第6話 コンテンポラリーダンス

「何でそんな馬鹿なことしたんですか!」

母親の怒鳴り声が襖を通して聞こえてきたのは、避難所からアパートに移って間もなくの頃だった。

「あなた、昭一さんがどんな人か知ってるじゃ無いの、なんで一緒に行ったりなんかしたの!」

アパートだった事を思い出したのか、少しトーンを下げて声を出したが、怒りは収まり切らない。

「んでもや……しょんつぁんには世話んなってっから仕方ねえ」

 昭一というのは父親の従兄弟で、津波で流された家の持ち主。流衣達はその家をタダ同然の家賃で借りて住んでたのだ。何度か会った事があるが、ちょっとねちっこい視線の人で、流衣はその叔父さんが苦手だった。

「それにしたって、全額渡さなくたって……だからあなたはダメなのよ! 情け無いったら」

 怒って、叱って、呆れてそんな母親の声が流衣の耳に残った。なんでも、母親の居ない間にその従兄弟の昭一が現れて、父親を丸め込んで銀行に連れて行き、義援金を下ろさせて持って行ったらしい。読み書きが出来ない父親は、昔から色んな人に何度も騙されてる、妻にしてみれば、気が弱く頼りない夫で、怒るのは当然なことだ。でも娘からすれば、全てを黙って受け入れてるお人好しの父は優しく見えて、そんな父を庇うような態度を取ってしまうと、母は益々怒りをつのらせてしまう。

だから流衣は母親を怒らせないように、ひっそりと接するので精一杯だった。

「すまねえ……」

両親の諍いはいつも父親の謝罪で終わる。


「ふー……」

流衣は大きなため息を付いた。

「どしたの流衣ちゃん?」

土曜日のスタジオで今日はほぼ同時に入った光莉が、二人で着替えてる最中の大きな溜め息が気になって、流衣に向かって聞いた。

「うん……と、どの踊りにしようかな……って」

「コンテンポラリーの方?」

「……全部」

流衣は今日貰った給料明細を思い出して、溜め息を付いたのだが、コンクールのバリエーションでも悩んでたのは確かなのでそう答えた。全ての事に溜め息が尽きない。

「そうなの? でもクラシックバリエーションの方はペザントか、スワニルダじゃない?」

今回の課題曲は

クラシック

ジゼルの〈ペザント〉コッペリアの〈スワニルダ・第一幕〉バヤデール〈三種〉 五曲。

コンテンポラリー

caliban, libera me, traces, polyphonia. there where she loved 五曲。

から一曲づつ抜粋。

「そうねぇ、スワニルダ、良いわねぇ」

「え?」

仕切りのパーテーションの影から突如聞こえてきた先生の声に、流衣と光莉が驚いて声をだした。

「あーごめんなさい、急に声かけちゃって、丁度それ考えてたのよ。やっぱりそう思うでしょ?」

事務所兼更衣室は、扉タイプのパーテーションで区切られているだけ、上部が空いてる為に会話は丸聞こえ、更衣室で誰か着替えてる場合は気を使い、レッスン室に居るようにしてる日野だったが、今日、土曜日は通常レッスンではないので、パソコンを使おうとその場にいたのだ。

「先生もですか?」

光莉が同調した。

「そうなのかな」

流衣は確認するように二人を見た。

「バヤデールはちょっとイメージがね、違うと思うよ?」

光莉がそんなことを言った。実は流衣もそう思っていた、それにバヤデールはレッスンでもそんなにやってない。

「みんなにも聞いてみない? キャラクターに挑戦するのも良いけど、イメージに合ったものを選ぶ事も大事だと思うわよ」

先生の提案に乗る事にした。


「ペザントとスワニルダの二択で良いんじゃないかな」

美沙希の意見。

「スワニルダ一択でええんちゃう?」

理子の意見。

「それは言えてる〜」

柚茉の意見。

「スワニルダ……どうして? 柚茉ちゃん?」

何故スワニルダなのか気になる流衣。好きだけど……

「そだね〜。流衣ちゃんだしね〜」

と陽菜が言うと皆うんうんと頷く。

「え? だからどうして? 陽菜ちゃん」

(流衣ちゃんだから? って皆んな納得してるんだけど、何で私だとスワニルダ一択なの??)

何故か皆、意見が一致してる。それは何故なのか流衣には分からなかった。

「流衣ちゃん。踊って見せて?」

光莉が提案すると、『それそれ』とみんなも同じ気持ちらしい。

「良いわね。比べて見て多数決取りましょう」

勿論、先生も賛成。直ぐにCDの準備にかかった。

「ペザントからね」

「はい」

流衣は衣装を着てるつもりで〈ロマンチック・チュチュ〉の裾を掴んで、ポーズ。

曲が始まると流衣は嬉しそうに踊り出した。 

 〈ペザント〉は三大バレエのひとつ〈ジゼル〉の中の前半に出てくる踊り、ペザントとは農民という意味で、農民の娘が収穫祭で嬉しさと楽しさを表す踊り。後のジゼルの悲運を対比させる為にことさら強く、楽しげに踊るのが基本とされている。

「ジャンプ高いなー、相変わらず」

美沙希は感心して言った。

「さすがブルーバード」

男子パート出来る流衣ならではだな、と柚茉も感心してる。

 アチチュードからのジャンプ、フェッテターン。舞台を横切るグランパ・ドゥシャ等、ジュニアの課題曲に選ばれるだけあって、難しいステップは無く、ジャンプと回転の繰り返し。

「元気で楽しそうで、流衣ちゃんにあってるよね」

光莉は流衣の踊りが好きで、楽しそうに眺めてる。

シェネを繰り返し、ラスト、ピルエット二回転でポーズ。

皆から自然に拍手が出た。

「次はスワニルダね」

「はい」

三回大きく息を吸って、吐いて。流衣は呼吸を整えた。

〈コッペリア〉スワニルダが出てくるコッペリアは三大バレエに劣らない人気演目のひとつ。コッペリアという、周囲の人々が気付かない程精巧に出来たお人形にまつわるドタバタ劇である。そして課題曲である一幕のスワニルダのバリエーションの場面。ある日、窓際で本を読んでるコッペリアを見かけたスワニルダが、それがお人形だと思わず、手を振り「出て来て一緒に遊ばない?」と誘うのだが、無視されたと思い込んでプンプンと怒るというバリエーションである。〈ペザント〉同様、難しいステップは無いものの、コンクールでよく使われるバリエーションの為か、左右バランスの取れたステップが多く、更にマイムが入ってる為、演技力が必要で個性が問われるものである。

 脚を変えるピルエット、3回、アントルラセ。少女らしい後ろ手を組んだ仕草で、楽しげに振り返ってグランバットマン、右、左、右、フェッテターンを繰り返した後、窓際にコッペリアがいる事に気がつくと、手を振り、〈貴方もここに来ない? あれ? 見てる? 見えてない? うーん、残念。ま、いっか〉流衣がマイムを終えて、踊りに戻ると何故かみんながクスクスと笑い出した。

その中で美沙希で先頭を切って声を出して笑い出した。

「ムリ〜」

と言って、陽菜が釣られて笑い出した。それが合図のように一斉に大爆笑。

「何で⁈」

バットマンからパッセに入ろうとした所で流衣は止まってしまった。

先生まで肩を震わせている。

「もう、めっちゃうける」

「うける……。おかしいって事?」

涙まで出して笑って言った理子に、尋ねる流衣。

「ちゃうちゃう。楽しいってことや、女優ちゃうかってくらいやんっ」

みんな、流衣の仕草マイムがツボにハマり、面白くて笑っていたのだ。

「楽しい……」

褒められたのは分かった流衣だったが、あまりにみんな笑うので、嬉しさより心配になったが、全員一致でスワニルダが良いという。

(……マイムって、それはダンサーとしての評価じゃ無いし……。楽しんでもらえるのは良いんだけど、コンクールでこれってありなんだろうか……)

気にはなるが、どちらの踊りも好きなので、流衣は皆の推す方向でいく事にした。

 

「流衣ちゃん、金田先生覚えてる?」

「はい」

 金田は流衣の唯一のコンテンポラリーの先生で、夏にローザンヌのビデオ審査の為に師事して貰った先生だ。ローザンヌの話で散々盛り上がった後、発表会のバリエーションの練習を終えた所で、日野が流衣に話かけた。

「コンテの方は金田先生に相談したほうがいいと思ってね、聞いたら明日の午前中に時間取れそうなんだけど、流衣ちゃん大丈夫かしら?」

「本当ですか? もちろん大丈夫です!」

一番気になっていたコンテのバリエーション。金田に相談出来ると分かって流衣は心底ホッとした。

「良かった〜」

「だよね。金田先生ってレッスンもわかりやすいし、良かったね、流衣ちゃん」

更衣室で着替えをしていた光莉と美沙希も話が聞こえていた。夏に一緒にレッスンを受けて金田を知っていた光莉が、流衣の気持ちに賛同出来た。

「コンテか……。私も発表会終わったら金田先生の時間取ろうかな」

美沙希もクラシック一辺倒だったので、必要性を感じた。コンテをやらないとダメだとは前々から思ってはいたが、コンテンポラリーが課題になってるコンクールは平成23年現在は未だ少なかったので、やはり好きなクラシックに集中してしまった。

「美沙希ちゃんも海外留学したいんでしょ?」

光莉は脱いだレオタードを持って来たビニール袋に丁寧に入れながら言った。

「まあね、今年のコンクール、留学許可は降りたんだけど、ママが過労で倒れちゃたから辞退したの、来年は行きたいな」

美沙希の家は地震の被害は壁にヒビが入った程度だったが、母親が疲労困憊で倒れてしまったのだ。

「美沙希ちゃんのお父さん、確か自衛官だよね」

流衣はブラウスの袖に腕を通しながら、救助された時、救助した人達を下ろした後、救助に向かう為、直ぐに飛び立つヘリコプターを見送った事を思い出した。不眠不休で働いていたのだろうということは容易に想像出来る。

「三ヶ月帰って来なかったよ。それで、パパが帰って来て安心したのか、次の日ママが胃痙攣起こして救急車で運ばれちゃってね、でも病院のベッド空きがなくて、手術とか必要ないから家に帰されたの、今は元気になったけど、元々貧血で体弱かったからその時、一ヶ月位寝込んじゃったんだよね」

そんな状態の母親を残して海外に行くわけにいかなかった。それに美沙希には11歳離れた小さい妹がいて、その面倒も見なくてはならなかった。

「じゃあ愛生あみちゃんの面倒も美沙希ちゃんがみたの?」

「そりゃあ、私しか見る人いないしね」

それはそうだ。と流衣も光莉も納得する。

「幼稚園の給食がストップしちゃって、毎日お弁当作らなきゃいけなくて、夏休み繰り上げてくれたから本当助かった」

七月の頃の出来事だった。

「美沙希ちゃんがお弁当作ってたの⁈ すご〜い」

光莉が感心して声を上げた。

「大した事無いよ。うちのあーちゃん好き嫌い多くて、ご飯しかたべれなかったから、毎日お塩のおにぎり詰めてただけだしね」

美沙希は脱いだ練習着を洗濯ネットに入れた、そうすればそのまま洗える。

 ん?

どっかで聞いたような…。流衣は制服のスカートを履きながら、自分のやってる事と同じだと気がついた。

「ハート型の小さいおにぎりを三つ、クローバーの型に整えて、隙間をゼリーで埋めてキティちゃんのタッパーに詰めただけ」

「え〜それで良いの? 色的には寂しいよね」

「あーちゃんね。『美沙希ちゃんのお弁当がいい〜、お野菜入れるからママのお弁当きらーい』だって」

「ええ〜。ママ可哀想」

光莉は笑ってしまいパーカーを羽織りそこねて、さらに笑った。

良かれと思ってやっているのに嫌われる『動物のお医者さん』状態のママだが。給食が復活した今でも、週一のお弁当の日には野菜を入れ、嫌がらせ弁当を作り続けている。

「流衣ちゃん、なんでさっきから下向いてるの?」

無言で俯いてる流衣が気になり光莉が聞いた。

「ちょっと考え事を……ごめん何でもない」

流衣は、自分のお弁当が幼稚園児と同じだと分かって、しかもゼリーが無い分負けてる気がして、なんだか肩身が狭くなった。

 着替え終わった3人は外に出て、スタジオ前の駐車場で別れを告げた。美沙希はお迎えに来てたママの車に乗り、まだ迎えの車が来てない光莉はその場で流衣に別れを告げた。

「じゃあ又ね」

「うんまたね」

 流衣は細い路地を進み以前流衣がひっくり返って自転車破損した角を抜け、歩行者専用歩道を5メートルほど行くと自転車通行可能の広い歩道に出る。そこに一臣の姿を確認した。流衣が近づいて来たのが分かった一臣は顔を上げた。

「臣くん……高校生にもなって、塩おむすびって変?」

「……塩?」

流衣の問いかけの意味が理解できず、一臣は聞き返した。


「あら? 光莉ちゃん、お迎えまだなの?」

 日野が外に出ると、直ぐその場に光莉が立っていた。

「あ、先生。ママ、今コンビニ寄ってるらしいんです」

光莉が、携帯を手に持ちメールを見ながら答えた。

「そうなの? 良かった、じゃあ直ぐにくるわね。流衣ちゃんもう行っちゃったのね……伝え忘れた事があったんだけど」

昭和生まれはメールより走れば間に合うと思ってる。それで追って出たのだが、一歩届かなかった。

「流衣ちゃん? でもまだいるんじゃ無いですか? バス待ってる筈だし」

バイトの帰り道一緒に帰ってる子の話は聞いていたが、スタジオまで送迎して貰ってるなんて露程にも思ってなかったので、自転車が壊れてからバスで来ていると思っていた。

「あら、そうかしら」


「ご飯と塩だけなら、確実にタンパク質は足りないと思うけど」

一臣は、いたって真面目に流衣の質問に答えていた。

「タンパク質……お魚ソーセージがおかずじゃダメかな……」

自分の食生活の薄さに改めて引く。

「ダメじゃないけど、それだけじゃビタミンも足りない」

「ビタミン……」

(畑が無くなって、あれから野菜食べて無いな、スーパーで買うお野菜は美味しく無いんだもん……私、好き嫌い無いんだけどな……)

ふと戻らない日常を思い、流衣は黙り込んでしまった。

「あと何が問題?」

「問題?」

流衣を見ながら質問する一臣を見上げて、うっかり視線を合わせてしまった。

「えっ、あの……うんと、大丈夫。いま今って何時かな」

焦って必死に話題を変え、携帯の時間を見るふりをして視線を逸らした。

「7時33分」

流衣が時間を確認する前に一臣が答えた。

——早い。ってそれは良いけど。

(マズイ……困る。や……でも目線さえ合わなければ、このドキドキ感がバレない……と思う、って本当か?)

 昨夜から止まらない胸の高鳴りを、なんとか気付かれないように、視線を逸らす事で回避しようとしていた。

「お店混んでるかな」

土曜日は客の入りはなかなか読めない。

「さあ」

……素気ない返事。

(という事は臣くん『時玄』から来たんじゃ無いんだ……。いつもどこに行ってんだろ……? それは臣くんの自由だけど……まさかナンパされに⁈ なんか違う気がする。 う〜ん。でも待ってよ、ちょっと前まで顔とかあっちこっちに痣あったりしたような……あれ一体なんだったんだろう?)

「行く?」

なんだか色んなことが気になり出して、混乱してきて考えてる流衣に。自分の事で悩んでるなど想像しない一臣は、キリがないようだと判断して声をかけた。

「あ、うん。……お願いします」

そうだった。私、ハクとマスターの応援部員だった。余計な事考えてる場合じゃなかった。とちょっと慌てて自転車に乗った。しっかりと座った流衣を確認してから一臣は走り出した。


「……先生。流衣ちゃんに用があったんじゃないんですか?」

ブロック塀を背中にして、横並びに隣にいる日野に話しかける光莉。

「光莉ちゃんこそ、何で隠れてたの?」

流衣を追って来た二人は、流衣が男子と居るのを目撃して、驚いた光莉は咄嗟に後退し、塀の後ろから様子を伺ってしまった。その仲良しの光莉が隠れたので、日野はついつられて隠れてしまったのだ。

「なんとなく……」

「光莉ちゃんは流衣ちゃんと仲良しだから、知ってたんじゃないの?」

「近所に住んでる同級生とバイトの後に、一緒に帰ってるのは聞いてたけど……。男の子に迎えに来て貰ってるの……知りませんでした」

近所の同級生……の話をよく思い出してみたら、男子とも女子とも言ってなかった。流衣が気を遣ってる様子だったのも思い出して〈彼氏〉では無い気がした。それにその子がさっきの男の子と同一人物かも分からない、光莉は隠れずに聞きに行けば良かったと後悔した。

「明日の時間を決めようと思っただけだから、流衣ちゃんには後でメールしとくわ。光莉ちゃん、もうママ着いてるんじゃ無い?」

それを聞いて光莉は携帯を見た。

「あ、着いたってメール入ってる。先生、私行きますね」

「はい。お疲れ様」

日野が笑顔で声を掛けると、光莉は頭を下げて駐車場に戻って行った。

……この時期に……何て微妙な……。

 日野は流衣の表情で相手の男子に好意を持っているのを見抜いてしまった。日野の憂いは思春期の女子特有の悩みであり、運命の分かれ道でもある。そしてこればかりは、教師の指導や大人の助言は役に立たない事は、日野は自分自身でよく分かっている。

天使の微笑みか悪魔の囁きか……

 日野が若かりし日に、周りで囁かれていた言葉を思い出した。バレエを人生として受け入れるか、女として生きていくか、……もし、その両方を手に入れるとしたら、同じ方向を見ている者でなければ厳しい世界。

 鬼が出るか邪が出るか……日本だとそういうのだろうか。

(さて、九時に行くってメールしときましょうか)

一抹の不安を残して、日野は背筋を伸ばし事務所に戻った。


 秋晴れの十月最後の日曜日、日野と流衣はSバレエスタジオの小さい会議室に来ていた。

「……おっきいテレビ……」

会議室にモニターとして備え付けてある55インチのテレビは、一般家庭のリビングほどの広さの中で十分な存在感を示し、流衣を圧倒した。

 家にあったテレビは30インチだったが、それでよくビデオを写し擦り切れるまで見ていた。……震災の津波で流されるまで。

 以来、流衣はテレビは観ていない。仮設住宅には救援物資が配置されテレビ等も備え付けてあったが、みなし住宅に移り住んだ者は、後から自分で申請しなければならず、手間と時間がかかり、冷蔵庫と暖房器具など必要最低限な物が揃った所で終わり、テレビという選択はなかった。

 避難所の隅にポツンと置かれたテレビをチラりと見た事はあったけれど。被災地の映像を流して被害に遭った人達や、家族を亡くした人達のインタビューを流されても、『流されたのが家だけですんだのだからまだマシだ』と言われているようで、虐げられているのか、同情されているのか、怒ればいいのか、悲しめばいいのか、持って行き場のない気持ちを整理できないまま、日々生きてる被災者の一人で、テレビを見ると思わず目を逸らしてしまう。

しかし今だけは、大きいテレビの画面に釘付けになった。いつもスタジオの事務室のPCの画面で見ていたコンテンポラリーの作品を大画面で見て、流衣のテンションは一気に上がった。

(凄い! 迫力がまるで違う。カッコいい! 細かな表情までよく見える〜!)

「やっぱり、パソコンの画面で見るのとは違うわね。流衣ちゃんどう? どれが気になった?」

日野も同じことを思ってたらしい。

「ええと……」

コンテンポラリーダンスは男子のバージョンに入っていて、まだ目が離せないでいたので返答に困った。

「迷うよね」

Tシャツにスウェットの上下で、ラフなスタイルの金田は愛嬌のある笑顔で流衣に語りかけた。

「〈There Where She Loved〉が綺麗で可愛くて〈Libera me〉は抽象的な動きで、すごく印象に残りました」

一旦男子のバリエーションから我に戻り、金田に対して答えた。

「去年もそうだったけど、コンテは男子と被る曲あるんだよね。その〈Libera me〉と〈Calibn〉の二曲。〈Libera me〉は男子の方が選ぶ率高いとおもうな」

確かに振り付けは、ジャンプもあり、三点倒立で背中を見せてキープしたり、と男子向きかも知れない。

「〈There Where She Loved〉も素敵よね」

直訳すると〈彼女が愛した場所〉という意味である。

「はい、お花畑で舞っている妖精みたい」

「これにする? イメージ的にはスワニルダに近いかも知れないけど、私は良いと思うわよ」

日野が意見を述べると、金田も頷いた。

「クラシックとコンテを違うイメージで持ってくる人がいるけど、シニアの子ならそれでも良いんだよ、でもジュニアの子達は両方とも得意分野を見せる方が、好感持てて僕は好きだね」

ローザンヌは十六歳までがジュニア、十八歳までがシニアに分かれており、シニアの子は研修生もしくは団員になれるかのカテゴリーに分けられ、即戦力の期待値を見る為に様々な面を見せる必要がある。

「ローザンヌは審査員がプロフェッショナルだから、あざとい真似すると一発でバレるからね、素直に良いとこだけ見せたほうが良い」

 流衣は金田の言うことを頷きながら聞いていた。そして先生の薦める〈There Where She Loved〉の映像を再生して見直していると、先程見て気になったもうひとつの〈Libera me〉が気になりだした。

(—〈Libera me〉(リベラ・ミー)……何て意味だろう、英語じゃ無いし ……最初に見た時、抽象的で印象的って言ったけど、何回も見てたら苦しくなってきた、広い舞台で動いてるのに、狭い空間でもがいてるみたい……? どうして? 気になる……何故か分からないけど……なんでだろう、臣くんとダブって見える……)

 まばたきするのも忘れ、食い入るように画面を凝視していると

「……私を解放して」

「え⁈」

金田の声が一瞬、一臣が言ったように聞こえ、流衣はドキッとした。

「〈Libera me〉の意味は〈私を解放して〉だそうだ。このビデオには解説無いけど、去年のコンテの課題曲にもなってるから、結構ネットに載ってたよ」

金田の言った事に驚いた顔で凝視する日野。

「金田先生。わざわざ調べてくれたんですか⁈」

日野が早口で喋ったので、金田は面食らったように、一瞬引いたが直ぐに気を取り直した。

「うんまあ、でも数は多くアップされてたけど、振付師の解説が詳しく載ってるのは見つからなくて、大抵は生徒の感想だったから参考にならないからね、曲の意味だけで悪いね」

照れ笑いで謝る金田。そんな金田に流衣は感激した。

「そんな……」

……悪いだなんて、私なんかコンテのレッスンを一度して貰っただけで、親しくも無いのに……コンテの相談まで乗ってくれて、しかも調べててくれたなんて、金田先生ってなんて良い人なんだろう。

「……ありがとうございます」

流衣はどう感謝していいか分からずに、兎に角、頭を下げて礼を言った。

「恐縮だなぁ、……例え一度でも自分の教えた子がローザンヌに行くとなれば、それだけで嬉しくてテンション上がってるからさ、そんなに気を使わなくていいよ」

もういいよ、と両手を振って礼を辞退する金田。

「それで流衣ちゃん、曲は決まった?」

日野は仕切り直し、流衣の決心を促した。

「……〈Libera me〉にします」

流衣がハッキリと言ったので、日野と金田は顔を見合わせた。

「男の子が選曲するだけあって、ハードな踊りだけどいいの?」

日野が念を押す。

「はい。私、この曲を理解して……踊りたいです」

流衣の表情に迷いはなかった。


 仙台の待ち合わせ場所といえば、仙台駅構内のステンドグラス前。金曜日の夜ともなれば、人待ち顔の人達で溢れる。ステンドグラスの前にある伊達政宗像の前で待ってる女性も明らかにそのひとりだった。フワフワのニットとストレートのワイドパンツに身を包みOLらしい女性は寒そうに肩をすくめた。十一月に入り夜間は冷え込む、上着を持ってくればよかった、と後悔し始め早く友人に来て欲しくて、メールを打ってみたが、こちらに向かってる為なのか、返事は来ない。

「寒そうですね」

横から男性の声が聞こえた。

「あの……?」

みると隣にツーブロックの知らない男が、同じく寒そうなそぶりで立っていた。同じく人を待っているのか、……でも声を掛けて来るなんて、ナンパとしか思えない。

「すみません、怪しいですね、俺も寒くって……一緒だなって思ったんで」

そう言って男は頭を下げた。長袖ではあるが、薄手のシャツ一枚で確かに寒そうにしてる。笑顔で照れ臭そうに言った仕草が、イケメン枠に収まるであろう容貌の男に更に愛嬌を与えた。

「そうですね、寒いです。昼間暖かかったので上着持たないで出ちゃって、失敗しました」

女性は警戒を少し解いて共感して喋った。

「ですよね。20度もあったのに、こんなに冷え込むの仙台もう詐欺ですよ」

「こっちの人じゃ無いの?」

「千葉の大学出て、先輩を頼って一昨年こっちで就職したんだけど、まだ慣れなくって……特に寒さ!」

「千葉からきたんなら、寒いですよね、大変」

「えー、分かってくれる⁈ そうなんだよ。寒さだけじゃ無くて仙台って車社会でさ、無いと通勤も出来ないじゃない? 車を買ったはいいけど冬のタイヤ交換なんて知らないし、オプションにも付いてなくて、ノーマルで危なく事故るとこだったんだよね」

「それマズイですよ、タイヤ交換しないとマジで死んじゃいます」

会話が弾んで警戒心が解けて楽しくなってきた所に、向こうから手を振って近づいて来る友達を見つけた。

「あれ友達?」

「そうです」

「そっか……じゃあ僕との会話は終わりだね」

あからさまに「残念」と顔に出てる男に、既に警戒心はなくなり、親近感が湧き出した所で、友達が到着した。

「ごめーん、遅くなって、一杯奢るから許して〜」

友達は拝みながら謝ってきた。

「やだ、全然大丈夫よ」

「良かったね、飲みに行くの? 早く店に行きなよ風邪ひいちゃうよ」

「ありがとう。あなたの友達も早く来るといいですね」

優しい言葉をかけられたので、気を遣って言葉を返したのたが、男性は少し引き攣った顔をした。

「んーいや、どうやら振られたらしい」

「え…… 振られた?」

「政宗像の尻尾の所ってここだよね?」

振り返って政宗像を見る。

「あーはい、ここだけです」

「やっぱりね、もう二時間待ってるけど連絡もないし……」

「ホントなんですか」

ニットを着た女性は、目の前の男性がスマートで優しい人に見えて来ていて、清潔感もあってカッコいい部類に入るこの人でも振られるんだ……と同情的な見方に変わった。

「二人って友達? じゃ無いの?」

後から来た女友達は、二人が親しそうに話すのを見て知り合いなのだろうと思っていた。

「違うよ、なんか振られたの確定したっぽいから、心が折れちゃってさ、黙ってるの耐えられなくて隣に居た人に声かけちゃったんだよね」

そうなんだ……と、悲壮感から話しかけてしまった弱々しさに、母性本能がくすぐられた。

「え〜寂しいですね、じゃあこれから私たちと飲みに行きません?」

友達はチャンスじゃない? とばかりに誘う。

「ちょっとエリナ!」

初対面の人誘うなんて正気なの? と声を荒げると、男の方が恐縮した。

「あ、いや、今日はちょっと……さすがに落ち込んでるからやめとくよ」

「……そうですよね」

ホッとしたような、ガッカリした様な複雑な心境。

「それじゃ」

別れて行こうとした。

「話し相手になってくれてありがとう、楽しかったよ」

後ろから声を掛けられて、足を止めて振り返った。

「あの……今日じゃなければ大丈夫ですか? 飲みに行ったり……とかするの」

頬を赤く染めて躊躇いがちに聞くと、男は嬉しそうに笑って

「ほんとに⁈ 良かった! 実はさ、連絡先を聞こうと思ったんだけど、変な奴だと思われんの嫌で言えなかったんだよね」

そう言ってガラケーを出してひらいた。

「アドレスでいいですか?」

「もちろん」

そして二人はアドレスを交換した。

「じゃあ」

そう言って女性二人組は手を振りながらその場を後にすると、予約していた居酒屋に向かった。

「えーまだ見てるよ、かわいいじゃない」

「ほんとだ」

友達に言われて振り向くと「ケイスケ」と名乗った男は、まだその場に立って見送っていた。

「爽やかだしイイ感じじゃ無い? アリサはもう太一とは別れたんでしょ?」

「別れて無いよ、……最近会ってないし連絡もないけど」

「どれくらい?」

「そろそろ二ヶ月になるかな」

「……それ付き合ってるの?」

「さあ……」

「もうさっきの彼と付き合ってみたら?」

「そんなのまだわかんないじゃ無い、ちょっと話しただけだし、良い人そうだけど……。それに私まだ別れてないよ、一応」

「でもさー、デートくらいなら良いんじゃ無い?」

二ヶ月もほったらかしなんて、自然消滅レベルじゃない? と表情が語る

「デートだけならそう……はっ」 クション! 

唐突にくしゃみが出て、寒いかった事を思い出した。

「寒い〜。早く店に行こうよ」

「熱燗いっちゃう?」

「おっさんクサッ」


 待ち合わせの人達が彼方此方彷と徨う中で、ふたりの女性を黙ったまま見送る男に、伊達政宗像の裏側から、ショップ店員さながらにTシャツをザックリと着こなしている男が近付いて来た。

「まさかほんっと〜に女の方から連絡先教えて来る何んて思わなかった」

「言ったろ、ニットの女はいけるって」

ツーブロの男は振り向いて、先程の爽やかさとは打って変わったみだりがましい口元で言った。

「相変わらずつーか、流石だよな。どんくらいの女とやったんだよ。百? 二百?」

「数えてないけど三百超えてる」

「すっげ。こっちにいた時もガンガン行ってたけど、東京で磨き掛けてんじゃん、さりげなく千葉の大学って嘘ついて親近感出すのもテクなのかよ? 地元のくせに、仙台寒くて詐欺ってマジ受けんだけど」

「嘘じゃないって、四年も向こうにいたら寒さもタイヤ交換も忘れるもんだって。それより今日はなんで呼び出したんだよ。俺さ、金曜は用事あるって言ってたよな」

待合せの間にもナンパする、いっ刻も時間を無駄にしないナンパ師の業。

「それなんだけどさ、ナンパした娘を知り合いに紹介したんだけど、そいつがどうもやらかしたみたいでさ……」

「あ?」

「知り合いがダチに流してそいつがやっちまって」

「何やってんだよ!」

「いや俺だって、まさかるなんて思わなかったし、俺がその娘、そいつに回したのマズイかな」

「お前この前も女子高生に手を出して、訴えられそうになったろ、少し懲りろよ!」

「〈じゃがりこ〉で引っかかったビッチだから、軽く流したんだけど、失敗したわ」

じゃがりこ落としたと言って、話しかけるキッカケを作る。振り向かせそこから話を盛り上げる。

「じゃがりこっておまえ……それで引っかかるのビッチつーかノリのいいギャルだろ、ワンチャンで楽なとこ狙いばっかしてると、今にガチで逮捕されるぞ王道で行けよ」

つまり、この男は〈女〉は未成年では無く大人の女を狙えと言ってるのだ。

「ってか俺、捕まったりしないよな?」

「真司は紹介しただけなら大丈夫だろ。じゃあ俺は時間だから行くわ、じゃあな」

「デート?」

「セフレとな」

と言うと素早くその場を後にした。真司と呼ばれた男も大丈夫と言う言葉を聞いて安心したのか消える様に帰って行った。


「ヤル為にそこまですんのか……。ナンパ師ってすっげーっな」

〈伊達政宗像〉政宗の愛馬の尻尾の下、さらに横隣の場所で、人待ちしていた青年が横で繰り広げられる一連の会話を、何の気なしに聞いてたら、思わず引き摺り込まれて興味深々で聞いてしまった。

「なんの話しだ?」

今しがた現れた黒いスーツにノーネクタイの青年は、いきなり話しかけられた内容に、ナンパ師とは対局の男は、呆れるというより嫌そうに顔を顰めた。

「セフレとデートしますかね」

「しないだろ」

話の流れは分からないながらも答えた。

「だよな〜。相手が気の毒だけど、男見る目が無いってこってすよね」

「だからなんの話しなんだ?」

益々顔を歪めてみせた。

「クッソ人種の……、いやなんでも無いんで。それよか日下さん、やっぱり制服以外は黒い服しか着ないんすね」

「……」

ナンパ師という人種の話しから話題を逸らし、服の色の話題に持って行ったが、そちらもあまりよろしくなかったようで、黙り込んでしまった。

「……大樹達。あの三人、あれから全く姿見かけないんで、何か耳に届いてますか?」

ようやく本題に入った。

「いや、何も聞いてねえな。何か問題か?」

日下はようやく普通の表情に戻った。勝負の日から数週間経ち、あの時日下に追い払われた三人の音沙汰がないので、走り屋達の間で話題になっていたのだ。

「だったらいいんすけど、あの原チャリの奴らはテラさんの学校の後輩ってんで、震災後になにげに混じって来て、そのまんまになってたの放置した為に……あれでしょ? あん時は日下さんがパトカー巻いてくれたから何とかなったけど、これ以上問題起こして、卒業してるテラさんにも日下さんにも迷惑かかったら申し訳ないんで」

 日下と小野寺は既に走り屋を引退していた。話しているこの男は、時々だが峠を攻めに行っているので、現役に属している。日下が新入りの顔を覚えたのは、震災後に様子を見に行った為であった。

「俺のことなら気にするな、テラさんも後輩が迷惑かけてすまねぇって謝ってたしな。みんなが走んのに邪魔にならん様に見張っとくだけでいい。アイツらが何しでかそうが、こちらにゃ何も関係ねえ」

ただ走りたいわけでもない、暴走するわけでもない、群れ方も知らない、そんな奴らの為に時間を割くのも馬鹿馬鹿しい。と日下は思った。

「俺たちは走る為に集まってるんであって、チームを組んでるわけじゃない」

来る者拒まず、去る者追わず。そんな集まり。暴走族とも違う。走りたい……ただそれだけの奴ら。

「そっすね、あん時集まったの半分知らない顔だったわけだし、……便乗して騒ぐほど、よっぽど鬱憤が溜まってたんすかね」

どこから聞きつけて来たのかも不明である。

「だろうな、けど吐け口にされちゃたまらん」

「巻き添え食わんように気を付けます」

「それがいい」

「……」

「どうした?」

「いえね、あの高校生……なんか不思議な野郎だったなと思って」

「うん?」

〈りんた〉という名の目の前の男こそ、不思議なほど人好かれする男だった。走り屋というのは、いろんな年齢層の人間がいるが、大抵はバイクを手に入れたばかりの息がった高校生で、スピードを出す為に意気揚々と峠を攻めに来る。そして満足したのか飽きたのか、冷めたように来なくなる。りんたもそのひとりだった。しかしなぜか戻って来たのだ。そしていつの間にか〈走る〉ルールを教えてみたり、相談に乗ったりするようになって、皆んなから慕われるようになった。

その不思議な存在のりんたが〈おかしい〉でも〈イカれた〉でもない〈不思議〉と言ったので、日下は気になった。

「なんかあいつ……冷めてんのかと最初は思ったんすけど、逆に暑いっていうか、でも何もなかったみたいにサラッとしてるし、掴み所がないんすよね」

それは日下も思っていた、小野寺が喧嘩を売られた中坊みたい熱くなった顔になったのを見たからだ。

「そこに釣られたんだろ……テラさんも。普段の走り方じゃなかったしな」

「そうっすよね。いくら道がガタガタだって、シロウトに分けるわけないっすから、あれは……あの現状見たら、どれだけ屈強な男でも力入らねえだろうなぁ」

自然の力を目の当たりにして、その脅威に人は萎縮する。

「ところで何でスーツ着てるんすか、バイトでも始めたとか……」

ホストかな? と絶対にあり得ない方向に良からぬ考えが浮かぶ。

「俺の仕事はバイトは禁止だ。ただ〈飲み会はスーツ〉って謎の掟がある」

 先輩の命令は絶対であり、逆らうほどそこに興味はない、寧ろ考えなくて済んで気楽なくらいだった。

「社畜に憧れでもある営利団体の集まりですか」

「走り屋上がりを軽蔑視していびる教官への、御礼参りの仕方と順番決め〈会〉だがな」

「うっわ〜、どこにも居るんっすね、マウントジジイ。キツいっすね、大人になっても付いて回るんだ」

「若気の至りって奴か」

「でも日下さん、後悔してないっしょ?」

「当たり前だ」

「ぷはッ」

りんたは声に出して笑った。


 流衣の頭の中は〈Libera me〉でいっぱいになっていた。

(振り付けは覚えたけど、どう表現しよう……)

月曜日は朝以外のバイトはない。放課後、いつものように『時玄』の昼のクローズ中にソファ席で軽食のバナナを食べながら、大きなため息をついた。

「何だよ、また金で悩んでんのか?」

 カウンター席で〈カラスミ入りペペロンチーノ〉らしからぬ豪華な賄いを食べながらハクが話しかけてきた。その隣では一臣も座って食事中。

「え? なんで悩んでるの分かるの?」

溜め息を吐き、一向に減らないバナナを見たら誰でも分かるんじゃね? とハクは思った。

「女の溜め息の元は〈金〉か〈男〉だっつーのが、お袋の持論なんだわ」

ハクはそれを小さい頃から聞かされ、耳に残っていた。

「お金も足りないけど……」

けれど、バイトをこれ以上増やしたら踊る時間が無くなってしまう。

「お金、も? じゃあ、お前の悩みの本命、男なん?」

ハクはめざとく揚げ足をとった。

「えっえっ、違っ……」

流衣は不意をつかれて狼狽えて否定すると、一瞬だけ一臣に視線が移動してしまった。一臣は意に介せず食事を続けていたので、ホッとして会話を続けた。

「コンクールうっ、の課題曲が難しくて悩んじゃったの」

焦って喋ったら語尾がおかしくなった。

「あー、だとしたらオレは何も役立たねーわ」

〈お手上げ〉しながらハクはヘラヘラと笑った。

……うん、それはそうだよね。誰かに聞いてできるもんじゃ無いし……、今ここで考えても仕方ないんだけど……どうしても頭から離れないな……

「〈Libera me〉……どして私を解放してなんだろう……」

 食べかけのバナナをジッと見つめながら考えていたら、一臣が口を開いた。

「……イタリア語」

「え? イタリア?」

流衣は顔を上げると一臣と目が合ったが、照れるより〈イタリア〉の好奇心が勝ち、真っ直ぐ見つめ返した。

「〈Libera《リベラ》〉って、イタリア語で自由だから〈Libera me〉で〈自由にして〉=〈私を解放して〉になるけど」

「自由……そうなんだ。……臣くんって、イタリア語も出来るの?」

素朴な疑問をぶつけてみた。

「いや。サッカーチームで〈Liberta. 〉というチームあるから、そこだけ」

「そういや、サッカーチーム、イタリア語多くね? サッカーってイタリア発祥だっけ? イギリスじゃねーの?」

こちらはハクの素朴な疑問。

「発祥は〈中国〉」

「は?」

「そうなの⁈」

イレギュラーな回答にハクと流衣が驚いた。

「由来と言われる中で濃厚なのは、イタリアで金を賭けてボールを蹴るカルチョと言われる物と、イギリスで敵の兵士の首をボールの代わりに蹴って遊んだ物が8世紀頃の話であるけど、中国では紀元前から「蹴鞠しゅうきく」という球技があるのが記録で残っててそれが一番近いとされてる。それが日本に蹴鞠けまりとして6世紀頃に伝わってるから、日本ですらヨーロッパより二百年も早い」

「兵士の首……想像するだけで神社とか出禁になりそう……」

「イギリス人エグいな」

ヨーロッパの遊びにドン引きするふたり。

「今のサッカーの形として、ルールが決められてプレーする様になったのは、1800年代のイギリスだから、現在の形のサッカーはイギリス発祥で良いんじゃ無いかな」

「そっかぁ……」

奥が深いな……紀元前とかイメージ出来ないし。

考え込んでる間に、一臣は食事に戻り、ハクは既に食べ終わった食器を片していた。

 イタリア語……自由、解放……。同じ意味かな? うーん、でもなんかニュアンスが違うような……? 考えても分かんないや、やっぱり踊り込むしかないよね……。

流衣は決心すると、残ったバナナを一気に食べた。

「……臣くん、あの、練習したくて、早めに教室まで送って貰っていい?」

少しでも早く踊りたい。

「今行く?」

一臣は直ぐ反応した。

「そんなに急がなくて大丈夫。ゆっくりご飯食べて、私その間にお団子作るから」 

流衣は教室に着いたら直ぐ動けるように、いつも教室で作る髪を終わらせて支度しようとした。

「なにお前そんなに腹減ってんの? だったらバナナじゃなくて飯食えよ。大体うちに団子の材料なんかねーぞ⁈」

ハクが不可解そうな顔で指摘すると、流衣は目が点になった。

「だんご? ……材料って?」

次の瞬間勘違いに気が付いた。

「えっやだ、違う違う! 食べるお団子じゃなくて、髪の毛をね、踊る時邪魔にならないようにまとめるの、お団子みたいに」

ゼスチャーを交えて説明する流衣

(あれ?〈お団子〉ってバレエ用語なのかな? それとも女子用語?)

と考えてるところに

「何だよ紛らわしいな、いつも腹減らしてるから食いもんだと思うだろ」

勘違いしたのがバツが悪いのか、束ねた長髪を解きながら文句を付けるようにハクが言った。

「うそぉ! 何で? それこの間たまたまだし! いつもじゃ無いし!」

流衣は先日の愚行を思い出して赤くなって反論する。

「そうか? なんかいつもチマチマと食ってね?」

「や……だってそれは、満腹になると動けないから、少しずつ分けて食べてるだけだし」

「腹一杯だと眠くなるの間違いじゃねーの」

「……バレたでおじゃるか?」

生態がバレバレでこっ恥ずかしくなった流衣は、思わずおじゃる丸で誤魔化そうとした。

「プリン食いてーの? カレーに竹輪は当たり前のオレからしたら〈パパうえ〉贅沢に一票だわ」

カズマのパパはカレーに竹輪が合わないと言って全部出してから食べる。

「えぇ? 何でおじゃる丸詳しいの? ハクは〈ぐ〜チョコランタン〉世代では?」

「俺が知ってんのその前の双子の犬っコロだわ。怒ったオオカミ〈お〉が頭から離れねえっつー、刷り込み通り越してもはや洗脳レベルだな」

「私、オオカミよりもバリ舞踊に洗脳された『デ・ポン!』世代だし、めっちゃ一緒に踊ってた女子選手権があったら県代表になれるレベル」

何故か自信満々に言う。

「そんな代表戦無いから安心しとけ。それよりさ、お前の食事、ブルックとカバおくんがフュージョンして、アンパンマンの顔食ってるようにしか見えねーわ」

天下無双の他流試合をかます。

「何で〈カバおくん〉なの? そこはせめてドキンちゃんにして」

細菌でもばい菌でも女子希望。しかし何故かブルックは受け入れる。

「いつも『お腹すいた〜』つってるのカバおくんじゃね?」

「何でアンパンマンまで詳しいの? 信者?」

意外と充実したハクのちびっ子時代に流衣は驚く。

「んなわけねぇだろ、保育園で昼寝しねぇと見せられんだよエンドレスで」

(どうしても昼寝出来なかったんだよな、んで同じく寝ない奴と遊んでたら喧嘩になって、何故か俺だけ保育士にトイレに閉じ込められたんだよな……やべ、余計な事思い出したわ)

調子に乗ってはなしてたら、小さい頃の余計な黒歴史まで思い出してポツンしてしまう。

「え〜、保育園ってお昼寝あるの?」

「何でそこ気になる?」

「え〜だって羨ましい、幼稚園では〈キリン〉さんはあったんだけど、私その日はワクワクして眠れなかったから」

「馬がいる幼稚園はあるけど、キリン飼ってんの? それ破天荒通り過ぎて破綻しねぇ?」

「〈キリン〉さんは延長保育の名前なの、週一で習い事してて、その時はもう早く動きたくて寝てる子の横で、待ちきれなくてフワフワしてたし」

懐かしい事を思い出した所で、改めて止まってた手を動かして髪の毛を作り始める。

「……延長で習い事ね。その頃からバレエやってたんか?」

「ううん。その頃は新体操のクラブだったの、でも卒園したらクラブも卒業しなきゃならなくて、小学校からの帰り道に通える場所にあったのがバレエ教室で、そこなら行っても良いって言われたの」

懐かしい……リボン、もう一度やりたかったな……。

「ふーん、新体操ね。良かったんじゃね? そこで切り替わって」

ハクが最もらしく相槌を打つように言った。

「へ? 何で?」

好きだった新体操を否定されたようでちょっとムッとする流衣。

「新体操って、フラフープとかの道具使うやつだろ? 棍棒みたいなん回しながらバク転とかするのって、大道芸人の域超えてっけど出来んの? お前不器用じゃん」

ハクは、毎日してる筈の髪の毛も、微妙にズレてるの確認しつつ、現実的な事をぶちまけられて、流衣は言葉を失った。

(言われてみれば……確かにそうかも。それに今まで気付かなかった私って……どこまでガッカリさんなの)

幼稚園児だったので、道具はボールとリボンまでしかやったことがなかった。

「そう思わねぇ?」

ハクは同意が欲しくて一臣にそれを促すが、一臣はまったく違う角度で見ていた。

「新体操……だからタックインなのか」

突如一臣の声が聞こえて来てボー然としてた流衣はハッとした。

「ええっ、私タックインしてる?」

さらにギョッとして聞いた。

「タックイン? なんじゃそら」

ハクのとって意味不明な言葉が飛び交う。

「いつも?」

流衣は恐る恐る一臣に聞く。

「立ってる時」

「うそぉ」

(立ってる時? ダメじゃんそれ、引き上げ出来てないって事じゃ無い! アンデオールはどうなんだろう、足一番に開いてる?? も〜〜いつも先生に言われてるのに〜! 自分で気付かないといけないのに〜〜!)

頭を抱えて猛烈に悔しがってる流衣を尻目に、何をそこまで悩んでるのか分からないハクは、一臣に答えを求め視線を向けた。

「タックインはボトムスにシャツを入れ込む状態の事だけど、ストレッチで言うと反り腰の逆の意味」

簡潔に説明する一臣。

「んー? 反り腰の逆ならいんじゃねーの? なんで悩むよ?」

「……う、でもバレエでタックインはご法度で……」

なんて言って説明したらいいのか分からず語尾が濁る。反り腰(前傾)は問題だが、タックイン(後傾)もよくない。十年もバレエやって来て、ここで姿勢が間違ってた現実がズッシリと乗り掛かって落ち込んだ。

「ご法度?」

何がダメなのかハクには分からなかった。

「その位置から脚を回したら外旋異常で脚も腰も悪くなるからかな……。でもそのおかげで筋肉が綺麗に均等に付いて脚が細いと思うんだけど」

—ん? キレイ?

一臣のセリフに反応する流衣。

「新体操の選手って確かにいい脚だよな、オリンピックでしか見た事ねーけど」

いい脚……? キレイで良い脚?

「今、美脚っていった?」

流衣がご都合主義的に二人の話を抜粋して嬉しそうに言った。

「何喜んでんだよ図々しい、言葉を合体変形させてね? 体操選手の話だぞ、お前バレリーナだろ」

無邪気に喜ぶ流衣を、デスってイジメたくなったハクは突っ込みだした。

「えっ、そんな〜! 褒めてくれたんじゃ無いの? 折角気分良くなったのに〜。ハクのケチ!」

「何だよケチって、おれが言ったのオリンピック選手だわ、世界のトップレベルと比べる方がおかしくね?」

ハクは面白がってからかってるだけだが

「何でそこで比べるかな〜! どーせ私は日本の東北地方で田舎の、その中でも更に小さいバレエ教室のチビ太な生徒ですよ〜だ! いーよも〜〜っ、ローザンヌで玉砕して来るから!」

流衣は自己否定してイジケ出す。

「いや、散らすな散らすな。昭和すな、平成戻ってこい」

ドウドウと荒れ馬を落ち着かせようとするハク。

「どーせ奇跡でまぐれなんでほっといてっ」

イジケついでにソッポを向く流衣。

「奇跡がどうかは別として、偶然まぐれでは無いと思うけど」

お冷グラスを傾けながら一臣が喋った。

「へ?」

……流衣はつい一臣を見た。

「教室の大きさと身長がダメなら、国際コンクールに選ばれてないだろうし、ヨーロッパだとスタイルも才能のひとつだから、脚が綺麗なのはいい事だと思うけど」

「……えっ」

一臣は思った事を口にした。だが、流衣は〈脚が綺麗〉の妄想合体では無いガチの一言が心に突き刺さり、それ以上何も言えなくなった。

(脚が綺麗……って、ウソ……褒められた……? 何で……本当に? なんか、ちょっと……ど、どうしよう〜困る。……やだっ、凄い……恥ずかしい……)

赤くなってオロオロしてる流衣を見て、ハクも言葉を失った。

(出たな、どストレート……こうなったらもう職人だわ)

もはや感心する。

「食べ終わったけど、行く?」

区切りを付けて、出発を促す一臣。

「あ、はい。と、ちょっと待って」

流衣は返事をした後、気を取り直して、手に持ってた髪の毛をいじる道具を仕舞い、ソファに落ちている自分の髪の毛を集めてゴミ箱に捨てた。準備を整えカバンを抱えると。

「すみません。お願いします」

「?」

一臣は、何故謝られたのか分からなかったが、送迎をするのもすっかり慣れた感覚で店を出るのだった。

(先輩と後輩つーか、上司と部下だな、どう見ても同級生に見えねーなコイツら)

ハクはのんきに煙草に火をつけた。


 スタジオまで送って貰って来た流衣は、ひとりになって落ち着いてコンテンポラリーダンスに思いを馳せた。最近Jrのクラスが一クラス増えた為に、木曜日の夕方も埋まってしまったので、上級クラスが始まる7時まで空いてる月曜日が、貸切状態で使える唯一の曜日なのであった。流衣は準備を整え時間を確認するとまだ5時前、みんなが集まって来るまで余裕がある、ゆっくりと振りを辿ってみることにする。

 身体は正面、顔は下手の上方を見て、体の前で腕を掴んで囚われている様なところから動き始めた。

——後ろに引かれて行く、誰にだろう、

どこに……嫌、そっちに行きたくない。

ここはどこ? 狭い場所、少し動くと行き止まり。

壁……壁がある、ここから出たい、どこから出ればいいの? 

出たい、出して、引っ張らないで、誰なの? 

やめて私に触らないで。

 ひと通り踊ると、流衣は首を捻った。

……まとまらない。なんだか取り留めがない。誰に引っ張られてるんだろう……。

解放して欲しいのに、出たくないのかな……???

え〜と……私のお脳味噌が沸騰しそう、ダメダメ沸騰させたら風味が飛んじゃう! 灰汁も取って直前で火を止めないと……っておみ汁作ってる場合じゃ無くて、おみ汁……おみくん……いやそこで変換しちゃダメだし。脚キレイなんて……生まれて初めて褒められちゃって、どうしよう、返す? 褒め返しちゃう? どこを……って全部だし! 褒める所だらけだし! 私と違って……って、私の褒められるとこって脚だけ……?  

「あ〜もーやっ!」

なんで集中出来ないの! 私の馬鹿!

情け無くて自分に呆れて叱咤した。

……でも違う……。踊りに集中できないのは、曲の理解が足りないのでも、臣くんに恋焦がれてるんでもなくて……重なるの〈Libera me〉の踊りと臣くんが。臣くんを見てると〈Libera me〉が頭をよぎる。

 

踊りと一臣が重なって、既視感デジャブの様な感覚が流衣にまとわりつく。

 

それなのに、重なるのにピッタリとは合わない違和感があって……なんだろう?

重ならない……ズレてる?

……そうだ。出たいのに出れないじゃなくて、出られるのに出ない。……そんな気がする。

それは踊りなのか臣くんなのか……分からない。

何に囚われてるんだろう……。でもそれって私が理解して良いの? いやそれより、そもそも私に理解できるのかな……?

もしかしたらこれ、これって……。

「選曲ミス……?」

いまさら青くなる流衣。

でも……変えたくない。目標を変えるのは……なんか嫌。

もし踊りこなせなくて、周りの人達に笑われたとしてもいい、このまま進みたい。

「やっぱり来てた。おはよう、流衣ちゃん」

曲をかけてもう一度踊ろうと動きかけたところで、後ろから美沙希の声が聞こえた。

「おはよう。美沙希ちゃん、早いね」

振りくと、レオタードに着替えた美沙希が立っていた。

「聞いたよコンテ〈Libera me〉踊るんだって?」

「言おうと思ってたのに、よく知ってるね美沙希ちゃん、金田先生に聞いたの?」

美沙希はルイに近づき、床に座ると柔軟を始めた。流衣のアップは終わってるが、美沙希に付き合って床に座り、足の甲のストレッチを始める為に足裏を念入りにほぐし始めた。

「そうなの、午後から発表会の役付きの子たちが集まって特別レッスンしたから、その時にちょっと話したの。金田先生がね、流衣ちゃんのこと『チャレンジャー』だって言ってた」

「そうなの⁈ ……私って無謀……?」

昨日は何も言ってなかったので少しショックを受ける流衣。それをみて美沙希が微笑んだ。

「褒めてたよ、金田先生。度胸があって良いって」

「度胸……それ良いのかな」

自分が度胸があるかどうかよく分からない、流衣は少し悩んでしまった。

「良いに決まってるじゃ無い。そこ悩むの変だよ流衣ちゃん」

流衣の返事にクスクス笑って、美沙希は開脚してゆっくり前に体を倒した。笑いながらそうする事で腹筋により力を要した。

「美沙希ちゃんはこれから毎週〈S〉さんに行くの?」

「うーん、〈リラ〉は以前にコンクールで踊り込んだバリエーション以外をやれば良いから、Sスタでレッスンは12月に入ってからで良いかな、って思うの」

Sスタジオでは通常のレッスンでは発表会の演目はやらない。出演しない生徒の為である。例外はジュニアクラスで、全員参加のため通常レッスンでも行われる。

「リラは出番多いよね、でも美沙希ちゃんなら誰とでも呼吸合わせられるから大丈夫そう」

踵をおしながら甲を伸ばす。痛みが出たところで一旦止めて、また押し直し、少しずつ掘り下げて伸ばして行く。

「Sスタって日曜レッスン、チケット制なんだよね」

「そうなの?」

「そう、しかも発表会専用だから、使い切ら無いと無駄になっちゃうの。だから計算して買わなきゃならないし、そこが面倒臭くてね、それで12月だけにしようと思ってるの」

裏事情は辛辣だった。通しのリハーサルはチケットが発生しない全員参加なので、そこだけに参加でも良いのだが、周りとの兼ね合いもあるので、それをするほど図々しくはなれなかった。

「大きいスタジオ大変だね」

「日野先生が良心的過ぎるんだよね、月謝以外は殆どかからないしね」

「うん」

それを享受している流衣は頷くしか出来なかった。

「ねぇ流衣ちゃん、アップ終わってるんでしょ? 見たいな〈Libera me〉」

「本当? 見てくれる?」

同世代の意見を聞けるのは嬉しい。しかも美沙希は流衣にとって一番のアドバイザーである。流衣はいそいそと曲をかけに行き、揚々と踊り出した。


 曲に合わせて踊ると、さっきとちょっと違う感覚に入った。

身体に何か纏わりついてるみたい……

これは? 

何?

もがいても、動いても取れない何か……

目に見えない何かが有る……。

止めて……止めて欲しい、何を?

……私を!

(あれ?)

曲が終わって流衣は我に帰った。

 美沙希に見られてるせいなのか、曲に合わせて踊ったせいなのか、一臣と重なることはなかった。でも今度は、身体に何か纏わりつかれてる様な感覚になって、何かに囚われている感覚のさっきの踊りとは違う物になった。

あれれ? 何でこんなに違うんだろ、曲に合わせたからこっちの方が合ってるのかな?

答えが欲しくて流衣は美沙希を見た。すると美沙希はなんだか複雑な顔をしていた。

「美沙希ちゃん?」

「えっあ、うん。……流衣ちゃん、良いよ。凄く良い」

 美沙希は衝撃を受けた。

(流衣ちゃん……コンテ合ってる……。もがいて必死に逃れようとしてるのハッキリわかる)

去年のローザンヌの課題曲でも有るこの曲は、ビデオで何度か見ていた。

(ビデオでファイナリストの踊りを見た時、みな自分を主張してる動きにしか見えなかったのに、流衣ちゃんは違う……! 最後に、逃れようとして逆に罠にハマる様にも見えた。なんて表現力なの……演技力が有るのは分かってたけど、ここまでなんて……なんだか……悔しい)

 ふたりのクラシックバレエはタイプが違う。美沙希が優雅に大胆に踊るのに比べ、流衣は細かくふんわりと踊る。一歳の差が大きいのと、コンクールで場数を踏んでる美沙希の方が技術的に格上だという自他ともに認めるものがあった。しかしコンテンポラリーは違った。流衣はコンクールの為にレッスンしただけで、美沙希もサマースクール等で東京から先生が来た時に、臨時のクラスを受けただけ、ふたりともほぼ同レベル。美沙希はコンテが苦手で、ローザンヌに挑戦しないのも、それが一因でもあった。しかし今、同じくコンテを享受してない流衣の踊りを見て、その差に愕然としたのである。

「本当⁈ これでいいのかなって、凄く不安だったの」

美沙希に褒められて素直に喜ぶ流衣。

「……うん。本当」

流衣を見た美沙希は、ハっとして答えた。

(やだ私、嫉妬してる……流衣ちゃんに)

それ以上言葉が出ない、素直に喜んであげられない自分が、なんだか酷く醜く思えた。

「良かったぁ。これで美沙希ちゃん位に上手くなれば綺麗に踊れるのにね、なんて……もっと練習しなくちゃダメだよね」

流衣が子供っぽい笑顔で、美沙希ちゃんに追いつく為に練習します。と宣言する姿を見て気が抜けてしまう美沙希。

(流衣ちゃんってば……何でこうライバル意識ないんだろう……憎めないじゃない! もうっ。色んな意味で悔しい)

「流衣ちゃん、この踊りは綺麗じゃなくて、もっとねちっこく行った方が良いかも」

美沙希は感情を抑えてアドバイス。

「ねちっこく? 粘る感じ?」

流衣は手で粘っこい感覚を表現しようとして、思わずぐるぐる回してしまう。

「それは納豆。しつこくというか、纏わりつくというか……」

美沙希も分かりやすく表現しようと探ってみる。

「離れないとか、しっくりこないとか……?」

流衣も踊った感覚を言ってみる。

「それあるね! 痛くは無いけど気持ち悪いとか」

「美沙希ちゃん、それって〈いずい〉じゃない?」

「それ!」

美沙希はビンゴ! と指を出した。

「え〜、ローザンヌに〈仙台弁〉持ち込んじゃうの⁈」

「仙台弁グローバル化構想! 大サービ〜ス!」

「美沙希ちゃん、それミサトさん」

「それは〈サービス、サービス〜!〉」

「そっかぁ〜」

流衣はいつもよりはしゃいでいる美沙希が楽しくて笑顔が弾け。美沙希は弾ける事で、嫌な部分を覆い隠し自分を抑え戒めた。


 6月の最後の日曜日。蒸し暑いその日、大和町の体育館は熱気に包まれていた。小学生公式ドッジボール大会、全国大会をかけた県大会決勝戦、3セットマッチ。ビッキーズ対イクスカ☆スターズ。1対1で迎えた3セット目、五分間の試合が始まろうとしていた。公式ドッジボールの試合は12人制で行われ1名が外野、残り11名が内野からスタートする。先制攻撃の有無はジャンプボールで行われ、各チームから背の高い選手が代表して中央のラインに立ち身構える。

ビッキーズからは2番目に背の高いキャプテンのリュウキは背番号〈1〉。一番背の高いハクは外野スタート。

イクスカ☆スターズからは背番号〈2〉のたくと。ふたりの身長はほぼ同じでジャンプ力勝負。

コート内のお互いのチームメイトと、観客席からの大声援で、本日最後の試合が緊張感と共に盛り上がる。

「リュウキ」と「たくと」コールの中、主審が4人の線審に向かって一人づつホイッスルを短く吹いて準備を促すと、黄色い旗を上げて応える。向かいの副審に合図して最後にタイマー。それが終わると主審は強目のホイッスルを吹く、それと同時に主審の手からボールが高く上げられた!

 試合開始。

 ジャンプしてボールに触れたのはリュウキ、思い切り味方コート内に落とした。拾い上げたのは五年生アタッカーのジュン、すかさず相手にアタックをかけ見事にアウト、相手の〈4〉番の子が外野に走っていく、その間も試合は続行する。ドッジボールの試合はタイムアウトは無い。タイムは審判の審議、又は首から上のヘッドアタック(基本的にセーフになる)と呼ばれる危険球、それが発生した場合の安全確認の為の主審もしくは副審のタイムのみ。それ以外はストップは無く淡々と試合が進んでいく。学校で行われるドッジボールとの違いは、パスの仕方。味方内での内野同士、外野同士のパスは違反。味方同士でパスするのは外野と内野が交互でなければならず、そのパスも4回まで、5回目は必ずアタックをするのがルール。ボールアウト(外野超え)はノータッチならば相手ボール、外野がワンタッチしてれば外野ボール、例えワンタッチでも、手首から上の部分でなければならず、それ以外の身体や足に当たってボールが外に出たら相手ボールになるという細かなルールがある。

 試合はとられたら取り返すの一進一退の状態で残り一分。ここでハクが痛恨のミス! 

(やばい低い!)

遅かった。案の定、相手のカットマンにボールを取られた。

この小柄な背番号〈3〉カットマンの動きと、早いボール回しで決勝に進んだチームなのである。相手ボールになった瞬間に守備体制になる、ここでのチームワークが勝敗を左右すると言っても過言ではない。守備体勢の前傾姿勢を取りチームメイトとの隙間を埋める。

そのカットマンは、ボールを取った勢いのままアタックを掛け、その勢いに負けたビッキーズ5年生の〈12〉の肩当たって落ちた。

これで9対8になりビッキーズは追い込まれた。

残り43秒。

チームメイトの〈12〉をアウトにしたボールを拾い上げ、リュウキはアウトを取るべく、渾身の力でアタックを掛けた! 

焦った為か、力んだ為か狙いがずれた。

身体のど真ん中に入ったボールは、相手キャプテンの懐にガッチリと収まった。

「戻れ!」

リュウキが叫んだ!

スターズのキャプテンは守備体勢に入れてない子の所に勢いよくアタックをかけると、味方の〈9〉番の腕を掠めて落ち、反動で相手チームの外野の子の足に当たりそのままコートのラインを超え、ボールアウトになった。

「9番アウト!」

主審のコール。

これで9対7、

ここに来ての二点差は最悪である。

ビッキーズ内野ボールになって、ボールはリュウキに手渡された、ボールアウトになったボールは、主審の合図が無いと投球が出来ない、リュウキはボールを高く掲げてその合図を待つ。

心臓がバクバクする。

焦る、気持ちが早る。

早く早く早く! 

主審の合図が遅い! 

——逆転は無理だ。

その時ベンチの監督の声が飛んだ。

「まだ12秒あるぞ!」

まだ12秒——

——諦めるな。

ピッ! 

主審のホイッスルで動きだす。

リュウキは外野で手を上げてるハクにパスを出した。正確に。

方法はひとつしかない。

1回2回。

 パス回しで相手を揺さぶる。相手の選手達はその度に前後に移動する。

——ここだ!

そう感じたハクは、リュウキに目掛けて高い位置から投げた。カット出来ない絶妙の位置。

3回目のパスを受けたリュウキは、パスの直後に移動した外野のハクの動きをしっかり見ていた。

「ハクー!」

「頼む!」の願いと共に絶叫してボールを投げる。

サイドに位置していたハクにボールが委ねられると、間髪を置かず、ハクは逆サイドにいる相手選手の胸を狙った。避けられない位置のボールを取ろうとしたが、スターズ〈2〉番の腕を弾いてボールは床に落ちた。

会場からは一斉に大歓声と悲鳴が上がった。外野からの攻撃でアウトを取れば内野に戻れる。

二点ビハインドからの一発同点!

「2番アウト!」

主審のコールと試合終了のタイマーのブザー。さらに直ぐ主審の試合終了のホイッスルが鳴り響き、それと共にハクは内野に戻ってきた。

これで同点。

「ナイスアタック!」

「よしゃあ!」

「やったやった」

内野数を確認する為、選手である子供達は横並びで座わらなければいけない、ハクはリュウキの隣に座って近場の子達とだけハイタッチ。遠くの子とはエアタッチ。

「やっぱりハクだね!」

リュウキはサブキャプのハクを〈困った時のハク頼み〉化してる。

応援席は優勝したかのような大騒ぎだが、子供達は冷静だった。

「同点だからまだヤバい」

ハクはキャプテンを嗜めた。

「だね。外野ヒロトしかいないし」

リュウキも分かってる、喜んでばかりはいられない、勝負はこれからだ。なのに外野にいる5人の中で、アタッカーはひとりだけ。5年生のヒロト。相手のスターズは12名全員6年生だ、しかも外野は生きてる。ビッキーズは明らかに不利だった。

「報告します。ビッキーズ〈8〉。イクスカ☆スターズ〈8〉。同点の為、これからサドンデスを開始します。ジャンプボール!」

残り時間一分からの攻防で同点に追いつき、そして、これから時間制限無しのサドンデスが始まる。誰かがアウトになるまで問答無用で続くのだ。

——ジャンプボール。

立つのはスターズからは最初と同じくタクト。

ビッキーズからはキャプテンに変わってハク。

 試合に参加した16チームの選手たちが見守る中、まさしく最後の熱戦の火蓋は切られた。

主審のホイッスルと共にボールトス。

 ハクとタクトは同時に飛んだ。が、小六で170センチ超えのハク。10センチは差がある相手にたくとが敵うはずもなく、ハクはあっさりボールに触れ、まるでパスする様にリュウキの前に落とした。

ビッキーズ側が湧いた。先制攻撃を取ると士気があがる。

リュウキは隙の無い相手を揺さぶる為のパス。

外野から戻ってきたボールを受けて攻撃するが、キャッチされた。

スターズの攻撃も、ポンポンポンとパスの応酬の後アタック!

五年のカイトが見事にキャッチ!

カイトからヒロト、そしてハクにパスが回った。強いチームは戻りが早い隙がない、打てずにやはりパス、取ったヒロトは右サイドの相手を狙いアタックするもキャッチされた。

一瞬でも気を抜いたら当たってしまう。

内野の選手の緊張感は半端ない。

集中、集中、集中!

迷わない

攻める

守る

全力で!

——落としたら終わる——

 ただでさえ梅雨時の蒸し暑さで汗がネットリと身体を滴る中、県大会の頂上決戦は実力伯仲。小学生といえど緊張と興奮が全身を駆け巡り、会場の体育館はオリンピックの様な盛り上がりを見せる。

お互い一歩も引かぬまま、2分が過ぎた時それは起きた。

スターズボールでパスが回され外野から内野にボールが渡った、その時——

「あっ!」

汗が落ちた床に足を取られたリュウキが転倒。

会場が凍りつき、応援席から息を吸い込んだ恐怖の悲鳴と隠し切れない喜びの叫び声が聞こえた。ボールを手にしたスターズのキャプテンはそこに目掛けてアタックを打つ。

——終わった。

誰もがそう思った。そこへ——

ハクが滑り込んでリュウキの前に出ると代わりにボールをキャッチした!

一転、会場がどよめいた。大歓声が湧き上がって敵も味方も声を上げた。

「ナイスフォロー!」

「よーし‼︎」

ベンチからも、いつも厳しい監督とコーチから思わず声が出た。

キャッチされると思ってない、すっかり『勝った!』と思っていたスターズの選手達は、攻撃体勢のまま八名はバラバラの位置、ハクは立ち上がり速攻で相手のど真ん中の奴を狙った。

スターズのキャプテン〈1〉の胸に当たり床に落ちワンバウンドで〈1〉番はボールを掴んだ。

ビッキーズと応援席から喜びの声が響き渡った!

いつも飄々として、あまり大声を出さないハクも「シャア!」と自分の胸の前でガッツポーズを取った!

しかし、アウトコールが無い。

明らかに床に落ちた。——でも

主審も副審もホイッスルを吹かない、線審の4人も誰も抗議しない。

あれ?

え? え? 

ハクもリュウキもチーム全員の思考力が止まった。

「ディフェンスー‼︎」

ベンチから監督の激が聞こえ、咄嗟にコートの中央に寄って姿勢を取った。

アウトコールが無い為、試合が続行された。

——まさかの審判の見落とし、ミスジャッジ!

選手達がバラバラに位置していた為見えなかったと言えばそれまでだが、ここ一番の大事な場面での誤審は、審判の資質が問われる後世の課題であった。

 ボールを所持していたスターズ・キャプテンは、外野にパスを回した。集中力が切れてしまったビッキーズの子達に乱れが生じ、動きが散漫になった所に、相手チームの外野から渾身のアタックがかけられ、仲間の体からボールが落ちていくのを無常にもチーム全員が見送った。

「6番アウト!」

主審のコールが聞こえ、試合終了のホイッスルが鳴った。

「ビッキーズ〈7〉 イクスカ☆スターズ〈9〉 よって、イクスカ☆スターズの勝利です」

負けた? 

えっ

——ウソだ。

オレ達、勝ったのに、負けた——

ビッキーズの子供達の目から一斉に涙が溢れ出た。

「整列!」

主審が最後の挨拶の為並ぶように促す。勝ったチームの子達は、飛び上がって喜び合いながら、一列に並んだが、ビッキーズの子達は誰も立てなかった、突っ伏して泣いてるのは最後にアウトになった子だ。

見兼ねた監督がベンチから出てきて近い場所の子から、立たせていった。

「まだ終わってないぞ!」

監督の一言で、涙を流したままでハクは立ち上がり隣のリュウキの腕を掴んで立ち上がらせ、なんとか整列し、向かい合ってお辞儀する。

「ありがとうございました!」

勝利したチームの元気な声がこだまする。

「あ——、とう、いま——た!」

悔しくて、ハクは負けずに大声を出したが、言葉にならなかった。

こんな事あんの……?

ムカつく

悔しい、悔しい……

公平じゃ無いじゃん!

ふざけんなー‼︎

訳がわからない、乱れた気持ちのまま試合が終わった。

 会場のあちこちから歓声と溜め息がもれ、満場の暖かい拍手が送られたが、子供達の耳には届かない。悔しさのあまり……出るのは涙だけ。

……小学生最後の夏の大会は、ここで終わった。勝負の厳しさと残酷さを体感した六月の出来事。しかしこれは本当に最後の三月の春の全国大会に向けての前哨戦であり、全国制覇に向けての布石であるのだが、それはまた別の話なのである。






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