第9話 マニアの過程

 12月に入り、澄んだ空気が冷たさを日々一層と増す中、ヒノ・バレエ・アカデミーは熱気で溢れていた。バレエ合同発表会前の最後の日曜日、教室だけのリハーサルが行われ、皆がそれぞれ本番さながらに気合いが入っていた。

 ジュブナイルクラスは午前中に終り、午後の部である大人クラスのリハから始まり、小学生高学年からの中級クラス、上級クラスの順番である。その中に居ながら、流衣は心ここに在らず。目はリハーサル風景を追っているが、心は秋風が吹き抜けていた。

——心が寒い……。じゃなくて懐がさむい……。

 リハーサルの前に、立て替えてもらっていたローザンヌ国際バレエコンクールの交通費と宿泊費を先生に渡したのだ。そして残金、8620円。今月(12月)入ってくる先月分(11月)のバイト代は、ほぼ発表会費用に消える。どう考えてもコンテンポラリーのレッスンを受ける費用は無かった。流衣の心には秋風どころか冬風、突風が吹いていた。それに何となくやる気が出ないのは久しぶりの生理痛のせいでもあった。先月、一大決心をして婦人科に行ったのだ。それが意外や意外、内診などなくあっさりとピルを処方されたのだ。おまけに罹災証明書を持参する事で治療費も無料になり、こんな事ならもっと早く病院来れば良かったと、流衣は拍子抜けした。それで久々に味わう地味な生理痛と、出血に伴う気持ち悪さで気が滅入っていたが、この調子ならローザンヌにかぶらなくて済むと、多少気は楽になった。そして改めて流衣は現実に戻る。

——頑張ってるつもりだけど、全然足りないや……。……世の中のお父さん達って、こういった費用の他に家賃とか光熱費とかの分も稼いでるんだ……大人の男の人って凄いな。

現実の金銭問題に、考えすぎなのか間違った比べ方をしてしまう。そしてボンヤリと残った8620円の使い道を考える。

「……チケット代いくらだろ……」

「2000円や」

真横でリハーサルを見ていた理子が答えた。

「2000円⁈」

その値段に流衣は驚く、公演ではなく発表会である。本来なら無料、もしくはせいぜい1000円が相場

「出演者は二割引きだから、1600円だよ。それでも高いよね」

光莉が横から話した。

「うちらゲストだから10枚持ちって言われとるけど、流衣ッチまだ買うてへんの?」

「10枚⁈」

「うん。でも最初20枚って言われてたけど、一般の予約売り上げが良いからって10枚になったんだって」

簡単に説明する光莉。

「〈秋山仁〉様々やな」

「秋山君は〈若手のホープ〉だから、それで2000円なら安いよね、東京のバレエ団の公演なら一番安い席でも3000円だし」

「二人とも情報通だね」

柚茉が後ろから、ヌッと割って入ってきた。

「美沙希情報に決まっとるやろ」

「美沙希ちゃん、『本当は50枚だったのに20に減ったの仁君のお陰様だから、暫く悪口言わない様にする』って言ってた」

光莉が苦笑い。

「ほとぼり冷めたら言う気満々やん」

今日は美沙希はSスタジオのリハに出てる為に来ていない。理子のツッコミに柚茉がけたけたと笑った。

「悪口……」

流衣が疑問を口にしたので、説明する為に柚茉が笑うのをやめた。

「性格に〈難あり〉なんだって、秋山君って」

「……そうなんだ」

 陽菜の件でそうではないかと思ってはいたが、会ったことがない相手の事を言うのは気が引ける、でも美沙希が言うなら間違いないだろう、と思うのだが、チケット代を免除されてる流衣はみんなの会話についていけず、罰が悪くていつもの様に気軽に会話が出来ないでいた。

「流衣ちゃん、秋山君の事気になるの? それともチケットのこと気にしてる?」

光莉が核心をついてきたので流衣は焦った。

「え、あ、その……両方」

しどろもどろで答えた。

「流衣ちゃん秋山君が好みなの?」

柚茉が勘違した発言をするのも無理はない。秋山仁はバレエ界の若手イケメンダンサー代表である。

「はあ? 趣味悪いなぁ、あいつイケメンちゃうで、ただの踊れる一般人や」

理子のトーンの高い声は、周りの生徒達の笑いを誘った。

「やだぁ、みっちゃんってば、本音ダダ漏れ!」

中学生の一人がたまらず喋った。

「確かに〈嵐〉のニノの立ち位置だよねー」

「ジャニーズ二割り増し効果〜」

中学生女子には〈嵐〉はおじさんチームである。

「いやあの、顔の話じゃ無くて……」

話の趣旨が、ドンドンとずれて行くのを止めようと割り込む流衣。

「ちょっと、そこ静かに!」

とうとう先生の注意が飛んできて、一同は一斉に口を閉じた。

チケットか……。手伝いたいけど、お父さんは相変わらず恥ずかしいって嫌がって来ないし、お母さんは仕事だし……。

 家のカレンダーに母の仕事の予定が書き込んであり、発表会のその日は準夜勤で、時間帯が完全に被る。前々から発表会の日にちは言ってあるのに、その日のシフトを変えない母親の無関心な態度に、いつもの事だが決して慣れることのない、やり切れない寂しさを感じる流衣。今はそれ以上にチケットを購入するにあたって、誰にどう渡すか考える方向へ意識が向けられた。

 ——臣くんに……チケット渡したら受け取ってくれるかな……、来てくれるかな……。見てくれたら物凄く頑張れる気がするんだけど、でもバレエだし……興味無いだろうし、基本的に女子だらけの所に入るの嫌かもしれない……。あ、ハク達と一緒なら? 皆んな一緒なら勢いで来れるかも、って待って、ハクはともかく、セキは拒絶するかも……、かもじゃなくて絶対っぽい……。それにマスターはお店? 日曜日はお休みだけど、祝日はどうだろう、忘年会シーズンだし……なんか全てがダメな方向に向かってる気がする。

「流衣ちゃん」

「はいっ」

唐突に光莉に呼ばれて、意識が飛んでいた流衣は、教室で先生に指名されたかの如く、直立不動になった。

「陽菜ちゃん来たよ〜、順番に間に合ったね」

光莉がクスクス笑ってる、陽菜は今日塾の模試の為に遅刻だったのだ。時間が微妙だった為に流衣は〈春の精霊〉の方の準備をしてトウシューズを履いていた。〈タランテラ〉の男子パートに付き合う為、慌てて柔らかいバレエシューズに履き替える。

「流衣ちゃん、ゆっくりで良いわよ」

日野も本番さながらとはいえ、そこは慌てない様にと声をかける。流衣は頷きながらシューズを履き替え、巻きスカートからジャズパンツに仕様を変えた。呼吸を整え陽菜を見ると、陽菜も準備が出来ており、オッケーサインを出している。

ふたりが上手で手を組んでスタンバイする。

「もっと時間かかると思ってたの」

流衣がすまなそうな顔で、準備が遅れた言い訳をした。

「だってぇ、会場の雰囲気やだったから、終わってすぐ出てきたんだもん」

陽菜が口を尖らせて嫌そうな顔をすると、その顔がムンつけた小学生の様で流衣は笑ってしまった。

「模試どうだった?」

もっと可愛く怒らせたくなって、つついて刺激してみる小学生男子のような流衣。

「さいあく〜。もうや〜」

駄々っ子みたいな陽菜。

「じゃあ、タランテラ踊って忘れよっか」

「それもさいあく〜」

流衣も、陽菜の台詞が聞こえた人達も皆んな笑いを堪えた。振り付けに関しては問題はなくなったのは良いけれど、体力的に難ありで、踊り終わると倒れ込む陽菜だった。音楽がスタートするとふたりは軽やかに躍り出た。

 出だしは手を組んで、フォークダンスの様に軽やかにステップを踏む、左右に分かれて対象に踊った後、女子のターンだらけのソロパート。女子が下手に捌けると同時にタンバリンを片手に男子登場。タンバリンを鳴らしながら、コミカルにステップ踏むおどりは、優雅でダイナミックなバレエのジャンプとは違い、若い男子が祭りで弾けて踊る風景そのもの、リハーサルのみに割り当てられた踊りは、責任感も緊張感もない、流衣はただひたすら純粋に楽しんだ。

心から楽しんで踊る流衣のパフォーマンスは、教室にいるひと達を声を失ったように黙らせた。

男の子に見える……。そう光莉は思った。

——流衣ちゃんって不思議。ちゃんと男の子に見える、いろんな役になりきっちゃうタイプだけど、今日はいつにもまして男の子になっちゃってる。あんなに楽しそうに踊られたら、見てる方にも伝染して楽しくなっちゃう。

「ブルーバードとはちゃうな……」

理子の独り言に近いつぶやきを、両隣の光莉と柚茉だけが気が付いた。

「そういえば……」

「……ブルーバードは、フロリナ王女をサポートしながら一緒に舞う感じだったけど、この男子は女子が出てくるのを待ってるみたい」

「せやな」

「そっか、だから男の子に見えるんだ」

流衣の踊りに対する柚茉の表現に、に納得する理子と光莉。

そしてそれは観客の位置から観ている日野と同じ考えだった。

(ラストで男の子が女の子の頬にキスするけど、バランシンの振り付けだと、女の子がキスしようとする男の子を払いのけるから、恋人同士の踊りとは言い切れない。でも流衣ちゃんがちらっと陽菜ちゃんの方を見るのは、好きな人を目で追う視線そのものね。視線を送るだけで踊りにストーリーが感じられて深みが出ている。以前のブルーバードの踊りに驚いたのは、王女に仕える従順な僕の様にみえたから。それはそれなりに解釈してるからこそなのだけど、中一の女の子がどうして出来るのか不思議で、色々聞いてみたら、小さい頃から観てる映画やアニメのせいだとわかって納得したのよね。……流衣ちゃんは無意識でやっているのだろうけど、それだけ役になりきれるのは物凄い強みね)

 日野が物思いに耽っていると〈タランテラ〉の踊りが終わりかけ、ラストのキスの代わりに流衣は片手ずつ二回投げキッスをした。純情で一途な男の子が、照れ隠しをした様な、そう見せかけて本当はプレイボーイだった。とも取れるお茶目な演技に陽菜までつられて口をあんぐり開けて、とぼけた表情のまま腕を組んで退場する。それを見て日野は眼を丸くした。終わったら拍手しようと構えていたみんなも、意表を突かれてどよめいた、そのあと、大喝采になった。

「やだ〜、流衣ちゃん、ジョニー・ディップみたーい!」

光莉はジョニーのファンらしい。

「も〜本番、仁君の代わりに踊ったり〜な」

理子も可笑しくて腹を抱えて言うと、皆んなも頷いた。

「え〜、それはやだ〜」

ヘロヘロでバーにつかまりよたりながら、一人で反対する陽菜に流衣が爆笑する。

「やんないよ〜」

ないない。と手振りで返す流衣。

 ひとしきり皆が笑ったあと呼吸を整えるのを待って、日野が口を開いた。

「これから最後の〈四季の精霊〉達の踊りですが、その前に話少し話します」

日野は、流衣が準備をする為のインターバルを取った。

「さて皆さん、いよいよ発表会まで一週間を切りました。今回は当日スケジュールが詰まっている為舞台でのリハはありません。チケットが午後の部と夜の部で金額が違う為に、完全入れ替え制になります」

「……えげつなっ」

日野が一呼吸おくと、すかさず理子が合いの手みたいな感想を漏らす。日野が目で制すと、理子はペロっと舌を出した。

「ただ、その入れ替えのおかげで、場当たりする時間があります、午後の部と夜の部、それぞれ開場前の二時間ほど舞台で練習出来ます」

日野が言うとみんながザワザワと話し出した。

「良かったやん」

「だよねー、舞台で踊らないと距離感掴めないよね」

通しのリハーサルはやらなくても、舞台で自分の立ち位置を確かめておく必要がある。自分じゃ前で踊ってたつもりが、実はかなり後ろだった、なんてことにならない様にする為である。

「皆さん分かってると思いますが、本番はほんの一瞬です。その一瞬に普段やっていることが全て出ます。毎年恒例のおさらい会のビデオを観て後で後悔してる方はいますか?」

教室のあちこちから小さい悲鳴と笑い声が聞こえて来た。

「今年は例年になく大きな舞台です。今まで以上にそれが顕著に出ます。後の後悔がない様にこれから数日の練習も毎日が本番だと思って頑張ってください」

先程の悲鳴と笑いが、軽いガッツポーズに変わる面々。

「とくに『眠りの森』はビデオを販売する予定だそうなので、尚のこと気合いを入れてください」

「!」

「えぇ!」

「うそやん!」

「聞いてないよ〜」

「ほんとにほんと〜?」

流衣、光莉、理子、柚茉、陽菜、全員が一斉に驚いて日野を見た。無関係の生徒達は、他人事として頑張れコールの小さい拍手をする。

「それ何の試練? ただのゴーモンなんだけど」

柚茉が愚痴る。

「めっちゃエグいわ、うちメイク苦手やのに〜、店頭におるの勘弁して〜な〜」

「嫌なのそこ?」

「心配してる所残念だけど、店頭には並ばないと思うわよ?」

日野が指摘する。

「店頭に無くても販売取引出来るやん、十年後にブックオフでぐるぐる回んいやや〜」

理子の叫びにドッと笑いが起こった。


 「この前なんとなく話したんだけど、東京の教室のレッスン代は高いらしいね」

開店準備をしてるとそれとなくマスターが話し始めた。

「あ? レッスン? 勉強して副業でも始めんの? やめとけよ、どうせ怪しいネットワークビジネスだろ? マスター向いてねーから。それとも俺に転職を勧めんのに、暗に金が無いの察して欲しいの?」

ハクが〈お通し〉のイカの塩辛を作るために、マスターが朝イチで仕入れて来たイカを捌きながら軽口をたたく。

「……あのね、ハクのその一瞬で話を展開させる頭の回転の速さは認めるけど、飛躍しすぎ、流衣ちゃんの事だよ」

マスターは半ばあきれ顔で喋った。

「何で流衣のレッスンの心配してんの?」

「バレエってお金かかるんだなって思ってさ、流衣ちゃんが行きたいって言ってる、コンテラリーとかって、有名な先生だとワンレッスン二万掛かるって言うじゃ無いか」

マスターが首を振ってため息をつく。

「……スタンプラリーじゃあるまいし。コンテンポラリーだろ」

コンテラリーで、絵コンテ持って漫画家が競走してコンビニ回りしてるみたいだと想像した後、ハクがマスターの勘違いを正す。

「そうそう」

「知り合いの先生の紹介で行くとこは1万で、先生の伝手で8000円にしてくれるらしい」

「それは現実的だね」

「でも交通費がな……新幹線だと片道1万、高速バスだと往復で8000円位で安いけど、丸二日かかるって悩んでたわ」

「二日か……。安い夜行バスを選んでも『時玄ここ』で一月分のバイト料よりかかるのか……」

マスターはため息をついた。時給1000円で週三回、一時間ずつ働いて12000円。少しずつ残業しても15000円まで届いてなかった。

「時給上げてみるとか……」

ハクは細い目を横流しでマスターに探りを入れる。

「夜間でも高校生で1000円なら破格だよ。大体明らかに贔屓したら流衣ちゃん引くよね」

「あー、絶対に拒否るなあいつ……。頼りねーくせにガンコちゃんだしな」

「……」

「……」

マスターもハクも考え込んで黙ってしまった。

あれ? っと、ハクはマスターが何故が自分と同じ目線で悩んでるのか気になった。

「マスターは大人なのに……何でさ、あいつの親に愚痴らねーで、俺と一緒になって悩んでんの?」

 人は自分と同じ年代をよく比較するものだ。この間の団体のおばさま方みたいに、あそこの親はとか、そこの嫁は、とかが出ないマスターに、もしや怪しい感情を抱いてるのではと疑問を持ち、思わず聞いてしまった。

「大人だからに決まってるじゃ無いか」

「んだよそれ」

ハクはゲスな勘繰りを深めてしまう。

「あんなに必死になって働いてるって事は、親が当てにならないからそうしてる訳で、相談すら出来ないから、手続きだって自分でやってるんだろ? 大体さ、流衣ちゃんの家が被災してるって事は、義援金や支援金が入ってる筈なのに、どんな理由があるのかは知らないけど、それを子供のために使ってやらない親の器量くらい計れるさ」

——あり? オレ考えすぎた?

普段の流衣の態度で家庭の事情を見抜くのは、人付き合いの多いマスターの観察力の賜物である。

「さすがマスター。だてに40年も水商売やってねーな」

ハクは拍子抜けした様にそっぽを向いて、余計な勘繰りをした自分を反省する。

「いや、30年だけどね。そういうハクだって、その歳で僕と同じく認識できてるじゃないか。この商売向きだね」

マスターが真顔でハクを褒める

「お水の花道かよ……」

——オレは……金のこと言うとお袋が泣くからさ。別に悪いとも辛いとも思ってないのに、謝りながら泣かれんの辛いって。それでいつの間にか言わなくなっただけで、偉くも何ともねーんだけど……。

けど、まあ、いいか。

結論を出さずにいるのが良いことなのかどうか、今のハクには分からない。ただ、何かを見て見ぬふりをして、虚に日々を過ごす事に罪悪感を持ったら、生きにくい世の中になることだけはわかる。

「でさ、ここから本題なんだけど……」

「本題? 今から本題⁈ じゃあ今までの話はまさかのウォーミングアップ⁈」

「そういうことになるかな」

何故マスターが、そんな回りくどい事してるのか分からないハクは、推理中のホームズの隣にいるワトソン君の気分を味わった。

「ハクのアパート、〈半壊〉認定されたって言ってたよね?」

ドキっとするワトソン君。

「それがどうか……」

「認定されたんなら、支援金の50万。貰ったでしょ?」

「いや、待って、これはオレが……真面目に頑張ってるオレに、神様からのプレゼントなわけで」

「何を言う」

「は?」

「それは神からの贈り物なのではなく、日本国民の血税である!」

「いつも安西先生みたいなキャラなのに、何で帝国陸軍少将に変身すんの?」

「無論、無理強いはしない、あとはそなたの漢気に任せよう」

「今度は戦国武将かよ」

「いや、僕は真面目に言ってるからね」

「そこで素に戻らんでキャラ推しで来いや!」

不真面目さと馬鹿馬鹿しさとと心強さを、チャンポンしないと照れ臭くて語れないふたりであった。


 月曜日、流衣は朝から落ち着気がなく、分かりきってる一連の動作に迷いが生じると、お味噌汁を作ろうと出した鍋を落としてしまった。

「何やってるの! 静かにやりなさい、ご近所様に迷惑でしょ!」

「ごめんなさい」

朝から母親に怒られてしまった。気を取り直して今度は静かに動いて味噌汁を作り、いつものように一杯飲むとバイトに向かった。そしていつも通りにバイトを終え学校に行く、一臣は4時間目が終わると早退し、流衣は昼休みに裏庭でおにぎりを食べ、放課後一臣との待ち合わせの公園へとむかう。

——そういえば最近、臣くん4時間目まで授業受けてるんだよね、なんでだろ。喋る訳じゃないけど隣にいてくれる時間が長くてあたしは嬉しいけど、……まさかあたしと同じ気持ち……の訳ない、よね。ははは、はぁ……。ため息出ちゃう。

 流衣の思考は当たらずとも遠からず。一臣が長く学校に居るのは流衣を送迎する為、遠出出来なくなったからで、流衣のせいなのだが、本人はいま一歩ピンと来てなかった。

 ——臣くんがあたしの事気にかけてくれてるなら、ひょっとしたら、ひょっとして、なんて思ったけど、あれから態度変わらないし、ずーっと同じだし、なんなら会話は業務連絡だし。……なんかむかついて来た、いっその事ほっといてくれたら悩まなくて済むのに、こっちはずっとドキドキしてるのに、気になって仕方ないのにっ、せっかく距離を置いて考えない様にしてたのに、あんな事言うから……期待しちゃうじゃないっ、もうっ、臣くんのばかー!

「あ……」

毒づきながら歩いてたら、いつの間にか待ち合わせ場所が見える所まで来ていた。そして公園にはいつも通りに一臣が待っている。流衣はドキリとして、小さくなった。先程までの不満とは裏腹に、一臣の姿を見た瞬間に嬉しさが溢れ出す。

——チケットどうやって渡せば良いの……。なんかこう……キッカケないかな、何キッカケ? バレエの話題? それあたしからしか出ないし、それキッカケ?? ……あーもーバレエ以外で悩むの難しいっ。

 教室リハの後、流衣はなけなしのお金でチケットを4枚購入した。一臣とハクとセキ、マスターの分。今の自分に出来る精一杯の感謝の気持ち。

——でも、もしかして……バレエに興味が無い人に、バレエの発表会のチケット渡すのって、嫌がらせに近いのでは……。

「何?」

考えすぎて余計な気を回し、いつまでも自転車に乗らずに悶々としてる流衣に痺れをきらす一臣。既に自転車に跨っている一臣は、流衣とほぼ変わらぬ目線にいる。

——今かな?

千載一遇とばかりにチャンスが訪れた。

「あの……。何でもない」

——今じゃない。渡すなら皆んながいる『時玄』が良い。うん、そうしよう。

緊張して勇気が出ない流衣は。つい事を先送りにしてしまった。


 店に到着するとハクとセキがカウンターで賄いご飯中だった。パスタを食べてるふたりの横にマスターの姿はなく、流衣は店内を見渡した。

「マスターはお買い物?」

「いつもんとこ」

パスタを頬張りながらハクが答えると、流衣は気落ちした。

——パチ屋さんに行ったらしばらく帰ってこない、ああ……予定がずれて行く……。

ゲームセンターにすら行ったことがない流衣は、パチンコやパチスロがどんなものか想像すら出来ないが、『時玄』でバイトする様になってから、そこに行ったらなかなか帰らない事だけは学んだ。

「マスターになに用?」

ハクに問いかけられるも、流衣が見てる前で、てんこ盛りだったパスタがみるみる減って行く男子の豪胆な食べっぷりに、毎日見てるが毎回感心して眺めてしまう。いつの間にか一臣も加わって、二人ほど速くはないが淡々とそして着実に減って行く、キャベツと人参と蓮根入りのペペロンチーノは具材が多過ぎて原型をとどめていない。

「ンなに返事忘れるほどかっこいいか?」

食べ終わったハクが軽口を叩いた。

「うん。凄く」

「ブッ!」

予想外の流衣の返事にセキは最後の一口を吹き出してしまった。 

「お前は変化球サイン無視して直球投げる岩田鉄五郎か!」

 否定されると踏んでいたハク、恥ずかしいのか悔しいのか、何故か〈野球狂の詩〉で突っ込みだす。

「何むせてんだよ、おめーがかっこいい訳じゃねーから安心しな」

「違っぐっ、ゲホゲホゲホッ」

否定しようにもパスタがおかしな所に入り込み呼吸困難なセキ。

「ボウリングと魔球の因果関係が理解できなくとも、何か凄さが伝わる感マックス」

流衣が何気に乗って来た。

プロボウラーでも無いのに300点を出す水原勇気の事である。

「マックスと言ったらマッドマックス、そして〈世紀末救世主伝説〉の「どう切り詰めてもここは後二人です」の不条理さ」

「大丈夫。そこはアニメでは「外から扉を閉める人が必要です」設定に変更になる寛容さで払拭されたから」

アニメ作画監督の勝利。

「結局、女一人の取り合いのための兄弟喧嘩設定は最後まで変わらず、レインボーオーラを放ち、ラオウは世の男どもの神へと君臨する」 

「ラオウ……が神様? だとするとカリン様はどうなるの?」

「そりゃ神様じゃなくて仙人だわ」

「界王様がいて、冥王様もいて、ドラゴンボールで出でよ神龍!」

「そこは神様だらけだから、逆に一緒にすんな」

「六畳一間で漫画も描いてて、立川のアパートが超カオス地帯のあらたなメッカと化する、新世紀アルマゲドン」

「そりゃブッダで神じゃない、同居人も名目は神様の息子なわけだ」

「そう思うかねヤマトの諸君」

「デスラー総統よりサーシャの存在ヤバくね?」

「反重力物質ならば一人で特攻しろと、今なら炎上間違いなし」

「特攻ならば『月光』が一見の価値あり」

「それは実写映画なので、軌道修正よろしくメカドック」

「メカドックでシルビアの初期に涎が出るも『ふたり鷹』のリスペクトに勝てず二輪を選んだのち『ペリカンロード』が限界だと知った15のオレ」

「新谷かおる〜、の奥さん佐伯かよの〜『スマッシュ!メグ』のファイヤーボールはガットを突き抜ける為、河村〈波動球〉及び真田の〈メラゾーマ〉より格上とみた」

「リョーマの〈coolドライブ〉は一見凄いわざに見えるが、バウンドしない以上、すべてアウトのクソボールだな」

「クソボール代表ならば、『ドカベン』の〈岩鬼〉か『鬼面組』の雲童塊うんどうかいでは?」

「テニスの回で主役になり損ねる宇留千絵の儚さ」

「〈手塚ゾーン〉は『燃えてMIKO』の伯爵夫人の省エネプレースタイルが元祖かも知れない」

「その漫画に〈クランクサーブ〉って出てくっけど、テニプリの〈ハブ〉って技に移行してね?」

80年代の少女漫画まで知ってるハクは、オタク、マニアを通り越してもはや博士号レベル。

「……何でアニメ化もされてない少女漫画に詳しいの?」

突如現実に戻って疑問を投げかける流衣。

「なんでもくそも、パチ屋の休憩所がオレの学童だったからな、そーゆーお前こそ詳しすぎね?」

 今なら子供は立ち入り禁止のパチンコ店だが、店内とは言い切れない微妙な位置の休憩所で、田舎の店ならではの融通を駆使して、母親の上がりの時間まで、古本屋顔負けのラインナップを網羅していた小学生時代のハクだった。

——そこで『ドッジ弾平』を見て、うちの学校でスポ少あるって聞いて、うっかり見学に行ったのが運の尽きだったけどな——。

ちょとだけ昔を懐しんだハク。

——あたしは鈴木のおばちゃんが……。バレエ教室に見学に向かう途中で、歩きながら看板の字を読んでいたら。

「あら流衣ちゃん、幼稚園でそれだけ字が読めるんだ、凄いじゃないの、おばちゃんの本読むかい?」

なんて言っておばちゃんの漫画ごっそりくれて、夢中で読んでたんだけど、お母さんが古本を押し付けられて迷惑よ。って陰で言ってるの聞こえて来て、喜んでるのバレない様にこっそり読んでたな……。

環境も境遇も違うハクと流衣だが、親に気を遣うという共通する行動パターンから、似た者同士のオーラが漂い、収拾がつかなくなりふたり同時に一臣に助けを求めた。

「どう思う?」

——ひでぇ丸投げだな。と思うセキだが、喉に残るイガイガ感を治めるのに全力である。

一臣は途切れた会話の理由も、そこに疑問を持つ理由も特にない、が、敢えて決着をつけろというなら。

「流衣の負け」

一言で制した。

「ええっ。何で⁈」

「よっしゃあ!」

ハクは手を叩いて歓び、流衣はガッカリする。

——何の勝負だよ……。セキは声を出さずに疑問視する。

「会話の流れを切ったから」

一臣の言う事に一理ある。

「そうだけど……いやーん、なんか悔し〜」

「まあまあ、洗い物でチャラな」

ハクが自分の食器を差し出しながら笑って言う。

「しかもペナルティ付き……」

お皿を受け取り、おかしな掛け合いに何となく決着がついたが、いまいち腑に落ちないながら洗い場に行く。

「そこにあんのもよろしく〜」

洗い場に皿と小丼がつけ置きしてあった。

「しょーがないなーもー」

汚れないように上着を脱いで椅子に掛けて、愚痴ったあといつもの仕事よろしく黙々と洗い出す。

「……。ゴホッ」

ランチタイムが終わったあとの、水の入ったピッチャーが片付けられてるのを見てセキが残念な顔で咳をする。

「水なら、皿置いたついでに流衣から貰えよ」

セキが食べ終わった皿を持って洗い場へ向かう。皿を流しに入れて水を汲もうとするが、気を使ったのか動きが止まる。

「……んッグッ、ゴホッ」

声を出すたび咳こむセキに。

「セキのセキひどいね」

流衣の心配の一言はオヤジギャグにしか聞こえなかった。

「……」

黙り込むセキに、白けた空気が流れ気まずい雰囲気が漂う。

「……え〜と、別にダジャレじゃなくて……あ、そうだ」

流衣が何かを思い出して、一旦洗うのをやめて自分の上着の所に戻った。

「むせて咳き込んだだけだから心配いらねーぞ」

会話が聞こえてたハクが流衣に向かって言った。

「でも、いつも咳してるよね」

「そりゃ、ヤニくらってるせいだわ」

ハクがカウンター越しにケタケタと笑って自業自得と言ってる。

「あ、あったあった」

流衣が上着のポケットから何やら探り当て、洗い場に戻った。

「はい、これあげる」

流衣がいなくなった隙に水を汲んで飲んでいたセキが振り返り、流衣が差し出した手を見るとそこにはのど飴が二個乗っていた。

「いや……」

どう反応していいのか分からずセキは困った。

「喉のイガイガなら結構効くよ?」

そう言って、子供に飴を渡すおばちゃんのように、強制的にセキの手に握らせた。

「飴? 大阪のおばちゃんかよ」

カウンター越しに覗き込んでいたハクが声に出した。

「冬になるとね、『風邪ひかないように飴舐めときなさいね』ってバレエの先生が、教室に置いててくれるの」

〈ご自由にお持ち下さい〉状態で入口に置いてあり、帰る時にひとつもらって帰るのだが、口に入れるのを忘れると溜まっていく。

「飴舐めると風邪ひかねー? んなお手軽な特効薬あったら、医者が儲かんねぇだろ」

不治の病である〈風邪〉の現代での役割を指す。

「ん〜、それは先生の持論だと思うけど、最近風邪ひかなくなったから効いてる気がするけど……」

〈病は気から〉を実践してるかと流衣が考えていると

「一理ある」

突如として一臣が横から声を出した。

「何だよ、一理って」

「鼻の粘膜と喉にある線毛がウイルスやごみを防ぐ役割をしているけど、口からウイルスが入った場合に、線毛だけで防ぐ事になるから防御が半分になり風邪にかかりやすくなる、けれど飴を舐める行為によって口を閉じると、鼻で呼吸して粘膜と線毛のW防御になって、ウイルスが体内に入り込む確率が減って風邪に罹りにくくなるのは理にかなってる」

至極もっともな説明をする一臣。

——そうなんだ……。先生の言ってたことも間違ってないし、それを説明できる臣くんも凄いなぁ。

流衣はしきりに感心する。

「お前もうさ、薬剤師になれんじゃね?」

「医者になれ……」

流衣以外は投げやりである。

「それより製薬会社の研究室で特効薬の開発してほしいな」

後ろから声が聞こえて来てみんな振り向いた。いつの間にか、裏口からマスターが入って来ていた。

「マスター……だからオレの後ろに立つなってのっ、3時の新装開店はどうしたんだよ!」

「それがさー結構並んでてね、一応店内に入ったんだけど、もう新台残ってなかったから帰ってきたんだ」

「よく他の台打たずに帰って来たな」

「新装開店は新台以外手を出すなって言ったのハクじゃないか」

幸運なことにこれでみんな揃った。チケットを渡す、チャンス到来!

「あのっ!」

流衣が切羽詰まった声で語りかけてきたので、みなが一斉に振り向いたのだが、今日はチケットを渡せないと諦めていたので、台詞を用意してなかった流衣は言葉に詰まった。

「あの、えっとぉ、……23日はお店開けるのかなって、思って……その……」

しどろもどろである。

「そうだね、23日は祝日だからランチはお休みで、夜は貸切入ってるから」

——やっぱり……

流衣はガッカリした。『時玄』が営業ならマスターとハクは来れないし、一臣とセキが二人でバレエの発表会に来るなんて想像できない。ハクとマスターが一緒なら、せめてハクと3人ならばノリで来てくれそうだと、淡い思いを抱いていたものが打ち砕かれた。

 流衣の気落ちした様子を見て、ハク、一臣、セキは何のことか分からなかったが、マスターはピンときた。

「流衣ちゃん、ひょっとして発表会の事かい?」

流衣は頷いて、カバンからチケットを取り出した。皺にならない様、カバンのサイドポケットに丁寧に入れられた封筒から出された4枚のチケットを見て、セキは『え、オレもか?』と思い、同じく場違いなハクに視線を移す。すると『こっちみんなバカ!』な顔で睨み返された。

「その……、あたし、何も返せなくって……バイトさせてもらったり、送って貰ったり、色々と助けて貰ってるのに、何をどうしたらいいのか分からなくて……。バレエを見てもらうことがお礼になるのか分からないけど、一生懸命踊るから見て欲しくて……」

説明になってるのかどうかも分からないが、流衣はチケットを受け取って欲しくて、でも無理強いできなくて、そんなギリギリのところで精一杯お願いした。6時30分開場、7時開演。と書いてあるチケットを眺めながら、マスターは、流衣の気持ちに応えられない自分の代わりを出す事にした。

「僕は行けないけど、ハク達3人で行っておいでよ」

「は? 何言ってんだよ、20人からの団体様マスター一人でどうすんの?」

ハクは店の心配もさることながら、バレエ鑑賞などしたことがなく、何となく不安な気持を表し苦言した。

「スーさん達の男だけの集まりで、貸切だから料理さえ用意しておけば大丈夫だよ、飲み放題の方の心配はいらないから、ハクは行っといで」

スーさんとは古くからの常連さんで、その仕事仲間達の毎年恒例の忘年会であった。

「あー、スーさん達なら……確かにおっさん達ならビールと焼酎と地酒でセルフサービスでオッケーだし、女子が居ないとカクテルなんてオーダーでねーけどさ」

それでもまだ、バレエ鑑賞に尻込みし二の足の言い訳をするカクテルマスターハク。

「いいから」

有無を言わせぬ強い口調のマスターに、「ここは相手の気持ちを尊重しなさい」と暗に説教されてる事に気がつき、流衣が不安気な顔をしてるのが見えた。

一臣が流衣の前に出て、無言で手を差し出し軽く頷いた。流衣は恐る恐る一臣にチケットを渡す。

「何時に行けばいいの?」

一臣の質問に流衣の顔がパッと明るくなった。

「あたしの出番は最後の方だから、三幕が始まる八時頃で間に合うと思う」

「分かった」

それを聞いたハクとセキがお互いに顔を見合わせて、譲り合う様にお互いを牽制し合い、挙動不審に見える仕草で同時に手を出して受け取ると、更に流衣の笑顔がこぼれた。

「……嬉しい。あたし頑張るね」

——やべぇマジか、んな顔されたら、当日バックれるとか出来ねーじゃねーか。

バレエと無縁な人生だったハクは、未知との遭遇、異世界に足を踏み入れるのと同様に恐れをなし、回避しようとよからぬ事を考えていたが、流衣の笑顔でそれは出来なくなった。

「言っとくけど、オレなんかバレエ見てもさっぱりわかんねーぞ」

あきらめの悪いハク、その横にいるセキも全く同感なのだが口には出さない。

「うん。見てくれるだけでいいの」

 それは流衣の本心だった。バレエを初めて10年、親も友達も……身近な人達から舞台を観て貰ったことがない、客観的に見て共感してくれる人、舞台上での仲間の共感とは違う、客席のどこかに自分を知っている人が同じ空気を吸っている。そんな感覚に流衣は飢えていたのだ。

——やべぇって、んなに喜んでっけど、オレが知ってるバレエって志村けんの白鳥だけど、ゼッテー違うよな、言ったら間違いなく怒られんだろうな……ってより、その突っ込み入れたらダメだよな。どうにも落ち着かないハクはビールでも飲みたい気分になった、しかし真昼間、営業前、未成年。どこを取ってもダメ案件に炭酸枠で我慢する為、コーラに手を伸ばした。

「しかし……、今だにオレのコーラちゃんの正体が分からなくて謎だな」

一口飲み、ハクはゲップを堪えて話す。

「コーラちゃん?」

不思議そうに首を傾げる流衣と、久しぶりに聞いた〈コーラ〉の名前で一臣が顔を上げた。

「飲み物のコーラじゃないのかよ」

「ハクそれまだ解決してなかったの?」

ようやく話題に乗れたセキと、半年も前にハクがぶつぶつ言ってた事を思い出したマスター。

「ナイトライダーのキッドと勘違いしてた、AIのふ〜じ子ちゃん。どこで見たのか聞いたのかさっぱり思い出せねんだわ」

毎日考えてるわけではなくとも、半年以上も思い出せない自分にウンザリしてるハク。一臣は未だ拘ってたのかと、ハクの意外な一面を垣間見た。その時、流衣が石を投げるように発言した。

「……宇宙空母ギャラクティカ」

——ハクは絶対0度で固まった。

「それだーっ‼︎」

「グホッッー!」

ハクの突然の絶叫に、水を思いっきり吐き出して再びむせるセキ。

「えっと。確か凄く文明が発達した惑星から来て、未開の地の地球を守ってる……な感じのアメリカのSFドラマで宇宙船の頭脳の声だった気がする……」

「それだよそれ! 宇宙船だよ! その空母から出る戦闘機か偵察機の声だ、思い出した‼︎」

デトックス完了。もしくはミッションクリア状態のハクは晴れやかな顔をした。

「やっべー、超スッキリした。すげーじゃんお前、どんだけオタクなん? 昭和マスター?」

「凄いな、僕より詳しいね」

昭和世代のマスターが兜を脱いだ。

「……褒められてるみたいだけど、なんか嬉しくない……」

流衣はちょっとむくれた。

「ゲホゲホゲホッ……」

セキの咳はプレイバック。死にそうな顔をする。

傍観していた一臣が、話の流れと雰囲気を読んで宣言する。

「流衣の逆転勝利」

勝敗を覆した。

「やった〜!」

「なんでだよ!」

突然の逆転勝利宣言に流衣は大歓び、ハクは怒った。

「そう来たか」

うんうんと頷き、何故か納得するマスター。

「一度勝利宣言しといて何だよそれ」

ハクは物言いをつけた。

「協議の結果、その場しのぎの掛け合いより、半年間の憂いを解決した方が比重が重いと思われる」

一見正しそうだが、筋道が違うことをサラッと言う一臣。

——誰と協議したんだよ……一臣のやつ……。つーか、夏の体育館を思い出しちまったじゃねーか! ……勝った後に負けんの染み付いてんのかオレ?

ハクは何も言えなくなった。

「えへへっ。じゃあ、洗い物よろしく〜」

流衣は鼻高々でハクにバトンタッチした。

「……エコ贔屓だ」

ハクはまだ文句を言った。

「往生際の悪い野郎だな」

セキの一言には、釈然としない嫌そうな表情をしながら洗い場に向かうハクだった。


「10800円か……」

流衣はため息をついた。ドラッグストアの先月分の明細表を受け取って店を出た流衣は、教室までの一キロ弱の道のりを歩いていた。

——ホテルのバイト代が3万ちょっと、『時玄』のバイト代が12000円で、全部で5万ちょっと。レンタル衣装代と特別レッスン代で半分無くなるし、そろそろトゥシューズも買って履き慣らさないといけない、ローザンヌ用に出来れば2足欲しい、レオタードもノースリーブじゃないとダメだし、タイツもだいぶ伸びて来たし買い揃えないと……でも。

「全部は無理……」

思わず空を見上げてしまった。晴れてはいるが、四時過ぎると辺りはすでに薄暗く、夕方の匂いが漂いはじめる。

——トゥシューズ一足にして、今のレオタードに頑張ってもらえば何とか……。お尻のあたり薄くなってるけど、何とかなるかなぁ……。

「あ、ちょっと……」

教室に曲がる細い路地の少し手前、考えながら歩いていると、道路側から男の人の声で呼び止められた。

「はい」

流衣が振り向くと、路肩に寄せた車から若い男が降りて来た。

「道聞きたいんだけど、薬師堂ってどういけばいい?」

「あー、えっと薬師堂なら……」

その方向を見て固まる流衣。よく知ってる有名なお寺で物凄く近い場所にあるが、道案内となると方向音痴には話が違う。

「この道をまっすぐ行って……」

——それからどうする、車だよね。車ならどっからか曲がる、でもそれどこだっけ?

「2個目……3個目のだったかな? 信号左に曲がって……少し行くと一方通行があって、と、その前にカーブがあって。あ、やっぱり2個目かも」

流衣の辿々しい説明に男は面倒くさくなったのか

「ざっくりでいいんだけど……」

なんて言われると益々混乱する方向音痴。

——ざっくりって? ざっくりってなに? 方向? 周り??

流衣は散々と考えた挙句。よくわからなくなった。

「……ごめんなさい。あたし方向音痴なのでうまく説明出来ないです。2個目か3個目の信号を左に曲がるのは分かるんですけど……。その先で別の方に聞いてください」

もう無理、と他の人に丸投げしてしまう。

「あ、どうも」

男は不穏な面持ちで、車に戻って行った。

——お役に立てなくてごめんなさい。

持たなくていい罪悪感で見送った後、すごすごとレッスンに向かう流衣だった。


「それナンパじゃない?」

「え?」

レッスンが終わり、着替えながら道を聞かれた話をしたら、美沙希がそう言った。

「そだね」

柚茉も同意したので流衣は驚いた。

「わー、流衣ちゃんすご〜い」

陽菜が感心して手を叩いている。

「でも何で?」

「その「何で?」ってなに?」

流衣の勘違いぶりに笑えない美沙希。

「だって、あたしにナンパなんて……まさかぁ」

流衣は単純に、自分の方向音痴が笑えるとダメ出しして欲しかったのに、ナンパされたなんて明後日の方向の意見だった。

「鈍感すぎちゃう?」

理子が呆れる。

「だってあたし一重だし」

「それ意味わかんない」

流衣のコンプレックスに意義を唱える光莉。

「制服着てるのに小学生に間違われるのに」

「それは間違える方の知識の問題」

制服かどうか見分けがつかないのは、世間知らずだとしか思わない美沙希。

「流衣ちんモテるやん」

ちょっとだけ揶揄う口調で理子は言った。

「どんな人? カッコよかった⁈」

興味本位で聞く陽菜は、少女漫画の出会いの王道で妄想が膨らむ。

「普通の男の人……。や、絶対違う。ナンパなわけない! 道聞かれただけ」

流衣は完全否定した。

——いくら疎くでもそれくらいわかるし、むしろおバカな道案内で、ジロジロ見られてた気がするし、全然そんな雰囲気じゃ無かった。うん。

「そんなに全否定しなくても……。流衣ちゃん後ろどうしたの?」

「後ろ?」

光莉が流衣の制服のスカートを見ながら言うので、出血がついたのかと流衣はドキッとした。

「切れてるよ?」

——違った。流衣はホッとしたのも束の間、切れてるねって何? と振り返って自分のスカートを見た。するとスカートの真後ろにあたる部分、その場所のプリーツ部が半分以上裂けていた。

「ええっ、何これ⁈」

驚き焦ってスカートをくるっと前に回して、よく見てみてみると、3センチのプリーツの幅ごと、20センチは裂けていた。

「結構いっちゃってるね」

光莉がしゃがんでマジっと見つめる。

「ここまで裂けとるのマジで気づかんかったん?」

「やだっ、いつだろ、あたしこれ、うそぉ、ええっ、全然わかんないっ」

——どこで? いつ? スカートの後ろって……自転車? 違うよね。降りる時かなぁ、普通気づくよね、もーあたしって本当に鈍感、やだもうっ。

顔に斜線がかかるくらい落ち込む流衣。

「でもこのスカート全体にプリーツ入ってて、生地が二重になってるから目立たないよ」

流衣の後ろ覗き込んで美沙希がそこまで気にしないでいいと言うつもりで言った。

「そだね。動かなきゃ」

スリットが入った状態なので、歩いたらバレると柚茉が現実に引き戻す。

「どうしよう」

今日の帰り道は、暗いからカバンで隠せば何とかなる。でも明日、学校に行ったら明るい所で見たら絶対バレる。

「縫えばいいんじゃない?」

「え? 縫う? うそ」

「ウエストの所解いて、プリーツ作り直せば何とかなるよ、間隔がちょっと細くなるけど、それが気になるなら、この切れてる部分を裏にして、ここだけ反対向きにするって手もあるけど」

裁縫の得意な美沙希は何でもないように言うが、ぶきっちょな流衣は、美沙希が言ってることを想像することすら出来ない。

「?? えっと……」

流衣が困ってるのを見て、不器用さを思い出した美沙希。

「家に持って帰れれば直せるけど、変えのスカートある?」

そう美沙希にきかれたものの、夏用のスカートも予備のスカートも流衣は持ってなかった。

「これしかないから、家に帰って自分で直してみる。ありがとう美沙希ちゃん」

「流衣ちゃん直せる?」

「アイロンとミシンある?」

流衣が不器用なのはみんな分かっていて心配しているのだ。

「無いけど何とかしてみる」

みんなの心配をよそに、自分で何とかしようと流衣は思う。

「ブラックジャックみたいになるんちゃう?」

理子がダイレクトに皆の本心を口にした。

「みっちゃん、なんて事言うのっ」

光莉が理子を叱るのだが

「……ごめん私もそう思った……」

柚茉が白状するとみんな視線を逸らして同感だと示した。

「ありがとう光莉ちゃん、庇ってくれて。でもあたしもそう思う」

ブラックジャックは未だ優しい表現だとすら思った。エメラルダスの傷や星野鉄郎の背中は出鱈目な線路に近い。

 教室から出て、待ち合わせの一臣が待ってる場所まで向かう流衣、裂けたスカートの部分が妙に寒い。

——なんか変だなあ、いくら何でもあんなに切れてるのに、気付かなかったなんて……。だって切れてるっていうか、その部分が無くなってるのに……。お昼休みだって最近寒いから外じゃ無くて、食堂の隅で食べてるし、『時玄』だって座ってたのソファ席で……おかしいな……。

時間が経つほど納得いかない。切れてる場所を後ろ手にしたカバンで隠しながら、一臣が待ってる場所まで向かう。

「どうしたの?」

いつもと違うおかしな歩き方と、不安そうな流衣の顔で何か変だと気づいた一臣。

気づかれた流衣は素直に打ち明けた。

「スカートが破けちゃって……隠してたの」

「破けた?」

流衣はカバンをずらしてその部分を見せた。一臣は首を傾げてそれを見ると眉をしかめ、もう一度そこを見直した。街灯の灯りでもハッキリとみえる。

「結構ひどいでしょう? それなのにどこで引っ掛けたのかも分からないの」

一臣が自分のスカートをじっと眺めているので、鈍臭さを晒してるみたいで恥ずかしくなった。

「みんなに言われるまで気付かなくて、もう、ホントに恥ずかしい……」

「今日、誰かに会った?」

流衣が言い終わらないうちに一臣が問いかけた。

「え? 誰か……バイト先で明細貰ったから、そこの店長とパートさんと、ナ……道を聞かれたからその人くらいかな」

——ナンパじゃないナンパじゃ無い。

 自分に言い聞かせ、何でそれを聞くのだろうと、思いながらも一臣の質問に答える。

「道……それどんな人?」

「道聞いた人? えっと、薬師堂が何処かってきかれて、若い……男の人」

考える為に目を伏せた一臣は、すぐに顔を上げて自転車を立て直した。

「乗って」

「あ、うん」

「家まで行くから」

——え? 

「ほんと? ありがとう」

流衣がお礼を言って自転車の後ろに座ると、すぐに一臣は走り出した。

——さすが臣くん、気がきく。バイトが無くても、『時玄』まで行ってそこから歩いて帰るのに、あたしのスカート気にして家まで行ってくれるんだ。……ちょっと待てよ、スカート破けたみっともない女と、一緒に歩きたく無いのだったらどうしよう……。もー! あたしって本当にダメだーっ。

 自転車の後ろでしきりに反省している流衣とは裏腹に、一臣は流衣のスカートが破けたのでは無く、刃物で切られているのだと気がつき、事の重さを受け止め思考を切り替えた。

——刃物を使って間違って切る場所じゃない。わざととしか思えない。

でも誰が? 何のために? 

道を聞いた若い男が怪しい、けど服を切るくらい近づいたのなら、流衣の反応はもっと違ったものになるはず……。

何故、流衣に? 俺を狙ってるのだとして……なにか、おかしい。誰の色でも無い、しっくりこない。

 微妙な違和感が一臣の中で湧き上がる。自分に狙いをつけてるのだとして、思い当たる奴は何人もいる。しかしどこの誰ともカラーが違う、そのやり口が似合わない為に誰なのか見当がつかず、対策が浮かばない。

 不協和音がノイズになり体に纏わり付く。

「え?」

一臣の後ろから流衣が声を出した。

「あの、臣くん。あたしの家通り過ぎたんだけど……」

アパートの前を流衣を乗せたまま素通りした一臣に、一臣でもうっかりする事があるのかと、驚きがそのまま声に出た。

「……行くの俺の家だけど」

冷静な一臣の口調に、自分の家を通り過ぎたのは、うっかりでも間違いでも無く、最初から一臣の家が目的地だと改めて気がついた流衣。

「えっ、うそ⁈」

——じゃあ、「家まで行く」って臣くん家の事だったの? 何で⁈

「着いた」

白い外壁の3階建ての家の前に自転車を止めて一臣が言った。流衣が考えがまとまる暇もなく着いてしまった。本当に近い。

「ここ……?」

2階建てが多い住宅地の中で3階建てはインパクトがあった。流衣が呆然と家を眺めているのに一臣が気付いた。

「普通の4LDKだけど」

と言い訳のように説明した。確かにめっちゃ大きいわけじゃ無いし、4LDKかも知れないけど、3階建ては普通では無いと流衣は思う。一臣は鍵を開けて中に入る。

「ここで待ってて」

 玄関で待つように流衣に促すと、自分は中に入って行った。ポツンと残された流衣は中を見渡し、下駄箱の上に花が置かれ目の前の壁に絵が飾られて、何かいい匂いが漂う玄関先で、自分の家とは違うものを感じた。

——キレイ……。

 自分が育ってきた家は古くてボロだったが、田舎なので土地は広かった。そして田舎だけに近所の家は軒並み広かった。とりわけ広かったのはお寺さんで7LDKが母屋と庫裡と二棟あったのだ。

——いち兄のお家は、玄関だけでもあたしの部屋より広かったし、こっちに引っ越してきた時に挨拶した町内会長さんの家は洋風の豪邸だったし、それに比べたら普通かも知れないけど、でもなんか違う……あたしここに居ていいのかな、場違い? それにしても何で臣くんはあたしを連れて来たの……?


 2階の奥の洋室に入ると机とベットがあり、机の上に飾られた振袖姿の姉の写真に目が行った。一臣は直ぐに視線を逸らしたが、写真を見たせいで、部屋の住人であった姉の存在感が一気に増し、落ち着かなくなった。

 一臣は早く用件を済まそうと、その奥にあるウォークインクローゼットに制服を探しに入ろうとした。しかしまたしても、そのクローゼットの横のスペースにしばし圧倒された。作り付けの棚は上から下まで、幾つものトロフィーや賞状によって所狭しと埋め尽くされていた。

——地区大会優勝、県大会優勝、全国大会三位、準優勝、優勝。最優秀選手賞……。 藤本結衣子の名前で小学校から中等部までサッカー大会をほぼ制覇してる。小さな頃から姉の部屋に入って目に入る、それら見慣れてるはずのトロフィー達が、自分に無言の圧力をかけて来て押しつぶされそうになる。

 中段の見やすい位置の棚に、ずらりと並べられている写真。試合中の物や集合写真、その数多くの写真の真ん中に、一枚だけ自分の写真が置かれていた。それは中一で出場した中総体県大会優勝の時の集合写真。独特の世界観を持ったカメラマンの動きが変で気持ちが悪いと生徒達が思っていて、優勝した後なのに誰も笑えないでいると、結衣子が見かねて真横でカメラマンの動きを大袈裟に真似し始めた。最初に笑い出したのはミッドフィルターのキャプテン、それからは次々に後ろの列の3年生達が爆笑し始めた。みんなと一緒に自分も笑った事を思い出した。けれども楽しかった筈の思い出の中、姉の顔だけ靄が掛かり表情が見えない、分からない。出てくるのは今にも泣き出しそうな顔。叱られている小さな子供みたいに動けなくなる自分。

——まだ駄目だ……。

 姉の記録の集合体の真ん中にある自分の写真から目を逸らし、一臣は写真盾に手を伸ばして静かに伏せた。

 台所で片付け方を終わらせた母親は、ひとつ溜息を吐いた。娘を震災で亡くしてから心に穴が空いたまま、折り合いなど付くはずもない日々を、ただ時間だけが過ぎていく。毎日湧き出てくる涙の回数が減ったのは、慣れたのではなく泣くのに疲れただけだと、そう思う事で娘の存在を維持した。

——お父さんは今日は遅くなるって連絡来たから食べてくるんだろうし、一臣は帰って来たけど相変わらずだし……。

 震災後、無口な息子は輪をかけて喋らなくなり、家にも寄り付かなくなった。朝学校に行くと夜遅くまで帰ってはこない。さっき帰って来た一臣に声をかけたが。

「おかえり。ご飯は?」

「要らない」

一言で応えると一臣はリビング階段を上がっていった……取り付く島もない。一日の会話はこれだけ、旦那は仕事で毎日遅い。

「一人暮らしみたい……」

独り言を言っても何も変化は無く、娘が居なくなってからは火が消えたような日々。震災後、しばらくぶりにパートに戻ってみて、働きながら同僚と話をするのも最初は虚しいものだったが、今はそれがなければ気が滅入ってしまうだろうとも思う。

……寂しい。

——お風呂入って寝ちゃおうかしら……。

まだ10時過ぎたばかりだが、起きていると余計な事を考えてしまう。特に最近の息子の行動が変化してる事に気がついて、何があったのか聞いてみたいが会話にならないのに聞けるわけがない。

 春先は酷かった。毎日血だらけで帰って来た一臣に、訳を聞いたが『何でもない』としか帰ってこなかった。ある日の朝、いつも早起きの一臣が起きて来なくて心配で見に行ったら、真っ青な顔でベッドでうずくまっているのを見てパニックを起こした。救急車を呼ぶのを嫌がった為に、車で救急センターに連れて行ったら、肋骨が3本折れていて、訳を問い詰めても何も語らず、深いジレンマが襲いそれはまだ解決していない。最近、週替わりに同じ様な時間にきっちり帰って来るようになって、不思議に思うがやはり理由が分からない。学校から早い時間に抜け出て、夜遅い時間まで何をしてるのか……。怪我ばかりだった頃に比べたら、一安心ではあるが、結果的に挙動不審には変わらない、心配の種は尽きなかった。

——それにしてもあの子、結衣子の部屋で何してるのかしら、変ね……。

リビングの真上の娘の部屋で足音が聞こえてる。イタズラする年でもなし、本か筆記用具でも取りに入ったのだろうと、深く気には止めなかった。それよりも早くお風呂に入ってしまおうと、浴室に向かう為リビングから一歩出た瞬間——。玄関に立っている女子が目に飛び込んで来て心臓が止まる勢いで驚いた。

「きゃー!」

「ええ⁈」

驚いたのは流衣も一緒。扉が開いたので一臣が出て来たのだと思ったら、女の人が現れたのだ。

「なに! あなた誰⁈」

流衣はすぐに一臣の母親だと分かったが、母親からすれば亡霊か、頭のおかしな女子高生が入り込んだのだと思った。

「あ、あの、おはようございます!」

突発的に挨拶しなきゃと焦った流衣は、バイト先のいつもの挨拶になってしまった。益々おかしな人である。

「はあ?」

「じゃなくて、いらっしゃいませ! いえ、お疲れ様です!」

——やだやだっ、私何言ってんの〜! 恥ずかしいっ。言葉がっ出てこないっ、お待たせしました? 違う違うっ、もういや〜私のバカ〜!

焦れば焦るほど「こんばんは、初めまして」が出てこない。真っ赤になってワタワタしてる流衣を見て、壊れたオモチャが堂々巡りしてる様に見えて、ちょっとした狂言回しに落ち着いてしまった母親は、亡霊でも変質者でも無いことは理解した。

「俺の友達」

母親の背後から声が聞こえた。悲鳴が聞こえて急いだのか、勢いよく一臣が現れた。

——俺の友達——

「友達?」

母親は、息子が手に持つ物に目を疑った。

「それ結衣子のスカートじゃない? それどうする気?」

 娘の制服のスカートを手にしてる息子の行動に合点がいかない母は、怪訝な顔をする。一方で制服のスカートを手にした一臣を見て、ようやく流衣が全てを悟った。

——臣くん、スカートを私に貸そうとしてくれてたんだ。お姉さんが同じ高校だったなんて知らなかった……!

「すみません。あの、わたし藤本くん、の同じクラスの狩野流衣といいます。わたしがスカートを破いてしまって、みかねた藤本くんが貸してくれようと、その……」

挨拶は出来なかったが、事と次第の説明を辿々しく話し始めた。事情を理解したばかりの流衣の頭は上手く説明するには至らない。仕方なく身体を捻ってスカートが破けた部分を見せた。

「スカート破いた? でもそんなに、あらら……」

スカートが破けたと言っても、今は百均の当て布でアイロンだけで目立たなく出来る時代。借りるなんて大袈裟な、と思った母は、流衣のスカートを見て開いた口が塞がらなくなった。ちょっと動いたら下着まで見えてしまう位置まで幅広く裂けている。

「あげて良い?」

一臣は何となく納得したらしい母親に向かって聞いた。

「そりはいいけど、サイズがあうかしら……結衣子170センチあったのよ?」

流石に気の毒に思うが、どう見ても20センチは違う流衣を見て首を捻った。

「ひゃくななじゅう⁈」

流衣が大きい声を出したので、母親の方が驚いた。

「羨ましい〜。170。頑張って牛乳飲んだのに、152で止まっちゃって悔しい」

小さい頃から高身長の女の子が羨ましくて仕方のなかった流衣は、理想身長を聞いてつい本音が漏れてしまった。

「どうして? 女の子は小さい方が可愛いくていいじゃない。背が高いと女扱いされないわよ。170なんて特に中途半端で、モデルにもなれないし良いことないわよ」

168センチで50歳目前の母親は、背が高い事で女子からは男子扱いで、男子からは友人扱いされ、利点はイジメられた事がないくらいだと人生を振り返り、身長の低い女の子が、男子にチヤホヤされてるのを横目で見て妬ましく思う事もあったが、自分が媚を売ったら痛々しくしか見えない上に、興味もない事で時間を割くのも嫌になり、いつのまにか自然淘汰されたのだ。

 然るに目の前の、女子力を無限大で使える女子の周りに〈もったいないお化け〉が全方位に居る幻覚が見えるのであった。

「そんな事無いです。……わたしずっと〈ちっこい〉と馬鹿にされて来たので、背の高いほうがカッコいいし、羨ましいです」

近所の男子から〈ちっこい〉から見えなかった〜。と頭数から外され、馬鹿にされたのもさることながら、バレエダンサーで170なら、憧れの的のシルビィ・ギエムに近づける、そんな楽しい夢を見ることが出来ると流衣は自答した。

「確かに女子にはモテたけどね。女子校時代に文化祭の劇で王子の役をやってから、チョコレートに不自由しなくなる生活を送っていたけど、社会に出ると何の役にも立たないわよ?」

 言ってしまってから、唐突に説教してしまった自分の大人気なさに、恥ずかしさを覚えてしまった母。〈息子が初めて連れて来た女子〉は母親にとっても初めての出来事で、本当に息子言った通り、ただの友達なのか疑問が湧いて邪推してしまう。ついついジッと見てしまうのだが……。

——いやしかし、化粧っけが無い子ね。リップすらつけてない。ワイシャツのボタンも全部閉まってるし制服もきっちり着てるし、今どきスカート膝下で……。男子狙いのあざとい女子とは違う……。ひょとして本当に友達?

 男子ウケを狙うあざとい女子は清純派を装う。薄化粧際立たせる為に口紅の代わりに、色付きのウルウルリップを使う手口。そんな小細工は同性の母親は一発で見抜く。しかし流衣は見れば見るほど、素朴そのもの。化粧どころか眉毛は自然体、顔のうぶ毛処理の後もなく、束ねた髪の毛はスカートのショックのせいでいつもよりざっくり結ばれ、緩めのネックウォーマーはbyダイソー。

——彼女だったらもっと気を遣ってるわよね……それはそれでがっかりだわ。

「そんな事より、その上からで良いからこれ着てみて」

 自分の邪な考えに終止符を打ち、一臣の手からスカートを取り上げて流衣に渡した。

「はい」

 流衣は言われた通りに自分の制服の上から着てみると、スカートは流衣のふくらはぎまで綺麗に隠した。ミニスカートのスタイルが多い昨今。長すぎて凄い違和感である。

「スケバンみたい」

母はボソッと言った後、自分しか実物を見た事ないだろうと、可笑しくなってプッと笑ってしまった。一臣は母親を見て、姉が亡くなってから初めて笑った気がした。

「えっと……」

長さを調節する為に流衣はクルクルとウエストを捲って行った。

「帯みたい……」

丁度良い膝丈まで捲ると、ウエストが浴衣の帯のようになった。上着で隠れて見えないから特に問題はないし、捲った厚みでお腹の部分が暖かくてこれから益々寒くなるのに、防寒具が百均頼りの流衣には一石二鳥である。

「大丈夫そうね。そのスカートあげるから、良かったら使って」

母親はもう出番が無いと思っていた制服のスカートの行く末が決まって、安堵した顔で流衣に語りかけた。

「でも、大切な物では……」

申し訳無さそうな表情の流衣を見て、娘が亡くなったことを知っていると察した母親は、確認するように一臣を見た。一臣は母親が自分に問いかけてるのを感じてはいても、応える事はなく視線を逸らせた。

 一臣が無関心を装った事でそうだと確信した母。改めて、一臣が走らなくなった理由も、学校での素行も、やはり聞いても答えないだろうと観念した。この子が自分から話すまで放っておくしか無いのだと、親でももう入れない息子の領域がある事に寂しさを覚えた。

「……良いのよ。貰ってちょうだい」

 ほんの一瞬の泣きそうな切ない瞳が、悟りを開いた聖母の微笑みに見えた流衣は、その優しい心使いに対しての受け答えがうまく出来ず、ただ悲しそうな顔を見るのが辛くて、この話題を長引かせない事を選んだ。

「すみません。……大切に使います」

そう礼を言うと深々と頭を下げて、その後、帰路に着いた。


 ——今日は何て日だったんだろう……。チケットを渡すだけでドキドキして、バイト代の計算してたら道聞かれて、そのせいでナンパ疑惑が起きたり、スカートが破けたの気付かないの鈍臭いし、そうだ、朝一でお母さんに怒られたんだった……。臣くんのお母さん綺麗な人だったな……。帰り際に「直せるかやってみるから破けたスカート置いて行って」って言われてその言葉に甘えちゃった。お裁縫できるのいいな……羨ましい。うちお母さん何か縫ってるの見たことないし、雑巾も……小学校の時、始業式に雑巾持って行ったらクラスの男の子に「それうちのママが作ってキフしたやつだ〜」って、バザーで買って来た雑巾だってバレてしばらく『ゾーキンまん』って呼ばれたっけ……。いけない、余計な事思い出した。うちのお母さんはお仕事忙しく作る暇ないから仕方ないし、お裁縫苦手だったら私が不器用なの遺伝だよね……何も言えないや。うん。比べちゃダメ。

 一臣の家から流衣のアパートまでの道のり、流衣の前を一臣がマスターの自転車を引きながら歩いてる。

「家は近いから、臣くん先に行って良いよ」

そう言った。そして一臣は自分の前を歩いてる。

——そう言う意味じゃなかったんだけど……。

私はいいから『時玄』まで行って良いよ。流衣はそのつもりで言ったのだった。

——俺の友達——

さっき一臣の口から出た何気ない一言が、どうにも気になる。「友達」じゃなくて「俺の」がついただけで、たったそれだけでなにかが違う。

——「俺の友達」だって、んふふっ、くすぐったいっ。楽しい。や〜んどうしよう、スキップしちゃおうかなっ。……バカっぽいからやめよう。

今日の昼間まで一臣の態度が納得出来ないと毒づいていたのに、たった一言で全てが許せる乙女思考に切り替わってしまった。一臣の背中を見ながらホクホクしていると、一臣の足が止まった。

——アパートに着いちゃった。つまんない、もうちょっと臣くんの背中見ながら歩きたかったな……。

「じゃ」

そう言って振り返った一臣は、自転車に乗る為に身体を戻す仕草をして一瞬止まった。

「……臣くん。ありがとう」

まるで自分が喋るのを待ってるみたいに、自転車に乗るのをためらった様に流衣には思えて、自転車越しに真横になるまで進み出て礼をいった。

「……使うものじゃ無いし」

一臣はやんわり結ばれた流衣のほつれ髪を見ながら応えた。

「スカートもそうだけど、いつも。毎日。色々ありがとう」

 感謝の言葉が素直に出たのは、一臣のいつものセリフが出なかったから……「別に」は最初〈壁〉に思えた。乗り越えられない高い壁。その後分かったのは、壁ではなく境界線だった事。以前にサッカーの留学先の話が出た時、そこは一臣にバッサリと話を切られた記憶から、それ以来タブーな話題となり、境界線は立ち入り禁止区域なのだと理解していた。 何故か今、一臣との間に余計なものがない。流れて来るのは暖かい視線だけ。

 姉の死は一臣には衝撃的だった。……誰にでも触れられたく無い事はある。それが姉の死、震災、そして姉から教わったサッカー。声に出して言う事もできないほど、消化できない物が胸の奥に居座り続けている。一臣の中にある〈それ〉はいつどんな形に化けるか、それとも自然に消滅するのかは本人にも分からない。『琴線』か『逆鱗』か—— 両極端でありながら紙一重なもの、得体の知れない何かを抑え込む為、一臣は現実に目を背けていた。

 一歩踏み出したい流衣と、進めない一臣。葛藤している心の中、ただ冬の冷たい澄んだ空気が、ふたりの吐く白い息を混ざり合わせて、絡み合わない視線の代わりに繋ぎ止める。

——いっそ時が止まればいいのに。

 この瞬間、何もかも忘れて、このまま流衣の髪の毛を眺めていたい。でもそれは許されない。

自分に起こり始めてる変化を認められず、現実逃避を選んだ一臣は、流衣から視線を切り離した。視点を定めないまま視界を流衣に戻して、声を絞り出す。

「……また明日」

「うん。おやすみなさい」

 一臣は、ゆっくりとした動作で自転車に乗り走っていく。一臣の姿が見えなくなっても、その場に残り香がある気がして、その中で流衣は小さくステップをふんだ。


 2011年12月23日〈祝日〉天皇誕生日。発表会の当日。

「流衣ちゃーん!」

13時、流衣のアパートの近くのコンビニの駐車場で、白いミニバンから光莉が降りてきた。今日は荷物が多いため、光莉の母親がお迎え来てくれたのだ。

「ありがとう光莉ちゃん」

光莉は後ろに回ってきた母に、流衣から受け取った荷物を渡した。

「すみません。今日はよろしくお願いします」

「いいのよ、さあ、乗って」

光莉の母が流衣を後部座席に案内し、光莉もその隣に座った。

「いよいよだねー」

「うん、ワクワクするね」

「え〜、流衣ちゃん緊張しないの?」

「うん。まだ大丈夫。光莉ちゃんは?」

「んー、ちょっと胃が痛い」

「大丈夫?」

「多分終わったら治る〜」

「だよね〜」

キャッキャと笑いながら言い合う流衣と光莉。

「ちょっと2人とも緊張感なさすぎじゃ無い?」

光莉の母はノリが軽すぎる二人を注意する。

「そんな事ない。もー、ママは気にしなくていーから!」

「はいはい。それより少し早く行き過ぎじゃない? 集合4時でしょう?」 

ママの疑問にふたりは顔を見合わせクスクス笑う。

「それは大丈夫です。多分みんな来てると思うので」

「ストレッチする時間欲しいし、ママだって一度帰るのに早い方がいいでしょう?」

「そうだ、今日白石のお祖父ちゃんたち来るからね」

「ええ! だって農協の集まりがあるって言ってたのに来るの⁈」

「それなくなったんだって」

「えー」

「光莉ちゃんなんでそんなにガッカリするの?」

光莉が露骨に嫌な顔をする。

「だって、パパの方のお祖父ちゃん達なんだけど、知ったかぶりするんだもん。あの回転は早くした方がいいとか、足上げて止まる時はグラつかないようにとか!」

「そうなの?」

「オマケに「なんで衣装がパンツ丸見えなんだ?」とか言うし、本当に嫌っ」

「プーやだぁ、ぱんつじゃないのに〜。でもあたしも小さい頃そう思ってた、チュチュって独特なんだもん」

「え? 流衣ちゃんも?」

「うん。でも、お祖父ちゃん達が、光莉ちゃんを見る為にわざわざ白石から来てくれるなんて、良いね光莉ちゃん」

「何も言わないならね。流衣ちゃんのお祖父ちゃんとお祖母ちゃんは来ないの? 実家遠いの?」

例えば親が忙しくて来れなくとも、代わりに祖父母が来るのものだと、光莉の考えは一般常識の範囲内である。

「……もう居ないの、あたしが生まれる前に皆んな亡くなっちゃってて……写真でしか見た事ないんだ」

両親が高齢だとそういうこともある。

「ごめんね流衣ちゃん、知らなかった」

光莉は詫びたが、元から居ない祖父母に対して、流衣は何の感情も湧かない。ただ、自分の事を考えて思ってくれる人が多い事は幸せな事なのはわかる。

「でもね、今回友達が来てくれるから、あたしすごく張り切ってるの」

光莉が失言したとしんみりしてるので、流衣は自分が今までで一番気合いが入ってる事を告白した。

「そうなんだ……え、友達ってもしかして……」

光莉は一臣の事だと気が付いた、けど母親に聞こえたらマズイと男子とは言えなかった。言ったら絶対話題にされる。

「うん、同級生」

「!……友達来てくれるの嬉しいよね」

本当は流衣に飛びついて悦びを分かち合おうとしたが、やめた。

——うちのママこういう事にメッチャ敏感だから絶対バレる、神妙にかつ慎重にいかないと……。

光莉の態度で流衣にもそれが伝わり、光莉の思い遣りに癒される。

「3人で来てくれるの」

「3人?」

光莉は一臣しか知らない。その他二名はどんな人たちなのか検討もつかない。

「んとね、同級生とバイト先の愉快な仲間たち」

「ふーん? 同級生の子、バレエ知らない人だよね、皆んなそうなの?」

「全部見てもわからないから、開場時間を外して、3幕が始まる頃来るって言ってた」

「だよねー。バレエの発表会って独特の雰囲気あるもん、知らないとキツイよね」

ちょっとした希望と楽しさ共有している間に、車は静かに会場へと到着するのだった。


 イズミティ大ホールの楽屋は全部で五部屋、和室と洋室二つ、それに個室が二部屋。その他に89㎡(50畳強)のリハーサル室が備えられており、Sスタジオの生徒達は皆このリハーサル室での練習に朝から余念が無かった。

「このリハ室、ウチら(Sスタジオ)の貸切だって知ってた?」

空腹を抱えて怒りだした様な顔のエメラルドが、隣のルビーに話しかけた。

「マジで? だからなのかパキータとコッペリアの子達いないの。秋山せんせーは来てるのに……」

満腹なのに唐揚げ弁当を差し出され迷惑してる。そんな顔のルビーが、鏡の前を陣取りストレッチ中の、若手イケメンを眺めた。

「プロのリハにも貸さないのは鬼の仕業……じゃ、パドゥドゥは幕間リハの一回コッキリなんだ、かわいそ」

ヒノ・バレエに在籍中なのに自分だけリハ室使えてることに、友達に付き合いファミレスで一人だけ食事してる気分の〈リラの精〉

「でもね『眠り姫』に出る子は使えるって。だから他の教室の生徒さん何人かここに来るみたいよ」

サファイア役の黒田凛子は、Sスタジオのプロコースの生徒なのだが、元々は美沙希たちと同じクラスで歳も一緒のよく知った仲。色違いのお揃いの〈Sスタジオ〉のロゴ入りジップアップトレーナーで思い思いに柔軟をしていた。

「何だそれなら公平じゃん。斎田代表代理ナイス判断!」

——ありえないわ。そんなセリフが出て来そうなお人柄を見直す生徒達。

「金田先生の説得らしいよ?」

——やっぱりね。〈宝石〉+〈リラ〉は一人も漏れずに落胆した。

「だよねー。見直したの秒で終わったわ」

「さすがカネちゃん。フォロー神」

「昼過ぎに来てまだストレッチしてるスターとは違うなー」

「前乗りで着いてるのに〈昼過ぎ入り〉ってどゆこと?」

「うそ前乗りなの? どっから来たの? 沖縄⁈」

「埼玉」

「仙台まで一時間半で来るじゃん。始発で来いや」

「一歩譲るとして〈場当たり〉何で行かない? もう一時過ぎてんのに」

「それ百歩な」

「午後の部の〈場当たり〉は、スターは最後に二曲やるんだって」

「それってもう舞台リハ(場当たり)じゃなくない?」

「なんやその大トリ気取り、サブちゃんしかあかん」

「場当たりに大トリもなにも……、ダレ?」

黒田凛子が理子と柚茉の存在に気がついた。

「みっちゃんと柚茉ちゃんじゃない。久しぶり〜、よくこの場所わかったね?」

ユズが二人の名を言った事で、黒田凛子は見知らぬ二人が日野先生の生徒で、美沙希と同じクラスの子達だとの察しがついた。

「今ね、楽屋に行こうとしたら、日野先生に『〈眠り〉に出る人はリハ室に行って』って言われてこっちに来たの。〈夏の精霊〉の栗原柚茉です」

ユズの質問に答えつつ、初見の黒田に挨拶もする柚茉。

「〈秋の精霊〉の朝倉理子いいます。よろしゅう」

「サファイアの黒田凛子です。よろしくお願いします」

プロコースの生徒であるからなのか、自分たちと同じ歳のはずなのに、大人びてる印象を受ける柚茉と理子だった。

「このリハ室広くて良いね」

午前の部の子供達と午後の部の大人と学生達、3教室の生徒が入り乱れ、目に見えない派閥を生み出し、その空気はもはや戦場に近い、日野のこめかみに青筋がたってたのを目撃したふたりは、言われるままこの部屋へ直行したのである。

「洋室の控室が3つあれば良かったのにね……」

日野先生が大変そうだな、と思ってしまった美沙希。日野の教室から『眠り』の三幕に出るのは5名。美沙希も入れたら6名になり、他教室からは一名ずつでは不公平なのは瞭然。それ故に、日野の教室の生徒が和室を振り分けられたのだ、バレエの支度するには少々不便なのである。

「仕方ないやん、それより荷物どこ置いたらええの?」

「そうそう、それを聞きに来たの」

入口入って直ぐ横の隅の空きスペースに荷物が置いてあり、入ってすぐ美沙希を見つけ、ふたりは荷物を置いて駆け寄って来たのが窺えた。

「着替えなら、そこのパーテーションの裏で、荷物は鏡の無いとこならどこでも大丈夫」

入口から見て真っ直ぐ奥の場所に、仕切りが作られており、着替えられるようになっている。ユズが示した場所は、鏡の無い壁側に会議室等でよく使われている折り畳み式のテーブルが置かれており、その上や下に荷物が置かれている。

「そこ使ってええの?」

理子が遠慮がちに喋ったので、美沙希はちょっと笑ってしまった。

「らしくないな、どうしたの?」

「だってあるじゃない? 位置というか、場所決まってるでしょ?」

柚茉が代わりに答えた。バレエに限らず、上下関係での立ち位置というものがある。バレエならば上手い人間というところか、特に今日はヒノ・バレエの自分達はアウェイであり、無用な争いを避ける為に気を使う。

「アハハ、今回の〈姫〉は個室だから大丈夫だよ」

ちひろが声をひそめて答えた。

「そうなん? 早よゆうてーなぁ、心配して損したわ」

理子がようやくいつもの調子に戻った。

「個室二つの内、ひとつはオーロラ、もうひとつは男子専用」

「男子?」

柚茉と理子の視線はバーの前で、体を動かしてる中学生らしき3人の男子に注がれた。

「あれ? 秋山君さっき居たよね」

柚茉が目ざとく秋山がいない事に気がついた。

「ほんまや、さっきまでおったよな? やっぱり普通や〜思うたわ」

理子も気づく。

「あー、さすがに場当たり行ったんじゃない?」

「場当たり……今から?」

「今何時?」

「1時35分」

「午後の部開場2時だっけ。ギリギリ……」

「見たいな……」

「行っちゃう?」

「良いのかな」

「逆にダメ理由ないんちゃう?」

全員目を合わせて頷いた。

六人の女子は素知らぬ顔でリハ室から静かに出ると、客席に向かう為一旦正面入口へと向かう。長い通路を歩いていると、その先から光莉と流衣が来るのが見えた。

「美沙希ちゃん!」

流衣が美沙希を見つけて手を振りながら近づく。

「2人とも、楽屋はリハ室だからねー」

柚茉が説明しながら場所をさし示した。

「ありがとう柚茉ちゃん。皆んなどこに行くの?」

光莉はよく知った顔の3人と、全く知らない3人の顔を不思議顔で眺めていった。

「イケメンスターの観賞ツアーや、ふたりも行かへん?」

理子がしたり顔で笑いかけた。 

「もしかしたら仁君⁈ 見たいみたい!」

光莉が乗り出して返事をすると、流衣も同じく同意した。八名に増えた女子達は少し歩くと、通路の途中にある会場内への出入り用扉を見つけた。

「ここからはいれるね」

そう言って美沙希は中に入って行き、みなもそれに続く。客席中央寄りの前席にソロソロと座りに行くと、ちょうど曲が流れ出し〈パキータ〉が始まった。

秋山仁と仙道光は舞台中央から曲に合わせてゆっくりと動き出す。パキータはゆっくりとした可愛らしい動きで、ゆっくりな分キープが難しいのだが、今踊ってるアダージオは男性のサポートが多く、コーダの様に盛り上がる部分もなく、とても大人しい印象。

「……何でこの曲選んだんだろ」

みんなが思ってる事を、思わず口にしてしまった美沙希。

「ソロなら良いけど、パドゥドゥだと……地味?」

「だね。だったら、キトリのパドゥドゥにすれば良かったのにね」

「確か立花先生のとこの子だよね」

「『眠り』でキトリやるのも立花先生の子じゃない?」

「なるほど、それじゃ同じキトリ選べないね」

「うわ〜キッショ。うちそれ苦手や」

「だから日野先生の所にいるんでしょ?」

「……そうやな」

ヒノバレエ以外では、全幕の『眠り』に出るのがNo.1で秋山氏と踊るのがNo.2……のような無言の圧力がかかってるらしい、実力社会の上下関係。

「……踊りにくそう」

流衣の独り言はみんなに聞こえた。

「うわっ、大胆なアンチ発言!」

ユズは秋山を悪者と決め付けてる発言。

「それ、仁君のサポートが〈?〉って事?」

光莉が説明を求めて流衣に聞いた。

「2人ともぎこちないな……と思って」

流衣はちょっと言い直した。

「それは2人が初見だからじゃない? あ、終わっちゃった」

曲が終わると、舞台の二人は本番さながら軽くレベランスしてから、袖に引っ込んだ。

「初見? 今初めて合わせたの? うそでしょ直ぐ本番だよ」

柚茉がびっくりして聞く。

「あんな広いリハ室あるんやから、使うたらええのに」

「本当だよね〜」

舞台では〈コッペリア〉のパドゥドゥが始まった。〈平和の踊り〉のしっとりとしたアダージオの後、コーダに移るとその名の通り、場を盛り上げて、男女の共演者は大技を出し合う。秋山はここへ来てやっと調子が出たのか、アントルッシャス、ザンレール、カブリオール、シャンジュマン。男子ならではのジャンプ技を華麗に決めていく。

「さすがにキレイ……」

「やっぱりプロやな、決めるとこは決めるやん」

これには理子も素直に褒めた。

「仁君って身体のライン綺麗……」

「ゴツく無いよね。筋肉細いのかな」

20歳を過ぎた青年にしては、少年の様な華奢な身体つきの秋山に、女子達はうっとりするのだった。そんな中で、流衣だけはさっきからの違和感が拭えない。

——やっぱりぎこちない気がするけど、あたしの気のせいなのかな……。それとも美沙希ちゃんのお友達の言ってたみたいに、初見だから緊張してるだけ? だよね、あたしのサポートに緊張するわけないから、そういうものなんだ、きっと……うん。そうそう。ん? ケータイ?

流衣は自問自答して納得しようとしていた所へ、ポケットのケータイが震え出した、メールではなく着信。見てみると番号だけ出ている。

——誰だろ? 

舞台ではコッペリアのコーダは終わり、秋山達が引っ込んだので、一旦は終了した。まだ舞台で踊りたい人達が何人か出て来て練習を始めた。

「うちらも戻ろっか」

美沙希が声をかけ立ち上がった。

「ちょっと電話出るね」

流衣は一足早く廊下に出て、戸惑いながらケータイの受話器ボタンを押した。

「もしもし」

『パターン青です!』

〈日向マコト〉からの報告に思わず。

「間違いない。使徒だわ」

〈葛城ミサト〉で返す。

『勝率は8・7%か』

負けずに冬月で帰ってきた。

「それは第六話のセリフで、パターン青が出てくるのもっと後です。ハク司令」

『……んだよ、少しは驚けよ』

一声でバレたのも、パチンコ台に洗脳されてるのも気付かされてダブルパンチ。超つまらん状態のハク。

「だって、そんな言い出しするのハクしかいないし。あたしの番号、臣くんにきいたの?」

携帯番号を教えあった記憶が無いのに、不意打ちの初めての電話に流衣は困惑した。

『まあな。おまえ今どこいた?』

「会場のホールに来てるけど……どうして?」

もしかして行けなくなったと言うのかと、流衣はドキッとした。

『んーと。んでオレらは8時まで行けば良いんだよな』

何やらおかしな喋り方のハク。

「うん。3幕の幕間に10分の休憩あるから、その時に中に入った方が席が探し易いかと思って」

チケットは完売してる。しかし座席でのビデオ撮影が禁止のため、ビデオ係のパパやママ達が両サイドで立って撮影、もしくは親子室とも言われるVIPルームの二階席で撮影をする人達が結構いる為、明るい所で見渡せば確保出来る席があるはず、と流衣は思ったのだ。

『……もしさ、休憩時間に間に合わなくて、中で迷ったらどうするよ?』

——それは受付の人が案内してくれるはず。それなのに……。方向音痴のあたしでさえ迷わないホールなのに、ハクがわざわざ臣くんから携帯番号聞いてまで電話して来たのなんか変なんだけど。

 何故ハクが迷子の心配なのか、さっきから歯切れの悪い口調も気になり、流衣は思わず聞いてしまう。

「そんなに迷うほど出入口多く無いから大丈夫だと思うけど、何でそんなに不安なの?」

『その……オレらって怪しくね? 会場に居たら不審者だろ、どう見ても……』

「え……それは」

外見黒ずくめのハクと、色付き眼鏡のセキ、無表情の一臣。の背の高い3人組が、およそにつかわしく無いバレエの発表会に顔を出す違和感を心配しているハクに、その心配があまりに可愛らし過ぎて流衣は笑い出してしまった。

「ええ、ウソやだっ、何でそんな心配してるの?」

『街歩いてるだけで職質されんのに、そこの会場いたら通報されんじゃねーかと思ってさ』

流衣が笑ってるのでトーンダウンするハク。流衣は、爆笑を堪えるのに必死。そこへ会場内から美沙希達が出て来て、今にも笑い転げそうな流衣を見て、「どうしたの?」という顔を一斉に皆がしたので、流衣は必死になって平静な表情を取り繕った。

「……あたし案内するよ、出番まで時間あるから」

『おーよ。じゃあその時間にもう出て待っててくんね?』

「うん。わかった」

『よろしくな』

と言ってハクは電話を切った。

「何やめっちゃ楽しそうやん」

ニヤけた顔の流衣に理子が話しかけた。

「だって〜〈日向マコト〉くんがめっちゃ可愛いんだもん」

流衣が堪えきれなくなって爆笑しながら言うと、エヴァンゲリオンを知ってても、脇役のフルネームにピンとこない皆は呆気に取られた。


「いつもどーりだわ」

 携帯を切った後、ハクは一臣に向かって話しかけた。セキが運転する車の後部座席に並んで座ってるふたりは、いつもの間合いとは少し違った空気が流れてる。

「きっとあいつががどっかに引っ掛けて破いたんだって、いつものおっちょこちょいでさ」

流衣の破けたスカートを実際に見たわけじゃないハクは、あくまでも本人の不注意だと思っている。

「気にし過ぎじゃねーか?」

セキもまた、流衣ならやりそうだと思っている。

「……だといいけど」

それが事実ならそれに越したことはないと一臣は思った。

「着いたぜ」

セキが車を駐車場に停めた。三人が来たのはアメ横仙台朝市。祝日で市場が休みの為ここまで足を伸ばし、今日の貸切団体客の為の刺身を仕入れに来たのだ。

「何もここまで来なくても、近所のスーパーでいいんじゃねーか?」

セキがそんな事を言う。

「いやな。スーさんが元漁師で魚通だから負けらんないってマスターが言うんだよな」

なにやら諦めたような、割り切れないような、複雑な顔のハク。

「だったらてめーで来りゃいいじゃねーか、マスター何やってんだよ!」

「確変中だって連絡来たんだわ」

「は⁈」

ハクに続いてセキも複雑な顔をした。

「しょーがねぇだろ?」

「しゃーねーな」

納得したハクとセキを見て、〈確変中〉という言葉が、大名行列の前を横切れる〈飛脚〉や〈産婆〉の様だと思う一臣だった。

「クリスマス前だっつーのに、もう年末だなぁ」

ハクは朝市を見渡して、その人の多さに年の瀬を見た。25日を過ぎれば更に人は増え活気がでる、今はまだ前哨戦といった具合だ。しかしまばらとも言えるその人混みを見たセキは、そこはうんざりする程の虚無な空間に思えた。どうやら人混みが苦手らしい。

「オレはちょっとヤニ切れ」

逃げる様に方向転換するセキ。

「あ、オレも。さみぃからついでにコーヒーでも飲むか」

3人は駐車場の横のファッションビルの一角の喫煙コーナーに暖かい缶コーヒーを買ってしゃがみ込んだ。喫煙所とは言うものの、入口の柱の裏側に灰皿が置いてあるだけで思いっきり外である。外気温が8度の割には陽当たりの良さで意外と凌げる。

「中の店が全部禁煙なんてあり得ねえ……」

「ファーストフードはわかっけど、ランチタイムの居酒屋まで禁煙ってのもな……」

喫煙者がドンドン外に追いやられる風潮は、年々顕著になっている。

「副流煙が問題なんだったら、外の方が迷惑じゃね?」

肩身の狭い喫煙者は、外でタバコを吸うと煙がダダ漏れだと異論を唱える。

「黙って煙吐いとけ」

セキは考えるのさえ面倒くさいと思っているのでそんな事を言う、その態度はハクには面白くなかった。

「体に悪いつーけど、おふくろが小学生だった頃、先公が教室で一服してたって言ってっけど、当時の子供ら全員が癌になってねーだろ、おかしくねぇ?」

「んな事知るかよ、おまえが調べて論文でも書けや!」

やはりめんどくさいセキは、吐き捨てる様に軽くあしらう。

「どう思う?」

〈困った時の神頼み〉さながら、思わず一臣に聞いてしまう。

「煙草の副流煙と癌の因果関係は、統計上の理由だけで確実に裏付けのある関係性は立証されてないよ」

「マジ? ほらみろ!」

一臣の援護にハクが大船に乗る。

「……そうなのか?」

セキは驚いて聞き返す。

「体に良いわけないけど、病気になる確率よりも、煙草の煙のせいで匂いが身体に纏わりついて、臭くなるから近づかないで欲しい。が本音だと思うのが妥当じゃないかな」

煙草を吸わない人からすると、煙草の匂いはただ臭いだけで、正に〈百害あって一利なし〉灰皿には虫も近づかない。

「臭い……」

「結局同じじゃねーか」

何も言えなくなったハクは、煙草の火種を揉み消して灰皿に落とし、買い出しに向かおうと一歩踏み出した。すると茶髪の派手な女の子が2人、驚き顔でコチラを見てるのに気付き足が止まった。その子達はドンドン近付いて来る。

「やだ、ウッソッ」

2人の内の1人が、一臣を見ながら声を出した。色を抑えた茶髪にフワフワのファーがついた体のラインがクッキリと出る上着に白いショートパンツに黒のニーハイブーツ。そのいで立ちに似合った濃いめの化粧。

「あゆみの言ってたのこの人なの? マジで?」

もう片方は大きめカールの明るい茶髪を揺らしながら、派手な英字のトレーナーに、厚底ブーツ。長めのトレーナーを下に引っ張りながら、ショートパンツを隠す仕草をする女子。

喫煙場所が有るそのビルは、ギャル御用達のファッションビルでもあり、2人の女子はこのビルを目当てに来たのだ。しかし入る前に気になっていた男子を見つけて、嬉々として近付いて来た。明らかに一臣しか目に入らない様子である。

「ここに暇しに来て良かったー、もう会えないかと思った! チョー嬉しい!」

「この人、メッチャ、ヤバイじゃん! あゆみばっかりズルくない?」

この時点で二人の女子の視界にはハクとセキは全く入っていない。

——オレら蚊帳の外。アウトオブ眼中、ここまでガン無視されると腹も立たねぇな。ギャルの会話よくわかんねーけど。片方だけ一臣を知ってるぽい。

「誰?」

女子達の高いテンションとは真逆の、ローテンションの一臣は認識が出来ずにいる。

「えーやだぁ、忘れちゃった? ほらあたし。マサに絡まれてんの助けてくれたじゃん! ゲーセンで」

ゲーセン。マサ。二つのキーワードであの時男に腕を掴まれてた女子を思い起こしたが、化粧の仕方が違うのかどうもよく分からない、認識出来ないけれど、本人が言うならそうだろうとこだわる気持ちも無く、手を打つことにした。

「なにか用?」

無表情のままピシャリと言った。一臣の冷ややかな圧に、女子達は顔を引き攣らせ黙り込んだ。

——いや怖いって……。何だこれ、デジャブ?

相変わらずの無関心ぶりにハクは呆れた。それと同時に流衣と初めて会った時の事を思い出した。

——あん時と全くおんなじだわ、あんな上から圧かけて話しかけられた女子の目線ってこんなだよな、引くよな誰だって……。流衣の奴よく平気だったな、やっぱ変なんだわあいつ。

一般的な女子の反応だと思っているハクの横で、2本目の煙草に火をつけて映画を観る感覚になったセキは一般聴衆と化していた。

——あたしの事を忘れる男が居るなんて……。

あゆみはショックを受けていた。人にインパクトを与えるために派手な服と化粧に執着している。勉強が出来ない上に、女の子同士の付き合いもあまり上手くない、ちょっと人より可愛かった為に男子はいつも味方でそれが唯一のプライドだった。それなのに……忘れられた。ダチのはずの女子は、そんなあゆみをいい気味そうに眺め笑っていた。プライドが傷つけられたのが悔しくて食い下がった。

「今時間ある? 助けてくれたお礼したいから、ちょっと付き合ってよ」

詰め寄るあゆみから視線を外し一臣は一言。

「別に要らない」

ハッキリと断りその場を去ろうとした。その一臣の腕を掴み、あゆみは自分の身体に押し付けて引き留めた。自分の胸にあからさまに押し付け誘っているのがわかる。

「カラオケ行かない? この間のお礼にあたし奢るからさ、一時間でいいからカラオケ行こうよ、ねえ、いいでしょ〜?」

一臣の腕を抱え込んだまま、身体を揺らしてねだるあゆみ。

——鉄板。

外野男子二名は同時に〈お持ち帰り確定〉をパチンコ用語の当たり確定の〈鉄板〉と称し、同じ感想を共有した。

一臣は相手の顔を全く見ずに、自分の腕を掴んでいる女の腕を睨むと小さく口を開いた。

「俺に触れるな」

それは〈放せ〉の言葉よりも重い拒絶感を放った。その冷たい視線にあゆみは、恐怖とは違う異次元の空気を感じて、手の力が抜け落ち一臣の腕を離した

「え〜何よそれ! あゆみがせっかく誘ってんのに〜、マジしらける。こんなの無視してうちらだけで行こ!」

そういうと女友達は、呆けたあゆみを引っ張って、強引に行ってしまった。ギャルの後ろ姿を眺めながら

「……100%の激アツ(確確)ゼブラ逃すんかよ」

「もったいねぇ、オレが犬なら目の前に肉があったら黙って食うぞ」

なんなら混ぜろと言いたげな二人に、一臣は無言で答えなかった。

「おまえさ、ホモには見えねぇけど、女嫌いなの? それとも苦手なん? 好みじゃねえとか言ったら、贅沢すぎんぞ」

——2人とも可愛い部類に入るし、派手な割には下品でも無いし、自分なら断らないのに何考えてんだこいつ。

2本目の煙草を咥え直し、蚊帳の外に居たからこそ冷静に判断し、つい探りを入れるハク先輩。

「別に」

どれも当てはまらないと、そう答える一臣。

「なんだそりゃ? 嫌いでもねぇ、苦手でもねぇ、ホモでもねぇ? もしや単純に触られんのがイヤなだけじゃねーか?」

既に3本目の煙草が終わりかけてるセキがモヤっとした感情で聞いた。それに一臣はちょっと考えた後振り向いて

「さあ」

と何気に答えた。

「女嫌いじゃなくて人間嫌いかよ?」

ハクが文句を言うとセキが笑い出した。

「おかしな野郎だな。一臣おまえ。このあいだ女を背負って帰ったじゃねーか、ギャルがちょっと触っただけで嫌がるくせに、流衣は良いのかよ?」

セキは半ば責めるようにからかって言った。

確かに矛盾してるとハクもおかしくなった。

「あいつは違う」

なんのためいもなく一臣は言った。

「違うって何がよ?」

さっき流衣との初対面のことを思い出して、流衣は普通じゃないと感じたハクは、一臣もそうなのかと思って聞いてみた。

「……他の誰とも違う」

——なにが違うか……、それは自分だけの問題だから、言わない……言えない。俺にもよくわからない。ただある時から、俺には流衣がゴールに見える。……バレエはよく分からないし興味もない。ネカフェで時間を持て余してる時に何となく浮かんだローザンヌを調べた。〈ローザンヌ国際バレエコンクール〉世界のバレエダンサーの登竜門。サッカーでいえば、ワールドカップの一次予選みたいなもので、まぐれで選ばれるコンクールじゃない。……アジア代表を決める試合に、たったひとりで挑んいるその姿が凛々しくみえた。こんな田舎の小さい教室から国際コンクールにでて、留学資格が取れるのか。もし取れたら……何かが変わる。

「それ答えになってねーわ。おまえあいつに惚れてんの?」

一臣の答えはハクの想像とは違った、しかもハッキリとしない態度にイラついて、煙草を揉み消して確信に迫った。

「そうじゃなくて……俺に必要な存在なだけ」

「は?」

一臣の答えに、ハクは固まり、セキは4本目の煙草を咥える前に落とした。

「おまえアホだろ」

セキは眉間に皺を寄せひとこと言い、落とした煙草を拾うと、ついた埃を丁寧に落として口に咥えた。

「頭が良いのは感心するけど、引き出しあり過ぎて不便だな。女の基準なんて、可愛い→気になる→好き。でいんじゃねーの、他に何かいるか? こうなると気の毒だわ、オレ馬鹿で良かった」

ハクはビルの壁に体を預けたままの体制で、馬鹿な自分の方が人生楽しいとのたまった。

「気の毒……」

不便で気の毒と同情されたが、一臣は言い返す事はしなかった。

「いーかげんに用事済ませてとっとと準備すっか。遅れて流衣の勇姿見逃したら怒られそうだかんな」

バレエに興味が無くて二の足を踏んでた割には、面白そうに楽しげに言ったハクは、暖かい陽射しを春と間違えて出て来たツクシのように肩をすぼめて、アメ横の市場に向かって弾むように歩いて行った。


 薬師堂までの道を聞いたが、薬師堂はどうでも良かった。近場で思いつく建物がそれだっただけだ。梶が乗っている車の運転席に戻ると、安原は父親の車のエンジンをかけた。

「女はどうだった?」

梶が助手席で安原に尋ねた。

「東高の制服で、あいつと同じだ。顔も覚えた」

安原は無機質に答えた。

「奴の女の情報持ってくるたあ、あの走り屋ども使えんじゃん」

 どこで見られたのか。一臣と流衣が自転車で二人乗りして常に行動を共にしてる事を情報提供された梶は、それを確認しに来たのだ。ふたりの関係性など知る由もなく、ほぼ毎日一緒の男女は側から見れば、仲良く付き合っているカップルにしか見えなかった。

「オレ達を悩ませといて、自分は女とやりたい放題かよ、許せねーな」

許せないと怒った口調なのに、いつものニヤけたいやらしい笑いを浮かべる。梶は人を痛め付けてる情景を考えてるだけで、楽しくて仕方がない。性癖である。

「あの、マサとか言うのが、良い場所があるって連絡してきたぜ。取り壊し予定で立ち入り禁止の小学校で、周りが田んぼだらけだから、中で騒いでも聞こえねーらしい……樺小ったかな」

東校舎と西校舎の間に亀裂が入り、度重なる余震で10センチ程度の亀裂が30センチに広がり、段差が出来て危険な為取り壊しが決まり立ち入り禁止になった小学校である。傾いている校舎で授業は出来ないが、鉄筋コンクリートの建物自体は頑丈で数人出入りするくらいならなんでもなかった。

「ケケッ。いー仕事しやがる。ノリノリだな奴」

「よっぽど恨みが強いんだろうな」

梶は助手席の窓から町を眺めた、まだ四時前だというのに空は既に夕暮れの程をなし、冬の日差しの短さを表していた。暗くなる感覚が闇を呼び起こす。自然に顔がニヤリと緩くなる。

「そろそろ今田に連絡入れろよ」

「今田……あいつら最近マジで近寄ってこねぇ、乗ってこねぇんじゃねーの」

「マジっ子ブリ坐右衛門らは、渋るようならオレからの伝言伝えとけ」

「伝言? なんてだよ」

「メリークリスマス」

梶の笑い顔と声の調子に、軽い狂気を感じていた安原は、伝言の意味に気がついた時、その恐怖に寒気がした。






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