第26話 形勢逆転

 日野はエントレランスで陽菜の父親が来るのを待った。

しかしなかなか現れない、イズミシティホール正面玄関は一面ガラス張りで、内側から見てても容易にわかる筈だと、受付の為に置かれた机が撤去された場所で、ガラス越しに道路を見ていたが一向に車が停まる気配がない。

街路樹のせいで見逃したかと、何度も外に出て見回してみるが、それ相応の車が見当たらなかった。

日野は焦り出した。

——病院からここまで5分で来れる、信号に引っ掻からなかったら、3分かからないと思うんだけど、もう15分は経ってるわよ、舞台が、もう挨拶始まってる時間なのに、早く来てくれないかしら……!


日野は花を渡すのが今日一番大きな仕事だと思っていた。

真っ先に流衣に花束を渡すという予定は既に崩れている、日野は焦りで足踏みするように体を動かし始め、待ちきれず香緒里に電話を掛けた。

「もしもし、香緒里先生?」

『あ、先生。舞台終わったんですか?』

香緒里が電話に出た。

「陽菜ちゃんのお父さん来ないんだけど、何かあったのかと思って」

『あー、すみません。お父さんまだここにいます』

「え? そうなの?」

すぐ来るんだと思ってた日野は、聞き違いだったかと会話を思い出してみた。

『それが、陽菜ちゃん落ち着いたらお腹空いたって言い始めて、お父さん近くのコンビニに買い出しに行っちゃってて、今戻ってきたんですよ〜』

「……あ、そう」

それならそうと言って欲しかった、香緒里ののんびりとした言い方も苛立たせ、呆然とする日野の携帯の向こう側から、香緒里達がやり取りしてる声が聞こえた。

『これから出て、急いでそちらに向かうそうなので、すみませんがもう少し待ってて下さい』

「急がなくて大丈夫よ、むしろゆっくりでいいと伝えてちょうだい。舞台の方は終わってるから」

皮肉混じりのやり取りの後、日野は電話を切った。


「……お腹すいたか……」

電話ではムッとした日野だったが、陽菜の様子を頭に浮かべると、安心感から笑いしか出なかった。

「さて、流衣ちゃんの笑顔も見に行くか」

日野は花束を取りに行くため、陽菜のピンク色のスーツケースと鞄を脇に寄せていると、目の前の正面玄関からひとりの若い男性が入ってくるのが見えた。

——あら珍しい、一般男子がここにいるなんて、Sさんと子の家族かしらね。


日野は歩き方で一目でバレエをやってないことがわかり、自分の所の生徒の関係でも、知り合いの所でも無いことから、Sスタジオの繋がりを想像した。


——あの身長の男子がバレエやってくれたら理想的なんだけど、小さい頃から始めるから身長は押し計れないし、特に男の子は成長期に筋肉使うと伸びなくなっちゃうのに、皆んなしっかり練習しちゃうし、先生達もそこを気にしない人もまだ多くて……上手くいかないもんね。


日野は日本人の生真面目さが、成長期に影響を与えてることに嘆き、背の高い男子の背中を羨ましく眺めていると、カーキ色の上着に見覚えがあると、次第に目が丸くなった。


——あの子、あの男の子、あの時、流衣ちゃんと

一緒に居た……!


日野は慌てて追いかけながら声を掛けた。


「ちょっと。そこのあなた!」

呼び掛けられた一臣は振り向いた。

「はい」

「あなた、もしかして流衣ちゃんのお友達?」

追いついた日野はダイレクトに聞いた。

「そうです」

暗がりで遠目に見た時とはとは違い、改めてはっきり見ると、端正な顔立ちと相手のことを真っ直ぐに見て話す様は誠実な人間に見えた。

日野は流衣がこの少年をうっとりした目で見ていた事を思い出した。

「そうなのね、……私、流衣ちゃんのバレエ教室の教師の日野といいます。あなたもしかして、流衣ちゃんに会いに行くの?」

「はい」

日野は受け答えに動じない一臣を見て、全てを委ねようと瞬時に判断した。

「そう、じゃあちょっと待ってて貰える? 流衣ちゃんに渡して欲しい物があるの!」

「はい」

日野はすぐさま和室の楽屋に飛び込んで花束を掴み一臣の元に戻った。

「ちょっと人を待たないといけない用事があるから、これを私の代わりに渡して欲しいの」

大きな花束を一臣に差し向ける。

「分かりました」

一臣は素直に花を受け取った。

「この先を曲がって一番奥の舞台に近いリハーサル室が楽屋で、多分流衣ちゃん一番先に戻ってくると思うから、そこで待っててあげて」

舞台で花を貰えない流衣が、楽屋に逃げるように帰ってくることは、日野には容易に想像できた。

「はい。じゃあ」

一臣は軽く頭を下げて、日野の言った楽屋の方に歩いて行った。


——なんてハッキリした子……頼り甲斐がありそうで、流衣ちゃん好きになるの無理ないわ。


日野は微笑ましさと同時に、我が子が旅立つ様な不思議な寂しさも覚えた。そして自分は陽菜の父親を待つ為に軽い足取りで戻って行った。


 日野に言われた通りに一臣は歩き、L字型の通路を曲ると一番奥の部屋のドアと戦っている流衣が見えた。


——何かが引っ掛かる……。


一臣は流衣を見た瞬間、舞台を見てた時の心の靄がさらに広がるのを感じた。

 生まれて初めてみるバレエは謎に満ちていた。流衣がペア出て来た時、アップテンポな曲に合わせて踊られるそれは、隣のハクの感想と同じく、フォークダンスの一種にしか見えなかった。この時点で、バレエがどう凄いのかは一臣には分からない、それと質問の答えに困った時と同じ顔をする流衣の様子も意味がわからない。


——何に困ってるんだろう……。


理由はソロで踊り出して分かった。

流衣はライオンから逃げ切ったトムソンガゼルの様に飛び跳ねた。

自由に生き生きと踊る流衣は、音楽と踊りのアクセントがピタリと合って見てても気分が良くなる。

客席から自然に出る手拍子で、人の心に訴え掛ける力量が、流衣の実力がわかる。

どれだけ口で賛辞されようとも、上部だけなら人はアクションを起こさない。

一臣は、流衣がバレエから離れられない理由が分かった気がした。

そしてまたふたりの踊りに入ると、遠距離から見てても分かる緊張感が漂った。

男が主導権を取っていたかに見えて、流衣も負けずにやり返す。お互いが一歩も譲らないサドンデス。


——凄い負けず嫌い。

普段なら、喧嘩売られても気付かないくせに……。


「あーもうっ。瑞稀が休んだから明日は狩野さんと日直じゃん」

学校でいつもの様に、一時限終了後に帰ろうとした一臣の後方から声が聞こえて来た。

「あー居眠り大魔王と〜?」

「なんかさー、あの子さ、話しかけるとヘラヘラ笑ってて変じゃない?」

「だから〜、話し合わせる気ゼロだしね」

「あ、やばい」

流衣がトイレから帰ってきたのを見て話をやめたふたり。一臣は流衣と入れ替わるように教室を出、そこでまた足を止めた。

「ねえねえ、狩野さん」

席に戻る前に流衣は話かけられた。

「明日、私と日直だけどさ、私遅れるかも知んないから、朝イチで日誌とプリントあったらお願いしても良い?」

「え……あ、うん。じゃあ明日の朝、持って来ておきます」

「ごめーん。よろしくぅ」

手を合わせてお願いしてるが、顔は悪びれてなかった。流衣の自転車が未だ健在だった頃。この女子のお願いの為に、ルイは次の日の朝、ホテルから自転車で猛ダッシュする事になった。


——「嘘だと分かるのに……変な奴」

……あの頃はそう思っていた、でも今なら分かる、説明するのが大変だから、それを避けたんだ。

学校では今もそうだ。昼休みに机を人に貸して、自分は外でひとりで食べてる。


一臣はクラスメイトならではの視点から見ていた。


——ふたりの表情が変わったのは、リフトからだ、特にあの一番高い所まで持ち上げるリフトは、お互いを信頼しあってた。リフトから降りた流衣は微笑んでいて、相手もそれまでの振る舞いとは別人のように、流衣を丁寧にサポートしてた。


曲が終わってからの、ふたりのバレエとは離れた演技の後、アンコールで出て来た秋山と流衣。その後に秋山にキスされて走って逃げる流衣を見て、視界にモヤがかかりフェードアウトした。


——やっぱりおかしい……。


流衣はドアの前で肩を落としていた。

引き戸を押して開けようとしてた流衣をいつも通りだと思った一臣は歩きながら声を掛けた。

「流衣」

「臣くん?」

呼ばれて振り向いた流衣は一瞬で顔が明るくなった。

しかしまもなく、流衣は一臣の手に視点が止まり、一転シリアスな顔をしたので、一臣は花を託された事を思い出し、流衣に差し出した。

「これ」

「あたしに?」

花から一臣の顔へと向けられた流衣の表情は、千尋の手法によって出来上がったお人形さんの顔で、この世の全てがチョコレートとお菓子で出来た世界に現れた女の子みたいにキラキラしていた。


「……先生から」


流衣のあまりに嬉しそうな顔に一臣は戸惑い、日野から預かって来たことを告白する事で回避しようとした。

しかしそれは逆効果だった。

事情を理解した流衣の瞳が潤みだし、今にも大粒の涙が溢れそうな表情にみるみる変わって行く。

楽しげな子供から、憂いのある大人の顔へ……。

一臣は思わず脚を一つ引いて、そこで踏みとどまった。

流衣の表情の変化は一臣の心の中を掻き乱した。

そこでようやく気が付いた……白い靄の正体、一臣の心の底から出て来たもの。


——……嫉妬?


大人びた憂い顔から、幸せそうに花束に埋もれて、あふれんばかりの笑顔を見せる流衣。


——なんて顔するんだよ。


眩し過ぎて一臣は目を逸らした。

そんな顔、自分には到底できない。

流衣の素直な感情表現に度肝を抜かれ、混乱し始めると、それらが全て感情が戻っているから起こる事にも気がつき……戸惑う。

咄嗟に誰にも知られてない事を願った。

……特に流衣に。


「さっきから、ずっとニタニタしてて、気持ち悪りぃんだけど」

ハクが助手席から斜めに振り返り、流衣に暴言を吐いた。

「えーっ。お花綺麗でしょ?」

ちょっとムッとしながらも、花が綺麗だから仕方ないと後部座席からアピールする流衣。

「まあ、素顔だから許してやるわ」

前に向き直り、よしよし的なニュアンスのハク。

「……素顔?」

ハクの発言に意味がわからない流衣がききかえす。

「ヴィトン買う気ゼロ」

意味不明な発言をして、カラカラと笑うハク。

「なんでヴィトン?」

「おめーギャルにでも貢いでんのか?」

運転中のセキが横槍を入れる。

「ギャルに貢ぐくらいなら、ラオウ様の昇天に5万使うわ」

「おめーの金の行き着く先は、茶髪従業員の給料じゃねーか」

「んじゃオレ、周り回ってギャルに貢いでんの? まじかー」

「いーじゃねーか。どうせテメェ100パー馬鹿なんだろ?」

「ぐっ……」

ブーメランが突き刺さり、二の句が告げなくなったハク。ふたりのやり取りを締める一言を発する一臣が黙っているので、流衣は右隣のちらりと見た。一臣は窓の外を眺め何か考え事をしているようで、何も喋る気配がなかった。

「……ハクどんまい」

代わりに流衣が締めた。

流衣が喋ったことでハクも気がついた。


——やべ、流衣に慰められた……。何やってんだ一臣の奴……。


ハクは照れ臭くなったのか一臣のせいにする。

じっと夜景を見てる一臣を目だけで確認した。


——……今日は様子が変だよな、煙草は吸うわ、よー喋ると思ったら黙り込むし……んー? どうよ、流衣待ってる間に煙草吸いすぎて、便所我慢してんのか……クソ我慢してたら喋れねーか。

……しゃーねーな。


ハクが自分の解釈で納得する。

しかし、一臣が我慢してるのはトイレに行く事では無く〈手を伸ばせば届くもの〉の存在だとは、ハクは知る由もない。


運転席の後ろで一臣が見てたのは、夜景ではなく窓ガラスに写っている流衣だった。

花の埋もれてムッとしたり、首を傾げたり、ハク達と話している流衣をスクリーンを観るようにみていた。

「送ってくれてありがとう」

アパートの前に到着して流衣は車から降りた。

「んー」

セキがぶっきらぼうな返事で返す。

「今日、来てくれてありがと」

流衣は、車の中を見渡して言った。

「おう、また明日な」

ハクが返事をすると、スライドドアがゆっくりと閉まって行った。

「おやすみなさい……」

流衣の言葉尻が濁ると同時に、ドアがガチんと閉まった。

一臣は喋らなかった、いや、喋れなかった。

流衣の声の含みが分かってる一臣が、後ろ髪を引かれてを振り返って見ると、車を降りた場所と同じ位置で流衣が立ち尽くしてるのを見て、罪悪感に襲われた。

一臣はその晩一睡も出来ず、気がつくと朝を迎えていた。

寝不足の重い頭を抱え、土曜日のタイムライン通りに、一臣は『時玄』へと向かう、住宅地を出て県道に渡るため一旦停止した時、視界にいつも流衣が乗って来ているローズピンクの車が、手前の道を曲がって行ったのが見えた。運転手がひとりだけ。その道を曲がったら、流衣がいつも下ろしてもらってると言ってた場所とは方向が違う。


「流衣来てる?」

『時玄』に着くなり、一臣はマスターに切り出した。

仕込み中のマスターは顔を上げて 

「流衣ちゃん? いやまだ来てないよ」

一臣はマスターが言い終わらない内に携帯を開いてみた、流衣からの連絡は無い。

「土曜だからゆっくりしてんじゃね? オレは逆に目え覚めたんだけどな」

ソファ席に脚を投げ出し、コーヒーマシンから抽出された一番搾り仕様コーヒーを、だらしなく優雅に飲んでいるハクがいた。今日の仕込み当番はマスターだったらしく、早く目が覚めてしまったハクが、コーヒー飲みたさに致し方無く店に来た事を示唆した。そのハクのポケットから携帯が鳴り出した。やはり怠そうに携帯を取り出して着信を見るハクの顔が少し緩んだ。

「はいよ。どしたの……」

ハクは喋りながら外に出て行った。


——ゆっくりしてるなら良いけど、多分そうじゃ無い、パートに来ていて早く帰るのなら、家族に呼び出されだとしか考えられない……だとしたらあいつ、バスもない時間帯にひとりで歩く事になる。


「マスター。自転車もう使って良い?」

「うんいーよ」

一臣はマスターの自転車に乗り換え、流衣が歩きそうなルートに向かった。


——方向音痴の癖に……。

なんでもひとりでやろうとするけど、出来ないならひとを頼れば良いのに、負けず嫌いと意地っ張りは違うんだけど……分かってない。


一臣は流衣が気になって仕方がなかった。

最短ルートを回って見るもやはり捕まらない。

その後、遠回りだが一番分かりやすい国道ルートを逆走する。国道から産業道路に入って直走ると、信号待ちしている流衣らしき人物を発見した。近づくとそれは確信に変わったが、流衣が道路の向かいに居る自分に気付かずに、歩道橋を眺めながニコニコして楽しそうにしてる。

一臣も見上げてみるが特に何も無く、ヒノノニトンと書いてある歩道橋の、何がそんなに面白いのかわからない。

ひとの心配を他所に、呑気に楽しそうな流衣を見て呆れる一臣だが、怒りは湧いてこない。

むしろ穏やかになってくる、離れた場所から見ているだけで身体が熱くなる。

今にも歌でも歌い出しそうな流衣が一臣に気が付き、顔が一気に明るくなると、信号待ちしていることも忘れて、一臣の元に駆け寄ろうとした。

その時、一臣の右方向から来た車が、左折する為に近づいていた。


——馬鹿!


咄嗟に一臣は手を前に突き出してストップのサインで流衣を止めた。

車は驚き急ブレーキ。

流衣も飛び跳ねて戻った。

幸いな事に何処にも触れることはなく、怒った運転者から怒鳴られるかと思ったが、中年男性の運転手は一臣と目が合うと、ニヤリと意味深な笑いを残して走り去って行った。

流衣は信号が変わったのを確認して、今度は慎重に一臣の元に駆け寄った。


「なんで? どうして臣くんがここにいるの⁈」


——『なんで』よりもまだそこ道路なんだけど。


一臣は流衣の腕を引き、例え暴走車両が突っ込んで来ても大丈夫な歩道橋の橋桁に移動し、そこで流衣の腕を離した。


「やっぱり」

来て良かったと一臣は思った。この位置から流衣の足だと後一時間は掛かる、『時玄』で準備する時間がなくなると一臣は思ったのだが、髪を軽く後ろに束ねただけの流衣は一臣の意図がわからずに困ったような顔をした。

「あの……」

「いつも乗って来る車、1209のローズピンクのワゴンRだよね?」

「……はい」

「その車が運転手しか居なくて、学校の方に行ったからおかしいと思って」

流衣がキョトンとした顔をした。

「うん、あの……伊藤さんの旦那さんが具合が悪くなって、病院行くからって先に帰ったの」

「だろうね」

まだ腑に落ちない顔の流衣。

「なんで連絡しないの?」


——それなら探さなくて済んだのに。


勝手な言い分だと分かっているから、そこは声に出さない一臣。


「それはその、悪いかなって思って」

「遠慮しないようにって、前に言ったけど」

「あ、はい……ごめんなさい」

流衣の腑に落ちない顔が更に深くなった。

とにかく、『時玄』まで行こうと思った一臣は、流衣のカバンを取り自転車のカゴに乗せ、自分も跨り流衣にも乗るように言うと、躊躇いがちに後ろに乗った。走り出したのはいいが、流衣が荷台部分に手をかけているので、いつもながらに後ろが不安定でゆっくりしか走れない。直線は良い、曲がり角はまるでこのまえ取った原付免許の二段階右折に近い芸当を披露する羽目になる。いっそのこと自分に掴まってくれないかと言おうとした時、先に流衣の口が開いた。


「あのね……」


——出た……。

真面目な話をするときの流衣の口癖。

出だしはいつもこれだけど、今日はなんだろう。


一臣は少し身構えた。


「なに?」

「昨日……つまらなかったかなって思って。退屈だった?」

そこか……と一臣は思った。

「そんな事ないけど」

「本当?」

流衣の声に安堵の色がでた。

「バレエは分からないけど、流衣が上手いのは分かった」

「ありがとう……」

言葉とは裏腹に流衣の語尾が濁った。


——……違ったらしい。


答えが間違ったらしいと感じた一臣は、振り幅を広くしてみる。

「流衣ともうひとり、レベルが違った」

「もうひとり?」

「紫の服の子」

流衣の軽く息を呑む音が聞こえた

「その子ね、美沙希ちゃんっていうの。……背が高くて、優しくて美人で、すごく上手なの」

流衣が自分の事のように嬉しそうに話すので、その子を慕っていると感じた一臣は、そのまま肯定した。

「そうだね」

一臣の一言の後、流衣が辺りの空気を丸呑みした気がした。そこから流衣が黙り込み、背後から聞こえて来るボヤキの様な、声にならない唸り声とグレイな不穏なオーラが流れて来た。

またしても応えかたを間違えたと気が付いた一臣。


——何が悪かったんだろう……。


しかし考えてみても、探れるほどの会話数すら無く、取りなすことも出来ずに困った一臣は黙って走った。暫くすると、念仏を唱える声が聞こえて来て、耳を澄ませると計算式の様だった。

「153ジジョウ〜、ひゃくごじゅうさんカケルヒャクゴジュウサンは〜……」

「23409」

何かきっかけが欲しかった一臣はそこに乗った。

「えっ?」

「153×153でしょ?」

「え〜と、……じゃあ。38からそれ割るとどうなるの?」

「38割る23409……0.00016233073」

「うそおっ。なんでそんなに速く計算出来るの? ソロバン特級⁈」


——そろばんは二級で辞めたけど……特級? 

在来線の電車じゃあるまいし、何で突然そんな言葉出て来るんだろう……。


一臣からすると、流衣は不思議な生命体である。その生命体Xに色々と計算式の説明を試みるが、九九以上の計算はキャパを超えるらしく、溶け出す前にやめた。

「……あたしでも出来る計算式とかあれば良いのに……」

「あるよ」

「ほんと? なに?」

希望を持って聞いて来た。

「紙と鉛筆」

「それ……暗算じゃなくて筆算では……」

流衣は一気にテンションが下がった。

「そうともいう」

思った通りの反応だったので、一臣はノリで揶揄ったのだが、流衣は余程悔しかったのか、頭を一臣の背中に押し付けてグリグリと動かした。

「……友よ原始に帰れ……」

それを言うなら「心よ原始に戻れ」だと思うが一臣は口には出さなかった。流衣に頭突かれた背中がくすぐったくて。

悔し紛れに言う流衣の顔を想像しただけで、可笑しくなった。


……笑ッタ……


地の底から女の声がした。

声に聞き覚えがある一臣は、背中が凍りついて脚が止まった……!




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