第8話 月とお酒と裏事情
朝五時、目覚ましのアラームが鳴り出した。外に音が漏れない様に、抱え込んで寝ていた目覚まし時計のボタンを押したが、そのままの姿勢で動こうとしない。もう一度アラーム音が響くと、ようやく体を引き寄せ、ダンゴムシ状態でスヌーズを切って、布団から這い出して起きる。
流衣の一日が始まった。
まずはご飯が炊き上がっているか確認して、パジャマ代わりの大きめTシャツにレギンス姿のまま、洗面所に向かい顔を洗い、歯を磨いて少しずつ目を覚ます。今日は未だ両親が寝ているので、静かに台所に戻ると、鍋に水を入れて顆粒の出汁を入れ火にかけ、冷蔵庫を覗いて味噌汁の具を確認する。
(……お豆腐が無い。んと、小揚げでいいか)
冷蔵庫から小揚げを取り出し、ハサミでそれを鍋に直接チョキチョキと刻んで入れていく。洗い物をなるべく出さないように、極力まな板、包丁は使わない。戸棚から乾燥ワカメを取り出しでそれも鍋にいれる。鍋が沸騰するまでのあいだに、ラップを広げてそこに胡麻塩をふり、ご飯を乗せてラップを風呂敷を結ぶ様に持ち上げ、ご飯を真ん中に寄せていく。炊き立てご飯が熱くまだ握れない為、同じ作業をもう2回繰り返し、3個のラップご飯を作る。
そうしているとお鍋が湧き出してきたので、味噌を入れて溶きほぐして、一旦蓋をして火を止める。ラップご飯に戻りラップをしたまま、おにぎり状にやんわりと握り、キレイに三角になったので予熱を取る為ラップに隙間を開けたまま、保冷バックにソーセージと一緒に詰めて、やはり蓋は閉めずに置いておく。
5時31分。45分に同じバイトの伊藤がアパートの前まで来てくれる。流衣は出来上がったばかりお味噌汁をお椀に注いだ。
以前、早起きして朝ご飯を食べてからバイトに向かって自転車を漕いでいたら、腹痛を起こしてうずくまってしまった事があったのだ。朝ご飯を抜くのは体に悪い事だけど、早過ぎるシッカリ朝食は自分に合わないと悟ったのだ。なので時間がある時はお味噌汁を飲むことにした。
(……おみ汁……落ち着く……)
小さい頃からの癖でおみそ汁の〈そ〉が抜けてしまう流衣は、名前が被ってる事をいい事に、ご都合主義で使い回す。
(うん。やっぱりおみ汁が好き。おみ汁があれば生きていける。具はなんでもいい、なんなら無くても良い、大好き。朝のおみ汁は万能で完璧な美容液〜! なんちゃって)
一気に飲み干して、お椀をテーブルに下ろした。
「……ふう、すっきりした。これで一日もつかな……」
ここで思いの丈を言うだけ言っておこう作戦らしい。
(これで今日一日、臣くんに会っても平常心を保って……って、やだっ、もう43分!)
ゆっくり飲みすぎた! と流衣は慌てて立ち上がり、急いでお椀を洗ってから部屋にいき制服に着替える。
(やー、まだ生乾きだ、レッスンまでに乾くから、まあいっか)
昨夜干した洗濯物の中から、季節がら未だ乾き切らないレオタードとタイツを取り込みレッスンバックに入れ、学校の荷物と共に持つと、音を立てないように表に出る。伊藤の車が既に停まっていた。
「おはようございます」
小さな声で、挨拶をすると吐く息がうっすらと白くなった。
「おはよう。今日は冷えるわね〜」
「よろしくお願いします。わ、あったか〜い」
車の中は暖房が効いて暖かく嬉しい声が響く。
「さあて、今日は忙しいかしらね」
「昨日はちょっと暇でしたね。朝ご飯食べる人が少なくて」
昨日……一昨日もそうだった
「そうねぇ、そろそろ終わりかな」
伊藤が寂しそうに呟くのを聞いて、流衣は不思議に思った。
「終わり……?」
「んー、ほら。ボランティア需要が減ったと思って」
「あ……」
流衣はそういえば夏頃をピークに減ってると思った。
「自費で来てボランティアしてくれてる人達がね、だいぶ少なくなったわよね」
そういった奇特な人達は、朝から晩まで現地の人よりよく働いてくれる、被災地には無くてはならない存在だった。
「なんか寂しいね」
「はい……」
「なんて言うと、あてにしてると思われちゃうかな?」
運転しながら伊藤は、上手く言葉にできないもどかしさに、苦笑いしてしまう。
「そんな事は……。そう考える人は最初から来ないと思うし……気にしなくても良いと……」
流衣は自分の言った事に対して思い当たった。
ボランティア……臣くんはそんな感じなのかな、と。
「感謝してるの、伝わってると良いんだけどね」
「……分かってくれてる……と思う」
分かってくれてるから、気にしなくていいと言ってるのかな。
「考えてもしょーがないか。さあ、こっちはこっちで頑張りましょうか」
「はい」
自分自身にやる気を起こすハッパをかける伊藤に、流衣もその気になった。
ホテルに着くなり、ふたりはマネージャーに呼ばれた。
「今日から暫く、ひとりラウンジに回ってもらえないかな」
阿部マネージャーは未だ30代の若さというのに、体格の良い上にビール腹のせいで、10才は上に見える。
「あら阿部ちゃん、なにかあったの?」
マネージャーが来る前から働いてる伊藤は、上司を息子と同等に扱う。
「ラウンジの市川さんがしばらく来れなくなってさ、代わりに入って欲しいんだ」
「市川さん何かあったんですか?」
「辞めんの?」
伊藤はダイレクトに質問する。
「それがさー、旦那さんの急な出張が決まって、子供の面倒見る人がいないんだって」
「あらら、市川さんの息子ちゃんまだ一歳だもんね〜、そりゃ無理だわ」
保育園も7時からしか預かってくれない為、いつも旦那が子供の面倒を見ていた。
「ラウンジは6時半から8時半までだけど、ピークは7時から8時くらいだから、そこに入ってくんないかな?」
ラウンジが滞るとクレームが来る為、マネージャーが困ってる。
「じゃあ、流衣ちゃん頑張って」
「え?」
「狩野さん。助かるよー」
「えっと……」
流衣が返事をする前に、既に決まった程で話すふたり。確かにラウンジの手伝いはしてるけど。実際してるのはお客様が退席した後のゴミ箱片付け。
「掃除ならあたしひとりで大丈夫だからね、最近アジア系のお客様少ないから、廊下キレイだしね」
「あー。あの人達なんで廊下にゴミ棄てるんだろうね、部屋のゴミ箱まで持ってってくれれば良いのにな」
マネージャーも伊藤も、既に会話が別方向にとんでいる。
「あの……」
「じゃあ狩野さん、今からよろしく。時間はいつも通りの6時から8時でいいから、もうすぐにラウンジの制服に着替えて向かって、中の最上さんには伝えてあるから仕事教えてもらってね」
流衣が何か言おうとしたらマネージャーが、安堵した顔で話をするので、何も言えなくなった。
「……はい」
「流衣ちゃんよろしくね」
四月からの付き合いで、伊藤が接客が苦手なのも分かってる。
(やるっきゃないか)
流衣は諦めて気持ちを切り替えた。ふたりは更衣室に向かい、クリーニング済みのそれぞれの制服に着替えた。いつも手伝う時はほぼ裏方なので、清掃用の制服姿のままだったので、ラウンジ用のネイビー色の半袖でタイトスタイルのワンピースに、白いエプロンの制服に初めて袖を通した流衣は
(やん、可愛い〜)
と制服でテンションが爆上がりしまう。
「終わったらここで待ってるからね、頑張ってね、流衣ちゃん」
「はい、伊藤さん。じゃあ、また後で」
流衣は伊藤にしばしの別れを告げると、ラウンジに向かった。
ラウンジの最上とは顔馴染みである。仕事内容はなんと無くは分かっていても、実際やるとなるとかなり細かく違う。いわゆる朝食バイキングで和食と洋食。和食はご飯、味噌汁、納豆、生卵、海苔、漬物。
洋食は食パン、ロールパン、マーガリン、イチゴジャム、ブルーベリージャム、スクランブルエッグ、ウインナー。
それにコーヒー、牛乳、オレンジジュース、コンソメスープ。
種類は少ないが、朝食は無料なので宿泊客、ほぼ全員が現れる。セルフサービスなのだが、宿泊客が増えたことから、座席数を増やした為に返却スペースが狭くなり、下善はスタッフがするシステムに変更した為やたらと忙しいのだ。
「食べ物も飲み物もジャム類も小出しなの、だから補充しないといけないから、まめにチェックを入れてね」
「ジャム類……もっといっぱい重ねても大丈夫の様な……」
置くスペースが無いわけじゃない。フード関係は冷めるのを考えてだと思うけど、何で出しっぱなしでオッケーなジャムやマーガリンが少ないのか、流衣は不思議に思った。
「そうなんだけどね。大量に置いておくと少し位なら良いかって感じで、ポケットにジャム詰めて持って行く人たまに居るのよね」
「なるほど」
スーパーで、ビニール袋を大量に持ってくおばちゃんを見たことを思い出す。
「バイキングは〈お残し厳禁〉だから……」
最上の矢継ぎ早の説明が続く。
食べ切らなくて残していく人を防ぐために、小さい器を使ってるとか、牛乳とオレンジジュースはピッチャーに入れ替えて出すことも説明されて、今まで見ていたのと実際やるのとでは全然違うものだと思った。
準備が整い、ラウンジを開店する時間になり、最上と共に流衣は入り口に向かうと、既に10人ほど並んでいる。
「おはようございます」
いざ始まってみると大変だった。初めは余裕だが、第一陣が終わり入れ替えが始まる辺りから訳が分からなくなって来た。
補充するか、片付けるべきか、それが問題だ……。
なんて考えてる時間はない。
(牛乳が無くなってきた、後ウインナーもそろそろないし、あ、卵が)
「狩野さん、先にカウンター席の片付けお願い」
ウインナーが入ったトレーを手に持ち現れた最上にに言われた場所に向かったが、よく見るとスクランブルエッグが皿に一口分残っていて、流衣は一旦伸ばし手を止めた。
「まだ食ってんだけど」
すると後ろからコーヒーを片手に戻って来た、中年の男性客に怒られた。
「すみません!」
流衣は謝り一旦戻ると
「そっちじゃ無くてハジの席の方よ」
最上に小声で指摘された。
「でも、そっちまだ手をつけてないのも有るので」
その席は海苔と納豆はそのままだった。
「残ってるのが多いけど、お客様がラウンジから出たから下げて良いのよ」
「え?」
そういうこと?
流衣はまだ見切れてなかった。
「下善は私がやるから、狩野さんは補充お願い、それとスクランブルエッグがなくなったら、ミニオムレツに変わるから、もし聞かれたら『卵料理の種類は順番が決まっております』って答えて、それからお客様に謝る時は〈すみません〉じゃなくて〈申し訳ありません〉ね」
「あ、はい! すみません」
えっと、少ないのは牛乳と生卵。
まず冷蔵庫から用意していた牛乳を取り出し。卵を入れた籠を手に持って補充に向かった。残り少ないピッチャーから牛乳いっぱい入った方を取り替え。置いてあった2個の卵が入った籠を持ち上げ、自分が持ってきた籠を置いて、その上に残っていた2個の卵を乗せた。
「ちょっとおねーさん。コーヒー無いんだけどー」
お客さんから催促された。
ウソ、コーヒー? さっきまでかなりあったのにもう無いの⁈
「すみません。あ、申し訳ありません、今お持ちします!」
流衣は牛乳の残ったピッチャーを持ち、急いでコーヒーを取りに行こうとしたら、カーペットに足を取られてつんのめってしまい、転びはしなかったが、勢いで手に持っていたピッチャーを落としてしまった!
(わ!)
驚いた流衣は声を上げそうになったが、カーペット上に転がったプラスチックのピッチャーは、さほど音を立てなかったからはにゃっとこらえた。蓋がついていた為中身もこぼれず、ホッと息をのんだ。
(ホッとしてる場合じゃない、コーヒー!)
と立ち上がると、満タンのコーヒーサーバーを手にした最上とすれ違った。
(凄い、早ーい、カッコいい! ……感心してないで私も補充しないと)
我にかえり、ビュッフェ台を見渡し、残り少ないパンに目をつけた。
(パンがなくなりそう)
仕事を見つけた流衣は急いでパンを取りに向かう。パンを補充しながら、周りを見渡してお客の出入りをチェックしつつ、下善、汚れたテーブル、ゴミ箱周りの散らばりを片付ける。やる事はなんとなく分かっているが、実際にやるとなると勝手が違う。とにかく最上にふたり分の仕事させないように必死に動いた。それでも何度も先を越されてしまい、その度にキャリアの差がでてへこむ流衣だった。
「流衣ちゃん、そろそろ時間だよ」
後ろから伊藤の声が聞こえてきた。
「狩野さん、7時55分だからもう上がって良いですよ」
最上も声を掛けた。
「あ、はい。すみません、お先します」
よく見るとお客様も3名だけ。後はお任せするしかないと流衣は伊藤と更衣室に向かった。忙しいと時間が早く過ぎると言うが、確かに時間は早く経ったが、気分的には一日中ラウンジにいだ感じだ。
いつも通り、伊藤に学校まで送ってもらうと、自転車で通ってた頃よりだいぶ早く到着する。一臣はまだ登校してない。隣の自分の席に腰掛けると、予鈴がなり、同時にお腹が空いてる事に気が付いた。
(朝おにぎり食べるの忘れてた……それより、眠いかも……)
流衣はウトウトし始めた。
「わーでかい!」
「スゲー、まじスゲ〜うんち! クソでけー!」
集団下校の時は、同じ方角の2人の5年生と4年生男子と帰る一年生の流衣。2人の後をトボトボ歩く。
「あれは小島さん家のゴン太だ、絶対」
「大学さん家のハスキーかもしんないじゃん」
「いちにぃ、小島さん家のゴン太じゃなくて〈パルク〉だよ」
流衣がいち兄の間違いを指摘する。
「ゴン太の骨っ子〜の、ゴン太じゃん!」
ゴールデンレトリーバーなのだ。
「名前間違えるから、いち兄見ると吠えるよね。ゴン太に凄く嫌われてんね」
「なっちゃんもゴン太って言ってる……」
流衣がボソリと言う。
「パルクだった」
「メスなのに超人〜!」
「いち兄、それは〈ハルク〉だよ」
4年生のなっちゃんと、5年生のいち兄は従兄弟同士。家も隣同士で小さい頃から一緒の兄弟みたいなふたりと、流衣は朝いつも学校まで一緒に連れて行ってもらっていて、子供が少ない地域の中で貴重な幼馴染みなのだった。
「ルイちゃんはパルクにめっちゃ懐かれてるよね」
「うん」
以前、朝の散歩中のパルクに登校中の流衣が捕まったのだ。
「僕、ルイちゃんどこにいるかわかんなくなかった」
なっちゃんには流衣が穴に落ちて消えた様に見えた。
「おれ、ルゥルゥが喰われたと思った」
いち兄には丸呑みされた様に見えた。
「うん、びっくりした」
デカいメスのゴールデンレトリーバーは、朝のお散歩中に流衣を発見して飼い主を振り切って突撃してきた。飛び掛かられて完全に組み敷かれた流衣。どうやら仔犬だと思われてるらしく、顔中舐め回されてビチャビチャになって、その日は一日中ずっと犬臭かった記憶が残った。
……そうだ。学校でみんなから臭いって言われて、犬は好きだけど、大っきい犬は刺激しないようにしようってあの時思ったんだ……。
「……ある意味において、〈知を愛する〉というソクラテスの音葉は……」
(……阿部先生?)
倫社の教師の口癖で現実に戻された。虚な視界に一臣が入り込み、流衣はふと横を見ると横顔とそれに伴いホクロが見えた。
(うん、ふふっ、臣くん居た、ホッとしちゃう。ここからだと頬のホクロが印象的で色っぽい、大人っぽいなぁ羨ましい。……あれ、なんか凄くお腹すいてる、めちゃんこお腹空いてるから4時間目? って違うっ! 今日朝食べてないからだっ、倫社の授業は3時間目だから、いつもだったらこんなにお腹空くはずないし、お腹の空き具合で時間測る私ってなに? 原始人⁈ シナントロプスペキネンシス⁈ も〜やだやだっ、考えたら余計お腹空くっ、恥ずかしいっ! えーいもう、寝ちゃえ〜〜〜い)
と、お腹空いた→でも食べられない→寝る。
の三段論法で再び寝てしまう。
視線を感じて隣を見ると、いつもの笑顔から不思議そうな表情を通り、気難しい顔になり、焦ったかと思うと諦めた様に下を向いた。カメレオンの様に表情を変えた後、考えるのが面倒くさくなって、寝ることを選んだのが一臣には一目瞭然だった。教科書を机に立てて両手で掴み頭を少しだけ出す、教壇からは教科書を読んでるとしか見えないさまで寝てる流衣に、普段は不器用なくせに、器用に寝るな……と、思う一臣であった。
昼休み、いつもの校舎裏で朝昼兼用でご飯を食べた流衣は、空腹感が解消されてようやく落ち着いて、思考能力が働き出した。
夢のおかげで、久しぶりになっちゃんといち兄を思い出しちゃった。ずっと一緒に学校通ってた気がするのに、いち兄と2年間、なっちゃんとは3年間、2人が中学校に行くまでしか一緒に登校してなかっんだ……。2人とも今どこにいるんだろ……。お家は同じく津波の被害に遭ってる。被害者名簿に載ってなかったから無事な筈だけど……。お母さん……は知らないだろうな、興味もなさそうだし。鈴木のおばちゃんなら知ってるかも、何でも知ってるし、あの凄い情報通なのは色んな人と喋ってるからかな?
流衣の記憶の中では、自分の母親が誰かと立ち話してる姿は見たことがないのに対して、鈴木のおばちゃんは誰かと立ち話してる姿しか見たことが無い真逆のふたり。
……臣くんも凄く物知りだけど、おばちゃんの情報とは中身が違うな。おばちゃんは人ん家に関しての情報がスパイ並みで、臣くんは一般の知識が辞書並みで……ふたり合わせると無敵かも、……昼ドラとか作れちゃいそう、えー、やーん、見たーい! ……じゃなくて、私なに考えてんの? 近所の事件を次々解いて行く、ただのお喋りじゃないスーパーおばちゃんとクールな息子が団地内の揉め事を解決して行く、とか、わ〜狭っ、スケールちっちゃ! あれ、何か『町内会の平和を守る美少女戦士』な戦士ドラマ物あったって聞いたことあるような……ってことは、臣くん戦士で、おばちゃん指令⁈ いやーやめて! 誰か私の妄想止めて〜!
流衣の探究心が、しなくてもいいとこまで探りを入れて落ち着かなくてワタワタしてると。
——キーンコーンカーンコーン。
「……ありがとう予鈴」
ようやく区切りが付いた。
「今日はドラッグストアで品出ししてから、上級のレッスンした後に『時玄』で調理場のお手伝いする忙しい日なのに、5・6時間目は家庭科続きで午後からは寝る暇ないんだった……。ん〜と、楽しかったからまあいいか」
余計な事を考える暇があるなら寝るべきだったと思いつつも、反省はしない流衣だった。
今日はフローラル系……。
自転車で風をきって走っていると漂ってくる香りがいつもと違う。
(いつもグリーンフレッシュ系の柔軟剤の香りが、今日は独特なお花の香りがする……。柔軟剤変えたのかな……でも、柔軟剤にしては濃い……? それに女の子っぽいかも……)
一臣からはいつも洗濯仕立ての香りがする。
(洗濯……自分でしてるわけないよね。柔軟剤の匂いがしっかりするってことは、洗濯機が綺麗だからなんだよね。でないと、ちょっとでも天気が悪いと生臭いカビの匂いがするし)
流衣は中学の頃から自分で洗濯してたので、定期的に洗濯槽の掃除をしないとカビが繁殖すると分かっていた。
(……臣くんからは、お母さんの愛情の香りがする……。なんかいいな……)
「あ!」
〈エイプリルフレッシュの香り〉
ドラッグストアで品出し中に、手に取った香りに思わず叫んでしまった。
細かい商品を入荷してくる時に使われるオリコンの中に入ってた香り見本を、商品棚に併せて出してると何点目か〈ファブリーズ・ダウニーjr エイプリルフレッシュの香り〉の香り見本が主役ばりに目の前に纏わりついてデジャブ感半端なし。今日、一臣から漂ってきた香り。なんて偶然。
「コッチの方が似合いそう……」
流衣が手にしてるのは〈ラベンダーセレニティ〉の洗剤の香り見本。ラベンダーの香りはするが、洗剤ゆえに石鹸の洗浄成分の香りがする。
……でも、やっぱりいつものグリーン系の方が臣くんらしくていいかな。
なんて楽しく想像してたら、何故か作業が進まない。それもそのはず。
「見本がいっぱいあるのに、本体が出てる棚が全然ない……」
「どうしたの?」
流衣がキョロキョロしてると、見かねて店長が声をかけてきた。
本体が見当たらない……と、流衣が言うよりも早く。
「またか」
流衣が手にしてる見本を見た瞬間に、店長は全てを察した様だ。
「まただよ、本当にいい加減にしてくんないかな〜」
店長が怒り出したので、流衣は自分の事の様に思えてドキッとした。
「ここの流通センターさ、元々間違いがあったけど、最近特にミスが多くて困ってるんだよ。また送り返さないと……それ全部オリコンに戻しといて」
「はい」
自分に対してではなく、店長の怒りは流通センターに向けられていた。流衣は配送に使われるオリコンの中に見本品を丁寧に戻した。
「運送ラインに乗せるから送料かかんないけど、返品伝票書かなきゃならないから、めんどくさいんだよ。元のセンターが被災しなきゃこのセンター使わなかったんだけど、ここ、本当に評判悪いんだけどなあ、まあ本部の意向だから仕方ないけどさ」
怒りが徐々にボヤキにかわる。
「……大変ですね」
流衣は店長の愚痴に定型文で返してみた。
「まあ、他の店みたいに発注ミスで特売する羽目になってないだけでもいいけどね」
発注ミスでは返品出来ない某大手がいくつかある。
「発注ミス?」
「そうそう、ファブリーズ本体なんだけどさ。先週、単品数とカートン間違えて発注しちゃって『六丁目』店だけの原価ギリギリの〈特価〉セールやったんだよね」
六丁目店は、流衣の家から一番近い同チェーン店舗である。
……それってもしや……
「ダウニーの〈エイプリルフレッシュ〉……ですか?」
「あれ、知ってたの? 広告出せないから店内告知のみだったのに」
流衣は思わず吹き出しそうになった。
安かったから買ったけど、普段使わない消臭剤を持て余し、とりあえずカーテンや上着に吹きかけて、自己満足に浸る母親像。が、目の前にチラついた。
「花王さんは厳しくて、店舗で勝手に値引き出来ないからPGさんで良かったねなんて、向こうの店長さんと話したりしたけどね」
店長ボヤキの〈ドラッグストアあるある〉の呟きは、未知の世界である藤本家の内部事情を妄想して、笑いを堪えるのに必死な流衣にスルーされる。
「店長〜!」
登録販売員で薬剤担当のパートさんの、ちょっと含み笑い混じりの声を聞き、店長と流衣は振り向いた。
「いつもより遅いけど、今年も来ましたよー」
「げっ、なにその量」
「?」
「じゃあ、後はよろしくお願いしま〜す」
お客様を見て、レジに向かって行く白衣姿のパートさん。
長台車に乗った六個の形の違う段ボールを見て、店長は露骨に嫌な顔をした。
「それ何ですか?」
今年もと言われても、去年の事は分からない流衣が聞いた。
「クリスマスとお正月の販促物だよ。もう今年はやらないんだと思ってたのに……」
「クリスマスの販促物……」
震災の自粛ムード漂う中、色々と迷った挙句、やっぱりやることになったらしいそれは、急ごしらえの物らしく、クリスマスと正月用商品と販促物が一同に送られて来た。
一つ二つ中を開けてみると、なるほど、クリスマスカードや小物類が入った箱と、pop、ポスター、ポチ袋と年賀状、それらと吊り下げ什器等、細々とした物が入っている。何十種類も入っている箱を見た流衣は軽く眩暈がした。その理由はレジに入らないので、この時間帯に入荷された物の検品作業は流衣の担当なのだ。
「これ検品すんのかー。いま3時過ぎ……狩野さん、今日ちょっと残業出来る?」
「えっと、30分くらいなら」
それ以上だとレッスン前の準備が出来なくなってしまう。
「悪いけどこれ出来るとこまで検品してくれる? 休憩終わったら手伝うから」
3時休憩は15分だが、店長はいつも一時間近く帰ってこない。
「はい」
この細かい商品を納品書と併せてチェックするのに、ひとりで全部やるのに果たしてあと一時間ちょっとで終わるのだろうか……といつも検品作業をする奥のバックヤードに台車を押して向かいながら、どんよりとなるのだった。
バーレッスンも中盤に入り、ようやく自分に戻った気分になった。ドラッグストアの検品作業は、四時に店長が参加してくれたが、中途半端な所で帰るとは言い出せず、なんだかんだで5時近くまでかかって最後までやってしまった。
(体を伸ばすの気持ちいい〜。もっとゆっくり、ゆっくり、でもやりすぎると音楽に合わなくなっちゃう、やーん、ジレンマ〜)
脳内モルヒネが出て来て、流衣のテンションが上がる。
バットマン。コウモリじゃなくて脚、真っ直ぐ〜、シャッセ! 床とお友達〜、そして高ーくグランバットマンっ、キープ指名発動〜。
「ルイっち。今日もノリノリやな」
真後ろの理子が声に出した。
「ルイッチっていうとロシア人みたいだね」
その後ろの柚茉が言った。
「ロシア人?」
その後ろの光莉が思わず聞いた。
「マリオに出てくるじゃん?」
柚茉が答える。
「それルイージや、イタリア人ちゃう?」
「え? マリオってイタリア人⁈ ロシア人じゃないの?」
何故か柚茉はマリオがロシア人だと思っていた。
「何でロシア人て思ったん? 発想キテレツやん」
「柚茉って意外と天然かも」
一番後ろから美沙希の声がした。
「ちょっとみんな、リラックスとおざなりは違うわよ、もっと集中して! アンデオールが半端よ、ルルベ下げて位置確認してから、押しながらもう一度!」
日野先生が見兼ねて指摘し、皆もそれに従う。
「はーい」
先生の注意で全員一旦冷静になったが、会話を聞いて違和感を感じてた流衣は、改めてメンバー足りない事に気がついた。
「あれ? 陽菜ちゃん、今日お休み?」
「ルイッチ、今ごろ気が付いたん⁈」
理子が驚いて聞いた。
「流衣ちゃん、ギリギリでバーに着いたもんね。陽菜ちゃん帰っちゃったの」
光莉が、珍しく遅くきた流衣に教えた。
「どうしたの?」
「具合が悪くなって……」
「風邪かな?」
「生理痛ちゃう?」
「え? 陽菜もきてたの⁈」
美沙希が反応した。
「って事は美沙希もなの?」
「柚茉もなの? 私は終わりそうなんだけど」
「なんや美沙希が先頭かいな、もう、うつさんといてーな」
「え、うつるのそれ?」
流衣が驚いて聞いた。
「うつるよね」
光莉がこともなげに言った〈女子あるある〉に、流衣が寝耳に水といった顔をする。
「友達の誰かが来たーって教室で騒ぐと、予定より早く来たりするね」
柚茉も〈それな〉と共感する。
「騒ぐん? あーそうやな、柚茉んとこ女子校やもんな。ウチはトイレか移動中で話題んなるわ。小声じゃないから多分バレバレやけどな」
理子は共学。
「うちも女子校だから挨拶レベルかな。仲良しなのは良いけど、それで月に2回来たりするとほんっとうにウンザリするよね」
美沙希は女子校。しかも中学からストレート、超が付くお嬢様学校だが女子は女子、男性教師は存在スルーで会話の話題の場所は気にしない。
「知らなかった……」
仲がいいと生理が移るなんて、流衣は初めて聞いた。学校に仲のいい友達はいないせいもあるが、それよりも別の意味で感覚が分からなかった。
「みんな毎月来るんだ……」
そこへ先生が割って入った。
「さあお喋りはそこまでにして! 今は自分に気合い入れて頂戴。発表会まで一ヶ月ないのよ」
「はーい」
流石に2度目の注意は効いたらしく、一同その後は喋る事なくレッスンに集中した。
レッスン終了後、掃除をして片付けをしてたら、何となく流衣と光莉が2人だけ残る形になった。着替えていると光莉が言葉を発した。
「陽菜ちゃん。ダイエットしてるみたい」
「……そうなんだ」
やっぱり……と流衣は思った。
「この前、流衣ちゃんに言われた事はわかってたけどやっぱり気になるみたいで……今日は、女の子の日と重なって具合が悪くなったみたい」
光莉は心配そうに口にした。この前中級クラスで流衣が言った事は、香緒里が他のクラスの子達にも伝えたのだ。
「……だよね」
パートナーとして、相手にしがみつくから重い、というのはあくまでも大義名分な要素だと、流衣も分かってはいた。
……原点に戻ってしまった。
(ダイエットが悪いわけじゃないし、バレリーナが体重管理するのは当たり前のことなんだけど、太らない様にするのと痩せようとするのでは意味が違う。私、余計な事言ったかな……。陽菜ちゃん……ストレスになってないと良いけど)
「さっきの話だけど、流衣ちゃん大丈夫なの?」
「え?」
急に光莉に心配されて驚く流衣。
「だって、皆んな生理が毎月来てるって言ったの聞いて、驚いてたでしょ?」
「それは……」
流衣は話すことを躊躇した。
「あたし隔月になるくらい不順なんだ。流衣ちゃんもそうなの?」
「……うん」
なんだか歯切れが悪い返事が引っかかる。気になって話を掘り下げてしまう光莉。
「陽菜ちゃんはさ、生理が順調に来る様になったから、太りやすい時期なんだよね。生理の前って食欲湧くからどうしても食べちゃうよね」
光莉は誰もどうしようもない事だとため息混じりにいった。
「食欲わくの? だからなんだ……それは仕方ないね」
「……流衣ちゃん。まさか初潮まだなの⁈」
他人事みたいに言う流衣に、気になった事をぶつけて聞いてしまう光莉。
確かに痩せてる娘は遅いし、生理が止まるほど痩せ過ぎてるバレリーナが居るのは分かってたけど、まさかうちの教室で? 流衣が?
「え⁈ 違うよ、さすがに中二の終わりに来たよ、ただ……」
「ただ?」
「その後、初めて来た後、まだ2回しか来てなくて……」
「え? 2回? たった⁈」
自分の不順とはレベルが違った。
「うん。中三の夏と、高校の入学式の時」
「それ、病院行かなくて大丈夫なの?」
「コンクールに応募する為に受けた健康診断では、異常な所は無かったから大丈夫だと思う」
「そっか、健康診断受けてるんだったね。あ、でも、それは内科だよね、子宮って違くない?」
「うん、その時の病院の先生にね、不正出血が無ければ病気の心配は無いけど、半年来ないようなら婦人科に行きなさいって言われたの……でも婦人科は、行きずらくって……」
女子高生に婦人科の門はハードルが高すぎた。
「恥ずかしいよね」
光莉もそれは納得した。
「恥ずかしいのはわかるけど、ちゃんと診察してもらった方がいいわ」
日野が話しに入ってきて、流衣と光莉はギョッとした。更衣室は事務所でもあるので、日野も普段は会話の内容は聞かないように気を付けている。バレエ以外のプライベートな話は心の中に仕舞う事にしている。しかしながら今の話は教師としても女としても聞き捨てならない、思わず口を挟んだ。
「生理痛は重い方? 量は?」
「量は多く無いと思います。少し頭痛がして、生理が始まると凄く全身が怠くなって……10日続いて」
「10日? 長いわね」
流衣は少しずつしか思い出せない。それに量が多い少ないも分からなかった、人と比べようもないほど回数も来てないからである。
「お腹痛くならなかった? 腰が重いとか、貧血で具合が悪くなったりとか?」
必死に思い出そうとしてる流衣を見兼ねて、光莉が助け舟を出した。
「あ、それ。腰が重いっていうか、鈍痛が3日続いて……その後は痛みは無くなって」
入学式の時、腰が痛くて座ってるのが辛かったのを思い出した。
「発表会はともかく、それがローザンヌできたらどうするの?」
一番大事な事を指摘する日野に、流衣は答えられなかった。
「最悪のコンディションで踊りたい?」
「それは嫌です」
そこはハッキリと答えた。
「お医者さんが言ったみたいに、病気の心配がないなら、子宮が未熟なんだと思うわ。でもね、今ここでちゃんとしておかないと、将来的に不妊症になったりするの」
「そんな……」
流衣は、そんな先の事まで考えた事はなかった。ただ生理が来ないから楽だと思っていた。
「嘘じゃないわよ、毎月のように来ないのは、ホルモンバランスが崩れているせいよ、それをほっといたら後々大変になるの、病院でピルを処方してもらって、今のうちに生理周期を整えた方がいいわ」
「ピル……って」
光莉がピルと聞いて赤くなった。流衣も一言発すると恥ずかしかったのか下を向いた。
「二人が恥ずかしがってるのは、ピルは避妊の為にあると思ってるからでしょう? それもあるけど、それよりも生理周期を調節する為にあるのよ。世界の女性アスリート達は、ピルで周期をコントロールしてパフォーマンスを上げて試合に臨んでるのよ。先進国でやってないのは日本ぐらいよ」
「そうなんですか?」
「そう、生理後の約一週間後辺りが一番パワーが出るの、そこに合わせて試合や筋トレメニューを考えるのよ。日本は凄く遅れてるし、薬で抑えるとか周期を変えるなんてマイナスイメージでしょ? 生理だって子供を産む為に必要な物なのに隠そうとするのおかしいのよね」
日野は大きく溜息をつく。
「そういえば、バイトしてるときに、買い物中の女の人が、カゴの中にナプキン入れてるのを見て、舌打ちしたおじさんがいて」
流衣が見た光景は、その人がカゴの中に何気にポンと入れた瞬間の出来事だった。
「え〜なにそのおじさん!」
光莉が気持ち悪そうに言った。
「だから私……生理用品は店の中でも、隠すように持ちあるかなきゃいけないのかなって」
でも、考えたらそこに気を使うのは変だと流衣は思う。
「いるわね、そういういやらしい中年の男性。ただでさえ毎月気持ち悪い思いしてるのに、悪る者扱いされるのみたいで嫌よね」
流衣も光莉も日野の言った事に頷いて答えた。
「それより、ねえ流衣ちゃん。さっきも言ったけど、女性なら生理とは長い付き合いになるんだから、生理周期を整えて生理を味方に付ける事を考えて、この近くに女医さんの産婦人科があるからそこに行くといいわ、親切に相談に乗ってくれるはずよ」
「はい」
女の先生と聞いて、流衣は初めて行ってみようかなと思えて素直に返事をした。
「悪く考えるのでは無く、ある物は利用しましょう。2人ともよ」
「はあい」
ふたり仲良く返事して、いつも通りに帰り支度をした後、話しながら帰っていった。その後ろ姿を見送って、日野はやりきれない思いが駆け巡った。
(……こういうことは、普通なら母親の役割なんだけど……、あの様子からじゃ相談してないだろうし、言えないわよねあのお母さんじゃあ、たとえ言えたとしても……むりよね、なんだか邪推して答えそう。まだ15歳で不安だらけだろうに、全部自分でやらなきゃならないなんて、なんだか不憫だわ……)
改めて溜息を吐く日野だった。
昼間よりも少し和らいだダウニーの香りが漂う中、流衣の頭の中は産婦人科の入り口がグルグルと回っていた。
(……病院に行くとしたら土曜日の午前中しかない……というか午前中しか診療してないし。どうして病院って日曜日に診察してないんだろ、そうすればバスでいけるのに。土曜日だと時間的にバイトの後に急いで行かないと。伊藤さんに送って下さいと頼むのも悪いけど、臣くんに送ってもらうわけには行かないし、それは絶対に出来ないっ)
仙台の土曜日の午後は病院の不毛地帯。急患センターしか診察してない。日曜日なら休日当番医があるが、内科、小児科、整形外科止まり。産婦人科にそんな役割分担は無かった。
流衣は後ろから密かに一臣の横顔を見ながら、心でぼやいてしまう。
(……伊藤さんに土曜日の帰りに、遠回りしてもらえるか聞いてみよう……)
それしかないと思いながら、本日最後のお務め先『時玄』が見えてきて、気持ちを切り替える。
(お仕事、お仕事。あと、もうちょいっ、がんばろうっ)
裏口を開ける前から、中から騒がしい声が聞こえて来た。いつものようにコッソリと入って行くと、母親世代の十人ほどの団体の女性のお客様が、何やら黄色い声とけたたましく笑う声を反響させて、とても賑やかで楽しそうだった。
「ちょっとおっ、マスター一緒に歌ってよー」
「いやごめん。うちカラオケ無いんだよね」
マスターが笑って謝る。
「今時さー、カラオケぐらい置いときなさいよ〜、客来ないわよ〜ん」
「前はあったけど、壊れたから撤去しちゃったんだよ、静かで良いって言って来てくれるお客さんもいるんだよ」
すでにかなり出来上がってる客に、マスターはニコニコしながら静かに反論する。どうやら町内会の婦人会の慰労会らしく、40代から70代の奥様集団だ。
「壊れたのハチトラ〜? エックスボックス入れなさいよ〜」
「何でXボックス? 対戦したいん?」
ハクがわけわからんので聞く。
「ちょっと和美ちゃん。ジョイサウンドって言いたいんじゃ無いのー」
名称は知ってても、役割がわからない世代の集まり。
「ツーしんカラオケ、オッケー〜」
「池田さん、酔いすぎじゃね? 大丈夫なん?」
ハクがモスコミュールを手渡しながら、50代の顔見知りの客に話す。
「ハクちゃん、おばちゃんの心配してくれんの? やさし〜!」
と抱きつかれるハク。
「ちょっとっ池ちゃん、なにどさくさ紛れに抱きついてんのよ! うちの息子に触んないで」
と言って池田をどかし代わりに縋りついた。やたらモテるハクだが、親世代にモテる事に特に嬉しさは感じない、どちらかというと親を介護施設に預けて、特老で働く青年介護士の気分なのであった。
「えっ、純子ちゃんの息子なの⁈」
池田が驚いてふたりを見比べた。
「まさか。おれのお袋も〈ジュンコ〉なだけだわ」
ハクが内訳をバラす。
「なによ名前だけ?」
「いーじゃない名前だけでもー、ここでは私が母なの! うちの子触る時は私の許可とって」
酔った勢いで抱きしめて独り占めにする、逆セクハラ。キャバ嬢なら料金が発生するようなお触りだろうが、タダで触られ放題でも嫌がることも儘ならない、格差が悲壮感と共に漂う飲み屋のスタッフ男子。
「皆さん。そろそろ、飲み放のラストオーダーですよー」
マスターが助けるように声をかける。120分飲み放題。残り15分。
「えーもう? じゃレゲパン2コ」
「こっちにレッドアイ」
「カシスオレンジに巨峰サワー、ビールみっつ〜」
「白桃サワーに、シャーリーテンプルにシンデレラね」
「それにハイボール一丁〜」
「ちょっと純子さん、うちの飲み放にハイボールないんだけど」
調子に乗る母に釘を指すハク。
「えーっ、いーじゃない。作ってよ〜」
「しょーがねーな。んじゃ、作ってくるから離してママ」
これ幸いと承諾し、ハクが母の腕をふり解いて立ち上がり、カウンターに入っていく。
「あらー純子さんとこの息子ちゃん、良い子ね〜」
「いーでしょ〜、あげないわよ」
なんのこっちゃ……。
酔っ払いの常連客のオモチャ状態を抜け出したハクは、スルリとカウンターに入り、慣れた手つきでカクテルを作っていく。
(……シンデレラなんてお酒あるんだ……)
ノンアルのカクテルの存在は知らない流衣。無意識に洗い物の手を動かしてる中で、店内から聞こえて来た声をキッカケに、頭の中はシンデレラのバリエーションの妄想の世界へ。
(舞踏会や結婚式でのバリエーションは素敵だけど、掃除しながらホウキと踊るシンデレラも好き。……もっと色々踊りたいな。中国の踊りとか、エフィとか、フランス人形とか、ドニゼッティ……んふふっ、有名じゃ無いけど、好き)
主役のバリエーションより、マニアックに流れる流衣。
(『バフチサライ』のザレマの色っぽいバリエーションも踊ってみたいし、色っぽいと言ったらジュリエットもそうだし、『愛の伝説』のシリンも踊りたいな……。そういえば『愛の伝説』って、なんで衣装の胸の所に謎の模様があるんだろう……変だと思ってるの私だけかな……)
『愛の伝説』とは、トルコの詩人ヒクメットの原詩を元にした二十世紀の寓話で、トルコのハーレムを思わせる場面がある、エキゾチックなバレエ作品である。
流衣が妄想でうっとりしてると、タイムオーバーが来た団体客のうち2人が帰ると言って店を出て行くと、入れ替わるように男性が入って来た。
「いらっしゃいっ、と」
ハクが一瞬戸惑い、気が抜ける。入って来たのはセキだった。
「なんだお前か」
「なんだとはなんだ、客だぞ」
相変わらずの減らず口を叩くセキ。
「客つーのはな、金を払うもんなんだ、テメー一回も財布出した事ねーじゃねーかよ」
いつも賄いをただ喰いしてるセキに、キレ気味でものを言うハク。
「金は出すから、何か食わせてくれ、朝から何も食ってねぇんだ」
「へ?」
いつもの売り言葉に買い言葉がない。それどころか飯の催促。……久しぶりに現れたと思ったら、心なしかやつれた様子のセキを、物珍しそうに観察するハク。
「やだなにー、このガラ悪い子友達〜? ちょっとお、うちの息子引きづりこまないでよ〜」
第一陣の帰った客には入ってなかった自称母が、お構いなしに割って入ってくる。
「息子?」
セキが訝しむ視線でふたりを見比べる。
「日替わりのな」
ハクが諦めて流された表情をする。
「大トラか」
カウンター席にどっかと座ったセキは、改めてここは飲み屋だったと思い出す。
「なによーちょっとお、そんなに酔ってないわよ失礼ね」
酔えば酔うほど自覚のなくなる酔っ払いが、セキに絡み出す。
「どう見ても飲み過ぎ……」
しつこいおばちゃんに釘を刺そうとしたが、カウンター越しにハクの『やめとけ』と視線のサインが出てセキは黙った。ハクはセキが口を閉じたのを確認すると、カウンター内の片付けを始めた。
「あのさ」
マスターも片付けを手伝う為にカウンターに入って来たのかと思いきや、ハクに話しかけた。
「前から聞こうと思ってたんだけど……」
言いにくそうに話し出すマスター。
「何それ? イヤンな話ならやめて」
良い話ではなさげなマスターの顔色を察し、話す前から断るハク。
「純子ちゃ〜ん、あたしらそろそろ帰るけど、まだ居る〜?」
そこへ、帰ると言い出す客達で話は中断した。
「えーみんなもう帰んの? じゃあたしも帰る〜。マスターご馳走様〜」
「みんな家近いけど、気を抜かずに気を付けて帰ってね」
転んで骨折する世代を心配して送り出すマスター。
「じゃあねー。またねー息子、悪さすんなよ〜」
「ハイハイ」
なんの悪さか聞くのも怖いので、そのままで手を振って見送る
「ありがとうございました〜」
団体客がバタバタと帰ったので、急に店が静かになった。
「マスターあたしらもう少し居ても良い?」
飲み足りないのか、意味ありげな表情の三人が残り、マスターに時間外を交渉する。
「グラスが乾くまで、ごゆっくりどうぞ」
ラストオーダーのサワーが未だ手付かず状態で残っているのを見て、未だ喋りたいのが分かったマスターは笑顔で了承した。
「ちょっと知ってる? 純子さんとこの二番目のお嫁さんがさ、孫ちゃん達を連れて出ちゃったらしくて……」
マスターのオッケーをもらうと、奥のソファ席に陣取り、すぐさま話が始まった。こうなると、従業員は聞き流すのがルール。
「……なに食う?」
一段落ついたので、ハクはセキに向かって問いかける。
「一番早い奴」
「炒飯だな。ちょっと待ってろ」
そういうと、先程までいた団体客のテーブルを軽く片付けて皿とコップを手に持ち、奥の厨房に入った。
手にしていたものを洗い場の溜水に落とすと、調理場に立つ為、人ひとり立つのがやっとの場所で、流衣を軽く押してながら撫でるように身体に触れつつ後ろを通る。
「んとに狭いな、ここ」
照れ隠しなのか、言い訳なのか……そんなセリフを吐く。
(セキの声聞いたの久しぶり……)
ここひと月ほど姿を現さなかったのだ。
「……声の調子がいつもと違うけど、何かあったのかな」
自分の位置からでは店の中まで見渡せない為、顔色までは分からないが、元気がないように感じた。
卵、蒲鉾、刻みネギ、材料を冷蔵庫から出し、フライパンに火を入れる。洗い場とガスコンロの狭いスペースの調理台で、身体を折り曲げるように縮めて蒲鉾を刻みながら、心配してる流衣の呟きを聞いて笑いが込み上げた。
「なんで笑ってるの?」
笑ってるハクが理解出来ない流衣は首を傾げて聞いた。
——だって考えても見ろよ、なんかあったんならセキのこった、ぜってぇ毒づいてる。怒りはパワーだかんな。けど、仕事終わりに真っ直ぐに来て『飯食わせろ』って、メニューを選ぶのも億劫で面倒クセェくらい疲れ切って、此処に駆け込んできたってクソほど真面目でアホだわ。
「腹減りすぎてるだけじゃね」
ハクは多くは語らない。
「んー……そうなのかなぁ」
あきらかに自分よりセキを知ってるハクが言うならと、微妙なまま納得する。ハクは既に出来上がった炒飯を手に持ち。
「あと少しだから頑張れよ」
「はーい」
洗い物のピークがまさに今で、ここを過ぎれば楽になる、と言い残して流衣の後ろを先程と同じく押しながら通る。
「たっ」
ハクが通る為に流し台に寄せた身体を戻したら、カップボートの下にコツンと額をぶつけた。
「ここに棚の底あるの忘れてた……」
それは視線に入らない部分。姿勢の良い流衣は洗い物の時真っ直ぐに立っているので、普段そこに頭をぶつけることはなかった。
(ハクならここにぶつからないだろうな……だって見えてるもんね)
と身体を折り曲げて物を刻んでたハクを思い出して
(なにを食べたらあんなに大きくなれるんだろう……いいなぁ)
羨ましさを飲み込み、額をぶつけたその場所から重い頭を動かさずに、黙々と洗い物を続けた。
「いったいお前どこに居たん?」
炒飯を差し出すと同時にハクが聞いた。目の前に出された炒飯を、確認するように一口食べると、後はものも言わずに一気に食べ尽くした。セキはハクの方を向き冷グラスを差し出し、徐ろに口を開いた。
「石巻」
カウンター越しに横着にお冷やを注ぐ、やはりセキを客扱いしないハク。
「あー。キツそうだな」
セキが建設会社にバイトとして働いていたのも手伝い、場所を聞いただけで震災関連だと分かる。
「解体の現場なんだけどな、一週間の予定が結局20日かかっちまった」
セキはナミナミと注がれたお冷やを飲み干すと、諦めたような口調で喋った。
「そんなに伸びるって、何があったよ?」
「……何もねぇ」
「んな訳ねぇだろ」
実際、建設現場で工程が伸びるのは日常茶飯事。しかし、解体現場でそこまで伸びるの有り得ない。ハクのハッキリと否定した声に、テーブルを片付けていたマスターも振り向き、こちらを注目したので
強迫観念にかられたセキは話始めた。
「……浸水域の商店街の鉄筋ビルの解体に行ってきたんだけどな、これがさっぱり進まねーんだよ」
セキが嫌そうに顔を背けて話す。
「何が問題なんだい?」
マスターが聞く。
「……」
セキが考え込んで、チラリと店内の客を見た。
世間話に花が咲いてるおばさま達はセキ達を気にする様子は無かった。
「金の問題か?」
気まずそうなセキの表情に、ハクは一番面倒くさい案件を切り出してみる。
「いや、それは国から補助金が出るから、持ち主が行方不明にでもなってない限り、大丈夫なんだけどな、電気もガスも通ってねーし住民もいねーし、二次災害の危険ねえから養生も必要ねえ、本当なら五日もありゃあ終わるよなって、現場監督も言ってたんだが、途中から人が足りなくなったんだ」
まあいいか、と投げやりとも取れる言い回しでセキは話を始める。
「人? なんで?」
「朝起きて、現場に行くと人が減ってんだよ。飯場から人が消えるんだ」
思い出したのか疲れた顔に戻った。
「……なんか聞くの怖い気がするんだけど……何で?」
マスターが恐る恐る聞く。ハクもなんだかいやな予感。
「泣き声が聞こえるっつってさ……」
「それ……」
ってやっぱり……
「朝に現場に行くと、子供の足跡が付いてるとか、一服してると後ろから背中叩かれて、振り向くと誰も居ねーとか」
ハクもマスターも何も言えない。
「オレの隣の部屋のオッサンが、夜中に『津波がくっから逃げろ!』て見知らぬ男に起こされて、一緒に外に出た途端に人が消えて、そのまま裸足で逃げたらしい、……後から他の奴に聞いたんだけどな」
「お前は何もねぇんかよ?」
さもありなん、と思いながら、ハクは身震いしてその体験があるのかセキに問いかけた。
「全然。オレは朝まで爆睡するから、見えねーし聞こえねーし……足跡は見たけど、足の小せえ奴が歩いたかもしんねーだろ」
(嘘つけ、どう見ても子供の足跡にしか見えねーからなわけだろ、って言いてぇけど、この現実逃避は正解かも知んないな……)
何とも微妙な話。さすがのハクも冷やかしを入れる気力もない。
「まあ、そんで。残ったのがオレと親方だけになっちまって、オレは大型回せねーから親方一人で運び方やって、人いねーからオレが重機動かして、なんてやってたから異様に時間かかっちまってよ」
「お疲れさん」
「大変だったねえ」
疲れた理由を気の毒なほど納得するハクとマスターだった。
「ところでセキは未だ学生さんだろ? いくら定時制とはいってもそんなに休んで大丈夫なのかい?」
夜間学校に通うセキの心配をするマスター。
「うちは仕事で休む分には特には……会社から県工に連絡入れてもらったから問題ないっすわ」
「ん? 県工? 市工じゃねーの?」
県工は県立工業高校。
市工は仙台市立工業高校
「県工だが?」
ハクは今更ながら勘違いしてる事に気が付いた。
「んじゃ、ツマグロヒョウモン知ってんのか⁈」
「は? ツマグロ……って何だ?」
「えーとあの赤いライン、確か……。そうだ、『梶』って奴」
ハクは記憶をたどり名前を思い出した。
「ああ、同じクラスだな。一クラスしかねーけど」
セキが露骨に嫌な物を見た顔になった。
「あいつ18かよ」
「いや、向こうダブってっからいっこ上。けど何で奴のこと知ってんだ?」
セキは苛ついた言葉尻で喋る。
「ちょっと、前に絡まれてな、……どんな奴だ?」
「どうもこうも……学校にほとんど来てねーからよく知らねーけど、見た目通りじゃねえか、外見が既にヤベェだろ」
学校は私服で人それぞれ、会社の制服で登校するも自由。苦学生のためのコンセプトは遠のいてる定時制だが、いつの時代も訳ありな人達が多い。お世辞にもファッションセンスが良い輩がいるとはいえないその中で、黒のジャージをだぶつかせ、肩を揺すって猫背で歩く最悪なガラの悪い姿にうんざり顔をするセキ。
「あれ、それって以前に一臣君がしつこく絡まれたって、言ってた相手の事?」
マスターが、まだ一臣から顔のアザが消え切らない日々の事を思い出して怪訝な顔をしたのを受け、ハクは無言で頷いた。
「なんだか器物破損やら、傷害やらかして警察から目をつけられてるらしい。婦女暴行も……つー噂もあるしな……。厄介な奴に目え付けられたな」
「厄介な奴か……だな」
正しくそれだ。ハクはなんだか嫌な予感がした。
「奴の親は『上ノ技建』って建設会社の息子だから、プータローのくせに学校では何も言わねぇ、マジでクソだ」
セキが吐き捨てるように言った。
「結構大きい会社だね、工業高校だと色んなしがらみがあるよね」
あまり良い評判は聞かない会社だ。この辺りは不動産関係の会社が多く、建築関係の客も店に来るが、よくない噂が多い。そこはマスターは口にしなかった。
「しょ〜がね〜な……」
何かあると決まったわけじゃない。ハクは考えても仕方の無い事を後回しにして、空いた皿を片付けて手に持ち、洗い物係へ渡すために席を立ち移動した。
「これも頼むな……あ?」
流衣に手渡そうとした瞬間、ハクは愕然となった。
「嘘だろ……」
ボソリと呟やき、世にも奇妙な物を見て驚愕して活動停止してるハクに気がつき、マスターとセキが覗き込むと、そこには頭をカップボートの縁に持たれかけ、立ったまま寝息を立てて寝てる流衣がいた。
「特殊能力だな」
セキが呆れて言った。
「……よっぽど疲れてるんだね」
マスターは哀れに見えた。
「しゃーねー」
ハクは頭を抱えて、おもむろに携帯を取り出し電話をかけた。
「……カネゴンが気絶してるから早く来い」
「……」
一臣はハクの声に固まった。
「かんじーざいぼーさーぎょうじんはんにゃーはーらーみーたーじ……」
遠くから『般若心経』の声が聞こえる。
……いちにぃのおじいちゃんの〈御勤めさん〉だ、すご〜いここまで聞こえる。
流衣は
いち兄のお祖父ちゃんは住職、お父さんは会社員。お寺からスーツを着て出勤してるいち兄の父親を見るにつけ、流衣は違和感を感じていた。
「父ちゃんが修行は五十過ぎたらやるって言うと、じーちゃんが「この不心得者が!」って怒るんだ〜」
「あのお祖父ちゃん怒るの?」
いつも穏やかな優しそうな笑顔のお祖父ちゃんで、怒ってる姿が流衣には想像できなかった。
「じーちゃん一番おっかねーよ」
恐怖に引き攣った顔して見せるいちにぃを見て、大人には家族に見せる顔と他人に見せる顔が違うんだと、やんわりと理解する流衣。
トタトタトタトタッ。
軽い足音が聞こえて来て、流衣はドキッとして身構えた。
カラッと襖の戸が開いた。
「んー」
来客用の座布団は三列に並んで、中段の棚までびっしりと収納されている。ナツの声が聞こえると流衣は尚一層ドキドキして、真ん中の列の後ろに体を薄く保って息を殺す。ナツは座布団しか見えないので、襖を二枚一緒に反対側に押した。
「んー」
やはり見えない。ナツは諦めて開けた襖をそのままにして隣の部屋へ移動した。
(なっちゃんに見つかんなかった〜。えへへっ)
流衣はひとり悦に浸る。
見つからなかった安堵感も、時間が経つと逆に暇になり、座布団の間に手足を突っ込んでサワサワと触りだした。
(なっちゃん、早くいちにぃ見つけないかな〜)
暇すぎて、座布団の間を触りまくる。
(このお座布団ツルツルしてる〜、それにふわふわ、うちのおざぶとぜんぜん違う、気持ちい〜)
程よい圧迫感と暖かさで流衣は眠くなって来た。おまけに遠くから聞こえるお経の声がその眠気に拍車をかけ、いつの間にか完全に落ちてしまった。
「あらやだ、扉が開けっぱなし……」
一之進の母親が全開の開き扉を閉めようとすると、部屋の中の襖まで開いてるのを見つけた。
「もう〜、イチかナツね。男の子ってどうして〈開けたら締める〉ができないのかしら、全くもう!」
我が子と甥っ子を一括りにして、文句を言いながら襖を閉めようとすると中の座布団が動いた。
「えっ、ちょっと何?」
驚いて覗き込むと、座布団に挟まったまま、ぐっすり眠っている流衣を発見した。
「あらら」
母親は流衣を座布団の間から救い出して、改めて敷いた座布団の上に寝かせた。
「あのガキども〜!」
そう言うと、おもむろに外に向かった。
小学生がふたりでキャッチボールをしている。
「皇帝ペンギンえーっくす!」
「エクスカリバーッ!」
イナズマイレブンの技の名前を繰り出しながらのキャッチボール中。
「オレ、参上!」
「ジョーカー! さあ、おまえの罪を数えろ」
「激激のニキニキだー!」
「天下御免の侍戦隊、シンケンジャー参る!」
「おみくじセンサー降臨」
技の名前に野球には全くからまず。勢いがあればなんでも良い男子達。
「ちょっとあんた達! 流衣ちゃんほっといて何やってんの!」
そこへ母親がお怒りモードでやって来た。
「あ、忘れてた」
ナツはかくれんぼしてた事を思い出した。
「え? ルゥルゥ来てたっけ?」
一之進は流衣とかくれんぼしてた事さえ忘れていた。
「おばんでがすー。いつものだけんど貰ってけねすか」
そこへ住宅の裏口から、形が崩れて売り物にならない野菜を届けに、流衣の父親がやって来た。
「あら、清さん。丁度良いところに」
一之進の母親は小走りで裏口へ向かった。
ゆらゆら、ゆらゆら。
心地よい振動が響き流衣はすごく暖かい空気に包まれてるのを感じた。
……ズサ、ズサ、ズサ。
土の匂いとちょっと引きずる足音で父親だと分かり、暖かい丸い背中に居るとゆっくりと意識が戻って来た。
「……重くなったなや」
父親の小さい独り言が流衣に聞こえた。
「重いの?」
流衣はボンヤリしながら父の言葉に反応した。
「起きたんか」
背中で目覚めた娘に父親は気が付き、それでゆっくりとした歩きを止めることも変えることもしなかった。
「重くてたいへん? ……流衣歩く」
流衣が降りようと背中でもがくと父は続けて言った。
「……ほったらこと、さすけねぇ」
……そんな些細なこと気にするな。
子供の重さは成長の証、〈うれしい悲鳴〉というやつだ。仙台弁で嬉しそうに言った普段無口な父親。その口調に安心した流衣は、暖かい背中に戻るようにしがみついた。
ドンドン。
——なに?
ドンドンドン。
……なんの音?
どん、ドドン、ドン。
誰かが戸を叩いてる音かな……。
レッスン終わってお家に帰って来て……
それから……なんだっけ、あたし何しようとしてたんだっけ。
ドンドン、ドドン、ゴポッ。
——お風呂だ!
「何やってるの!」
お母さん。
あたしお風呂入ろうとして、沸かして、寝ちゃったんだ! 大変!
「あんたって本当に何やらせてもダメな子ね!」
ごめんなさい、お母さん。ごめんなさい。分かってるから怒らないで。
「起きて」
不意に一臣の声がして体をゆすられた。流衣が顔を上げるとアパートが見え、その横に自分を背負ったままの状態で一臣が立ってる。流衣を起こす為に振り向いた一臣の顔が、肌の暖かさが伝わるほど近い位置にある。
え? え? ええ⁈
あたし何で臣くんの背中にいるの⁈
これ夢?
さっきまでが夢?
からの夢の続き…… じゃ無い!
何があったの⁈
どーしてこうなったのー‼︎
現状が理解出来なくて、流衣は照れて赤くなるどころか顔面蒼白になった。
「お、下ろして……」
やっとのことで声を絞り出した。
一臣は、猫が背中から飛び降りやすくする飼い主のように、すこし屈んで流衣を下ろした。
「あの……えっと、どうして……その」
流衣が狼狽えてしどろもどろになってるのを見て、一臣は状況を話し始めた。
「立ったまま寝たの覚えてる?」
流衣はフルフルと頭を横に振った。
「呼んでも起きないから、そのまま連れて帰ることにした」
立ったまま寝た? 呼んでも起きない⁈
あたし……確か『時玄』でお皿洗ってて、お湯が温かくて気持ち良くて……。
その後、寝たの? そのままそこで? なんでっ、やだっ、もうどんだけアホなことやってんの! あたしのバカー‼︎
「はい」
落ち込んで下を向いてる流衣に、スクールカバンとレッスンバックを差し出す一臣。
「ありがとう……」
頭を上げず手だけを差し出して受け取ると、一臣の周りに何も無い事に気がついた。
「臣くん、自転車は……」
ポロッと口を突いて言葉が出たが、自分せいだと気がついてかたまった。いつもだと自転車を押して歩いてる一臣だが、人ひとり背負って、尚且つカバンを二つ持っていたら押せるはずもない。
「『時玄』に置いてきた、どうせ明日行くから」
あたし、どんだけ間抜けなの……。お母さんが怒るの当然だ……。
「……ごめんなさい」
受け取ったカバンを胸に抱え、救いを求めるようにすがり抱きしめた。
「別に……」
いつもの返事の語尾が濁った。流衣の声がくぐもり、顔がみるみる雲っていったのが見えたからだ。斜めになった薄暗い外灯の下でもそれはよく分かった。
「ダメなの……。あたし……本当に〈できそこない〉なの」
——何時間沸かしたの? アパートが火事になったらどれだけ人様に迷惑がかかると思ってるの⁈——
さっきの夢は昨日の現実。生々しい母親の声が頭の中で繰り返される。
——どうしてちゃんと出来ないの! 誰に似たんだか……本当に出来損ないね——
「昨日……家に帰ってお風呂をつけて、沸くのを待ってる間に寝ちゃって、お母さんが帰って来た時にはお湯が半分になってて空焚きになる直前で、気付くのが遅れたら火事になる所で……」
流衣が住んでるアパートは昔ながらのバランス釜。浴槽の横に給湯器がついてるタイプの物で、今の時期は水から沸かすと40分はかかる代物だった。
「それだけじゃなくて、学校にスクールカバン忘れたり、上靴のまま帰ったり、毎日通る道間違えたり、お米を研いだのにタイマー入れ忘れてご飯が炊けてなかったり、いつも怒られて人に迷惑かけてばかりで……ちゃんと出来ないダメな子なの……」
何故いま、一臣にこんなことを喋っているのか……。
流衣は慰めて欲しい訳ではなかった、ただ、黙っていると心が折れそうだったのだ。
「……別にダメじゃないけど」
今まで黙って聞いていた一臣が口を開いた。
「そんな訳ない……」
一臣の言葉に変な含みがないことは分かっている。けれど慰められてるようで、可哀想に見えたのかと流衣は惨めな気持ちになった。
「レッスンバックはいつも抱えている」
「だってこれは……、これが無いと踊れないし」
一臣の変則的な問いかけに、流衣は暗鬱な状態で胸に抱えた自分の中の拠り所のカバンを見つめた。
流衣の気持ちを知ってか知らずか一臣は続けた。
「本当に駄目な奴は、自分の好きなことすら守れない奴だよ」
「…………」
流衣は困惑して一臣を見つめた。
「興味のない事に集中出来ないのは人としてのサガだから、別段ダメでもおかしくも無い。普通だよ」
バレエが好きなのに、それを母親からいつも否定されて、事あるごとにおかしいと烙印を押されていた。だからバレエを辞められない自分が変なんだと思っていた。
——なのに〈駄目じゃない〉〈普通〉とハッキリと言い切った。
……ほんとう……?
一臣の口から出て来る言葉が魔法のように、流衣の沈んだ心に染み込んでいく。
「口先だけのいい加減な奴だったらフォローなんかしない、俺も、ハクも、マスターも」
一臣は真っ直ぐ流衣を見て話す。
「〈参加する事に意義がある〉そんな敗者の為に用意された言葉を受ける為に、努力する人間なんていない。勝利でも合格でも着地点が世界の水準なら躊躇はするべきじゃない」
点数で勝敗の決まるサッカーとは違うバレエの世界に、勝利と合格を同等と表現する一臣の、いつもならぬ饒舌な様子に流衣は面食らってしまう。戸惑いはかくせないが、それでもなお一臣の真摯な態度に応える為に、流衣は理解しようと迷路の出口を求めて彷徨うように必死に考えた。
「倒れないから」
「え……」
「人ひとり背負ったくらいで堪えやしない、軌道修正はどの角度でも出来る。全力でぶつかって来ても俺は倒れない」
「ぶつかる……」
(それってあたしが臣くんにって事?)
「アシストするから、何も考えずに、自分のゴールに全力で進めばいい」
流衣の中に、何がストンと落ちた気がした。
頭の中が真っ白になって、それ以上何も考えられずに、一臣を真っ直ぐに見つめた。
そんな流衣から一臣は視線を外した。見つめられた事に居た堪れなくなったのか、言いたいことは全て言い切ったという現れなのか、一呼吸おいて区切りをつけてから、もう一度流衣に視線を戻した。
「……また明日」
いつもの別れの挨拶を口にした。
「……はい」
敬意の現れと戸惑いが、流衣の口から返事を出させた。一臣の後ろ姿を見送りながら、流衣は一臣の口から出た言葉を反芻する。
フォロー
アシスト
躊躇するな
何も考えずに、全力でゴールに進めばいい。
流衣は、何度も何度も繰り返し考えた。一臣が……何も気にせずに、自分を頼れと言ってるのだと……朧げながら理解するまで。
真綿に包まれる様な暖かさが、体を心地よく包んでじんわりと浸透する。それに比例するように別の火種が湧いてくるのを感じた。
……どうして…… 何でそこまでしてくれるの?
ダメだよ、あたし……どうしよう……。
折角抑えようとしてた感情が、さらに大きくなって戻ってくるのを感じた。恋焦がれる感覚を楽しむどころか、胸が苦しくなる感覚を覚えて、流衣の慌ただしい一日が過ぎて行くのである。
産業道路沿いに、冴木ビルと呼ばれるガラス張りの少し目立つ五階建のビルがある。1階がパチンコ店で2階から上がゲームセンター。5階がコインゲーム、4階がアーケードゲーム、3階が対戦ゲーム、2階がUFOキャッチャーやパチンコ台やスロット台が置いてあり子供も大人も遊べる空間になっている。大学生らしい若い男性や主婦、1階のパチンコに見切りをつけたシルバー世代などがチラホラとみえる。
「また来てるよ」
従業員の小太りの30代の男が、2階のゲームコーナーに置いてあるパチンコ台の前の中年男性、おそらく60代であろう客を見ながら、カウンター内で作業中の同僚女性に話しかけた。
「暇なんでしょう。仮設のプレハブじゃゆったり出来ないだろうしさ」
40代前後らしき女性の従業員が片手間に返事する。最近、昼間にやたらと中年層の人達が増えたのは、近くに被災者の為の仮設住宅が出来たからで、今日もそれとおぼしき人達が何人か遊んでいた。
「ああやって一日中ここで遊んでいいのかな」
30代の男性バイト店員が疑問視する。
「……ダメなの?」
40代の女性パート店員が聞き返す。
「だって使ってんの〈義援金〉でしょ。折角さ、善意で集まったお金なのに、ここで使われてるのわかったら、寄付した人ガッカリだよね」
さも常識人なふりをする年下の男性に〈その程度の認識だから、あんたは非正規社員なんだよ〉とは思うが口には出さない40代訳ありパート店員。
「しょうがないっしょ。あの年になって、仕事も家も無くなって、ここしか時間潰しするのないんなら、……あの人がそうかはわかんないけど、外に出る気力があるだけマシじゃないさ」
仮設住宅で首を括られるよりは……と言おうとして、周りを気にしてやめた。
「あーでもさ、趣味も無いのかな」
何故か被災者を悪者にしたいらしく食い下がる。
「釣りが趣味だったら無理っしょ。あたしの知り合いのオッサンが、どうしても釣りがしたくて船出してもらったんだけど、釣った魚が髪の毛くわえてて、ソッコーでリリースして戻って来たってさ」
「……」
黙りこんでしまった。
「それにさ、ここでお金使うなら、あたしらの給料になるんだから、震災復興支援みたいなもんじゃないさ」
「まあ、そうとも取れますけど……」
論破されて反論出来ないにも関わらず、何だか渋々である。
「ほら、呼んでるよ」
その男性が台を指差しながらこちらを向いてる。
「ちょっとー」
やっと声に出して店員を呼ぶ、中年の男性客。
「どうしました」
男性の店員は近寄って行くと、すぐに理由はわかったが、念のため理由を聞いた。
「当たってんのにコイン出ねくて。こっちは玉が引っかかって動かねえんだ」
店員が見ると『創世のアクエリオン』が大当中で、出玉の代わりにコインが出る仕組みだが、排出ボタンを押しても出てこない。隣の『新世紀エヴァンゲリオン・使徒再び』は道釘の途中で玉が引っかかって電チュールートを循環してる筈のパチンコ玉が全てそこに溜まっている。
「お客さん、掛け持ちは困るんですけど……」
店員はあからさまな掛け持ち違反遊戯に、困った顔をする。
「まあ、硬えこと言うなって、人少ねーしさ」
悪びれもせず収めようとする客に呆れはしたが、その客の言う通り、ゲーム機のパチンコ台を打ってるのは2・3人。特に人の迷惑になってるわけでもない。それにさっきの同僚の話も頭に浮かんで、これ以上言う必要もないと判断した。
「はははっ、まあ、ほどほどにお願いします」
喋りながら台のガラス戸を開き、引っかかってる玉を直した。
「今、こっちの台のコイン補充するんで、待ってくださいね」
「わりぃな兄ちゃん、あんがとな」
思いがけなくオッケーが出たので、素直にお礼を言った客に、店員は好意的な愛想笑いでかえした。そんな他愛のない会話に気を取られている中、腰掛けている椅子よりやや下に位置する台座に置かれた財布に、後ろ側からスッと伸ばされた手がその財布を掴むと素早く持ち去られた。
パチンコ台の後ろにいた男が財布の中を探り札を何枚か抜くと、財布が置いてあった台の下に投げて自分は後ろから迂回してその場を離れた。中年の男性と店員はその事に全く気づく事は無く、中年の男性客は自分の財布が落ちてる事に気付き、不審に思う事なく財布を拾って元の位置に戻した。
「いくらあった?」
入口付近で待ち構えてたふたりの男が近寄ってくると、そのうちのひとりの圭太が話しかけた。
「二万」
マサがポケットを探りながら答えた。
「ショボ。全部?」
もう一人の大樹がゲェという顔をして見せた。
「千円札は抜いてねぇ」
とマサは答えた。
財布を空にすると直ぐにバレて持ち主が警察に届けに行くが、札を残すと自分の記憶違いかと、一旦考えるから時間を稼げるのと、歳のせいにする年代を狙う窃盗を、この三人は繰り返しているのである。
「『玉城』なら行けんじゃね、あそこ5000円じゃん」
「そこのヘルスやべーよ。ババアしかいねー」
圭太と大樹が不満を漏らすと、マサはポケットの中の金をグッと握りしめた。
「じゃあこの金やるからお前らで行ってこいわ、おれは知らねー」
そう言って金をふたりの間に投げ、建物から出る為に階段を降りていく。
「マサ何怒ってんだよ」
圭太が金を拾い、大樹が話しかけてもマサは返事をしなかった。
「あゆみが、マサに説教してやったって言い回ってたけどそれのせいかよ?」
圭太の声が聞こえたのかマサは足を止めた。
やべ、図星。
圭太と大樹は同時にそう思った。
〈パンピーにやられたのマジだぜぇ〉
その言葉より、その後の一臣の視線の方が、マサの頭から離れなかった。
(奴のあの冷ややかな視線……。何なんだ、頭から離れねぇ、何で見られただけで動けなくなっちまうんだ、ちくしよう、ムカつく)
マサは歩き出して外に出た、マサのただならぬ様子を眺めたふたりは顔を見合わせて、観察しながら一歩引いてその後に続いて外にでた。
「おいお前ら」
外に出た3人に声をかけたのは、入口から出て直ぐの柱に寄りかかった見た事のない男だった。
ダメージジーンズにグレイのパーカーを着たその若い男は、同じようなやさぐれた匂いのする奴で、声には足を止めるだけの威嚇の圧があった。
「んだよテメェ、お前呼ばわりすんじゃねぇよ」
すかさずマサが口を開いた。
「最近よく見かけるけどこの辺の奴じゃねぇよな、場所間違ってねぇか?」
声を掛けた安原は、原チャリを乗り回して近場に現れる3人組の男達が、どうにも目障りに映っていた。
「オレらがどこにいようがテメェに関係ねぇだろうが⁈」
マサに続き圭太も凄んで答えた。
「マジか? ガチでバカか? ちげぇだろ」
安原は睨む角度を変えて蔑んだ。
ガッ。
重たい金属で石を叩くような音が横から聞こえた。3人が何事かとそちらを見やると、黒いジャージにミリタリージャケットを羽織った男が柱を靴で蹴ったのだとわかった。
「へ、オモロ〜〜っと、ガチバカに一票〜」
酔っ払った様な話し方と、蛇の様な執念深そうなねっとりした眼を持つその男、梶を見た3人は一様に固まった〈見ては行けないものを見た〉そんな表情をする。
何だこいつ……
やな目つきしてやがる
何だあの音……あの革靴に鉄でも入ってんのかよ
「テメェこそ何イキ撒いてんだ」
「そこどけよおらっ」
バカ呼ばわりされて圭太と大樹が切れた。
「あー、どうする梶」
キレたふたりに煩わしそうな顔をする安原。任せるために梶に振った。
「ボコんのめんどくせえなぁ、お前らオッサンの財布からチャッた金置いて消えろや」
柱に体をもたれさせたまま、小指で耳をほじりながら、3人を見もしないで喋る梶。
「ざけんな、誰がテメェなんかに……」
「……梶?」
圭太が言いかけると、横でマサが梶の名前を口にした。
「まさか八軒中の……⁈」
大樹も知っていたのか、マサに続いて引き攣った顔になった。
圭太だけがポカンとしている。
「ふん?」
梶が目だけをぐるぐると動かして、自分の名前に反応したマサを中心に三人を品定めした。
——八軒中の〈梶〉卒業式に中学校の教頭を半殺しにして病院送りにした奴……。けど何故かその後、梶じゃなくて教頭が逮捕された、女子生徒を盗撮したとかで……。噂ではコイツが恨んでた教頭を罠に嵌めたとか何とか……。事件はよく知らねえし、顔を見たのは初めてだけど、けど違いねぇ、執念深そうな面してやがる。
マサが醸し出す、うっとうしい空気を感じたのか、梶はニヤついて肩を揺すり、左右で違う足音をさせてもっそりと近付いて来た。
「んだよ、オレ有名じゃん、サインしてやろうか?」
「くっだらね……」
梶の正体に気付かない、圭太の言葉が途中で途切れた。
梶の蹴りを腹にくらったのだ、圭太は目を見開きその苦しさに声も出せず悶絶した。マサと大樹はさっきの金属がぶつかる音を思い出して生唾をゴクリと飲み込んだ。倒れ込み唸り声を発する圭太を見て、梶は唾を吐いた。
「やわだな、クソつまんねえ」
そう言うと、マサと大樹をターゲットを定める為に見比べた。ギョッとした大樹は手にしてた札を慌てて差し出した。
「これだろ、やるよ」
差し出された皺だらけの二枚の札を見て、梶はもう一度唾を吐くと、右の拳を大樹のこめかみに打ち込み、左の拳をマサのみぞおちにぶち込んだ。大樹は脳震盪を起こし気絶状態で倒れ、マサは両膝をついて体を折り曲げた。
「しっつれーな奴だな、それ渡すか? オマエかーちゃんに礼儀教わんなかったのかよ」
梶が殴ったふたりを嘲笑って叱ると、安原は苦笑いで事の様子を眺め、梶に向かって一言。
「顔はヤメろって」
安原は目の前の立体駐車場を顎でしゃくり、場所を変えるように促した。柱の影になってるとはいえ、入口は人目につく。
「しょーがねー、オレが躾てやっから、ありがたく思えよ」
転がっていた大樹の襟首を掴み、身体を引き摺っていこうとしたが、大樹は抵抗して振り払った。裏に連れて行かれたら最後だと肌でわかる。振り払われた梶は、イラついたのか目つきが変わった。
「へっ」
薄ら笑いと同時に鉄芯入りの梶の靴が、大樹の腹部にめり込んだ。
「グフッ」
声と同時に口中の唾液を吐き出して、大樹はうずくまった。先程同じ場所に蹴りを喰らった圭太より、蹴りの威力が大きかったのか、痛みが治り動き出した圭太とは裏腹に、大樹の呼吸が荒くなり足が痙攣し始めた。しかしお構いなしに、梶は愉快な顔で転がってる大樹に蹴りを入れ続けた。鼠を転がして遊んでいる猫のようにしか見えないその様を見た圭太は、また同じ目にあいたくないと隙あらば逃げ出そうと、うずくまった体制のまま様子を伺っている。
何でこうなるんだよ。何でよりにもよって、こんなタチの悪い奴に捕まるんだよ!
マサは心の中で必死に救いの道を探した。しかしどう考えても最悪のシナリオしか出てこない。
ついてねぇ……ここんとこずっと。……アイツに会ってからだ。チキショウ! マジでムカつく!
「……泣き黒子め」
マサは事もあろうに自分の泣き言を、その責任の全て一臣に転換し始めた。そんなマサが不意に漏らしたつぶやきを、梶は聞き逃さなかった。
「そいつダチか?」
蹴るのをやめ、首をグリリと回しマサを見る。
……泣き黒子が? んなわけねぇ。
「そっちこそ、知り合いかよ」
同じ奴の事だと直感的に分かったが、意図が理解できないマサは虚勢を張ったまま探りを入れた。
「……」
返事は無かったが、痴呆を患った人間がほんの一瞬だけ正気に戻った、そんな表情をした。
「……東高の藤本だろ、そいつ」
梶に代わって安原が答えた。
「藤本……」
〈泣き黒子〉は藤本という名だとマサは知った。
「そいつはダチか? いじめっ子か?」
梶は相変わらず斜めに構えたまま、今度は二択でマサに聞いた。
「ダチのわけねぇ」
唯一無二の答だ。
「ククッ、ケヘヘッ」
気色の悪い笑い声を聞いてみんな梶を凝視した。
「……兵隊が揃いやがった」
その後も薄気味悪い笑い声が、ビルのガラス窓に響いた。
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