どうして今? 何かあったの? 


流衣は周りを見渡しても、それらしきものは見当たらなかった。

それより掴んでる上着から、微かに一臣の体の震えが伝わって来て、流衣は焦った。


——臣くんが震えるなんて……どうしよう!


いつもしっかりしてて何事にも動じない沈着冷静な一臣が震えるほどショックを受けてる。

何とかその震えを止めようと、流衣は無我夢中で一臣の体に抱きついた。


——他に思いつかない。

   お願い、震え止まって!


流衣の行動に一臣は意表をつかれた。流衣が庇おうとしてるのを感じ取った一臣は、そんなに弱々しくみえたのかと自分に強い憤りを感じた。しかし自分の中の葛藤とは心裏腹に、その細い腕と小さな身体で覆い、自分を必死になって守ろうとする行為が、流衣の存在が嬉しかった。

抱きしめられながら一臣は〈それ〉に誓った。


——もう笑わない。

 感情は隠し通してみせる……。

   俺は幸せにはならない、それでいい?


自分に問うように、水中の黒い影に誓うと影が消えて行く。

亡くなった姉の体が黒い影となって、生き残った罪悪感がどうしようもなく一臣にのしかかり、一臣は震災で閉じられた感情弁を、今度は自分の意思でキツく閉めた。


一臣の〈誓い〉を知らず、流衣は一臣に抱きついたまま動かなかった。


——臣くん……もう震えてない……。

夢中で抱きついちゃったけど、なんかこれ……あたし大胆過ぎてどうしよう。

いまさら離すにもキッカケが無いし……。

それに気持ちいいな、ここ……臣くんの背中。

すごい特等席感。

このままここでゴロゴロしたいな……猫みたいに。


「流衣」

妄想に浸る流衣に、一臣が出席を取るようにハッキリと呼びかけた。

「はいっ」

思わず力強く返事をして一臣を見上げると、淡々とした顔に戻っていた。いつもの一臣だと安心した流衣は名残惜しいと思いながら、背中から離れようと一臣の体に巻きつけた腕の力を抜いた。

その腕を一臣に掴まれた。

「このままでいて」

優しい命令文はあっさりとした抑揚の無い口調で、流衣が照れるのを阻止した。

「……うん」

一度緩めた腕を、またギュと一臣の体に巻きつけた。


——んふふっ、顔見えないから恥ずかしくなくていいなぁ、特等席、お墨付き〜。


 感情が戻った今、流衣のぬくもりを感じられるこの瞬間が、正気を保てる唯一の手段だと一臣は鮮烈に感じ、これを死守しようと自分の生きる術を定めた。


自転車を『時玄』に向けあと少しの道のりを走らせていると、昨日覚えた感覚を思い出した。


——嬉し涙って綺麗なんだな……。


その光景に見た、ひとが喜ぶという感覚を一臣は

永遠に胸に焼き付けた。

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