第2話 72ページ 

——鍵をかけたまま、ぶっ壊れてる——

 何だろう……凄く気になる。

流衣は、いつも通りの清掃のバイトを終えて(今日は、何事もなく定時終了)登校し、教室に入った所へ予鈴が鳴りそれと同時に、隣の席の男子が入って来た。

「おはよう」

 一臣が席に到着したタイミングで挨拶した。しかし、それに応えずに座られた。女子の多いクラス、教室は朝からいささか騒がしい、それに紛れる様に黙って座る。誰かを無視するのではなく、全てを無視するかのように。

 流衣は考えた。

(昨日の今日だけど、忘れられたかな? 

でも……確か藤本くんって成績良いんだよね。記憶力良い筈だよね。感心がないだけ……かな)

 ホームルームが終わり、1時間目は数学。当たり前の様に苦手な数学。お隣さんが気になるせいか今日はまだ眠気が来ない。折角なので授業に集中すると、先生が黒板に書きながら数式を解く説明を聞いてなるほど、とうなづきながらノートをとっていく。

(こうやって授業を聴いてる時は理解できるのに、どうしてテストになると解けないんだろう……)

流衣は長年の疑問に答えが出ず悶々としていた、そして更に疑問が沸いた。男子って数学得意な人が多いけど……なんでだろ。と思ったら、微動だにせず黒板を見てる隣りの男子とその机が目に入った。

(……あれ? 藤本くん、教科書しかない……?。皆んな必死にノート取ってるのに、ノートどころか、ペンも持ってない……)

流衣は頭の中が『?』だらけになった。先生もチラチラお隣さん男子を見てる。

(先生やりにくそう……。さっきから何度も藤本くん見てるし。これ、ひょっとして、ノート取らなくても頭に入ってるって事?  すごいなぁ…… )

ひたすら感心する、英語しか得意科目が無い女子だった。そして1時間目が終わった。

(次、2時間目は世界史か……、これも苦手……)

流衣は鞄から教科書とノートを出して準備していると、隣りも同じく準備していた。

(……今度はノート出てる……。筆記用具も……

って事は世界史はノート取るのね……と、人のこと気にしてる場合じゃ無かった)

 世界史の石田先生は、兎に角黒板を埋める〈黒板マスター〉なんて仇名が付くほど、少なくともノート2ページ、平均4ページは埋まるくらい書きまくる。ノートを取るため授業を聞く暇がない超有難迷惑で本末転倒な先生である。案の定、授業開始から五分で、黒板左側がほぼ埋まっている。

(石田先生、今日もハイペース! やだっ、追いつかないっ)

流衣は必死で書き写してはいるものの、気がつけば黒板が埋め尽くされ、左半分を消しに掛かる先生。いや〜、待って、待って、と心で叫ぶ、が無惨にも最後の一行書ききれず、ガッチリ消されてしまった……。

(あ、終わった……)

そこで集中力が切れた。そこで何気に周りを見たら皆んな頑張ってノートに集中。

けどひとりだけ……。

(え? また?)

 ノートを取らず、前を凝視している男子が一名。流衣は視線だけチラッと横に動かして見てみると、さっきの数学とは違い、ノートはちゃんと取っていた。しかし何やら、雰囲気が違う。皆んなと比べると半分くらいしかなかった。しかも、たまに書き足す程度にしか、手を動かさない。

(……なんでボリュームが違うの……? 先生の黒板は箇条書きみたいに字で埋まってるのに、藤本くんの図形の展開図みたいなのなんで??)

 理解不能。ここで流衣の思考回路が停止し始める。昨日と同じく先生の声がお経に聞こえてきて、眠気に襲われた。

 活動限界。熟睡モードに突入。

「ねぇ、狩野さん?」

 女の子の声で、流衣はハッとして目を覚ます。

「今日も友達の所に行くんなら机借りていい?」

 既に昼休みになっていた。流衣の席の前の子達と仲の良い“和田さん” がお弁当食べる為机を借りたいと申し出る。

「えっ、と? と……どうぞ」

 流衣はおにぎりが入った小さいバックを持って教室を出ようと立ち上がり、何気に横を向いて見たけど、当たり前の様に隣の席の主はいなかった。鞄もない。

「すっかり忘れてた……」

 流衣は校舎の裏手にある、物置小屋の周りに生い茂る木々の木陰にいた。9月とはいえまだ気温は30度近くある。さっき、ちょっと寝ぼけてたので、友達の所って? と言いそうになり少し慌てた。以前、『どうして教室で食べないの?』と聞かれて、『普通科にいる友達と食べるから』と嘘をついていたのだった。

「……友達なんていないのに」

(なんで見栄張っちゃったんだろ、皆んなの前でおにぎり食べるの恥ずかしかっただけなのに……。

みんなは色とりどりの綺麗なお弁当持って来てる。けど、私のはおにぎり……しかも塩むすびだし、せめて海苔を巻ければ……あっ、ごま塩ならまだいいかな? ……や、なんか論点がズレてる気がする。おにぎりと魚肉ソーセージって雑だよね。どうせ嘘つくなら学食で食べると言えばよかった……)

と今更だが後悔していた。

 同じ中学校からの進学者は自分を含めて5人居るはず、だけど顔も名前も知らない。

高校に入ってから毎日バイトに明け暮れている為、疲れて学校で寝てしまい、クラスの子と話す機会が無かった、それじゃ友達もできる筈も無い。唯一のチャンスのお昼休みもこの状態。

(お母さんに『朝は忙しいんだから、お弁当持っていきたいなら自分で作りなさい』って言われて、おにぎりなら何とか作れるけど、お弁当は……作るなら後30分は早く起きないと……いや、絶対無理)  

 

 母親は介護施設で働いてる為、日勤と準夜勤と夜勤の繰り返し、朝は居ないか寝てるかどちらかだった。父親は工事現場の交通誘導してて、こちらも夜勤と日勤がある。そしてこの生活は最近からのものだ。以前は家族だけでやってる農家、小さい畑が幾つかある程度の規模のもので、米は自分達が食べる分の収穫が取れる位の田んぼで作っていた。農家とはいっても、母親は長年介護施設でパートとして働き、父親が朝から晩まで畑に出ている、ちょっと変わった家庭だった。

 流衣は小さい頃からひとりでいることが多かった。小学校に上がると、朝は目覚ましで起きる。母親は仕事でいないか寝てるか、父親は畑に出てる。寝ぼけながら着替えて、台所に向かい、『おみ汁ご飯』を作って食べる。少し冷めた味噌汁に温かい御飯を入れるだけの『味噌汁ご飯』『猫まんま』とも言われる。お味噌汁、が言いにくくて『おみ汁ご飯』と呼んでるだけ。その“おみ汁”は朝に父親が畑から野菜をもいだ物を具にする、これと言って特別ななにかがあるわけでは無いが、朝一もぎたて、の至極の甘みの有る野菜、一番贅沢な食べ方で流衣は育った。

 ひとりっ子の流衣は聞き分けが良く、ひとり遊びが上手で、両親が忙しくてかまってくれなくても、テレビを見たり、絵本を見たりと、とても静かで手のかからない子供だった。

 流衣が一変したのは幼稚園に上がった頃、幼稚園終了後のクラブ活動。ピアノや英会話、チアリーディング等の習い事がありその中の〈新体操〉に興味が湧いた。新体操のリボンをクルクル回したくて、やってみたくてうずうずして仕方なかった。その事を母親の様子を見て「やってみたい……」と恐る恐る言ってみたら、それが意外にもオーケーが出て飛び上がって喜んだ。

 流衣が母親に気を遣っていたのは、何かしら欲しい物をねだる様な我儘を言ってはいけないと肌で感じていたからだ。普段の親の口ぶりから高いものは買えない、家は貧乏で忙しい等々聞かされていれば、どんなに小さくたってわかる。

 オーケーが出たのは始まる時間が少し遅かったので、その分長く園にお預かりして貰えるという、ちょっとした働いてる母親の事情だったのだか、そこは流衣には分からなかった。そうした色々な理由で週に一度、心躍る時間が出来た。それから2年間、体操クラブのある金曜日は、朝から目が冴え飛び起きてしまう程、幼稚園に行くのが楽しくて仕方なかった。新体操の授業は基礎、柔軟メインで行われるが、小さい子供達には、飽きないように広く浅く行われた。その中で、流衣は他の子より際立ち始めた。半年もしないうちに、コーチから本格的にやらないかとお誘いがあり、母親に相談された、しかし母は古いタイプの人間で、所詮お遊戯でしょ、と一笑に付して断ってしまった。でも、流衣にしてみれば、お遊戯でも本式でも楽しいので構わなかったのだ。

 しかしそれは卒園と同時に終わりを迎えた。才能を見出したコーチは小学校に上がると同時に、是非中央の本部で活動するよう母親に伝えた、流衣も先生と一緒に

「お母さん、もっとやってみたい……」

と訴えたのだが答えは辛辣だった。

「無理に決まってるでしょ」

この時、流衣はまだわからなかった。母親は、人前では本気で怒らないという事。どうしても続けたい流衣は家に帰ってからもう一度言ってみた……それは生まれて初めての我儘だった……すると。

「何をバカな事言ってるの……」

この時の母の顔は、一生忘れないモノになった。まるで別人に見えた。

「新体操がなに? 何なの⁈ 将来役に立たない物にお金掛けて何になるの! 送り迎えだって私がやらなきゃならないのよ、仕事をしながらできる訳ないでしょ!」

 母が鬼の様な剣幕で捲し立てると、流衣はその様相に胸が潰れそうなほど、怖かった。

「……でも」 

 続けたかったので、食い下がってしまった……。それが母親の癇に触った。

——バン!——

 思いっきり壁を叩いた音で、流衣は飛び上がった。

「ダメだって言ってるでしょう! 聞き分け出来ないの? 馬鹿な子ね!」

「う〜……」

 流衣はたまらず泣き出した。

—— ドンッ!!

 今度は足で床を踏み鳴らした。

「泣くんじゃないわよ、鬱陶しい!」

 流衣は身体をビクッと振るわせ、声を押さえた。けど、涙がぼろぼろと溢れてきた。

声を殺して泣く娘を横目でみながら、母親は台所に消えていった。

 この母は子供を可愛がるタイプの人間では無かったが、この時はおそらく、とてもイライラしていたのだ、

しかし6歳になったばかりの子供にそれが読み取れる訳もなく、この時、流衣が分かったのは

お母さんを怒らせてはいけない、と言う事だった。

流衣はとても怖かった。

そして悲しかった。


もう新体操しちゃダメなんだ

リボンも回しちゃダメなんだ

ボールも触っちゃダメなんだ

言ったらお母さんに怒られる……。


 流衣は何も言わない代わりに、数日泣き続けた、母に怒られない様に、声を殺して。


「ちょっと奥さん! 流衣ちゃん一体どうしたの⁈ 目が腫れてパンパンじゃあないの」

 回覧板を持ってきた、お隣の鈴木さんが驚いて母親を問い詰めた。

「ああ、何でもないんです。我儘言うからちょっと叱ってしまって……」

母親は八つ当たりしてしまったのが、分かってたけど、新体操を続けられると困るので、黙っていた。

「我儘? 流衣ちゃんが⁈ またぁ」

鈴木さんは手を振ってナイナイって仕草をする。

「何があったの?」

流衣がごねたり我儘言って騒いだりしない子なのは良く知ってる鈴木は問いただした。

「……新体操を続けたいと言うんだけど、色々と、経済的にも難しくて。それで少し強くダメだといったら、あの子3日も泣きっぱなしで……」

それならそれで、やめて欲しいと、静かに話して聞かせればいいものを、子供相手に感情的になり、それをそのままをぶつける大人気ない母親だった。

「あら〜、新体操って、そんなにお金掛かるの⁈ 」

新体操に限らず、スポーツ少年団はお金も手も色々と掛かるものだ。

「月謝も……週に3回練習の送迎しなきゃならないし、週一で県外に遠征があるらしくて……。

私、県外まで送迎出来ませんから」

介護の現場に土日休みは無い。

「送迎ねー、毎回ひと様に頼むわけいかないものねぇ」

 お隣りの鈴木さんは、子供達が自立し遠くで家庭を持つ様になって随分経つ。孫が長期休みに遊びに来る度に、娘がつく愚痴と重なって溜め息をついた。

「陰で何を言われるのか、わかったもんじゃないでしょう?」

「そうねえ……」

同意はしたものの、流衣が畑の手伝いや、親の邪魔にならない様に、静かに本を読んでる姿を回想し、今の顔が腫れるまで泣いた様子が不憫でならなかった。長い付き合いなので、この母が愛情が薄いのも、常に忙しくてイラ付いてるのも理解していた。外面がいいのも。

「でも、あんなに楽しそうにやってたのに、このままじゃあ可哀想じゃないの、なにかやらせてあげたら気が収まるんじゃないの?」

「ええ、でも……」

「そうだ、小学校の近くの市民センターでバレエ教室やってるじゃない、あれなんてどお?」

「バレエ?」

「個人でやってる先生が、出張して教えにきてるみたいだし、バレエなら遠征なんて無いし、近いから送迎もしなくて済むじゃない」

「え、でも、バレエは発表会とかあるし……」

やはり乗り気では無い。

「小さい所なら、2・3年に一回くらいでしょ? 規模も小さいだろうし、そのくらいならいいじゃない、やったげなさいよ!」

鈴木は結構明け透けに物を言う。

「まあ……」

勢いに押されて、曖昧な態度を取った。その隙に乗じて。

「良かった、良いのね。流衣ちゃん、流衣ちゃーん」

玄関先から、家の中居る流衣を大声で呼んだ。台所で水を飲んでた流衣は、急に名前を呼ばれたので、不思議に思いつつも素直に出てきた。泣いてはいないものの、まだ瞼が腫れている状態の流衣を見て、鈴木は優しく声を掛けた。

「流衣ちゃん、バレエやってみない?」

「バレエ?」

流衣はキョトンとした。

「そうよ、市民センターで土曜日にやってるの、今度見学に行ってみない?」

 鈴木のおばちゃんの言葉を聞いて、外国のバレエ団の公演宣伝のテレビCMを思い出していた。


あのキレイな? 

あれ踊るの?

瞳が一瞬煌めいた。

でも……。

 流衣はチラッと、母親の顔を見た。

すると母親は慌てたように。

「ちょっと待って鈴木さん、急に言われても、私、土曜日休みじゃ無いし」

母は困って否定した。そんな母親を見て、やっぱりダメなんだ……と思う流衣。

「あらやだ、じゃあ私が一緒に行くわよそれならいいでしょ? 今年の春休みは孫たち来ないから暇でしょうがなくってさ〜」

とカラカラ笑いながら、喋ると、その開けっ広げな明るさに押され降参する様に、引き攣った笑いを覗かせた。

「え、まあ、それなら……でもご迷惑じゃあ?」

「全然! ほらぁ、あたし最近太ってきたでしょ? たまには運動しなくちゃと思うけど、中々理由がなくってねー。ねー流衣ちゃん、おばちゃんのお散歩付き合ってくれるでしょ?」

 そこまで言われて返す言葉が無くなってしまった母親は、二人から視線をそらした。それを見た鈴木はすぐに流衣に目配せした。

「うん」

流衣もそれを察して返事をした。

 この出来事は、ギリギリの所で流衣の心を救った。もしこの事が無ければ、大人になってから、事あるごとに母親を恨んでしまったかもしれない。


「おばちゃん、元気かなぁ……」

木陰でおにぎりをモグモグ食べながら、ふとそんな事を思った。

 隣のおばちゃんと、市民センターに見学に行ったあの日から、ずっとバレエを続けてる。もう十年近い。流衣の家もお隣の家も、震災の津波浸水域にあり、跡形も無くなった。避難所でお互い無事なのは確認したが、仮設には入らず、離れた場所の借り上げアパートにいる。

 3月11日は中学校の卒業式だった。両親が一緒に式に参列してくれて、流衣は嬉しくて凄くハイテンションだった。その日、母は珍しく怒らないし、微笑んでさえいるし、父は相変わらず静かで、まったりして、流衣は受験も卒業も済んで、開放感から幸せな気分に浸っていた。卒業式が終わり家に着くと、珍しくゆったりと三人でお茶を飲んだ。二時過ぎに一本の電話が入り、農業機械の修理が済んだとの知らせで、両親はそれを受け取りに行った。流衣はさらにのんびりと、今日の夜久しぶりにレッスンに顔を出そうかな、なんて考えていた。

——その時。

 今までに遭遇した事がないほどの地震。

二日前に来た〈震度5〉とは桁外れの、身動きの取れないくらいの凄い揺れ、しかも長い。咄嗟に地震情報を見ようとテレビを付けた、画面が映った瞬間、プツン、と横に線が入り真っ暗になった。

停電……? 

 流衣には初めての経験で普通じゃない出来事に、ゾクッと凄く怖くなった。家はとても古く揺れと共にギシギシと大きな音が響いて今にも崩れてしまうのでは無いかと思っても、外に出るどころか身動きすら出来ずに、テーブルの脚に捕まりただひたすら耐えた。

だいぶ揺れが収まり、動ける様になると家の中を見回して、あまりのしっちゃかめっちゃかぶりに愕然とする。

(いやー、何これっ。折角今日は、お母さんの機嫌が良かったのに、これ見たら、発狂しそうっ)

そう思ったのだが、まだこの時は余裕があった。

 流衣は、母の怒りを少しでも抑えるべく、片付け始めた。しかし地震は片付けてる間もひっきりなしに揺れていて、いつもの地震とは違う感覚になんだか落ち着かない……。昔の作りの古い家は、台所と居間に分かれている。取り敢えず大急ぎで居間に歩けるスペースを確保した。

(あ、ひょっとして、連絡来てるかな……?)

流衣はおもむろに、携帯を取りに2階の自分の部屋へ向かった。鞄から携帯を取り出してみたけど、着信もメールも何も入って無かった。この携帯を持つ時も、母に反対された。けれど、今や学校の連絡もメールで来る時代。部活やら、レッスンやら、携帯が無いと逆に回りから敬遠され迷惑をかける。母も、それでしぶしぶオーケーした。

 カラーボックスから雪崩れ落ちた本やビデオが散乱する部屋の中、これ元に戻すの何日かかるかなぁ、なんてぼんやり考えていた。だがそれは杞憂に終わった。流衣はその後直ぐ、家ごと津波に呑まれたのだ、勿論、家は全壊。屋根までよじ登り、夜遅く自衛隊のヘリに救助される迄、独りぼっちで耐えることになるのだが、そんな運命が待ち受けてるなど想像だに出来なかった。

 津波に浸かり全身ずぶ濡れで、吹きっさらしの屋根で寒風に晒されたため、低体温症になり、救助された後直ぐに病院に搬送されたが、病気や怪我人で人が溢れ、停電で暖房も機能してないため、ストレッチャーで廊下に横になり、自衛隊のサバイバルシートに包まり、看護師に体を摩って貰い、事なきを得た。

 流衣が両親と連絡がついたのは停電が解消された4日後。海水に浸かったせいか携帯の電源が入らず、生存者リストで名前を見つけて無事を確認し、その居場所が分かるまで時間が掛かった。しかし安心したのも束の間、避難所生活を送らなくてはならなくなった。

 知らない人達との共同の避難生活がひと月も続くと精神的に苦痛になってくる。流衣の両親は、人と積極的にコミニケーションを取るタイプではなく、騒がしいのが苦手で、プライベートが無い空間で疲弊してしまい、仮設住宅が出来上がるのを待つ事なく、アパートを探してそこを出ることにした。

 流衣の父親は六十五歳と少し高齢。人付き合いが苦手であるゆえに、ひとりで農業を細々とやっていた。食べていければ充分だったのだか、その生活を全て震災に奪われた。本当に災難としか言いようがない。年齢的に借金して再スタートを切るのは難しく、農業は諦めるしかなかった。年金は貰えるが、家族三人でくらすには程遠く、食べて暮らしていける事だけに専念する為に、シルバー人材センターで進められた工事現場のバイトをして、生活を確保したのだが、被災者としての書類の整理や手続き等で暫くバタバタ忙しい日々が続き、やっと落ち着いてきたのが夏の頃。

 今の生活に慣れてきた最近……9月。


「あいつ感情の調節弁が、鍵かけたまんまぶっ壊れてるからさ」

その発言が、どうも頭から離れない。

(どうして? っていきなり聞く訳にもいかないし、それより、藤本くん気が付いたら居なくなってて、聞く暇なんか無いんだけど……)

おにぎり食べてゆったりと考えてたら、予鈴が鳴った。

(今日の五・六時間目なんだっけ、あ、家庭科か。確か調理実習だ。寝る暇ないなぁ、残念……)

うな垂れながら教室に戻った。

「午後も元気にバイトにゴー!」

 放課後、流衣は自分に檄を飛ばした。今日のバイトもドラッグストアの品出し、ドラックストアもそうだけど、夏が始まる辺りから徐々に品物が戻りはじめて、バイトに雇って貰えて助かった。

「バレエを続けたいなら、月謝は自分でなんとかしなさいね、もう高校生なんだから働けるでしょ」

そう母親から言われた。中学校に上がる時も辞めるように言われたが、その時は家の手伝いをする約束をして回避できた。母親からしたら、ここまで夢中になってるのが理解出来ないらしい。

よく「変な子」とか「おかしな子」と言われる。「気持ち悪い」……とも。

 悪く言われるのは慣れてる。小さい頃は何か言われると泣きそうになりその度に隠れていたが、今はだいぶ慣れた。母が愚痴を言ってるうちは大丈夫。機嫌が悪くなってきたら、家の手伝いに逃げる。そんな処世術を身に付けていたのだった。

 流衣はバイト先に向かい、自転車を走らせていた。順調に走っていると昨日、お隣さんの藤本一臣がいた店の前を通り掛かる。その時、中から人が出て来た。

「あ」

目があってしまった。

「お? 72ページ」

ハクも反応した。

「こんにちは」

流衣は自転車を止めて挨拶した。覚えて貰えてたのでちょっと嬉しかった。

「よお、今日あいつ来てないぜ」

残念だったなっ て言わんばかりのハク。

「藤本くん……よく来るんですか?」

ハクの言い方が気になったので、探してるわけじゃ無いけど、何気に聞いた。

「まあな、まー毎日では無いかな」

「そうなんだ、でも今日は別に何も……藤本くんのお友達のお兄さん、お掃除?」

手に箒を持っていたので、そのまま感想を言った。店先を履こうと思ったのだろう。

「別に何も? ……ってことは、オレに興味湧いた?」

ハクが愉快そうにニヤニヤ笑いながら、自分を指差しながら言うものだから。

「えーっ……そうかも、思わず止まっちゃたから」

流衣もクスクスわらいながら乗って返した。

「お、久々のヒット。一臣より興味持たれるなんて思わなかった、結構いけてんのかオレ?」

「だって目立つんだもん。背が高くて、すっごく綺麗なウェーブの長髪」

「なんだそこか」

天パーの髪を掻き上げながら、ちょっとガッカリするハク。

「え、ダメ?」

私なんか変な事言ったかな……と、流衣は不安になった。

「何、昼間っからナンパしてんだよ。仕事しろよ、仕事」

その時、店の裏手から突然現れたセキに、突っ込まれた。

「オレじゃなくて、一臣の知り合いだわ」

とすかさず返すハク。

へえ、意外。

そんな顔する男性は、キャスケット帽に色つき眼鏡の容貌、ガラが悪く誰が見てもちょっと引く。

だが、そんな事全く眼中にない流衣は、隣席男子の知り合いなのかと思った。

しかもまたしても背が高い。

類友?

「……藤本くんのお友達?」

流衣が思わずボソっと言った。

「友達だってよ、良かったなあ、セキ。ダチに見られて」

ハクが、笑いを堪えながら言った。

「ダチじゃなきゃなんに見えるってんだよ。保護者かよ?」

セキは眼鏡の奥からぎろりと睨みハクを見て言った。老けて見える自覚があるらしい。

「四十に見える十代もすげぇけどな。それ以前にガラ悪過ぎんだろ、チンピラにしか見えねーわ」

セキは露骨にムッとして。

「70年代ヒッピーが、80年代に節操なくロッカーに変わったみてぇなおめえに、言われる筋合いねぇな」

鋭いところを突いた。

「——ぷっ」

2人の会話を聞いてた流衣がたまらず笑い出した。

 女子高生にさも楽しそうに笑われたので、ヒッピーとチンピラのおかしな言い争いは終わった。

クスクスと笑ってるうちに、流衣がバイトの時間に気が付いて

「あ、私もう行かなくちゃ。じゃあ」

そう言って2人に別れを言って、自転車を立て直し乗ろうとしたら、笑い過ぎて力が入んなくてよろけてしまった。

「オイ。大丈夫か?」

転ぶ寸前で、堪えた流衣にハクが話しかける。

けど流衣は何も無い所でこけそうになったのが恥ずかしくって……

「ありがとう。けどあの……出来れば、何も無かった程でお願いします……」

真っ赤になって弁解して、ソソクサと行ってしまった。その姿をぼけっと見送りながら。

「……放置プレイ希望ね」 

独り言みたいに呟くハク。

「何だいまのやたらと細っこくてちっこい女、一臣の女か?」

あいつに女居たのかとセキが不思議そうに聞く。

「いや? ただの同級生らしい」

なんか突っ込み所満載だな、一見普通の(ちっこくて子供みたいだけど)女子なのに、セキみてえなガラの悪いのに警戒心無くに喋るなんて希少価値な奴、と、自分のことは棚上げして感心するハク。

「……今、おまえ……心の中で俺の事ディスってねえか?」

やたら感が働くセキ。

「……その能力、オレなんかに無駄に使わねーで、未解決事件か、敵の殲滅に使えよ」

突っ込みがマニアックなハクであった。


「おはよう。ルイちゃん」

「おはよう、陽菜ひなちゃん。今日は制服じゃないんだね」

「うん、今日ね、中学合唱コンクールだったの。だから午前中で終わったから、一度家に帰ったんだ」

 流衣と、にこやかに話す陽菜は、今から行われる中級クラスと上級クラスを掛け持ちしてる唯一の中学生で、最近太って来たのが悩みのタネ。この中級クラスは全部で8名。

午後(夕方)のクラスは五時半から七時、七時から九時と分かれている。

五時半からのクラスは小学生(Jr.コース)向けで火曜と金曜のみ。それ以外の曜日は七時からのみ、クラスは大人のクラス二回と中級、上級各一回づつ、フリーが一回。その全てのクラスにフリーパスの流衣。ここは市民センターに教えに来ていた先生のスタジオである。貸スタジオのためレッスン室、更衣室、事務室。しかないこじんまりしたバレエ教室だった。流衣が小さい頃からお世話になってる日野先生と、最近来た香緒里先生の2人が教えてる。日野先生は少数精鋭派で「これ以上多いと基礎も楽しさも教えられない」と言う。自身は、ロシアに留学してそのあとバレエ団に入ったものの、ソリストにはなれないと見越して、辞めて大学に入って指導者の勉強し直した、とても真摯な先生で情に熱い。この先生に師事された流衣は幸運だったと言える。今日はJr・コースがない日なので、早めに来てストレッチをする為、着替えるふたり。

「あ、流衣ちゃん」

流衣の声を聞きつけた先生が、扉一枚隔てた事務所から、更衣室の中に顔を覗かせた。

「先生、おはようございます」

流衣と陽菜が完璧なユニゾンで挨拶した。あまりの完璧っぷりに、ふたりは顔を見合わせて、ププっと笑った。

「流衣ちゃん。ビデオちゃんと届いたから安心してね。後は結果待ちよ」

流衣は、ドキッとした。

「わあ、流衣ちゃん、通るといいね、ローザンヌ!」

陽菜が、無邪気に喜んでる。

「うん」

流衣はそれ以上言葉が出なかった。ただビデオを送っただけなのに、心臓がおかしなくらいドキドキしてる。国内のコンクールでさえ出た事ないのに、ローザンヌ国際バレエコンクールなんて……。

自分がビデオなんか送っていいの?と思ってる。「ダメで元々」とはいうけど、本選出場なんて絶対無理だし、駄目なのが分かってるのにビデオ送るの無駄なだけだよね。でも、出した以上、1%……0・1%の望みはある、ゼロじゃない。でも本戦出場は絶対にあり得ない。分かってるのに……落ち着かない。そんな複雑な感情が流衣の心のなかを渦巻いていた。

 ローザンヌ国際バレエコンクールを薦めたのは先生だ。日野先生は早くから流衣の才能を見抜いていて、何とか流衣に海外で勉強させたかった。だけど流衣の両親がバレエに理解がなく、協力的でないことも良く分かっていたので、高校生になった流衣に奨学金の出るコンクールに、出場することを薦めたのだ。バレエを続けたかった流衣も賛同した。しかしそれのネックになったのが震災だった。食料を調達する為に毎日のように、スーパーの前に何時間も並ぶ生活をしているのにコンクールどころでは無かった。ようやく落ち着きを見せた初夏、国内のコンクールの締め切りがあらかた過ぎているのをパソコンの画面で唸りながら眺めていると、ローザンヌのビデオ審査が目に止まった。ビデオの到着締切は9月の末。これなら間に合う!

「……ローザンヌ? 私が⁈」

一番面食らったのは流衣だった。NHKの放送で毎年観てる憧れの舞台。流衣が思い描いていたのは地元のコンクールか、関東で行われるコンクールへの挑戦で、いきなりスイス……では次元が違う。しかし先生がダメ元でやってみましょう。と強く推してくるので、やるだけやってみようと決心はしたものの、やはり不安は拭えない。

 それから暫く、流衣はバレエ漬けの毎日を送ることになった。特に夏休み中は、バイト以外の時間は、ほぼレッスン室に居た。やった事のないコンテンポラリーから、徹底的な基礎。クタクタになる迄毎日踊り続ける充実感……ずっとこうならいいのに、と本気で流衣は思った。去年までの夏休みは畑仕事や家事のお手伝いで、バレエ漬けとはいかなかった、それが条件で、バレエを続けられたのだからしょうがないのだけど、野菜を作るのは寡黙な父と過ごす唯一の時間でまったりと過ごせる空間がとても居心地が良かったし、自分の育てた野菜を収穫して食べるのは嬉しかった。畑仕事が決して嫌いでは無かった流衣にとって、それらの生活は全て津波で跡形もなく消えてしまった事は、かなりしんどい出来事だった。バレエ漬けの毎日は単純に嬉しい。けど、以前の生活がもう二度と戻らないことは、言葉では言い表せられないほど、悲しくて、悔しくて、……切なかった。

 流衣の複雑な心情を先生は理解していた。ローザンヌを薦めたのは集中する事で、考える時間を減らし、悲しみの足跡を消す事だった。

 ローザンヌ国際バレエコンクールのビデオ審査は、三百ほど送られてくるビデオの中から、八十名前後を選ぶ、狭き門、チャレンジするのは、国際コンクールで上位入賞するような、周りから〈天才〉と呼ばれるような人ばかり。その場所に、国際コンクールどころか地方主催のコンクールにも満足に出た事が無く、田舎の小さなバレエ教室から、応募するなんて無謀と言えば無謀。先生は万にひとつの可能性は無くても、挑戦することに意味があると思っている。初めてのコンクールはとても重要でそれによって人生を左右される事もある。小さなコンクールに出て結果が散々だった場合に、それが原因でコンクールがトラウマになってしまうことがあるからだ。それは困る。現にそれでプロになるのを諦めた子も大勢みてきた。けれど名だたるローザンヌなら、ビデオ審査が通らないのが当たり前で、落ち込む事はあっても、早く立ち直れるはず、それよりも、目標を決めて短期間でも全力集中するという事のほうが有意義である。と先生は考えたのだ。


「結果出るの十月末だよね」

「わあ、ドキドキだね」

 着替えてレッスン室に向かうと、ひとつ年上の美沙希がいて、陽菜と話し始めた。流衣の気持ちを知ってか知らずか、ローザンヌの話題で盛り上がった。美沙希は上級者だが、先日休んだ分の代替えとして、今からのレッスンに参加するのだ。

「審査員の先生達、みて、笑っちゃってるかもね……?」

流衣がてへぺろな顔して自虐的な事を言うので、美沙希と陽菜は顔を見合わせて頷くと、ふたりが話し始めた。

「もー流衣ちゃん、らしくないよ!」

「あとは待つだけなんだから、考えるのやめよう」

いつも明るく元気な流衣がしおらしくなってるのを見て、心配したふたり。

「あら、今日は三人?」

先生が現れて、今の人数を把握した。レッスンは七時からだからまだ揃わない、ただ、ストレッチして準備しておきたい子だけが早く来てる。

「ウチのエースが三人だから、今日は、コレにするわね」

先生が妙な企み顔でのおためごかしをして、持って来たDVDをセットした。

「えー、私もふたりに混ざれるんですか?」

と、高校生と同列に扱われた陽菜がキャピキャピと浮かれてる。

「陽菜ぁ、〈F2〉クラスなのに何言ってるの?」

〈F2〉は、上級の更に上のクラス。〈F2〉に特に意味はない時間割りにアルファベッドを順に付けているだけ。そこに居るのに何今更、浮かれてんの? と美沙希に諌められる。

 毎週この時間は、レッスンが始まるまでの時間が空いてる為、ストレッチしながら、DVDを流すのがお決まりになっていた。その日のレッスンで復習する時もある。

「えっ、タランテラ⁈」

流れて来た映像を観て、美沙希が声を上げた。

「タランテラって、前に美沙希ちゃんが言ってた、超過酷な⁈」

陽菜が応えるように言った。陽菜の言った通り、『タランテラ』世界一過酷と言われてる踊り。タンバリンを持った男女が踊り比べをするのだが、激しい踊りを約八分、飛んで跳ねて回って回って、飛んで飛んで飛んで……回って回って回って……、と昭和歌謡の代表曲の様だ。

美沙希は他の教室にも通っていて、そちらは大きな教室なので、色んな踊りを教わっていたためその過酷さはよく分かっていた。

「わあ、女の子の出だし面白い、可愛い」

陽菜が喜んでると

「……まあ、出だしはいいんだけど……」

これからじわじわと来るのを待つ美沙希。

 そんなやり取りをしてる2人の会話を流衣は全く聞いていなかった。初めて見る踊りに瞳が画面に釘付け。開脚をしながら微動だにせず、小さい子が初めて観るウエディングケーキを見るような食い入る目で『タランテラ』を観ていた。

「うわ……」

中盤に入った段階で、陽菜が感嘆の声を出した。 激しさなら『キトリ』の方が上だけど、アップテンポで息つく間もない『タランテラ』は男女が交互に踊るバリエーションではあるものの休む所が無い。

「八分縄跳びしてるみたい……」

陽菜がボソっと言った。

 DVDが終了するとエンドレスで再生する仕組みになってる。そのレコーダーが二巡目を再生し始める。それに合わせて流衣が立ち上がり、踊り始めた。

男女ふたり仲良く組んで入ってくる所から始まる。

(……面白い振り付け。チュールダッシュみたい)

——チュールダッシュ=アイリッシュダンス——

 流衣は画面と一緒に踊りなから、見えなくて不明だった振り付けの確認をする。ここもトウで打ってる、回ってから……タッチ四回……三回ね。アラベスクで進んで……中央でアントルッシャス、手を付けて……。

「……流衣ちゃん、左右完璧……」

画面正面から観てると普通、逆に取りがちなのに。と感心する美沙希。

えっと、フェッテターンで捌ける。で下手から男子、ここからタンバリン男子ソロのバリエーション。流衣は男子のパートも続けて踊った。

「えっ、男子のバリエーションも?」

陽菜は驚くが、美沙希も流衣も当たり前の表情。

その後に続けて、女子のパート・男子のパート・女子のパートと来た。

(うわっ、しんどい。持つ? 脚っ、頑張れ私の脚! いやー、もう! 体力がっ、筋肉がっ、貧弱!)

声に出す体力が無く、心の声で躍起になって、最後のコーダまでなんとか踊り切った。

しかし流石に体力を使い果たし、倒れ込むように座り込んだ。

「……嘘だあ、振り付け一度で覚えちゃったの⁈」

陽菜が信じられないって顔してる。八分……長い。

「流衣ちゃんいつも一度で覚えるけど、これは凄いね、私……三回掛かったのに」

美沙希は勿論女子パートだけである。

「……全部覚えてる訳じゃないよ。パ・ドゥ・ドゥの男子パート、あやふやだし」

(……そこは女子パートに集中しちゃった。……仕方ないけど、何か悔しい)

「いや……そんな微妙な所、気にしなくてもいいよ」

「普通、長くて3分くらいの〈パ〉を倍以上覚えて……そこぉ?」

『子供の小遣い程度の申告漏れで、マルサにビビりまくる中小企業の社長』みたいな事を言う流衣に呆れる美沙希と陽菜。

「あらら、タランテラをもうやっつけちゃったの?」

先生が現れて言った。

「先生〜、流衣ちゃん一度で振り覚えちゃった」

何故か先生に言い付ける陽菜。

「陽菜ちゃん、まだ、男子パートおぼえてないよ」

流衣がいい訳のように陽菜に語りかける。

「そうなの? 流衣ちゃんが一度で覚えきらないなんて珍しいわね、でもまあ『タランテラ』だからね」

 キャラクターダンスは、普段やってるクラシックとは毛色が違う為、スンナリとは頭にも身体にも入りきらない筈。でもそれを男子のパートが覚え切れない、それも女子のパートと被ってるとこだけ! なんて、笑ってしまう。流衣は小さい頃から覚えるのが早く、大抵一度で覚えた。先生は同じ事を二度教えた記憶が無い。生来、素直な性格の子だったため欠点を直すのも早かった。

 そんな流衣は今、非常に落ち込んでいる……。

(……バレエシューズで、ただ振り付けなぞっただけなのに……。ポアントじゃ無いのに動けなくなるなんて、体力なさすぎて笑えない、ダメだ、これじゃ……)

大きい溜息をつく流衣を見て。

(流衣ちゃん、また別次元で悩んでるわね……)

と憶測する先生。

「さて、来週まで、2週間『タランテラ』やるから覚えてね。じゃあ、ストレッチ続けて頂戴」

「はーい」

みんな仲良く返事した。

「早いなぁ」

「日野先生、振り付け練習短いよね」

陽菜の言葉に美沙希も同意した。

「Sスタジオは長いの?」

Sスタジオは美沙希が掛け持ちしてるバレエ教室でSバレエスタジオといって、街中の大きいバレエ教室。習い事からプロフェッショナル志望の子まで幅広く師事してもらえる所である。

「うん。一曲は終わらせるかな」

「日野先生、あまり最後まで行かないよね……」

「そうだね、浅く広くって感じかな?」

そう、先生は、綺麗な振りとか難しい振りの部分をサラッとこなして終了。一曲綺麗に仕上げるまではなかなかしません。何故なら、発表会等の時に自分のやりたいものを完璧に仕上げる為、普段はなるべく色々な踊りを皆に知って欲しいから。

 ロシアで修行したのに師事スタイルは何故かイギリス式。飽きないで続けられる形なので、大人バレエやジュニアの子達はいいけど、出来る子は物足りないので美沙希の様に掛け持ちしたりします。

「美沙希ちゃんは、今年のおさらい会で何踊るの?」

毎年年末にミニ発表会をしています。

「今年は合同発表会だよ」

 こちらは3年に一度、小さいバレエ教室がより集まり合同で大ホールを借りて行う、結構大々的なイベントだった。

「あっそうだった! あれ? 先生言ったっけ⁈」

顎に指を当てて、きいてないよ〜な顔をする陽菜。

「先週ね。陽菜が、休んだ時に言ったよ先生。何を踊るか考えときなさい。って」

「あーそうだ、テストだったんだ。んー。ねぇ流衣ちゃんはどうするの……とダメか……」

自分よりまず人の事を確認する陽菜。しかし流衣は『タランテラ』の男子パートに集中。

「それに今年は、Sバレエも一緒だから、ちょっと大変かも」

美沙希が少しむずかい顔をした。

「えっ凄ーい!」

驚いた陽菜が大きい声を出したので、流石に流衣も振り向いた。

「流衣ちゃん! 合同発表会、Sバレエスタジオと一緒なんだって!」

「うん、みたいだね」

男子パートが頭に入って、迷いが無くなったかの様な表情の流衣。

「知ってたの⁈ 嘘ぉ、誰も何も言ってないよ? そんなの絶対噂になるよ! え……もしかして私仲間外れされた……?」

仲間はずれにされたと思い、ショックを受けてる陽菜を、美沙希と流衣は顔を見合わせて笑い出した。

「違う違う陽菜ちゃん、この前みんなが帰った後、美沙希ちゃんに教えてもらったんだ」

「先生から発表されるまで、皆んなに言わないでおいてね、ちょっと複雑なんだ」

美沙希がちょっと困った感じで話す。

「複雑って?」

大きいバレエスタジオの事情には疎い陽菜。まだ中学生なのだから仕方ない。そんな陽菜に流衣は説明する。

「Sバレエさんは毎年、全幕ものをやってるから、構成の事で……先生達ちょっと大変みたいなんだ」

「全幕……! わあ、良いな〜憧れる。ねぇ何やるの? 美沙希ちゃん」

「んー。多分、『眠りの森の美女』だと思う」


「……『眠り』オーロラですか」

日野先生の隣りで首を傾げる、もう一人の香緒里先生。まだ若い香緒里は、夏休みの少し前、前に居た先生の代わりに入ってきた。以前居た先生は震災で家が全壊被害に遭ったため、県外に移住してしまった。

「全幕ものはいいんだけど、……問題は時間帯なのよね」

先生さっきから頭を抱えて悩んでいる。勿論、生徒達にはそんな姿は見せません。バレてますけど。

「全幕ものだと、最後……やっぱりトリですか?」

「そうなるわね、でも、そうなると他の教室との兼ね合いが……、合同発表会なのに、あちらさんは自分とこの生徒さんだけでやるって言ってるから、『エコール』の江刺さんなんかモロに怒ってるし」

本来の3年に一度の発表会は、『エコールバレエ』『立花バレエスクール』「ヒノ・アカデミー』の3教室での合同でおこなわれていた。

「会場の〈イズミティ〉の大ホールって客席1500で結構な広さですよね」

そこが一番問題。広い分使用料も高い為ある程度客席を埋めないと大赤字になってしまい、生徒達の負担金額が増えてしまう。

「他のホールが取れれば良かったんだけど。空いて無かったのよね」

「どうして予約取れなかったんですか?」

予約取り忘れかな?と考えたが口には出さなかった。

「予約はしてたんだけど、震災慰問でヨーロッパからオーケストラの楽団が来るから開けてほしいと言われたの」

「あー……」

「断れないでしょ?」

「ですね」

好意の演奏会……それが優先されるのは仕方ない。

「予約は三ヶ月前からの受付だから、9月にすぐ予約したのに、5日後にその連絡入ってね、すぐに他のホール探したけど、もう全滅だったのよ」

年末はバレエだけではなく、色々な団体のイベントは多数ある。瀬取りは超難関で、それに負けた様な気がして悔しいやら悲しいやらの日野。

「でも『Sスタジオ』さんはよくホール取れましたね。その時期に」

香緒里の言葉に、日野先生は意味ありげにチラリと見ると。

「『S』さんにはね、〈冴木ビル〉のオーナーの孫娘が居るの」

香緒里びっくりして

「ヒェッ、あのそこら中に在るビルの⁈ うっわっ超金持ち!」

品の無い物言いをしてしまう。言ってから落ち着いて少し考えた。

「……ひょっとして、その娘が『オーロラ』を?」

「多分ね」

いや絶対。

「バレコン入賞者の美沙希ちゃんを差し置いてですか? そんなに上手なんですか⁈」

美沙希は中2の時埼玉のバレエコンクールで、6位(2の3)に入賞していた。

「大丈夫、上手だから、個人レッスンしてるし、アメリカのバレエのサマーワークにもよく行ってるし」

金に糸目をつけず……とも言おうとしたが、流石に止めた。

「先生、それはもしや嫌味ですか?」

香緒里は日野先生の……〈それだけ金と時間をかければ、上手くなって当然〉とゆう本心を見抜いた。

「あらやだ、そう聞こえた?」

「モロバレです」

2人で顔を見合わせた。

「問題は、『Sスタジオ』がトリになると、こちら側の上級者の子達が前座になってしまうってことよ」

「確かにそうですね、そうなると『合同発表会』じゃなくなりますもんね」

「あちらさんは、男の子の生徒さんも何人かいるし、東京のバレエ教室とも連携してるから、ツテでプロの男性ダンサーを呼べるのは最大の強みよね」

「男性ダンサー……ウチはいつもはどうしてたんですか?」

「知り合いのプロを呼んで、パ・ド・ドゥ、を踊って貰ってるけど、合同発表会の時しか呼べないのよ、なんせ1日20万掛かるからね。午前中はリハで午後から本番、それが限界」

 それが小さいバレエ教室の悩みの種。無名のダンサー一名の値段がそれで交通費は別。名の通った人だと更に高い。パ・ド・ドゥを踊らなくても成立はする……でも、折角の発表会なのだから、ある程度は男性ダンサーとの〈パ〉を踊らせてあげたいと思う先生達で開催してたのが3年に一度の合同発表会。それをサラッと通り越して〈全幕〉を目の前でされると……。

う〜ん。と日野は唸ってしまう。

「考えてもしょうがないわね、この話は今度の打ち合わせの時に他の先生達と相談するとして、今回は、誰を鍛えようかな」

「鍛える?」

香緒里は不思議そうに日野先生を見た。

「そ、発表会の時に誰かを梃入れするんだけど……」

先生は考え込んだ。

「前回は誰だったんですか?」

「美沙希ちゃんと流衣ちゃん。ふたりに『青い鳥』をやって貰ったの」

香緒里は、キョトンとして 

「フロリナがふたりって事ですか? ダブルキャスト?」

「美沙希ちゃんがフロリナで、流衣ちゃんがブルーバードよ」

「はっ⁈」

香緒里は空耳⁈ と思った。だってブルーバードは男子の踊り。

「振り付けをちょっと変えてね(リフト削除)あのふたり叩けば叩くほど強くなるから、もう面白くって私もかなり気合い入ったわ。本番も反応が凄くて良くて、曲が終わると満場の拍手。最後のキャスト紹介の時、ブルーバードが女の子だってわかった時の客席のどよめき……楽しかったわ」

楽しかった……と、言うわりに思い出を振り返る表情は何故か居たたまらないといった風であった。

「それ見たいです。ビデオは無いんですか⁈」

香緒里は日野先生の表情の変化には気付かずに、矢継ぎ早に聞いた。

「あるわよ、そこの棚に、時間がある時見て頂戴」

先生は香緒里の背後のCDと DVDが並んでる棚を指差した。

「さーて、そろそろ皆んな集まって来たかな、レッスン、レッスン」

どっこいしょっと腰を上げて、気合いを入れた。


「はい、今日はこれまで。また来週ね」

「ありがとうございました」

 一同挨拶をすると、各々動き始める。その日の最後のレッスンが終わると皆でのお掃除タイム。

「陽菜ちゃん、ちょっといい?」

先生が陽菜を呼んだ。気がついた流衣が私やるよと言わんばかりに、陽菜が持っていたモップを掴んだ。

「陽菜ちゃん、『タランテラ』やってみない?」

「えっ⁈」

陽菜は当たり前に驚いた、先生の〈ターゲット〉が自分だったからでは無く『タランテラ』に。

「そんなぁ、無理です!」

陽菜が情け無い声をだすのでみんな振り向いた。

「えっ、なになに、陽菜ちゃん何があったの⁈」

近くでモップ掛けしていた、陽菜の同期が気がついて聞いてきた。同じくモップ掛けしていた流衣と、雑巾を手に持ち掃除していた美沙希も振り向いた。

「何が無理なの?」

先生が陽菜に質問する。

「だって『タランテラ』なんて……、あと3ヶ月しか無いのに、そんな長いの無理ですー」

と涙目になりながら、助けを求める様に流衣を見て言う。そんな陽菜に。

「大丈夫だよ、3ヶ月あるから陽菜ちゃんならなんとかなるよ」

助けるどころか、あろう事か肯定して応援する。陽菜は、あっけに取られた。

「ぷっ。出ちゃった、流衣ちゃんの『お墨付き』!」

美沙希が笑ってしまった。

「陽菜ちゃん、助けを求める相手間違えちゃったわね」

先生も笑いを堪えながら言った。ふたりのセリフを聞いて、自分の勘違いに気がついた。

「え? 陽菜ちゃん困ってたの⁈」

「もー当たり前じゃんっ、流衣ちゃんくらいだよ、あの長い曲を3ヶ月で仕上げられるの」

振り付け覚えるのが苦手な陽菜の怨みがましそうな声。それというのも、週一のレッスンならば三ヶ月で十二回しか無い。通常の曲は一分から二分、しかし『タランテラ』は八分。男女パート別に分けたとしても約三倍。ゼロから始めるモノじゃない。

「陽菜ちゃん、発表会で踊るの?」

同じクラスレッスンの中学生の子が言った。他の子達も掃除を終えてワラワラ集まって来て、先程レッスンでやった『タランテラ』を発表会で陽菜が踊るらしいと広まった。

「タランテラ? すっご〜い! 陽菜ちゃん、上手だもんね」

「振り付け覚えるだけでも、ひと月掛かりそうなのに、無理〜」 

踏ん切りがつかない、とことん自分に甘い陽菜。

「いつまでも抵抗してないで、やんなよ陽菜、今年がチャンスなんだから」

美沙希がビシッと言った。

「そうよ、美沙希ちゃんの言う通り。来年忙しくなるんだから、今年しっかりやりましょう」

先生の考えとしては、身体が成長する時にガッチリやっておかないとあとが大変になる、とゆう思いから来ている。バレエを続けるかどうかは本人次第だけど、選択肢を増やすことは悪い事じゃない。

「そっか、陽菜ちゃん、来年のこの時期、受験だもんね」

そして流衣が現実に引き戻す。

「流衣ちゃ〜ん。それ言っちゃいや……」

陽菜は現実逃避が出来なくなった。

「振り付けは頑張って覚えましょう。発表会は12月23日日だから、12月に入ったら仕上げになるからね」

先生はにこやかに言った。

「既に『タランテラ』に決定してる……」

陽菜がボソリと言った、もう何を言っても無駄らしい……。

「そーよ、今更ジタバタしても無駄なの、後はお願いね、流衣ちゃん」

と言って、流衣に丸投げする先生。

「え? 私ですか?」

流衣は流石に躊躇した。

「いつもの事じゃない、どしたの流衣ちゃん?」

美沙希は流衣の戸惑いが理解出来なかった。

「発表会の演目やるのと普段のレッスンとじゃ違うんじゃないかと思って」

「あら、全然気にしなくて大丈夫よ。『タランテラ』の男の子パート覚えたんでしょ? いつも通り、相手役してやって頂戴。暫く専属でね」

「分かりました」

先生に言われたので、流衣も納得して承知する。

「専属だって! いいな、陽菜ちゃん」

「チー先生独占」

中学生達が騒ぐ。

「チー先生?」

聞き慣れない言葉に先生が振り向いた。

「流衣ちゃん、ジュニアクラスの子達にそう呼ばれてるんです。「小さい」と「チーママ」かけた言葉みたい」

美沙希が説明した。香緒里が来る前、先生が日野ひとりだったので、全クラスフリーパスの流衣が、日野先生の助手のごとく教えに入ってたのでこう呼ばれる様になった。

「チー先生……『先生』はやめて……」

先生と呼ばれるの程の技量があるわけじゃない、ただ自分が分かるモノを教えてただけで、『先生』はおこがましくて恥ずかしい、皆んなと同じく「流衣ちゃん」でいいのに……。と流衣は思っていた。

(……今時の子がよく「チーママ」なんて知ってたわね。)先生はズレてる疑問点を心の中で呟いた。

「じゃあなんて呼べばいいの?」

中学生から見ると高一の流衣は大先輩。陽菜が呼んでるのは同じ上級者クラスにいるからであって、中級クラスの自分達は気安く「流衣ちゃん」とは呼びにくい。

「それより陽菜、今回の男性ダンサー、仁くんかもよ?」

「え?」

陽菜の目がキラリと光った。『仁くん』とは、秋山仁とゆう、最近東京バレエ団でプロデビューしたばかりの新進気鋭の若手ダンサー。長身(175)イケメンでバレエ女子界のちょっとしたアイドル。

「仁くんって、それ本当?美沙希ちゃん!」

陽菜が問い詰める。まだ、ゲストのダンサーが『仁くん』とは決まってない、美沙希は陽菜をあおる為にこう言ったが、あながち嘘でもない。

「多分だよ? Sスタジオの先生『東京バレエ団』と懇意なんだ、だからスタジオにもたまに練習付けに来てくれるの」

「えっ、ずるい美沙希ちゃん。私も仁くんと踊りたい」

陽菜のヤル気スイッチが入った、美沙希の思惑通り。

「早とちりしないの、私踊ったことないよ? 会ったことあるだけ」

「会いたーい」

「いーなぁそれだけですっごい羨ましい」

中学生女子がキャピキャピし出した。

「皆んなどんだけイケメンに飢えてんの……?」

ダンサーだから〈増し増し〉 で見えてるだけで、実際近くで見ると普通の男子なんだけど。

「男性ダンサーに、じゃないかなぁ……」

私が男子の代わりに踊っても物足んないよね。

流衣が冷静に分析した。

「ホラホラ、皆んなおしゃべりしてないで、帰り支度なさい、お迎えが待ってるでしょ?」

キリが無いので解散させる為に先生が声を掛けた。大概の子は外に親がお迎えが来てる。

「やだ、ママに怒られちゃう」

「うちも出て来るの遅いって言われる」

皆んな一斉に、掃除道具を片付けて帰る準備をし出した。


「おはよう」 

 今日は、藤本一臣は既に着席していた。

遅刻ギリギリに席に着いた流衣は挨拶したけど、やはり無反応。

(……聞こえてる、よね? 返事したくない? それとも面倒くさいのかなぁ……。嫌われた? にしても、嫌われるほど話をした事もないし、一目嫌われとか? だとしたら嫌そうな顔すると思うし、あ、小さくて見えないのか、だったら説得力あるけど、座ってるし……座高、そんなに違わないし……って事は、脚長っ。あ、違う違う脚の長さは関係なくて、あ〜もう、なんか訳わかんなくなってきた……)

流衣は頭を抱えて悩んだ。

 ホームルームが終わり、1時間目の授業が始まる。

(今日は英語からだ、頑張んなくちゃ)

 英語科のクラスだけあって、英語の授業は全部英語で行われる為、流衣は英語だけは眠気を抑えて授業に集中する事にしている。それにいずれ留学することができるようになれば最低限、英語は必須だ。

 学校の英語の先生は2人いて今日は、日本人の上家かんべ先生、もうひとりはALTのグリーン先生。このグリーン先生はかの有名なウサイン・ボルトの従兄弟でスーツが似合うナイスガイ。上家先生は中肉中背の40代の一見して大学教授のような容貌だ、時々妙なアクセントの英語を喋る。

(う〜ん、微妙に、聞き取れない……)

 流衣は、英語が良く出来るという訳では無く、他の教科よりまだ良いという程である。では、何故英語科の高校にいるのかというと、家から近くて定員割れしてたからだった。あまり成績が良いとは言えなかった流衣は高校を半ば諦めていた、私立に行くお金がなかったから、公立高校受験がダメだったら中卒で働くつもりだったのだ。なのに奇跡の合格。一番驚いたのは本人にほかならない。しかし高校の数学と物理は拷問みたいなもの、社会の中の論理と地理の授業は先生の喋りが単調で、子守唄にしか聞こえない、国語も同じく。英語は得意だった筈……中学では。あたり前なのだが、得意な子達が集まった英語科なのでレベルが高く、平均点に届かないお粗末ぶり。

(私って、ダメな子だな……お母さんの言う通り)

妙なアクセントが気になって授業集中出来なくなった流衣は、ふと隣を見てしまう。

(藤本くんノート取ってる。アレ? でも教科書は開いてない……の? 先生が黒板にサラッとしか書いてないのに何でそんなに書いてるの……? 何で左右のページに書き分けてるの? しかも筆記体で書いてるの凄い。……もしや……先生の講義そのまま書き取ってる……? 嘘でしょ⁈ けど書いてるスピードがそうとしか思えない)

もう自分が同じ授業を聞いてることなどそっちのけで、流衣は一臣の不思議なノートに夢中になってしまう。

(あ……なるほど、左側に文章書いてるのか、そして右側に脚注、要約? 英語の文章に英語で書いてるけど、先生の説明に赤のアンダーライン引いてるのは何でだろう? 藤本くんシャープペンじゃなくて、3色ボールペン使ってる、凄い効率的。あ、またライン引いた。あ……今の先生の発音がおかしい所だ! 良かった同じだっ私だけおかしいと思ってた訳じゃないんだっ、良かった〜。……けど、何でそこに赤線? そこポイントなの??)

頭の中が「?」でいっぱい。成績が低空飛行の流衣にとって、一臣ノートは超絶不思議、いやもうファンタジーの世界。

(……藤本くんって、なんか他の人と違うなぁ、どうして、何で壊れてんだろ……感情って?)

流衣の疑問は、勉強以外にも広がった。

チャイムが鳴り、1時間目が終了。

2時間目が始まる前に、流衣はお手洗いに席を立った。帰って来ると、一臣の姿は無かった。

「また帰ったよ、藤本」

「ヤバくないアイツ?」

流衣の2つ前の席の女子達が話すのが聞こえてきた。

「ずるいよねー」

「こんなに毎日授業ふけてるのに何で先生何も言わないの?」

「成績はいいからじゃない? あいつ〈前期〉で余裕で入ってて、東北大法学部も理系も大丈夫だって先生話してるの聞いちゃった」

「進学率の為? げー、有りかも」

始業のチャイム。今まで話してた女子達は自席に戻りながら、まだ喋る。

「あ、まずい、あたし今日『現国』当るわ」

出席番号が当たり日らしい。

「みかりん、ドンマイ」

ふたりは喋りながら席に着いた。

(『国語』か、永井先生の声耐えられる自信ない)

流衣の子守唄タイムが始まる。


「こんにちは。お兄さん、今日もお掃除?」

放課後、いつものバイト先へ向かう道を自転車で行くと『時玄』の前を通る、そこへハクが看板を拭き掃除してるのが見えて、思わず自転車を止めた。

「『72ページ』……ひょっとして毎日この道通ってんの?」

ハクが掃除の手を止めて流衣に話しかけた。

「うーんと、そう、ほぼ毎日通ってる……かな?」

土日はたまに違う道行くかな?って考えながら、今まで気にしなかったけど、このお兄さんが店の前に居るの何度か見てたような気がすると思った。

「家がコッチ?」

ハクは流衣の進行方向を指差して聞く。

「ううん、家はあっち、バレエの教室がこっち」

それに対して流衣はゆびを後ろから前に順序に刺して、スナフキンの初登場のように答えた。

「バレー……って、コッチの?」

ハクは眉間に皺を寄せながら、アタックするゼスチャー。

バレー教室、習い事か、けどこいつが……? と、さも『あわねーっ』て不可解そうな顔してる。

「ううん、こっちの」

流衣はハクの表情が面白くてクスクス笑いながら、ポールドブラ(バレエの腕の使い方)で優雅に手を上にするポーズで答えた。

「ああ、だから細いんか、成る程な」

だよな、バレーボールはねーよな、リベロの逞しさないし、セッターの気の強い感も無いもんな、納得。アタッカーは最初から度外視のハク。

「……細い」

かなぁ……普通のつもりなんだけど、バレエやってるならもっと痩せたほうがいいとは思うけど、それよりも、もう少し身長があったらいいのに……体力もつけないと。

「それで不満あんの? つーか、どんなに体型でも満足しねーな女って、妥協っつーもんねーの?」

流衣がさも不服そうに「細い」と声に出したので、ハクは、標準基準が曖昧過ぎ女子ってめんどくせえな、って男目線で話す。

「えっ、体型? 変?」

「何が?」

「だって、妥協って……「諦めたらそこで試合終了」では?」

「それバスケの名言じゃね?」

「もっと色んな人が言ってる気がする」

漫画で言うなら『スラムダンク』より十年も前に『愛の歌になりたい』に出て来たピアニストのセリフ。

「安西先生の一人勝ちな」

「安西先生より、不二君推し」

カーネルサンダースより、優しげなイケメン。

「スネークって、ポール回しだよな?」

それは海堂薫の必殺技。しかし『おはよう空』でポール回しは初見参。

「何の話し?」

球技は漫画でしか知らない為、実技名は理解不能。

「もはやゾーン通り越してテニスではなく異次元の霊能力バトル」

「……なんか会話がチグハグな気がするんですけど……」

 何で? いつからこうなったの?

「細いって、不満そうに言ったのお前じゃね?」

流衣はやっと気がついた。

「えっ? 私、口に出して言ってたの⁈」

無意識に声に出してたなんて……どうして私ってこう……気が抜けちゃうんだろ、やだ恥ずかしい……。思わず項垂れてしまう流衣。

「心の声ダダ漏れより、会話の飛び方が破天荒だって気づけよ」

いじけたように蹲る《うずくま》流衣を見ながら、バスケからテニス、『スラムダンク』からの『テニスの王子様』に流れる女子に、新種発見したような気分と同時にその会話についていける自分の雑学からのオタク感に笑える。

「……破天荒、私やっぱり変かな……」

自分が変だと思いシュンとした流衣に

「普通じゃねー方がお得感あって良くね?」

ハクなりに褒めて慰めてるようだ。

(普通じゃない……っていいのかなぁ)

と思うけど、考えれば考えるほど迷宮に陥りそうで、落ち込みそうだから考えるのはストップ。

「私行かないと……。掃除の邪魔してごめんなさい」

「全然、サボりの言い訳大歓迎よ?」

『又どうぞ』的なハクに、笑いながらペダルに乗ってる足に力を入れたが、自転車の籠に入ってる鞄の重さに重心を取られ走り出す前に止まった。

「『72ページ』名前は?」

走り出しに躓く流衣にハクが問いかけた。

「流衣です、かのう・るい。お兄さんは?」

よろけたのが恥ずかしかったのか、名前を言うのが恥ずかしかったのか、流衣は少し照れながら答えた。

「ハク」

「はく……〈白〉の?」

流衣はキレイな名前だな、と思った。

「いや『琥珀』。石の方、苗字は『佐々木』ての、よくある奴」

流衣は『琥珀』を想像してもっと綺麗、と思った。

「素敵、宝石なんだ。宝物だね」

「……んな立派なもんじゃねーって」

『宝物』と言われて今度はハクが照れる。

「じゃあ、ハクさん。私もう行くね」

自転車を再び漕ぎ出そうとする流衣に

「サン付けると地名みたいだから、ただのハクにしてくんねぇ?」

近所に『白山』という住所があり、工業地帯で『白山団地』という一帯もある。

「え、でも呼び捨てになっちゃう……」

小さい頃近所の男の子を名前でよんだら、母親から叱られた記憶があったので躊躇した。

「上司でも先輩でもねぇからそれでいいって、気ぃ使われるのも嫌だしな」

(それで学校の部活が無理だったんだよな、1ミリも成長してねーな俺って)

けど反省はしないハク。

 流衣はそれを聞いて、本人がいいならいいのかな……。と思い巡らせた後、素直に従う事にした。

「うん、わかった。……じゃあハク、またね」

「おーよ」

流衣は自転車で走り出した。ハクはよろける走り出しの軌道が、真っ直ぐになるまで見送った。

「バレエか、……セレブじゃん」

良いとこなんだな。とバレエを習い事にしてる一般的な家庭イメージをハクは描いた。


「流衣ちゃん、ザンレール出来る?」

 3年前のある日、先生が流衣に近付いて来て唐突に言ったのを、流衣は昨日のことのように思い出せる。

「えっと、ザンレール……?」

 〈ザンレール〉とは空中で2回転する技の事だ。1回転は〈アンレール〉。流衣は躊躇した。先生が近づいて来たのは、レッスンが始まる前にふざけてマイケル・ジャクソンの真似してたので、てっきり怒られると思ったからだ。

「先生ー、いくら流衣ちゃん回転ピルエット得意でも、男子の技ですよ?」

美沙希が無茶ブリですよ〜って顔してる。

「やってみます」

流衣は、一旦考えてからそう答えると、5番プリエから飛び上がり、空中でクルクルっと2回転して降りた。

「あ……ごめんなさい、ちゃんと出来なかった」

 回転は8分の1ほど足りず、足も3番で着地した。しかしそれを見た全員が。

「流衣ちゃんすごいそれ!」

「えっ、どうやったの?」

「何で出来るの⁈」

皆んなものすごく驚いた、言い出しっぺの先生まで。

先生も聞いてはみたがまさかここまで出来るとは思わなかった。

「何処で覚えたの?」

驚愕の顔で、流衣に問いかける先生に、流衣はサラッと答えた。

「体育の時間です」

「学校?!」

今の学校何教えてんの⁈ と言わんばかりに驚く先生。

「同じクラスにフィギュアスケートやってる子がいて、その子に教わったんです」

「フィギュアスケート? 確かにフィギュアは2回転、3回転するけど」

「その子が『2回転はね、高く飛べる様になったら出来たよ』って言ってました」

『2回転まではね、出来るようになるけど、3回転は別物、コーチが言うには3回以上は才能なんだって、同じクラブにひとつ年上で3回転も4回転も跳んじゃう男の子がいてビールマンスピンまで出来るすごい子がいるの、アレ見てると、特別だなって本当に思うよ』

クラスメイトが言ってたことを思い出して、確かにそうゆう子は別物だなと思う。

「それで、その子の言う通りに『高く、速く、細く』回るのを意識してやってみました、ちょっと回転足りなかったけど……」

照れながら言う流衣に感心する先生は。

「流衣ちゃん、ブルーバードやりましょう!」

「へ? え⁈」勿論ビックリ。

「先生、それ男子のバリエーション!」

「流衣ちゃん女の子なのにー⁈」

「もしかして、それ発表会の配役の話⁈ あり得ない!」

クラスの子達たらブーイングの嵐。

「そうよ、〈フロリナ〉が美沙希ちゃんで〈ブルーバード〉が流衣ちゃんね」

名案を思い付いたような先生の満面の笑み。対照的に流衣は戸惑い顔。

「発表会……」

 流衣は発表会にでたことが無かった為に困惑する。中学1年にもなれば、何となく事情がみえてくる、親が協力してくれなければ、発表会など、出れるはずもない。毎年年末に行われるおさらい会は、出ていたので、3年に一度の発表会には出れなくとも引け目は感じなかった。けれど、〈ブルーバード〉……何故? 流衣は先生の意図が分からない。

 その日のレッスンが終わると、流衣は先生に呼ばれた。

「ビックリした?」

日野先生は微笑みながら、流衣に語りかけた。

「はい。あの……」

「どうしてかって?」

「はい。私、発表会は……」

お金が無いから出れません。言おうとしたが、それは先生が一番分かってる筈。言い出しにくくてもじもじしてしまった。

「流衣ちゃんが気にしてるのお金の事?」

先生がスパッと聞いて来た。

「はい」

流衣が恥ずかしそうに下を向いて返事をしたので、先生は安心して笑った。

「やっぱりそっち?ブルーバードじゃなくて」

「え?」

「良かった安心したわ。ブルーバードが踊れませんって言ったらどうしようかと思った。パドゥドゥはどお?」

「それは出来ない振りがあるので……」

流衣の頭の中はブルーバードとフロリナ王女のバリエーションが繰り広げられている。

「リフトが無ければ?」

「……出来ます」

言い切った流衣を見る。踊りに対してこの子は本当に真っ直ぐで頼もしい。先生はにっこり笑って。

「お金の心配は要らないわ、男子のバリエーションなら他のの需要がないから保護者からクレーム出る事はないし、チケットも持たなくていい。バレエシューズは履き潰すかも知れないけど、ポワントよりは安いからそれだけは勘弁してね」

先生の話しを聞いて、流衣の顔がどんどん明るくなっていく。

「でも……衣装代が」

レンタル代が一万前後。

「衣装なら作っちゃえばいいじゃない。タイツは染めちゃえばいいし、リサイクルショップでブラウス買ってリメイクしちゃえば千円も掛からないわよー。」

先生あっさりいいますが。

「……作る」

一抹の不安、……流衣は不器用で家庭科〈2〉だった。

「何とかなるから大丈夫」

流衣を安心させるように笑った。

「あの……私、他の男性パートもやっちゃダメですか?」

流衣が恐る恐る聞いて来た。唐突な申し出に先生は目を白黒させた。

「え、他のバリエーション? どうして?」

「うち男子がいないので、パドゥドゥあまりやらないですけど、慣れたほうがいいかなって思って」

年に一度くらい男性の先生が来て稽古してくれるのだが、普段やってない為みんなあがってしまい、折角の機会なのにレッスンにならない化してるのが顕著に現れていた。先生もそれは思っていた、思春期の女の子達が大人の男性と組んで踊るというだけで緊張してる間に終わってしまう。

「振り付けが完璧に入ってて、サポートのタイミングがわかってれば、少しは違うと思うんです。それに……サポートするのが私なら皆んな気を遣わないと思うし、言いたい事も言えるんじゃないかなと思って」

それは言えてる……。と先生は思った。リフトは出来なくても、アラベスクやピルエットのサポートなら問題無く出来る。けど、ブルーバードだけじゃ無く他の男性のバリエーション、しかもパドゥドゥ、なんて……あんまりじゃないかしら、と思うも、目の前の流衣があまりにも好奇心いっぱいの顔をしているので。

「……やってみちゃう?」

言ってしまった。

「はい!」

(やったぁ、男子パートならともかくサポートなんて、普通できないよ。皆んなの役に立てるし、普通やらない事出来るなんて、すごい楽しそう!)

凄く楽しそうにしてる流衣を見て、今更ながら、

良かったのかしら?

と思ってしまう先生だった。そして喜んでる流衣に一言。

「流衣ちゃん、マイケルのモノマネはほどほどにね。強い踊りだから癖がついたら大変よ」

釘を刺した。

「は〜い」

やっぱり怒られちゃった。ペロっと舌を出して照れ笑いしてしまう流衣。気をつけなきゃ……と反省はするものの、皆んなのリクエストに応えて何度かモノマネして癖が付いてしまい、直すのに一苦労して、あの時先生の言う事をキチンと聞いておけば良かった、と後々大いに反省するのだった。


 あの日から、皆んなのサポート役を少しずつやっていくうちに、流衣は面白い事に気がつく。

(重い子と軽い子がいる……)

それは、上手い下手ではなく、体重も関係無い。

(美沙希ちゃんは軽くて柔らかい、けど、光莉ちゃんの方が軽い。一方で陽菜ちゃんとみっちゃんは重い、特にみっちゃんは重くて、こちらのバランスが崩れそうになる、真逆は柚茉ちゃん。美沙希ちゃんや光莉ちゃんよりずっと軽い、けど軽過ぎて手応えが無くて一緒に踊ってる感覚が薄い……)

——手に取るようにわかる——

そんな言葉がこの為にあるのかは定かでは無いけれど、踊りで手を取ると性格までわかるようだ。

(私でさえわかるんだから、男性の先生なら、もっと細かく、才能のある無しとかもわかるんだろうな……)

流衣はそんな事を思いながら、上級レッスン中、ぐるりと見回した。

(光莉ちゃんと柚茉ちゃんはゆっくりと綺麗に踊る、みっちゃんは個性的でしっかりした踊り、陽菜ちゃんはコケティッシュで可愛い、美沙希ちゃんは綺麗で優雅で……やっぱり上手いなぁ)

 流衣はセンターで踊る美沙希に見惚れた。身長が流衣より十二センチ高い美沙希は踊ってるとダイナミックで優雅。身長の低い流衣が同じ動きをしても、おなじような優雅な振りにはならない。小さいとどうしても元気の良い動きになってしまう。

(どうしたらあんな風に優雅な踊りに見えるんだろう、腕の動き? それとも手の先? 上半身、肩、顔、視線、神経を全てに行き渡らせて、……脚、膝に気をつけて、足捌きはもっと丁寧に……でも意識は上に!)

「きばり過ぎちゃう?」

みっちゃんの声が聞こえて、流衣はハッとした。

「力入っちゃってたかな……」

「ちょっとやけどな、らしく無いんちゃう?」

みっちゃんは親の転勤で3年前に仙台にきた、生粋の関西人である。

「……気合いが入ってて、わたしはいいと思ったけど」

光莉がフォローした。関西人らしくハッキリ物言うみっちゃんの言葉尻がキツく感じたらしい。流衣にしてみたらどちらも嬉しかった。

「ダメなわけじゃないけど、いつもはもっと軽いやん?」

「はいはい、振り付け入るよ、準備出来てる?」

先生がお喋りを指摘しつつ、レッスンに注意を戻した。

(……私の踊り、軽いのか……)

それが決して悪いわけでは無い、けれども自分の目指してるものでは無い。……と流衣は思う。

(私の踊りってなんだろう……。アレッサンドラ・フェリやアリーナ・コジュカルの踊りが好きで、ああ踊りたいと思ってるけど、目標高すぎてちょっと恥ずかしい……)

恥ずかしさゆえに、だれにも言って無い。

 そして今回は『タランテラ』この踊りはリフトは無く、バランシンの振り付け通りに踊れるけれど、本当に男性ダンサーがくるなら、それまでの代役で充分だと流衣は思った。

(男の人と踊った方がいいに決まってるし、それに何より、発表会はできれば遠慮したいな……)

何故か消極的でそれには少し訳がある。それは以前の発表会での出来事、初めての発表会で先生はチケットは持たなくていいと言ってくれた。それで流衣は舞台に臨み、〈ブルーバード〉を踊り満場の拍手を貰って舞台での醍醐味を味わうことができたのは凄く幸せな事でそのまま終わればとても良い初舞台を踏めた筈だった。

おさらい会とは違い発表会は少し大きいホールを借りるので、チケット代が発生する。勿論、役によってチケットの枚数も違ってくる。それらは全て出演者の買い取り《・・・・》なのだ、よしみで買ったくれる人もいるがほぼ無い、チケットはただで配る物だと言った方が正しい。そして、ただでチケットを貰った人が、その代わりのように花束を持ってくる。とゆうシュチュエーションを流衣は知らなかった。最後の出演者全員での舞台挨拶が終わると、花束を持った人達が一斉に手渡しに駆け寄ってくる中で、流衣は自分だけ何も渡される事なく、その光景を独りでポツンと見ていた。

(……あの時。そうゆう事なのか……って、初めて実感湧いたんだったな……。私だけただその場に立っていて、友達がいっぱいいる美沙希ちゃんは抱え切れないくらい花束貰ってるの見てたんだった)

 発表会に来て欲しいと親に言ってはみたものの、母は仕事で、父は恥ずかしさから拒否された。学校でも仲の良い友達なんていなかった為、流衣はひとりの寂しさに耐えた。そんな出来事があって、舞台にはとても惹かれるが発表会はあまり乗り気になれない流衣だった。


「えっと、次なんだっけ」

陽菜が立ち止まって流衣の方を見た。今週と来週、全員で『タランテラ』の振り付けをやって、その次の週から、発表会に向けての練習に入ることになった。

「アントルッシャス、手を付けて、こう」

踊りながら説明する流衣。

「あ、そうか」

陽菜は、手をを左右交互にだし、ステップをふみながら横に移動する。

「ジャンプして、バットマン、ピケターン繰り返して、ポーズ。フェッテ、ピケ、シェネ、ピケ、ターンだらけ〜」

回りながら笑って踊る流衣。

「シェネ、ピケ? 右?左? フェッテ? ひゃー何これ〜」

「陽菜、ちょっと落ち着いて。」

美沙希がたまりかねて声かける。

「ピケターンで、下手に捌けるんだよ」

混乱してる陽菜に流衣は方向を教える。

「下手、ピケターン。あれ、あれ?」

方向が定まらないまま、鏡の前で3回で止まる陽菜。

「なんでこっち来るん?」

前方にいたみっちゃんにぶち当たる。

「やーん、なんでー」

「それは、こっちのセリフや。少し落ち着き?」

「テンパリ過ぎ。まだ振り写し始まったばかりだよ陽菜」

まだ最初の〈パドゥドゥ〉なのに、昨日と今日で既にあっぷあっぷな陽菜に、先輩達は少し呆れ気味。この後女子のバリエーションとパドゥドゥ・コーダが2回ある。まだまだ長い、と思っただけで、振り写しが苦手な陽菜の頭は大混乱。

「流衣ちゃ〜ん」

懲りずに流衣に助けを求める。

「大丈夫だよ、陽菜ちゃん。もっとゆっくりやろう」

「え? もっとアップテンポなのに?」

既にゆっくりやってるのに、これ以上遅くしたら調子が合わなくならない⁈ と困惑する陽菜。

「あ……えーとね、スピードを遅くするんじゃなくて、ひとつづつ……確かめながら……と、確認しながら踊るの」

説明が下手くそな流衣。なのでいつも踊って見せながら解説する。

「ターンの後一度ポーズとるでしょ? そこで正面だからその次のフェッテターン、ピケターン、の後一度止まる。で、位置を確認して、シェネ、ピケターンに入った方がいいよ」

喋りながら止まって、視線を進行方向に向けて指先を確認する様に向けてひとつずつ丁寧に踊って見せる。

「そこで止まっていいの?」

止まるとゆう事は、動きが止まる。陽菜が首を傾げながら聞く。

「うん。流れに身を任せて崩れて踊るくらいなら、ターンを減らしても、タイミング合わせて曲に乗って踊る方がいいと思う」

「そうね、正解」

傍観してた先生も賛同した。

「コンクールじゃないからね、振り付け変えて減点になる訳じゃないもの、綺麗に踊る方がいいわ。あくまで発表会なんだから。でも、止まるのもただ止まってはダメよ、プレパラシオン(プレパーション)でね」

先生の言葉に(そうなんだ……)と黙ってうなづく陽菜。

「それに、振り付けがしっかり入れば、流れに乗れると思うから大丈夫だよ。陽菜ちゃん心配し過ぎだよ」

流衣がクスクス笑いながら、まったりと言うので、(流衣ちゃんがつきっきりで教えてくれるならそうかも……)

陽菜も少し安心した。

「けど、流衣ちゃん相変わらず説明下手やな」

みっちゃんがぴしゃりと言う。

「あ、やっぱり? なんか上手く言葉に出来なくて、分かりにくくて、ごめんね」

「なんで流衣ちゃんが謝るの?」

光莉が擁護する様に言った。

「え……本当の事だし」

動きを説明するのが苦手な流衣はみっちゃんの言う通りだと思う。

「色々考えてる内に訳わかんなくなっちゃって、つい動いちゃうの」

「それでええんやない? 何回も繰り返してたら覚えるわ、説明せんでも」

どうやらみっちゃんは、下手な説明しないで動けと言ってるらしい。関西人のダイレクトな物言いは、東北人の光莉の耳には、直接的に響き過ぎて聞こえつい反応してしまう。

「はい次、女子の2番目のバリエーションね」

先生が鏡の前で振り写しを始める。

「その方が楽やろ?」

みっちゃんが流衣にボソっと呟いた後、一番前に陣取った。

(うん、確かにそうなんだけど……でも、踊ってるだけじゃ伝わらないこともあるんだよね……)

流衣は人に教え出したこの数年間で、人によって伝わる部分が違う事を学んだ。踊って見せないと分からない事もあるし、説明しないとダメな事も有る。色々な角度で踊りを見る事で、自分も成長する事ができたのは、流衣にとって一石二鳥だった。

(もっと上手く説明出来れば、皆んなも早く上達出来るはずなのに、私ってば頭悪いから……。う〜もぞっこい)

「流衣ちゃん、腕が疎かよ!」

先生の注意。振り写し中でも、叱咤が飛ぶ。

「はい!」

(いけない、集中、集中)


 隣り声 するッと跨ぐ 小石かな

「……季語が無い」

 ボソッと呟いた。1時間目の国語の時間、今日も朝から挨拶スルーされた流衣は思わず一句読んでしまった。

(私の俳句……小学生レベル。何も自分の無能さを再認識するような事しなきゃ良かった)

 頭の中だけの妄想俳句で落ち込む流衣。『72ページ』と助けて貰った日から1週間が経ち、毎日挨拶を続けてるものの相変わらず無視されているのだが、そのおかげで「気になる」から「興味深い」に変わった。挨拶しても見向きもしない、どころか周りに人が居ることすらどうでもいいような、存在もしてない、としか取れない態度に。

(藤本くんの回りにはATフィールドでも張られるんだろうか?)

とゆう疑問すら湧いてきた。

この1週間ずっと注目して見ていたので、一臣の行動パターンが分かってきた。

休まないで学校は来る。

最低1時間は授業を受ける。

けど、最後までは居ない。

誰とも喋らない。

けど、当てられたら答える。

ノートが異次元。

……? 考えれば考えるほど、わからない。だから興味深い。

(……学校がいやなら登校しないだろうし、勉強したいなら最後まで授業受けると思うし、授業退屈なのかな? それならそもそも進学校に行く筈、こんな田舎の緩い学校じゃなくて……。うちの学校偏差値50代前半だし)

流衣なりに精一杯考えてみたが、やっぱりわからなかった。唯一分かったのは、友達がいないらしい、くらいだった。

(……友達がいない……そこは私と一緒かな……、共通点が何かちょっと寂しいな……)

授業を無視してぼんやりと考えてしまった。


「あれ?」

 流衣がいつものように、『時玄』の前に続く道を自転車で走って近づいて行くと、ハクと一臣が店の前から横の道路側に話しながら移動してるとこだった。

「よお」

ハクが流衣に気が付いて、声をかけてきたので流衣は2人の前で止まり

「こんにちは」

と挨拶した。一臣がハクと居るのをみたのはあの日以来初めて。ハクが話しかけた人物に、一臣は視線を置いたが直ぐに向き直った。

(私、石ころ帽子、被ってたっけ?)

流衣が思わずそう思ってしまう程、ほんの一瞬だった。

「単車の転がし方教えろって、マジ?」

「そうだけど」

そのまま行こうとした流衣の耳に、今日英語の授業でやった否定疑問文のようなハクの一声が入ってきた、否定……? じゃない、命令形? 命令疑問文? そんなのあるのかな? 足が止まってしまった。

「単車が車と決定的に違うのは曲る時だな、ハンドルは腕の力で切れねえからさ、進行方向に身体倒して曲るんだわ、それで方向変えんの、最初のうちは結構な度胸勝負な」

 普通に走り方を説明した。

「真っ直ぐ走るにはどうする?」

ハクの説明の後、真面目に基本の〈キ〉 を聞く一臣。

「おまえ、まさかエンジン掛けるとこから知らねーの⁈」

「……だから今きいてる」

呆れて目が点になるハクを尻目に、一臣は真顔で答えた。

「えーと、まず左手でクラッチ切って、ニュートラ確認してセルボタンでエンジン掛けるだろ、チェンジペダルを下げて一速に入れたら、アクセル回してクラッチをゆっくり離しながら前進する、で、って、……おまえ、原チャリ動かせたよな?」

ハク我に帰ったように質問する。

「そうだけど、セルボタンが無いのは知らない」

原付はギアも無い。

「は? キックスタート? カブか? ……それ絶滅危惧種に限り無く近づいてんだろ、なんでそれで勝負の話しになってんだよ!」

「いいから教えて」

呆れながらも、「仕方ないな」って言いたげな顔して説明するハクと、眉ひとつ動かさない一臣の対照的な2人が話してるのを、内容が何一つ分からないまま、流衣はポカンとしながら何故か動かずに聞いていた。そのうち一通りの説明が終わったのか、一臣は流衣の前をちらりとも見ずに通り過ぎて行った。流衣はその後ろ姿を漠然としたまま見送った。

(……ったく、しゃーないな、あいつ……今度はどこのどいつに引っかかってんだ、族なんか? 最近めっきり族なんて居ねえのに)

声にはださないが、沸々と湧く疑問に首を捻りながら店に戻ろうと前を見ると、一臣の姿を目で追ってる流衣に気が付いた。

「気になんの?」

からかうつもりは無いが、好みのタイプ? くらいの口調で聞いた。

「うん。気になるの」

ものすごくストレートな返事が返ってきたので、逆に驚いてしまう。

「へえ」と声が漏れた。

 藤本くんって……学校だと人を寄せ付けないオーラがあるけど、今の背中なんだか凄く……「寂しそう……」流衣にはそう見えた。

漏れたと言うには、少し感情が出過ぎた消え入る声での呟き、発した本人はそれに気付いて無い。

(さみしそう……って言ったよな)

朧げながらハクの耳には聞こえた。

「ふ〜ん」

考え込んだハクの相槌は、流衣の感心を呼んだ。

「え? 何か……?」

「そんなに気になるなら言ってやろうか?」

「言うって、何を……?」

流衣は何のことか分からず、ほけっと聞いた。

「だから、そんなに好きなら、代わりに伝えてやるって言ってんの」

ニヤつくハクにようやく気がついた。

「えっ? えっ⁈ す……って違っ、無い無い、何で⁈ 」

違う違う、そっちの「気になる」じゃ無いっ、どうしてそうなるのー⁈ 流衣は慌てて手をバタバタさせて全否定。

「そこまで否定されると、こっちが引くわ」

「そんな事言ったって、藤本くんみたいな頭の良い人が……そんな、まさか、ありえない!」

否定し切れてない流衣を見て

「お前さ〜何いってんの?」

「え、何って?」

「その言いっぷりだと、自分は相手にされないっ意味じゃねぇの?」

「うん、そうだと思う」

「それお前の意思じゃなくて、ただの想像でふられた時の言い訳じゃね?」

ハクは正論で指摘する。

「あ、そっか、……でも私なんかとはレベルが違うし、藤本くんの達人ノートは別世界で理解不能なの」

「ノート? 何それ?」

「東大受ける受験生の塾の講義みたい」

「……あいつそんなに優秀なの?」

「うん。それはもう異次元の魔術師クラス」

「パラレルワールドならいっそ告っても行けそうな気がしねえ?」

「魔法使いになって、勇者を召喚して世界を救う冒険にでるのに告白タイムいるかなぁ」

「冒険物に恋愛ドラマ交えないとユーザー増えねーだろ」

「あいのり状態からの大炎上で打ち切り決定」

「尺増しの為の捏造告白だからだろ」

「ヤラセを楽しむゆとりなくて、憎さ百倍に行っちゃう、ファンタジーユーザー? けれど私はせいぜい村人A」

「妄想が暴走しすぎて、ファンタジーまでいったがその自己肯定感の低さどこからきた?」

「私が低いというか、藤本くんが高いというか、初登山でマッターホルンは無茶だよね」

「あのなぁ、おまえの発想の孔明レベルの奇想天外は置いといて、……さっきから話逸らそうとしてねーか?」

「……うん」

素直に認める流衣。

「……なんて言うか……気になるんだけど、恋愛感情とは違う気がするの、……よく分からない」

生きてる世界が違うと言いたいらしいが、なんて説明したらいいのか分からなくて色々考え悩んでると

「何だ一緒か……。俺もあいつ気になってしゃーないんだわ」

ハクのなにげなカミングアウトに、仲間を見つけたみたいで流衣は嬉しくなった。

「ハクも?」

「だからってなんかするわけじゃねーけどな、……あ、あいつには内緒な、変に勘繰り入れられて世話焼いてると思われても困るから」

「言わないよ。挨拶してもずっと無視されてるし……話す事なんてないし」

そんな心配ご無用とばかりに少し沈んだ顔をする。

「無視? 一臣が?」

「うん。1週間ずっと」

「……学校だからじゃね? あいつ、仕方なしに行ってっから。人の声とかシャットアウトしてる……座禅組んでる修行僧だと思っとけ」

(……仕方なしに学校に行く。そんな感じなのか……うん、それなら納得できる)

「修行僧……嫌われてるんじゃなくて、関心がないだけなのかな……と思ったの間違いじゃなかったかな」

「まーな、何か聞きたいことあったら外で聞きな、ちゃんと答えると思うぜ、そっけねえけどな」

気にすんなとカラカラ笑いながら言うハクが、陰ながら気にかけ見守る兄の様に見えてきた流衣は、何やら頼もしく見えてホッとするのだった。

 

 日野史子はSスタジオに2度目の打ち合わせに来た。2度目といっても、最初は発表会を合同でやるかどうか、確認の為に訪れたに過ぎず、内容の打ち合わせとなると今回が初めてだった。流石、仙台で一番大きいバレエスタジオだけあって、立派な建物で、レッスン室も大小合わせて5つもあった。その内の小さいレッスン室は会議室に早変わりし、本日、日曜日の打ち合わせ会場になった。

 会議室にはいつもの三教室の先生達が三人、Sスタジオからは代表してふたりの先生、会議の内容をまとめて直ぐにブログに書き込めるよう、事務のスタッフも同席していた。手元にはSスタジオの考案した進行スコアの書類が何枚か置いてあり、そこにはスタジオ側の意向がハッキリと書かれており、それはSスタジオ主催を公言するのと一緒でこちら側としてはあまり面白く無い。

 その発表会の形式は三部構成、午前中はジュニア(小学生以下)午後からは大人バレエのクラス、シニア(高校生以下)のバリエーション。夜の部、全幕ものの『眠りの森の美女』。

(…思った通りだわ)

と日野史子は思った。こちら側の他のふたりの先生もいい顔はしてない。

「確かSスタジオさんはいつも秋にやってらっしゃいますよね、発表会」

「立花バレエ」の立花が口を開いた。

「そうなんです。でも今年は生徒の数が把握出来なくて、夏頃ようやく全幕が出来るまで落ち着いてきたので年末になってしまいました」

発言したのは、Sスタジオの代表の娘である斎田晶子。四十代前半の二代目である。

「うちは人数が多いので、いつもホールを一日中借り切って、おさらい会のような形で新人さんにも出て貰うんですけど、今年は流石に全日は無理かと思った所に、会場が見つからないお話聞いて……、お役に立てて良かったです」

 斎田晶子に悪気はない。バレエでは無く、ジャズダンスをメインにやっていたらしく、同じダンサーでもバレエダンサーとは視点が似て非なるため、会話が噛み合わなくなることもしばしばみられる。しかしこれは、確実に恩を着せられたようだ。

(何この上から目線……)

(そりゃ確かにうちは小さいし、生徒のレベルも敵わないけど)

(……お宅の前座じゃ無いわよ)

日野と立花と江刺の三人は、ここで言うわけにはいかないと、心の中にモヤモヤする物をグッと堪えた。

(……怖いんだけど)

 対峙する四人の不穏な空気感をヒシヒシと感じたのは斎田の隣りに座る金田隼人というコンテンポラリーの講師である。校長、斎田代表から、自分の代わりに打ち合わせに出てと言われて参加したが、断れば良かった、と心底思った。けどここで逃げるわけにもいかず、空気を変える為に切り出すことにした。

「バリエーションはもう決まってますか?」

話が切り替わって全員一様にはっとした。

「うちはシニアの弥生に『パキータ』をやらせようと思ってます、他の子達はジュニアと一緒ですから」そういったのは江刺。上手い子にはソロ、まだソロ無理な子は、パドゥ・トロワかカトル、といったところか。

「うちはまだちょっと決めかねてます」

立花はシニアの子が5人いてそれぞれちからが均衡してるので、迷いに迷っている。

「まだ時間あるので迷って貰っても全然大丈夫です。日野先生のとこはどうですか?」

「うちは『タランテラ』あっ……と、美沙希は『眠り姫』では何をやります?」

今更ながら開いてなかったのを思い出してに質問返し。

「美沙希は『リラの精』ですね」

「それを聞いてから決めようと思ったのよ、もう少し時間貰っていいかしら?」

「どうぞどうぞ」

金田はにこやかに答えた。

(……リラか、まあそうよね。さて、流衣ちゃんどうしようかしら……)

日野の悩みはそこだった。

「あ、そうだ皆さん。相談されてたゲストの男性ダンサーですが、スケジュールの調整ついたので、秋山に決まりましたから、宜しくお願いします」

黙ってると場が持たない為、サクサクと進行する金田、何とか会合を早く終わらせたい。

「えっ? 仁君?」

「まあ、秋山君なの?」

先生達も喜んで、一気に明るいムードに早変わりした。

「なんか色んなものが見えそうだけど、仕上がりは早そうね」

陽菜のキラキラスイッチの入り方を目撃した日野は、女の仁義なき戦いが繰り広げられそうな予感がした。

「それじゃ、『眠り姫』のデジレ王子も秋山君がやるのかしら?」 

立花が大変じゃない?と言いたげに聞いた。

「いや、秋山にはそちらの3教室のパドゥドゥをメインに入って貰うので、リハの都合上合わせる時間を考えると流石にそれは無茶ですから、デジレはおじさんで申し訳ないですが自分がやります」

自虐的に自分をおじさんと揶揄するが、まだ30代である。コンテの講師だが、勿論クラシックダンサーでもある。ダンサーとしてはもうおじさんの部類にはいるのはわかってる。後輩の秋山はまだハタチの若者でそのイケメンと踊るのとでは、天地ほどの違いがあり、自分が相手では可哀想だと気を使う。しかし一番は〈金銭的〉な問題で、発表会シーズンは、男性ダンサーの稼ぎどきという大人の事情もある。金田もここで頑張らないと、講師としての給料だけではキツイのだ。

「……提案が有るのだけど、いいかしら」

日野は対面に座る2人を見据えて、切り出した。

「何でしょう?」

斎田が応えた。

「提案とゆうよりお願いなんですが、こちらの生徒達も『眠り姫』に出していただけないかしら」

「いや、そのお話はちょっと……」

頂けませんと、相手のその表情が物語る。

「うちの様な小さい教室では、発表会で合同でやっても、ガラの様な個々のバリエーションが限界で、『全幕』ものなんてとても無理。でも、バレエの醍醐味はやはり『全幕』でしょう? 見るのでは無く、出演する事でそれを味合わせてあげたいの」

日野の切ない訴えに他の2人も頷いた。

「お気持ちはわかりますけど、もう配役は既に決まってますし、今更変えるわけにはいきません、それに、うちの生徒達で十分事足りるので、他所様よそさまの生徒さんが入る余地は有りません」

斎田はすっぱりと断ったが〈よそさま〉の一言に、図々しい、を読み取った一同は、揃って黙り込んだ。それは金田にも派生し、横でうーんと唸った。

「日野先生それは、群舞に出るという事ですか? それとも役が欲しいという事ですか?」

唸った金田が口を開く。

「群舞でも出られれば、今後の励みになります」

群舞と言ったものの、流衣が群舞では目立ってしまう。はっきり役が欲しいと言わなかったことに後悔した。

「金田先生、群舞だって、うちの子達だけで足りてますよ」

斎田が釘を刺す。

「そうだね、ならいっそ、ソロかパドゥドゥを増やせばいけるんじゃ無いかな?」

「何言ってるの⁈」

斎田が慌てて制止しようとする。

「3幕の結婚式の客を増やせば良いよ、大体、本家本元でさえ、青い鳥や赤ずきんが式にお祝いにやって来る無茶振り設定なんだから、パキータやエスメラルダが客で招かれても違和感は無いでしょう?」

そのアイデアで日野達は、浮足だった。

「それは……願ったり叶ったりです!」

「良かった、では、教室ごとに一曲ずつで行きましょう。何を踊るのかはお任せしますが、パドゥドゥをやるときは、今月中に教えて下さい、秋山に伝えなきゃならないので」

「それじゃあ、パドゥドゥのバリエーション入れても大丈夫なんですか?」

「ははっ、逆に助かりますよ、秋山は『眠り姫』のほうは出番がないもので、新しくコンテ振り付けようかと思ってたくらいですから」

コンテは振り付けもやる金田。秋山仁はエネルギーを持て余してる二十代、三教室のゲストだけでは物足りない、の判断でソロなら喜んでやるだろう、との思惑もある。

「あら、それはそれでみたいわね」

「これでうちの子達張り切ってくれるわね。凄く喜ぶわ、きっと」

立花も、江刺も、生徒達ではなく自分達が気合いが入った様子、今までのモヤモヤしてたものはかき消され晴れ晴れとした気分になった。

 

「どういうつもり?」

3人の先生が帰り、部屋に残った斎田が恨みがましそうに金田問い詰める。

「どうもこうも無いですよ、3幕が10分や20分長くなったところで、特に差し支えないでしょう」

これからネチネチ始まるな、と思った金田は現実逃避の為に、秋山に振付けるつもりだったコンテを自身の頭の中で模倣した。

「何言ってるのよ『眠り姫』はうちだけでやる筈だったのに、他所様の教室の子達を踊らせるなんて、なに考えてるの⁈」

〈よそ様〉の一言に部外者というはっきりとした区別が丸見えである。

「じゃあ何故あんな発言したんです? あんな言い方したら先生達が気分を慨するに決まってる」

金田にしてみたら、小さくても自分の手で教室を持ち、切り盛りしてる先生方のほうが、エレベーター式に経営を乗り継いだ二代目より、余程尊敬にあたいする。

「何故って当然でしょ。ホールを又借りするのだから、遠慮してもらわないと困るじゃ無い。あくまでうちのSスタジオがメインなんだから」

「それがわかってるから、腰を低くしてきてたじゃ無いですか、なのに……あんなマウント取りしなくても……」

深い溜息をつく。悪気がない分厄介な存在だ、おまけに視野が狭い、相手の教室が小さいからと侮って、無意識に敵を作ってしまうのでは愚かすぎる。

「マウントなんて大袈裟ね、けどホール代はこちらもちだし、ゲストダンサーだってうちのコネでしょう、感謝して貰ってもバチは当たらないわよ」

斎田は鼻から息を吐いた、元々ホールは1日貸り切るつもりだった。そこへホールを貸して欲しいと言われて、午前中リハーサルをするつもりだったのにそれを譲ったのだ。それによって午前のリハが無くなり、場当たりしか出来なくなり、それなりに迷惑かけられてるのよ、というアピールだった。

「その分チケットを持ってもらうんだから、イーブンですよ、それに、秋山の名前使ってチラシ撒くつもりでいるでしょ? 少しあからさまじゃないですかね?」

毎年、発表会の時にチラシを作っているのだが、さもバレエ団の公演のように仰々しく作られている為、同業者から、どう思われてるのかと思うと居た堪れない。

「あなた私の経営に口出しする気?」

斎田は自分が見栄っ張りである事を気づいているのかいないのか、金田の忠告には耳を貸さない。

「そんなつもりは有りませんよ、少し大袈裟だとは思ってますけど。もし経営に口を出すとしたら、うちに日野先生をスカウトするようにと力説しますね」

面倒だから言わなかったのに、斎田の横柄な口ぶりにイラついて、思わず口にしてしまった。

「日野先生? あそこはあの三つの教室の中で生徒さんが一番少ないじゃない、何故スカウトしなきゃならないのよ」

非難されたような口調に意をつかれたのか、品の無い言いかたになっていく。

「少人数の教室だと過小評価しては駄目だと言ってるんです。特に日野先生の所のシニアの上級クラスの子達は、うちのプロフェッショナルコースの子達と遜色無いですから」

少数精鋭とは、指導者の実力がモノを言う。

「遜色ないなんて、大袈裟ね」

ふんっとたかを括ったように鼻で笑った。

「今回オーロラをやる冴木乃亜より、美沙希の方が上だ」

分かりきった事を言われて、ぐっと言葉に詰まる斎田。

「美沙希が埼玉のバレコンで6位になったのは2年前だ、今なら1位を狙える。でもその美沙希がプロコースに来ないのは、そうすると掛け持ちできないからで、日野先生の所を辞めない理由がなんであれ、それだけ魅力的だという事でしょう」

 スタジオの掛け持ちを許すのもかなり特別だが、金田が日野に興味を持ったのは8月お盆休みに入る前、〈ヒノ・アカデミー〉にコンテのレッスンに行った時からだった。


 夏の暑い日、節電のため設定気温を高くしてある為決して涼しいとは到底言えないレッスン室に入った。上級クラスの子達が思い思いにストレッチをしたり、バーに付いたりしていたが、金田を見るや一斉に集まり挨拶したのだか、自己紹介が終わると何事もなかったかの如く戻って行った。仙台市のバレエ教室講師の会合で何度か面識があった、日野先生からコンテのレッスンをして欲しいと懇願されて来たのはいいが、コンテンポラリーのレッスンを初めて受けると聞いていたので、何かのリアクションがあるのかと思っていたのに、緊張感すらなく拍子抜けした気分だった。

「もー、誰かあの蝉鳴くの止めてぇ〜な」

完璧な関西弁が聞こえて来て金田は驚いた。レッスン室がある建物の横に大きな桜の木があって、競い合う蝉の鳴き声がする。

「確かに暑さ倍増するね」

「流衣ちゃん、あの蝉なんとかならへん?」

「何で流衣ちゃん⁈」

陽菜が聞き返す。

「んー、籠も網もないから無理かなぁ」

流衣がサラッと答えた。

「そこ……ふつーに答える所?」

光莉が、素直過ぎない? って呆れた顔してる。

「木に登って取ってもいいけど、全部取るの無理だよ」

「だから真面目に答えちゃ駄目だって、みっちゃん?」

美沙希が何でそんな事言うの? と咎めるように理子みちこを見る。

「流衣ちゃんカエル触れるやん、蝉もいけるんちゃうかな〜と、思ってんけど……うちそんなに悪いことゆうた?」

咎める言い方されてドキドキする理子。

「ごめんって、勘弁したって」

流衣に向かって拝む様に謝った。

「え? 何で謝るの?」

流衣はキョトンとしてる。

「やーん、みっちゃんってば小心者じゃーん!」

柚茉ちゃんが理子をピシッとたたきながら、冗談交じりに言うと、みんなも一斉にキャラキャラと笑い出した。

「おもしろ〜い。みっちゃんって、ズバッと言うわりに素直で真面目だよね。そゆとこ好き〜」

陽菜が理子に抱きついてそんな事を言うと、皆んなうんうんと頷く。

「何や、うちからかわれたん? ちょっ、陽菜放しいな」

理子か体を回して離そうとするが、陽菜がくっついて離れない、その姿が母親にしつこくおねだりしてる子供の様に見えて可笑しくて皆んな大爆笑。

 金田はひとり蚊帳の外。まるで女子校の教室にきたかの様な部外者の感覚になった。この緊張感の無さは何だろう? ローザンヌ国際バレエコンクールのビデオ審査に応募するから、コンテンポラリーのレッスンをして欲しいと言われてきたのはいいが、この雰囲気……国際コンクールを舐めてるとしか思えないのだが……、確かビデオ審査に応募するのは『流衣』とゆう名前の子だ、とするとこの蛙を触れる娘なのか? いや蛙はどうでもいいが、美沙希ではないのが疑問でそれを確かめる為にきたのが本音だ。

 美沙希はSスタジオでは、実にクールでしっかりした大人のイメージでその子が、みんなと一緒にキャッキャッ言って笑っていかにも十七歳の娘らしい顔をしてる。意外だったが楽しんで息抜きにこの教室に通ってるのか、……しかし美沙希は『プロ志望です』とはっきり言った子だ、そんな甘い考えであるわけが無い、そう思った。対照的なふたりを見比べて、この娘……小さいが脚が綺麗だな、バレリーナにありがちな前太もも大腿四頭筋の発達が目立ってない。だがそれ以外に目立った特徴は無いように思えるが、とりあえず踊りを見て見ることにした。

 レッスンが始まると金田のその懸念は見事に外れた。柔らかいバレエシューズでセンターをやらせてみたら、思ったよりもレベルが高いのだ、皆一様に上半身のブレが少ない、基礎に関して金田が注意することは特にないのだ、これには驚いて感心した。しかもそれぞれ個性的で、程々に緊張感はあるが先程の楽しげな雰囲気は崩されない。皆んななんていい顔して踊るんだろう……。感心してレッスンを進めて行くと金田はふと気が付いた。皆んなの視線が集中する場所に——『流衣』がいたのだ、直接見るのでは無く、鏡越しに眼をやる、その娘がそれに応じてにっこりと微笑む、すると安心して踊り続ける、それが随所見て取れるのだ。まるでこの娘が指導しているみたいだ。

「これでいいのかな?」

「うん、大丈夫」

そんな会話が聞こえて来そうなアイコンタクト、何だこの一体感。いくら仲が良くたってこんな事できるものなのか? それに……これだけ技術レベルが近いなら、少なからず嫉妬心が出て来てピリピリするものだが、それらが全く感じられない……。 

日野先生が言ってたローザンヌにチャレンジする子、この娘の雰囲気は何だ? 何故こんなに皆んなから信頼されて頼られてるんだ? 技術面ならどう考えても美沙希の方が上なのに……妙に目立つ。美沙希より目が引きつけられる。振り向く瞬間、動き出す瞬間、背中のラインがとても綺麗で思わず見惚れてしまう、バレエで後ろに向きを変える瞬間に眼を奪われるなんて、なんて新鮮な視界なんだ。しかし惜しい、これでもっと技術が有れば……いや、そうか、そう言うことか!

金田は合点がいったように手を打った。日野が横で金田に向かって微笑みを浮かべ小声で語り掛けた。

「だからローザンヌなの、分かって貰える?」

「ええ、目標は高い方がいい」

 日野の考えを読み取った金田は、ぐるっと教室を見渡した、そしていつものセンタールーティンでウォームアップしている女の子達を順に眺める日野の目に指導者以上の暖かい感情がある事に気がつく。日野が見てるのは今では無く、次のステージに進む道。今回のビデオ審査は次回の審査の為の布石で、本人の意識向上の為だと確信し、改めて自分の指導者としての怠惰を痛感した。

 金田は何ゆえ美沙希がSスタジオでプロコース一本に絞らないのか、何故この教室を辞めずに掛け持ち迄して続けてるのがわかった気がした。


「良い環境に身を置いて、楽しんで踊れば自然に笑顔になる、それに越したことはない」

金田は言い切った。

「楽しんで踊りたいならプロになる必要はないわ、そんな甘い世界じゃないわよ」

斎田はバッサリ切り捨てる様に言った。

「それはそうですが……」

身も蓋もない言い方をするなと金田は思う、人材育成は金をかけただけ成果があるものだと思ってる人間に、その子個人にあったビジョン展開する日野先生のやり方は、時代遅れとでも言うだろう。これ以上無駄な言い争いは時間の無駄だと判断して会話を終わらせようと思った。

「三幕の時間延長については認めて下さい。そのほうがうちのスタジオの懐の深さの宣伝になりますよ」

どうせ校長に怒られるのは自分だ、と金田は腹を括った。

「あら、それもそうね」

言い出しっぺは私じゃないし、パンフレットに客演と入れたら、確かに宣伝になるわ、名案が浮かんで少し良い気分になる斎田だった。


 打ち合わせが終わり日野は、自宅では無く事務仕事の為スタジオに寄ることにした。自宅から5分ほどのスタジオは以前は倉庫として使われていた場所をスタジオとして改造したものだ。正面の入口から入ると左側がスタジオ、右側が事務所兼更衣室、その奥にトイレ、シャワー室と続く。格別広い訳では無いが、元倉庫だけあって天井が高く開放感がある。玄関前は駐車スペースが5台分あって広い、裏通りに面していて出入りするのは、乗用車を利用する場合が殆どで、徒歩や自転車で出入りする者は、建物の横に細い5mほどの路地を抜けると広い幹線道路に出るそちらを利用する。こちらの道路はコンビニやらパン屋などの店があり裏通りより賑やかで、数年後には地下鉄の駅ができる予定の場所が道路沿いにあり現在工事中、多少迂回しなければならないが、自転車で通ってる流衣はそっちの道路を使う。

 入口の扉を開けるとレッスン室に流衣の姿が見えた。日曜日は団体レッスンは入れてない。カルチャーセンターの教室は持ってるが最近は、香緒里先生に専任で行って貰ってる為、日野は基本的に日曜日は休みになった。

 バイトの無い日曜日は、流衣はレッスン室に入り浸り朝からひたすら踊りに熱中していた。

「おはようございます」

先生が来たことに気が付いたので、レッスン室からひょこっと顔を出して挨拶する。

「おはよう。皆勤賞ね」

日野は感心して言った。10月最初の日曜日、流衣は高校に入ってから毎日顔を出してる、正確には夏休みから、強制した訳でも無いのに1日も欠かさずに。

「へへっ」とペロっと舌を出すと

「じっとしてられなくて……『タランテラ』やってました」

照れ臭そうに言った。

(この子は本当に練習好きね、陽菜ちゃんがこれの半分でもやれば、振り付け直ぐ覚えられるのに、あの子は今頃、家でポテチ食べてるわね……)

日野は溜息をついた。

「練習はいいけど、オーバーワークにならない様にね」

「はい」

流衣が練習に戻ろうとした時、日野は呼び止めた。

「流衣ちゃん。発表会出てみない?」

「え?」

日野は何か心配するような面持ちで流衣を覗き込む。

「あの、発表会は……」

どう返事していいか迷ってしまう。

 バイトを2つ掛け持ちして、今まで稼いだ額は二十万にはなるから、発表会に出るにはギリギリで間に合う。でも、ローザンヌには出場出来る訳ないとして、これから色々なコンクールに出るならば、出場料やレッスン代が別に掛かる、前回は先生の好意で衣装代だけで済んだ、けど何度も甘えるわけにはいかない。お金の事もさることながら、前回の発表会のことも思い出されて、苦々しく複雑な心境から戸惑いが隠せない。

 流衣の思いは日野が一番よく分かっているつもりだった。流衣だけ特別扱いしたら、気にするのは本人だと。

「レッスン代と衣装代だけ何とかならない? 本番前の特別レッスンは多分、11月の日曜日になると思うけど。今回ホール代はSスタジオさんが持ってくれるから負担が少ないのよ」

日野は流衣が出せるであろうギリギリの所で譲歩した。

「そうなんですか?」

流衣は少しだけ心が軽くなった。

「流衣ちゃん、『シンデレラ』演りたく無い?」 

「『シンデレラ』! 」

『シンデレラ』そう聴いただけで、流衣の胸が躍り出す。日野は流衣の表情を見て、それが崩れないうちに今日の打ち合わせの内容を矢継ぎ早に語った。

「〈エコール〉さんは『パキータ』で、〈立花〉さんは『キトリ』か『エスメラルダ』だと思うから、流衣ちゃんに『シンデレラ』を踊って欲しいの」

シンデレラが魔法を掛けられて、舞踏会で踊るとても綺麗なバリエーションは、テクニック難易度は決して高く無い。コンクールなどで踊られる確率が低くて知名度が低いのはラストのターンの多さ、舞台を2周するターンは出来に左右され、コンクールでは偏りが見られるからだろう。

(……シンデレラ、流衣ちゃんに向いてるのよね、何とかその気になってくれないかしら)

 Sスタジオからの帰り道、イギリスのバレエ団の公演で『シンデレラ』が『眠り姫』の結婚式に出てたのを思い出して提案した。……日野の思惑は通じるのだろうか。流衣は考えるように視線を中に浮かせたまま

「先生……それだったら、『四季の精霊』じゃダメですか?」

「四季の精霊……」

『シンデレラ』に出てくる『四季の精霊』は魔法使いと一緒に出て来て、シンデレラに魔法を掛ける、春、夏、秋、冬、の精霊達の事である。

「流衣ちゃん、本気で言ってるの?」

日野の思いは一蹴された。——しかし「どうせ出るなら、皆んなと一緒に出たい」とゆう流衣の考えが直ぐに分かった。

「……ダメですか?」

「ほんとにそれでいいの? 舞台で主役のバリエーションを踊れるチャンスなのよ?」

日野は念を押した、この時はまだ、流衣の複雑な気持ちを全ては理解しきれて無かった。

「でも……皆んなと全幕ものに一緒に出るチャンスもあんまり無いと思うし……、四季の精霊の四人のコーダは会場が盛り上がると思うんです」

(なんて欲のない……)

 それは仲間を大事にする流衣の長所であり一番の短所でもあった。それでは、いつまで経っても変わらない。

(この子は闘争心がなさ過ぎる)このままではいけない……と日野は深い溜息を吐く。しかしそれとは別に、そのアイデアは悪く無いと思った、『四季の精霊』の踊りはそれぞれがソロで踊ったあとの四人で踊るコーダは壮麗でダイナミック、結婚式で祝福の踊りとして成立する踊りである。

「本当にそれでいいのね?」

「はい。みんながいいなら」

嬉しそうに答える流衣を見て、今回は流衣の意志を尊重する事にした、発表会なら楽しむのは悪くない、闘争心はコンクールに出る時に発揮してもらおう、と日野は考えた。

「仕方ないわね。じゃあ皆んなに聞いてみましょう」

「ありがとうございます」

笑って御礼を言ったけど、流衣は先生の気持ちを踏みにじった様で辛かった。

(先生は私がお金の事で悩んでると思ってる、けどそうじゃない、確かにお金は問題だけど、それよりも舞台の最後が辛い……。主役級を踊るなら尚のこと出迎えてくれる人が居ないのは寂しい……。シンデレラ……踊りたいな、綺麗な衣装着て、舞踏会に出たら嬉しいだろうなぁ……)

流衣はそこまで考えて、我に帰った。

(やだな私ったら未練がましい……ダメダメ、もう忘れよう。結婚式のお祝いの踊りなら『四季の精霊』の方が絶対合ってるし。陽菜ちゃんが『タランテラ』で仁くんと踊るから別として、以前に美沙希ちゃんとは踊ったけど、みっちゃん達と四人で踊るの初めてで、あ……なんか、わくわくしてきたっ、みんなやるって言ってくれるかな……)

みんなと踊ってる姿を想像しながら、流衣はバーについて一番からやり直し始めた。


 金曜日の夜、深夜1時まで営業の居酒屋は駅裏とはいえいつもなら大勢の客で賑わいを見せる、だが今日は雨のせいか客足が途絶え、まだ十二時前なのに完全に店は空になった。

「今日はもう上がっていいぞ。ああ、帰る時ビールケース外に積んでってくれ」

バイトの今田は店長に言われて、いつもより一時間以上早く上がることになった。

「じゃあ、お先します」

店長にひと声掛けて、カラ瓶の入った2ケースを持ち上げ外に出て、いつもの回収場所にケースを置いた。今田は定時制の高校に通い、空いた時間はバイトをしてる。夜の居酒屋のバイトは土日祝の週二回か三回、本当は昼間働きたいが、なかなか思うように見つからない、以前はコンビニで働いていたのだが、震災で一旦解雇されてしまい、ようやく物流が回るようになりもう一度雇って貰おうとしたが、タイミングを逃して近所の主婦に取られてしまった、いまはこの居酒屋だけだ。

(居酒屋だけじゃ、週二十時間にならねえな)

今田がこだわる週二十時間は、学校の優遇を受けられるラインなのだ、それを越さないと免除にならない、免除対象は定時制の生徒のみ出される給食費だ夜間に掛けて行われる授業の為、夕方に食事が出る。苦学生の多かった時代の名残りで、ここだけ昭和のようである。決して高い金額では無いが、年間トータルすると馬鹿にならない、その申請期限が今月末。

(ぎりぎりまで粘ってバイト探してみるかな)無料の求人情報を手に入れる為に駅の方角に歩き出した。

「よお、今田。久しぶりじゃん」

呼び止められて、その声にドキッとした。

「安原。なんか用かよ?」

ヤバい奴に見つかったなと思った、十月に入った途端、よるは涼しくなり今夜は特に風が吹いてる、その夜風が肌寒く感じた今田は、バイト用のTシャツの上にNorth faceの黒いトレーナーを羽織った。

「何か用かないだろ、お前ら最近来ないから、梶の奴心配してんだろ」

安原はつるんでた三人が姿を見せないので梶の命令で探りに来たらしい。

(しらじらしい……何が心配だ、パシリが居なくて不便なだけじゃねーか)

「あ〜、つうかさ、俺ら今就活中だから、遊んでる暇ねーんだよな。お前らはまだ三年だから良いだろうけど、こっちは次卒業だからさ」

「……ダブりで悪かったな」

元同級生の突っ込みに、安原は機嫌が悪くなった。定時制は四年制である。

「お前もさ、いい加減あのイカれ野郎と手を切ったらどうなんだよ、その内酷い目に遭うぜ、菊池みたいに……」

菊池とは、折れたバットが額を直撃して、頭蓋骨が陥没した男である。

「運が悪かったな」

安原にとっては他人事だ。その言い草にカチンときた。

「なんだよそれ、運が悪いで済む問題かよ? 菊池はあのせいで、右眼の視力が0.01まで落ちちまったんだぞ、失明しなかったから良かったものの……あれが少しでもズレた場所に当たって致命傷になって障害者にでもなったら、お前ら責任取れんのかよ⁈」

「悪いのはあのスカシ野郎のせいだろ」

安原の発言に——。

(何言ってんだこいつ、あのバットは梶のモンだし、振り回したのも梶じゃねーか、だいたい五対一でかかって行って相手が悪いって……超ダセぇ)

今田は呆れてしまった。それとちょっと違和感も感じた。

(安原ってこんな奴だっけ……?)

 自分らと一緒でちょっと馬鹿だっただけなのに、今年の初めに、梶と一緒に停学くらって、後期の試験受けれなくてダブってから、ふたりで連むようになってタチが悪くなった。梶はキモが据わっててヤバいオーラが出てる凄え奴に思えて、一緒にいるとちょっとした優越感に浸れた、しかし段々と本性が現れ見えてきた梶に、キレ方がガチでまずいと思うようになり、何かに巻き込まれる前に距離を取っちまいたい、と考えるようになってからの菊池の怪我。まさに『渡りに船』だった。

「悪いけど、もうつるむ暇ねーんだよオレら。遊びてぇなら他の奴見つけてくれよ」

「随分簡単に言うじゃねーか、梶の奴がそれで納得すると思ってんのかよ」

「納得って何だよ、オレは梶の舎弟じゃねーし、何回か一緒に他校生シメただけで友達でもなんでもねーよな? 梶だって怪我やっと治ったんだろ、もう辞めとけよ」

今田はもう本気で手を切りたがっている。安原はイラついた、こちとら後一年以上あいつと付き合わなきゃなんねえんだ。「やめたい」「はいそうですか」ってオレが認めるわけに行くかよ。

「ちっ!」

安原は忌々しそうに舌打ちすると、今田をぎろりと睨み付け喋ろうとした時、ジーンズのズボンのポケットから着信音が聞こえた。安原は無造作に携帯を取り出すと、面倒くさそうに出た。

「誰だよ」

知らない番号のその相手と喋り訝しげな表情になる。

「……赤嶺? あーお前か、何だよ、なんでおれの番号知ってんだよ? あ? 梶? ……わかった、すぐいくわ」

電話を切った。

「呼ばれたから行くけど、お前らのことは梶に言っとくわ、どうするかはあいつに任せっから、どうなってもオレを恨むなよ」

捨て台詞をはいて安原は去っていった。

「厄介な奴らと連んじまったな……。菊池と後藤に言っとかねーと……」

今田は呟きながら、駅に向かう筈だった方向を変えて、家の方角に歩き出した

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