第12話 香害

「千尋さん、ありがとうございます」

その場から連れて離れて貰った流衣は、即座に礼を言うと、千尋は苦笑いで答えた。

「いきなりスタイルの話されたら引くよね」

秋山はSスタジオには何回か来てる、そう美沙希が言ってた事を思い出した。

「秋山さんは、いつもあんな感じなんですか?」

「いつもはあそこまでじゃないけど、汗かいたの気にしてるのかな? いつもより多くコロンつけてるみたい、清潔感通り越して迷惑だよね」

——コロンって香水のことなのかな? ダイレクトに鼻に刺さる感じでキツかった。柔軟剤だとフンワリと漂うって感じだもん、でもそれより。

「コロン……もですけど、性格というか……」

流衣が聞きたいのは、見た目通りの軽い人間なのかどうかだった。

「うん。自己中」

千尋は間髪入れずに言った。

「ハッキリ言っちゃいます?」

あまりにもキッパリと言われたので、流衣は表情に困った。

「当日のリハしか出来ないぶっつけ本番なのに、相手役のこと考えて舞台袖で軽く合わせてみるとか、が全く無いし! 自己中というか何も考えて無いよ、あれ」


——何も考えて無い。確かにそんな気がする。陽菜ちゃんとは一度挨拶しただけで、一緒に踊った事がないんだから、もっと声を掛けてあげてもいいのに、いきなり話題変えたし。……あれ、それ私のせい……? もしかしてローザンヌに行く私が目に入って、気を取られたからなの? ……やだ、私ったら、驚いて逃げちゃったの、凄くダメじゃない! 今頃気付くなんて……陽菜ちゃん、風邪引いて体調悪くて心細いのに、ごめん。


 罪悪感を感じた流衣は、すぐに陽菜のいた方を見た。すると秋山と〈宝石〉のふたりの横に立っていたはずの陽菜が、ひとりで舞台の方に入ってくのが見えた。

「千尋さん、陽菜ちゃんが心配なので、私行きますね」

「そうだね、元気付けてあげて」

「はい」

「それからね」

行きかけて体の向きを変えた流衣に、千尋が話かけた。

「スタジオの先輩とかじゃないから、気を使うのやめて? 私とユズは美沙希と同じだと思ってよね」

バレエの世界は体育会系より厳しい、そのギスギスした空気がどうしても受け入れられない類友な3人なので、教室の違う生徒にその枠にはまって欲しくない千尋は、流衣を試す形で頼んだ。

「はい。そうします、ありがとう千尋ちゃん」

美沙希と同じにと言われて、流衣は安心して嬉しそうに千尋に手を振って、陽菜の後を追った。

驚いたのは千尋の方。クソ真面目が多いバレエ界の生徒の性格よく知っている千尋は、今もまた拒否されると踏んでいた。しかし想定外の流衣の態度は千尋に衝撃を与え、出会った事がないその人柄に感動を覚えてしまった。

「……なんて素直。流衣ちゃんといい、みっちゃんといい……日野先生んとこ良いなあ」

流衣が消えた入口を千尋は羨ましげに見つめた。


 幕間のリハーサルは順調に進み〈長靴を履いた猫と白い猫〉が可愛らしく舞台を飛び跳ねていた。

「白い猫、可愛い」

流衣は猫のポーズを取る振り付けがとても可愛く見え声に出し、寄り添うように側にいる陽菜に同意を求めた。

「長靴もめっちゃ元気やな、ちびっ子? 白猫は中学生はなんぼ?」

元気に走り回ってるように踊る長靴を履いた猫が、子供に見えた理子。

「ハルト君6年生だよ、普段すごくヤンチャで、この間窓から出ようとして、金田先生にやたら怒られてたんだよ。白猫は中3で発表会終わったら受験勉強するって言ってるの」

「ヨユーやな」

「部活ラッキー〈前期〉だから、落ちたら本気出すんだって!」

出番が終わった美沙希が流衣達の側に来ていた。一緒に舞台を見て、プチ情報を流し陽菜をリラックスさせようとしていたが、当の陽菜は緊張の為に口をキュと結び一声も発しない。


「この後〈赤ずきんと狼〉で次が〈タランテラ〉で僕たちの出番だよ大丈夫?」

出番が近づき、ようやく陽菜を気にして始めた秋山は、近づいて声を掛けた。

「はい……」

秋山に声を掛けられたが、真横にいる陽菜の顔色は冴えない。


——やーん、こんなに近いと、体臭も混ざって来てめっちゃ臭い。


〈憧れの人〉から〈普通の青年〉になると、体臭が許せなくなる思春期女子。そしてそれは風邪をひいて弱っている喉に悪戯する。

「……ゲホッ」

「え? 君カゼひいてるの?」

秋山は移されたら困るといいたいのか、ちょっと身体を引いて喋った。

「陽菜ちゃん大丈夫?」

流衣が心配して陽菜に声をかけると、まだ踊る前なのに、額にうっすらと汗が滲んでるのが見えた。

「陽菜?」

美沙希も近寄って来たが、流石の美沙希も香水の匂いに二の足を踏んだ。


——うわ……最悪。何なの今日はいつもと違う。みっちゃんがクサヤとか言ってんの大袈裟じゃ無いかも……。


そうしてるうちに〈赤ずきんと狼〉のコーダが始まり、陽菜は間もなく出番が来る。

「流衣ちゃん、美沙希ちゃん、みっちゃん……緊張して来ちゃった、間違ったらどうしよう」

陽菜はちょっと弱音を吐いた。

「えっと、河合さんだったよね、本当に大丈夫?」

「あ、はい大丈夫です」

冷めたとはいえ、秋山に名前を覚えてもらって、少し気が良くなる陽菜。

「とにかく、まだリハだし、最後まで踊れば良いから、力まずにね」

たまには良い事を言う。秋山。

「そうだよ陽菜ちゃん。たとえ間違っても慌てなくて良いからね。堂々としてれ気付かれないから」

つい最近まで振りを間違えていた陽菜に、流衣は顔に出さなければ大丈夫だと諭すのだ。

「いや、それは無いでしょ。観に来てるのバレエ関係者だから普通にバレるよ」

秋山が余計な一言を発する。

「う……」

聞いた陽菜はまた表情が硬くなった。


——おまえ空気読めよ……。


 美沙希、理子、流衣の共有の思いが、天の声となり視線が秋山を突き刺す。だが本人は全く刺さって無い様子で、舞台の方を見ながら、軽くリズムを刻んでいる。

「……そうね。たとえ間違っても、秋山さんが何とかしてくれるから大丈夫よね。だってプロだもの」

美沙希の嫌味が炸裂する。

「え〜。そりゃ何とかするけどね。まぁ、僕はアドリブ得意だから任しといて」

秋山は褒め言葉と取った。


——こいつこたえねぇ……。


やはり突き刺す様に睨らんでも、秋山はダメージゼロである。


「はい、終わった。じゃあ行こうか」

前者の曲が終わると、秋山は陽菜に向かって慣れた感じで手を出し、そこはスマートにリードした。

 タランテラの出だしはふたりが手を組んで舞台中央に向かい、弾む様にステップを踏みながら出て行くところから始まる。

「陽菜ちゃん、がんばって!」

流衣の励ましと同時に陽菜は舞台に出て行った。


出だしは順調。

ふたりで踊って男子がはけた後、女子パートのソロ。

舞台の照明に当てられながら、最初の回転だらけのソロパートを、目眩なのか自分が回ってるせいなのかわからないまま下手しもてに履けて行く陽菜。

次は男子のソロパート。秋山はタンバリンを片手に跳躍が続く振り付けを、軽くホップする程で流して行く。


「秋山さん、全然本気じゃ無いね、飛んだ振りしてるだけ」

「……温存しとる」

「でも、陽菜ちゃんはしっかり踊ってる」

ハラハラしながら心配げに見守る三人。

 軽くと言われても実際に舞台に立てば、どうしても練習した通りに踊ってしまう陽菜。

ペース配分が出来るほど余裕も経験も無い、それは場数を踏まないと出来ないものでもある。

 秋山がソロパートを終え引っ込むと、下手から陽菜がタンバリンを手に出て来て、舞台中央で飛ぶグランジュッテ。

タンバリンを鳴らしてコケティシュな振り付けを、早いテンポで踊り続ける、息つく暇もない。

そして交代。陽菜は上手かみてに捌ける。

「いけるよ陽菜」

美沙希が声を掛け出迎える。

「いい調子だよ陽菜ちゃん」

支える様に陽菜の腕を掴み流衣が声をかける。

「あとはラストだけやで」

理子も励ます。

呼吸するのがやっとの陽菜は、頷く事で何とか答えた。


2度目の男子のソロパート。

ここでも秋山は軽く流す程度にし、決める場所だけポーズを取ると女子の3度目のソロにバトンタッチ。

ここのパートはキャラクターダンスで最も楽しげに踊る部分。相撲の〈シコ〉の様なポーズが特徴的なパートである。

跳躍、回転を速いテンポで繰り出し続ける、陽菜はもはや無表情。なんせこれから袖に引っ込む事はなく、舞台上で男子を待つ間も呼吸はみだせない。

慣れた子ならば、笑顔の口端から胸筋と背筋で呼吸するが、陽菜にそんなテクニックも余力もない。そしてさらなる地獄、男子と女子の踊り比べのコーダ部分に差し掛かる。


「うわ、陽菜、肩で息してる」

スポ根漫画のタイブレークの場面を彷彿とさせる。

「ひええ、カマ足どころか、内股や!」

もうバレエではなく柔道一直線。

「あと少し、がんばれ〜〜」

隣に居る人間にしか聞こえない小さな声で、絶叫に近い声を出す3人。

 

そしてラスト。ふたりがお互いの位置を交代しながら舞台を半周して、上手側からターンで横切り、男子が女子を引き寄せキスして下手に退場する。

 

 はけた途端にへたり込んでしゃがんだ陽菜に、光莉と柚茉は左右に駆け寄り、両脇を抱えて奥まで移動させた。

「頑張ったね、陽菜ちゃん」

光莉が陽菜に声をかける。

「えらいよ陽菜」

柚茉も褒めた。

意識朦朧となり、秋山にキスされた事もスルーしてしまう、目が虚ろな陽菜。

「あれ」

陽菜と一緒に下手に引っ込んだ秋山が声を出した。気が付いた柚茉は、秋山が気を取られて声を出した方向をみた。

「なんやこれ?」

客席が埋まってるのを見て、理子はギョッとした。

「Sスタジオの子達か、みんな自分の支度できてんのかな?」

秋山はマイペースを崩さず、のんびりとした口調で言った。

客席の前方部分にSスタジオの子達がいる、本番では無いので舞台スポットはなく、照明が完全には落とされて無い客席がよく見える。


——この人達、みんな流衣ちゃん見に来たんだ。視線が怖い……なんかやだ。

 準備するために楽屋に入ってる時間を、ローザンヌ出場者のために使う。好奇心に満ちた視線が舞台上に注がれ、光莉は恐怖を感じた。柚茉もまた、光莉と同じぐらい恐怖を感じる。


「やだ、こっちが緊張して来た」

柚茉は二の腕を摩りながら肩をすぼめる。

「私も」

光莉は胃の辺りを摩った。

「え〜、リハーサルなのに、そんな事で本番どうするのさ」

呆れた様に半笑いで軽々しく言う秋山に、ふたりは振り向きもしなかった。


——これ、大変やん。ただのリハーサルなのに、ちょっとでも間違ごうたら、一生笑いもんにされるわ。

 

上手側にも客席の異常な緊張感が伝わった。


ーー気持ちは分かるけど、視線が痛い……。

 でも、ローザンヌの審査員達の視線はもっと厳しいよ、流衣ちゃん。


美沙希はエールを送る様に流衣を見た。


 舞台リハーサルの進行役は、Sスタジオの講師だった。

「四季の精霊。行きますよ」

手招きで呼ばれた。

トップバッターは流衣。

舞台袖に居る流衣には客席もよく見える。


……雑念と思惑に満ちた客席。


——舞台に立てる。練習でも無い、お稽古ともちがう……なんだかゾクゾクする。


 舞台に立てる嬉しさで、頭から爪先まで駆け抜ける電流が高揚感を生み出し、別の次元にいるもう一人の自分が重なりひとつになる。


今の流衣にはリハーサルも本番も関係ない。


 一瞬時間が止まり、静寂の中に音楽が鳴ると、流衣は舞台へ躍り出た。


 春。暖かい空気に誘われて目覚める精霊。暖かさに包まれ、芽吹き始めた木々の営みを眺めて、成長を促すように周りの空気をかき混ぜると、あちらこちらで花が咲き始める。


——うん。春の精が動くと、それに合わせて周りの花が咲き始めるみたいに、春を呼ぶ精霊。私が思う春の精。私が触ると花が咲く……んふふっ、楽しい花咲か爺さんみたい。


終始楽しそうに踊り、ラストのポーズで締めた。


流衣は柚茉と入れ替わり、今度は夏の精霊の踊りが始まる。


「……ふーん」

「まあまあじゃ無い?」

客席の前列から聞こえて来る声。

「ローザンヌに行くなら、このくらいはね」

「だよね」


——あの子たちクラスが違うけど、上級者クラスで、前から口ばっかりなんだよね。

足五番の姿勢で斜めに見上げた顔を崩さず、抑えた声だがハッキリと聞き取れる内容に、美沙希は嫌悪感を抱く。

「言わせておけば?」

いつの間にかユズと千尋が美沙希の近くに来ていた。

舞台は既に秋の精霊の理子にバトンタッチされている。

「見る目が無い人達に何言われてもね〜。あのピルエット見て驚かないんだから」

「だから〜」

「それな」と同じ意味合いの「だから」の仙台弁が炸裂するユズ。

ピルエット。二回転、三回転、それ以上の回転数になると流れがちになり、顔正面の状態で足ブレーキをかけて止まるのが通常となっているが、流衣は身体で止めその後に足を下ろす。小さい頃に見た、レジェンドのピルエットが目に焼き付いて、それを模倣する事が流衣のバレエの一翼を担っていた。

「あの子達は偶然だとでも思ってるんじゃないかな」

美沙希は客席前列の嘲笑してる子たちを見ていった。

「たまに流れちゃうこともあるし、そこしか見てないんだろーね〜」

「止まる位置と向きを考えて踊ってるのに、ポテンシャルが違いすぎて笑うね」

感覚の違いに、思わずクスクスと笑ってしまうユズと千尋。

 小学生の頃に流衣が「おへそが2番、顔1番、アンディオール、アンディオール」とブツブツ言いながら踊ってたのを、いちいち口に出さないとダメなのかな、と当時、ちょっと馬鹿にしてた事を悔やんだ。自分は一度で覚えてその通りに動いてると悦に浸っていたが、記憶違いで間違った位置で覚えていたり後から直すのに手が掛かったりして、器用貧乏の一長一短を体感してしまった美沙希。今の流衣はもう身体に染み付いている。

「金田先生が『角度を意識して動け』ってよく言うけど、自分は理解してなかったんだなってつくづく思う」

自分に言い聞かせるように話す美沙希。

「〈カトル〉のコーダに入った」

四季の精霊のラストのコーダ。4《カトル》人のコーダは楽しく盛り上がる。

「今のところ! 振り向く所、良い」

「可愛いよね」

ユズと千尋が舞台袖で盛り上がる。


〈プロの一年、アマチュアの十年〉国際基準に則った踊りの世界はそう言われている。アマチュアでやる十年は、プロとして勉強する一年と変わらないという意味である。プロとアマチュアがハッキリと分かれている社交ダンスの世界はそれである。


国際規準……それはステップの正しい身体の角度(向き)が決まっているという事。


 バレエの世界もそれに準じて、正面から時計回りに番号が位置付けられ、社交ダンスほど細入りではないものの、正位置とされている。

バレエダンサー側にしてみれば、プロフェッショナル以外、国際基準という自覚が備わっているのは稀である。


「やっぱり……」

客席の中列の出入口の扉の前で見ていた金田は呟いた。

「何がです?」

扉の前に立つ金田に気が付いて、裏から回り込んで近くにまで来た秋山は、金田の独り言に後ろから声を掛けた。

「目立つだろ? 春だけ浮いてる」

声で誰か分かった金田は、振り向かずに答える。

「ローザンヌ……。確かに目立ってますけど、このくらいは踊れないと……でも飛び抜けて上手いわけでも無いから、決勝は無理っぽいですね」

決勝に出場した秋山は、現実を語る。

「無理っぽいか……じゃあ何で選ばれたんだと思う?」

金田は逆に質問し、秋山がどう答えるのか待った。

「先輩は僕の見解を聞きたいんですか? それともローザンヌの総意ですか?」

「両方だな」

「個性です」

それ以外に何があるのかと断言する程、ハッキリと顔に書いてある。

「それと、音楽性」

真顔で言った秋山を凝視する金田は、それが分かってても、向こうはキツかったのだろうと、秋山の顔には出さない苦労を伺えた。

すると不意に、幕の隙間からオーロラの手招きが見えた。相手役が来なくて慌ててる様子だ。


「おっと。のんびり観てる場合じゃなかったな」

「出番ですね」

「しかし秋山。個性は滲み出るもので、醸し出すもんじゃないぞ、香水は少し控えろよ」

苦笑いで秋山につけすぎを注意する金田は、真っ直ぐ進み、舞台に駆け上った。

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