第4話 バレエ女子と役割分担 捨てる神と拾う神

 月曜日の朝、流衣は珍しく寝坊してしまった。昨夜遅くまでレッスンしてしまって、寝たのがもう今日の午前2時だった。5時に起きる筈が、2度寝して目覚めたのは6時少し前、大慌てで支度してバイトには間に合ったものの、昼食のおにぎりは作れず朝食も抜き。ホテルの仕事が順調に終わり、学校にたどり着き席に座った途端にスタミナ切れで眠気がマックス。朝からお腹が鳴りそうで恥ずかしくて何とか眠りを阻止していたのだが、そこへ教室内ではなんか凄く同級生達が盛り上がってる。

「いゃ〜ん、私も『3代目』見たかった〜」

「カナ達と〈コートダジュール〉 行けば良かった」

 女子の定番カラオケに行くのに、ご近所派と街中派に三対三に分かれたらしい発言。仙台で芸能人見る機会なんてないから、嬉しくて仕方ないのだ、なんせ仙台で見かけるマスト芸能人といえば『さとう宗幸』と『マギー真司』くらい。EXILEをみたら、朝から女子のテンションMAXは仕方ない。しかし例え3代目を見てなくても、女子は女子。寝起きがどんなにグダグダで親に怒られようとも、学校で友達に会うとスイッチオン。9割女子のこのクラスも毎日のように朝っぱらから無駄に元気。一臣が修行僧化するのは、朝のグダグダ→スイッチオン状態の女子を、小さい頃から熟知している為である。

 しかし、そんな女子達の騒ぎが、流衣にとってはカモフラージュになる。

(これならお腹が鳴っても気付かれないかなぁ……もうダメ……)

限界に達し眠りに落ちていく。

(3台目ってなんだろ……みんな車に興味あるのかなぁ……)

と思ったところで意識が飛んだ。


 お昼休みに入り、流衣はいつものようにいつもの場所で、校舎の裏側でちょこんと座っていた。

「冬の精霊か……」

 昨日、先生と話した後、シンデレラが頭から離れなくて、流衣は舞踏会の登場シーンの振りを思い出しながら踊っていた。すると美沙希みさき理子みちこが一緒に現れた。2人とも自主練にスタジオに向かっていた所で、コンビニで偶然で会ったらしい。2人を見た途端、流衣は駆け寄り発表会の話を持ちかけた。

「えー」

「めっちゃ面白そうやんっ」

2人は真逆の反応をした。理子が賛成してるのに対して、美沙希が不機嫌な表情を浮かべたので、流衣は不安になった。

「美沙希ちゃん……反対?」

恐る恐る聞いてみた、美沙希はムッとした顔で流衣を見た。流衣は自分が余計な事を提案したせいで、美沙希を怒らせたと思いドキドキして、なんて言おうか……謝ろうか、と考えた。

「……ズルい」

美沙希は流衣と理子を恨めしそうな顔で睨んだ。

「ずるいー。私もそっち! 精霊やりたい〜」

え、そっち? 

美沙希の怒りの矛先は仲間外れにされた悲しさだった。流衣は自分達と一緒に踊りたいと、駄々をこねる美沙希の姿に共感と驚きが溢れた。

「何言うてんの『リラの精』やるんやろ? ソリストやん?」

ソリスト(準主役)やるのに、なんでパ・ドゥ・カトル(4人組)やりたがるのか疑問で、理子は思わず聞いてしまう。

「だって同じ精霊でも、盛り上がり方が全然違うじゃない。一体感もあるし、主役じゃないのにソロ踊るなら断然『四季の精霊』の方が良い」

発言に固まる理子と流衣。

「美沙希ちゃん……」

流衣の切なそうな声を聞いて、はっとする美沙希。思わず漏れてしまった心の声を聞いて、複雑な心境にしんみりしてしまう流衣。しかし理子はズバリかえす。

「どんだけ悔しかったん? 美沙希も意外とハッキリ言うんやな」

(美沙希ちゃんなら、やっぱりオーロラ踊りたいよね)

流衣は心の中で留めた。

「あ、ごめん。『リラの精』も大事、大事、うん」

ちょっと慌てた様にフォローになって無いフォローをする美沙希だった。

「〈春〉がひかリンで、〈秋〉がゆまっちで、〈冬〉が流衣ちんやな」

理子の独断的な配役を言う。決まった事をいつまでも引きずってもしょうがないと、あっさりと現実に戻る理子。

「みっちゃん〈夏〉やるの?」

理子の配役決めの早さに、そんなに〈夏〉がやりたいのかなと思う流衣。

「〈春〉と〈秋〉 は、うちのイメージちゃうやろ? 〈冬〉はムズイから流衣ちんで、あとは〈夏〉しかないやん」

「決断早っ」

その迷いのない決断に、美沙希が思わず声に出した。その後、事務所に行って先生と話をして、大体その方向性で行こうって話になった。

「冬の精霊と夏の精霊……。そんなに違わないと思うけどな」

『四季の精霊』の踊りに難易度はさほど変わりないけれど、恐らく理子の苦手な〈パ〉が入ってるのだろう。その時の理子の顔を思い浮かべ、流衣は思いだし笑いをした。

「みっちゃん居てくれて良かった」

ハッキリ言う人が居るの大事だな、と理子に感謝しながら、んふふっと笑う流衣だった。


「お腹すいた……」

珍しく3時間目に目が覚めた。倫理社会の時間はただでさえ退屈で単調な授業で、いつもなら爆睡中なのだが今日は空腹に起こされた。

「ここテストに出すかも知れんぞー」

と哲学好きだが覇気のない倫社の先生が声に出すと、みんなが一斉に反応した。

「センセ〜。そこがテストに出るんですか?」

「いや、まだわからん」

先生は誰も授業を聞いてない様子を見て、ちょいと釘を刺したのだ。

「えー何それ⁉︎ ハッキリしてよーっ」

女子はいっせいにブーイング。

「出すかもしれないし、出さないかもしれない」

生徒たちが注目して来たので、先生はしてやったりと姑息な笑みを漏らす。

「え〜、超いい加減!」

「……お前達、それは意味が違うな」

先生がおもむろに指摘した。

「はあ?」

女子達はお怒りモードでザワザワタイム。

「いい加減とは本来丁度いいと言う意味だからその使い方はおかしい。それに「いい加減」とは適度という意味だ。適度は「良い加減」、適当は「丁度良い」と言う事だ」

先生は生徒達の言い間違いを黒板に書きながら正した。

(へーそうなんだ、倫理の先生なのに国語の先生みたい)空腹のせいで頭が冴え冴えしてる流衣は密かに感心した。

「え〜っ。先生それうちらの話とズレてんじゃんっ! ズルくない⁈」

女子のザワザワタイムは収まらず暫く騒がしさが続いて、これなら静かな方が良かったかもしれないとウンザリする倫社教師だった。


 放課後、空きっ腹を抱えて自転車を漕ぐ流衣は痛いほど空腹だった。今日は先生達の都合で5時間授業で終わり、掃除を済ませて下校しバイト先に向かうが、まだ2時30分。バイトは4時から、だいぶ早い。流衣は下校の際に一旦家に帰って何か食べようとしたのだが、夜勤明けで母が家にいることを思い出した。

(絶対何か言われる……。それだけで済むならいい、けどお母さんの機嫌が悪くなったら困るし……お父さんが可哀想)

自分に嫌味を言って気が晴れるなら良い。その後に機嫌が悪くなって、八つ当たりされると父親まで害が及ぶのが忍びなかった。その辺りの母の気分の移り変わりが流衣には見当もつかないので、それは回避する事にした。

(なんでこんな時にお財布忘れちゃうかな……もう、私ってホントに鈍臭い……)

みっちゃんに知られたら アホちゃう? って笑われそう。あまりにも空腹で、思考がマイナスになってしまう。よく考えたら、昨日十二時近くまでレッスンした為に夕食も食べて無かった。

(まだ時間あるから、先に教室寄って先生にお金借りて、コンビニ行くしかないかな……)

〈とほほ〉の効果音の描き文字を背負ったら、面白いほどベストマッチしてる。

(お金……。お母さんにバレないようにしなくちゃ、人からお借りるのバレたら大変な事になりそう……)

まだ実行してない事に対して、仮想して落ち込めるほど、脳が栄養失調になっている。仮想迷宮に入り込みながら、流衣が自転車を走らせていたら、気がつくと『時玄』の前まで来ていた。ハクがランチタイム終了の札を掛けて看板を一旦下げる動作が目に入った。

「よお、今日はどうした?」

いつもより、1時間も早く店の前を通った流衣に、不思議そうに声をかけるハク。

「こんにちわ……」

空腹のせいで何だか小声になってしまった流衣。

(……やだ、声を出したらお腹が鳴りそうっ)

いつもなら手を振りながら近付いてくるのに、今日はノーリアクションで、引き攣った笑顔の力の無い小声。何か気になったハク。

(俺が昨日、余計な事言ったせいか?)

と昨日の『あざとい女子』化計画を思い出して、勘繰ってしまう。

「……あいつになんか言われた?」

〈あいつ〉って? ……あ〜。

「藤本君?」

何故ハクが、藤本君の事を聞いてきたのか、理由がわからない流衣は頭を捻った。自分は認識されてないし、何か言われたどころか今日は会った記憶すらなかった。

「気が付いたら3時間目で、それまで寝ちゃってて……その時、もう藤本君居なかったからよく分からないけど」

同級生の声を聞いてたら落ちてしまい、直ぐに起きたつもりだったのに、2時間経ってた。それは別名〈気絶〉とも言う。

(結局、あいつは、話しかけなかったわけだな)

流衣の話を聞いて、良かったような、悪かったような、ハクは判断つかなかった。

「おまえよく寝んなあ、……その割には育って無いけど」

ちっさいわ、と流衣の身長付近に手をかざすハク。その仕草と笑い顔で、からかわれたのが分かった流衣は。

「どーせちっこいです。ほっといて……」

ちょっと声に力を入れて発言したら、その勢いに併せて。

 ギュルルルル、ぐっ、グウゥ〜

盛大にお腹が鳴ってしまった! 

(え、ヤダッ、うそぉ)

流衣は恥ずかしさのあまり真っ赤になって、手で顔を隠して下を向いた。

「おまえ、腹で〈闘犬〉飼ってんの?」

「ちがう……、その……今日寝坊しちゃって、朝ご飯抜いちゃって、お昼の用意もできなくて、お財布も忘れちゃったの……」

ハクの冗談のツッコミも返す余裕がないくらい、流衣は自分が情け無いやら恥ずかしいやら。ハクにしてみれば、腹が鳴ったくらいで、何でそこまで動揺するのか分からないが、取り敢えず冗談を言う空気じゃ無いのは理解した。

「これから、バレエだっけ? そんなんで動けんの?」

普通は丸一日、食事を抜いたくらいでフラついたりしないが、流衣の細さは1食抜くだけでも倒れそうに見えた。

(このホネホネロックがバレエ踊ってんの想像できねーんだけど)

と何やら悲壮感が漂い、笑うに笑えないハク。

「まだ時間が有るから、一度スタジオに行って、先生にお金借りようと思って……」

ハクの冷静な質問で、流衣も少し気を落ち着かせて、顔を覆うようにしてた手を下ろして答えた。

「そのスタジオの場所どこなん?」

「薬師堂の境内を通り過ぎて、大通りから少し脇道に入った所」

頭の地図で辿ってみると、自転車で15分くらい掛かる場所だと思ったと同時に、ヨロケながらチャリを走らせてる流衣の姿が想定出来た。その15分、持つように見えねんだけど……ったくもう。

「金借りにわざわざ行くんなら、いっそここで飯食ってけばいいんじゃね?」

ハクの提案に驚く流衣。

「え……でも今、私お金無いし」

『時玄』は外観はショットバーだが、実際には居酒屋で、最近はダイニングバーに近付いてるためランチ営業もしてる。

「別に金は要らねーわ」

「流石に悪いから、それはいい……」

立派に営業してる店で、ご馳走様になるのは気が引ける、と、遠慮する流衣。

「メニューのじゃなくて賄い飯だよ、余り飯。気ぃ使うもんじゃねぇ奴よ?」

「え、賄い?」

メニューに載ってない、料金の発生しないご飯。

「どうせこれから作っから、3人前も4人前もそう変わんねーし」

今日はランチが捌けたので今から一から作るのだ。ハクにとって毎日の事なので、特に苦でもなんでも無かった。

「でも……」

流衣は痛いほどお腹が空き過ぎてるが、甘えて良いのかどうか迷ってる。

「じゃあさ、材料費として百円払うってのでどうよ。んで、出世払い」

ハクは流衣が気を使わない方向性で提案した。

「えっと……もしやこちらはツケの効くお店ですか?」

「ツケって、江戸時代みてーで粋だな」

『縄のれん』っていいかもと思うハク。

「本当に? それでいいの?」

救いを求めるようにハクを見た。

「いっとくけど、料亭の裏メニューになる様な、レアで豪華なもんじゃねーからな」

賄い飯が裏メニューになって、それが看板メニューの話題の店とかテレビで紹介してるが、そこまで立派なものじゃ無い。普通のお店の賄いは、夏休みのお家の昼ごはんと余り変わらない。

「ううん、全然良い! じゃあ、支払いは20日締めの、月末払いでお願いします!」

「何で急に給料日の設定みたいになんのよ」

しかも細かいっつーの。何でこいつ、要所々々に所帯じみ感、ぶっ込んで来るんだ? ったく、わっけわかんねーな。

「ありがとう〜。神様、ハク様、仏様〜っ!」

流衣は涙が出そうなほど嬉しくて、思わず祈るような姿でハクにお礼を言った。

「いや、喜んでくれんのは良いけど、なんか神様と仏様の間に入るの複雑……」

しかも拝まれてる。たかが飯作るだけなのに、そんな崇高なものと一緒の扱いすんなよ、と今度はハクが照れ臭くなって、煽るように流衣を伴い、サッサと店に戻った。

「いらっしゃーい、て、アレ?」

マスターは、ハクが見知らぬ女の子を連れて入って来たため、条件反射の出迎えをした後に、営業時間ランチタイム終了後だったのに気が付いた。

「あ、あの、こんにちは、お邪魔します」

流衣がぺこりと頭を下げて挨拶した。初対面のマスターに恥ずかしさからか、少し戸惑いがち。

「マスター、表で友達に会ったんだけどさ、悪いけどこいつに〈賄い〉食わせてもいい?」

ひとのいいマスターが〈ダメ出し〉しないのは分かってても話を通す。マスターは流衣見て驚きを隠さず、2人を見比べた。

「驚いたな、賄いは好きに食べて良いけど、ハクにこんなに可愛い友達いたの? まえからの友達?」

おじさんからとは言え、はっきりと可愛いと言われて、流衣はちょっと照れて顔が赤らんだ。

 50代のマスターからすると、息子同様のハク、この一年一緒に働いてて、全く女っけ無しだったのに、「息子がいきなり彼女連れて来た!」的な雰囲気になって、緊張するマスター。

「んーと、先々週だから、2週間前か?」

ハクは流衣に向き直って聞くと、流衣も気を取り直して。

「うん、そうかも」

と答えた。先々週……そっか、あれから2週間経ったんだ。早いような、もっとずっと前だったような……。

「それに、俺の友達ってより、一臣の同級生つった方がちけーしな」

最初はそれが正しい関係性だったが。この2週間に関して言えば、一臣よりハクと交友関係を深めたのは間違いない。

「何だ、一臣君の同級生かぁ! ……どうりで、ハクの友達って言うからイメージ湧かなかったけど、一臣君なら納得だよ」

マスターは『息子の彼女説』から解放されてホッとしたような残念のような、訝しげな表情から笑顔になったかと思うと、眉毛が哀しげに下がった。

(一臣の知り合いなら納得で、俺の友達だとイメージ外って何だ、イメージ外って)

「……俺のイメージって何?」

ハクは自分がどんな印象で見られてるのか気になって、聞いてみた。するとマスター、物凄く頭を捻って考えた後に真顔で。

「アドバルーン?」

「はあ⁈」

「ぷっ」

ハクが驚きの声を上げると、つられるように流衣が吹き出した。

「どんなイメージだよそれっ! ルイ笑うな」

「ご……ごめっ……」

大きくて目立つし、フワッとした感じが妙に合ってて、流衣は笑いが止まらなかった。

「いやあ、なんていうか、デカくてふらふらしてる割には根がしっかり止まってて、飛んでは行かないって感じかな……」

マスターは的を得た表現をした、決して悪口でも揶揄からかってもいない。横で流衣が〈そんな感じ〉と言いたげに、涙目でうんうんと頷いてるし。

(……微かに褒められてる気がすんだけど、微妙過ぎて全く嬉しくねぇ。……なんだこの超ギリギリのラインで防衛線突破する感じ、怒れねぇじゃねーかっ)

マスターの微妙なツンデレを受けたハクは、それ以上突っ込めなくなった。

「君、ルイちゃんっていうの?」

マスターがやっと笑いを収めた流衣に話しかけた。

「はい。狩野流衣といいます」

喋った途端。

 グーッ

お腹が鳴ってしまった。

(忘れてたのにぃ。ああ……もうやだ……)

流衣は再び真っ赤になった。

「ああ、なんだそういうことか、ほらハク、ボヤッとしてないで、ご飯作ってあげないと、早くしないとルイちゃん倒れちゃうよ」

マスターは、特に理由も聞かず、ハクに早く飯を作れと急かした。そして時計を見ると、ヤケにソワソワし始めた。

「僕はこれから、出かけるから僕の分ご飯いらないからね、後はいつも通りに任せていいかな?」

「あー、今日は新装開店か……はいよ、いってら」

近所のパチンコ屋が〈本日3時新装開店〉 なので、マスターは気持ちがもうそこへ飛んでいた。

「あ、ルイちゃんゆっくりして行ってね。じゃあ」

「はい、ありがとうございます……」

と、流衣が言い終わらないうちに、マスターは風のように行ってしまった。流衣はパチンコの事など知らないので、新装開店とマスターのソワソワ感が繋がらず、ポカンとなった。

「出来るまで、その辺に適当に座っとけよ、食い物の制限あるか?」

食事の制限なんて全くして無い流衣は

「ううん」

と首を横に降った後で「嫌いな物あるか」って意味だったのかな? と思ったのだが、好き嫌いが出来るほど豊かな食生活してない自分に気が付き、料理してないという女子力の無さに落ち込んだ。そして気がつくと、ハクはもうカウンターより奥まった調理場に入っていて、寸胴でパスタを茹で始めた。何を作るのかと、好奇心に駆られた流衣は、ハクの姿を見る為にカウンター越しに伸び上がった。パスタを茹でてる合間に野菜を切るとても自然な動きは、小さい頃、父親が朝に味噌汁を作ってた姿を彷彿とさせ、何だか懐かしさが込み上げて来た。

(お父さんは、こんなに滑らかな動きじゃ無かったけど、黙々と作ってて、私が横で見てても何も言わなかったな、お母さんは……私が真横に居ると「邪魔だからテレビでも見てなさい」って言われて、いつも怒られたけど、料理してる時に横でチョロチョロしてたらそれは邪魔だし、私が悪いんだよね)

 流衣が思い出に浸りながらハクの手元をじっと見ていた。視線を感じながらいつものように調理しているハク、お客さんから凝視される事は良くある事だが、見られるとどうしても、気合いが入りカッコつけてしまうのは、人としてのサガなのか男としての性分なのか。やたら高い位置から塩を振ってる自分に。

(もこみちかよッ)

と思わず突っ込み、椎茸を切る包丁に無駄に緩急をつけながら……ふと我に帰る。

(何故に椎茸刻んだ⁈)

カルボナーラにしようとして、玉ねぎを刻むつもりが、隣の椎茸をいつの間にか切っていた。

(しゃーねー、……和風にするか)

路線変更をする、こだわり無しの臨機応変シェフ。

そんなハクの裏事情をつゆとも知らない流衣は、ただ何が出来るのかワクワクしながら見ていたのだが、ハクの物を切る量が多いことに気が付いた。

(2人分……? だよね、マスター行っちゃったから、アレ? さっき、3人分も4人分も変わんないって言ってたような……それマスター入れてって事? いや待って、それにしても合わない……)

「誰の分……?」

流衣の声が聞こえたハクは一度聞き返す。

「誰の、つったか?」

また声に出しちゃった……とウッカリした流衣だが、疑問をそのままハクに尋ねた。

「うん。量が多いなと思って、4人分くらいあるよね?」

「そりゃあこん位食えるだろ、そいつも居るし」

流衣の疑問に応える様に、ハクは流衣の後ろを指して言った。そのハクの目線と指先を目で追って見ると、流衣の目に一臣が入った。

「えっ⁈」 (藤本くん⁈)

流衣の斜め後ろ、客席が切れる場所に背の高い冷蔵ケースが有り、更に後ろに半畳程のカーテンで仕切られたバックヤードの中で、椅子に持たれて腕組んだまま寝ている一臣が、半開きの仕切り越しに見えた。

(爆睡してる⁈ でも何で? 何でここで寝てるの?)

「藤本くん、いつもここで寝てるのかな……」

「いや、滅多にねーわ」

独り言とも取れる流衣の発言にハクが答えた。

「今日は店開けんのと同時ぐらいに現れて、なーんも言わずに、そこで爆睡しだしたんだよ。ランチタイムで客来てうるさくなっても、全っ然、起きねーでやんの。まぁ、ほっときゃいいから」

 昨日……いや、今朝の〈接触チャラ〉のお陰で、多分一臣は寝て無いと容易に判断し、仕方なく寝かしてやってたのであった。そんな事情を知らない流衣は

(藤本くんが〈お昼寝〉って、なんか意外……いつも学校から早退するのって、ここで寝る為かな? でも、ハクは滅多にねぇって言ってるから違うみたいだし。今日はたまたま寝不足なのかな? ……でもそうしたらいつも早退して何してんだろ……不思議な人だな藤本くんって、ゲームとかするタイプに見えないし、昨日何かあったのかな?)

知らないながらもなかなかに近い答えを出した。

「ほらよっ」

掛け声と共に、ドンと流衣の前に出来上がったパスタを置いた。椎茸とベーコンの和風パスタ。お醤油の効いたパスタの良い香りが、一段と食欲をそそる。

「わっ、凄い、美味しそう〜……」

と言う声が力無く、不満そうに聞こえ、流衣がパスタと睨めっこしてる。

「何不満それ?」

パスタの前で固まってる流衣に向かってハクが言う。

「……量が……」

 通常の2倍? いやこれ3倍⁈

「ん? あ、そっか、おまえ女子だったな」

ハクは笑いながらパスタを手前の皿に移し、量を半分に減らしたが

「……すみません、これでもまだ〈てんこ盛り〉です」

流衣的には1・5倍。

「え、そんなに? 何か〈少食〉気取ってねえ? 俺に気を使う必要ねえだろ」

ハクは料理人ゆえに、主食残してケーキ食う様な女子が苦手であり、流衣もその手のタイプかと疑ってかかる。

「違うの……お腹が空き過ぎてるから、普通の量も入らない気がするの……」

流衣は通常量は食べれるのだけど、今日は絶対無理だと、自分で分かっていて、落ち込み気味に話した。

「それに、残すの嫌だから、おかわり出来る量がいい……」

今日はそれは無理だと思うけど、小さい頃に「残すと『勿体ねえっ』て神様に叱られっから」と父親に言われてから、それを忠実に守ってる流衣。

「あぁ、それは俺もわかるわ……。んじゃこんなもんか?」

そう言って更に半分くらいに減らした。

「うん、これなら食べれる。ありがとう。我儘言ってごめんなさい」

「……いや、ワガママっつーほどのもんでは……」

流衣の発言に耳を疑う、丁寧というかなんというか…育ちの良いやつは考え方も違うもんだな、とハクの『流衣=セレブ』説は絶賛進行中だった。

「いっただっきま〜す」

ああ、やっと食べれる! 通常量よりやや少なめになり、ようやく安心して一口目を口にする。

「美味しい……」

和風のお醤油と出汁がベースのパスタは、空っぽの胃の中に沁みる様に滑り込んでいく。いつも食べてる塩むすびとは違う複雑で優しい味わいと、ひと様に作ってもらって食べる優雅なひと時に、流衣は感動して目頭が熱くなって来た。

「お前……なんで泣きそうなってんの?」

そんな流衣の様子を見て、カウンター席で横並びで座って、2倍量パスタを完食寸前のハクが、不思議に思って聞いた。

「……初めて食べたから」

「は⁈ パスタが?」

女子で高校生でパスタ初めてなんてあんのか? ハクの驚きはドン引きレベル。

「ナポリタンやミートソースは給食で食べた事あるけど、和風のパスタなんて初めて食べたの、変かな?」

「変じゃないけど、珍しいよな」

女子は少なからず、パスタの達人かと思ってたので、給食以外で食べた事ない発言は、なにか引っ掛かった。

「ご馳走様でした」

少なめとはいえ、やはり後半お腹いっぱいになったが、無事食べ切れたので流衣はホッとした。時計を見ると3時半、7時からのレッスン迄にある程度に消化出来て丁度良い。ハクはとっくに食べ終えて、夜の営業の為の仕込みを始めていた。

「ごめんなさい、ゆっくり食べ過ぎちゃった。片付け手伝うね」

流衣が自分のお皿を手に持って立ち上がると、ハクはカウンター越しにその皿を受け取った。

「皿を洗うくらい気にすんな、それよりいく時間じゃねぇの?」

いつもこの時間に店の前を通るので、バレエに行く為だと思っているハク。でもいつも流衣がいそいでいるのは、バイトに入る前にドラッグストアの更衣室で軽食を摂る為だった。でも今日はお腹がいっぱいでその時間は要らない。今日のバイト先のドラッグストアはここから5分。

「バイトは4時からだから大丈夫。何すれば良い?」

「バイト?」

ハクは思わず皿を洗う手を止めた。

「バレエじゃなくてバイト? 何で?」

嘘だろ⁈ って言いたげなハクのリアクションの意味が、流衣には分からず。

「え……、何でって、バレエのレッスンは7時からだから、それまでバイトなの」

素直に事実を喋った。

「そうじゃなくて、何でバイトしてんだよ、お嬢様じゃねーの?」

ハクの疑問符はブーメラン化して、流衣の元に飛んでくると、頭の中に大きな〈?〉マークが飛散して広がる。

「お嬢様って……? うちただの兼業農家だったし、でも津波で流されて廃業して、借りてた土地だったから家にお金も無くて、お母さん介護士で、お父さんシルバー人材で働いてるんですが……」

一体どっからそんな誤解が出て来たの……? 私、お嬢様っぽい言動取ったかな? いやそんなはず無い、お嬢様のカケラなんてミジンコも無い……。やはり〈?〉が頭の中をぐるぐる回る。

「じゃあなにか、バレエやるための費用稼ぐ為にバイトしてんのか?」

「うん、そう」

「へぇ……」

どうりで、セレブのお嬢の割には、気さくな奴だと思った。とハクは今更ながら、自分がステレオタイプな勘違いをしてた事に気付き呆れたが、農家の娘と聞いた途端、ホッとしてる自分が根っからの庶民だと納得した上で苦笑するのだった。

「変?」

ハクが意味深な顔で笑ってるので、流衣は自分の行動がおかしいのかと気になってしまった。

「いや全然、おまえ偉いじゃん、マスター聞いたら泣くわ」

最近特に涙脆い50代。

そして褒められる事に異常に弱い10代女子はというと。

(いやそんな、別に偉いってほどじゃ無いし、高校生でバイトしてる子結構いるし、ひとを泣かせる様な凄い事して無いし、踊れるけど運動音痴だし、自転車は真っ直ぐ走れないし、弁当作れないし、おにぎり塩だし……)

褒められた事に対して、そんな事はないと否定する事で、恥ずかしさを緩和しようとするのだが、考え込み過ぎて、思考能力が低下して違う方向にドンドン沈んでいく。

流衣が色々考えてる様をハクは黙って見ていた、何考えてるのかは解らないが、恐らく見当違いな事だろーな、というのは普段の破天荒な会話から何となく読めた。

(ダメだバイトに行こう……)

そう結論を出した。思考力が低下したら、動く。流衣の持論。

「えっと……私、バイトに行くね。賄い ご馳走様でした」

「はいよ。またな」

慌ただしくバイトに向かう流衣を、ハクは何事もなかった様に送り出した。

 流衣を見送った後、洗い物をしながらさっき流衣がサラッと言った事を考えた。

(シルバー人材って事は親父さん65歳過ぎてんだよな……それって結構な事情有りってやつな訳だ。しかも家も無いとか、津波で流されたとか、笑い話みたいにアッサリ言いやがって……あいつ、そうは見えないけど結構苦労してやがんな……)

辛い事や悲しい事を、笑いで誤魔化してしまう所作は、母子家庭で育ったハクにも痛いほど分かる、寂しい処世術だった。

「さて、軟骨の唐揚げに取っ掛かるか……まあ〈素〉でいいか……」

『時玄』はお酒がメインの店なので、料理はおつまみの類いが多い。マスターが若い頃に洋食屋で働いていた名残りの直伝レシピで、パスタやオムライス等は手作り。しかし揚げ物は下手にこだわるより、業務用の調味料を使った方が味もコスパも良いのである。今日の選択は業務用の〈素〉。ハクは唐揚げの〈素〉を取りにバックヤードに行こうとした。

「はい」

目の前に、醤油味、塩味、ガーリック風味。の3種の唐揚げの素が差し出された。

「……今日はどれにすっかな」

と、一臣から差し出された唐揚げの素を、マジっと見つめて考えるハク。

「そこのパスタ食って良いぞ」

朝、目覚めて、歯ブラシを手に取るのと同じような感覚で、唐揚げの素を受け取りながら、カウンターに置いてある和風パスタを示した。一臣は無言でカウンター座席に座ると、パスタをジッと見つめて。

「多くない?」

といつもより異常に多いパスタに反応した。

「あいつが「こんなに食えないっ」つうからさ」

流衣の分をそのまま一臣の分の皿に増量したからだ、そしてはそれを食えと言う、ハクは男子には容赦なかった。しかし、いかに男子とはいえ流石に3倍近いパスタは大盛りすぎる。一臣が食べるのを躊躇してるのを見て。

「お前、ルイの同級生で隣の席なんだろ、責任持って食えよ」

ブラック企業の上司ような理不尽な命令に、異論で答えることはなく。一臣の疑問は別の所で発揮された。

 ……ルイ…… 72ページの声。

 ……それか、遠くから……聞こえて来た……。

「バイト……」

 ボソッと言った一臣の一言。聞こえて来た声から、印象に残ってるうちのひとつを口にした。ハクはそれに気が付くと。 

「おまえ、〈タヌキ寝入り〉ちゃん?」

起きてたのかよ、とハクらしく聞いた。

「……いや」

 起きてたというより、起こされたという方が近い。名前を呼ばれた気がして、うっすらと彷徨う意識が眠りから戻された。遠くから囁く声は、本来は更に深い睡眠へといざなうものだが、一臣の中に残る単語がいくつか出て来て、目が覚めた。

 バイト、バレエ、初めて食べるパスタ、……津波。

特に最後の言葉は、耳に残るが口には出せない単語だった。いくつかの言葉が思考の中で記号に変わり、一臣の中に留まったが、特に気にする訳でもなく、目の前のパスタをおもむろに食べ始めた。


 ドラッグストアの品出しのバイト終了後、流衣ははやる気持ちを抑えスタジオに向かった。

「とととっ」

スタジオに曲がる細い道を曲がり切れずに、よろめきながら一旦止まった。頭の中は〈シンデレラ〉〈四季の精霊〉で埋まり、心が飛んでいってる流衣は、身体とのバランスがうまく取れ無い。

「良かった〜、転ばなくて」

細道は入りがブロック塀で挟まれている為、当たったら怪我が『必須』状態なので、ギリギリで止まれた自分にホッと胸を撫で下ろすと、落ち着いて自転車には乗らずに押して歩き、スタジオの玄関の近くの空きスペースに停めた。

 月曜日のレッスンは基本的にフリーの日、小学生でも大人クラスの人でも、どのクラスの人が来ても良い日だった。ようは自主練の日で、分からない事を先生や先輩たちに教えて貰ったり、意見交換やダメ出しできるオールマイティの日なのだ。その筈だった。だがしかし日野先生の思惑とは裏腹に、上級クラスの子達しか集まらない、他のクラスの人達がレベルの違いに遠慮してるのか、全く来ないのだ。まあ、それも仕方ないと日野は諦めて、いまや上級者のおさらい回と化したフリークラスを教示しているのであった。

「おはようございます」

流衣が扉を開けてレッスン室に入っていくと、美沙希以外いつものメンバーが揃って、床で柔軟していた。

「おっはよう、流衣ちゃん」

光莉が笑顔で振り向いた。陽菜も流衣に手を振って挨拶したが、すぐに鏡の前に向き直り、呟きながらフリの確認をしている。そしてなにやら理子と柚茉が部屋の奥で真面目な顔で話している。流衣がその様子を見て、2人が話し合ってる姿は普段ない事だったので気になった。

(どうしたんだろ……みっちゃんと柚茉ちゃんが2人だけで話てるの初めて見た……)

何かミスマッチな気がする、と思って見ていると、光莉が話しかけて来た。

「聞いたよ、流衣ちゃん『四季の精霊』の事、全幕物なんて初めてで、もう超ドキドキだよね〜」

光莉は唯一の同い年の高校一年生。学校が違い家も遠くてレッスンでしか会わないが、ふたりで話す時は妙に親近感があって、お互いにとても気楽な楽しい時間なので、クスクス笑いながら話してしまう。

「楽しみだよね、光莉ちゃんは踊りたい精霊ある?」

聞いた瞬間に、光莉がプププッと笑い出した、

「なぁに? どしたの?」

「私は〈春〉で全然オッケー何だけど、柚茉ちゃんが〈秋〉嫌だって言い出して……」

「あ〜、そういうことか」

ようやく合点がいった流衣は、ぽんっと手を打った。

「2人だけで話してるの初めて見たよね」

光莉は可笑しくて堪らないっ、といった表情で笑いが収まらない。

「だから、ジャンケンにしようよ」

柚茉が提案すると、理子は嫌そうに顔で答える。

「なんでや、柚茉っち上手いんやから〈秋〉でええやん」

「……みっちゃん、人を褒めて誤魔化そうとしてもダメよ、私だって〈夏〉の方がいいんだから」

「うち〈秋〉嫌やねん」

「私もよ」

話が平行線のまま、全くもって進まない。流衣と光莉が、譲らないふたりの話し合いの場に近づいて来た。

「みっちゃん、何でそんなに〈秋〉嫌なの?」

光莉がたまりかねて尋ねた。

「アンボアテ・アン・トールナン、苦手やねん……」

アンボアテ・アン・トールナン、とは脚を入れ替えながら回転しつつ、前に進むステップ。上手い下手というより、得意と苦手に分かれるステップ。今回の〈秋の精霊〉にはそのステップが振りに入ってるバージョンだった。

「うん、アンボアテ、難しいよね」

流衣も賛同する。

「じゃあ、柚茉ちゃんもそこが嫌なの?」

光莉が聞くと、柚茉は難しい表情になり

「なんかね〜、どーも綺麗に見えないの、自分がやると、なんかジタバタしてる様にみえちゃうのよね」

ため息混じりに言った。

「ええやんジタバタなら、うちがやるとガチャガチャやし」

本当に嫌そうに言う理子に、自分もそう得意じゃ無いステップに対して、どうにもフォローが出来ない光莉。

「でも……鏡で見ながら踊ると、みんなそうじゃないかなぁ」

……鏡を見ながら踊る自分の姿はどうも変だ、と思うのは皆そうなのではないのかな? と流衣は少し前のことを思い出した。ローザンヌのビデオ審査の為に、撮影された自分のそ《・》れ《・》を見た時のショックは、おさらい会や発表会等の引きで撮った物とは全く別物で、アップで自分の踊りを客観的に見た時に、流衣のそれまでのバレエ人生において、初めて踊るのを辞めたくなったくらい汚い踊りに見えた。しかし自分を知るという事は何より大切で、そこで必要不可欠な努力を重ねてバージョンアップをしてこそ、全てを経験値に変えるだけのが器が出来るのである。

「ちゃうねん、うちがやると 〈やっさん〉 にしか見えへんねん……ほんっまに嫌や……」

理子がシュン……となってるのとは裏腹に、みんなキョトンとなった。

〈やっさん〉 って誰?

「いやねぇ、みっちゃん何言ってるの⁈」

そう言い笑いながら、いつの間にか先生が入って来てた。後ろから美沙希も入って来ていたが、皆と同様キョトンとしてる。〈やっさん〉 こと、〈横山やすし〉を知ってる世代の先生はひとりだけ肩を震わせて笑っている。現役女子高生の娘達は知らない人だが、関西人の理子には〈伝説の芸人〉 である。

「そんなに嫌なら〈冬〉やる?」

笑い過ぎて流れた涙を拭いながら理子に聞いた。

「えっ……」

理子は戸惑い、果てしなく遠くを見て考える。急に火の粉が降りかかって来た流衣。

(それって、私が〈秋〉って事かな……?) 

近くの先生を見て考えた。

「どお? 流衣ちゃん〈秋の精霊〉やってみる?」

先生の提案は決して流衣に踊らせたかったのではない、理子に対する挑発である。なんとか本人にやる気を起こさせたかったのだが。

「〈冬〉ってポアント多ない? それにな、イタリアン・フェッテだらけで、ターン連続やし、まいっチングやん」

どちらも苦手でダメらしい。自分に甘い理子にはあまり通用しなかった。

「じゃあ、私、〈秋〉やります」

流衣は嬉々として引き受けた。

「ダメ、絶対!」

〈薬物防止ポスター〉のロゴ? と思わせる発言を美沙希が発した。

「みっちゃんも柚茉ちゃんも、もっと自分に厳しくしなきゃダメじゃない。流衣ちゃんも、そんなに簡単に引き受けちゃダメ」

美沙希に怒られて、3人が萎れた花の様になった

「うち、美沙希みたいにプロになりたいわけちゃうやん? だから、楽しみたい……いうか……それダメなん?」

たのしむのとらくするの違くない? そもそも上手くなりたいからスタジオに来てるんでしょ? 下手でいいなら、家で踊ればいいじゃない」

美沙希の一本筋の通った発言に誰しも口を閉ざしてしまった。美沙希の真面目な意見と同時に、仕切り具合を感心して見ていた日野は

(このクラスのまとまりの良さって、美沙希ちゃんの厳しさと流衣ちゃんの甘さゆえね……何て見事な『飴と鞭』。それにしても、流衣ちゃんまで一緒にしょげてるのは何でなのかしら……)頭を傾げつつも、この2人がいれば私必要ないかも知れないと、何気に思う。

「こうなったら、もう一度ちゃんと配役決め直した方が良くない? 公平に」

美沙希が言った。

「えっ、決め直しするの⁈」

〈春〉で、安心しきっていた光莉が喚いた。

「公平ってジャンケン?」

「バレエ大好きっ」て、顔した陽菜がニコニコしながら言った。

「陽菜は、人ごとだから気楽やな」

イケメンダンサーと踊れる陽菜はまさに人ごと、「庶民は、配役決めジャンケンでも何でもして頂戴っ」って女王目線発言をしてしまいそうにも見える陽菜、なんだか楽しそう。

「公平なら〈あみだ〉でしょ?」

美沙希がキッパリ。

「何で〈あみだ〉 やねん! ユル過ぎるで美沙希」

理子が物申す。

「ユルいって、何で?」

何で〈あみだ〉がユルいのか分からない柚茉が、不思議そ〜に尋ねる。

「勝負な感じせえへんやろ、ジャンケンやったら、いくで〜って感じするやん」

「分るような、分からないような……」

柚茉がボソっと言うと皆も同じくそう思った。

「それでどうする?」

皆んなどっちの意見に賛同するか迷っていた。いってしまえばどちらでも良い。ハッキリと答えられないでいると。

「あみだでいいんじゃない?」

先生の鶴の一声で全員ホッとする。

「じゃあ〈くじ引きあみだ〉にするよ」

美沙希がメモ用紙を出す為に、自分の鞄を取りに部屋の角に行く。

「〈くじ引きあみだ〉って何やねん」

くじ引きもあみだも知ってるが、2つを合体させた 〈くじ引きあみだ〉なんて知らない。大体〈あみだくじ〉が正式名称の筈である。

「あれ? 知らない?〈あみだ〉で〈くじ〉 引く順番決めるの、うちの学校の役員決めいつもこれなんだ。二段構えでくじ引くから、意外と皆んな諦めて文句出ないんだよね」

美沙希は喋りながらテキパキと、春・夏・秋・冬と四枚のメモ用紙に分けて書き、文字が見えない様に四つ折りにした。

「すみません先生、これシャッフルしといてもらえますか?」

作ったくじを先生に渡し、美沙希は〈あみだ〉に取り掛かる。ノートを一枚破り、まず縦に四本線を引き、1〜4までランダムに数字を書きその部分を折り曲げる。

「はい、4人で順番に横線入れて行って」

床に縦線だけのあみだを置き、その周りにみんなが群がり、当事者の4人、理子、柚茉、光莉、流衣の順番に横線を入れて行く

「横線ナミナミってありなん?」

「縦線跨ぐよりはありじゃない?」

理子と柚茉が言い合うと

「じゃあ斜め上は?」

「それは掟破りでしょ? って何で陽菜が出てくんの?」

「えへへっ」

面白そうなのでつい参戦してしまった陽菜。

「もうええやん、選んでまお」

「みっちゃん飽きたんでしょ?」

「バレてもうた?」

「蘭ちゃんでも分かるわ」

「コナン君じゃないの?」

理子と美沙希の会話の後、柚茉が疑問を投げかける。痺れを切らした理子。

「もうキリないわ、うちココ!」

我先に選んだ。

「えっ、みっちゃんズルいっ」

陽菜が叫んだが、逆に他の3人はとても冷静に残りの場所を選んだ。

「……何で皆んな何も言わないの?」

陽菜がボソッと言うと、美沙希がそれに応える様に

「大人だから冷静なの……っていいたいけど、確率計算が出来てるだけよ」

どの場所選んでも確率は一緒。

「そうなの? 確率……同じなの?」

確率の数学単元は中三で教わる。中ニの陽菜が助けを求め、歳の近い流衣と光莉を見る。

「う〜ん、多分……」

光莉は数学が苦手らしい、更に苦手な流衣は。

「何でもいいから、早く踊りたい……」

数学に関してはスルーで、本音マックス

あみだの結果は

1番 理子

2番 光莉

3番 柚茉

4番 流衣

その順番通りに先生の持ってるくじを引くと…。

〈春〉 流衣

〈夏〉 柚茉

〈秋〉 理子

〈冬〉 光莉

と理子の爆死となった。

「…何て見事なブーメラン」

美沙希が呟いた。

「何でや…一番くじ引いといて、何で〈秋〉握ってもうたん〜。あかん、ここに〈ビリケンさん〉おらん」

理子が泣きながら大阪の福の神様の名前を口にした。

「うん、ここ仙台だから、居るの〈仙台四郎〉だよね」

「流衣ちゃん、〈仙台四郎〉は商売の神様だよ」

光莉が流衣の勘違いを諭す。

「あ、そうか、神様の役職が違うんだね」

しかし〈仙台四郎〉は実在の人物で神様ではない。ビリケンもアメリカ人のフローレンス・プレッツ氏によってデザイン化されたものである。

「これで配役決まったことだし、振りに入れるわね! さあ、バーレッスンから始めるわよ」

先生がようやくスタートラインに立ったと、区切りをつけてレッスンを開始宣言をした。

「えっ、やーん、待って待ってっ〜!」

まだ着替えてなかった流衣は、更衣室に行く暇が無いと、慌てて教室の隅で着替え出した。


『春の精は新鮮な明るい光で新しい生命力に満ち溢れ、夏の精は暑く気怠そうでいて夢見がちな様子、秋の精は強い風が吹き荒び生命の儚さを表し、冬の精は氷のように冷たい空気の中での煌めきを表す』

「新しい生命力に満ち溢れ……かぁ」

 お昼休み、流衣はいつもの木陰で日野先生から借りた『東京国立バレエ団』の『シンデレラ』のパンフレットを開くのが日課になっていた。

今週ずっとなぞってるけど、なんかしっくり来ない。元気よく踊れば良いってものじゃないし、爽やかに清々しく……って感じかな。でもそれはどう踊れば出るんだろ、ゆっくり? 綺麗に……? 上品に……かな? って上品ってどうやって表現するんだろ……優雅に……。だからそれどうなの??

「あ〜もう、分かんないっ」

流衣は今、表現力の壁にぶつかっていた。得手不得手はあるものの、振り付けは一度観れば大抵の踊りは覚える、ステップは身体が覚える。けれど表現力は別物。

……小さい頃から土いじりで育った環境で、〈力強く、元気に、明るく〉は身に染みてても、〈華麗で、優雅に、上品〉は自分とかけ離れ過ぎてピンと来ない。〈春の精霊〉は流衣にはとても表現しずらい踊りで、超難関だった。

(美沙希ちゃんの踊りが優雅に見えるのは身長が高いせいなのかな……でもそれだけじゃないよね、きっと……。〈春〉って思っていたより大変、でも、だからこそ、凄く手に入れたい……踊りたい!)

流衣がうんうんと唸りながら考え込んでいると、珍しく人の気配がして、話し声が聞こえて来た。

「また逃げられたよ。アイツほんっとーにムカつくんですけどっ」

(あれ……この声の人、同じクラスの渡辺さん……? 確か「あやな」?「あやか」かな? って松田さん(みかりん)が呼んでた人……あっととっ)

流衣はふたりを見よう立ちあがろうとして、他のクラスにいってる事になってるのを思い出し、咄嗟に身を低くして隠れた。

「また私ひとりで仕事だよーもーやだっ。何で先生何も言わないの⁈」

「アイツ絶対わざとだよね忘れたフリしてんだよ、毎回だもん。藤本に言ったの? 日直だって」

「言わないよ〜、アイツ怖いもん、黙ったままだし」

「あーわかる、無言で睨んでくるよね。超感じ悪いわ」

〈みかりん〉の声。2人が仲良く裏庭を歩きながら愚痴ってる。

「日直のズレくらい直してくれればいいのに、吉岡シカトだよ? 超ムカつくんですけど」

「無駄だよ。吉岡の奴、あたしら女子にはガーガー言うけど、男子には絶対言わないから、つーか、男全般ね」

「まじキモい、あのメガネ二次元オタク!」

(担任の吉岡先生ってそういう人だったの? 知らなかったな。けど何で渡辺さんが藤本くんと日直なんだろ……。クラスにひとり脚の骨折で長期間休んでる女子がいるけど、男子……って山田君と逸見へんみ君と、なんか難しい読み方の万城目まきめ……君。あ、そっか、藤本くんて男子で一番なのか、だから女子の最後の渡辺さんと一緒なのね……ハ行で一番って意外……)改めて教室の中の同級生の様子を思い描きだして納得すると、そこへ昼休み終了の予鈴が鳴った。

「あーもう無理」

「あたし手伝うからさ、戻ろうあーや」

「ごめんね、みかりん」

2人が行ったのを見届けて、流衣も戻る為に立ち上がった。

「日直か……。あ、魚肉ソーセージ食べるの忘れてた……」

おにぎりを食べながら思案に暮れていたら、思い掛けずに同級生の会話を聞いて内容が妙に印象に残ってしまい、その後のいつもの流れ動作がすっかり止まってしまっていた。

(まあいいか、バイト前とレッスン前があるし、今日も長いから小出しに栄養摂ろう)


「流衣ちゃん大丈夫なの?」

日野先生に声をかけられ、流衣は咄嗟に時間の事だと思い時計を見た。10時20分をまわっている。既に他のクラスレッスンの生徒は帰り、残っているのは流衣一人だけ、月曜日からずっと、十一時過ぎるまで練習していた。

「すみません先生、……今日は早く出た方が良いですか」

早く帰りたくて声をかけられたのかと思った。

「違うの、時間の事じゃなくて、のめり込み過ぎじゃないかと思って、さっきからずーっと同じ事してるわよ?」

「え、本当ですか? やだっ」

同じ振りだけど、少しずつ変えて踊ってたつもりなのに、同じ? 

「やり過ぎて迷宮に入ってるわよ、集中力が落ちてる今の状態のまま続けても変わらないわ、今日はもう上がりなさい」

日野はオーバーワークである事を流衣に告げた。身体が疲れたままでは、上達しないどころか怪我のする確率も上がる、それは良くない。

「はい」

それは流衣にも伝わり表現が暗くなった。やり過ぎなのは自分でも分かっていたのだ。

「何かあったの?」

いつもと違う流衣の様子に、日野は声をかけた。

「え……、あの……」

やっぱりおかしい、いつもと違う様子に心配になった。

「具合でも悪いの?」

「えっ、いいえ、体調は悪くないです! ただ……その……バイトが……」

流衣の顔が暗くなり下を向いたので、日野は益々心配になった。

「バイト? がどうしたの?」

「……シフト時間を減らすって言われちゃって……」

減らす——何だ、何かあって辞めたのではと心配した日野は少し安心した。

「今日バイト先で、品出しは午前中に終わらせたいから、その時間に入ってくれる人にやってもらうって事になって、週四から週二にバイト減っちゃったんです」

「あらまあ」

先生はそれ以上言葉が出なかった。

震災後の物流が落ち着きを見せ始め、決まった時間帯に店に納品されるようになった為、店のパートは午前から午後二時までの人が望ましくなったのだ。本来なら望まない時間に入ってる高校生は要らないのだが、例え高校生とはいえ真面目に働く人間を解雇にするわけにはいかず、店の好意で時間短縮になったのだった。

流衣にとっては死活問題。レオタード、タイツ、バレエシューズ、それらは結構長持ちする、ちょっと穴が空いても、いつものメンバーのレッスンなら誰も気にしない。けどトウシューズは別。流衣は月一で履き潰していたので、減るバイト代はトウシューズ代に匹敵する。そこだけはケチれない……。それに発表会にかかる費用と毎月のレッスン代……。

「バイト、探さなくちゃ……」

バレエの夢の中の世界とは裏腹の現実を直視しながら、流衣は帰路に着いた。


 金曜日の朝、流衣はいつもの様にバイト先であるホテルに向かった。月曜日に寝坊して失敗して以来、ちゃんと朝起きて支度して出る様にはしてるけど、睡眠不足により学校に着いた途端に気絶する様に爆睡してしまう為に、周りの様子の変化などには全く気づかない。流衣はホテルに着くと制服に着替え始めた、するとそこへホテルの事務所からの内線電話が鳴った。更衣室には、流衣一人しか居なかったのでそれにでる。

「川田さん……。お休みなんですか」

今日のバイトのパートナーが休むとの、連絡があったと伝えられた。子供が熱を出したらしい。流衣と良く組む伊藤さんは年配の女性。たまに組むもう一人が川田という小学生の2人の子供を持つ女性である。伊藤は休んだことは無いが、川田は子供の体調不良で休む事がある。

「今日はひとり……がんばろ」

仕事は一応清掃。とはいうものの掃除よりチェックがメインの仕事である。廊下、ロビー、アプローチ、休憩所、を見て廻り置き忘れなどがないかチェックする。その後7時からの朝食バイキングサービスが行われるラウンジを軽く清掃。忘れ物などは全て場所を明記してフロントに渡す。チェックが終わってもし清掃が必要な場所があったらそれを済ませ、終わったらラウンジのお手伝い。というパターンを2人で組んで二時間で終わらせるというのが仕事内容だ。それらを一人でこなさなければならないので、流衣は早速取り掛かった。

(今日はひとりだから一番大事なラウンジの掃除からにしよう)

先輩の伊藤曰く。『一番手を抜いちゃいけない所』で『お客様の目が集まる所はクレームが来やすいからね』らしい。ここを朝食バイキングが始まる前に終了させる。

 本来、ホテルの清掃員は十時から十五時の仕事で、朝の時間は朝食の為のバイトしかいないのだが、震災でボランティアの人達が来てくれるおかげで連日満員御礼状態の為、人手が足りなくなり急遽人材が求められた。そのせいで名目は清掃員だが、色々な部署の補填として毎日同じ仕事をするとは限らない〈便利屋〉状態のバイトなのだった。

 ラウンジのテーブルや椅子を流衣は丁寧に拭き掃除して、床に敷いてある絨毯の掃除は大きなゴミや汚れがないかのチェックである。

「うん、オッケー」

次は各階にあるアプローチ(ちょっとした空間、椅子がある所。偶数階自販機あり)のチェック。大概綺麗なのだが、たまにアジア系の外国人が宿泊すると、ゴミが散乱してることがあって、それを片付けるのは結構骨が折れる。

 流衣は掃除用具が詰まった台車を押して従業員用エレベーターで8階に登り、順調に各階ごとにアプローチと廊下のゴミを拾い乍ら進んで行く。そして、4階に着いたエレベーターを降りた瞬間、なにか嫌な予感。目の前の自販機の横に何やら塊が落ちてる、近づくと異臭がする。

「……嘘でしょう」

流衣の目に衝撃的ものが飛び込んできた。

——嘔吐物だった。

明らかに酔っ払いのしでかした物体がだらしない格好で横たわる……。泥酔キラキラ遺物を片付ける羽目になった流衣は、掃除用具の中から汚物処理セットを取り出した。処理の仕方は習ったけど、実際にやるのは初めて。

(バイト始めた頃一度あったけど、あの時は伊藤さんがやってくれたから……、えっと、まずあの物体を取り除かないと……)

 まずホテルの主任に作業の報告を済ませて、不織布のエプロンにゴム手袋をはめ、使い捨てマスクを二重を付けてアウトブレイク状態で処理に取り掛かろうとした、しかしそれ《・・》を目の前して動きが止まる。

「……無理」

〈女子高生〉対〈嘔吐物〉

〈ブルマ〉対〈魔人ブウ〉

と同等の何とも不釣り合いな無謀な図式。

 まずは厚紙と丸めた新聞紙で物体を取り除く作業。流衣は処理班仕様のゴム手袋の上に更に使い捨てビニール手袋をして、目には透明なゴーグルをはめ爆弾処理班の様な完全武装したのだが、やはり最初の一手が出ない。

……嫌。どうしよう……気持ち悪い。触れない、触りたく無い。……でもやらないと仕事終わらない。何とかしないと……。そうだ、別の物だと思い込もう、キティちゃんだと思って触ろう、うん、や、待って、キティちゃん可愛そう……、もっとだらしない感じだから、たれパンダとかはどうかな。

たれパンダ。

たれパンダ。

そう……これはたれパンダ……。

『碇シンジ』テイストで、妄想力を発揮させた。

たれパンダの頭を触る感じで、手繰り寄せるとエモいわれぬ感触だった。

違う! こんなのたれパンダじゃないっ 

違う違う! 誰か言って、これは……これはスライムだって! 人類が作った謎の物体を、虫たちが守ってるって!

『碇シンジ』から『ナウシカ』に次元変換して、必死に誤魔化そうとして、さらにエスカレート。

逃げちゃダメ

逃げちゃダメ!

悟空ー早く来てくれ〜

解き放てー!

海に捨ててぇ

バルス、バルス、バルスー‼︎

誰か助けて下さい! 

もうやだ〜

色々なものに責任転嫁して涙ぐみながら、心の中で大絶叫し肩で深呼吸をしつつ、何とか物をビニールに入れ込んで固く縛った。

……やっと、やっとここまで出来た……。

然し、嘔吐物だけ片付ければいいという物ではない。

後は、こびりついた所落とさなくちゃ…。それに消毒も。

嘔吐物は、ノロウイルスや、インフルエンザの可能性がある為、滅菌消毒しなければいけない。流衣は汚れてる部分に次亜塩素酸ナトリウムを含ませた新聞紙を被せ充分に浸した後取り除き、絨毯をブラシで擦って汚れを落とした。ここまでくれば、普通の汚れだと思える…。ここから水を使い汚れを落とし、丁寧に水分を取り除いた後、更に消毒液を満遍なく、広範囲にスプレーする。

「終わった……」

流衣はようやくホッとして、物凄く長い間仁義なき闘いをしてた気がして携帯で時間を見た。

8時45分。

「終わってる……」

既に学校は始まっている。どんなに急いでも遅刻。

「もういいや、残りの仕事もしよう……」

諦めが前に出る時、人は意外と肝が据わる。ひとりだから「後は任せたー」は出来ない。流衣はこの後、焦らず急がず仕事を最後までやり通した。

 主任に説明して引き継ぎを済ませ、流衣は学校へ向かった、時間は既に10時をまわっている。自転車を停めて校舎の中に入るとチャイムが鳴った。

それまで静かだった校内がザワザワと騒がしくなり、生徒達が廊下を行き来し始めた。

(2時間目が終わったのか、今のうちにコッソリ教室に入ろう)

4階の一番奥の教室まで少し早足で向かって、いつも出入りしてる後ろの扉から中に入った、すると……。

「あれ? 誰も居ない……」

教室はガランとして人気が無く間違って違う教室に入ったかと思った流衣は、一臣が一人だけポツンと座っている事に気が付いて、自分がいつもの鈍臭い間違いをした訳ではなく、ちゃんと自分の教室に来たと安堵した。一臣はゆっくり立ち上がり後ろの扉に向かった。こっちに向かって来る一臣に、流衣は「おはよう」と言いかけて考え直した。

(もう朝じゃなかった……〈こんにちは〉が妥当? でも学校で〈こんにちは〉って何か変……)

なんて思ってるうちに、一臣が出ようとしたので思わず道を譲った。

「三限目、生物、移動教室」

すれ違いざまに一臣が口にした。

「えっ?」

それは一瞬の事だったので、流衣は何のことか理解するのに少し時間を要した。

(今の私に言った? の?)

黙ったまま、流衣は一臣の後ろ姿を見送った。

(3時間目って物理じゃなかったっけ? そっか、変わったのか。……鞄持って行ったから帰ったんだよね……。もしかしてそれ言う為に残っててくれたのかな……そんな訳ないか……)

一臣の後ろ姿がゆらめきそれが気になって不透明な気持ちが押し寄せる。何故こんなに気になるのか自分でも分からなかった。

(初めて口きいてくれた。クラスの皆んなは怖いって言うけど、藤本くんって優しい人だと思うんだけど……)

つい先日の同級生の会話も然り、彼女たちだけじゃなく同級生は皆んな似たり寄ったり、会話が成り立たない相手だということで、一臣は敬遠されている存在だった。

「あ、移動」

流衣は急いで生物の時間の準備をすると理科室に向かった。


 土曜日。本日の特売は岩手県産鶏胸肉1キロ380円。ハクは迷う事なく5キロをカゴに入れた。続いて片栗粉3個。オリーブオイル、牛蒡、人参、付け合せ用のキャベツ、オレンジ等を買い込んだ。『時玄』で使う食材の買い出し、近所の24時間営業のスーパーで買い出しする時は、いつもなら足りなくなった物を買い足す程度で、今日のようなガチの買い物などはしない。

「トンズラしやがった……」

本来なら朝市で買い込んでくる予定のものが、今日は無かった。

「今日は無いって言うが、市場って土日休みじゃねーのか?」

セキが不満そうに聞いてきた。

せりはな、市場の中の店と食堂は結構開いてんだよ」

ハクはマスターに付き合って何度か市場に出かけたことがある。その説明しながらレジで会計を済ませてると、今朝の出来事を思い出し少しムッとした。

マスターが朝市ならぬ朝イチでパチ屋からハクにメールを送ってきたのだ。

『連チャン中なので、宜しく』

朝9時に着信音で起こされて、寝惚け眼で携帯を見たその一文に、ハクの1日のパフォーマンスが影響され本日はダダ下がり中。

「宜しくって……誰の店なんだよ。サービス台情報に乗せられて朝からパチ屋に直行って、オーナーの自覚無さすぎだっつーの」

買い出しをしながらブツブツとぼやいてると

「情報……」

一臣がその言葉をなぞるように口にした。

「おめえだろ?」

セキがいつもの呆れ口調で釘を刺す。

「……」

図星のハクは買った物をスーパーに『御自由にお使い下さい』と書いて置いてある段ボールに詰め込むと、一臣に持たせ、400メートル程度の距離にある『時玄』への帰路に着く。

「情報ってほどのもんじゃねーんだけど……ただ、前日レディース台だったとこの出方を教えただけで……」

バツが悪そうに喋る情報元。

「今どきレディース台なんてあんのか?」

『見た事ねえな』って顔しながらセキが言う。

「そこの『miraku』って店にはあんだよ未だに」

マスター常連の『時玄』から徒歩5分の2件並んだパチ屋の古い方の店の名前だ。

「……田舎だな」

「だからこそのスルースキルって奴だわ」

数年前に改訂されたギャンブル法で、特別な解放台の設置はいけない事になってるが、しょっ中変わる法改定についていけない田舎のパチ屋は有ってないみたいなもん、の程で営業している。

「何がスルースキルだ、英語使えばいいってもんじゃねえだろ」

「……英語にその言い回し無いけど」

「は?」

ぼそりと呟く一臣に、ハクとセキが反応した。

「日本語英語と呼ばれてる造語」

段ボールを抱えたまま静かに言い放った。

「そうなのか?」

なんのこっちゃと、メッチャ怪訝そうな顔のセキ。

「英語で『無視する能力』に直訳すると「The powre of ignoring」だけど、〈スルースキル〉の意味に近いチューニングってする言葉は「tune out」もしくは「ignore」だと思う」

一臣の説明を聞いてもさっぱりわからないハクとセキ。

「まーなんでも良いわ」

感情の違いはあってもスルースキルのお手本のように流した。

 どうでもいいような話をして、ダラダラ歩いてるともうすでに店が見えて来た。すると、反対側から自転車に乗って既に見慣れた女子が現れた。

「おっ」

向こうから手を振って近付いて来る流衣にハクが気付いた。

「おっはよ〜」

店の前の自転車走行オッケーの広い歩道で、段ボールを抱えた一臣とくわえタバコで眉間に皺を寄せたセキと、ポケットに手を突っ込んで怠そうに立っているハクに挨拶しながら、ブレーキを掛けて止まった流衣。

「おまえ元気だなぁ」

 今日は学校は休みでこの後レッスンに集中できる為ワクワクモード中。更にいつもの清掃バイト終了後に、ゆっくりと座ってお茶を飲みながらおにぎりを食べたので元気はつらつ。

「皆んなは元気ないの?」

ハクとセキのダルそうな動きと表情で思わず言ってしまった流衣だったが、一臣だけはいつもと変わらぬ無表情なのに気付き、そうでもないかなと思い直した。

「そりゃ荷物持ちの為にわざわざ呼はれたら元気もねーわ」

セキはさっきからずっと不機嫌顔。

「いつもタダ飯食らってんだからいいだろ、そんくらい」

ハクはトー然と言わんばかりに偉そうに答えた。

「タダ飯……」

流衣が小さい声で言った言葉はハクに聞こえた。

「こいつらいつも賄いタダで食ってるくせに、荷物持ちさせた位でぶつくさ文句言ってんだよ、図々しくねえ?」

と2人を指差しながら流衣に同意を求めた。流衣は、「気にすんな」と言ってたハクの以前のセリフを思い出して、なるほど……と納得し尚且つ、ぶつくさ言ってるのはセキだけで一臣は何も文句を言わず箱を抱えて立っている構図が何やら不公平に見えた。

「荷物持ちしてるの藤本くんだけに見えるけど……」

助け舟のような一言に、セキは吸い掛けたタバコの煙を飲み込んで、軽くむせた。

「だとよ?」

流衣のセリフに乗ってハクは目線をチロっとセキに移して喋った。

「ったく、セコイったらありゃしねぇ」

ブツブツ言いながら、セキは一臣から荷物を奪って店に向かって歩き出した。

(店まで5メートルくらいじゃねーか、どっちがセコイんだよ)ハクはそう思いながらセキの後ろ姿を見送った。手ぶらになった一臣は、呆れた顔でセキの背中を眺めてるハクを見て、横にいた今にも笑い出しそうな流衣に視線が止まった。流衣は自分を見てる一臣に気付き、何となく視線を合わせた。

初めて目が合った。その視線で自分が認識されているんだと改めて感じ取った流衣は、ちょっと嬉しくなって微笑んだ。

「昨日はありがとう」

その笑顔のままで話しかけた。自分を見て笑顔になった女子に一臣は動じる事もなく視線を逸らさず。

「別に」

と応えた。いつものフラットな一臣。けどその言葉を以前に聞いて感じたものとは違うニュアンスだと気が付き、朝靄の中から光が差し込み幕が上がるように視界が開けていく気分になった。

(藤本くんの「別に」は「どうでもいい」じゃなくて「何でもない」なんだ……。最初は気まぐれでいい加減な感じで言ってるのかと思ったのに……、私が困ってたから助けてくれたんだ。昨日だってきっと私が困ると思って待っててくれたんだよね、やっぱり優しい……。この2週間で凄く頭が良くて真面目なんだって分かっちゃったし、藤本くんならきっと「適当」と「適度」な区別をする事が出来るんだろうな……。なんか凄い発見した気分……感動しちゃう) 目から鱗が落ちたみたいな、新鮮な気分を味わった流衣は何だか嬉しくなって、ンふふっと笑ってしまう。

—適度と適当。

適当は丁度いい。

適度は良い加減

「ん? あれ?」 適当? 適度? 

流衣は以前倫社の時間に先生が何気に言った事を思い出した。その似て非なる言葉を思い浮かべて何か引っかかって何度も自分の中で繰り返してみた。

「学校帰りかよ」

笑ったり悩んだり考え込んだりしてコロコロ変わる表情より、帰宅部の筈の女子高生の土曜日の制服姿の方が気になりハクは流衣に聞いた。

「学校? ううん、バイト帰り」

「バイト? ドラッグストアでか? まだ開店前じゃねぇの」

土曜日の午前10時5分前。

「ドラッグストアじゃなくて、ホテルの早朝清掃のバイトなの」

「なにおまえ、他にもバイトしてたのかよ、そんなにバレエって金掛かるのか? つーかそんなに働いて学校も行って踊る暇あんの? それって意味なくね?」

以前にレッスン費用の為にバイトしてると聞いてたハクは、バイトの為に踊る時間を削ってるように感じそれでは本末転倒だと思いそのまま口に出した。色んなことを一度に聞かれた流衣は答える順番を考えなければいけなかった。

「えーと……、清掃のバイトは朝だし、ドラッグストアは学校終わってからレッスン始まる時間までで、どっちも2時間くらいだから時間はあるし、バレエのレッスン代もそうだけど、留学したくてその費用貯める為のバイトなの」

流衣はひと通り喋り終えたあと、答え足りない事があるかどうか考えた。ハクはちょっと驚いた顔して流衣を見つめた。

「留学って、海外って事か?」

「うん……」

返事をした後にバイト時間が減った事を思い出し夢が遠のいた気分になり気が滅入った。一瞬にしてどんよりとした顔になった流衣。

「何だよ、今度は何があった?」

〈いい点取れると思ってたテストが返されたら0点だった〉 くらい落差のある流衣の表情に思わず突っ込みを入れるハク。

「……バイトは減るし〈春の精〉の踊りはしっくりしないし、本当は凄い憂鬱なの」

「春のせい? まだ秋が終わってねえぞ」

何のこっちゃ? とちんぷんかんぷんなハクに流衣はかいつまんで説明する。

「その季節じゃ無くて、『シンデレラ』ってバレエに出て来る〈四季の精霊〉って、春の妖精の踊りなの……。今度の発表会で踊るんだけど、上手く表現出来なくて……やたらレッスンが長引いちゃって……」

「あー、な〜る。それでこの前寝坊したのかよ?」

やはり踊りの中身はよく分からない、けれども合点がいって納得するハク。

「うん。先生に迷惑だから十二時はすぎない様にしてるんだけど、納得いかないとこで切り上げるからどうもしっくりこないの……」

「よくわかんねーけど、そのお前のしたい海外留学って短期なんか?」

スポ小の試合にしろ発表会にしろ、なんか金が掛かるのは骨身に染みてるハクは、女子高生が短時間のバイトして稼げる額などたかが知れてる、と探るように聞いた。

「うーんとね、ヨーロッパの学校で習ってみたくて……短期でも行けるなら行きたいけど、出来れば学校に入ってちゃんと卒業してみたいの」

 流衣は正直に言った。美沙希達の前では気恥ずかしさも手伝ってこんなにハッキリと言った事はない。逆にバレエを知らない人達の前では、こんなに素直に言えるんだと自分で不思議に思った。

「ふーん、ヨーロッパに留学すんのって金かかりそうだな。……なあ、やっぱ大変なんか?」

ハクは明らかに自分より詳しい一臣に向かって聞いた。しかし一臣はバレエに関系する事など何一つ知らない。バレエも世界レベルで世界中にバレエ団があって知名度はあるけど、サッカーの競技人口と世界的なシェアとはレベルが違う。ハクがバレエに関してでは無く、留学一括りにして考えてるのも分かった上で返答に困って暫く考えた。かたや流衣は。

「え、何で……?」

藤本くんに聞いてるの? バレエ知ってる⁈ と超が付く疑問符が頭を飛び交う。

「ああ、こいつ昔サッカーで留学したことあんだよ、確かヨーロッパだよな」

流衣の怪訝そうな表情に気付いたハクが一臣の顔色を伺いながら説明した。

(そっかサッカーね。……そりゃそうだよね、藤本くんにバレエのイメージ無いもん、ああびっくりした。サッカーか……それなら合うかも、昔っていうからには小学生くらいの時なのかな? 小さい頃に留学って凄い、なんか他の人と違うのってそういうとこなのかな……。えらいなぁ……)

「凄いね藤本くん、サッカーで留学してたんだ。ヨーロッパ……って何処に行ったの?」

聞いてしまってから、「あっ」と思った。流衣はいつも挨拶スルーされてた事を思い出して、昨日は話しかけてくれたし、さっき返事返って来たけど、挨拶とお礼の返事するのとでは感覚が違うと、質問して良かったのか不安になった。

「バルセロナ」

その話題が膨らまないようピシャリと言い放つ一臣。それ以上聞けないオーラを出してはいるが、流衣の不安を他所にちゃんと答えが返って来た。

「バルセロナ……」

(ってスペインだよね……。私、スルーされなかった。それどころかハクが前に言った通り、学校以外ならちゃんと喋ってくれるんだ……、いやーん、なんか楽しいっ)

まるで自分だけの楽しみを見つけたように嬉しくて流衣はニヤけてしまった。

「なに笑ってんだよ、お前サッカー好きなの?」

ハクは普通に会話してる2人を見て「あざとい女子」化計画などすっかり忘れていた。

「や……ごめんなさい、全く分かりません」

ボールを蹴ってゴールすると点数が入る。それが流衣の中のサッカーの全知識である。

「ヨーロッパは国によってかなり毛色が違うけど、学校に入って3年か4年勉強する気で、費用面を考えるならドイツかな」

そこへ考えが纏まったのか、一臣が声を出して意見を述べた。流衣はドイツと聞いて驚いた、一括りのイメージがあるヨーロッパは国の集合体で、その国毎に実に個性的で芸術面が豊かであり、殆どの国に国立バレエ団がある。留学を受け入れてるのはイギリスとロシアが一般的で、オランダ、ベルギー、ドイツ、スイス、モナコ、フランスとバレエを習っている人間ならば、良い所といわれてる留学先が出て来るけど、バレエなんて知らない男子の口からドイツ……。

「ドイツ? 何でドイツ??」

流衣は思わず聞いてしまった。

「ドイツは国がスポーツに力を入れてるから国営の学校が多い、恐らく学費は他の国の半分以下だと思う」

「そうなの?」

その情報は流衣には初耳だった。

「ドイツねぇ、ビールしか知らねえな……」

ハクのドイツのイメージはビールとソーセージ。

「バームクーヘンとか?」

流衣はオーソドックスな自分が知ってるドイツ代表の名前を口に出した。

「……バームクーヘンはドイツでは一般的に流通してないから、ドイツ代表のイメージには入らないと思うけど」

「えっ、ほんと?」

てっきり『ハワイ=マカダミアンナッツ』くらい有名で、仙台での『萩の月』状態な物で、凄く良く食べるわけでは無いけど良く知っている……な物だと思ってたので流衣は驚いて聞き返した。

「作り方が特殊だから日本のようにドイツでは量産してない、見た事も食べた事も無いドイツ人の方が多いらしい」

「……そうなんだ」

へぇ、と流衣が感心してると。

「おまえって、そういう雑学知識ぶち込むの得意な」

こともなげに説明する一臣に水を差すハク。

「……言わない方が良かったかな」

聞かれた事に答えたつもりだった一臣だが、ダメ出しされたかと思いハクにそう聞いた。

「いや? おもしれーけど? よくそんな事知ってんなーって思っただけだわ」

ハクは流衣と同様に凄く感心してたのだが、言い方が紛らわしかった。

「おい! いい加減にして開けろよ」

入口の扉の前で段ボールを抱えたままほっとかれたセキが、痺れを切らして怒鳴った。

「あー、悪りぃ。すぐ開けっから、んな怒んなよ」

鍵を取り出しながらハクがセキに、まあまあと制しながら近付いて行った。一臣も2人に近付いて行ったのを見て、流衣はレッスンに向かう為に自転車に乗った。

「じゃあ……」

「げっ」

「うわっ」

「……!」

流衣が声を掛けて行こうとしたら、ハク達の叫び声が聞こえてきて、何事か起きたのかと気になり近くまで駆け寄った。

「くっせぇな」

「なにやってんだよマスター!」

店の中は凄い匂いで充満していた。入口で覗き込んだ流衣にもその匂いが襲い掛かった。

「うっ」鼻につく凄いどぶの匂い……!

セキとハクがカウンターの裏で排水溝の掃除してるマスターに近寄って言った。

「なんで営業前にそんな事やってんだ⁈」

「確変はどうした! 連チャン中じゃなかったのかよ!」

2人に同時に怒鳴られても、マスターは手を止めず掃除してる。

「十連チャンで止まったから時短30終わった段階で即やめして帰って来たんだよ。そしたら排水溝からちょっと臭ってて気になってきちゃってね〜」

久々の快勝で気持ちが舞い上がって脳内モルヒネ全放出状態のマスター。臭かろうが汚かろうが気にならない。

(十連チャンで時短30でこの時間って事は甘デジだな……、ちょい勝ちじゃねーか……。朝イチでオレを叩き起こしといてそれで良いのかよ)

(なんつー単純なおっさん……)

突っ込みを入れるのも面倒くさくなったハクとセキ。入口で店の奥にいる3人の会話を聞いていた流衣は、内容が全くわからない。

(私が聞いてるのは国家機密の暗号なのかな……?)

確変とか時短とか意味不明な流衣だったが、このちょっとした異臭騒ぎの原因が分かったので、外に出ようとした瞬間。横にいた一臣が流衣を押し退けて先に外に駆け出した。

「えっ?」

流衣は驚いて声が出た。その時の、振り返って駆け出す瞬間の一臣の顔が真っ青で流衣はギョッとした。

えっ、なに? 何で? 何が起こったの⁈

流衣は咄嗟に一臣を追いかけた。店から出ると横の道路を通り店の後ろの裏口の方に駆けていく一臣を見かけて、その方向に流衣は走った。

 裏に回って行くと、目に入ったのは店の裏口の側にある道路の側溝で嘔吐している一臣の姿だった。流衣は足が止まった。

何度も嘔吐えづくが吐くものがないのか酷く苦しそうで、流衣はどうしたらいいのか分からないまま近付いた。

「あの……大丈夫?」

背中をさすろうかと一旦手を出したが、ふと…触ってはいけない気がして触れる寸前に手を戻して代わりに静かに声を掛けた。すると一臣は黙って首を振り、あっちに行けと言わんばかりに追い払う様に手を振った。その仕草に含まれた意味は流衣には何となく分かった。

(見られたく無い……のかな、そんな感じだよね。それは分かるけどこのままほっとけないし……、あ、そっか、私じゃなきゃいいのね)

「ちょっと待っててね」

そう言い残して流衣は店の中に戻って行った。

「ハク!」

店に入るやいなや流衣は叫んだ。排水溝に水を流し込んで掃除を手伝ってたハクは、切羽詰まった声で呼ばれて驚いて顔を上げた。

「なんだ?」

「藤本くんが大変なの。裏口で吐いてて……お願い早く行ってあげて!」

流衣が必死な形相で懇願する。

「あー、ほらみろっ」

そう言ってマスターを問い詰める目線で見るハク。

「あれ、僕のせいかな」

マスターがバツが悪そうに掃除の手を止めて頭を掻いた。

「だな」

煙草をふかしながら、そのとーりだよという表現のセキ。

「ちょっと多めに水を流しゃいいのに、蓋開けてまで掃除する必要ねーし、掃除は閉店後でいいだろ」

「いやだってさ、一臣君が来てると思わなかったからさ……」

いい訳してるマスターと喋るハク達を見て、予想外の反応に唖然とする流衣。

(今の会話なんだろう? 何で皆んないつもの事的な顔して無反応なの?)

「ああ、あいつなら大丈夫、放っとけばいいから気にすんな」

心配してる流衣にハクは突き放したような言い方で説明した。

「あの……、藤本くんどこか悪いの?」

苦しそうにしてる一臣の姿を思い出して流衣は落ち着かなかった。

「ああ……。いや違う違う、匂いだよ、この側溝の匂い。似てんだろヘドロにさ」

「ヘドロって……津波の?」

津波の強烈な匂い……確かに似てる。

「あいつさ、津波でねーちゃん亡くしてんだわ」

「えっ⁈」

流衣に衝撃が走った。

「……だからこの匂いで思い出して……体が反応するんだろうな、例え感情が無いとしてもさ。最近はだいぶ吐かなくなったんだけど、夏までは酷かったぜ、なんせ町中がヘドロ臭かったろ?」

「……うん」

テレビでは伝わらない匂いの記憶。それは海の側に住んでるさだめなのか……。海風に乗ってヘドロの匂いが至る所で漂っていた……春先から夏前まで。嫌でも〈津波〉を思い出す。

「あいつん家、霞目なんだけど」

「え……一緒……」

「おまえもそうなん?」

流衣は黙って頷く、今、自分の家の話はどうでもいいそんな気分だった。

「朝から家でも学校でも匂いが来るらしくて、あいつじっとしてられなくて彷徨い出して、この辺りでふらついてたらしい。国道を超えたこの店ら辺まではヘドロ臭さは漂って来ないからな」

そういえば、今年は春先から気温が高くて、朝に家を出ると凄い臭いがしてた。学校では気温が上がる2時間目辺りから窓開け始めてた気がする。と流衣は思い出して、一臣がその時間に早退する理由をようやく理解した。

「まあ、だからあいつは慣れてるから、吐き気が治ったら勝手に戻って来るから気にすんなよ」

と言ったあとに流衣を安心させる為なのか、ハクはわざとらしく笑った、

「分かった」

流衣は小さな声で返事した。

 後の事はハク達に任せて流衣は店を出たものの、何か痛いほど後ろ髪を引かれて自転車に乗ることが出来ず、押しながらゆっくり歩いた。


「あいつ津波でねーちゃん亡くしてんだわ」


 それは流衣の中の深い場所にずっしりと留まった。

流衣の周りでも沢山の人が亡くなっている。小学校の同級生であったり、近所でよく挨拶を交わしてた人達が大勢亡くなってる。行方が分から無い人も沢山いる、住む所がなくなったので何処に引っ越したのか分からない為でもあるのだが、心に穴が空いた様でもあり、足元が何も無くなったのに歩いてる……そんなシュールな感覚に陥りふと我に帰る。何もかも不安定なまま、今ここに居る自分が夢なんじゃないか……と思いたい、願いたい。そんな毎日が続いている。

……家族が亡くなったんだとしたら、やり切れなさがもっと深いよね。

 もうひとつ、ハクが言った事で流衣は気になってしょうがないひと言があった。

〈感情が無いとしてもさ〉

……どういう意味だろ? 前に言ったのって

〈感情が鍵かけたままぶっ壊れてる〉

って言ってたよね……、それって、感情が表に出難いって事だと思ってたけど、なんかニュアンス違う……。ぶっ壊れてる? 感情が無い? それどんな感覚?

お姉さんの事が原因なのかな……? ん……。歩いてる流衣の足が止まった。。

 これって藤本くんの問題で、藤本君くらい頭の良い人ならちゃんと自分で解決するんだろうな、きっと。私なんかが考えてもしょうがないよね……。凄く気になる……けど。

流衣はため息をついた。

……とにかく、まず自分の事をなんとかしなくちゃダメだよね、うん。

自分に言い聞かせると流衣は自転車に乗って、バレエ教室に向かって走り出した。


 毎週土曜日はカルチャーセンターへ出向き2クラス教えてる香緒里は、本日はセンターの都合で休みとなり、スタジオのいつもの事務室に居た。

「ハア〜」

深い溜息をつく香緒里に日野は声をかける。

「どうしたの、何か心配事?」

香緒里は別に恨んでるわけでは無いが、恨めしそうな視線を日野に送った。

「人に教えるのって本当に難しいですね……」

また又溜息をつく香緒里。

「何かあったの?」

日野が〈タランテラ〉にかかりきりの為、〈四季の精霊〉の振り移しを香緒里が担当していた。そのせいの悩みである。

「やっぱりみっちゃんに手こずってるの?」

それとも光莉ちゃんのイタリアンフェッテかしら? と思い巡らす日野。

「流衣ちゃんが……」

「あら?」

日野は驚いたように目を見開いた。

「みっちゃんは最初こそ酷かったんですが、手足の動かす順番を教えたら凄く良くなって、光莉ちゃんも、止まる場所が分かると、とても綺麗なフェッテを回るようになりました。……でも流衣ちゃんが逆にドンドンぎこちなくなっていって……」

香緒里は喋りながらまた溜息を付いた。すると横で日野がケラケラと笑い出した。香緒里はびっくりして、思わず日野に怒り出した。

「酷いです先生。私が真剣に悩んでるのに笑うなんて……!」

「やだ、そんな事で悩んでると思わなくて、ごめんなさい」

「そんな事ってなんですか⁈ 」

香緒里は顔を赤くしながら怒っている。

「違うの、香緒里先生が悪いんじゃなくて、流衣ちゃんの事をよく知らなかったなって気が付いたのよ」

日野は笑いを抑えながら香緒里に応えた。香緒里は日野が何を言おうとしてるのか分からず、確かに自分はまだ教師の経験も浅く、半年やそこらしか生徒達に接していないから分かるわけもないと、怒りは和らいだが、面白くはなかった。

「私の教え方が悪いから、流衣ちゃんの踊りが迷走してるんだと思って、でもステップが間違ってるわけじゃ無いし、どう言ったら良いのか分からなくて」

香緒里は真面目に悩む。日野は笑いを収めて改めて香緒里に向き直った。

「それは曲に乗れてないってことよね? 役の解釈が出来てない事よ。違う?」

「そうだと思います」

「それは放っといていいのよ」

日野はニッコリ笑った。

「ええ⁈ 先生、本気で言ってます⁈」

「もちろん」

余りにもサラッと言うので、香緒里はそれはないでしょう? と心の中で反論する。

「教師である私達はね、正しいステップを教えるだけでいいのよ。——後はね、その子なりに成長するの、それを見てるだけ。これは流衣ちゃんに限らず全ての子供たちによ」

「それで良いんですか⁈ でも……」

反論すべきなのか受け容れるべきなのか、答えが出せるほどの経験値が無い香緒里は黙るしかなかった。

「強いて言うとすれば、そうねえ……迷った生徒にどれだけ助言するかよね」

「どれだけ……複数って事ですか?」

「そう、ひとつの正しい答えより、いろんな形の答えを見せて選ばせるの、その子にあったゴールのね」

自分の持論に過ぎないけど、この小さな場所から巣立っていく子達はバレエに従事する事なく生きることが多い。だからこそ枝道の多い道を選ぶ事の大切さも知って欲しい。バレエは経験値の一つで心の糧になればいい。日野はそう思って子供達に接している。

「その子に合ったゴール……。その子にしか出来ない役作りをしろと言う事ですか? 間違っててもいいと?」

なんとなくだが、日野が言いたいことを理解した香緒里。

「そうよ」

自信有りげに日野が言ったので香緒里の怒りは薄れたが、同時に出てきた疑問点を聞いてみる。

「間違ったらどうするんですか? もし流衣ちゃんが間違った解釈をしたら……」

「そうねぇ、大概の子達は迷うと聞きに来るけど」

日野は過去を振り返り視線を彷徨わせ、和かに笑うと

「でも流衣ちゃんなら大丈夫よ、黙って見守ってあげてちょうだい」

「はあ……」

美沙希や理子があまりにもしっかりしてて強い個性を出す為、香緒里から見ると流衣は少し頼りなく見えていた。しかし生徒達を(特に流衣は一番長くこの教室に通っている)長年見てきた先生がそう言うなら、腑には落ちないが自分は口出ししないでおこう、と思う香緒里だった。


 スキップする様な、いや地に足がついて無いのではないかと思うほどの軽やかな足取りで陽菜が教室のドアを開けた。

「おはようございまーす。やった、1番乗り〜! あれ?」

いつもより1時間も早くやってきたのだが、ドアを開けたらいつものメンバーに一斉に見られた陽菜。

「ビリやで、陽菜」

バーに5番で立っていた理子が辛辣な発言をした。陽菜が周りを見渡すと、来た順番に、ストレッチ、バー、センターの順番に各々練習を初めていた。

「ビリじゃないもん、流衣ちゃん居ないじゃん!」

と言った口を尖らせる陽菜。

「流衣ちゃんならとっくにアップ終わってるよ」

床で開脚してる光莉がそう応えた。

「え? どこに居るの?」

とキョロキョロすると、部屋の隅で小さくなっていた。

「……流衣ちゃん何してんの?」

近づこうとする陽菜を光莉が止めた。

「ちょっと陽菜ちゃん、流衣ちゃんイメトレ中だから邪魔しちゃダメ」

言われてよくよく見ると、小さいディスクで音楽を聴きながら目を瞑りジッとしている。

「ほら早く着替えて準備しなよ、どうせ中に着てるんでしょ?」

土曜日なので家から直接来る為、中にレオタードを着込んできてて、教室に入って脱ぐだけにして来る陽菜。

「えへへっ、当たり」

と言ってその場で脱ぎ出す陽菜に

「あのね陽菜、せめて部屋の隅で脱ぎなよ、みっともないでしょ」

フェッテターン寸前の動作のまま美沙希は呆れて注意すると、まるで母親の様な発言に

「え〜、めんどくさい〜、女の子しか居ないのにぃ なんでダメなの?」

それに甘えた受け答え。

「……仁君来てるけど」

美沙希がボソッと陽菜に聞こえる様に囁いた。

「えええっ! ウソっ本当に⁈ えっえっ、やだやだ、どこに居るの⁈」

脱いだ服を胸に抱え、真っ赤になって右往左往してしまう陽菜。

「居るわけないやろ、ウソに決まっとるやん」

理子が簡単にネタバラしすると皆んながクスクス笑ってるのに陽菜はやっと気が付いた。

「ひど〜い、美沙希ちゃんなんで嘘つくの!」

陽菜が今度は真っ赤になって怒り出した。

「いや、秒でバレるし」

片脚をバーに乗せてゆっくりプリエしながら柚茉が静かに諭す。

「柚茉ちゃんまで……なんで皆んな今日は怖いの? 私が仁君と踊るのそんなにダメなの?」

陽菜がメソッとし始めた。

「誰もそんな事ゆーとらんわ」

皆んな自分の事に集中したいだけなのだが、浮き足立ってる陽菜には読み取れない。

「さっきのは嘘だけど、来月に仙台に来るらしいくて、その時軽くリハすると思うからそれまでに『タランテラ』をものにしとかないと呆れられるよ」

「え? 来月⁈」

美沙希のプチ情報に、急に現実に引き戻された陽菜は狼狽し、さっきまで着ていた洋服を慌ててカバンに詰め込んで、そそくさとストレッチを始めた。

「分かりやすっ」

そう呟いた後に、美沙希は陽菜に対してちょっと罪悪感を持った。それと言うのも陽菜の『仁君と踊れる私が羨ましいでしょ』と言ってるのとほぼ同じ発言にカチンと来てしまい、つい虐めてしまったからだ。

(私ったら……、別に羨ましくはないのに……)

 羨ましくない、それは美沙希の本音だった。今回の発表会で男子とのパドゥドゥを踊るのは陽菜だけ。確かにそれは羨ましい。しかし秋山仁はイケメン枠に入ってはいるが、踊るパートナーとしては全く興味が出ない、若い分自分を押し出す為サポートがイマイチなのだ。踊る相手としては金田先生の方がサポート力が高くて断然良い。踊りの世界では『上手い若者イケメン』より『踊れる中年』の方がモテる単純な世界である。それを分かって無い陽菜があからさまに自慢するその態度にイラっとしたのだ。

(流衣ちゃん見習って、私も集中しよう)

集中力が途切れた事を反省して、美沙希はセンターで〈リラの精〉のバリエーションを始めた。

 教室の片隅で心を落ち着かせて、流衣は何度も〈春の精霊〉の振りと音楽を重ねていく上で気がついた事を表現しようと立ち上がり身体を動かした。

〈春の精霊〉の音楽は速いテンポでなんだかせわしない。ロシアやイギリスの有名なバレエ団の踊りを観て、強い躍動感があって華麗な踊りの〈春の精霊〉に感受性が強い流衣はすっかり心が奪われていたのだが。

……違う。私が知ってる春じゃない。春の陽射しはもっと優しくて、暖かくて、身体が軽くなる……そんな感じ。何もなかった木に新芽が出て花が咲く——、桜の花が咲くと春が来たなって思うの。……そう……日本の春はロシアやイギリスとは違う、日本の春って桜のイメージ。桜って華やかさはあるけど、すぐに散るから儚い感じがして力強い躍動感とは正反対だから……だからおかしかったんだ……。ヨーロッパの〈春〉に合わせて適度に踊るんじゃなくて、私は私の知ってる〈春〉を適当に踊れば良い。

適当は丁度いい。

適度は良い加減。

「流衣ちゃん、曲かけて踊ってみれば?」

一区切り踊り終わると光莉が声をかけてきた。

「え? 邪魔にならない?」

自分だけが練習してる訳じゃない、それぞれ別の事をしていたので聞いた。

「うちはええよー」

理子がバーから返事した。

「大丈夫だよ、気にしないでかけて」

柚茉も声に出して言うと他のみんなもうなづいてる。

「曲かけるよ、流衣ちゃん上手かみてに準備して」

鏡を正面に取って左手に行くように促し、美沙希が既に準備万端で、オーディオの前でスタンバイしていて、流衣が位置に着くと間を置かずに曲をスタートさせた。

 桜の花が満開の景色を思い浮かべ流衣は動き出す。

綺麗なものに魅入られうっとりする感じ……。

桜って……見てるのはこっちなのに見られてる気がする、なんでだろう……不思議。神様が見てるのかな? 桜の木の神様。それって外国だと精霊になるのかなぁ……そっか、日本だと神様で外国だと精霊なのか……んふふっ、うん楽しい。

「かわゆい」

光莉が褒めた。最後のターンに入る前に気がついた流衣は嬉しくなって微笑んだ。完全に力みが取れた流衣の踊りは、光莉の一言で軽やかでふんわりとした仕草に拍車がかかった。フィニッシュのポーズは斜めに座って品を作る〈軟体版ひとりナイキポーズ〉で手の甲を反対側の頬に当てるのだが、褒められた嬉しさと恥ずかしさの照れ隠しに両手を交差した。

「なんで〈ウィッシュ〉やねん」

「だよね〜、折角カワユス♡マックスハートだったのに最後でわざわざ落ちを付けなくてもいいのに」

「そこは照れずにがっちり掴みに行かないとダメだよ」

顔を引き攣らせて笑いながら理子が言うと、柚茉もとっても残念そうに言った。その二人と一緒に美沙希が先生バリに指摘した。3人の先輩達にダメ出しされた流衣は自分の詰めの甘さを実感するが

「だって……何か皆んなの前だと逆に恥ずかしい……」

自分の性格がバレバレの人達の前では、どうしても照れ臭くておちゃらけてしまう。

「流衣ちゃん……?」

そこへ香緒里先生の声が聞こえてきて皆んな一斉に振り返った。

「なんで? 昨日と全然違うじゃない、どうしちゃったの?」

昨日までのぎこちない踊りとは違い、かのアリーナ・コジュカルのダルタニアンの舞のようにコミカルで愛らしい踊りに変わった。その流衣にひたすら驚き、『誰か理由を教えて』 と周りに答えを探すように見回す。

「なんでって、……流衣ちんいつもやんな」

理子がその疑問に答えた。 

「だよね〜。散々迷走して、ある日突然仕上がるの」

柚茉も別に珍しくなさそうにゆったりと喋った。

「個性的で流衣ちゃんらしい踊りになるよね」

光莉は自分の事のように嬉しそうに言った。

皆んなの様子を見て、香緒里は尚更 ——だから何で⁈ と思ったのだが、誰もそこは説明してくれ無さそうだ。チラッと横目で日野を見たらほくそ笑みながら『ほらね』って顔つきをしてる。

(こういう事ならそうと言って欲しかった、先生ったら意地悪だわ、私ひとり空回りでみっともないじゃない)と言葉足らずの日野にムッとする香緒里だった。

「流衣ちゃんって〈あやとび〉飛べなかったのにいきなり〈三重飛び〉出来ちゃった〜って、てへぺろで言う感じだよね」

陽菜が話に入って来た。

「珍しくバリバリにおうとる事言うやん?」

〈二重跳び〉では無く〈三重跳び〉と言った事に高評価する理子。

「〈バリバリ〉ってなに? 関西弁?」

褒められたのに別の部分が気になった陽菜が「聞いた事ないな〜」って顔を理子に向けた。

「バリって大阪で……まあ使うけど、標準語ちゃうの?」

「そうだっけ? でもどっちかと言ったら博多弁じゃないの?」

この中で1番関東に縁のある美沙希だが首を捻る。

「博多弁だよね。『バリ好いとうと〜』って言う女子可愛いよね〜」

「なんで羨ましそうに言うん? 仙台弁で言うたらええんちゃう?」

柚茉の発言に自己肯定感の高い理子は他県推しが理解出来ないで物言いを付ける。

「仙台弁だとどうなるの? いきなり……とか使う?」

「校舎の裏に呼び出して 『いきなり好きだっちゃ』って言うの?」

「ええっ 誰も居なくなった放課後でも、絶対言わないそれ!」

柚茉、美沙希、光莉の女子高に通う女子達が校内告白等あり得ない鬱憤を晴らすかのように盛る上がる。

「好きだっちゃ……って仙台では言わないけど、何かで聞いた事あるような……」

共学の高校だがクラス的にはほぼ女子高の流衣が記憶をたどるが思い出せずにぼんやりと声に出した。

「〈ラムちゃん〉やん?」

「あーそっか」

昔のアニメ特集かなんかのテレビで見た記憶が蘇り、ポンと手を打つとみんなも同じ様な顔をした。

「つうか言わんの? ショックやそれ」

普通に共学に通う理子がアニメ『うる星やつら』のラムちゃんが使こうとるの仙台弁や、と親がマニアな話題で盛り上がって言ってたの思い出して露骨にガッカリした。

「ラムちゃんがよう言う『ダーリン好きだっちゃ〜』って、めっちゃ可愛いやん、今からいうようにしたらええんちゃう?」

「……逆輸入的に? それもありかもしれない」

使ってみる気が有るのか、そんな機会はないであろうムッとしてた筈の香緒里が生徒達の女子トークに釣られて最初の疑問もそっちのけでうっかり声に出した。

「香緒里先生は福島じゃなかったけ? え、待って先生、告りたい人いるの⁈ 」

今の頷きってそういうこと⁈ といっきにザワザワした。

「あーもうほら、キリがないから、アニメも方言の話も終わりにしましょう。皆んなアップ終わってるの? 振りに入れる⁈」

日野が雑談に終止符を打ち、生徒達を現実に戻した。

「えー! まだストレッチ終わってません〜」

最後に来た陽菜が情けない声を出して訴えた。本日は通常レッスンではないから、人それぞれで構わない。

「美沙希ちゃん〈リラの精〉やる?」

本来ならSスタジオでやるべき物だが、日野はそんな細かい事は気にしない人間だったので、生徒のみんなも誰も指摘しなかった。

「いいえ私は後からでいいです。折角〈春の精〉やったのだから、このまま〈四季の精霊〉を続けて見たいです」

遠慮したのでは無く本心の美沙希の言葉。やはり観たいのはビフォア・アフター。教室内の密かな楽しみである。

「そうねじゃあそうしましょう。〈四季の精霊〉を通して見ましょう。そして〈リラの精〉ね。待ったなしで続けてみましょう。陽菜ちゃんその後〈タランテラ〉イケる?」

「無理でーす」

ストレッチ終わってからバーレッスンしたら後1時間はかかる。陽菜のキッパリとした断りで皆んなおかしくて笑い出した。

「分かったわ、じゃあ〈四季〉と〈リラ〉をやってるから準備できたら声を掛けてね」

陽菜にそう言うと日野は久しぶりに〈四季の精霊〉達に取り掛かるのであった。


「右に行くよっ」

中学生の結子ゆいこは幼稚園児の弟相手に指示を出すと、サッカーボールをツイと自分の右側に出した。右と言われたのに左側にでたボールに5歳の男児は一瞬混乱する。

「私の右よ、だからイッちゃんの右の反対側。解る?」

意地悪では無く立体感を教える為に、姉は自分の経験から教える側がその団体によって統一感がない事で後々混乱することがない様、尚且つ言葉を当てにしないように弟に教育する。

弟は姉の言う事を素直に聞き左に動く。結子は弟が動いたと同時に、踵でボールを引き戻した。

「後ろに行ったよ、早くボールにタッチして!」

ボールは後ろに移動した。ボールを追いかけ姉の後ろに回り込むがあっという間にボールは前に移動した。その後も前後左右あらゆる場所に動くボールに触るどころか姉の身体が邪魔で見失い続け、痺れを切らした弟は、思い切ってボールの反対側に動いたその予想外の動きに結子が止まると姉の体を掴んで動きを止め、ようやく見えたボールに蹴りをいれた。

「さわった!」

まだルールを把握してない一臣は叫んだ。

「ナイスタッチ! 凄いっ出来たじゃん。それにフェイクするなんて、どこで覚えたの?」

「フェイクってなに?」

「ボールを出そうとした反対方向に動いてお姉ちゃんの動き止めたでしょ? あれがフェイク」

「この前の試合でお姉ちゃんやってたよ」

「え、そうだっけ?」

「うん」

結子はすっかり忘れていた。

「そっか、でも一度見ただけでそれができるのえらいね、さすが私のイッちゃん」

弟が大好きな姉は思わず抱きしめてしまう。一方で姉の溺愛に慣れている弟はされるがままで、いつも通り黙ってポンポンと背中に返す、離しての合図。

「あ、でもね、体で押すのはいいけど掴んじゃ駄目だよ反則になるから」

自分から引き離し肩を掴んだまま弟に真面目にルールを教える。

「そうなの?」

「そうなの、服を掴んだだけでもカード出されることあるからそれもダメ。サッカーは手を使っちゃいけないスポーツでそれはボールにだけじゃ無いの」

「分かった」

土曜日の午後。午前中に部活の練習が終わると、その日に試合がないときはいつも結子が弟を公園に連れて行き遊んでいた。そんな昔のひと時の思い出が、陽炎の様にぼんやりとした陰影を描き、ひりつく様な喉の渇きにも似た痛みが一臣の脳裏に焼き付く。


「大丈夫かよ?」

「なにがよ?」

さっき買ってきた鶏肉を全て唐揚げ用にぶつ切りにし、デカいボールに山積みしてるハク、5キロ分の鶏肉は中々ハード。しかしセキが見てるのは寸胴にの方だった。火にかけてあるその寸胴には山盛りになって今にもこぼれ落ちそうな葉っぱ達がいた。

「多すぎんだろ、沸いたらこぼれんじゃねーのかそれ」

掃除させられそうな予感がするセキは〈注意1秒怪我一生〉オフェンス。

「沸いたら白菜は煮えて沈むんだよ、知らねーのかそんくらい」

そしてハクは〈釈迦に説法〉論理ガード。

「料理に興味ねーんのに知るかそんなもん」

「今時、豚汁くらい作れなくてどうするよ。お前だって〈腹が減ったらカップ麺〉の神話が崩壊したのガチに食らってんだろ」

インスタント食品が店の食品棚から消えたのはほんの半年前の出来事である。

「それとこれとは話が違うだろ、必要に迫られりゃ味噌汁くらい作れんだろ、出汁と味噌入れるだけじゃねーかよ!」

「なんだと? 味噌汁舐めてんじゃねーよ、単純だからこそ奥が深いんだろうが、やった事ねえくせに出来るとか抜かすんじゃねぇよ」

料理に対してセキが雑な扱いをするので、料理人としての自分がけなされた様でかなりムッとしているハク。そんなふたりのしょうもない言い争いに見るに見かねたマスターが口を挟む。

「あのねぇ君たち、何で豚汁でそこまで言えるかな〜ほら、一臣君だって呆れてるから……アレ?」

さっきまでそこに座っていた一臣の姿は無かった。

「いつのまに出たんだろう、相変わらず素早いな」

客では無いので一臣が黙って出て行こうが入ってこようが構わないのだが。

「出来るとぬかすなら鰹節と煮干しから出し汁作るとこから出来るってんだな、やって貰おうじゃねえの」

「何でやらせようとするんだよ、興味ねーんって言ってんだろがよ!」

「テメぇの態度が気に食わねぇからに決まってんだろ、やらねえ出来ねえなら黙っとけクソ馬鹿野郎」

「ああ? クソとは何だよ、テメェにクソ呼ばわりされる覚えねえぞやんのかコラァ!」

「上等じゃねぇの、かかってこいやクソったれがっ!」

売り言葉に買い言葉で一発触発。

「ハイハイ。君達ね、喧嘩したいなら外でやってね。裏口から出て」

マスターがいつもと変わらない口調で指摘し、裏口に二人を誘導すると

「この店は君達のストレス発散場所じゃ無いからね、暴れたいなら外で好きなだけどうぞ」

争い事が嫌いで喧嘩などもってのほか、それで店の中を荒らされるなど我慢できる訳もなく、溜まらず二人を追い出した。放り投げられたわけでは無いが、普段やんわりしてるマスターにゴミの様にポイ捨て状態扱いされたふたりは我に帰り黙ってしまった。

「……そんなにストレス溜まってる様に見えたんかオレら?」

裏口側にあるプロパンガスのボンベの横のコンクリートに座り、無造作に髪の毛をかき上げながらハクは喋った。

「オレら じゃ無くてオメーだろ、いつになくシツケーし、本気でかかって来んのかと思っちまった」

セキは胸のポケットからタバコを出して一本くわえると、「吸うか?」と言うかわりにハクの目の前に箱をチラつかせた。ハクはおもむろに一本取り出すと黙ってくわえた。

「あー。……実は昨日親から電話あってさ」

ハクが吐き出す様に話し始めた。

「先週のおふくろの誕生日に何もしなかったら、電話くらい掛けて来いと言って来やがって何つーかもう……。50も過ぎればめでたくなんかねーと思ってたんだけど、それが悪いと1時間も説教食らった」

言い訳がましく反論したら余計説教が長引くと黙って聞いていたら、そのせいで眠れなくなり寝不足で目の下にクマが出来ていた。

「……女親ってめんどくせぇな」

煙草の煙を糸の様に細く噴き出すと、同じ作業を繰り返す為にまた煙を吸った。

「お前んとこは居ねえの?」

「弟連れて出て行っちまったから男親しか居ねえよ、お互い無関心だからサッパリしたもんだ」

達観する風なその言い草は、諦める事に慣れているセキの独特の口調だった。

「お前んとこも複雑だな」

父親の形が分からないまま育ったハクは何となく同意した。

「複雑じゃねぇうちなんてあんのかよ」

「あんじゃね? 世の中広いから」

ハクはくわえていた煙草にようやく火を付け、皮肉混じりの笑い顔を浮かべてゆっくり去って行くセキの後姿をボンヤリと見送った。


 水曜日、流衣はいつも通りにホテル、学校、ドラッグストアの順番にこなして、レッスンに向かう為に広めの歩道をチャリで走らせていた。そして差し掛かる教室に入る為の細い路地のほんの数メートル手前で、何故か自転車通行可の歩道が突如として終わる。

(何でだろう……まるで、人気が出て来た為に連載延長したのはいいけど、展開に困って主役クラス殺しちゃった……みたいな理不尽な漫画のような道路展開は……)色んな事情が垣間見える意地の悪い道路なのでここから自転車は車道を走らなくてはならない、そのまま出ると反対車線なのでぐるりと迂回して百メートル手前の信号まで戻らなくてはならないので非常に面倒くさい、そこで流衣は単純にここからチャリを降りて押しながら歩くか、歩行者が居ないのを見計らって一気にチャリのまま通過する二つのパターンで対応していた。そして今日は歩行者が居ない為チャリのまま突入するパターンで行く事にした。その時、車道の先から一臣が自転車で走って来るのが見えた。

(え、藤本くん? ——だよね、男子は車道走るよね。私は……怖いし、ふらついてるチャリが車道を走るのは逆に迷惑の気がする……)

言い訳がましく歩道を走る理由を考えていると、目の前の車道を一臣はあっという間に通り過ぎて行った。 

(今日も一限目で居なくなってたけど、何処に行ってたんだろ、この方向だと『時玄』に行くのかな……)

ガッ! ギギギッ! ゴッ! ガッシャッン‼︎

「ひャ!」

考え事をしていたら、教室に続く路地の角を曲がり切れず、コンクリートと置き石にぶつかり自転車ごと倒れ込んだ。

「——いや何これ……」

転んだ拍子に手を着き、寝転んだその姿のまま、流衣は自転車の下敷きになった。衝撃と自分の置かれてる目の前の景色に驚き固まってしまった。

(何で私の上にチャリンコ乗ってるの? なのになんで感覚ないの? 痛くないのは何で? 私どこかぶつけておかしくなっちゃったの⁈ )ここから抜け出そうともがいてみても、自転車を動かそうとしても、体に力が入らなくて怖くなって流衣はパニックを起こした。

待って、落ち着いて、冷静に冷静に…えっと、体が麻痺とかするのは首とか頭とか打ったりした時だから、今は頭も首もぶつけてないし、いや、でも少しぶつけたかな? だから馬鹿なのか〜って、それは元々おバカなだけ——いやもうっそうじゃなくて、何で体動かないんだろ……なんか怖い……どうしよう。

考えがまとまらないまま、それでも何とか動こうとし出した途端、ヒョッと自転車が宙に浮いた。

「怪我は?」

自転車を持ち上げ、流衣に話し掛けて来たのは一臣だった。

「え……」

藤本くん……何で?

一旦冷静になって動き始めた思考回路が、再び停止した。さっき、風の様にあっという間に行ったはずのひとが何故ここに⁈ と流衣は思った。

 かたや一臣は。クラスメイトとすれ違ったと思ったら背後から自転車がブロック塀にぶつかる音と悲鳴が聞こえて来て、ただ転んだにしては凄い派手な音がして、振り向いたらブロック塀の路地の入口で倒れた自転車と、その下から人の足が出ていて、その足が全く動かないのを見て気になって近いて来た。

「立てる?」

一臣のふた言目で我に帰る。

「えっ……あ、うん」

流衣はそおっと体を起こすと、ぎこちないながらも動くことができた。

(良かったぁ動けた! おかしなとこぶつけた訳じゃなかった)流衣はホッとしたのだが、安心した途端に右手の手の平が熱くなるほどの痛みが出てきて、思わず見てみたらコンクリートに手を着いた後に擦れた為に皮が剥けてボロボロになり真っ赤で火傷に近い状態になっていた。

(何これ痛い……熱くてジンジンするっ、やだなぁ治るの時間かかりそう)

「まずいかも……」

ぼそりと言った一臣。

「そんなに? これ痕が残るかな……」

それを聞いた瞬間に手の平が凄く汚い気がした。

「チェーンが切れてる」

自転車を見つめながら一臣はそう言った。

「えっ?」

(チェーン? あ、まずいってそっち?)自分の事と勘違いした流衣は、何だか恥ずかしくなって真っ赤になってしまった。

「チェーンが切れてるし、シフトとブランケットも曲がってる。これでは走れない」

「ええっ⁈ それ壊れたって事?」

赤くなってる場合じゃ無い、自転車が壊れたら流衣にとって死活問題で一瞬で青くなった。

「治せるとは思うけど、買った方が安く済むかも」

「そんな……」

それ以上言葉が出て来ない、それは必要不可欠だが今、この時期に手痛い出費でキツイ。

「今からレッスン?」

「……うん」

一臣の問いかけにぼんやり返事をした。

「これ乗れる?」

そう言って示したのは一臣のクロスバイク、流衣のママチャリとは明らかに形状が違う。

「えっこれ⁈ 無理だよこんな大きい自転車」

流衣はワイパーの様に両手を前で振った。

「同じ26インチだけど」

「え? まさか」

そう言われて真面目に見比べてみると確かにタイヤの大きさは同じに見えた。

「でも……」

凄く大きく感じるのはサドルの位置が違う為だ、一臣はサドルを一番低い位置まで下げた。

「乗ってみて」

一臣は自転車に乗るように流衣を促した。流衣は言われて躊躇しながら恐る恐る乗ってみた。

「足ついた……」 

流石にママチャリより高いけど何とか足がついた、足がついたけど……どうすればいいの? 一臣が何故に自分の自転車をに乗れと言ってるのか流衣はいまいち理解して無かった。

「走れる?」

「うん、多分」

走れるとは思うけど、まさか私のママチャリの代わりにこれに乗れって事⁈ でもそしたら藤本くんはどうするの?

「『時玄』の隣の自転車屋にどのくらいで治るのか聞いてそこに預けておくから、レッスン終わったら行ってみて」

一臣は淡々と説明する。

「レッスン終わったら? でも遅くなるかも……」

「店は8時に閉店するけど店長は中で修理したりして夜中までいるから大丈夫。じゃあ」

言い終わると流衣の自転車のハンドルを握り、片方の手で動かない後輪を持ち上げ、事もな気に歩き出した。

〈え? 何? 私のチャリ……まさか『時玄』の隣の自転車屋さんまでそうやって持ち上げて歩いて行くの? 嘘でしょう⁈ )

ようやく今までの会話を理解した流衣は

(何で? そんな……重くて大変なのに、何でそこまでしてくれるの、どうしよう、凄く迷惑かけてる……)

考えてる間に一臣がどんどん進んでしまう。

「藤本くん!」

焦って思わず呼び止めた流衣。振り向いた一臣はいつもの表情をしてる、嫌がってる風でもなく面倒くさそうでも無く、いたって普通に日課の一部にしか見えない。

「えっと……そのう、あの、……どう……いや、え〜と」

〈そんな事しなくてもいいよ〉と言おうと引き留めたはずなのに、何と言ったらいいか分からなくなった。考えてみたら壊れた走らない自転車を自分で抱えて行けるわけもなく、そうして貰うのが一番助かる〉という事に気がついてしまった。そんなじれったい状態の流衣だが、一臣は特に急かすわけでもなく言葉を待つ。

「……ありがとう」

「別に」

散々迷って右往左往した挙句に結局いつもの会話になった。一臣は何事も無かったように歩き出した。

『どうしてひと様に迷惑かけるの⁈ 自分の事は自分でしなさいっていつも言ってるでしょ!』

一臣の後ろ姿を眺めながら、頭の中には母親の言葉が反響し、流衣は劣等感にさいなまれるのであった。


「何かもう、色んな事にごめんなさい」

色んな事——。落ち着いてよく考えたら、壊れた自転車は教室に置かせてもらって、バスが出てる時間までに帰れば良いだけの話で、動けなくなったのは驚気のあまり腰が抜けたせいで、自転車の重さがを感じなかったのはブロック塀に挟まれた自転車が宙に浮いていたというだけだという……とてもお間抜けな情けない話。

「おまえいったい何に謝ってんの?」

ハクがカウンターウラの流しで洗い物をしながら聞いた。

平日の週の真ん中の夜、『時玄』は暇なので未だ十一時だというのに客は居なかった。店の中はハクと一臣とマスター、そして流衣だけである。

「恥ずかしくて……穴を掘って埋まりたい……」

「それを言うなら『穴があったら入りたい』じゃないかな?」

マスターが笑いながら流衣の言葉を言い直す。マスターとしては流衣の言い間違いが微笑ましくて言ったのだが、流衣は自分のお馬鹿加減を披露してしまったので、赤くなり益々落ち込んだ。

「んで、チャリどうした?」

「やっぱり、治すより買った方が安いって言われたから……だから、そのまま廃棄にして貰うから引き取ってもらったの」

流衣がもの凄く残念そうに言った。

「それだって廃棄料金かかんだろ?」

新しい自転車買うなら無料にするのが店のやり方だが、そうで無いなら廃棄料を取るのが普通だ。

「変わってる自転車だから、それはいいよって言われたんだけど……あれ?」

違うのかな、私の聞き違いかな……、と流衣が疑心暗鬼に囚われる。

「変わってる自転車って何だよ?」

「90年代の〈MIYATA〉のレア物だと言ってたから部品取るんじゃ無いかな」

一臣が自転車を持って行ったら店長がそんなことを言っていたのを思い出し、そう補足した。

「あー、そういや珍しいタイプと思ったら骨董品だったんだなあれ」

ハクも朧げに思い出しながら言った。

「そうなの?」

勿論、日本製の自転車かどうかなど流衣は知らない、ママチャリは全てメイドイン・チャイナだと思っていた。

「そうなの……って他人事みたいに言うな、おまえが買ったんじゃねーの?」

「うん。買ったんじゃ無いの……、私の自転車はその……家ごと全部流されちゃったから、生活必需品の支給の時に相談してみたら、自転車も大丈夫だって教えて貰って申請して、順番待ちで無料で貰えたから選んだ訳じゃないの」

「え⁈ 流衣ちゃん、家流されたの⁈」

初耳だったマスターは驚いて聞いた。

「はい。うち荒浜で東部道路よりだいぶ手前の所だったので、家ごと一緒に流されちゃって……。避難所に暫く居たんだけど、仮設住宅が出来るの待てなくて、アパートを探して移ってあとから借り上げて貰いました」

要するに市に申請して家賃を代わりに払って貰ってる状態なのだった。

「おまえそん時どこ居たの?」

家が流されたのはこの前聞いてたけど、いつも乗ってる筈の自転車が家ごと流れたと聞いた上に、流衣の口調からやんわりと何かを省いた気がしたハクは気になって聞いた。

「ん……とね、家の中」

「じゃ家ごとって、流衣ちゃんも……って事かい?」

マスターは浸水域から5キロ程しか無い場所で生活してても、実際に津波に流された体験者と会うのは初めてで驚いた。

「うん。私も一緒に流されちゃったの」

「いや……、そんなあっさりと言うことかよ?」

聞いてるハクのほうが何故か焦る。

「寒いし、臭いし、怖いし……でも奇跡なの」

「は?」

「小さくてラッキーってあるんだなぁって思って」

「何言ってっか分かんねーんだけど……」

暴走女子がまた始まったか? 的なハクの受け答え。

「小学生に見えたんだって」

「流石にねーわ、誰よそんな奇特な奴」

愉快そうに軽く笑う流衣に、ハクはどこのオッサンがんな事言うんだよ、とでもいう様に突っ込んだ。

「自衛隊のおにいさん」

皆黙り込んだ。

「ヘリコプターから私が家の屋根にいるの見て、定員一杯だけど子供ならもう一人乗れるって思ったんだって、救助してくれた時言われたの、私、水に浸かったあとに屋根の上にいたから、低体温症になっちゃってて、そこで救助されなかったら危なかったねって、看護婦さんに言われちゃった」

と流衣はゆっくりと照れ臭そうに説明すると。

「いや、笑って言うことじゃねえだろそれ」

奇跡と呼ぶその様を笑いながら言う流衣に、ちょっと深刻な顔になったハクが意見する様な口調で言った。

「う〜ん。でも……笑わないと負けたみたいで何か悔しいし」

それは言えてる……。とハクは思った。

「……私より、辛い経験した人いっぱいいるからあんまり言いたく無いし」

この話を引き摺りたくない流衣は話しを切り上げたくて落ち着かなくなった。

「ルイちゃん、話違うんだけどいいかな?」

マスターがそんな流衣の気持ちを読み取ったのか、空気感を無視したのかは別にして流衣に話しかけた。

「はいっ」

どっちにしても流衣にとっては渡に船。

「『時玄』でちょっとバイトしてくれないかな?」

まさしく180度転換。

「えっと……」

バイトの話なら喜んで二つ返事をしたい流衣だが、『時玄』は深夜営業のお店で労働基準法で18歳未満は10時迄しか働けない。自分が何をするんだろう……と躊躇した、ランチタイムなら自分でもおかしく無いけど、学校あるからそこ無理だし。流衣が困ってるのを見て、マスターは説明し始めた。

「勿論、接客じゃ無いよ、夜の大体9時から一時間くらい厨房で皿洗いと下準備のお手伝いしてくれる人が欲しくてね、一時間で週に三回程度だから求人に出せなくて困ってたんだ」

「えっ、1時間⁈ ほんとうに?」

「そうそう、うち水曜日はこの通りだし月曜日もまあまあ暇だから、火曜、金曜、土曜の週三回お願いしたいんだけどダメかな?」

ちょっと頼りなさげな親戚の叔父さんの様なテイストで頼むマスターの物腰の柔らかさに流衣はほだされる。

「お願いします」

心地良くオーケーした。

「良かった。早速明日から来てもらえるかな?」

マスターがニコニコしながら交渉すると

「えっ、明日……」

流衣は考え込んでしまった。なんせ足である自転車が無い。

「あっそうか、足がないのか」

マスターが気が付いた。

「朝の掃除のバイトは休むんか?」

ハクが流衣に聞くと

「休もうと思っていつも一緒に仕事してる伊藤さんに事情を話したら、家の近くまで車で迎えに来てもらえる事になったの、終わったら学校にも送ってくれるって」

伊藤さんと呼ぶ中年女性の同僚は車で通勤していて、流衣の家も学校も通勤の通り道なので笑いながら大丈夫と言われて、流衣も遠慮なくお願いする事にした。

「へえ、良かったじゃん」

「うん……」

問題はその後だった……。学校からスタジオまで、もしくはバイト先のドラッグストア迄のバスが無い。いや正確には直通のバスが無いのだ。スタジオの近くにバス停は有るものの、2回乗り換えなければならず、時間も自転車の倍以上掛かる。

「保春院町で降りて歩くしかないか……」

そのバス停の場所からバイト先まで約2キロの道を流衣の頭の中でシュミレーションしてると

「30分はかかんじゃねーの?」

ハクの声が聞こえて来て一瞬心を読まれたかとおもったが、何のことはない声に出していた。

「自転車ってもう貰えないの?」

マスターが聞いた。

「えっ……と、多分申請すれば……でも、保護者じゃ無いと……親の同意がないと……」

歯切れの悪い流衣の説明に面倒くさくなったのかハクが遮った。

「お前が送ってけば?」

一臣に向かって提案した。

「俺?」

突然の指名に一臣は反応し考える様に首を傾げた。驚いたのは流衣である。

(何で藤本くん⁈)

「お前ら家近いんだろ?」

見透かした様にハクが答えた。

「えっ待って、家が近いのと、学校からスタジオ迄では話が違うよね?」

「だってお前、流衣のチャリ壊れた時に一緒にいたんだろ?」

流衣の疑問点を無視してハクは話を進める。

「何でそこ?」

私のチャリンコ壊れたの別に藤本くんのせいじゃないし……私の考えがズレてるの?

「俺のチャリ二人乗り出来ないけど」

「マスターのママチャリと交換すれば良いんじゃね?」

マスターの了解もなくサラッと言うハク。

「え〜、僕クロスバイク苦手だなぁ」

身長165のマスターが通勤に使ってるのはママチャリ。ハンドルが低くてカゴのないクロスバイクより、篭付きで後ろに荷物も積めるママチャリが乗り易く、朝市場に寄って来るのに好都合だった。

「マスターが店に居る時は使わねーだろ、そん時だけ借りりゃあいんじゃねーの? 学校まで迎えに行って、レッスン終わった後ここ迄送って来れば良いだけじゃん」

「ええ? それ凄くめんどくさくない?」

思わず声に出してしまった流衣。

(嘘でしょ? だってそれって一度学校を出た藤本くんが私の事迎えに戻って来てスタジオまで送った後、レッスンが終わったら又迎えに来て『時玄』迄来るって事でしょ〜⁈ それって大迷惑じゃない!)流衣はひとりで焦った。

「……」

 考え込んでる一臣を見てハクは声を掛ける。

「何黙り込んでんだよ、嫌なのかよ」

「いいけど」

 一臣はあっさりとオッケーした。

「えっ、いいの?」

 ……何で? やっぱり私がズレてるの??

流衣は現状を把握しきれず、迷惑かけてるとしか思えないのに、何故か楽しげに話してるハクとマスターに、どう答えを出したら良いのかわからなくてソワソワし出す。

「何だ良いのかよ。渋るからもし流衣に何かあって警察沙汰にでもなったら、労働基準法で未成年監督義務違反でこの店ヤバくなるかんな、って脅してやろうと思ったのに」

脅す理由が無くなりひどく残念そうなハク。

「渋ってないし、対象物に照準合ってないのに脅す意味ないし」

店がヤバくなって一番困るのはハクなので一臣に言うのは筋違い、「この店なくなったらお前だって立ち寄る場所無くなって困るだろ?」と遠回し的に言うくらいなら最初の提案自体するなと言ってる一臣なので有る。

「だとさ、良かったじゃん。これでチャリ買わなくて済むんじゃね?」

いつもの様にハクは軽薄な笑顔で笑い飛ばしてるが、流衣は(良くない、良くないっそんなの悪いよ、どーしよう……でもでも買いに行くとしたらお母さんに事情を説明しないと、…絶対怒られる…それは私が悪いから謝るけど、それをしてもいつ買いに行ってくれるのか分からない……)防犯登録等書類の為にまだ保護者のサインが必要な年齢であるのに対して、協力的でない親の存在は非常に難儀だった。上手く頭の中を整理整頓出来ないでいると

「お前さ、家近いなら店終わりも送って行けよ、こっからなら歩いても30分位だろ?」

なんてハクが言ってるのが聞こえて来た。

「分かった」

と一臣と返事。

「ええっ? いっいいよ、そんな事までしなくていいよ、悪いよそんなの」

(何でそうあっさり返事するの? しかも私の頭の上で会話して私無視されてるんですけど……) 

親にさえ送迎されたことが無い流衣は遠慮して必死に断った。

「いやいやルイちゃん、夜遅く女の子一人で帰せないよ。逆にそこだけは従って貰わないとバイトさせられないよ」

とマスターに諭される。

「でも……」

「さっきのもう一回言ったろか? お前になんかあって警察沙汰になったら……」

「あ……いいです」

ハッキリしない流衣にハクが復唱しだすと流衣が止めた。

「番号教えて」

一臣はポケットから携帯を出して流衣に聞いた。流衣は考える間も無く答えた。

「あ、え、080の……」

「アドレスも、あと名前」

業務をこなす様に淡々と進める一臣に、流衣のテンションがおかしくなる。

「名前……72ページで」

「何で72ページ何だよ?」

ハクが横から口を出す。

「何か暗号みたいで良いかなぁと思って…」

「認証コードじゃあるまいし」

さっきから落ち着かずに妙にソワソワしてる流衣の反応がいまいち分からないハク。

「いいから〈ルイ〉の漢字教えて」

 ドキッ 

「ええと……ながれるころも……」

 一臣口からルイと出た瞬間に心臓がくすぐられるみたいな感覚に落ちた。

「へぇ、〈ルイ〉って漢字一文字じゃ無いんだね、〈流衣〉ちゃんか」

マスターは〈泪〉もしくは〈類〉を想像していたらしい。

「珍しかったのに、文字通り洋服全部流されちゃって、言霊の威力って凄くない?」

流衣は冗談っぽく言ったのだが

「いや、同意出来ねーし、それ笑えねえって」

「ごめんなさい。自虐ネタでも言わないと冷静さが保てなくって」

「どこが冷静なんだよ、今のお前が冷静に見えるのはゲームに夢中の冨樫義博ぐらいじゃね?」

「アドレスは?」

ハクと流衣のボケと突っ込み会話を何事も無くスルーしてアドレスを聞く一臣。

「アドレスは……えーとごめん、みないと分からない」

そう言って自分のガラケーをいじるが、自分で入れたはずのアドレスが出てこない。しかもあちこち触ってるうちに見たことがない画面が出てきた。

「各種サービス? 何これ? えっと……」

焦ると益々画面が出てこない。

「貸して」

一臣は自分のアドレスを入れた方が早いと判断したらしい。流衣の手から携帯を取ると数秒で操作を終えた。

「はい」

あっという間に流衣の手に戻って来た携帯をみて、何か急に恥ずかしくなって来た。

「お帰りなさい」

そう言って携帯を見つめながら、恥ずかしさを誤魔化す為に語りかける。

「私にもあなたの機能を使い果たすだけの力があれば良いのに」

「ここでユパ様リスペクトのナウシカ感出すのおかしくね?」

「私のリスペクト対象がマラーホフでもギエムでも無く、サミー・ディビスJr.だとしても誰も知らなくて草生えるレベル」

「マジ誰も知らねぇ」

マニアなハクも追いつけないマニアックぶりを発揮する流衣。ちなみにマラーホフもギエムも言わずと知れたバレエ界のレジェンドなのだが、神過ぎてリスペクト対象外だと流衣は思っている。

「サミーディビスJr.は渋いなぁ」

マスターが良く知ってる70年代・80年代ハリウッド世代の自分でも、そこにリスペクト持ってくる事ないよ。と感心しながら頷き何気に時計に目をやった。

「何だもう12時じゃないか、流衣ちゃんもう帰りなさい。親御さんが心配してるよ。一臣君送ってくれるかい?」

マスターが焦った口振りで言うと、一臣は「分かった」と言って頷いたのだが。流衣はマスターが焦って言った一言が心に引っかかってうつむいた。

(お父さんは慣れない肉体労働で疲れて9時前に寝ちゃうし、お母さんは準夜勤の日だからまだ帰って来てないし、私の事心配して待っててくれる人なんて居ないんだけど……。でも、だよね、普通のお家は心配だから皆んなお迎えに来てるんだよね。陽菜ちゃん家はスタジオから歩いて15分くらいのところなのに、お母さん必ず車で迎えに来てる……)

みんながお迎えの車に乗り込んで行く姿を思い出してちょっとだけ寂しくなった。

「家どこ?」

『時玄』から出て5分程歩いたところで一臣は流衣に聞いた。

「えっと……『皐月コーポ』ってわかる?」

そのアパートの外壁に名前など書いてない為、アパートの名称なんかわかるわけないよね、と思い流衣は恐る恐る聞いた。

「バス通りから入ってすぐのアパート」

しかし一臣はスルッと答えた。バス通りとは名ばかりで朝と夕方に、二本ずつしかバスが止まらないバス停がある。

「何でわかるの⁈」

流衣は驚いて声に出してから、藤本くんらしいな……と思ってしまった。それに流衣が驚いてもまったくもって表情が変わらない。一臣をじっと見つめる流衣の視線を感じても振り向きもしない。

(……話しかけたら返ってくるのは分かったけど、この空間ってどうなんだろう……気まずい? 無言で歩いても藤本くんは気にしない人なんだとは思うけど、これって何? 見えない何が通って行くのを待ってるみたいな感じ、これ何が通り過ぎるって言うんだっけ……ええっとそうだ!)

「『敗北の黒豚』!」ウッカリ声に出してしまった。

「?」

『敗北の黒豚』発言で何の事か分からずに振り向いて流衣を見た一臣。

「や、あの……何でもないです、ごめんなさい」

 昔見た漫画に描いてあったのを思い出し他のはいいけど、題名が思い出せなくて説明できるほどの事がない発言に流衣は思わず謝った。

(なにこの空気感……。黙ったまま毎日歩くの耐えられない、どうしよう。……喋ったら駄目かな、うるさいかな……)

 男子と歩くなんて小学校の集団登校以来で、なんせ田んぼや畑の畦道が続く田舎の帰り道で、小学校は総児童数が百名ほどの学校、集団登下校は同じ方向の子達とバラバラな学年で帰るのだが、流衣と同じ方向は総勢四人。しかも他の三人は男子。落ちてる犬の糞でどこの家の犬か当てるクイズと、今日の給食の話題で盛り上がる男子を横目でみながら帰ってた記憶がまざまざと蘇った。

(藤本くんに犬の話はムリ……)と、無言で歩く事のプレッシャーが流衣に襲い掛かる。


「意外と策士だね」

まな板やウエスを殺菌消毒をしながら笑ってマスターが言った。

「何、オレ?」

何のこっちゃ? といった顔のハク。

「側からみると、二人の仲を取り持ってる様にしか見えないよ」

「いやまさか、んな事考えてねーし、ただあいつが放浪出来ないようにするには、なにか理由を付けて仕事させれば良いんじゃねえかと思って……」

『時玄』からの仕事帰りに送らせるだけのつもりだったのに、予想より仕事増えちまったけどな。とハクは思った。流衣の自転車が壊れる事なんて完全に予想してなかった、でもそのおかげで事がスムーズに運んだのは言うまでもなく、こうなるべき所に収まった気がして驚いていたハクだった。

「ああ、そっちかぁ。自分の給料減らしていいから雇ってくんねって言うから、てっきりハクが流衣ちゃんのこと気に入ってんだと思ったんだけどそれも違うね」

マスターの発言にハクは細い目を見開いた。

「だから、オレはちっこいの好みじゃねーって」

慌てて否定するも、ぷはっと愉快そうに笑った。

「流衣ちゃんは良い子だね。酷い経験をしてるのに明るく振る舞ってそれを感じさせないし、……一臣君もそうだけど、より辛い思いをした人達が懸命に動いているのを間近で見て、気にならない方がおかしいよ」

至極ごもっとも。気になる存在ってのは別に恋愛対象だけでは無い、流衣に関しては一臣と真逆な所が、ある意味興味をそそられるハクなのだが——

「なんっつーかまあ、……ひとにガッチリ協力するのはガラじゃねーけど、ちょっと手伝う真似っこする位ならいいかぁと思ってさ」

何か照れ臭そうに語尾を濁しながら喋る。

「震災需要かな……」

「はぁ?」

ハクがデカい身長の更に高い所から声を出した。

「何かしなきゃとは思うんだけど、一応は被災者だし当事者であるから、他から何かして貰わないとどうにも出来ない事が多くて、『申し訳ない』と『何かしなきゃ』が交互に出てきてやりきれないんだよ」

マスターは喋りながらウエスをハイター液から取り出して流しで洗い出した。

 めっちゃわかる…… ハクは声に出さず心で納得した。


「小さい頃近くにビデオしかないレンタルビデオ屋さんがあってね、うちもビデオしか見れなかったからお小遣い貯めてバレエの映画とかドキュメンタリーのビデオを借りに時々行ってたんだけど、ある日突然、そこのお店のおじさんが「もう店閉めるから好きなのもっていって良いよ」って言って、私が知らないダンス映画とかいっぱい選んでくれてね、しかも家まで届けてくれたの」

流衣は自分の昔話をしだした。何も言わずに横に着いて歩く一臣。

「その中にあった『白夜』ホワイトナイツって古い映画にバレエダンサーが踊るシーン——踊りというかピルエット、って回転するだけなんだけど、12ルーブルを賭けてに12回転するの……それがね、神様みたいで……」

言いながら思い出して流衣は放心状態になった。今思い出しても、いや、今だから尚の事心が震えるほどまさに〈神業〉のピルエット……。5回転でも難しいものを12回。軸がぶれる事なく徐々にスピードを緩めて最後の回転は完全に止まってから脚を下ろした。完璧なバレエのピルエットに、メンタルとフィジカルコントロールが出来るバレエ界のレジェンド、ミハイル・バリシニコフのそれとは知らず、幼い流衣の脳裏に焼き付いた瞬間だった。

「それが頭から離れなくなっちゃって……それから毎日ずーっと回る練習ばっかりしてたの、でも全然出来なくて、足に豆はできるし爪は剥がれるし、新しいトゥシューズに血がついちゃったりして、すっごく怒られちゃって……」

母親に見つかって怒られたのを思い出した。新しくもあり、3年生の流衣が初めて履くトゥシューズだった。大事に使ってないと母親から激怒されたのだが、けっして雑に扱ったわけではない、柔らかいバレエシューズで練習して、慣らして履いた時に運悪く豆が潰れたのだ。母親に遠慮して選んだ安いトゥシューズが足の形に合ってなかったのも原因のひとつ。

(……やだ、何も怒られたことまで言わなくても……話す順番が整理できないな、私って本当に頭悪いなもうっ)

余計な事まで言ったと思い、流衣はチラッと一臣を見た、相変わらず真っ直ぐ前を見てる、話しながら何度か一臣を見たが全く顔色が変わらずただ歩いてる。

「あの、うるさい……?」

流衣は一臣の表情から判断出来ずに思い切って聞いてみた。

「別に」

一臣は相変わらずの返事をした。話の内容は分からないが、賑やかに騒ぐわけではなく、独唱とも言える返事を必要とされない流衣のお喋りは、うるさいとは思わなかった。

(「別に」……ってことは、喋って良いって事かな、良いんだよね……という事で)

「あのね、その『白夜ホワイトナイツ』の映画に一緒に主演したグレゴリー・ハインツってタップダンサーが出ててね……」

 曖昧なまま再び流衣は話し始めた。一臣はダンスに関しては分からないが、バリシニコフが世界のレジェンドバレエダンサーなら、共演したグレゴリー・ハインツもまた世界屈指のタップダンサーである事や、ロシアがソビエト連邦という社会主義国家だった時の、プロパガンダに踊らされた芸術家達の哀しさや悔しさを訴え、亡命に至る経緯を表現した映画である事が、流衣の拙い説明でもわかった。そして話は映画ではなく人物に飛んだ。

 その映画を観てから時間が経って中学生の頃。ある日テレビでグレゴリー・ハインツが出ていたので、何気に見たのがサミーデイビスJr.の復帰祝い番組の何度目かの再放送だった。

 サミーデイビスは喉頭癌を患い、手術した後だったので声は出ない。「喋れないけど元気さ」とゼスチャーで皆んなに応えるサミーデイビスにグレゴリーがタップの勝負を挑んだ。その二人の絶妙な掛け合いの俳優でありタップダンサーの先輩後輩のタップダンス対決は、ひとりが踊りそれを相手がコピーして踊ってみせ、出来たら引き分け出来なければ負け、という単純なもの。そして対決はドンドンとレベルが上っていくがお互い譲らない、そんな時サミーデイビスが技を見せた。

これが『タップ!』それこそ「エンターテイメント!』と誰もが唸る様なそんな軽やかなステップと音だった。

 そのステップが何をどうすればそんな音が出るの? と思わずテレビに向かって声が出そうになるくらい最高にお洒落な音が響いた。グレゴリーもまた「はあ?」と驚いた顔を見せ「叶うわけない無いじゃないか!」という表情で両手を広げて降参したポーズを取るとサミーデイビスに駆け寄り。

「靴にキスしたの……」

グレゴリーはサミーデイビスの前に膝付き靴にキスした。それを「何やってんだ、馬鹿な真似はやめろ」と表情で語り、照れ臭そうに跳ね除ける小柄で愛嬌のあるサミーデイビスを、抱え込むように敬愛の笑でハグをしに行く大柄なグレゴリーハインツ。親子ほどの年の差のある二人の友情に会場からも拍手が湧き上がる。

 流衣の目の前にはその光景が浮かんで夢を見てるみたいにうっとりしていた。

靴にキスって、屈辱的で悪役がさせるものだと思ってたのに……。あんな風に尊敬を表す為にもするんだって、初めて知った……。

「靴にキスされるくらい愛されるダンサーがいるなんて……なんて素敵なふたりだろうって胸が熱くなっちゃって……そんな風に尊敬出来る人が居たら良いなって思ったの」

語らずにはいられないくらいに熱い思いが浮き上がって来た流衣だった。

……さっきリスペクト対象にサミーデイビスJr.ってハクに言ったおかげで懐かしいこと思い出しちゃったな……でも藤本くんにとっては興味が無い事だと思うから、うるさく語り言い過ぎないように抑えなくちゃ。

そうすることで流衣は家までの二人きりの時間が、気不味きまずい無言の空間にならない様に埋める事にしたのだ。そんな流衣のお喋りが程なく終わる頃にアパートの前に到着した。

「ここの一番奥の2階の部屋なの」

流衣が道路から示した場所は、階段を照らす蛍光灯が目印の様に点滅していた。二階建の十戸のアパートで横に長い為、手前と奥に二箇所階段が付いてる奥の側の階段の上だった。

「藤本くん家はどこら辺?」

「稲荷堂公園の近く」

他に目印がない為『稲荷堂公園』と言った。直線距離でいえば二百メートル弱と言った場所。本当に近いんだな、と流衣は思った。

「あ……」

流衣の表情が一瞬こわばった。一臣は後ろから人の気配を感じて、ふと後ろを見るとアパートの住人らしい中年の女性が2人の横を通り過ぎて行った。

「あの……今日はありがとう。おやすみなさい」

流衣が急ぎ出す様にぎこちない口調で礼を言うと、体を反転させ部屋の方へ向かった。

「おやすみ」

後ろから聞こえて来た思いがけない一臣の声に

「また明日」

足は止めず、顔だけ振り返り手を振って応えた。そんな流衣の一連の動作を見た後、一臣は歩きながら引いて来た自転車に乗ろうとした。

「お母さん!」

奥から流衣の声が聞こえて来て足が止まった。更に2階の奥から少し乱暴に扉を閉める音が聞こえて来て、後を追う様に同じ場所から扉を開閉する音が聞こえた。

 ——「お母さん」? ……さっき通り過ぎた人が……?

足音で二人が同じ場所に入ったのはわかった。けれどすれ違った時のふたりの雰囲気に親子関係は全く感じ取れなかった。一臣は違和感を感じたものの追求するほどの事ではなく、そのまま家路に着いた。


「じゃあ、私最初やるから、終わりやってね」

「はい」

朝イチで同級生の今野に声をかけられ、本日は日直である事を知らされる。他のクラスは委員長が授業の挨拶の号令をかける所もあるが、このクラスは日直が号令をかける、授業の声掛けに特に決まりはないが今野は平等にしたいらしい。

「……寝ない様にしなくちゃ」

昨夜ほとんど眠れなかった流衣はそう自分に暗示をかけた。

(自転車が壊れた事も言わなきゃいけないのに、昨夜は言えなかった……)

それどころか何も言えなかった。

「ひとが疲れて帰って来たっていうのに、良い気なもんね」

そう言って母親は襖をぴしゃりと閉めた。話をしようと母親を追いかけたが、玄関の扉と家の中の襖、目の前で二度扉を閉められ、流衣は何も言えなくなってしまった。

「タイミング悪っ」

2時間目の休み時間、自習用のプリントを抱え職員室から教室に戻りながらボソッと呟いた。

「え? 何?」

同じくプリントを抱えた今野が聞いた。

「あ、ううん、何でもないの」

いつもの独り言。日直の仕事中なのを忘れていた。説明しようがないし、したくなかったので、自分の言葉を否定した。教室に戻り3時間目の自習プリントを分ける作業をしてると、自分の席の隣が空いてるのが目に入った。

(藤本くん、帰っちゃった……いつも通り。あれ? 私どうすればいいんだろ……。こっちから連絡した方がいいのかな? ……でもなんて言おう)

自習プリントを前にして考え込んだ。

 今日は日直だから、職員室に日誌を持って行けば帰れるから

〈3時過ぎに学校の近くで待ってて貰えますか?〉 

かな? あ、でも担任の先生が居なかったら待ってるのに時間かかるかも。

〈3時過ぎに授業は終わるけど、日直の仕事の都合で担任の先生を待たなくてはいけないので遅くなるかも知れません〉

……何か無駄に長いな。

〈3時過ぎるかもしれません。お待ちして頂けますか?〉

業務連絡みたい。

〈ちょっと遅くなるかも、待ってて貰える?〉

なんで上から目線なの。

〈遅くなるけど待っててね〜〉

いや砕けすぎ。そんなに親しくないし、もっと簡潔な方がいいかな?

〈3時 校門前にて待つ〉

……って果し状にしか見えない。ダメだ正しい文章が思いつかない、私のボキャブラリー大丈夫かな……。流衣が自分の不甲斐なさに打ちひしがれていると、ポケットの中で携帯が小さく震えた。

ん? メール?

流衣は顔を上げて周りを見渡すと、大人しくプリントに向かってる者、既に書き終えて携帯をいじる者、スマホを持っているのはごく少数でその人達はほぼゲームをしてる。皆静かに自習を満喫していた。まさか……ともひょっとしたら……とも思いながら携帯を見た。一臣からだった。

(わ〜、藤本くんだ。噂をすればってこういう事?)

驚きつつもなんて書いてあるのか興味津々でメールを開いた。

〈学校出る時メールして〉

……超簡潔な要件メールのお手本みたい……。そうかこれで良いのか、私が考え過ぎてたのかな。でも藤本くん、さすがというかシッカリしてる人って迷いが無いというか……これ以上迷惑にならない様に早く何とかしなくちゃ。

と早く新しい自転車を手に入れる事を心がけするが、6時間目が終了し放課後が迫ると途端にソワソワし出した。

「特に何事もなく終わったね。後は日誌を担任に届けて終わり〜と」

今野は疲れた様な口調で言った。

「私が日誌置いてくるね」

流衣が率先して最後の仕事を引き受けた。

「ほんと? 良いの〜⁈」

嬉しそうな今野。

「うん。ちょっと職員室に用があるからそのついでだから」

用がある訳ではない。

「良かった、今日早く帰りたかったんだ、じゃお願いねー」

そう言って今野は手を振りながら帰って行った。

(日誌……先生居ないといいなぁ)

何故か学校から出る時間を引き伸ばそうとする。今更だが流衣は送り迎えして貰う事に、物凄く緊張して来たのだ。それというのも学校から自転車2人乗りで帰るのって……

(カップルでしか有り得ないじゃ無いっ! もうっどうしよう〜っ。……私なんかが彼女だと思われたら藤本くん気の毒……。今さら気付くの遅いってば、私の馬鹿っ〜)

「失礼します」

自己嫌悪にまみれて落ち込みながら職員室に入っていくと、二次元オタク趣味メガネの担任が目に入った。

〈先生居るし……じゃない、居てよかった。やだな私何考えてるんだろ、余計な事考えない様にしよう、平常心、平常心)

とお経の様に唱えながら、日誌を担任に渡し、早足で職員室を出て教室へ向かい机の横にある鞄を手に取ると意を決して。

〈今から出ます〉 とメールを打った。

〈裏門から出て西に向かって〉

直ぐ返事が来た。指示付きで……しかし。

(「西」? ってどっち? え〜と、お日様が沈むのが西だっていくら私でも分かるから、今の時間太陽がいるのが西だよね)

そう思って窓から外を見たら

——曇り——

(えっ、お日様が無い! ウソお、やだ西はどこ⁈)

方向音痴の流衣。軽くパニックになりつつもとりあえず裏門から出る為に急いだ。

(えーと、正門が通称東門だから東で、……東西って言うんだから正門の反対側が西って事だよね……。じゃあ裏門は横にあるから北かな?)

正門から向かって左手にある裏門は南である、従って裏門に向かった場合、後ろが北、右手が西になる。

(えええ〜と。目の前が北だから、右手が東、左手が西で、こっちに行けば良いのか……あれ? なんか変だな、本当にこっち?)

歩き出して目の前の景色が稲刈りが終了した田んぼしかない事に違和感を感じる。流衣が進んでるのは東で西とは真逆だった。田んぼしかない道を歩いて流衣は……ここを真っ直ぐ行ってどうするんだろ……と不安になった。

〈何処まで行けばいいの?〉

メールしてみた。

〈小学校の横〉

一臣の返信を見て随分遠くまで行くんだな驚いた。

〈七小? の横ってどこ?〉

流衣は疑問をそのままメールで送った。すると即座に携帯から呼び出し音が鳴った。

「……藤本くんからだ」

流衣は驚きと共に不安でドキドキしながら受けた。

『今どこ?』

流衣のメールで道を間違えてるのがわかった一臣は、メールでは埒が開かないと電話をかけてきた。

「どこ……? 言われた通り真っ直ぐ歩いてたんだけど……」

田んぼしか無いので「どこ」と言われても返答に困る流衣。

『前に何が見える?』

その返事で方向音痴だと理解して、質問を変える。

「稲刈り後の田んぼ?」 

『もっと先、遠くの景色』

さらに重度の方向音痴だと悟り、更に質問を変える。

(遠くの景色? んと……)

流衣は顔を上げてようやく正面全体の景色を見た。みえたのは津波を止めた防波堤。

「……東部道路」

えっ⁈ 何で東部道路が見えるの? ってことはこっち東だっ、西じゃない! 何で逆に来ちゃったの? 

「やだどうしよう〜⁈ 」

やっと間違いに気付いて慌てる流衣は、落ち着かなくなり右往左往し出す。

「道、間違えちゃった」

『分かってる』

一臣の落ち着き払った声を聞いて、ちょっとホッとした流衣は動くのを止めて改めて謝った。

「ごめんなさい。今戻るから」

『いや、動かないで』

 一臣の〈ステイコール〉に疑問が湧く。確かに方向音痴だけど、これ以上待たせたら悪いと流衣は回れ右して進んだ。しかし動揺してウロウロしてしまった為に、流衣は配置がズレてるのに気付いて無かった。方向音痴とは方位が地面では無く、自分軸で固定されている為に起こるのである。

『そっちじゃない』

「えっなんで? ……東に進んでたんだから、後ろに行けば戻れるよね?」

『そっちは南、左見て』

言われた通り左を見るとさっき迄見てた東部道路があった。

ん? 何でこっちに東部道路あるの? いやちょっと待ってそれよりなんか変……さっきから実況されてる様な気がする。

「……何で私の動き分かるの?」

「見えてる」

近くから声が聞こえた気がして、ふと右側を見るとほんの数メートル先にマスターのママチャリに乗った一臣が居た。周りに何も無い為に一臣からは流衣の位置は丸見えだった。一臣は流衣が自分に気が付いたと見て取ると、携帯切ってポケットに入れた。

(藤本くん、私服だ……)

近づいて来る一臣を見たら少し安心して気が抜けたのか、何故か洋服に目が止まった。

(そういえばいつもそうかも……今まで気にしなかったけど、どこで着替えてるんだろ『時玄』かな。これなら高校生カップルに見えないかも? ……逆に目立つ? 私も私服の方がいいかな……いやでも持ってないし……。ってそんな事考えてる場合じゃなかったっ)

「乗って」

自転車の方向転換させて流衣に後部を差す一臣に

「あの、遠回りさせちゃってごめんなさい!」

思いっきり謝った。

「別に」

いつもの形容動詞が返ってきたけど、流衣は情け無くて頭を上げられなかった。

「荷物、カゴに入れて」

学校の鞄をカゴに入れ、流衣はレッスン用のバックを抱えておずおずと自転車に座った。

「……お願いします」

一臣はゆっくり走り出した。今来た道を戻って走ると学校の前を通過したが、他の生徒と会うことはなかった。部活が始まる時間で帰宅部の人達はあらかた帰った後だと分かると、流衣は軽く胸を撫で下ろした。沖野東小学校の前を通り過ぎる。

(藤本くんの言ってた小学校ってこっちのことか、私、何で反対方向の小学校と間違ったんだろ……)

流衣がしきりに反省していると、信号を横断して住宅地に入った所で一臣は自転車を止めた。

「ん?」

流衣が前を見ると、滑り台とブランコがある小さな公園があった。

「明日から此処で待ってて」

一臣は振り返って流衣を見て言った。

「ここ?」

「此処ならこの近所の家の小学生しか通らないから」

信号機のある通りから入って直ぐで、確かに学生は通らないし、目印が公園なら分かりやすい。

「うん、分かった」

流衣はなる程、と納得した。そして流衣の返事を聞いた後、一臣はまた走り出した。

(藤本くん、学校の人が通らない場所探してくれたのかな……。何か色々と考えてくれてるんだな。……なのに私ってば道を間違ったりして迷惑かけて、もう〜やんなっちゃうっ。……早く自転車買わなくちゃ)

とは思うものの、母に言い出す事が途方もなく先のことにも思えて、目の前がモヤモヤする流衣だった。


「1週間経っちゃった〜!」

母に切り出すタイミングが見出せない流衣は頭を抱えて悩み込んだ。1週間というか既に金曜日。一臣が送迎するようになったのは先週の木曜日、もう8日が過ぎていた。しかも土曜日は家の前まで送迎されて申し訳なくてオロついてる流衣に

「あいつ他にやる事ねーんだから良いんだよ。気にすんな」

と昨日のバイトの時にハクが丸め込んだ。

「流衣ちゃんどうしたの?」

光莉が何か悩んでる流衣が気になって声をかけた。

「うん、あの……」

言い出そうとしたが何から言えばいいが迷った。今日はまだ2人だけ。床でストレッチをしながら体をほぐす。

「新しいバイト先でね、お家が近いから終わってから一緒に帰る事になった人がいるんだけど……」

「家が近いの?」

「うん。それに同級生で……」

流衣のモヤッとした感が光莉に伝わり、気の合わない人なのかと光莉は考えた。

「同級生かぁ、嫌な人なの?」

「ううん。優しくていい人なんだけど無口なの」

「何だぁそれだけ? それがどうして気になるの?」

流衣が同級生と言ったので、以前に女子校の様なクラスと聞いてた光莉は、相手が女の子だと思い無口な女子って珍しいなと思ったのだか、それほど深く追求しなかった。

「黙って歩くのに耐えられなくて、私だけ喋ってるんだけど、迷惑かなあと思って」

「それ言われたの? 迷惑だって」

「んーそれが、あまり気にして無いみたい」

じゃあいいんじゃないのかなと光莉は思った。

「何話してるの?」

「前に見た映画の話とか……」

「映画?」

「うん。普通に会話してると余計な事聞いちゃいそうだから、面白かった映画とかのストーリーの説明と言うか、解説してる」

それを聞いた光莉がクスクスと笑い出した。

「変かなぁ」

「流衣ちゃん。シェへラザードみたい」

流衣が映画の内容を演技力を交えて、興奮気味に楽しみながら説明する様子が目に浮かぶようで、笑いが止まらない光莉。

「シェヘラザード……」

〈千夜一夜物語〉のシェヘラザードは王様に飽きられて殺されない為に、王妃シェヘラザードが毎夜紡いだ〈千の物語〉その中のいくつかはバレエの演目になっている。

「なんか素敵だね」

「……そっか、そう考えたら素敵かも」

光莉が微笑みながら言うと流衣も答えた。

「命がけだけどね」

光莉がからかう様に言うと。

「や〜ん」

流衣は楽しげに笑った。


キー! 

ゴッ! ガガガッ! 

真夜中の交差点で車が衝突する音が鳴り響いた。停車中の車に左折して来た車が突っ込んだのだ。

「ヤベェ!」

仮免許で運転していた安原は顔面蒼白になった。

「あーあ、やっちまいやんの」

助手席に座っている梶がケタケタ笑いながら中傷すると、ドアを開けて相手の車を見に行った。安原も続いて車を降りた。

 平成二十三年の正月を過ぎた真夜中の県道286号。三叉路の左方向に曲がると直ぐの場所に黒のハイゼットは停まっていた。ぶつかった衝撃でその車はバンパーが大きく湾曲し、右の尾灯が粉々になっていた。一方でこちらの青いフィットも左のライトが割れ、フェンダーが曲がりタイヤに食い込んでるため動かなくなっていた。

「マジかよ……」

安原は仮免中の身で親の車を黙って持ち出した。

『練習に付き合ってやるから車持って来いよ』

と免許証保持者だが車を持ってない梶が、暇を持て余して提案してきたのは分かりきっていたが、安原も暇を持て余していたのも手伝ってそれに乗ってしまったのが運の尽き。

「おいおいどーすんだよ、車やべえんじゃね?」

「親父に殺されるっ」

「よし、地獄ちょっこー決って〜い。いってら」

梶は輪をかけて笑い出した。動揺している安原は梶のからかいっぷりにムッとして怒り出した。

「っんでこんなとこに車停めてんだよ! ありえねー、オレが悪いんじゃない!」

……交差点内、ハザードも無し、しかも黒い車はぶつかる直前まで全く見えなかった。安原の言う事は確かに一理あるのだが、事故は事故で車も動かせない状態な上に、仮免ではあるが、路上で運転する為には二種免許もしくは三年以上の運転経験者が同乗しなければならず、そのどちらにも該当しない為、安原は完全に無免許と等しく道路交通法違反は明白で不安と恐怖で目の前が真っ暗になった。その時黒のハイゼットの運転席のドアが開き、中から中年の男が出てきた。

「何だぁ、人が気持ち良く寝てるのに邪魔しゃあがって、何だお前らぁ」

呂律がまわって無い口調で不機嫌そうに言った。足元もおぼつかず黒のハイゼットにつかまり、安原達をまじまじと見た。離れていても酒の匂いがプンプンする。

「へっ」

梶はニヤリと笑い。

「おう安原、お前超ラッキーじゃん。警察さつ呼べや」

安原に向かって言った。

「はあ? 何言ってんだよ⁈」

「電話して「ダチが運転してたら、酔っ払いが交差点で駐車して眠りこけてた車にぶつかった」って言えよ」

安原は我が耳を疑った。

「マジ……」

「相手が酔っ払いならこっちは説教くらいで済むんじゃねえの。あ〜点数はくらうか? 学校は停学だろうけどな」

車同士の事故なら、こちら側の違反は前方不注意だけだ。今の段階では相手が酒気帯び運転かどうか定かでは無いが、相手の方が明らかに分が悪い。

「……いいのかよ?」

安原はドキドキしながら聞いた。

「へっ。今度〈女〉連れて来いよ」

梶のいやらしい笑いをみながら「助かった」と思う安原だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る