第7話 揺れる思いとファンキー・モンキー、バナナとサンデー

 11月に入り仙台は紅葉が一気に見頃になった。本格的な寒さはまだ無く、過ごしやすい綺麗な空気が昼間の陽だまりを漂い、小春日和の様なその澄んだ空気はより一層眠気を誘う。

 3時間目の後半、睡魔と戯れ中の流衣はふと、制服のポケットの振動に揺り起こされた。

……なんだろう。

そう思ってスカートのポケットを探り、そっと携帯を手繰り寄せた。例え寝ぼけていても身体自体が授業中だとインプットされてる為、机の下でコッソリと開くくらいの機転はあった。

……ん? 臣くんからメール……。

流衣は携帯を開いた。

『ササン朝ペルシア』

——は?

「5番、狩野、答えて」

一瞬で現実に引き戻されたかと思ったら、そこへ社会の先生の声が聞こえて、流衣は立ち上がった。

「——あの、さ〈ササン朝ペルシア〉です!」

流衣が答えると先生が変な顔して

「何だお前、寝てたんじゃなかったのか」

先生がそう言うと、教室中から笑いが起こった。

「あ、いえ、はい」

「まあいい、正解だ。座って」

流衣は赤面しつつ、静かに座って隣を見た。一臣が普通に授業を受けてる。

〈ありがとう〉と机の中で手探りで打った。一臣は手の中の携帯をやはり机の下で確認すると、携帯を上着のポケットに流れるような動作で仕舞う。

(今、臣くんが携帯しまったなんて誰にもわかんないだろうな……マジシャンがカード切ってるみたいでネタバレしない感マックス……)

横目で見てた流衣はいちいち感心して妄想展開しそうになったが、一方で自分を見るとノートは出して無い、教科書は出してあるものの開いてない状態にいつも通りガッカリする。

三時間目終了のチャイムが鳴った。

「じゃ」

一臣はそのひと言を他には聞こえない程で残して、流衣が返事をする間も無く教室から消えていった。

「やられたねー、狩野さん」

「村田ざまあっ、寝てんのワザと指すのキモうざっ」

「いうかさー、14日で、5番当てんの酷くな〜い? そこ足す? 普通」

流衣の前の席の〈渡辺あやな〉と呼ばれる子と、その隣のこの学校では珍しいギャル系の〈新田なおみ〉が振り向いて話しかけて来た。

「狩野さんいつも寝てんのに、今日は起きてたんだね」

ふたつ前の席の〈みかりん〉も乗って来た。

「あーうん。ちょうど目が覚めたの……」

一臣のメールで起こされたとは言えない流衣。

「へーそうなんだ、それでよく村田の問題解ったよね?」

〈みかりん〉は素朴な疑問をぶつけて来た。

社会の村田先生は、本題の教科書の単元とは違う斜めってるとこから問題を出す、ちと厄介な勘違い先生。

「それな! 今日もー、中世ヨーロッパからいきなり三世紀のイランに飛ぶマジキチだし、意味わかんなくてマジウザい」

(ササン朝ペルシアって三世紀のイランなんだ……知らなかった。新田さん頭良いな)

勉強が出来る進化系ギャルのおかげで、流衣は事と次第を理解した。

「だからさー、みんなして「は?」ってなってんのに解る狩野さん凄くない?」

(……え?)

「狩野さん、本当は出来るのに隠してんの? もしかして裏で猛勉強するタイプ?」

みかりんはディスりとも取れる圧をかけた疑問を投げかける。

(そんな訳ないし……)

期末テストで一人でクラスの平均点を下げまくってた現実を思い出した。クラス女子の妙な圧で答えを探してみたが、複雑で頭がごちゃごちゃして来た。

(勉強してたらもっといい点のはずだし、ここで〈出来る感〉出して実は馬鹿でしたになったら後が悲惨だし、それ以前に答え出したの臣くんだし、答え解るだけでも凄いのに、14日だから1と4足して5番の私に当たるのまで読んで絶妙なタイミングでメールするの凄いんだけど……うん、何かちょっと……臣くんを自慢したくなって来た……って、いやそれマズイし……やだ、私何考えてんの? でも……だからダメだし! 特に私が言っちゃったら駄目レベルだし……いや〜、どうしよう〜、ああ、もー)

「……あてずっぽう。分からないから知ってる事言ったら当たっちゃったの……」

「えー? そうなんだ」

「マジなら、神ってるわ〜」

「ウケる」

それ以上何も引き出せないのを感じたのか、つまらなさそうにして女子たちは定位置に戻っていく。

無理矢理絞り出した答えで、話題から逸れホッとする流衣だが。

——臣くん、ごめんなさい……

声に出さないように気を付けて心の中で懺悔してしまうのだった。


 11月の日曜日、Sスタジオで発表会に向けての初めての練習会が行われる。『眠れる森の美女』に出演するメンバーの過半数とゲスト参加する三教室の代表的な面々、更に見学者まで参加してなかなかの大人数となり騒がしくなっていた。それと言うのも〈秋山仁〉がこの練習会に顔出しするという事が露出してしまった為、それを見る為に出演者も見学者も集まってしまったのだ。

「誰だ情報漏らしたの?」

スタッフルームと化した小会議室で金田の眉間に皺がよる。

「スタッフは口止めされてましたよね?」

スタッフのひとり、いつもレオタードの上に三角フリンジショール巻きスタイルが定番な橋本加奈〈クラシック教師〉は他人事みたいな口調で言った。

「なんかブログに載せてたみたいですよ、うちのクラスの子たちがはしゃいで言ってました」

同じくスタッフのクラシック教師、謎のレース&ヒモ使いレオタードの古川きよみ(上級者担当)が呆れたようにで言った。肌寒い日だがまだ暖房全開ではなく、皆それぞれ上着を羽織ってる。

(やっぱりあいつか……)

そう思った金田の視線の先に居るのは〈秋山仁〉だった。昨日所属するバレエ団の仙台公演の為に来仙し、数時間の空き時間を利用して顔を出したのだ。

秋山は、最近手に入れたスマートフォンを楽しそうにいじっていた。

「あ、金田先輩。先輩はフェイスブックってやってました?」

スマホから目を離さずに金田に聞く秋山。

「フェイスブック?」

金田は何のことだか分からなかった。

「ブログみたいなもんなんですけどね、スマホからでも出来てスッゴ便利なんすよー。ブログと連携も出来るし、写真のアップもめっちゃ簡単なんで、いー感じでフォロワー増えてってるし、超絶に宣伝効果ありですよ」

秋山は意気揚々と喋ってるが、ガラケーオンリーの金田から見ると「それがどうした⁈」と思えた、しかもよくみたらスマホで何かを見てるのではなくて、自分を写しながら顔の角度を満遍なくチェックしてる。金田はため息を吐いた。

「秋山、プライベートにブログとかやるのは良いけど、最近練習が疎かになってないか?」

「やだなぁ先輩。そんな事無いですよ、自分ちゃんと練習してますから。ブログは日記だと思ってるんで、寝る前にチャチャっとやってるだけですよ?」

ナルシストは注意されるのがお嫌いのようで、金田の言葉にしっかりと言い訳した。

「そうか? この前のガラコンサートの〈ソロル〉のカプリオールの脚、止まって無かったけどな」

男性に多い〈パ〉の空中で脚を打つカプリオール。男性のジャンプの見せ所は空中でシッカリと届まる事である。

「あれ先輩、舞台見てくれたんですか? 悪い所見られちゃったなぁ、そうなんですよ、あの時ちょっと調子が悪くって、ほんっとにあの時だけなんですよー」

言い訳を重ねる後輩に、室内に居る女性スタッフ達に視線を合わせ、『本当にそうか?』と暗に答えを求めるが、二人からは『さあ?』という表情しか読み取れなかった。

「まあ、この前の舞台は兎も角、ブログとやらであまり余計な事書かないでくれよ、そのおかげで今日なんか野次馬が多くて、練習に集中出来なくて困るだろ?」

「そうかなぁ、評判になって凄く良いと思ったんですけど。それに斎田社長には良い宣伝になるって喜んで貰えましたから」

秋山は悪びれる事なく、情報を公開した事を認めた。

「あのっ……」オバはん余計な事を〜!

金田はギリギリの所で言葉を飲んだ。まったく自己中が集まると手に負えない。言いたいことは山程あるが、こうなっては仕方が無い。

「今日は顔合わせだけだけど、発表会はパ・ドゥ・ドゥがメインなんだから、しっかりサポートしてくれよ」

「分かってますよ。全然大丈夫です。まったく心配症だなあ先輩」

余裕綽々の笑顔を向けられるが、金田は不安のかたまりである。


 Sスタジオのレッスンが始まると、流石に野次馬達は部屋の外に出された。そしてまだレッスンの時間にならない生徒達は、レッスン室前のホールともいえる広い廊下で各々のアップをし始めた。

「まだかな〜」

廊下で陽菜はソワソワしていた。

「いっその事、控室まで行ってみたら?」

美沙希は陽菜を促した。今日は『眠り〜』の〈精霊〉達が集まるというので、美沙希も練習に参加する事にしたのだ。陽菜は顔合わせの為に来たのはいいが、〈秋山仁〉に会える嬉しさで浮き足立っていた。

「え〜やだ、恥ずかしい! 美沙希ちゃんなんて事言うの?」

陽菜は美沙希の腕を掴んで、揺りながら言った。

「なんて事って……会いたいから〈顔合わせ〉に来たんでしょ? 恥ずかしがってないで時間押してるふりして特別に合わせてもらって話してくれば?」

「そんなのムリ〜」

美沙希の言う、一歩踏み出した強気の姿勢が取れない陽菜は、悔し紛れに美沙希を掴んで離さない。揺さぶられながら柔軟する美沙希は少し迷惑そうな顔をしてる。

「そんなに好きなの?」

「だって踊り上手いし〜、カッコいいもん」

「そうかなぁ、まあ、ローザンヌのファイナリストだし、踊りは良いけど……そんなにカッコいい?」

「松潤に似ててカッコいいじゃん!」

「似てる? かな、うん……まぁ、2割くらい?」

「ええっ、美沙希ちゃんどんな目してんの? 半分くらいは似てるじゃん!」

「半分ならほぼ別人だと思うけど……。どっちにかっていうと忍成修吾おしなりしゅうごに似てない?」

「忍成……? それ誰?」

「ライアーゲームに出てた暗いホストっぽいイケメン」

(それと寺門ジモンを3割入れてシャッフルした後、松潤の髪型被せた感じ……) と声に出さずに思った美沙希。

「ライアーゲーム? ……あ、そう言えば池沢って人居た! 似てるかも〜。でも美沙希ちゃん、そーゆードラマ見るんだ……なんか意外」

陽菜は役名しか覚えてなかった。

「松田翔太が好きでそのドラマだけ見てたの。いつもはテレビ見ないけどね」

見る暇がない、が正しい。バレエ教室を掛け持ちして、毎日レッスンしてる美沙希だが、流衣がバイトして忙しくしてるのとは違い、勉強と家の手伝いで忙しい。

「え〜、美沙希、松田翔太が好きなの? そっちの方が意外!」

美沙希達の直ぐ後ろで同じようにアップしていた、Sスタジオの美沙希と同じクラスのユズと千尋。千尋が声を掛けて来た。

「そう? 意外かな……?」

「うん、もっと渋いの好みだと思ってた」

「役所広司とかね」

「言えてる〜!」

「あ、ねえねぇ、それ言ったら金田先生さ、〈関ジャニ〉の丸山くんに似てない?」

「それ! 似てる〜」

180°超えのスプリッツ開脚しながら談笑する上級クラスの生徒達は、先程からレッスン待ちしている生徒達から遠巻きに眺められて、その場所は近寄れない亜空間フィールドが出来上がっていた。

(役所広司は好きだけど……)

美沙希は改めて自分がどうみられているのか気になった。だがそれを考えるより、陽菜が困った顔してるのに気が付いた。

「あ、2人とも、こちら〈ヒノ・アカデミー〉で一緒にやってる陽菜ちゃんなの」

美沙希は陽菜を紹介した。

「おはようございます」

陽菜が2人に挨拶すると、美沙希は陽菜にふたりを紹介する。

「こっちのふたりはSスタジオで5年も同じクラスのユズと千尋ね。千尋は学校も同じなの」

「よろしくね。もしかして秋山仁と〈タランテラ〉踊る子?」

千尋が何か含んだ様な声色で陽菜に問いかけた。

「はい、そうです!」

陽菜が元気に答えた。

「……かわいそ」

ユズが小声で呟いた。

「え?」 

陽菜は聞き取れなかった。

「ユズぴー……?」

美沙希の諌める視線が飛ぶ。ユズは『ごめん』と言った表情でペロっと舌を出した。

「美沙希ちゃん?」 

陽菜は何のことか分からず不安そうに美沙希を見た。美沙希達の会話が腑に落ちない陽菜だが、その時周りがザワザワと騒がしくなり出した。

秋山仁が現れたのである。

あちこちから讃する囁き声が聞こえて来る。その声のする方から秋山の姿が見えると、陽菜は狂喜し、駆け寄ろうとしたが恥ずかしくて足が前に進まなかった。

「あ、いたいた陽菜ちゃん」

日野先生の声で、陽菜は振り返った。

「先生! おはようございます」

陽菜と美沙希は同時に声を出した。

「日野先生、おはようございます」

続いて弓月と千尋も挨拶した。

「おはよう。皆んな早いわねまだ十時過ぎよ。あなた達のレッスン午後からなんでしょう?」

日野は美沙希と仲のいいSスタジオの子達と面識があったので、ためらわずに話しかけた。

予定では、午前中は舞台の午前、午後の部のレッスン。『眠れる森の美女』出演者は午後からになっている。

「家に居るとお母さんの説教くるんで、来ちゃいました〜」

ユズは、『女の子なんだから掃除くらいしなさい』という母のお説教の数々がプレッシャー。

「あら、気合い入ってるのねみんな、張り切りすぎてオーバーワークにならない様にね。さあ陽菜ちゃん、顔合わせ行くわよ」

「はいっ」

はい来た! とばかりの元気なお返事、この時のために今日は来たのだ。完全に目がトリップして、宙に浮いた足取りのまま、秋山仁が消えたレッスン室に日野と一緒に入って行った。

「危なかった……。もう、ふたりとも! 陽菜は仁くんのファンなんだから、夢壊す事言っちゃダメだよ」

美沙希は陽菜の姿が見えなくなった後にいった。

「でも、少しは知っといた方、心構え出来てよくない?」

「いえてる。踊ってる時に後ろから色々言われるとちょっとだよね」

ユズと千尋は去年の発表会で秋山仁と踊ったのだ。その時に踊った子達は一様に〈指導〉されている

「いや、わかるよ? 向こうはプロだし、研究生の私らと踊ってイラつくの、でも練習中ならともかく、本番でまで言う必要なく無い?」

ユズは本番を思い出したのか、嫌悪感をあらわにした。

「そんなに?」

周りからは聞こえて来てたけど、美沙希は秋山と踊った事が無いのでピンとはこなかった。

「あれ、ぜったいっ、わざとだよ」

「本番だと言い返せないから、タチ悪いよねー」

プロでも生徒でも、板に乗ったら基本は笑顔。

「……今日って顔合わせだけなのかな、練習付き合ってくれたりしないかな?」

美沙希は秋山がどんなディスりをするのか体験したくなった。

「ええ? リラはパ・ドゥ・ドゥ無いじゃん」

「王子と絡むとこあるけど、踊りじゃないしな〜」

千尋とユズが考え込んでるのを見て、美沙希も流石にむちゃぶりだと思う。

「やっぱり無理か……」

残念そうに言う美沙希に

「何もわざわざ生贄になりに行く事無いのに、物好きだね美沙希」

「そんなに〈陽菜ちゃん〉の事心配なの? 美沙希もうお母さんみたい」

ふたりはクスクス笑い出した。

「何というか……日野先生のとこ男子いないから、パ・ドゥ・ドゥのとこ踊るのに女子と組んだり、先生と踊ったりするのね、だから男子と踊るチャンスが出来てそれが憧れのダンサーなら嬉しいし、折角なら楽しい思い出の方が良くない?」

と、人生の先輩の発言をする美沙希。

「あーうん、そうだね。私舞台で初めてオーロラのパ・ドゥ・ドゥ組んだの金田先生だったから、緊張はしたけど、ドキドキはしなかったな」

「千尋も? 私フロリナで組んで貰ったな、先生さ、練習中は思いっきりダメ出ししてくるけど、本番はむしろ褒めてくれるから安心感あったな。美沙希もカネちゃんとじゃなかったっけ? 確かキトリ」

「そうだけど、何……私たちってみんな〈初めての相手〉金田先生なの?」

「やだー何それ美沙希の言い方ヤラシー」

「そんなつもりじゃないけど……」

「金田センセーってば〈初物食い〉〜食い散らかしてるう〜」

「いや待って、それ使い方あってるの?」

「だいじょぶ、ダイジョブ〜」

ユズ、なぜか小島よしおになる。

「でも湾曲してない?」

心配ばかりしてる美沙希。

「逆目で登りに気付かずショートし過ぎて笑いも取れない感じ」

「それは湾曲の意味違い」

「何故ここでゴルフ場グリーンあるある?」

「うちのパパ、会社にゴルフコンペなくて〈ちょっと上手いアマ〉自慢するの家しか無いけど、家族全員にスルーされる残念〈片手シングル〉ゴルファー」

「……そろそろ真面目に練習しよう」

「そだね」

恋愛経験が無さすぎて、女子高の生徒は妄想で脱線するも、脱線先の千尋パパの家庭内自慢が気の毒過ぎて。素に戻ってしまった17歳トリオなのであった。


「〈パキータ〉と〈コッペリア〉の3幕、それに〈タランテラ〉のアダージョとコーダですか」

秋山仁がレッスン室の片隅で金田に渡されたスコア表を見ながら言った。それに頷く斎田社長。斎田が遅刻したので、今ここに来て初めて打ち合わせらしい話し合いになった。

「どうだ、いけそうか?」

金田の問いかけに

「3曲とも3幕の結婚式のシーンに入れるんですか? 続けてはキツイですよ」

秋山は困った顔をする。

「いやまさかそれは無理だろ、いくら男子だって、衣装チェンジもナシじゃファンサービス無さすぎだ」

金田が否定するとすかさず斎田社長が話した。

「だからね、秋山くんには〈パキータ〉と〈コッペリア〉を午後の部で、〈タランテラ〉を『眠り〜』の3幕で踊って欲しいのよ」

さらに穏やかな笑顔で斎田社長は続けた。

「パキータは午後の部の前半、コッペリアは後半。タランテラは長い曲だから結婚式の最後に持っていくのはどう? それなら余裕でソロのパートもいれられるし」

(午後の部と夜の部とを分けて両方で秋山を踊らせて、チケットを売り捌く魂胆丸見え過ぎる……)

取り敢えずほっとこう……と、金田は経営に関しては口を出すのをやめた。

「それなら全然ですよ。タランテラが最後なら大丈夫、問題無しです」

秋山が笑顔に変わると斎田も金田も安心した。そこへ日野達が揃って現れたので、改めて向き直って全員が挨拶したのだが、先生と共にいる生徒達の、秋山を身近に見た嬉しそうな顔とは裏腹な、先生方の冷めた顔色が金田は気になった

 目の前の〈エコール〉〈立花バレエスクール〉〈ヒノ・アカデミー〉の先生達も納得しているのか何も言わずにいる。しかし無表情で視線を泳がせている所作は、なんともいえない気まずさが漂う。

「それで『眠り〜』の3幕には〈エコール〉の浅倉美波さんにはエスメラルダ。〈立花〉の鹿嶋美由紀さんにはキトリをそれぞれソロで出て頂く事になりました」

斎田社長がそう発表すると金田は驚いた。

(打診済み……そりゃ冷めるわ。だからこの反応なのか)

「秋山くんも流石に短時間で3曲踊るのは過酷過ぎるので、『眠り〜』で踊るパ・ドゥ・ドゥは一曲に絞らせて頂きました。本人に相談した所〈タランテラ〉がいいと言うので、その様に決まりました」

思わず金田は斎田社長を凝視した。そして秋山も『え、僕が言いましたっけ?』と言った顔をして驚いている。

——しかし。

「そんな感じなんで、よろしくお願いします」

察したのか、庇ったのか、はたまた同類なのか、秋山は斎田社長に乗った。肝心の秋山にそう言われて、先生方は諦めて納得したようだ。

(この空気感が読めないというか、感じない……このふたりある意味すごいな) 

背筋に悪寒が走りっぱなしの金田は、ふたりの太すぎる神経に〈大人の対応〉と処理することにした。

「今日ここに来てるのはパドゥドゥで組む子達なので、秋山くんよろしくお願いしますね」

斎田は挨拶を促した。すると待ち構えていた様に女の子達は笑顔になったので、空気が少し変わりようやく場が和んだ。この挨拶までの時間を陽菜はドキドキで待ち、ようやくその瞬間が来た。

「秋山仁です」

「よろしくお願いします!」

3人の女子達が同時に頭を下げた。

「じゃ、僕は新幹線の時間があるのでこれで失礼します。当日はよろしく」

と言って秋山は撤収し始めた。

3人の女子は(え?)と思った、ひとりずつ自己紹介するんじゃ無いの? 陽菜もそう思ったが、秋山は早々に帰り支度を整え扉から出て行こうとした。

「秋山くん、今日の夜に東京で公演あるものね、私は見送りして来ますので、皆様失礼します」

斎田はそういうと秋山について出て行った。

残された一同は呆気に取られた。

「すみませんみなさん、秋山の奴は忙しくて……」

こちら側で取り残された金田が、必死で取り繕うとすると日野が笑い出した。

「大丈夫よ、金田先生」

日野が言うと続けて

「慣れちゃったわねえ」

立花が言う。先生方の落ち着いた対応で安心した金田だったが、同時に見抜かれて気恥ずかしくなった。

先生達が話を続ける中、陽菜は美沙希のセリフを思い出した。

『折角なんだから、話して来れば?』

(自分の名前言うくらいならいいよね)

恥ずかしいけど、ここは勇気を出すことにした陽菜は、秋山達の後を追って行こうと向きを変えた。

「あら陽菜ちゃんどこ行くの?」

気が付いた日野が声をかけた。

「折角なんで挨拶してきます」

と言って小走りに部屋を出るのを見ると、先生達の後ろにいた他のふたりもお互い顔を見合わせて。

「私たちも行ってきます!」

と追いかけて行った。

「まあ、そうよね。みんな自己紹介するつもりで来てるんだし、あれじゃ消化不良よね」

江刺が付けたし、先生達は皆頷いた。

 秋山を追いかけて外まで出ると、入り口でタクシーを待つ秋山と斎田社長を見つけそばまで駆け寄った。

「あのっ、すみません!」

陽菜の呼び掛けに振り向く秋山と斎田は、息を弾ませて目の前に立つ子と、そのすぐ後ろに追いついて来ていたふたりの女子が何者かはすぐに分かったようだった。

「あら」

何しに来たの? と暗に含んだ斎田社長の一言に、夢中でここまで来た陽菜の心が折れかかり、恥ずかしさが舞い戻って来て言葉に詰まった。

「あの、私パキータを踊る仙道光といいます」

「私はコッペリアを一緒に踊らせてもらう水原優希です」

もたもたしてたら後から来た子達に先に挨拶されてしまい、陽菜は益々固まってしまった。

そこへタクシーが到着しドアが開き、斎田は手をやって乗るように合図した。

「そうなんだ、で、もしや君がタランテラ?」

少し行きかけると秋山が黙ったままの陽菜をマジマジと見つめた後、問いかけた。陽菜の顔がパッと明るくなった。

「はい! タランテラを踊らせてもらう河合陽菜です!」

「そっかぁ、良かったよタランテラで、長くて大変だけど、リフト無いもんね」

秋山は爽やかな顔で何気なく言った。

(……え?)

「秋山くん早く乗って、時間よ」

斎田社長に再度促された。

「今日は忙しくて合わせる時間なくてごめんねみんな、当日は慌ただしいだろうけどよろしくね」

「よろしくお願いします!」

3人の女の子達は少し声を張って言うと、彼女たちにに笑顔を残してタクシーに乗り込み去って行った。

(今の……どういう意味だろ……)

「仁君と喋っちゃった〜」

「優しいよね。良かった」

喜んでる二人を尻目に。

(……リフトが無くて良かった……って、私が重い……太ってるってこと……?)

陽菜の表情は暗くなっていった。


 同日のその時間、ヒノ・アカデミーの発表会出演者は解放されたスタジオに各々自主トレに来ていた。当たり前の様に一番乗りの流衣は、Sスタジオに向かう日野から留守居を頼まれて、香緒里先生が来るまで訪れる生徒の対応をしていた。昼前10人足らずの中、流衣と同クラスの生徒は光莉しかおらずふたりで静かに練習していると、少しずつ人が増えて20人を越すとだいぶ賑やかになって来た。

「今日はみっちゃん達来ないのかな?」

水分補給の為にふたりは荷物のある端により、光莉が流衣に話しかけた。

「柚茉ちゃんは午後から来るって言ってた、みっちゃんは用があって、ひょっとしたら夕方になるかもって言ってた」

流衣が答えた。

「じゃあまたまだ来ないね」

光莉が喋りながら時計を見た。11時23分。

「ねぇ流衣ちゃん。ちょっと早いけどお昼にしない?」

「そうだね。香緒里先生も来たし、人も増えたからゆっくりお昼しよう」

うなづきあって休憩することにした。

 天気も良いのでふたり近くの公園でお弁当を食べるために外に出た。11月、日中はまだ寒さは感じない。

「光莉ちゃんのお弁当キレイ……美味しそう」

流衣は公園の東屋のベンチに光莉と横並びに腰掛け、光莉の膝の上で広げたお弁当を見て声を上げてしまった。その中身はそぼろご飯に茹でたササミと色とりどりの温野菜が手作り棒棒鶏ソースで和えてあり、チーズインした竹輪の輪切りとプチトマトが添えられた、カロリー控えめなバレエダンサー仕様の女子高生らしいお弁当だった。それに引き換え流衣は自作おにぎり。

「流衣ちゃんはやっぱりおにぎりなんだね」

「うんそう。でも今日は朝に時間あったからシャケ焼いたの、だからいつもより豪華なの〜えへへっ」

朝ご飯も、ご飯に味噌汁に納豆に焼き鮭(鮭を残しておにぎりにイン)をゆっくり食べたのでご機嫌な流衣。

「自分でやってるでしょう? 偉いなぁ流衣ちゃん」

「そんな事ないよ、凝ったものとか出来ないもん、鮭焼くだけだし、納豆は冷蔵庫から出すだけだよ? 全然えらくないよ」

「朝一人で起きるだけで凄いよ、私なんかママに起こしてもらわないと起きれないもん」

「……」

それは家庭環境の違いで、流衣は何ともいえなかった。基本的に朝早い農家の娘は、自分で起きないと起こしてくれる人がいない、親は6時には畑に出ている。

「……陽菜ちゃん、もう〈仁君〉に会ってるかな」

ちょっと話題を変えてみた流衣。

「そうだね、きっとウッキウキだね。今頃は目からキラキラビームだしてるよきっと」

想像するだけで、愉快な笑い声を出してしまうふたり。

「流衣ちゃん後悔してない?」

「え? 何を?」

急に光莉が切なそうに聞いて来て流衣は驚いて答えた。

「だって、シンデレラ選んでたら、流衣ちゃんだって仁君と踊れたのに……」

流衣はドキリとしたが、本当の理由はとても言いづらい。

(まさか、パートナー料払えないから無理とか、終わってからの挨拶が嫌とかそんな情けない理由……なんか気まずい)

「全然全然っ、だって仁君好みじゃ無いし! これが〈マチュー・ガニオ〉なら絶対譲らないけど」

「やーん、流衣ちゃん、世界レベルのイケメン出したら駄目だよ〜。それ反則級」

「おフランスのイケメンでパリ・オペラ座のエトワールと踊る為には、悪魔と神様どっちにお願いすれば叶うと思う?」

「雰囲気的に悪魔かな。どっちにしても命懸けしないと無理かも、もう命が九つ欲しいね」

「それなら狐に生まれ変わるしか無いかなぁ」

「コンコンコン……。ところで流衣ちゃん今年オペラ座にイケメン入団したの知ってる?」

「え、知らない、なんてひと? 」

「〈ユーゴ・マルシャン〉と〈ジェルマン・ルーヴェ〉っていう二人なの。二人とも18才でタイプ違うけどどっちも絵に描いたような貴公子様!」

「や〜ん! みた〜いっ!」

「〈ダンスジャーナル〉に載ってた」

「ホント? いつの?」

「今月号。確か事務所に置いてあったよ」

「今月号って、出るの月末だからもう2週間も前⁈ うそっまだ見てない〜」

教室にいる時間が長く、いつも真っ先に見てたのに今月は発売日すら忘れて、気付かなかったと悔しがって地団駄する流衣。

「それどころじゃなかったんでしょ〜、流衣ちゃん忙しいもんね」

「うーん、レッスン時間が増えたし、バイトも増やしちゃったから……」

「そんなにバイトして……大丈夫?」

「うん多分。来年の1月迄のバイト代計算すると、ローザンヌの費用は何とかなるから」

光莉が聞いたのは、レッスンの方が疎かにならないのかの心配だった。けれど流衣の答えは費用の方。

「ローザンヌの費用……って、流衣ちゃん? まさかバイト代でその費用全部まかなうの⁈」

「そうなんだけど。ただ、コンテンポラリーのレッスン費用が出なくて、そこはもう……しょうがないかな」

今さら発表会を辞退したところで、レッスン代も往復の交通費にも足りない。

「……コンテのレッスンは受けた方がいいんでしょう?」

「金田先生にも東京の先生紹介するから行っておいでって言われたんだけど、そうするとバイト増やさないと間に合わないから、ちょっと無理みたい……」

「ねぇ流衣ちゃん。学校しばらく休めないの? 発表会終わったら……せめて1月だけでも休学して、集中してレッスンすると違くない?」

「あーうん。でもそれは……お母さんが許してくれない……と思う」

ハッキリきいた訳ではないが、学校休んでまでやるくらいなら、バレエは辞めなさいと言われる。絶対言われる。

「……ねぇ流衣ちゃん、お母さん、ローザンヌに行く事なんて言ってるの?」

 長く同じ教室にいれば、レッスンで一緒の生徒たちは親たちも生徒達も大体顔見知りになる。しかし流衣の母親を見たことがない、それは光莉だけではなく皆同じく流衣の親を見たことがない。母親達が「あの子の親は何故来ないの?」と噂してるのも聞いたことがあった。金銭面で苦労してるのは分かってたし、親達の会話に関してはなるべく気にしない様にしてたけど、国際コンクールとなれば話は別で光莉はそこを聞いてみたかった。光莉に言われて、少し返事を躊躇した流衣。

 今回の〈ローザンヌ出場〉に流衣は期待した。なんと言っても国際コンクールである。いくら娘が遊びでやってると思ってたとしても、映えある国際コンクールに出場出来るほどの実力があると解れば、褒めてくれるのではないかと……流衣は希望を持って母に話した。

「『勝手にしなさい』って……」

その結果は流衣の期待を見事に外した。

「それだけ⁈」

「んー……うん。お母さんバレエ興味無いから」

予想はしていた事で驚きはなく、むしろいつも通りの反応だったと思い出して、期待した自分が恥ずかしいと照れ笑いで誤魔化すが、光莉にはショックだった。

(……だって……そんな……国際コンクールに出るのに! いくらバレエに興味なくたって、お金も出してくれなくて、応援もしてくれないなんて……ひどい……)

光莉は流衣の母親をなじりたくなったが、そうすると逆に流衣が可哀想に思えて、やめた。

(……偉いな、流衣ちゃん。私だったら、ママが手伝ってくれなかったら絶対出来ない。学校行ってバイトしてなんて……無理)

 けれど今ここで流衣の母親の悪口を言ったら、板挟みになってきっと流衣が傷つくと思った光莉は、流衣を尊敬する事で心を収めた。

 ひとしきり喋ったふたりは喉が渇き、持っていた水を飲むと落ち着いて、互い顔を見合わせて笑った、そして食事中だった事を思い出したのか、再びご飯を食べ出した。

「オペラ座……どんな世界なんだろう、見てみたい」

あの場所で同じ空気を吸ってみたい。未知の世界に憧れと尊敬の意を馳せる流衣。

「オペラ座かあ、夢の世界だね」

光莉も負けずにバレエの世界最高峰に思いを馳せる

「……あれ?」

「どしたの?」

「私……ひょっとしたら声に出した?」

いつもの無意識な独り言。

「うん、オペラ座見たいって言ったよ?」

光莉は何も気にしてなかった。

「えーやだ、ごめんなさいっ!」

「何で謝るの?」

「だってこれ……」

流衣はおもむろに両手を上げた。左手におにぎり、右手に魚肉ソーセージ。

「この状態で〈パリオペラ座〉とか言っちゃダメくない⁈」

その姿が滑稽で、光莉はぷっと笑った。

「流衣ちゃんったら、も〜」

「何か、両手にさつまいも持って、ベルサイユ宮殿を見学しようとしてるおサルさんみたいだよね」

そのとぼけた揶揄に光莉は笑いが止まらなくなった。

「やっ、やめて流衣ちゃんっ、何でお猿さんなの〜」

「パリで手に入るのさつまいもかと思って……」

そしたら自然に温泉猿が頭に浮かんだ。

「何で〜⁈ パリならクロワッサンとカフェオレにして」

何故芋が出てくるのか不思議な光莉。

「あ、ごめんフランスにあるの長芋だった」

「えっ、長芋あるの?」

そっちの方が意外で笑いが止まる光莉。

「うん、農協さんが言ってた。光莉ちゃん、クロワッサンってなに?」

「え?」

クロワッサンを知らない事に驚く光莉。

「え?」

驚かれた事に驚く流衣。

「パン生地にバターを挟んで、何重にも重ねてクルクル巻いて、三日月形にして焼いたサクサクのパンの事だよ」

「えー美味しそう〜」

「うん、美味しいよ。うち日曜日の朝はパンなんだけど、今日はクロワッサンだったの」

「すご〜いっ、光莉ちゃん家オシャレだね」

「そんな事ないよー。うちのママがパン好きで、近くにパン屋さんがあって、よく買ってくるだけだから」

「出来立てのパン食べれるの? わあ幸せ〜!」

何でも出来立ては美味しい。パン屋さんの前を通ると、パンの焼けるとても香ばしい香りに触発されてお腹が鳴りだすのだが、不適格野菜のリアル〈0円食堂〉の和食100%の家で、パンを買って欲しいと言い出せない子供だった。

「確かに、近くのパン屋さんがミニコミ誌のパン特集の常連さんだったのは幸せかも」

バケット、カンパーニュが話題お店。

「良いね、光莉ちゃん」

オペラ座はせめてパンを片手に語らないとサマにならないと思う流衣。それなのに自分はおにぎりだし相方は魚肉。

「私……魚肉ソーセージどころじゃなくて、今まで夏は〈きゅうりの一本漬け〉だったし」

「そういえば、去年までよく食べてたね流衣ちゃん」

畑で取れた規格外のきゅうりは、浅漬け、一夜漬け、古漬けでの順で漬物になる。

「うん。河童になれそうなくらい毎日食べてた」

「え、うそ、きゅうり食べると河童になるの? 河童の食べ物がきゅうりじゃないの?」

「なれないけど本当にそろそろ『キュウ』って鳴くかもしれないと思うほど食べた」

「流衣ちゃん……それはゴマちゃん。一旦落ち着こう」

流衣の〈妄想一人歩き〉にストップをかける光莉。

「あ、そっか、ごめん。長芋の話だっけ?」

「何で長芋⁈ きゅうりでも河童でもなくて(オペラ座〉の話でしょー!」

「……そうだった」

「もう〜、流衣ちゃんったら〜」

呆れつつ笑う光莉。流衣は光莉のお陰で気を取り直して考えた。

「……仁君って5年前のローザンヌのファイナリストだよね……。ローザンヌの事色々聞いてみたいけど、発表会の時に話を聞く暇あるかな?」

(さっき光莉ちゃんが言ってたユーゴなんとか、となんとかルーブル……ルーベンだっっけ? 見てみたいなぁ、スタジオに戻ったら速攻で本探そう)

振付けと違い、人名は一度では頭に入らなかった。

「うーん、でも。発表会当日しか来れないんだとしたら、スキマ時間とかも人に囲まれちゃったりしてて無理かな……。イケメンダンサーなんて滅多に会えないもんね」

しかも自分と組むわけじゃない

(ひとりになるのを見計らってみようかな、いや、それってストーカーかも……ヤバイかな)

「……仁君より、あの人の方がイケメンな気がするけど……」

小さい声でこの前から気になっていたことを、やんわり聞いてみる光莉。

「え〜ほんと? それ誰?」

光莉に見られてたなんて知らない流衣は、また何処かのバレエ団の人の事かと聞き返した。

「この前、流衣ちゃんと一緒に帰ってた男の子」

「——え? ええっ⁈ 」

いきなり異世界に投げ出され、勇者に任命されたかの様に驚いた。

「……見ちゃった」

「なっ、何で? いつ? 光莉ちゃん……」

いつ見られたのか考えても分かるはず無く、ただ焦ってオロオロしてしまう流衣。

「この前の土曜日ね、流衣ちゃんが帰った後、日野先生が流衣ちゃんに用があるって言ったから、一緒に追いかけたの、そしたら……」

流衣が一臣と話してるのを目撃したあの場面を思い出して、流衣が見上げるほど背の高い男子は、夜とはいえど車の通りが多い市道の明るさで浮かぶ顔はとても端正だった

「そつ、それ先々週の事? 嘘っ、先生まで⁈」

「流衣ちゃん……何でそんなに動揺してるの? あのひと彼氏なの?」

光莉から疑惑の目を向けられる。

「かれ——ちがっ、まさか! 私が勝手に……」

「勝手に?」

「……好きなだけで……」

真っ赤になって俯いてそれ以上喋れなくなってる。さっきまで河童とか芋とか言いながら、笑っておちゃらけてた流衣とはまるで別人。恥ずかしがって小さくなってるその姿をみて、見てる光莉の方が照れてしまった。

「バイト帰りに一緒に帰ることになった、って言ってた人?」

光莉が聞くと流衣は静かに頷いた。

「同級生で無口だけど、凄くいい人って言ってたよね」

また流衣は頷いた。

(女の子だと思ってたから変だと思った。道理で無口な訳だよね……男の子なら)

ここでようやく合点がいった光莉だった。

「あの時……流衣ちゃん気を使ってたから、好きな子のこと話してるって思わなかった」

「……うん。あのときはまだ、普通に同級生だと思ってたから、黙って歩くの耐えられ無くて、必死で話しかけてたの……臣くんも何も言わないし、でもそれが楽しくなって来ちゃって」

流衣は観念したのか心の内を話し出した。

「臣くんっていうの?」

「うん。藤本一臣ふじもといおみくん、同じクラスで席も隣りなの」

「名前で呼んでるんだ……それってかなり親しい仲じゃないの?」

「ううん。……親しいって訳じゃないの、ただ名前は……」

一度言葉を切った。猫に驚いたあの夜の事を思い出したら、切なくなって胸が痛んだ。

「……ちょっと頑張った」

はにかんで喋る流衣をみてたら、光莉は自分まで恥ずかしくなって来た。

「送り迎えして貰ってる……んだよね?」

「うん。日曜日以外」

「嘘でしょう⁈ 流衣ちゃんバイト週3って言ってなかった? 日曜以外ってほぼ毎日って事だよね? それついでの域超えてるし、それで親しくないのおかしいよ」

光莉が言った事は最もだと流衣は思った。

「そうなんだけど、他にする事ないから気にするなって言われて……」

そう言ったのはハクだが、一臣にも気を使うのは無駄だと言われてるし、ローザンヌに行くことが決まって金銭的に余裕がない為、悪いと思いつつも流衣は、わざとそれを考えないようにしていた、このままでいたいために。

「それに、なんていうか……ただの友達で……臣くんが私の事好きになることなんか無いし……」

「でも流衣ちゃん、嫌いな子を毎日送迎する男子なんて居る?」

逆に好きでもなきゃこんな事しない、と光莉は思う。そんな光莉の心情は取り置き、流衣は改めて考えてみた。

「えっと、……臣くんは好きとか嫌いの感情がなくて、そのう……私の生活が大変そうに見えて同情してるだけだと思う……」

自分で声に出して答えて、まさしくその通りだと思った。

(臣くんの感情が無いとか、震災でお姉さんを亡くして、学校にいれないとかの話は私がひとに言う話じゃないし、上手く説明もできない。臣くんは多分……私の為に時間を使ってるんじゃなくて、何かを考えなくて済む時間が欲しいんだ……きっと)

——同情—— と言う言葉が出て来て、流衣は落ち着きを取り戻した。

(私……このままじゃいけない。もっとバレエに集中しないと……。臣くんの事は、心の中に仕舞わなくちゃ……)

心を決めると……切なさに拍車がかかった。

「流衣ちゃん、好きになる事ないなんて、そんな事言わないで……」

光莉はまるで流衣の心を読んだかの様な言葉を発した。悲しそうな顔で流衣を見つめる。

「へへっ、大丈夫だよ光莉ちゃん。私、今ねスゴイ楽しいから」

流衣は頑張って笑顔を見せた。

「本当?」

心配そうに見つめる光莉。

「だって、メールすると好きな人が迎えに来てくれるんだよ? 後ろからの横顔見放題だし、バランス崩れたフリして背中につかまってみたりとか出来ちゃう特典付きっ」

悪戯っ子みたいな笑顔で楽しそうに言う流衣に光莉も釣られて笑った。

「わー流衣ちゃん、あざとーい」

「え? これって犯罪かな?」

「あざといの意味ちがくない?」

「貪欲で悪辣という意味では」

「広辞苑クラスの意味じゃなくて女子ログな方で行こう」

「え〜と、せこい? ズルいかな?」

「〈賢い〉にしようよ」

「うん、そうする」

流衣が子供みたいに無邪気に笑ったので光莉も一緒に笑った。


 ハピナ名掛丁商店街は仙台駅からもっとも近い商店街。名掛丁として仙台で親しみのある有名な商店街。その昔——伊達藩には、藩主が勇敢な侍を名指しで選抜する「御名懸組」という一団が存在し、政宗公が城下防衛の重要な拠点に、この〈御名懸組〉の組士達の屋敷を置いた。それは新伝馬町と呼ばれる場所から、東七番町・車町までの場所に広く置いたことから、その一帯を〈名掛丁〉の名称で呼ばれる事になり、それが400年経った今も続いているのである。

 平日の夜、補導員が本格的に動き出す前の時間。名掛丁のアーケード街の一画にあるゲームセンターに、仕事帰りの会社員が無機質にそれぞれの対戦相手に向かってる中、その中に異色を放つの若い女の子達がいた。その二人の女子はひとりは茶髪、一人は髪の途中からエクステで色を変えている。ふたりとも雑誌から切り抜いた様なギャルファッションでその場だけやたら賑やかだった。

「あ、勝った」

片方のギャルが無感想な声を出した。女子相手では勝負にならない格ゲー趣味のエクステ女子。

「やっばいよ〜、あゆみ強すぎだって〜」

相手のギャルはゲーム好きだが得意ではないらしい。

「指痛いから休憩するわ」

エクステ女子はそう言って陣取っていたゲーム機の前からハケて、ジュースの自販機の前に移動する。

「痛いに決まってんじゃん、あたしくる前からやってんだもん、何時間やってたの?」

「1時間もやってないよ、んな金もねーし」

学校終わってから速攻で駅のトイレで着替えて、その後ダラダラとブラついて、このゲーセンまで辿り着いたときは6時過ぎてた、他校の友達に連絡やり取りして合流する約束してからゲームし始めた。

「金欠〜? ヤバいじゃん、あの大人彼氏にどしたの? 会うとお小遣いくれるつってたじゃん?」

ちょっと小気味そうに笑い、色抜けしてパサついた髪の毛をいじった。

「敦弘君、北海道に転勤になったから別れた」

取り扱い説明書を読んでるみたいに言うあゆみ。

「え、マジ?」

「マジ」

「あ、クミからメール来た。304に居るってさ」

携帯を見ながら話す。カラオケに先に入ってるというダチ連絡だった。

「先行ってて、あたしこれ飲んだら行くわ。あの店持ち込み見つかるとメンドイからさ」

飲み掛けのジュースを軽く持ち上げて示した。

「分かった、じゃな〜」

「またあとな〜」

と言って誰も座らないクソゲー前の椅子にダルそうに腰掛け、炭酸なんて買うんじゃなかったと後悔しながら、半分以上残ってるジュースをチビチビと飲む。

「よお、あゆみじゃね?」

話しかけられて顔を上げてゲッと思った。

「マサ……なんかよう?」

「んだよ、久々に会ったってのに機嫌わり〜な」

あんたに会ったからだよ。とあゆみは思った。同中の元クラスメイトなだけで、ダチでもない。ただ、同じようなヤサグレ同士で行動範囲が似てる為に、たまたま会ってしまうのが迷惑な腐れ縁。

「あんたこそ、ここで何してんの? 大樹は?」

いつも連んでる仲間の大樹もクラスメイトだった

「何で大樹が出てくんだよ、お前、大樹好きなのかよ」

「あんたバカじゃないの?」

(あんたの話を逸らしたいだけだっつーの!)あゆみはマサを睨みつけた。

「んだよバカって」

明らかにムッとした顔のマサを見て、ヤバいマジか……。とあゆみは言葉を選ばないと喋れない相手から早く離れようと、残った炭酸をゲップが出ないよう抑えながら一気飲みした。

「これからどっか行かねぇ?」

「無理〜! あたしはこれから友達と待ち合わせだから」

あゆみは空になったペットボトルをゴミ箱に放り投げると、外に出ようとした。

「どうせおまえらが行くのカラオケだろ? それよりオレらと行かねぇかっての」

マサは目の前を通り過ぎようとしたあゆみの腕を掴んだ。

「ちょっと何よ! オレらって誰よ!」

どうせカラオケと言われたのも腹だだしいが、気安く腕を掴まれたのはもっとイラつく。

「圭太って高校のダチ、もうすぐ来っから三人でよ」

「だから、予定があるって言ってんでしょ⁈」

(どーゆー神経してんのこいつ!)あゆみは思いっきり腕を振り解いた。

「おまえさー、彼氏と別れて寂しいんだろ?」

マサはニヤけて肩をすくめた。

「……何それ、誰に聞いたの?」

「おまえが男切らして我慢出来るわきゃねーべ?」

「はあ? あんたさ、あたしの話しに答えなよ」

「だから慰めてやるって」

「ふざけんな、あんた好みじゃないからお断り」

あゆみはあっさりと断り、軽蔑の眼差しを浮かべた。そんな女をマサは真っ直ぐ見て笑った。

「何気取ってんだよ、中学の時から次々と男変えてるヤリマンじゃんかよ。男切らさねぇ自慢で女共から嫌われてんだろ」

侮辱する言葉を掛けられたうえに情報原まで知らされて、あゆみは怒りが湧いた。

(何なのこいつ……誰と付き合おうとあたしの勝手じゃん! なんでこんな奴にそこまで言われなきゃ何ないのよ、マジでムカつく!)

「ハンパ者のくせに……」

「ああ⁈」

馬鹿にしたものの言い方にマサは笑うのをやめた。

「……あんた、走り屋連中を怒らせて制裁喰らったんだってね」

今まで怒らせないように抑えてたものが一気に溢れだした。

「——んだと⁈」

「〈ブラック・イーグル〉の元ヘッドの裏拳食らって、みんなの前でぶっ倒れたってもっぱらの噂なんだけど?」

マサはあの時の光景が蘇り、目が虚ろになった。

「自分らでちょっかいかけた癖に、その相手にやられた挙句に嘘ついて、先輩にチクったのバレてみんなから相手にされなくなってんのあんたじゃん? 大体、ちょっかいかけたパンピーにもやられたのマジダセェ」

「てめえ何も知らねえくせに……見てきたような事言いやがって」

頭に来て余計な事言い過ぎたあゆみは、マサを完全に怒らせた。

「来やがれ!」

腕を掴んで引っ張られた。

「痛い! 何これ、離せ!」

「うるせえ!」

力ずくで引っ張られて、かなりまずいと思った。

「はなせ! ざけんな馬鹿マサ!」

これだけ騒いでもゲーセン内は静かだった。ガラの悪い奴らの騒ぎを皆遠巻きに見ているだけ。

「黙れよ、痛い目てぇんかよ」

「ちょっとやめてよ! もうっ、本当に離してったら!」

あゆみは逃れたくて必死にもがいた。

「離したら?」

店の外から声が聞こえた。クレーンゲームとプリクラが立ち並ぶ店の入り口は、機械の数が多くて狭い。境界線が曖昧でいつの間にか店から出ていた。

「あ⁈」

ゲーム機のガラス越しに立つ男を見てマサは凍り付くように立ち尽くした。泣き黒子の男が目の前にいる、声を発したのもそいつだ。以前見た悪夢の続きのようだ。

「テメ……関係ねぇだろ」

咄嗟に視線を外し、虚勢を張ったがチグハグだった。一方であゆみは自分らを見下ろしている目の前の男子が、先程の話題のパンピーだとは知らずに、思わぬ助太刀にその男に釘付けになった。

 一臣はふたりを交互に見たあと、女の方に視線を動かし目線を合わせた。

「彼氏?」

そう聞くと女はハッとして

「まさか! 誰がこんな奴」

慌てて否定した。

「どっちにしろ犯罪だから、離したほうがよくない?」

視線だけを男に向け一臣は諭した。

「……」

マサは黙ったままあゆみの腕を掴んでる手を緩めた。

「もう!」

掴まれてた腕の力が抜けた瞬間にあゆみは急いでマサを振り払い、汚い物を見る目つきでマサを睨みつけた。だが、マサはもうそれどころではなかった。一臣を見た瞬間から、足が小刻みに震え呼吸も荒くなり背中に冷や汗がつたう……。

「おまえ、ダチ待ってんだろ、……行けよ」

あゆみを見ずに言った。マサは今の状態がバレないよう取り繕うのに必死だった。声が少し上ずった。

「は? あんた何言ってんの?」

さっきまで行くの止めてたのに、マサの態度の変わりようが何故か分からないあゆみはただ驚く。

「気が変わらないうちに行ったほうがいい」

一臣は軽く顔を動かして、この場から立ち去るように誘導する。

「えっ……」

あゆみは戸惑ったが、マサから離れる機会とばかりに、後ろ髪引かれながらその場を小走りに立ち去った。

「……なに見てんだよ……」

女の姿が見えなくなると、マサは口を開いた。

「別に」

無意味に眺めていた一臣は無表情で答えた。

「言いてえ事あんなら言えよ」

どうせ、女相手にしか虚勢を張れない小者だと思ってるに違いない……とマサは思った。あの時の夜が蘇る……顔から滴る血と、身体中に浴びたコーラのベタベタとした気持ちの悪さが纏わり付く感覚。

——気持ち悪い……それだ。

「何も」

言いたいことなど一臣にはなかった。

——何もないって何だよ、それが気持ち悪いってんだよ、こいつ……怖ぇ……。

 感情の無い人間に接したことの無いマサは、その人としての普通にあるはずのものがない、その読み取れない感覚が恐怖と化して伝わり身体を硬直させていた。あの夜、壁に押し付けられ出来た傷痕がズキズキと痛み出す。

 おもむろに、一臣は何かに気がつき、その恐怖で固まったマサから顔を逸らすと、最初の声をかける前に店舗前に置いた自転車に戻り、ゆっくりとした動作で乗り走り出した。マサはその姿を凝視し、乾ききった口中に一気に上がって来た唾液をひたすら飲み込んだ。


 何もしてこない……。大勢のまえではあれほど騒いでいた男が、一臣が自転車に乗り、その場を離れても何もアクションを起こさなかった。背中を見せた瞬間に何か仕掛けてくるのではと、わざとゆっくり動いたのに何もなかった。

 さっきポケットの中で感じたメールの着信、時間的に誰からのものかは見なくても分かる。改めて確認するとやはり流衣からのレッスン終了の連絡だった。

 流衣を送迎するようになってからひと月、以前とは大分生活スタイルが変わった。行動範囲が制限される為に、人に絡まれることは無くなった。さっき久しぶりにイカれた視線で見られて思い出した、団地に逃げ込んだあの男を追いかけた夜。

〈気に食わない〉というキーワードが意味の無いことだと理解した日だった。

イカれた視線……挑むような、蔑むような、突き刺すような絡みつく視線と、驚きと恐怖が含まれた、おぞましい物を見る視線。それを浴び続けた半年間の答えが〈意味は無い〉

……不毛だ。

たとえイカれた視線で無くても〈変な奴〉と奇異と呆れた視線で見られる、主に学校でそう見られてるし、ハクやセキでさえ〈おかしな奴〉と一線を引かれてる。

……でもあいつだけは違う……。

 ハクにあいつを送れと言われた時、どうせ長くは続かないと思った。昔から、興味のないことに賛同出来るほどの社交性が無かったから、同級生も先輩達も先生でさえも、俺の圧に耐えられずに離れて遠回しに観ている、それが日常の風景。

感情が無くなってさらに圧力拍車が掛かった自分に、女子なら尚のこと耐えられるはずがない。

それが普通じゃ無かった。

 家までの道のりに何故かやたら喋る。バレエに関係する話をするときもある、けど俺が退屈だろうの判断なのか、ほとんど昔に見た映画の話をする。いつも楽しそうに身振り手振り付きで話す……返事はいらないらしい。

 ある時話し始めたのが、疎遠になっていた三兄弟が父親に会いに行く為に、車で大陸横断する昔のアメリカ映画の話だった。話を聞いてる内に自分もその映画を見たことがある事に気が付いた。性格の違う三人が喧嘩しながら実家を目指して、家に着く頃にはお互いを認め合う、ありふれた80年代のB級アメリカ映画。話を聞いていくと、自分の記憶にある部分とズレてるが、訂正するほどの内容の濃い映画でも無い、黙って聞いていると、いよいよ再会の場面、余命数ヶ月の父親が『お前達が仲良くしてる所を見れたのがなにより嬉しい』のセリフまでたどり着いた。……確か喋ったのは母親で、父親は黙って長男を抱きしめた気がするけど、そこは記憶があやふやでどうでもいい。1年生の時、学校から帰ってくると、母親が映画専用チャンネルをつけ乍ら夕飯の準備をしていて、待ってる間に観ただけ、その後食べたカレーの方が鮮明に憶えてる。

「私一人っ子だから、あんなふうに兄弟喧嘩したり仲直りしたり出来るの羨ましくって……」

流衣が自分の感想を話し出すと、言い終わらないうちに失言に気付き、流衣の顔がみるみる青ざめていった。そして一臣の顔を覗き込んでバツ悪そうに謝り始めた。

「あの……ごめんなさい! 私そんなつもりじゃ無くて……その、思い出しちゃったのなら、ごめんなさい……」

反省の色を隠さず謝る流衣を見て、正直な奴だなと一臣は思った。

 そんなに泣きそうな顔しなくてもいいのに……

男兄弟でもなく、歳が離れている姉とは喧嘩なんかした事なかった。

一臣はいつも通りの返事をした。

「……別に」

でも、その言葉とは裏腹に、心に靄のようなものが広がった。姉との思い出が出てこない……。

この時、一臣は自分の中の感情の出てこない以外で、おかしな部分に初めて気がついた。

姉の遺体を見たあの時から……姉の記憶が出てこないことに——


……体育館の入り口で立ちつくしてる自分。


車を降りた瞬間から海の腐臭が纏わりつく


母親の悲鳴が聞こえて来て……


新聞紙が床に敷いてある中を避けながら歩く


——踏んじゃいけない


青い……ブルーシートも床にある。


何十……何百……?


違う……現実じゃない……


これが全部ヒトだなんて


俺はあの朝——


「……ほんとに?」

流衣の声が聞こえて来て一臣は我に帰った。

「あ……。別に」

一臣が真顔だったので、流衣も落ち着いて胸を撫で下ろした。もうアパートの前。

「じゃあ、また明日」

アパートの階段に向いながら流衣が喋る。

一臣はさっきの靄が濃い霧に変わり視界がフェイドアウトした。

……何だこれ……白い、真っ白な中に人影が見える。

……誰か、ハッキリしない……

〈近づくな〉

でも分かる……あのシルエット

……あれは姉の姿。

どす黒い何かが近づいて行くのが見える

〈駄目だ〉

動いてる……

——逃げて

遠くで……違う……うずくまってる

——早く。黒い影が来る

〈見るな〉

姉貴の姿が……泣いてる

——捕まる

〈思い出すな〉

シートが捲れると

そこに——


「藤本くん?」

みぞおち熱くなると同時に霧がいっきに消え、覗き込む流衣が見えた、不安そうな顔で。

いつもの一言が無いので行きかけて一歩戻った流衣。

「……怒ってる?」

「いや」

……何でそんな事を……

一臣の言葉が本心だと流衣にも分かったらしい。苦笑いをしながら言葉を発した。

「……おやすみなさい」

「おやすみ」

いつもの別れの挨拶。流衣は安心して家に向かった。一臣は流衣の後ろ姿を見送る。

みぞおちが痛くなるあの感覚、いつもなら絶対吐いてる……。

……頭の中に響いて来たあの声は何だろう……


 その時から……姉の姿を時々思い出すようになった。

思い出す度にみぞおちが熱くなる、けれどその頃から吐かなくなった。

 流衣からは、他から感じる畏怖の念も、呆れた思念も感じない。近づいて来ても逃げない、エリア内に居るのに俺の領域までは入って来ない、ハクたちとの距離感とも違う……不自然なのに違和感が無いおかしな存在位置。自分に向けられるのは好奇心に満ちた瞳。不思議そうに斜めに覗き込まれる度に、それが何故なのか理由を聞くと、答えは意味不明で脆弱ぜいじゃく、説明に困ると笑って誤魔化す。

……別に変だと思って無いのに、変な奴だと思って欲しいのか、自分のダメエピソードを語り出す、それを肯定すると落ち込むし、否定すると照れて挙動不審になる。

 あれだけ自己肯定感が低いのに卑屈さが無いのは、バレエが得意でそこでバランスを取れてるせいだ。そうでなければ、あの家でおそらく鬱になる。

……あの時のあいつの声。

『お母さん!』

あの悲痛な呼び掛けと扉が冷たく閉まる音……。

後ろから人が来てるのが分かってて扉を閉める、その行動の意味は、他人なら〈拒絶〉子供なら〈悪戯〉家族なら〈無情〉……愛情がない。

だからあいつは家に着くと緊張する。何の抵抗もなく家に入る時は、母親が仕事でいない時だ。

『私のお父さんね、字が読めないの』

出てくるフレーズは、まるで点と点を繋ぐ線を追う様に、隠そうとすればするほど滲み出てくる悲壮感が、あいつの声が……頭から離れない。

 いくら田舎でも貧しくても、男児なら学校に通ってる筈だ、考えられるのは〈学習障害〉国に言えば対応してもらえる。言えないのか、言わないのか。どちらにしろ、俺が把握する事じゃない。分かったのは、あいつには頼る奴が居ないってことだけ。

……比べてしまう。

 俺は……スペインでのラ・マシアの寮生活は日本人は俺一人、言葉が分からない日本人は、現地の練習生達のイジメの格好の餌食だった。ユニフォームを隠されたり、集合場所や時間も嘘だったりと他にも定番の嫌がらせを色々されたけど、スペイン語と英語が飛び交う中、言葉を憶えたことでそれはほぼ解消された。それでも中には話の通じない奴もいた、頑固なドイツ人。試合中しつこく罵って来るから、たまりかねて取っ組み合いの大喧嘩になって、コーチに確保されてコートから放り出されて2人で解決するまで戻るなと言われて、そいつとお互い片言のスペイン語で延々と話し合った結果。勘違いと思い込みでお互い様の痛み分け、それからは普通に話せる様になって、話し合えば解決するものだと思った。スペインでの留学中も日本での普段の生活も、いつもひとりでやってた気になってたけど……違う。お金の事なんか考えた事も無い、恵まれた環境下で常に誰かにお膳立てされた結果なんだ、つまり〈井の中の蛙〉。何のことはない、井戸から出てみれば、大勢の蛙に囲まれていた夜郎自大に過ぎなかった。

 サッカーは……物心ついた頃にはボールを蹴っていたから始めた記憶はない。姉が遊び半分で俺に教え込んだらしいけど、そんな事はどうでもよかった。思った通りにボールをコントロール出来て試合に勝つのは面白かったし、喜ばれたり褒められたりするのは気分が良くて、初めたきっかけは必要無かった。クラブチームとスポ少に登録して、掛け持ちして試合に出ていたら、いつのまにか天才とか言われて騒がれ始めて、気がついたらカンテラ(ラ・マシア)にいた。自分でこうなりたいという理想像を描いたわけじゃない、他にやりたい事がなかった、何もわからなかっただけ……。


「ごめんなさい!」

息を切らして駆け寄って来た流衣の開口一番。

「いいけど」

流衣が『時玄』でバイトを始めてから間も無くの土曜日。二時間以上待たされた一臣は、特に怒るでもなく返事した。

「夢中になって時間忘れちゃったの……本当にごめんなさい……」

「分かったから、乗って」

頭を下げっぱなしの流衣に向かって自転車に乗る様に促す。

「おっせーわ、オマエ折角のバイトチャンスのがすんじゃねーよっ」

「ごめんなさい。すぐやります!」

裏口から店のバックヤードに入ると、いきなりハクに遅刻を怒られた流衣は、制服姿がバレない様に大きめのエプロンを取り付け、こっそりと奥に入り、山になってる洗い物を片付け始めた。土曜日は少しでも早く入って働けばそれだけ多く収入になる。この日いつもより忙しく、あっという間に時間が経ち、流衣は12時の閉店まで働いてしまった。高校生が10時までと言うのはあくまで表向きの理由。

「よっ、ゴクローさん」

洗いものを片手に、頭を屈めて洗い場に入って来たハクに声をかけられた。

「客が引けたから、これ洗い終わったら座って休んでいいぞ」

片付けを終えて、狭い洗い場からエプロンを外しながら出ると、カウンターの後ろの酒類のチェックをしてるハクと、カウンター席でレジ閉めしてるマスターと、ソファ席に座ってる一臣が居た。

「お疲れ、流衣ちゃん。休んで好きなの飲んでいいからね」

今日は売り上げが良くてニコニコのマスター。

「え〜と、牛乳貰っていいですか?」

「牛乳? それよか腹減ってねぇの、なんか食うか?」

ハクの言う通りお腹は空いてた。でももう十二時過ぎてる。

「ううん、牛乳でいい」

流衣は冷蔵庫から牛乳を取り出しコップに注いで戻すと、コップを片手にソファ席の一臣の向いに座った。

「何だよ夜中だから胃もたれすんのか? マスターじゃあるまいし、明日休みなんだからゆっくりすりゃあいいだろ?」

「ハク、ひと言余計だよ」

カチンと来たのかコインカウンターにお金を詰めながら、マスターが静かにたしなめる。

「あーうん、バイトはないけどレッスンは有るから、この時間に食べると体が鈍くなるの」

「明日もレッスンあるんか? マジで毎日じゃね?」

「うんっ。日曜日は自主練なんだけど、発表会があるから練習したくて」

流衣は笑いながら言った。

「なんで楽しそうなんだよ、練習だろ?」

スポーツの練習とは辛く厳しいものだと、ハクは嫌と言う程分かってる。

「楽しいもん、練習。昨日よりちょっと上手くなれた気がして、それだけで嬉しいし」

「はー、オマエそれ〈M〉だわ」

練習が嫌いだったハクは変態だと思ってしまう。

「練習も……。本番はもっと楽しいし」

衣装を着けて本番で踊ってる所を想像したのかニヤつく流衣。

「そんなに好きなのに、こんなにバイトして練習時間削って大丈夫なのかい?」

流衣の事情を認知しきれてないマスターは、心配してそう言った。

「……それはその……万が一ローザンヌに通った時の為に、お金貯めないといけないな……と思って」

流衣が天井を左から角までゆっくり見渡して、視線を軽く上下させて何もない壁を見ながら喋った。

「ローザンヌ?」

ローザンヌは初耳のマスター。

「今のおまえ、ここにお巡り来たら〈職質〉されるほどキョドってるけど、ローザンヌって犯罪者の大会か?」

ルパン主催のイベントかそれとも、とっつぁんの仕掛けた一網打尽の罠か? なんて思ったりするハク。

「スイスで毎年開かれる〈ローザンヌ国際バレエコンクール〉の事なんだけど、一応ビデオ審査に応募しちゃったの」

ローザンヌと言うだけで、腰が引け、足が浮いてしまうほど落ち着かない。

「〈しちゃった〉って、流衣ちゃん何でそんなに卑下するんだい?」

「応募はしたけどレベルが高いから、私なんか通過するわけないんだけど、応募は出来るから、ダメ元で送ってみちゃったの」

「ふーんそうなのか。それ通ると良いね」

マスターは大人として、流衣を笑顔で励ました。しかし、みんなローザンヌのレベルの高さなど分かるはずもなく。〈ダメ元〉と笑顔で言った時の流衣のキリキリした胃の痛みなど知る由もない。

「まーあれだな、コンクールてのは大体アレがあんだろ?」

「アレってなに?」

流衣がハクに聞き返す。

「ほら、アレ。〈チャレンジ枠〉ってのがあんじゃん。『下手だけど気になるから出して見てやっか?』みたいなんがさ、そこに引っかかっかもしれねーから希望捨てんなよ」

ハクなりに励ましてる。

「……ありがとう。……お陰で気が楽になった」

流衣はとっても複雑な顔をハクに向けた。


『楽しいもん……』

牛乳の入ったコップを握りしめて、嬉しそうに喋ってる流衣を正面から見てた。

 面白いとは思ったけど〈楽しい〉なんて思った事があったかな……。俺にとってのサッカーって何だったんだろう……。いま……何も感じない。走りたいとも、ボールを蹴りたいとも思わない。

……俺は姉にサッカーを教わって、いつも褒められてたから好きだと錯覚してたのかもしれない……だから出来なくなった。褒めてくれる人間がいなくなったから出来ないなんて……滑稽だ。

俺は天才じゃない。 

言われた通りに動ける、器用さがあっただけ。

賞賛されるに値しない。

早く……ひとの記憶から、忘れ去られてしまいたい。

 失意と疑問、記憶を手繰り寄せる好奇心。それらは全て感情の一部である。一臣の中で少しずつ感情の波が戻ってきている。しかし、引き換えに思い出される〈震災〉と〈姉の死〉の衝撃が、不透明な大きなスクリーンとなり、そこに誤魔化されて自分の内面に気付けないでいた。


 鏡に向かって〈タランテラ〉のソロパートをひとつづつ確認しながら踊る陽菜がいた。水曜日のレッスンは〈中級〉クラス。この日はカルチャーセンターの大人クラスのレッスンがある日。いつもなら香緒里が受け持っているクラスなのだが、発表会に出演希望者の生徒達が居るので、今日は日野が出向いていた。それで中級クラスは日野に代わって香緒里が受け持っていたのである。中学生が8名、小学六年が2人、+流衣。の11名がフルメンバー。発表会がきまってからは欠席者はない。

 バーレッスン、センターと一通り終わり、全員が発表会に出る為、これからそれぞれの演目に移る。

ショパニアーナが4人、ナポリのパ・ド・シスが3人、ソロであるキューピットを双子が2人で踊る、そしてタランテラ1人。

「10分くらいみんな自分の踊り確認してね。その後で、曲をかけてやりましょう」

香緒里が声をかける。

「はーい」

皆が返事をしてそれぞれ踊り出した。

 流衣は水分補給をしながらふと鏡を見ると、陽菜が鏡の前でやたら細かくチェックして動いてるのが目に入った。

(……陽菜ちゃんどうしたんだろう。さっきから踊ってない)

踊りをチェックしてるのではなく、身体をチェックしてる様な陽菜の動きが気になった。

「チー先生〜、ここうまく出来ない〜」

様子のおかしな陽菜に声をかけようとしたら、六年生の双子のキューピットに呼ばれた。

「キーちゃん、みーちゃん。どこがやりにくいの?」

流衣はそちらに向かった。

「ここでうまく止まれないの」

「どうしても動いちゃう」

ふたり同時に右手人差し指指を頬に当て左手で右手を支え、左脚前アチチュードでポーズする。双子だけあってぶれかたもユニゾンで、微笑ましくてついつい笑ってしまう。

(懐かしい。私がおさらい会でキューピット踊ったのも小学生だったな)

「うん。それはね、顔が早いの。足と一緒に動いちゃってる。一気にポアントに乗って、体の正面で止まってから、顔を舞台の正面に向けてみて。2番で止まってから、顔、1番ね」

流衣はすぐに原因が分かりアドバイスする。舞台の方向には番号が付いていて、1番が舞台正面で客席面、後は時計回りに8番まであり考え方は東西南北と一緒である。

双子は流衣に言われた通りに踊る。

「ほんとだ」

「止まれる」

言ってる事は違うのにタイミングが見事に被る。

「そうそう、二人とも可愛い」

息ぴったりさすが双子。流衣は感心してしまう。

(おさらい会は、市民センターの小ホールでやったんだったな、……小ホールなのに舞台が凄く広くて、走り回って踊ったの良く覚えてる)

できるようになってしかも褒められた双子は、何度もその振りを繰り返し始めた。

「できる〜」

「楽しい」

楽しそうに踊る双子を、流衣も嬉しそうに眺めた。

(だよね。出来る様になると楽しいよね、わかるなぁ。双子ちゃんって凄いな、全然お互い見てないのに完璧におんなじ動きでかわいい……とと、あれれ? 何か違う……あ、頭……? 顎だ)

完璧なユニゾンで繰り返し踊るふたりだが、微妙に顔の向きが違う事に流衣は気が付いた。

「キーちゃん?」

流衣は声を掛けて踊りを止めた。

「はい」

呼ばれてふたり同時に止まった。

「ひょっとしてキーちゃんって左利き?」

流衣の問いかけにふたりは驚きの表情で顔を見合わせた。

「何でわかったの⁈」

ふたり同時の完璧なユニゾンで聞き返した双子の威力で、全員が振り向いた。

「鉛筆とお箸は左だけど、他の事は右でできるようにしてたのに」

「学校以外でバレたの初めて! チー先生すご〜い!」

双子は興奮して交互に喋る。

「やっぱりそうなんだ。顔の向きがね、左につられてる気がして、左利きなのかなぁって思って」

流衣は見たまま思ったままを言うと、ショパニアーナをみてた香緒里が近付いて来た。

「え、なあに? キーちゃん左利きだったの? じゃあ軸足は右だったって事?」

香緒里がキーちゃんに問いかけると、他の子たちも双子の周りに集まって来てしまった。

「みーちゃんは右利きなのに、キーちゃんは左利きなの?」

「双子でもそう言う事あるんだ、面白いね〜」

皆んなが面白がって賛同する中、流衣だけ別のことを考えてた。

「……香緒里先生、このキューピットの踊り、左右対称にしたら変ですか?」

「左右対称って?」

突如飛び出したした流衣の提案に、香緒里は頭を捻った。

「舞台を右と左に分けて思ったらどうかな? って思ったんです。シティホール広いので」

「あーそうね」

「えっ、チー先生、なにそれ? 何で?」

香緒里は同意したが双子はイマイチ理解出来なかったので、流衣に向かって聞いた。

「曲も早いし、舞台も広いから、二人が並んで踊ったとしても、使える部分が真ん中に寄ってしまって、狭い範囲でしか踊れないんじゃないかなって思って。でも舞台を半分と思って対角線上に踊るなら舞台を広く使えるし、ラストのポーズは元通りの位置で決めれば、キーちゃんとみーちゃんなら違和感ないんじゃないかと……」

450席の小ホールで走り回ったのだから、倍以上の1500席の大ホールならば、同じ小学生なら小人のダンスになってしまう。でも、舞台を左右に分けて踊れば広く使えるうえに、双子の二人なら綺麗なユニゾンで左右対称に踊っていっても違和感なく観れると思ったのだ。

 舞台が広く見えるかどうかは、ダンサーの才覚のひとつだとつくづく思う。

「えー面白そう!」

ナポリの女子達が口を揃えて言った。

「うん、確かに、日野先生に相談してみるね」

香緒里は決定権を持たないが、おそらく日野も賛成するだろう、と言いたげな顔付きだ。

「香緒里先生。私たちもそんな感じで出来ませんか?」

ショパニアーナの女子達とナポリの女子達が期待に満ち溢れた目で香緒里を見た。

「何言ってんの、あなた達は人数もいるし、衣装も派手だし、第一に前に出て踊れるじゃ無いの、立ち位置が真ん中からのキューピットと一緒にしちゃダメでしょ!」

キューピットは斜め前に前進する振りの為、始めの位置が少し真ん中に寄っている。さすがにそれは認めません。と香緒里に怒られた中学生一同だった。

「はーい」

ダメか〜、やっぱりね。と分かりきったガッカリ感を出す女子達に、流衣は失笑しそうになったが、鏡の前にポツンといる陽菜が目に入り、いつもと違う様子が気になって近寄って行った。

「陽菜ちゃん。何か元気ないね、どうしたの?」

こんな風にみんなでワイワイ騒ぐと、真っ先に駆けつけるのがいつもの陽菜なのに、今日は静かレッスンしてる。陽菜は鏡越しに流衣を見ると、何かを言いかけてやめた。

「……具合悪いの? 少し休んだほうが良くない?」

顔色は悪くないけど、喋らない陽菜が気になって、流衣は心配する。

「……流衣ちゃん。陽菜……重い?」

陽菜が深刻な顔で聞いてくる。流衣は踊りの事を聞かれたと、サポートした時のことを思い出してしまった。

「えっと、ちょっと……重いかな?」

本当は凄く重かったが、そこは言葉を選んだのだが、陽菜はこれまででワーストワンの通信簿を見たような顔をした。

「そうなの⁈ 陽菜そんなにデブなの⁈」

「なんで? 陽菜ちゃん太ってないよ」

流衣の否定文を聞いて、陽菜は先生の採点間違いを発見したように驚いた。

「嘘だぁ、今、重いって言ったじゃん!」

「うん。重いけど、太ってないよ」

「なにそれ、意味わかんない。重いんだから太ってるって事でしょー?」

「違う違う。重いって、太ってるって意味じゃないよ」

「流衣ちゃ〜んっ……」

意味がわかんなくて涙目の陽菜。

「ねぇ陽菜ちゃん、何でそんなに体重気にしてるの? 今何キロ?」

流衣がさっくりと聞くと陽菜は言いにくそうに

「……45キロ」

「本当?」

陽菜がもじもじしてるのを、誤魔化してると感じた流衣。

「……45・8」

「やだ、陽菜ちゃん。158センチでそれなら痩せてるよ!」

陽菜の誤魔化しが可愛いレベルだったので、流衣は笑った。

確かにバレエ体重だと42キロくらいが一般的なのだが、それは古い考え方で、今は痩せすぎが問題になってるので、陽菜の体重は特に問題ない。

「それで陽菜ちゃん、何で急にそんな事気になったの?」

流衣に聞かれてドキッとする陽菜。

「うん、あの……。仁君が.『リフト無くて良かった』って……」

「え? 仁君が? リフト……他には何て?」

「それだけ」

「それだけ?」

「うん。その後公演があるからって、すぐに行っちゃったから」

「その時って、踊ったの? 仁君と」

「ううん。挨拶しただけ、帰ろうとしたから、追いかけて行ってパ・ドゥ・ドゥを踊る他のふたりの女の子達と一緒に自己紹介したら、『君がタランテラ踊る子? 良かった、リフト無くて』って言われたの」

「そっか……」

流衣は複雑な思いに駆られた。

(その言葉をストレートに取れば、陽菜ちゃんの言う通り〈太ってる〉って意味だと思う、でも例えばプロの男性ダンサーなら、私でさえわかる〈重い〉を一目見て分かるはずだけど……)

サポート役を3年やってきた流衣は、その子の普段の動き方で〈重い〉かどうか分かるようになっていた。しかし秋山はハッキリと〈重い〉とも〈太ってる〉とも言ったわけでもない。それらを加味した上で、秋山仁の人となりを考えた。

(仁君ってどんな人なんだろ、確かめもせずに初対面の女の子に言う事ではないよね。でも、それとは全く別に、単純に自分のことで言ったかもしれない、腰とかどこかを悪くしてたらリフトはキツいだろうし……)

色々と思った後、流衣は陽菜に自分の考えを伝えることにした。

「陽菜ちゃん。これをバーだと思って、いつも通りに1番でプリエしてみて」

そう言って流衣は自分の腕を陽菜の前に差し出した。

「え? うん」

陽菜は言われた通りに流衣の腕に掴まり、一番ポジションになってゆっくりと膝を曲げてからまたゆっくりと伸ばした。

「今のいつも通り?」

「うん」

流衣が聞くと行動のいみがわかないながら素直に答える陽菜。それらの行動を見ていた皆んなは何か面白そうだと注目し始める。

「今のね、凄く重いの」

「え⁈」

陽菜は驚いた。

「今の重いの? でも流衣ちゃんグラついたりしたわけじゃないわよね」

見ていた香緒里も首を捻りながら流衣に質問した。

「いつも先生がバーに頼っちゃいけない、って言ってるでしょ? だから陽菜、いつも力入れないでバーに掴まってるよ?」

「ちょっといい? えーと、キーちゃんこっちに立ってくれる?」

流衣は手招きして双子の一人を呼び、自分の左側に立たせた。陽菜は右側にいる。

「二人とも腕を貸してくれる? バーになったつもりで」

ふたりは言われた通りに腕を差し出す。流衣はみんなをみながらふたりの腕を掴んだ。

「まずこれで1番プリエね」

流衣はゆっくりプリエして戻る。

(……別に重くないけど……)と陽菜は思った。

「もう一回、こんどはこうね」

流衣はふたりを掴んでいた手を一度離し、もう一度触れ、またプリエして戻った。

「あっ……」

キーちゃんと陽菜が同時に声を出した。

「さっきと全然違う! 凄く軽い!」

陽菜が言うと周りの皆んなも驚いた。流衣はにっこりと微笑んだ。

「手は同じなのに、触ってるだけみたいだった、どうして?」

「うん。その通り、触ってるだけ。親指触れてないから」

流衣はキーちゃんの質問に笑顔で答えた。

「親指……」

香緒里がボソっと言うと、他の皆んながザワザワし始めた。

「バーをね、親指で握ってるとね、最初は良いんだけど、どんどん力が入ってきて重くなるの。体重が重いわけじゃ無くて、握る力が強くなると、重く感じるんだ」

「そうなの⁈」

陽菜は初めて流衣の言ってることがわかった。

「よく、バーを頼っちゃダメって言われて、力を入れないようにするでしょう? でもね、バーを掴まるように握ると、自分で気をつけてても意外に力が入っちゃうの、今は一番だけだったけど、続けてるうちにかなり力が入っちゃうから、それを避けるために、親指をバーから少し離して触れるだけにすると逆に力が入らないの」

流衣が説明すると、皆んな自分の手の位置を確認し出して頷き始めた

「そうすると、バーを頼れないし、自分の位置を確認する為にだけある物だって、体の方が覚えてくれるから」

「そっか、自分の苦手な所って、知らず知らずに力が入るから、これなら力が入る瞬間にバーを握りしめるし、自分な苦手とする所がよくわかるかもしれないね」

香緒里がバーを握って確かめながら頷いた。

「バーに頼る踊りしてると、パ・ドゥ・ドゥの時、相手の男性ダンサーが凄く大変だと思う」

流衣は普段の自分の感想を思い描いて言った。

「あ、それでチー先生がサポートする時いつも、『あたしは居ないと思って』って言うの?」

ショパニアーナ女子のひとりが聞いた。

「てっきり、リフトしないから言ってると思ってた」

「へへっ。男子じゃないからリフトとか出来ないから頼りないけど、回転足りなかったりするとサポートするでしょう? あれ、私の力で動かそうとすると、次の日筋肉痛になるくらいの力が必要で、結構大変だから『自分で回って欲しいの〜』って言っちゃってるよね」

力いっぱい手を掴まれて立たれるだけでも、バランス崩れ無いようにするのにかなりの力がいる、男役はハードワークなのだ。

「言ってる〜。そうだったんだ〜」

「そんなにキツイんだ」

「知らなかった、チー先生大変だったんだね」

「あたしも凄く頼ってた、ごめんなさい」

皆んな次々と流衣に謝り出して、何故か反省会になってしまった。

「え、そんな、謝らなくていいんだよ、私の方こそ力無くてごめんね、みんな」

「え? 何で流衣ちゃんが謝るの?」

陽菜が突っ込みを入れる。

「そうね。今回は男性と組むの陽菜ちゃんだけだけど、みんなはこれから男性ダンサーと組んで踊る機会があるんだから、その時にあいてに頼らないで、ここで流衣ちゃんと踊った事を思い出して、これからレッスンしていきましょうね」

香緒里が笑いながら上手くまとめた。

「さあまだ時間あるから、それぞれ練習して、最後に曲をかけてやりましょう。いい?」

「はーい」

みんな笑顔でそれぞれの位置に戻って行った。

「重いって、そういう意味だったんだね」

陽菜が流衣に向かっていった。

「うん。私にはそういう意味の〈重い〉しかわからないから」

そういう意味での〈重い〉であって欲しい流衣。

「仁君に〈重い〉って思われないように、これから練習していくね」

「頑張って、陽菜ちゃん」

「うん、頑張る!」

いつもの元気な陽菜に戻って、流衣は心底ホッとした。


「あれ? 臣くんまだ来てない……」

天敵であるブロック塀から顔を出した流衣は、いつも一臣が立っている、広めの歩道のその場所に今日は居ないことに驚きと寂しさを覚えた。

「珍しい……」

 一臣にメールを打とうかと携帯を手にしたが、思い直して元に戻した。何かあれば連絡がくる、何も無いから、今こちらに向かってる筈。そう思った。流衣はいつも一臣が寄り掛かってる塀まで行くと、そこにそっと寄り添ってみた。いつも一臣が見てるであろう景色を眺め、少しでも近づこうと背伸びをしたけど、それでもだいぶ違う……20センチ下の位置から辺りを見渡して、何となく近付いた気になった。

 道路の向かい側のバス停に止まったバスから人が降りて来た、3人……4人。サラリーマン風の男性、年配の女性、若い女の人、5・6年くらいの小学生がひとり。みなバラバラの方向に歩いて行った。家路に着くのだろう。あの子は家に着いたらお母さんがご飯作って待ってるのか、あの女性は何か買って帰るのか、中年の女の人は帰ってから作るのか……。なんてどうでもいいことをつらつらと考えた。

(……やだあたし、そんなにお腹空いてるわけじゃ無いのに、ご飯のことばっかり考えてる。意地汚いなぁもうっ)けど……それでもこれから一臣に会えると思うだけで、ウキウキしてる流衣だった。

 この待ち時間が妙に楽しい。更に次の楽しみを見つけようとキョロキョロと辺りを見渡した、その中に車道を走ってこちらに来る自転車を見つけた。

「臣くん……」

自分に向かって走って来る一臣を見てたら、光莉との会話を思い出して、思いっきり微笑んでしまった。

(好きな人が迎えに来てくれるって、……嬉しい。彼氏じゃなくていい、もうずっとこのままがいい……)

 一臣は目の前の車道で止まり、自分自身がガードレールを乗り越えると、自転車を持ち上げて自分の横に置いた。そして自転車を押しながら流衣に近付いてくる。その姿を、迂回するのが嫌でつい歩道を行く自分とは違うなぁ、と流衣はジッと見つめていた。

「待たせた?」

「んー、2・3分?」

首を傾げて答える。

一臣は塀にもたれながらつま先立ちしてる流衣の行動が目に入った。一臣の目が自分の足先で止まったのを見た流衣は

「あ、これはルルベ……で、脚の自主トレしてたの、15分もしたら効果出るかと思って」

一臣に近づこうと真似をしてたのがバレない様に、慌てて言い訳した。

「2・3分じゃなかった?」

流衣、語るに堕ちる。

「えっと、それは体感的にかな……へへっ」

(やばい、絶対に変……。どうして私って、何か言うとボロがでるんだろう。やだな、いくら臣くんがなんとも思ってないとしても、自分で自分に呆れちゃう)

うつむいて、いつものように自転車のリアキャリア、俗に言う荷台に座ると、直ぐに走り出す筈の一臣が動かなかった、流衣はアレ? と思ったと同時に地面から凄い地鳴りが聞こえてきた。

「あ、や……」

流衣が声を出した瞬間地面が揺れ出した。慣れてるとはいえ、胸がドキドキする。震災の後、ひっきりなしに揺れて自分が揺れてるのか、地面が揺れてるのかわからないくらいだった地震も、最近だいぶ落ち着いてきたのに、こうして地鳴りがするだけで、体が震える。

「……おさまってきた」

揺れが小さくなり、一臣が声を出した。

「震度4、くらいかな」

普段と変わらない一臣の声色。

「地鳴り凄かったのに、……大きく無いね」

でも身体は動揺して萎縮してる。

「地震は慣れたけど……地鳴りはやだな……」

地鳴りと地震は反比例。こけおどし感が強いのに、身構えてしまう恐怖感か、地震より地鳴りの方が心に堪える

「走り出していい?」

一臣が軽く振り向いて、話しかけた。

「え? あ、うん」

流衣は、一臣が何故わざわざ振り向いて聞いてきたのか不思議に思った。一臣は前に向き直って、自転車を漕ぎ出すために一瞬前に前傾姿勢を取った、その時自分の手に伝わる手応えに、流衣はギョッとした!

(ウソでしょー! 私、臣くんの服掴んでる、両手で!)

地震のせいか、地鳴りのせいなのか、いつも荷台を掴んでる手が、一臣の上着の腰の部分をしっかりと握りしめていた。

 ちょっ……私なにやってんの! だから臣くん、動いていいかって聞いて来たんだ。やだもう〜、いきなり恥ずかしい……。だいたい何これ、私……さっきまでバーをガッチリ掴んじゃダメなんて、偉そうにみんなに言っておきながら、自分は血管浮き出そうなほど握ってんですけど……いや、臣くんバーじゃ無いし、それとは関係ないし、さっきの地震の時に掴んじゃったに決まってるけど、……これ、離した方がいいのかな? ……いや……嫌……やだ、離したく無い、ちょっとだけ、あざとくてもなんでもいい、今日だけ、このままでお願いします。 これ……この手の感触、なんだかご褒美みたい。あざといにご褒美なんて意味あったっけ? えーもう、なんでもいいや

「女子ログに追加って事で」

緊張と安堵からなのかいつも通りなのか、全く解決してないのに、迷子状態のまま思考が出口から脱出する。

 そして、今日は中途半端に上着を握ってる流衣に、安定した所に掴まり直すように言いたいが、少しでも注意しようものなら、うろたえてテンションの均衡が崩れて、活動限界を起こして生物兵器と化するのを回避する為、ただ黙ってバランスに気を付けて走らせる方を取った。一臣は震災遺構のデコボコの歩道を、流衣を落とさない様に振動を抑えて丁寧に走って行くのだった。

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