第5話 恋の予感
後悔先に立たず。正しくその言葉を実感した安原は重い足取りで歩く。今年の初めからついてない。事故に関しては大方の予想通り、梶の前方不注意で処理された。相手のオヤジが国分町でしこたま呑んで、酔っぱらって運転して眠くなった場所に、勝手に車を停めて寝てた為に起こった事故。逆に警察に同情されたくらいだ。中古で買ってから十年も乗った傷だらけの車は廃車になり、わりかし程度の良い中古車に代わった。親父にはこっぴどく叱られたが、運転してたのが息子ではなく、素行の悪い息子のダチが無理矢理ハンドルを奪って運転したことになって、殴られずには済んだ……。警察から学校に連絡が行き、車もバイクも運転禁止の校則違反で自分と梶は3日の停学を食らい、外見上はそれで終わった。けれど誰にも言えない後味の悪さだけが、残ることになった。
その日以来安原は梶に頭が上がらない。梶が右と言えば右。左と言えば左。の生活を送らざるをえなくなったのだが、嬉しくは無くても嫌では無かった。この辺りで梶に頭が上がる奴なんか居なかったからだ。梶は強い上にイカレっぷりは有名で、梶が通るとみなが怖そうに避ける——一緒にいるとこっちも気が大きくなれ気分が良かった。
そう、誰も金属バットを持ち歩く、いかれ野郎に喧嘩をふっかける奴なんて居なかった、アイツが現れるまでは……。
あの背の高い〈泣き黒子〉だけは他の奴と違った。コンビニの前で〈奴〉が俺たちの前を通り過ぎた時、梶がスカし顔が気に食わねぇと言って殴りかかった。その時は梶と今田と自分の三人に、東高の制服を着たすかし顔の〈奴〉は顔が血塗れになるまで殴られていた。次に遭ったのは連休最初の土曜だった。やはりコンビニの前だ、以前にあんなにもボコられたのに〈奴〉は逃げるどころか恐怖心さえ表さず、平然とオレらの前を通り過ぎた。梶は目立つ男だ、いつも同じ上着に金属バット。わからない筈が無い……なのに通り過ぎた。
——まるで何事もなかったかのように——
その動じない優等生然とした知らん顔に梶がキレた。以前とは比べ物がならないほど〈奴〉は、ボコボコにされた。だが〈奴〉は他の奴とは何か違った。前回は三人、今回は五人の男によってたかって殴られているのに抵抗もしない。悲鳴も、呻き声ひとつあげない。殴られてるのに……痛くないのか? なんかコイツおかしいぞ……。段々と薄気味悪くなって梶以外は殴るのを辞めていった。程なくして梶も疲れたのか殴るのを止め、汚い言葉を投げつけると気が済んだようで血だらけの〈奴〉から離れた。
これでもう目の前を素通りするなんてことは無いだろう、今度オレらを見たら姿を隠して通り過ぎるのを待つ筈だ……みんなそう思った。
連休明けの日曜日の夜中に、五人でいつもの様にコンビニで屯して、その後飽きてダラダラ歩き出した。何気に梶がマンションの駐車場に止まっていた真っ赤なアウディにタバコを投げつけた、するとボンネットに黒い焦げ跡が付いた、それが面白かったのか、新たにタバコに火をつけて、アウディのボンネットにそれで次々と模様を付けだしゲラゲラ笑っていた。
「ドット柄のアウディじゃん」
「おっしゃれー」
今田や後藤もその行為を煽る様なことを言った。
そこへ〈奴〉が現れた。
〈泣き黒子〉の〈奴〉は、道路側からフェンス越しに冷めた目でオレ達を上から見下ろした。その風貌に一瞬、息を飲んだ。
何だコイツ……、あれからどのぐらい経った? 何で普通に歩いてんだよ……。他の奴なら間違いなく病院送りだ。五人に寄ってたかって殴られてんだぞ⁈ 梶の蹴りをあんだけ喰らって、骨の一つも折れてねーのかよっ、バケモンかコイツ!
しかし〈奴〉を見て一歩引いたオレ達なんかお構いなしに、梶が動いて奴に近づく。
「っんだよ、おかわり希望か? オレの蹴りが足んなかったんかよ」
梶はそいつに近づいてニヤつき、舐め回す様に視線を巡らす。
「……俺の何が気に食わないわけ?」
梶の気味の悪い視線を意に介さず、ゾッとする様な冷たい口調でそいつは言った。
「反抗期かよ? ちゃんとママのオッパイしゃぶってきたか?」
ニヤつき金属バットを左の肩に乗せながら、男を挑発する梶。
『坊ちゃんらしく、かーちゃんと乳繰り合ってろゲイ野郎、バーカチーン』
前の梶の捨て台詞を思い出した。
「——それは答えになって無い。気に食わない理由は?」
無表情で〈奴〉は言った。
梶は金属バットを右手に持ち替え、次に右肩に乗せて落ち着きなく動かした後、そのバットを〈奴〉の顎に添えて睨み付けた。
「……そのツラかな……」
〈奴〉は、そのバットを払う訳でなく、ゆっくりと自分の顎をずらして離した。しかし梶はしつこく金属バットを〈奴〉の顔に這わせた。顔を左右に動かしてバットから逃れようとするが、執拗に後を追いかけられると〈奴〉が初めてバットを握り締め、顔から離した。……梶の顔色が変わった。
こいつやる気だ!
そう思った途端、さっきまでの違和感が嘲りにかわった。
5対1だぞ?
この状態で喧嘩をふっかけるなんてタダのバカ! 恐れ知らずの変態野郎じゃねーか!
「へっ、ここじゃ目立つからよ、場所変えようぜ」
そう言って梶は金属バットを担ぎ、マンションよりも国道沿いにある解体中のビルに向かった。〈奴〉もその後に続き、後の4人も歩き出す。
解体現場の防音幕を潜り、5対1の形に陣取った、そして〈奴〉は梶では無く、オレ達に目線を合わせて言って来た。
「一応聞くけど、俺の何が気に食わないわけ?」
「気に食わねぇ? ムカつくんだよ、おめぇみたいなの」
今田が答えた。一番後ろで梶が睨みを効かせてる。
「それ、人を殴る理由になる?」
そのすっとぼけた、人をバカにした様な質問に後ろで梶が舌打ちした。それが合図だった。
「十分だろーが!」
腹が立った後藤が前に出て殴りかかった。
——〈想定外〉って言葉が、震災後にやたらテレビで出てきやがる、偉そうなおっさん達が椅子に座って机の前でウンチク垂れながら、地震が大きかったから〜だの津波の高さが〜とか言ってるがな、何が〈想定外〉だ、タダの〈予想外れ〉じゃねぇかっ、くっだらねぇ! おかしな難しそうな言葉作って遠くからガーガー言いやがって、あームカツクッ、それは言い訳って言うんだよ! 〈想定外〉ってのはな、五対一の五人の方が病院に来てるってことなんだよっ!
「ありえねぇ……」
急患センターの待合室から少し離れた廊下で、今田が後藤と話してるのが聞こえて来た。梶と菊池は治療中だ。
「あのデカい男何なんだよ」
「知らねーよ、あいつのダチだろ」
途中からしれっと入って〈奴〉に味方になりやがったデカい長髪男。ケンカ慣れしてる様にはみえねーのに……やたら馬鹿力だった。
「おい安原」
今田が声を掛けてきた。
「んだよ」
「もうすぐ警察がくんだろ? どう言うんだよ」
病院側は理屈に合わない怪我などの場合、報告義務がある。
「どうって……ケンカじゃね?」
〈奴〉にやられたでいーじゃねーかよとウンザリしながら思った。ココから逃げたくても、後のことを考えると動けねえってのに。
「それじゃこっちの部が悪いだろーよ、証拠もねーし」
「何でだよ」
ムスッとして聞き返した。大怪我してんのはこっち側だ。
「オレら一発も殴られてねーんだぞ!」
安原はハッとした。
「警察があいつを見つけたとしたら、あいつはオレ達に殴られて青痣があるはずだろ? しかも顔に! どう言ったって向こうは正当防衛で、下手すっとこっちが傷害で捕まんだろーが!」
ーその通りだ。
〈奴〉はそれを分かってやったのか……? まさか……。
安原はその場にあった長椅子にドッカリ座った。その時、待合席の方から親子連れがこちらをチラチラと気にしてる視線を感じた。子供が熱を出したらしく、額に白いシートを貼った子供がぐったりと母親にも垂れかかっている、似た様な親子連れが二組、静かに順番を待っていた。その家族が視線が合わないようにこちらをチラ見している。安原の乱暴な座り方と、今田の興奮した声のせいだ、この距離なら内容までは聞こえないだろうが、心象が悪いのは明らかだ。今田と後藤、安原は一様に黙り込んだ。3人はここで騒ぐほど馬鹿ではない。取り敢えず当たり障りのない事の成り行きを考えた。
『解体現場に潜り込んでタバコを吸ってたら、二人が言い争いになって、揉み合ってる内に二階部分から落ちた』
という事で口裏を合わせる事にした。
それから5ヶ月が過ぎた10月。赤嶺という同級生に呼び出された安原は、約束の場所である某大手回転寿司チェーン店の駐車場に来た。店は震災後の最大余震で打ちのめされ撤退していた為、営業しておらず、やたら広い駐車場も出入り口も広いせいなのか、ロープを張るどころかコーンさえ置いてない。完全に出入り自由だ。
「遅いじゃねーか」
軽自動車の窓から梶が顔を覗かせ文句を言う。呼び出されたのは11時過ぎ、今現在深夜1時を回っていた。そこに赤嶺の姿は無かった。
「赤嶺なら帰ったぜ」
安原が車の中を覗き込んだのを見て、梶はそう付け加えた。
「んだよ、人を呼び出しといて……」
そう言いながら視線は車のロゴに集中した。
〈ひだまり荘〉——そう書いてある。
「何だこの車?」
怪訝そうに車を眺め回すと下の方に小さく
〈デイサービス、短期宿泊、長期宿泊〉と書いてある、老人介護施設の送迎車だ。
「パクるなら普通車にしろよ」
こんな車目立ってしょうがない。安原は呆れて言った。
「ひっと聞きの悪りぃ、置いてあったんだよここに」
相変わらずの薄ら笑いを浮かべ何かに、酔った様な口調で、梶は運転席の窓から腕をニョッキリと出して地面を指差した。
「鍵がな」
どうやら運転手が鍵をかけて、その場で落としたらしい。運のない奴——。
辺りを見回すと何台か車が明らかに違法駐車している。この辺のアパートの住人か客人か、はたまた小さい居酒屋が何軒かあるからそこに来たのか……。その客かどうかは分からないが、駐車場の入口が閉鎖されてないから不法駐車は仕方無いのかもしれない。
「乗れよ」
梶に促され、安原は助手席に乗り込んだ。
「東高の〈スカし野郎〉は藤本って名らしい」
「〈藤本〉……何で分かった?」
言いながら(しつこいな……)と安原は思った。忘れちまえばいいのに、と。しかし同時に『無理ねえか』とも思った。あんだけしてやられたら、梶の面子が立たねえ。急患センターに二人を連れて行った時、菊池は応急手当てして「明日、脳外科外来に行ってでCTスキャン撮ってもらいなさい」と言われて帰されたのに、複雑骨折の梶は緊急オペが必要で別の病院に移送された。その後に一ヶ月も入院して退院したらリハビリが始まる筈が、梶が大人しく医者の言う事を聞くわけもなく、退院後一度も通院しなかった為、たまに脚を引き摺って歩く仕草をする事になった。傷が痛む度に〈奴〉=〈藤本〉が目に浮かんで憎むはずだ。
—自業自得だが、それを真っ当に受け止めるだけの心理が働く男じゃ無かった。
「赤嶺がな、中学でサッカーで対戦した奴じゃねーかって、言ってきやがってな〈泣き黒子〉でピッタシ」
「赤嶺ってサッカーやってたのか」
……イメージねーけど。安原は考えたが、サッカー部が成立するほど二部制学校に人数もいなかった。
「赤嶺が3年の時〈奴〉が1年で出てたってな、んでその試合で〈奴〉に怪我させられて負けてやめたってよッ。ひでー話だろ?」
何がそんなに可笑しいのか分からないが、相変わらずニヤけながら話す梶。
「……常習犯かよ」
サッカーなんて怪我は付き物だし、三年の試合なら引退で辞めたんじゃねぇのかと思ったが、そこは何となく梶の考えてる方向に合わせた。
突然、梶が〈ひだまり〉号のエンジンを掛け、アクセルを全開で踏んだ。軽自動車とはいえ最大の空ぶかしは、かなりの音が鳴り響いた。
「おい。エンジン焼けんじゃねーの」
マフラーから白い煙が上がってるのを見て安原は忠告した。
「へッ!」
威嚇するように声を出すと、アクセルを踏みながら同時にブレーキを踏み込み、ギアを一気に〈D〉に入れブレーキを離した。
「うわっ!」
車が勢い良く前進しフェンスに激突した!
フェンスは車の前方を抱え込む様にグンニャリと曲がった、しかし梶はアクセル全開のまま、そこから脱出しようとしない。
ギュルルルル!
タイヤは回り続け、焼け焦げる様な匂いとケムリが出ている。
「おい⁈」
同乗している安原はタイヤが焼き切れそうなのに加え、この音で通報されるのではないかと気が気でなかった。
梶はまたアクセルとブレーキを同時に踏んで、今度は〈R〉にギアを入れブレーキを離した。やはりアクセルは全開のまま。車は勢いよく弧を描きながらバックし、店舗の後ろの出入口のドアに突っ込んだ。梶が顔を歪ませて笑いながら、アクセルを踏み続ける……。
—その光景が異様で安原はゾッとした。
「常習犯なら、お仕置きしねーとな」
梶はペロリと舌で唇をひと舐めすると、ギアをドライブに入れ直し、ハンドルを切って道路に向かって勢い良く発進させた。
流衣が一臣に送迎してもらう様になってから、既に10日が経とうとしていた。『時玄』でバイトする火、金、土曜日はともかく、何故かバイトの無い、月、水、木曜日まで送迎して貰ってる。
「面倒くさく無い……?」
流衣が聞いても。
「別に」
それしか返ってこない。
「気にすんなって」
ハクはそう言う。曖昧なまま10日……。
「……うーん」
流衣はひたすら迷っていた。数日前、久しぶりに三人で遅い夕飯を食べる事が出来たので、母親に思い切って言ったのだが——
「土日休めないから当分無理よ、自分の事は自分でしなさいっていつも言ってるでしょ!」
と言われてしまった。自分ではどうしようもないから頼んでるのに、ちょっと支離滅裂な答えに困っていると、横で聞いていた父親が口添えしてくれた。
「……いや、んな事言わねえで、休んで行ってやってけねぇか、流衣は自分じゃできねえから言ってんだからよ」
「お父さん……」
いつも母に気兼ねして、何も言わない父親がそう言ってくれたので、流衣は凄く嬉しかった。ぶっきらぼうなその言い方は方言が取れないせいなのだ。しかしそれを聞いた母親はカチンときて言い返した。
「だったらあなたがやればいいでしょう⁈ 出来ないくせに、余計な事言わないで頂戴! 土日なんて休めないし、こっちは朝から晩まで働いてクタクタで何だからこれ以上私の仕事増やさないで!」
言うだけ言って部屋に入ってしまった。こうなるともう暫く口も聞いて貰えない。父親もそれ以上何も言わずに下を向いたまま、黙って風呂に行ってしまった。
(私が余計な事言ったからお父さんまで怒られちゃった……ごめんなさい)
流衣は心の中が罪悪感でいっぱいになった。
「だからそれでいいんだって、お前の送迎してれば、こいつ余計な奴からウザいナンパされないだろうから、好都合ってやつなんだわ」
「藤本くん、ナンパされるの⁈」
ハクの発言に流衣はびっくりして聞き返した。
「ブッ」
セキがそれ聞いて運転しながら咽せた。
後部座席で流衣の隣に座ってる一臣も、疑問を投げかける目線を助手席のハクに向けた。
日曜日、セキの車で送迎して貰ってる途中の会話だ。日曜日はバイトは無いので、流衣はバスで直接スタジオに向かう為、9時52分のバスに間に合うように、15分かけてバス停に向かって歩いていた。今日は午後から雨予報90%なので傘を手に持って。すると後ろからグレーの車が近付いて来て、真横でピタリ止まった。流衣は驚いてその車を横目で見たが、見覚えが無かったので怖くなって、なるべくそっちを見ない様に早足で歩き出すと、笑い声が聞こえて来た。
「そこのねーさん、ちょっと拉致られてみねえ?」
聞いた事ある声
「ハク⁈ なんで?」
流衣はさっきより驚いた。ハクがバイクじゃなくて自動車に乗ってる! しかも助手席に!
「乗れよ、送ってやるから」
「おいっ」
ハクがサラッと言った言葉に、セキが何でお前が主導権握ってんだ、この車も運転してんのも俺だ! と怒りを露わにした。
「これ誰の車? これからどこかに行くんじゃ無いの?」
「コイツはセキの車、急いでねぇからついでだよ、つーか早く乗れって」
後部を指差しながら言うハク。ここであんまりもたついてると、周りが自衛隊の基地のため、拉致監禁の疑いをかけられたら、常日頃から鍛錬してる隊員が出てくるかも知れない。
「えっ、でも……」
流衣は眉間に皺を寄せてるセキの表情が気になり、躊躇しながら覗き込むと、後ろにもう1人乗ってるのが見えた。
(藤本くんも乗ってたんだ……)
「ん? あーあ、気にすんな。セキの眉間の皺は怒ってんじゃなくて、肝臓が疲れてるだけの生活皺なっ」
どうしてもセキを中年扱いしたい感丸出しのハクのフォローを聞いて、アホらしくなったのかセキはタバコを咥えて。
「あーもう好きにしな」
開き直った。
「本当? ありがとう」
セキの諦めた様な態度が子供が拗ねてるみたいで可笑しくて、笑いを堪えながらグレーのプレマシーの後ろのドアを開けた。すると腕を組んで座っていた一臣と目が合った。
「藤本くん……えっと、お邪魔します」
「どうぞ」
流衣はホッとして車に乗り込んで座ると、奇しくも教室での並びと同じとなった。でも机を並べてるより距離は近く、自転車の二人乗りとも違うこの微妙な距離感に、肌寒い外とは違う車の中の暖かさと、狭い空間内の同じ空気感。緊張が解け流衣は楽しくなった。
「あの……藤本くん。昨日ごめんね、待たせちゃって」
昨日、土曜日。
発表会に向けてのレッスンに熱が入って長引いた為、一臣を思いっきり待たせてしまった。予定通りには終わらない旨を伝えてはいたものの、六時に終わる予定が九時になってしまった、流石に申し訳なくて昨日に引き続き謝った。
「別に」
あっさりした返事。
「あのね。レッスンがいつまで続くか、いつ終わるか分からないから、土曜日は送迎してくれなくていいと思うの……」
土曜日は〈学校のついで〉という括りが無い、バイトがあるとはいえ、送迎の為だけにわざわざ来てもらうのは心苦しくて仕方ない流衣だった。そこへ見かねた様にハクが口を出した。
「だからそれでいいんだって。お前の送迎してれば、こいつ余計な奴からウザいナンパされないだろうから、好都合ってやつなんだわ」
「藤本くん、ナンパされるの⁈」
ハクの発言にナンパ未経験の流衣はびっくりして聞き返した。
「ブッ」
セキがそれ聞いて運転しながら咽せた。
後部座席で流衣の隣に座ってる一臣も「何それ」と疑問を投げかける目線を助手席のハクに向けた。
(すっごーい、ナンパって本当にあるんだ。それって逆ナンってやつかなぁ? 藤本くんイケメンだし……でもクラスの渡辺さん達が言ってたみたいに声かけずらい気がするけど、勇気のある女の子っているんだなぁ)
自分が話しかけてることを棚に上げて考える、バレエ以外の興味レベルゼロ女子。
「……モテるんだね」
「ブホッ!」
流衣の素直な感想に、セキとハクが同時に咽せた。勿論、ナンパの相手とは女ではなく〈タチの悪い野郎〉共である。その後セキは笑いを堪えてるけど肩が震え、ハクはニヤけながら一臣をチラ見した。
(? 私、変な事言ったかな……?)
流衣だけが意味がわからず首を傾げた。
「あのさ」
一臣がひとつ溜め息を吐いて流衣に話しかけた。
「え?」
初めて正面から話しかけられたので、流衣は緊張してしまう。
「俺の送迎が嫌ならやめるけど、気を遣ってるだけなら考えるの時間の無駄だと思うんだけど」
……至近距離からのダイレクトな問い掛けに、流衣は反射的に答えた。
「嫌じゃない……です」
他に何も浮かばない。
「分かった」
迷いが無い一臣に対して。グタグタと考えてたのが恥ずかしくなってしまった。
(嫌なわけないし……。でも、藤本くんが気にしてないのは分かったけど、それとは別にこんなふうにハクとセキに車で送ってもらっていいのかな……)
なんとなく居た堪れなくなった流衣は、未だ肩を譲ってる運転手に目が行った。
「車持ってたんだ……凄いね」
とセキに話しかけ話題を変えて、自分を落ち着かせようと思った。
「……親父のだけどな」
自分に話しかけられてちょっと驚きつつも答えるセキ。
「そうなの? お父さん車使わないの?」
流衣は普通に疑問を投げかけた。
「タクシー乗りで営業車回してっから、こっちは放置状態でな」
「へー、お前の親父さんタクシー乗務員だったのかよ、じゃあこれ使わねえよな……」
ハクが初耳情報を手に入れつつ、なにか含んだ様な言い方をした。
「だからって好きに使える訳じゃねーからな」
余計な事言う前にセキは先手を打って釘を刺した。
「いや、別に普段わざわざ四輪乗る必要ねーし……。それよりお前さ」
セキの心配を軽くいなして、ハクは流衣に話しかけ始めた。
「私?」
「よくコイツに話しかけれるなと思ってさ、怖くねぇの?」
ハクはセキをのことを言ってる。数十人のヤンキーを一言で黙らせる外見なのに、普通の女子高生が何でためらいなく話しかけられるのか、ハクの中の一般常識の範囲に当て嵌まらず、ひょっとして何か裏でも有るのかと首を捻っていた。
「……別に怖く無いけど」
斜め後ろから前のめりになってセキを覗き込むけど、怖い印象がなくて流衣はキョトンとした。『怖くない』の一言にハクは更に突っ込みを入れる。
「だから何でだよ? ガラ悪いだろ? 普通に! 話しかけれる様子ゼロじゃね⁈」
それを聞いたセキもさすがに黙って無かった。
「テメぇ……自分の事棚に上げてよく言えんな、そっちこそ革ジャンファッション、昭和で終わっててキモいだろーが!」
「ファッションと本体は違うんじゃね?」
「じゃあ俺は本体がイカれてるとでもいうのかよ、テメェのデカい図体だって、人に威嚇かけてるみてぇなもんだろが!」
二人の言い争いに、一臣は〈また始まった……〉と思い、流衣は口を開けたまま茫然と見ていた。
「デカさと関係あんなら、五センチしか変わらないお前だって一緒だろーが! それとも何か?一八五越えるとキモイ認定される法律でもあんのかよっ?」
「法律じゃねぇ、一般常識だ」
一般常識ときて、今まで冗談半分だったハクの方がカチンときた。枠に嵌められるのが何より嫌いな自由人。
「悪かったな常識外れで、どーせ俺は時代遅れだよ。まーお前は最先端だもんな、高身長に色付き眼鏡で、キモいドドメ色のオーラが出てて相乗効果マックスだわ」
「ああ⁈」
白熱し始めて、とうとうセキが車を路肩に停めた。一臣が〈そろそろかな……〉と止めようとした時。
「ぷぷーっ、……やだっ」
隣で流衣が声を出して笑い出した。
「うそお、やだ〜もうっ、どどめ色だって! やめて〜! いや〜ん、おかしい〜!」
男二人が言い争いしてるどっちがキモイかの内容も可笑しい上に、真面目な顔で〈どどめ色〉が出て来て抑えられなくなった流衣が転げる様に大爆笑してる、女子高生に笑われて、我に返って男子二名も静かになった。
「二人とも怖く無いし、キモくも無いのになんでそんな事で怒ってるの?」
笑い過ぎて涙目になりながら流衣が、笑いを含ませた声で喋った。
「何でって……なあ」
ハクとセキはお互い顔を見合わせて、いつもの売り言葉に買い言葉というやつで、説明するほど理由がなかった。
「んー、だからさ、ガラ悪いだろ?」
ハクが理由っぽいものを見つけて、〈コイツが〉とセキを示唆するように目線をやった。
「ガラが悪い? んー、変わってる……かな?」
流衣はそう思ってるらしい。
「変わってるっつーか、ヤクザっぽいって感じしねえ?」
まどろっこしくなってハッキリ言った。ハクが言った事に、異論を唱えてやろうかと理不尽視線を送ったが〈チンピラ〉じゃなかったので、セキは取り敢えず抑えた。
「そうかなぁ……。でも本物のヤクザさん達って静かで地味だよね」
「は⁈」
三人の視線が一斉に流衣に飛んだ。
〈本物〉のヤクザという言葉が、およそ似合わない〈ゆるキャラ〉から発せられたことに、疑問が疑惑に変化する。
「やっぱりなのか? お前……実は親父が関東一円の〈組長〉で、授業中に変身してクラスのヤンキー〆たりすんの?」
「おめえはドラマの見過ぎだ、黙っとけ」
ハクの突っ込みはセキにたしなめられた。
「え……うーんとね」
ハクの誤解を解く為に、流衣は昔の記憶を手繰って話し出した。
「近所にね、お寺さんがあって、そのお寺の境内をお掃除してる人がよく変わるの。その人達、いつも黙々とまでーに掃除してて、ある夏のすごく暑い日に長袖で汗だくで掃除してるの見て、私……幼稚園の帰り道だったんだけど『おじちゃん、暑く無いの?』って聞いたの、そうしたらその人がね、静かに笑って『これ見えるとみんな驚くからな』って言って袖を捲って腕を見せてくれたの」
流衣は一呼吸置いて、照れ笑いを浮かべた。
「私……お馬鹿さんなんで『わあ、お魚さんだ〜きれい』って大声出しちゃって、前歩いてたお母さんに『もう、本当にこの子ったら!』って言われながら連れ戻されてそのままお家に帰ったの。でもね、その後お寺さんの横を通り度にね、そのおじちゃんが手を振ってくれるようになって……。何故か人が変わっても皆んな手を振ってくれたり、頭下げてくれたりする様になって、私ね、嬉しくていつも思いっきり手を振って挨拶してたの。……刺青あるから夏でも長袖で、小指がない人もいたし、歯が真っ黒な人も居るし、なんか変だなとは思ったんだけど、皆んな静かに笑ってるから優しそうに見えて……」
流衣はその時『本当に恥ずかしいったら、もうあんたと歩くの嫌!』と母に言われたセリフまで思い出して、へこんでしまった。
(……〈鯉の刺青〉見て無邪気に喜ぶ子供相手に脅す訳ねぇけどそのオッサン、後釜に伝達残す程の奴だったわけだよな……)
ハクは冷静に極道の筋道を考えた。
(幹部クラスかよ。そういや十年位前にどこだかの組の若頭が出所して〈分町〉が騒ついたって親父が言ってたな)
セキはタクシー業界の他言無用の裏話を思い出した。
(お寺の住職は保護司の活動してたのか)
一臣は宗教家のボランティア活動が、意外に身近にある事に納得した。
「よーまー、その地球に落とされたサイア人的発想で、おじ様達がヤクザだって気が付いたな」
ハクはいいながら「それ食いもん?」と言ってる〈孫悟空〉に流衣を変換していた。
「……うん。後になってから〈刑務所から出て少しの間奉仕活動する為に来てる人〉って近所の鈴木さんに言われて「関わっちゃダメよ」って言われちゃって、怖くなかったけどそうなのかなぁ? って思って。でも中学生になったら通学路が変わって、その場所通らなくなったから、その人達に会わなくなったけど、今考えると何か笑顔が……重い……深い? 人達だったかな」
極道での世界でそれなり経験を経て来た人間ゆえに、笑顔でいたとしても眼力が違う。流衣はバレリーナ独特の浮世離れ感があって世間知らずな部分が有るが、そこは人一倍強い感受性を発揮して感覚で理解したのだった。
(天然プラス、風変わりな生活環境—— なんとなくコイツがずれてるわけ分かって来たぞ)助手席から振り返り流衣を見ながらハクはそう思った。
「あ、それでね。その人達とは違うし、ふたり共どっちかっていったら可愛いと思うの」
そのおじさま達に比べたら、ハクとセキは子供みたいなものだった。
「……」
流衣の何気ない一言で一同黙り込み、いつもと違う空気が流れた。饒舌なハクまで前に向き直って何も言わず、車の中が深閑となった。
(……どうしたんだろう、急に空気が変わったんだけど、……私また変な事言ったのかな)
明らかに自分の発言の後のこの空気、不安になるが聞くに聞けないムード。
(いつもだったら、何かに付けて言い返すのに、このふたりを一言で黙らせるの……凄いな)
一臣は冷静に観察してふたりのダメージが大きい事に気がついた。
『可愛い』—— という流衣の発した言葉が免疫の無い心に食い込んだのはいうまでもない。それは勿論、ふたりの気を引く為のものではないのは分かる、女子の「その服可愛いよね」と同一語だと言うのも分かる。だがそんな事はどうでもいい。親にも言われた事ない生まれて初めての『可愛い』を、女子高生に言われた事自体がドン引き案件なのだった。
(何だこれ……嬉しくねぇけど、こっ恥ずかしいこの感じ。お世辞とか洒落た事出来ねぇ女子のマジレスの破壊力半端ねえっ、つーかおれの免疫無さすぎの方がヤバイ)
(……)
ハクと同じく動揺しているセキだったが、いつの間にか雨が降り始めてる事に気付いたのをキッカケに、ゴホッとひとつ咳払いすると、気を取り直して車を発進させた。文字通り何かが動き出して空気が変わったのを見計らって流衣が語りかけた。
「みんなで何しに行くの? ドライブ?」
「ドライブ? まさか……おめえ自分がドライブしたくて呼び出したんじゃねーだろーな」
流衣の語り掛けが合図の様に、セキが反応してハクを横目で睨んで喋った。ハクもチャンスとばかりに間を置かずに応えた。
「いやまさか。オレ浮気しない主義よ? うちの
「は?」
「え?」
「ん?」
ハクの焦った言った告白に、セキはそれを先に言えよと言おうとしたが、聞いてたら来ねえのがわかってるから言わなかったんだな、全くこういう所は抜け目のない奴、だと思った。
一臣は、それ……俺は出来ない筈だけど。とハクの思惑が分からなかった。
流衣は、理解不能で左右に首を傾げた。
〈連れ打ち〉とはパチンコやパチスロを軍資金を出し合い数人で打ち、さらに収支を平等に分ける事である。一臣はまだ15才。18才未満は連れ打ちどころかホールにも入れない。
「……頭の体操?」
と流衣が聞いた。
「そうそう、統計と確率の理論数値解析と、オカルト打法による勝率パーセンテージの理論値の実践対決」
ハクは一息で言い切った。
(物はいいようだな)と2人は思った。
(統計と確率、数値解析と実践??)考えて流衣の出した答えが
「……数学の勉強会?」
いつものように口をついて出てしまった。
「……何でそうなる?」
学校の勉強から解放され数年立つハクには、その発想は想定外だった。
流衣の頭の中では、3人が勉強会をしている妄想モードに突入。いつもの革ジャンにロン毛のハクとハンチング帽に色の付いた眼鏡をかけてカーキ色のワークシャツにレトロ調のダークブルーのデニムのセキが向かい合わせで教室の机に座り、ミリタリーハーフコートにストレートの黒いカーゴパンツの一臣が立って監視する様に2人を見てる。
(数学……二次関数とか解いてっちゃってる感じ? って何で藤本くん先生状態なの? 座標の求め方とか最小値・最大値の定義ってもう既に意味わかんないのにこの前授業でやった〈x軸と交わり一点を通る二次関数〉なんか、魔閃光で飛ばされて異次元空間浮遊体感時間だったし。ハクもセキも真面目に問題解いて藤本くんに質問したりして、藤本くん黒板に向かって図表なんか描いたりして、フリーハンドで真っ直ぐな線かけるのに黒板用のおっきい三角定規持ってるの何でー⁈)
「ってもうダメッ」
口を押さえてククーッと流衣が笑い出してしまった。
「なんだよ、またかよ……今度は何があった?」
さっきと同様に可笑しくて堪らない様子に、ハクは〈今度はなんだ?〉と思って聞いた。流衣は妄想の中のハクが机に向かって二次関数と睨み合いしながら解いてる姿が出て来て、およそ似合わない姿に噴き出すのを堪え切れず、笑いに拍車が掛かった。
「いやっ、ムリ、ムリっ、や〜んっ」
と更にキャッキャと笑い出した。
流衣の笑いが止まらないので、ハクは聞いても無駄だなと思い、放っておく事にした。
セキは、コイツ……ぜってーくだらない事考えてやがる、と思ったが口には出さなかった。
運転席の後ろの座席から画面を見るように眺める一臣は、窓ガラスに斜めに走る水滴を見送りながら
「雨のせいかな……」
と小声で呟いた
月曜日の朝は憂鬱——
なんて思ってたのは小学生の頃か、朝、目が覚めた時の、「あー始まる〜国語から」って感じ。とは言っても、まともな学校生活してたの小学生までだけどな。中学校はほとんど行ってねーし、高校に至っては一ヶ月もいってねー気がする。学校辞めて家でゴロゴロしてたら、「学校行かないなら働けっ」てお袋にクッソほど怒られてバイトする様になったんだけど、最初はダラダラと物流センターの倉庫で働いてて、上司って奴に色々お説教食らってウゼェって思いながら、それでもなんとか通って、初めて給料貰ったんだ、その金を見た時、ああそっか、こういうもんなのかって初めて分かったんだ。
——〈世の中の仕組み〉って奴——。働かねえと食っていけないだってことをさ、だから少しでも金を多くもらう為に、いい学校なり、良い会社に入る為にみんな勉強するんだな。気付かんかった……いや、頭では分かってたつもりだけど、全く理解して無かったんだよな、遅えよな。ほんっと馬鹿だと思うわ。そして後の祭り……。そっから勉強なんて出来ねーし。高校中退で最終学歴が中学校じゃあ専門学校にも行けないんだよな、な〜んて世の中の厳しさが分かったところで、労働意欲が湧くって程ではないけど、自分の食いぶちは自分で稼がないとイカンと分かっただけでもめっけもんだった。でも高校生より低い金額でのバイトしか無くて、色々な所を転々としてるうちにふてくされて、酒とタバコやる様になったんだよな、そんな時、通りかかった店のガラス窓の求人の張り紙に気が付いて。
〈料理人求む。未経験者可。賄い月〉
——俺でも分かる誤字が気になって、暫く眺めてたら、中から髭を生やした人の良さそうな中年のおっちゃんが出て来て……。気が付いたら『時玄』で働いてたんだよな。昔から自分の飯は自分で作ってたから違和感ねーし、コンビニやらとは客層が違って、この店にふらっと飲みに来る大人の客の接客は嫌じゃ無くて……居心地が良くてすっかり居着いちまった。あとからそん時の求人の貼り紙の事聞いたら、ワードで変換間違いしたんだけど、面白いからそんまま印刷して張り出して、それ見て馬鹿にしない様な人間と仕事したかった。って言うんだ、んなアホなと思ったけど、見事に引っかかっちまった俺も俺だな。あん時17才だった俺も、もう二年近くもここに居るんだから、世の中何があるか分かんねーもんだ……。
まあ、料理人が俺の天職かどうかは置いといて、仕事の内容に違和感なくなって働くのは苦痛じゃなくなったし、週初めは憂鬱でも何でもないわ、ただチョイ面倒なんだ、なんせ目の前に誤字で人を判断する、こーゆー大人が居ると。
「なんじゃこりゃあ」
本日仕入れて来た具材が入った発泡スチロールを、ハクの目の前に置いて満足そうに腰を伸ばしてるマスター。
「おっ、今の松田優作っぽいね〜」
リアルタイム50代の髭のマスター。
「誰よそれ? つーか、話を誤魔化すな、何だよこれ?」
通じない平成生まれ。
「何って、伊勢海老エビじゃなくて、ロブスターだよ」
発泡スチロールの箱に入ったロブスター達を示しながら、すっとぼけるマスターに、少し切れるハク。
「種類を聞いてんじゃねーよ、なんに使うか聞いてんだよ! まさかランチにこれ使うんじゃあねーよな」
「ダメかい?」
マスターの、のんびりした口調に、あんぐりと口を開けて呆れたハク。
「……これいくら?」
「5匹で10,000円、でも1匹オマケしてくれたから、6匹計算でいくと、1匹1600円だから安いよね」
「はあ⁈」
得意満面のマスターに〈ざけんなっ〉と言わんばかりのハク。対照的なふたりだが、ハクが話し出す。
「ランチがワンコインだってわかってるよな? なのに1匹の原価1,600円のロブスターどうすんだよ、10分の1にしないと元取れねーだろ、これを10分の1したら一口サイズじゃねーか! それとも何か? 甘海老足して海老チリにして〈オマール海老を当てよう〉クイズでもすんのかよっ」
ロブスター=オマール海老。
「おー、ナイスアイデア!」
グッジョブ! と言いたげなマスター。
「ナイスじゃねぇ……」
大丈夫なのかこの店……。行く末が気になり出し頭を抱えるハク。
「そういや昨日、泉の方のパチ屋行っただろ」
マスターが話題を変えた。
「何で知ってんの⁈」
内緒の筈なのに、何でバレてんだ⁈ とハクは驚いた。
「常連のかまちゃん情報だよ、一臣君連れてったろ?」
(わっちゃー……)
ハクは冷や汗をかきそうになった、だからわざわざ遠征したのに見られてたなんて、常連情報網恐るべし……!
「君たちは18歳過ぎてるし、働いて稼いだ金を使うのは構わないけど、高校生を誘うのはマズイだろう?」
真面目な口調に変わったマスター。
「煙草や酒は健康被害の比重が高いものだから、僕個人としては自己責任だと思うけど、賭け事は違うだろ? ある意味、ギャンブルは酒や煙草より依存度が高いからね」
長年水商売をやってきて、ギャンブルで身を持ち崩した人間を嫌というほど見てきた、マスターなりの解釈であった。
「だからさ、あいつには打たせてねーよ」
ハクは頭を掻きながらマスターに答えた。
「台毎の出玉グラフで確率計算させて、初当たり勝率高い順を割り出させて、その台を俺とセキで打って行ったんだよ。俺らが打ってる間あいつは近くのネカフェで遊んでただけ」
事実を言ったのだが、マスターは首を捻った。
「打ったかどうかじゃなくて、何で連れて行ったのか、の話だよ。勝率を上げていくのがプロの仕事だって普段言ってるハクが、それを理由に一臣君を連れてくの矛盾してないかい?」
「あーそれはアイツが……」
言い掛けてやめた。
「あいつって誰のこと?」
マスターは何故ハクが口籠ったのか分からなかった。
「あいつが理論値から確率から全て計算したら、それでどの位勝てるのか、ってやってみたかったんだよ」
ハクはそうマスターに説明したが。
(……アイツが、一臣が一緒なら安心すんじゃねーかと思っただけなんだよな。やっぱ俺とセキだけじゃビビるだろ……。それをマスターに言って、また勘繰られたらめんどくせぇし……)
言葉とは裏腹の本音は誤魔化した。
自分の子供みたいな年齢層を見ると、やたらお世話焼きになる中年が多い客層で、恋愛相談員に早変わりする中年達の前では、独身で彼女無しのハクは絶好のターゲットだった。
(——中高年の仲人的発想のしたり顔説教……はマジで勘弁だわ)
「それ、朝イチじゃ無くて、昼前に行ったのも作戦なのかい?」
「それは雨だから……」
それ以上は口を濁した。
「まさか、〈雨の日は出る〉ってオカルト信じて行ったわけじゃないよね?」
「そんな〈昭和のゴト師〉の世迷い発言みたいな事ありえねーわ」
「いやいや〈梁山泊〉はそんな事言ってないよ」
「〈梁山泊〉はガチ〈プロ〉だろ? んな事言うわけねーだろ、自称の奴らの仕業だわ」
〈ゴト〉は違法行為の事で〈梁山泊〉は合法的なプロ集団、真逆である。バブル期前後の話しなのだが、平成生まれのハクと会話に違和感がない。
「ハク……よく〈梁山泊〉知ってるね」
そこが気になったマスターが聞いてみた。
「そりゃ……。お袋がパチ屋で働いてたからな」
シングルマザーのハクの母は、朝に市場、午後からパチンコ屋で働いていて、ハクは従業員と常連客にまみれて仕込まれて育ったのだ。
「市場で働いてるのは知ってたけど……ダブルワークだったのか。それは頭が下がるね」
「……」
だから、母親には逆らえないし、内心感謝はしてるのだが照れ臭くて逆に憎まれ口を叩くので、いつも怒らせて説教喰らう羽目になるハクだった。
「それで勝負はどうだった?」
「勝ったよ。一臣がホールひと回りして、紙にササッと計算してさ、選んだ五台をセキと打ったら、まーいー感じで出てひとり二万二千二百五十の快勝。あいつマジすげ〜わ」
やった事も無いのに、チョイとした説明であっという間に計算できる理解力にひたすら感心したハク。
「その計算はそのホールだけのものかい?」
「いや、初当たり勝率だから台毎だな、激アツ外れの後の初当たりはメーカーにも偏るけど、あいつそれも計算しやがった」
「そんな事出来るのかい?」
「さすがに百パーセントじゃあねえけど、いい目安だろ? その紙の写メあるからマスターのケータイに送ってやるよ」
ハクは直ぐにマスターのケータイにメールで送った。するとマスターはそれを食い入るように見つめる。
(んなに真剣に見るもんか……?)
マスターのマジ顔にハクはドン引き。
「うん」
マスターは満足気に顔を上げる。
「じゃあ、僕はこれを実践してくるから、あとは宜しく」
と言ったかと思うと
「は?」
ハクの声はおそらく届かず、脱兎の如く店から消えてしまった。
「……さっきのギャンブル依存の話しは実体験かよ。……ったくしょうがねー」
ポツンと取り残されたハクは、残念な大人に呆れつつ、床に置かれ丸投げされたロブスターを見下ろして、メニューを考え始めた。
放課後、学校の裏道をひたすら進み、流衣は待ち合わせ場所に急いでいた。今日はすこぶる調子が良い。なぜなら、昨日はあれからスタジオまで送ってもらい、更に帰りも迎えに来て貰ったのだ。他の子たちがいつも親にして貰っている行為を横目で見てた疎外感がその日は薄れ、嬉しくて舞い上がり終始ニヤけていた。それを未だ維持していたのだ。
公園が見える所まで到達すると、いつもの如く一臣が立っていた。——流衣は待たされた事がない。一臣はいつも早く着ていて、流衣を見つけると自分の所に到達する前に動き出し、流衣に向かって歩き出す。それがこれまでのパターンだった。でも今日はそうじゃなかった、小さい公園の方を見てるため背中を向けていたのだ。流衣は歩いて近づきながら、一臣の背中を経由して見てる方向に視線を合わせた。するとその小さな公園で、二歳位の男の子と母親らしき若い女性が、二人でゴムボールで遊んでいた。母親がボールを転がし男の子がそれを蹴る、方向が定まらないボールを、母親が追いかけて捕まえて子供に向かって転がす、それを繰り返していた。その光景を黙って観ている一臣の、直ぐ後ろまで流衣は近づいたが、一臣は気付く気配がない。
(……なんだろう、ちょっと違う……?)
いつもと違う雰囲気の一臣に、声を掛けるのを躊躇っていると、男の子が蹴ろうとしたボールが空振りして後ろにボールが転がっていった、そのボールは転がり続け、公園の敷地から出て一臣の足元を通過して、流衣の目の前まで転がって来た。流衣は咄嗟にボールを掴んで拾い上げた。顔を上げて一臣を見た瞬間、いつもは小麦色の一臣の肌が白く見えた。
「すみませーん」
若い母親が、小走りに走って来た、後ろに付いてやって来た男の子が、母親の後ろで手を出したので
「はい、どうぞ」
と言いながら、流衣はしゃがんで男の子にボールを手渡した。受け取った男の子は
「おねえちゃんありがとう」
顔を真っ赤にしてお礼を言った。
母親は何度も頭を下げながら、男の子と一緒に公園に戻って行くのを、流衣は立ち上がって手を振りながら見送った。ふと視線を感じて横を見ると一臣と目があった。
(……いつもの藤本くんだ)
もう白くは見えなかった。
(さっき、ボールが横を転がって行った時、硬直してたけど何でだろう……?)
「あのー、今日は掃除当番で、遅れちゃってごめんなさい」
メールでも伝えておいたのだが、もう一度口頭で伝え謝った。
「いや……別に」
定例の返事が返って来たけど、視線を外した一臣が誤魔化すためにソッポを向いた気がした。
(やっぱりなんか違う……)
流衣はいつも通り自転車の後ろに座った。
月曜日は『時玄』でのバイトは無かった。ドラッグストアで品出しして、スタジオに行ってレッスンを九時迄して本日の予定は終了。そしてすっかり定番化してしまった〈藤本くん〉の送迎。
(マスターから借りた自転車で『時玄』まで行って、そこから〈藤本くん〉が自分の自転車に取り替えて、それを手で押しながらふたりで歩いて家まで帰る。すっかり慣れたけど、今日はいつもと違う気がする……。なんでそう思うんだろう、だって藤本くんずっと前向いて歩いてるから視線も合わないし……30センチの身長差だと合うわけないし、喋らないのはいつもの事だし)
考えてるうちに、流衣はある事に気が付いた。
(あ……そうか、藤本くんじゃ無くて私が違うのか、さっきの公園での顔、あの表情って)
「ん?」
流衣が不意に前を見ると、2.3メートル先に一臣が立ってこちらを見ていた。考え事をしてたら脚が止まってたらしい。
「あ、ごめん」
流衣が小走りに追いつくと、一臣はまた歩き出した。
「あの……」
流衣が話しかけたので一臣は振り向いた。
「藤本くん、サッカーって……もうやってないの?」
「……そうだね」
「……やめちゃったの?」
「……そうだね」
流衣は、公園でボールを蹴ってる男の子を見てる一臣が、羨ましそうにも、懐かしそうにも眺めてる様に見えたのだ。一臣が姉からサッカーを教わった事は知る由もなく、……流衣は聞いた。
「もうやらないの?」
「そうだね」
判で押した様な同じ返事を繰り返す一臣に、何だか笑いそうになってしまった、でもそれはおかしいからじゃない。小学校の頃から長期休暇中にスペイン留学を繰り返していた。とハクから聞いた事があった流衣は、短期留学で良いから留学してみたくて、バイトに勤しんでる自分とはだいぶ違うな……と、切なくなった。ちょっとした白けた空間が漂い。いつもの様に何かの話しを話そうと思ったのだが、何故か浮かばなくて、不意に自分の事を話したくなった。
「あのね……」
流衣の口調が変わった。
「……私のお父さんね、字が読めないの……」
思いがけない流衣の告白に、一臣は流衣に目を止めた。
「凄い田舎で学校が遠くてね、家の仕事の畑仕事の手伝いで、忙しくてちゃんと通わなかったんだって」
それが本当かどうかわからない、しかし口下手な父からそう聞いた流衣はそれを信じることにしていた。
「幼稚園の時にね、父の日にお父さんにお手紙を書いて、それを渡したらなんか凄く恥ずかしそうにして、その時初めて分かったの、毎日見てる新聞も、ただ写真を眺めてるだけだったって」
流衣はひとつ溜め息をついた。
「私ね、お父さんに新聞読んであげたくて、幼稚園でね一生懸命絵本を読んで字を覚えてね『これから流衣が新聞読むね』って言って、お父さんの膝に座って平仮名だけ読んでたの、今考えるとおかしいけど……」
お父さんも『うん、うん』って相槌打ってくれたから得意になってたっけ……。と流衣は回想しながら懐かしさと一緒に悲しさも思い出した。
「日曜日の朝は新聞を読む日になって、小学生になって漢字も少しずつわかる様になってきて、自分でも文章の意味が少しわかる様になって来た時ね『いい加減恥ずかしいからやめてちょうだい』ってお母さんに言われて、……終わっちゃった」
流衣は二度目の溜め息を吐いた。
「どうして?」
「え……、あ……どうしてかな、お母さんからすると、聞くに耐えない日本語だったのかも」
一臣からの質問に戸惑いつつも答える。母親は読み書きが出来ない夫の代わりに全ての手続きをしなければならず、特に震災後の行政の手続きの多さに忙しさに拍車が掛かり、以前より一層イライラしていた。
「私ね……うちの両親が歳がいってからの子なの、だから、中学卒業したら働こうかなって思ってたんだ、お母さん大変そうだし少しでも手伝おうかなって、元々勉強も得意じゃないし、……そしたらね、お父さんが『お前は高校行け』って言ったの」
母親から新聞を読むのを注意されてから、無口に拍車が掛かった父の言葉は、流衣の心にずしっと重くのしかかった。
「それからもうね、進学するつもり無くて怠けてた分、ほんっとーにしんどくて、毎日必死でもう泣きながら勉強したの。ダメもとで受けた英語科になんとか補欠で入れて、びっくり……奇跡だと思っちゃった」
流衣は、私立校の受験も受けておらず、まさしく『背水の陣』だった。
「凄く嬉しかったけど、でも……」
言葉切った流衣をみながら、言葉の続きを待つ為に、いつもよりゆっくりと歩みを合わせた。
「高校に受かったらね、バレエ辞めなきゃって思ってたから、ちょっと寂しかったの。公立で授業料は免除になるけど、制服代とか教科書代とか設備費とか別だし、バイトして落第しない様に勉強してたらそんな暇無いな、って思ってた、……あの時まで」
——その時。何かが変わった。
「……震災の後の合格発表行けなくて……回り回って中学校の先生から、受かったって知らせもらって、その時ね、辞めるのやめたの。……ってあれ? 変な日本語」
自分で言って〈えへへっ〉と笑い出した。
「えっとね、逆にね、辞めちゃダメって思っちゃったの、やれるだけやってみようって、何か……おかしいかな」
「別に」
一臣の返事を聞いて流衣はほっとした。
流衣はギリギリで一臣のお姉さんが亡くなった事を思い出したのだ。流衣はちょっとだけ本心を隠した。
——生きてる自分が夢を諦めたら亡くなった人たちに悪い——
そう思ってた事を隠す様に口を閉じた。そんな流衣の思いを知らずに、一臣はゆっくりとしたスピードを変える事なく、そのまま歩き続けた。
金曜日。流衣は朝からソワソワしていた。ホテルでのバイトも注意散漫で相方の伊藤にフォローされっぱなしの誤りっぱなし。
「どうしたの?」
と聞かれても答えられず。
「すみません」
しか言えなかった。
学校に行ってもそれは続き、いつもなら爆睡する筈の世界史も眠けは起きず、前は見てても授業も全く身が入らない。2時間目が終わると一臣が出て行くのは眼に入ったが、ただ黙って見送るばかりでノーリアクション。金曜日だというのに、明日は土曜日で休みの前日の気楽な一日……の筈なのにも関わらず、落ち着かなかった流衣は4時間目が終わると、とうとう早退してしまった。
「あれ流衣じゃね?」
ハクが店の前を横切って行く流衣に気が付いた。2時半過ぎ、ハク、マスター、一臣、セキの4人が賄いをそれぞれの場所で食べていた時である。
「え? 何でこの時間に?」
マスターが不思議に思って喋った。いつもなら3時半から4時頃に一臣と共に現れ、軽食と称した魚肉ソーセージを食べ身支度をしていくのが日課になっていた。
「おい! 何やってんの?」
店の入口扉から身を乗り出してハクが呼び掛けると、流衣がハッとして振り返った。
「あれ?」
ようやく我に返った流衣は、小走りに店に戻ってきた。
「どしたの流衣ちゃん、今日なんかあるのかい?」
「えっと、その……落ち着かなくて4時間目終わって早退してきたの」
「4時間目? それ何時だい?」
「え〜と、12時半に終わってそれから歩いて……」
皆が不思議そうな顔をし、申し合わせたように時計を見た。
—時計は14時46分を指している。
「お前まさかずっと歩いてたんか?」
「え? うん」
流衣はタダひたすらずーと歩いて来た。
「ここまで2時間? かかりすぎじゃねーの?」
セキがここまでの距離計算してどう考えてもおかしいと思う。
「それは足の長さの違いでは?」
目の前の男子3人は身長180超えてる。
「いやいや流衣ちゃん。僕でも一時間で来ると思うよ?」
165cmのマスターが口を挟んだ。
「えっ、じゃあ私はミステリーゾーンに足を踏み入れてたの?」
「じゃあなにか? 最近は方向音痴の事をミステリーハンターとでも言うんか?」
ハクが鋭いツッコミを入れる。
「ええ? 私、道に迷ってたの⁈」
「今頃気付いたのかよ⁈」
びっくりする流衣よりハクの方が驚いた。
——キン、キン、キン。と音が響いた。試合終了のゴングの様に、一臣が空のヒアグラスを叩いた。
「道に迷った原因は?」
一臣が流衣を見据えて言った。
流衣は観念するかの様に、制服の内胸のポケットから封筒を出した。それを見たハクが反応した。
「何その封筒」
「……ビデオ審査の結果発表」
お化け屋敷の入り口の前にでも立ってる様な口調だった。
「あー、前に言ってた〈ローザンス〉ナンチャラの海外のオーディションのやつか。で、どうだった?」
〈ローザンヌ国際バレエコンクールの予戦出場資格の発表〉通知だか、ハクは微妙にズレて覚えていた。
「まだ見てない……」
「なんで?」
ハクはその封筒がシワだらけなのに気が付いた。
「それいつから持ち歩いてるんだ?」
セキも気が付いた。
「……昨日の夜……」
叱られてる子供みたいに俯く。
昨日のレッスン終了後に香緒里先生に渡された。審査結果はローザンヌからスタジオのパソコンにメールで届いた。ビデオ審査応募者全員の登録メールアドレスに配信されたもの。日野先生が不在で全文英語のメールは香緒里には判読出来ずに、プリントアウトしてそのまま流衣に手渡されたのだった。
「昨日? 何で見ないんだよ、開けてやろうか?」
ハクが封筒を流衣の手から取ると中を確認しようとした。
「ちょっと待って、開けちゃいや!」
流衣は慌てて封筒を奪い返す。
「自分で開けれんの?」
流衣はしばし封筒と睨めっこすると、負けを認めた
「……や、無理」
「何でよ?」
「怖い……」
青ざめ微かに震えてる。
「なに言ってんだよ、開けるぞ?」
痺れを切らしたハクか、再び封筒を取り上げる。
「や、やだやだ開けないでっ!」
流衣はハクの腕を掴んで必死で止める。
「あーっもう、めんどくせーぞ流衣!」
ハクはイラついて、少し語尾がキツくなった。
「……絶対落ちてる」
今にも消えそうな涙声で言われて、ハクはやばいと思った。
「見なきゃ分かんねーだろ?」
「……見なくてもわかる……。私……日本のコンクールさえ出た事無いし……」
流衣の声はとても弱々しかった。
「……ローザンヌは若手の、世界の大会だから凄いレベルなの、日本人の参加者も、関東や九州のバレコン上位の人ばかりだし、アメリカとかヨーロッパの大会で金賞とか銀賞を貰ってる様な人たちで、私……教室の発表会で主役すら踊った事ないし……」
流衣の語る事を皆黙って聞いていた。
「日本のコンクールに出た事無いのに、何で世界のコンクールに出ようと思ったんだ?」
沈黙を破ってセキが口を開いた。
「それは……どうせなら初めての挑戦がローザンヌの方がかっこいいと思って……」
「お前のチャレンジ大胆なのか無謀なのか分かんねーわ」
しかし、このままじゃ埒あかねーな。と思ったハクは
「一臣」
流衣に掴まれてた腕を離し、逆に流衣の手を押さえ込むと封筒を一臣に目掛けてパスした。
「開けちまえ」
「えっうそ!」
「あのな。現実は早く思い知った方が、後が楽になるぞ」
実行が難しい奥深いど正論を言うハク。封筒を受け取った一臣は、中から書面を取り出すと、そのまま流衣に差し出した。
「自分で見たほうが良い」
一臣に差し出されたそれを、流衣は恐る恐る受け取って、覚悟を決めて開けてみた。
「……ん?」
細かい英文がズラリと並んでて、一目でそれとわかる様なものでは無かった。流衣が無反応なので、ハクとセキも後ろから眺めてみたが〈?〉マークが顔に浮かんでる。
「マルとかバツとかで来るんじゃ無いんだな」
とハクが言うと。
「わざわざスイスからそんなの送ってこないんじゃ無いかな」
マスターが答えた。
「え〜と……」
流衣が5枚の両面コピーを捲っていくと、名前らしき物がズラッと書いてある表が出てきて、何だろうと眺めた。
「これお前の名前じゃねーの?」
ハク指差して示した所に〈rui Kano japan 15〉と書いてある。2ページ以上にも渡って、人の名前と国籍、年齢が書いてある表が続いてる。
「……ビデオを送った人の名前かな」
しかしそこに不合格とも何とも書いて無い。
「おい一臣。お前見てやれば?」
ハクが見かねて一臣に声をかけた。すると。
「同じ英語科でそれ読めないとまずくない?」
と軽くいなされる。それを聞いた流衣は流石にカチンときた。
「読めます! 読めますとも! ちょっと緊張しただけです!」
挑発に乗ってムキになってしまった流衣。
「えっと、 video screening passers」
表の上の文字をそのまま読んだ。
「〈……ビデオ審査通過者〉」
それを一臣はハクとセキとマスターの為に同時通訳。
「あ?」
「今何てった?」
セキとハクが同時に反応した。
続いて流衣は表の下の文を読む。
「 pariicipation in the qualifying session in accepted 」
「〈この大会の参加を認める〉」
「ん? と、えっ? あ?」
自分で読んだにも関わらず、英文を日本語に頭で変換する前に、一臣の同時翻訳が耳から入って来た。
「受かってんじゃん?」
「うそ……お」
言ったハクの声を聞いても信じられない流衣は
「ほんとに……? これ間違ってない?」
一臣に擦り寄り、書面を渡して「読んで」と言う視線で懇願する。
「おい、英語科のプライドはどうした?」
ハクのからかいも
「これが〈前期〉余裕の人と、〈後期〉補欠の人間の差なんで」
流衣的にもう〈そんなの関係ねえ〉状態。
一臣は全体を一瞥すると、わかりやすい部分を-
「……以上、79名はビデオ審査を通過し、本戦出場に挑戦するこの予選会に参加する事を認めます。このローザンヌに挑戦する事はあなたの踊り手としての才能を開花させ、可能性を広げる事に繋がると信じています。より大きく多くの事を学んで下さい。
ローザンヌ国際バレエ委員会」
一気に読み上げた。
「本当?」
日本語で言われて流衣はようやく飲み込めてきた。
「取り敢えず現地集合らしいけど、細かい規定も読む?」
参加料、申し込み締め切り日等、色々と書いてあった。
「ウソみたい……やだ、どうしよう……!」
じわじわと嬉しさが湧き上がって来て、流衣はじっとしてられなくなった。
「やった〜!」
突如、流衣が狂喜乱舞し始め、みんな奇妙な怪奇現象を見たように後退りした。あまりにもあからさまに喜んでいるので、注意するわけにもいかず、ただ〈沈黙を守る男達〉とまるで映画のタイトル状態化した。
「良かったね、流衣ちゃん」
唯一落ち着き払ったマスターが、流衣に声をかけた。
「マスタ〜」
流衣はマスターの励ましが嬉しくて、思わずハグしに行った。
(昔こんなドキュメンタリー番組あったな……)
ハクには何年かぶりに再会を果たした〈木曜スペシャル〉の親子に見えた。
「本当に良かったね。頑張るんだよ流衣ちゃん」
「ありがとうマスター。私うんと頑張るから、バイト代一分計算にしてね」
「一度しか曲がらない道を間違う方向音痴の君が、金銭感覚だけは関西人並みにしっかりしてるね」
現実的な流衣に、ある意味感動するマスターだった。
流衣はソファの席にストン、と座ると静かになった。するとスーッと涙がこぼれて来た。
「あれ……」
泣くつもりなかったのに、こんなに嬉しいのに、自然に涙が落ちて来て流衣は戸惑った。
「おい、今度はなんだよ?」
静かになったら泣き出したのでハクは驚いた。
「嬉しい……」
涙を拭うがどんどん溢れてくる……。
「小さい頃テレビで観て、憧れて、夢で……、その舞台に行けるなんて、思ってなかったんだもん……どうしよう……」
拭う手が間に合わなくなって来た。
「泣いたり笑ったり、いっそがしい奴だな」
そう言ってハクは箱ティッシュを流衣に向かって軽く放った。
(……さっきまで怯えてたのに、喜んで踊り出したと思ったら今度は泣くんかい! まったく不可解なくらい感情丸出しだな。少しは加減つーのが無いんかよ。それにしても、心の声100%ダダ漏れと、表情無しの感情0の奴と、何かってーとケンカ腰で突っかかってくるガラの悪い奴。何で俺の周りには普通のやつ居ねーんだろうな……)
自分のことは棚上げするヒッピー野郎だった。
「さっき、舞い上がっちゃって、可笑しなテンションになって騒いじゃって……ごめんなさい」
「別に」
帰り道に一日の反省のように謝るのがパターン化してきて、誤りすぎて反省がないようにも見える。金曜日の夜『時玄』でのバイトが終わってからの帰り道。でも今日はいつもと違う。バレエのレッスンが始まる前、東京の研修会から帰って来た日野先生と、話し合いをしたのだが、これから色々大変だということがわかって、浮かれ気分が吹き飛んでしまった。当たり前だけど、レッスンも増やさないといけない、特にコンテンポラリーは、別な先生にもレッスンを受ける必要があると日野は言う。
(でもレッスンだけじゃなく、他の細々した手続き……申請書類からなにから全部自分でやらないといけない、考えただけで、頭がごちゃごちゃして来た……。それに費用、ローザンヌまでの往復の費用と滞在費も足りない。お金、どうしよう……。とにかく、パスポート取らなくちゃ……ピザっているのかな? てかピザってなんだろ?)
「……入国許可証」
一臣の声が聴こえて来て
「え?」
流衣は顔を上げて一臣を見た。すると目が合った、
(目が合ったってことは、私のこと見てたのかな? 私また可笑しなことしたかな)
「ピザは〈入国許可証〉の事で、スイスはピザ要らないけど」
一臣が言った事で、理由が分かった。また声に出して考えてたらしい。
「私……どこから喋ってた?」
「〈パスポート取らなきゃ〉」
(ああ……今更だけど自分のガス漏れ中のポンコツ感にガッカリする。でも良かった。他の人だったら笑われるか馬鹿にされるけど、藤本くんはそんな事なくてホッとしちゃう)
「パスポートってどの位かかるんだろ」
「それは時間? 費用?」
「えっと、両方」
「5年パスポートなら11,000円で、時間は6日から10日」
「5年なら? 5年じゃないのもあるの?」
「5年と10年、でも18歳未満は5年しか取れれない」
「そっか。申請って、市役所って土日休みだよね、平日行けるかな」
「パスポート申請は平日限定で、市役所じゃなくて県庁の旅券センターだけど、受け取るのは日曜でも大丈夫。でも5時前に閉庁するから、申請の時は早退したほうがいい」
流衣の疑問にあっさりと答えていく一臣。そんな一臣に、流石だなぁと感心すると、いつもは一方的に喋ってるだけなのに、こうして会話が成立しているというだけで、まるで遠足前の持ち物チェックの様な内容でも流衣は楽しくなってきた。
「……75ユーロって幾らだろう」
「1万円前後」
本日の為替レートが分からない為、ハッキリとした数字は言わない。
「ジュネーブまで何時間かかるか分かる?」
「トランジットが良ければ16時間」
しかしながらそこまで都合の良い便は無く、恐らく18時間が平均かと思われる。
「トランジットって?」
「乗り継ぎの事、飛行時間だけなら14時間弱で、直通便はないからヨーロッパで乗り継ぐ必要がある。2時間でも早い方だと思う」
聞いた事に対して、あやふやでは無い答えが返って来る。
「藤本くんって辞書みたい……」
なんだか流石とかいう言葉を通り越してしまった。親近感が湧いたついでに色々聞いてみた結果、自分が、改めて一臣を尊敬していることに気が付いた。ポカンと口を開けて眺めてると、何事も関心を示さないその端正な横顔が、笑顔なら素敵なのにな……と思わずにはいられなかった。ボンヤリと見惚れていると、視線を感じた一臣は流衣に顔を向けた。
「あの……何で数学の時間ノート取らないの?」
流衣はハッとして、今まで疑問に思ってた事を思い切って聞いてみた。
「……数学?」
会話がイレギュラーに飛んだので、一臣は念のため聞き返した。
「うん、数学。他の教科もみんなと違うけど、それは自分で分かりやすいようにアレンジしてるって分かるんだけど、数学だけは全然書いてないでしょう? 何でかなと思って」
最近隣から感じる視線は、それをみてたのか……。と、ここ数週間の隣の謎の行動理由が分かった一臣は、流衣の質問に答える。
「数式を当てはめて解いていくだけなのに、ノート取る必要ある?」
は?
逆に質問されても答えるスキルは無かった。
(……そう言われればそうかも知れないけど、そのステージに居るレベルって何? 魔法使いなのに叩くコマンドでラスボス倒す感するの私だけ?)
流衣の頭の中でピタゴラスとパスカルがアルゴリズム体操第一で行進していた。
「あたま割れてびっくらポンな感じ……」
意味不明で理解不可能な流衣のセリフは当然のことの様にスルーされた。
「……着いてるけど」
一臣の一言で流衣は我に帰った。
「あれ、もう?」
いつもより着くのが早い気がしてとても残念な気分
「楽しかったのに……」
物足りな気な言い方をした流衣を見下ろしながら、一臣はいつもの別れ際のセリフを口にした。
「じゃあ、明日」
「うん。また明日、おやすみなさい」
(そうだった、土曜日学校ないけど、明日また会えるんだった)
ローザンヌから話が離れて、少しだけ気楽になった流衣だった。一臣と別れてアパートの部屋へ向かって奥の階段に進んでいくと、段々歩みが遅くなったそこは照明が消えて真っ暗だった、消えかかっていた照明がこの前とうとう力尽きたのだ。
(流石に1階と2階の両方無いと暗くて怖いな、照明って誰に言えばいいんだろ……)
月明かりは建物の影で届かず、道路側のアパートの照明のおかげでボンヤリとは見えるものの、心許なくて転ばない様にゆっくりと気をつけて砂利道を歩く。ここで転んで怪我でもしたら笑えない。階段の手摺りまで来ると、流衣はようやくホッとした。階段を登ろうとしたその時、階段の裏側からなにかの気配がしてきた。
「え、なに」
驚いて出た声に反応して黒い影が
—ゴゾッ— と動いた。それはしゃがんでた人間が立ち上がった様に見えた。
「!……」
流衣は驚いて後ろにひっくり返りそうになったが、手摺につかまり座る形になった。あまりに突然の事で悲鳴さえも出なかった。流衣が恐怖で固まっていると、トトト、と目の前を通過しようとして、流衣に気が付き、動きを止めじっと見つめられた。
(……猫……?)
真っ黒な野良猫は茶色の眼を見開き、瞳孔をまん丸くして流衣を見つめ観察すると、何事もなかった様に歩き出した。
階段の裏側には住人の交換用冬タイヤが積んであって、その上に猫がいた為人の大きさに見えたのだった。
(ああもーびっくりした、びっくりした! 脅かさないでよ〜もう〜!)
「猫か……」
階段の手摺にしがみ付いて座り込んでる、流衣の横から声が聞こえた。
(え? 藤本くん?)
さっき別れてから推測すると、一臣は家に到着してるであろう時間が過ぎていて、何故ここに一臣が登場したのか分からない。
「立てる?」
「あ、うん……」
捕まってた手すりを頼りに立ち上がった。
「何で? さっき帰ったのに」
前にもこんな事があったけど、あれは自転車が倒れる音が響いたからで……
今日は? どうして?
「暗いから」
一臣は、ハクに言われた『流衣に何かあったら……』をその責任感から忠実に守っていた。照明が消えてからこの数日、流衣が家の中に入るまで聞き耳を立てていたのだ。
……え?
暗いから……って。
……それって、私が家に入るまで、ずっとその場に立って待っててくれたって事?
ウソでしょう……。
優しいのは知ってる、色々考えてくれてるのも分かる。でもそこまでしてくれるなんて……。
流衣は感動して胸が熱くなった。
「じゃあ」
大丈夫そうな様子を見て帰ろうとする。
「待って」
呼び止められて、一臣は足を止め振り向いた。
「あの……」
呼び止めたものの、何をどう伝えたらいいのか、伝えて良いのか、考えが纏まらないまま。
「……一臣くんって呼んでいい?」
咄嗟に思いついた事を口にした。
「どうぞ」
そう言って帰っていく一臣の背中を、高鳴る心を抑え見送った。
(や……何これ……心臓がドキドキして……胸が苦しい……)
離した手をもう一度手摺を掴んで、身体の震えを頼り委ねた。
家に着くまでの短い間に、一臣の頭にさっき見た英文の中の、ある項目が浮かび上がった。
—参加資金援助申請について—
そこには交通費、宿泊費、参加費、食事などに掛かる細かい経費等、ローザンヌで滞在にかかる費用が援助される内容が書かれていた。経済的に困窮する参加者の為の救済で、両親とも正規社員では無い流衣は間違い無く該当する。しかし、申請方法が……。
・両親から家庭の経済状態を説明する手紙。
・バレエ教師からの手紙。
・両親の前年度の納税申告書のコピー。
以上3点が必要書類と書かれてあった。
……両親からの手紙。
「私のお父さんね、字が読めないの」
書類の文字と流衣のセリフが重なった。
そして、流衣の横を無言で通り過ぎる母親の後ろ姿……。
……理不尽だけど、どうしようもない……。
本人が何も言わない以上、これは自分が関わる事じゃない。そう判断した一臣は、この事は心の奥に仕舞う事にした。
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