もどかしくて いとしくて

桑田ゆかり

第1話 心の痛みと体の痛み

 2011年9月


ひとりの若い男が夜中の住宅地を彷徨い歩いていた。

何度も後ろを振り返りながら。なにかから恐々逃げてる様子。すると突然、目の前のグレーのセダン車のヘッドライトが照射され、男が照らし出される。まだ未成年と見られる男は舌打ちし、走り出す。

 目の前に無数の団地が見えて来た、全て五階建ての住宅で同じ棟が五十以上はある。

(あの中に入っちまえば車はこれねぇ)

男はそう思った。フェンスがあちこちにあって、歩きでも袋小路になる。その事に車の中の人間も気付いたらしい。さっきからしきりにハイビームとロービームを繰り返し警告している。

(ざけんな、誰が止まるかよ!)

心の中で叫びながら男は迷路の様な団地の中に紛れ込んで行く。もう車は入って行けない。

「……馬鹿な奴」

車の中で呟いた。

「折角、そっち行ったらヤベェって教えてやってんのに……」

薄い色の付いた眼鏡に、ハンチング帽を被った男は煙草に火をつけながら言った。〈奴ら〉の為に郊外まで来る羽目になった、——もう真夜中。ほんの数時間前、コンビニの前でたむろってた〈奴ら〉が因縁をつけて来た。まったくもってしつこく絡んでくるから、応える事になったが……。

「しゃあねぇ、待つか」

煙草の煙を深く吸い込み吐き出しながらシートをリクライニングしてゆっくり待つ事にした。

 男はフェンスを超えた。さらに左に逃げる、後ろを振り返って見ても車は追ってくる気配は無い。五人いた仲間は、逃げる途中で散り散りになった。

(何なんだあの野郎……。あの背の高い左眼の下に黒子ほくろがある……男。あいつが生意気だなんて大樹が言ってチョッカイかけてたら……突然、大樹がぶっ倒れて、横に居た光輝の胸ぐら掴んで身動き出来なくして、オレらをゆっくり見渡した……あの眼! こいつヤベェって思った。多分みんなも同じく思ったにちげえねぇ、そして気がついたらここまで来てた。何が起きたのかもよくわかんねぇ、……けど追って来てる、そいつぁ分かる、どうしろってんだ、チキショウ!)

 男は団地の外側の場所迄来て、気忙しく走っていたのを緩めた。歩きながら人の気配がない事に気づいた。真っ暗で一箇所も明かりが灯いてない。

(……この団地、人が住んでねえ?)

 この一角は65棟の団地の中でかなり古く、建て壊し予定の為人が住んでいなかった。それにやっとこ気が付いて男は少し薄気味悪くなった。

 ——シュッ……。

 ライターの点火する音が斜め後ろから聞こえた。

火の灯りが視界に入ると煙草に火を付けた人物の顔が浮かび上がる。左の泣き黒子がはっきりと見てとれた。

(マジかよ……)

男はギクリとした。逃げようにも足がすくんで動けない

(こいつ……高校生……だよな。ぜってぇ年下のはず。なのに、なんだこの威圧感……)

近づいてくる高校生に後退りするのが精一杯の男は建物の壁に行く手を拒まれた。

「最後のひとり……」

 至近距離まで近づくと、長身から見下ろしながら眉一つ動かさずポツリと言った。

「最後? じゃ、ほかの奴らは……」

 やられたのか? オレが最後⁈ そう口から出る前に、目の前の男の手に何か握られてるのに気が付いた。

「……?」

その手には、見慣れた赤いラベルにコカコーラのロゴ……。しかしよく見ると。見た事があるキーホルダーがそのペットボトルのネックに掛かっている。

(圭太の原チャリのキー!)

「お前圭太に何しやがった⁉︎」

びびって腰を抜かした状態にもかかわらず、男は食ってかかった。

「別に……」

恐ろしく無表情のまま答えた。

「んなわけねぇだろ、じゃあそのキーなんだよ!」

「向こうが勝手に置いて行った」

淡々と口にした。

 何を考えてるのかまったく読み取れない機械のような……それ程感情がこもってない声。手に持ったペットボトルを軽く振ると……炭酸がボトルの中で弾ける音がする。

(? 何する気だコイツ……)

「……答えないから……」

ペットボトルを持ったうでを大きく振りかぶり満身の力で込めて男に目掛けて打ち下ろす!

「ひっ!」

 男は咄嗟に防御体制を取り体を低くしうずくまる。

ゴス! 凄い音がした。

 壁に打ち付けられたペットボトルは張り裂け中身の炭酸が派手に周囲に散乱すると、蹲った頭から降りかかり、男はコーラまみれになった。気持ち悪いがどこも痛くない……。それが分かるとベトベトになった体から緊張感が抜けやっと息を吐く、すると眼の前に泣き黒子の顔が近づいて来た。この至近距離で見ると鼻筋の通った端正な顔立ちがみてとれる。その端正な顔から冷徹とも言える抑揚の無い声で話しかけてくる。

「俺の何が気に食わないって?」

唾をゴクリと飲み込む。

「……なに?」

「誰もまともに答えてくれないんだけど」

(何言ってんだコイツ……)

何も言わずにとぼけた顔を向ける男に対して、左手の指先を壁に向けると。

「スタッコ塗装の壁……」

 団地の下、土台部分の塗装は小石などを吹き付けて行うスタッコ塗装が施されている。ゆず肌塗装とは違いゴツゴツした感じは月面のクレーターに近い。

 男が指先に釣られ壁に顔を向けた瞬間。泣き黒子は右手で男の顔半面を壁に押し付ける。

「痛え!」

 デコボコした壁に押し付けられて、驚きと痛みが同時に来た男は、もがいてみるがピクリとも動かない、動くと余計に痛みが増したので静かになった。

(コイツ、やさ男のくせしてどんだけ力あんだよ!)

「このまま横に引いたらどうなると思う?」

 ——ゾッとした。

(コイツはやる、脅しとかじゃねぇ! ふざけんな、こんなデコボコの壁に擦られたら、顔がえぐれちまう! 何なんだよ、何なんだよ、何なんだよ!)

「何が気に食わないの?」

先程と同じ質問を繰り返す。言葉の内容とは裏腹に、丁寧で優しげな口調がなおのこと恐怖心を煽る。

「……理由なんてねぇよ」

正直に口にしたのだが。

「言ってる意味が分かんないんだけど」

泣き黒子の男は右手に力を入れて親指の爪ほど横に滑らせた。

「ぎゃあっ!」

クレーターに顔を擦られ悲鳴を上げた。柔らかい瞼に傷が入り、滲んできた血が滴り視界が赤くなった。

「いきなり殴ってきて、『気に入らない』『 理由は無い』 ……通るの?」

「ほんとだって! ケンカふっかけんのに理由なんかねぇよ! つーか、最初にいった大樹に聞けよ!」

どうやったら、何を言ったら解放されるのか分からず、人になすり付けてしまうが、その大樹は最初にやられてる。

「……基準は?」

 妙な事を聞く。基準?

「なんだ、基準って……」

「気に入らない、もしくは、気に食わない、の基準」

まるで子供に聞くように噛み砕いて説明する。

このヤロー、バカにしてんのか。と思ったが、自分がどれだけ喋ってもこの男の腕は微動だにしない——この〈泣き黒子〉に迷いも躊躇ちゅうちょもないのが、腕を通して伝わる。顔を大根おろしにされては堪らないと、苦々しい思いを呑み込み考えた。

(目があって、引かねえ奴は気に食わねぇって、ただそれだけじゃねえか、説明って、それはつまり…)

「……強ぇのか、弱ぇのか、はっきりさせてぇ奴……?」

必死になって考えて答える。やはり〈泣き黒子〉の男は一ミリも動かない。焦燥感に襲われる。

「あ、けど」

思い付く限り、色々な事を言ってみる。

「大樹の奴は……、あんたみたいにタッパある奴、ただムカついて殴りたかっただけだと思う……。あいつ小せえからさ……」

 身長や顔立ちを僻みやっかみの理由にするならコイツはまさにうってつけだよな……。けど、なんか目つきがやべえ、こんな奴に関わっちゃマズい……。ぜってえヤバいって。

——スッと、頭から手が離れた。

(……?)

押さえつけられてた頭が自由なり、痛みのある顔に手をやりながら恐る恐る、横に立つ男の全貌を下から眺める。

 少し離れた街灯の灯りがそのシルエットを浮かび上がらせ、うえから見下ろされる均整の取れた顔立ちに、美しいというよりむしろ死神から品定めされてる感覚に陥りさむけがした。

 何かされるのかと身構えてた男だったが、〈泣き黒子〉の死神は何事なかったかの様に振り返り歩き出した。

(……帰るのか? ……オレはもういいのか? 解放されたのか……)やっと安堵した。

——すると。

だがその男は、何かに気づいたのか、振り向いてこちらにくる。

ぎっくん。折角解けた解放感から一転して、全身に力が入る。

目の前に来ると、まだ座り込んだままの男の前に、原チャリのキーを投げ置いた。しゃがみ込むと、おもむろに手に持っていた底の裂けたペットボトルを手渡すと、肩をポンポンと叩いて

「これ捨てといて」

男は目を見開き

「……はい」

とだけ返事した。

泣き黒子の男はその後何も言わずに立ち去った。

完全に視界から消え去った後、ようやく緊張を解いた。

「……コーラじゃなくて、オレの冷や汗かよ……」

身体のベトベトの理由に気付いて、改めて深く深呼吸をした。


「で? どうした」

セキが車を走らせ乍ら言った。ハンチング帽は兎も角、色付きの眼鏡は夜間運転には適さないだろうが、外すことはない。

「……別に」

一臣は特に言う事はなかった。それもそのはず、身長あるからムカつく……。そんな理由で因縁付けられて殴り掛かられて……。なんなんだろう……。

 助手席に座り窓外の景色が流れて行くのを……ただみている、信号で止まると道路沿いの店を照らすスポットライトが明るく車の中まで反射すると顔が窓に映し出され目の下の黒子が浮かびあがる、しかし一臣には顔とゆう認識ではなく景色の一部にしか見えない、それは『感情』という人としての情が欠けている為であった。

 藤本一臣(ふじもといおみ)は、数ヶ月まえのあの日、感情が消えた……。

——何も感じない。喜び、怒り、哀しさ、楽しさ、愛情も……わからない。なにをどうすればいいのか……。最初はただボンヤリと時間だけが過ぎて行く毎日、何もしなくても腹は減る、けど何を食べればいいか分からない。……そんな日常生活が続いていた。

 物心ついた頃からずっとサッカーをやっていた、よくいるただのサッカー少年。受験の為中学3年から休んでまだそのまま……再開してない。もう一年以上前の話だ。だが、朝から動くのが日課になっていたせいなのか、じっとしていられず、身体がふらっと動き出す。学校でもそうだった、同じ時刻に目が覚め惰性で学校には行くものの、気がつくと外に出ている。ある日、いつものように学校から出て彷徨っていたら、コンビニの前で煙草を買うために並んでいた男達に絡まれた。

 理由は分からない、喧嘩などした事が無い一臣は、なすすべなく袋叩きにされた。痛さで身動きが取れなくなった時ふたつの事に気が付いた、ひとつは痛み。痛い……痛みはわかる、心が何も感じなくても、空白でも、身体のあちこちの細胞から悲鳴が聞こえる、この痛い感覚でなんだか生きてる気がした

……もうひとつは、人をここまで殴る怒りの理由。その原動力。ここまで人を痛め付けるには自分だったら、かなりの怒りが湧いている。何故怒ってるんだろう……。その理由を聞けば、それが分かれば、自分の感情が戻るきっかけが掴めるのでは無いかと思った……。そして今に至るが理由はまだ掴めない。みんな一様に『理由なんか無い』という。

「強いか……弱いか……」

 あの男が言ってた言葉。

「あん?」セキが反応した。

 それが因縁の理由なら……つまらない。馬鹿らしい……呆れた。と思うだろう、普通なら。でも今、それが感じない……よく分からない。

 喧嘩は強い奴が勝つんじゃ無い、上手い奴が勝つ。

それがこの四ヶ月で嫌というほど分かった。しかし、一臣にとってはそれは欲しい答えでは無かった。

「なんだそれ?」不思議そうに聞くセキ。

「さあ……」

一臣は曖昧に返事をした。


「え、将監団地まで行ったの?」

 佐々木琥珀は、洗い物をしながらそう言った。大和町にある居酒屋『時玄』十二時迄の営業時間を終了して後片付けと翌日の営業準備を手際良くこなす。マスターと二人で何とか回してる本当に小さな店だった。佐々木琥珀は通称ハク、身長が188もあって威圧感が半端ないのだが、長髪でまったりと喋る青年は意外に客受けが良く、本人も居心地がいいのかもう一年以上もバイトに来ていた。

「いおみ〜。収穫あったんか?」

「別に……」

表情を動かさないで答える、ハクは、だろうな。と思った。

「まあ、ごくろうさん。アダッ!」

カウンター越しに付いてる流しの上のカップボードに頭をぶつける。

「よくぶつかんな。いい加減〈尺〉覚えろよ」

セキが呆れながら、ぼやいた。

 店の作りと身長が合っていないから、油断すると頭部が犠牲になる。因みに、頭部に気を付けていると、膝が被害に遭う。人間の自衛本能とは生命を脅かすものではないと敏感に反応しないらしく、あちこちにぶつけてアザを作る毎日。

「しゃーねーだろ、ここマスター仕様なんだから」

マスター165cm。店の作りをオーダーメイドの程で喋る。

「嘘コケ、だいたいこんなもんだろ飲み屋の作りって。おまえがデカイだけじゃねーか」

言い訳すんなと言わんばかりのセキだが、そういう自分も180超えている。

「んな事言ったって好きででかくなったんじゃねーや。オレの理想は178だったのに、……まさかそれより10cmも伸びるなんて思ってもいねーし」

170以下の男子から万力で潰されそうな台詞だ。だが正論でもある。身長は努力で何とかなるモンでは無い。それで因縁つけられるのは大迷惑である。

「そういや、でけえからムカつくって言われたんだよな」

セキが思い出して一臣に問いかける。

「そうだけど」

抑揚を出さずに返事する。

「いつもの事じゃね? 俺なんかヤッさんに『役人の視察出張だな』なんていわれたしなぁ」

ヤッさんとは店の常連のひとりらしい。

「何だそれ」

セキはわけわからんって顔してる。

「(税金の)無駄使い……」

一臣がボソッと言った。

「あーなるほど」

「納得すんな!」

ハクとセキが貶し合うように会話してると

「帰る」

一臣がそう言ってスッと立ち上がり店から出て行った。

店に残った2人は顔を見合わせる。

「いつも通りだな」

ハクが一臣の態度を見てそう言った。

「そりゃそうだろ」

セキはなんでハクがそんな事言ったか解らなかった。

「珍しく深追いしたから何かあったんかと思ってさ」

「ああ……今日の奴らバラバラに逃げやがったからな、一人づつ追ったから時間掛かったな、あいつにしては……」

関 郷(セキゴウ)は、今日はドライバーに徹していた。ひとりづつ追い掛けたせいだ。

「ひとりづつかぁ……」

ハクはソファ席を贅沢に斜め使って座ると煙草に火を付けた。セキもカウンター席に腰を下ろして煙草をふかし出した。

「はー、落ち着く」

店内禁煙ではないのだが、接客中は自分は吸えない為辛い。

「完全にヤニ中毒だな」

セキがニヤつきながら言う。

「おめーもな」

お互い様だっつーのって顔のハク。

「この店、喫煙オッケーなんだから、いっその事こと『禁煙者お断り』にしたらウケんじゃねーかな」

 そしたら従業員も吸い放題できんじゃないのか?という、浅はかな考えのハク。

「何、時代に逆行してんだよ。アホウ」

「やっぱ世の中禁煙ブーム?」

 何やら悲しそうにボソッと呟く。

 だよなぁ……、震災直後は煙草買う為に毎日コンビニに並んでたしな……、喫煙所探すのも面倒だしな……、禁煙するっきゃねーのか。いや、ゼッテー無理だな。んな簡単に出来るわけねーし

——一臣なら出来そうだけど。

「一臣か……」

 頭にポンと浮かんだのでそのまま口に出した。

「あん? 一臣がどうしたって?」

「あいつ……どうやったら戻んのかと思って」

「どうもこうも……、なる様にしかならんだろ、感情なんか……その内戻るだろ」

「けど、もう半年この状態で……だぜ? 今更ポンと戻ったりすっか?」

「は? 半年もそうなのか?」

 セキがスッとぼけた言い方をするので、ハクは驚いた。

「あれ? お前知らなかったっけ?」

そういやコイツと連むようになったのって夏からくらいだったな。

「知らねーな」

セキは初耳だった。

「あいつ震災で姉ちゃん亡くしたんだわ、そのせいでかどうか分からんけど、あいつハッキリといった訳じゃねえから憶測だけど、多分……じゃねーかな」

「姉ちゃん……シスコンかよ?」

からかうのでは無く真面目に聞いた。

「さあ? けど、んな感じしなくね? 元々執着心も無さそうだし感情的には見えねーし。そうじゃ無くて……酷かったんじゃねえかな、津波でやられたらしいし……」

 遺体とはっきり言えない痛々しさが皆んなにあった。

「はっきりしねえってことは、お前も昔からのダチじゃねーのか?」

セキが疑問に思って聞く。

「まぁな。あの後……4月終わりくらいかな、一臣が店の裏で血だらけでうずくまってたの……。驚いて声掛けたんだけどな、無言で去って行って……営業中だったから俺もそん時はそれで終わったけど、一週間後に又同じ場所で血だらけになっててさ……」


「……大丈夫かよ?」

 ハクは恐る恐る声をかけた、以前と違って今夜は店仕舞いの途中だったので声を掛けた。

「使えよ。病院行く気ねえんなら」

 その言葉に反応する様に顔を上げてハクを見ると、おしぼりを手に差し出されてた。黙って受け取る。店の裏手には狭い道路が通っていて、小さいが街灯がある。その薄明かりに照らされてみる男は顔に何箇所か裂傷があって、瞼からの出血が多い、まだ若いどう見ても年下だ。その少年は立ち上がろうとしたが動作が途中で止まった。痛いらしい。胸を押さえてる所をみると肋骨をやってるようだ。けど、一言も発しない。

「誰も居ないから、中に入れよ」

 そう促すが、動かない。いや、どうやら動けないでいるらしい。

(しゃあねーな)

「ほら」

たまりかねてハクは肩を貸すと、自分とほぼ同じ身長で、お? と思った。お仲間じゃん? の、『お』

 店の中に入り一番長いソファ席に座らせると

「……うっ」

小さく呻き声を出した。座った振動が腹に響いたらしい。

「お前、先週も店の裏にいたけど、同じ奴らにやられたんか?」

違う…… と言わんばかりに首を横に振る。

 街灯よりはマシな明るさの店内で怪我の様子を見て見ると、瞼の傷以外はそれ程でも無かった。この前見た時は額からも出血していて、顔の判別は出来なかったが今日は違う。

(なんだこいつ……結構男前じゃん。この顔でこのタッパで、何で喧嘩なんかしてんだ? チームのリーダーの女にでも手ェ出してボコられたんか?)そんな想像を膨らませていると、腹の痛みが落ち着いたのか、思い出した様に手に持っていたおしぼりで顔の血を拭いだした。素の顔が出てきて左目の下の黒子が目に付いた。

(ありゃ? ……結構……どころか相当な男前だな……。前言撤回、女に手を出したんじゃ無くて、女の方が惚れて修羅場。が正解かな?)

妄想で楽しむハク。

(……んと待てよ、この顔何処かで見た気がする……? 客で来たんなら憶えてるけど。えーと、……どこで見たんだっけ?)

「……お世話さま」

ボソッと聞こえてきたかと思うと、立ち上がって出ようとしたらしいが、またもや痛みで動きが止まった。顔が苦痛で歪む。

 ——いや、お世話さまって……。

「おい、大丈夫かよ? そんなに痛いんなら折れた肋骨、肺に刺さったりしてねぇのか?」

 ちょっと心配になって怖い発想するハク。此処で倒れて死なれでもしたら困んだけど! なんて。

「……それは無い」

 身体を折り曲げた状態から上目遣いに見られ、そう告げられた。

「……そうなってたら、動く余裕なんて無い。これは……骨膜が予想以上に損傷してるだけ……」

呼吸が辛いのか、息を切らしながら喋っている。

「骨膜?」(何だそれ? 聞いた事ねー)

と、思うハク、それを察したのか——

「……骨の周りを覆ってる組織で、血管や神経が通ってる。骨折するとそこが損傷して痛みが出る」

(—こいつ医学部の学生か⁈ いや、んな訳ねーよな……。どう見ても年下だし。悪い奴には見えないけど、おかしな奴だな……)

と一括り考えたちょっと助言したくなった。

「おまえのあばらやった奴、茶髪で赤ラインのPUMAの上着着てなかったか?」

 〈赤ラインのPUMAの上着〉に反応して、ハクを見つめ直す。

「……知り合い?」

「冗談!」

思いっきり嫌そうに手と視線を泳がせた。

「〈八軒中〉 出のタチの悪い野郎だよ、革靴履いてたろ? 革靴で蹴り入れて相手の肋骨やるのが趣味のいかれ野郎だ。あんま関わん無い方がいいぜ?」

「——あのツマグロヒョウモン……」

ジャージに革靴、金属バット。体育教師より趣味の悪い男だった。その悪趣味ないでたちを思い出したのと、肋骨の痛みで吐き気がして来て、そのまま黙って立ち去った。

「つまぐろひょうもん……って何よ?」

 次に会うまで、その言葉が頭にトグロを巻き続けることになった。そしてそれは予想より早く訪れた。


「ン? 今の……」

 ランチ営業の準備をしてる最中、店の前にいる男の顔に見覚えのある泣き黒子が見えた。

「おい、ちょっと」

名前がわからないので、そう言って呼び止めた。東高校の制服を着た男がゆっくり振り向く。

 間違い無い、この前の怪我人だ。平日の昼間に高校生がここで何してんだ? とゆう疑問は直ぐに解消された、店の隣の自転車屋にパンク修理に来てたのだ。しかしそれで、平日の10時40分に学校に居ない理由にはならないが、高校中退で何年も働いてるハクには、チャリのタイヤの方が生活に大事なため矛盾点を突くに至らなかった。

 あれから5日程経って、改めて昼間見て自分より2・3cm低いだけの身長と傷の癒えた整った顔の無表情さに威圧感を覚えた。

(やっぱり高校生か……にしても)

「お前さ、礼をしろとは言わねーけど、挨拶くらいしたらどうなんだよ?」

黙って突っ立ってるのでそう言ったが、肩貸したくらいで何言ってんだオレ……? と思ってしまった。オマケにわざわざ呼び止めたことにも、自分的に意外だった。

「この間はどうも……」

(あれ?素直じゃん……単純に冷静なだけか? けど、いやに無表情だな、能面みたいだ)

「いや、その……普通に歩いてるから……肋骨なんでも無かったんだな」

戸惑いを隠せないハクは、取り繕う様に話しかけた。何でこの高校生がこんなに気になるのか分からない。

「3本折れてた」

そんなハクの疑問に淡々と答えた。

「は?」

 3本⁈

「嘘だろ⁈ 3本あばら折って動けんのか?」

たった5日やそこらで! 痛みに強いのか、鈍感なのか。

「……次の日、起き上がれなくてずっとベッドに寝てたら、親にバレて強制的に病院に連れて行かれて……。右の第6・7が折れて第8にヒビ入ってた」

他人事の様にサラリと言う。

「それ、重症じゃねーの?」 

聞いてる方が痛い。

「でも単純骨折だから」

サポーターで固定したら動けたのでそれ以上はどうでもいいと思った。

「単純骨折って……」

そうゆう問題か? こいつどっかおかしく無いか⁈

「聞いていい?」

急に質問がきた。

「瓶に入った飲み物ある?」

「は⁈ ……ビン?」

どうゆうイレギュラーな質問なんだ? 関連性が何一つ無くて、ハクは〈?〉が頭から浮いて出そうだった。

「あるこたあ、あるけど」

 居酒屋営業だからアルコール関係のものはある。ジントニックやジンジャーエール……。

「あるなら分けて欲しい」

「まぁ、いいけど」

ハクが店の中に入っていくと、後から続けて入って来た。

「今飲むんなら」

そう言って出したのは

——ZIMA.

 高校生にアルコール。自分基準。

「……これ持ち歩けない」

冷静に断る。

「呑みたいんじゃねーの?」

「できればジュースがいい」

「は? じゃあコンビニ行けよ」

よっぽど種類あんだろ? と真意を測りかねる。

「ペットボトルしか無い」

「当たり前だろ。……つーか、何でそこまでビンにこだわんだ?」

訳分からん。味の違いのこだわり? 確かに瓶のが美味いけど。

「コーラがいい」

 冷蔵ケースに入ってるコーラの瓶を指差しなから言った。他にジンジャーエールもあったが、いかにもお酒を割る相棒の様子で、コーラがやはりノーマルだった。言われたまま、ハクはコーラをケースから出す。

「いくら?」

「……三百円」

「ぼったくり?」

190mlなので思わず聞く。

「通常営業金額だわ」

メニュー表示に確かに三百円と書いてある。

小銭をジャラっとカウンターに置くと、コーラ瓶を手に取る。

「それ栓抜き要るぜ?」

……今時。知ってるかどうか分からないから取り敢えず言ってみる。

「必要ない」

「じゃあ何だよ」

飲まねーのか?

「これなら持ってても職質されない」

「は?」

何だって? 職質⁈ ってお巡りに? いやいや待てよ。ってことはそれ武器にする気か⁈

「オイ! わかってんだろうな⁉︎ 瓶なんて頑丈なんだぞ。それで殴ったら人死ぬぞ⁈」

コイツの身長からそんなもん振り下ろしたら、2階から砲丸落ちて来んのと一緒だ。

「……それがどうか?」

 表情を変えずに答えた事に、ハクはゾッとした。

「バットを振り回す相手に、黙って殴られるほどお人好しじゃない」

この前はバットに気を取られて蹴りを喰らって肋骨をやられた。

「同じ轍は踏まない」

その言葉を聞いたハクは

(こいつ……無表情で淡々としてるけど、恐ろしく気が強ぇ……。この前あんなにボコボコにされたのにまたやる気なのかよ……、つーか勝つ気?)

同時に、こいつをボコった相手を思いだした。(何だっけ……)

「つまぐろひょうもん?」

それを聞いて、初めてハクを真っ直ぐに見た。

「……その蝶の幼虫」

(もしかして……)

「真っ黒で赤い線入ったやつか?」

「それ」

軽く頷く。

「マジ勘弁……」

昔、理解の教科書か、辞典か何かで見た気がする、えらくグロいやつ。

「……お邪魔さま」

そう言うとコーラの瓶を手に静かに出て行った。

 後ろ姿を見送りながら、……本当にヤル気なのか? 確かあの赤ライン(ツマグロヒョウモン)五・六人で連んでるんだよな……。武器があったって、勝ち目ないじゃん? 

まぁでも……オレの知ったこっちゃー無い、ナイ、ない。

「今の子友達かい⁈」

突如背後から声が聞こえてハクは驚いて飛びあがった。

「マスターかよ!」

嗚呼びっくりした!

「今の藤本君だろ⁈ ハク、友達なの?」

 裏口から入って来た、五十代の髭を生やした小ぶりなマスターは市場から帰ってすぐ、荷物を下ろすのも忘れて手に持ったまま捲し立てた、少し興奮してる。

「いや、全然ダチじゃねーし、コーラ瓶、売ってやっただけ」

嘘では無い。

「何だそうか……残念だなぁ」

露骨にガッカリしてようやく買い出し荷物を下ろす。

「何だよ……マスターこそ知り合いなん?」

「だってあの子、バルサFCの藤本君だろ? 十年に一人の逸材と言われた」

 マスターは大のサッカーファン。地元のベガルタ仙台のファンクラブにも所属している。中々の情報通である。

「バルサFC……? ——って、あ!」

ハクもやっと記憶が符号した。

「思い出した! あいつ、ポスト香川真司って一時期騒がれてた奴だ。バルサユースの!」

「うーん、ハク。それはそうなんだけど、……香川選手のいた仙台のバルセロナFCはスペインのバルサユースとは関係無いんだよ」

「え、そうなん?」

「そう。ただ、どういう経緯かはわからないけど、バルセロナFCにいて、本場のバルサにスカウトされたのは間違いないらしいんだけどね、……有望株って点ではもう少し上かもしれないよ。なんかバルサの下部組織の特別枠だったらしいんだ」

「……下部組織の特別枠?」

なんか凄そう……。

「スペインの事情詳しく無いけど、海外から下部組織に入ると寮生活になるのに、彼だけ出入り自由だったらしいから」

 本当に詳しくはないらしい。

「確か、プロ契約が十六歳からだから、それまで日本で義務教育終えて、中学卒業後にスペインに行くって事になってたらしい」

「マスターなんでそんな個人情報詳しいの?」

 未成年の情報だよなそれ……と思うハク。

「ファンクラブ通信。の記事」

「マジで?」

……どんだけフレンドリーな地元寄りなんだよ……。つーか、あいつ只者じゃあなかったんだな、なんかそんな気がしたわ、うん。……けど、それならもうスペイン行ってんだよな? なんで地元のヤンキーと喧嘩なんかしてんだ……?——

「でも……」

マスターが、口籠る。

「震災で家族が亡くなって、海外に行く話は保留になってるらしい……」

「は?」

 ——親にバレて強制的に——

「でも、親は元気……?」

ハクがボソッと言ったのを聞いて。

「……お姉さんらしい」

マスターは気の毒そうに言った。

「記者さんは震災関連の記事にしたいらしいけど、未成年相手だし、今はまだ落ち着かないから話は来ないだろうね。けど将来的にもし彼が海外に言って活躍する事になったら、震災復興の美談として記事にされるんだろうね……」

気の毒だな、とマスターはしみじみ語った。

「……くだらねぇ」ハクは怒りを感じた。

「美談なんてのは余裕のある奴らの鼻紙じゃねーか。嫌いだね」

 吐き捨てる様吐いた言葉の奥に、ハクの人生感がある、人の話を自分に置き換えてファンタジー化する感が何より嫌いだ。

「まあまあ……。それは人それぞれだよ。大事なのは自分の生き方で、人の意見じゃないよ」

マスターの大人の意見。

ハクはこの時、何かが繋がった気がした。なんであいつが気になるのか……血だらけの姿を見てその姿が記憶に残ったのも……奴が、10年に一人の逸材だからなんかじゃない。

 抜け出そうと、……必死にもがいてる気がした。あの目の奥で訴えてる、その苦しさを沈黙でしか出せない痛々しさが……胸にこたえた。

 あの震災は、被災地の全ての人達の心を傷付けた。被害の大きさは関係無く。

 

 ハクもその一人。あの日、店の中でランチ営業終了後の洗い物をしていた。携帯のけたたましいアラームが鳴るとすぐ大きな揺れが来た、反射的に食器棚を押さえた。けれど食器同士が棚の中でぶつかり次々とビビが入り割れ出した。このところ地震が多かった為に、物が落ちない様に止め金や柵を施してあるがこの揺れでは落ちない分、中でぐちゃぐちゃになって意味が無かった。

 少し揺れが小さくなってきて、食器棚はもう無理だと諦めて外に出ようとしたが、また酷く揺れ出し、その場から一歩も動けなくなった。うずくまった姿勢のまま、冷蔵庫の扉が開いて中のものが吐き出されるように落ちて行くが、見てるしか出来ない。

——これはいつもの地震とは違う——そう思った。誰もが思った。

 3・4分後揺れが小さくなって来て、ようやく外に出る。けれど揺れは収まってない。ずっと揺れてる。見慣れた景色もおかしい、異様だ。車が走って無い、全部止まってる。店の前は二車線道路。その道路の百メートル先には国道四号バイパス。昼間でも交通量はかなり多い。その道路も車が走るのでは無く、あちこちに停車したまま。その辺りを見渡すと、国道を跨いでる歩道橋が落ちてるあり得ない光景が目に飛び込んで来てギョッとする。更に見渡すと、鉄筋コンクリートで出来てる三階建ての建物の一階部分が完全に潰れてる。全国チェーン店の居酒屋が入った建物はこの辺りではかなり古い方ではある。

 最大震度7…それが3分以上続いた恐怖が物語る、中に人がいない事を瞬間的に願った。周りの新しいマンションはさすがに何ともない……。そのマンションの中から何人も外に出て来た人達の中にラジオを手に持つ人がいて、ラジオから「六メートル超える大津波が到達します。高台に避難して下さい。津波の第二波、第三波は更に十メートルを越える恐れがあります沿岸部には近寄らないで下さい。今すぐ高台に避難して下さい」と流れてくる。

 この辺りには到達しないだろうが、とにかくゆれが酷く、電気も水道もすでに止まった状態で携帯も繋がらない。建物の中の危険性を考え、周りの人達に促され避難所の近くの小学校に行くことになった。

 ハクとマスター、近所の顔馴染みの人達と避難所に到着すると、すでに車が学校の校庭から溢れていた。小学生は体育館に集められていた、泣いてる子供達を慰めてる先生や、子供を引き取りに来た親を誘導する先生やらで多少は混乱していたが、騒いだり遊んだりする子はいなかった。

 体育館を素通りし、校舎の中に何処か居場所が無いか探す。人がいっぱいだ。2階の教室の一角に隙間を見つけてマスターと入っていくが、足を伸ばすスペースは無い。ハクは体育座りをしながらアパートに帰ろうかと思ったが、絶対部屋の中はぐちゃぐちゃになってる、もうすでに薄暗くなってて、これから、停電中の真っ暗の部屋を片付けるのは無理だ。オマケに木造2階建てのアパートはどう考えても危険だった。

 取り敢えず、明るくなるまでここにいるしか無い。

そして、今までの人生の中で一番長い夜になる。

避難所まで一緒に来た人達とは学校の中ではぐれた、知り合いは隣にいるマスターだけ。ハクの目の前には小さい子供連れの家族がいて、肩がギリギリ触れるか触れないかの距離。大勢がひしめき合うなかで過ごすなんて初めての事だ。 

 家族連れの持ち物だろうか、ラジオが小さいボリュームで、現実を淡々と語る。津波が沿岸部を次々と飲み込み学校の校舎の三階まで水が上がって屋上で救助を待ってるとか、あちこちで火災が発生してるとか……。犠牲者は100人、300人とドンドン増えていく。時折り聞こえる、地震警報であちこちから小さく悲鳴が聞こえてくる。間もなく大きな地震がくるが、小さくひっきりなしに揺れてる為身体が麻痺してるのか、警報が鳴るほどのもんかな……ぐらいにしか思えない。

 人をかき分けながら誰かが近づいて来た。

「数が足りなくてひと家族ひとつなんです。すみません」

暗闇なので目の前にくるまで段ボール箱を抱えてるのが見えなかった。学校の先生らしい女性から水と小さい袋のクラッカーを差し出された。

(家族って……オレとマスターが親子に見えるって事かな?)

顔を見合わせて、マスターに合図する。

「僕らはいいんで、その分誰かにあげて下さい」

マスターが言うと女の先生は

「すみません」

と言って悪そうに頭を下げると隣の家族に同じ言葉を繰り返し、順番に水とクラッカーを配りながら移動して行った。

その後はずっと震える窓を見ていた。地震が来るたびに窓ガラスが揺れて曇りガラスに付いてる水滴が顔に掛かる。

(冷て……ああ、雪降ってんのか……そら寒いよな……)窓ガラスは曇っているが、雪がチラついてるのはわかる。この状況では寝ることもできない。

 腰の辺りにをグッと押される感覚があった。

(何だ?)と見ると子供の足だった。4・5才くらいの女の子が母親に抱かれながら寝ていた。

(……オレがいなかったら、足伸ばして寝れるよな……)

「マスター、オレ一服してくるわ」

出来るだけ小声で言った。

「じゃあ僕はトイレ」

どうやらマスターも同じこと考えてたらしい。

 2人は人をかき分けながら、教室の外に出た。廊下もやはり人でいっぱい……、かろうじて歩く場所が確保されてる。そこまではわかったが、ふたりは固まってしまった。真っ暗……。教室は雪明かりのおかげで、人の判別が出来たけど、ここまでその明かりは届かない……真の闇……。トイレはどこだ? 階段はどこだ? 

 マスターとハクはそろそろと前に進む、何メートルか歩いていたらサアッと冷たい空気が下の方から流れてきた。ここだな。と意を決してハクは携帯を開く。するとやっと辺りの景色か見えて来た。思った通りそこには階段があったが、当たり前のようにそこにも人がいた。内回りの部分は人が通れるくらい空いているが広めの側はびっしり人がいた。

 それにしても暗い。携帯のライト機能を使いたいのは山々だが、それを使うとあっという間に充電が無くなってしまう。この分ではいつ電気が回復するかわからないので、細々と携帯を使う。その心許ない明かりでマスターとハクは、何とか外に出ることができた。

 外に出て驚いたのは電灯のない暗さだった。何も見えない。あちこちに煙草を吸ってるだろう蛍の様な灯りがポツポツと見えるが、目の前にある筈の校庭、そこに止まってる車、更にこの奥に見える筈の住宅街が夜空との境界線を作っているだけ。

 ぼんやりと小さい明かりが地面から出ていた。大勢が避難するのを想定してか、仮設トイレが3台設置されていた。挟む様に門にソーラーライトが二台置かれていたが、圧倒的な暗闇に対してあまりにも弱々しく、やはり暗い。

 マスターがそのトイレに入って、すぐまた地面が揺れた。足がよろけるほどの揺れ。

(震度四……五……?)もう震度なんて関係なかった。それより早く夜が明けて欲しい……。とハクが思っていると、マスターがヨレヨレしながらトイレから出てきた。

「ああ、怖かった……」

暗くてよくわからないが恐らく真っ青な顔してる。真っ暗で揺れるため便器の周りは糞尿だらけで、違った感覚の恐怖をあじわったからだ。

(転ばなくて良かった……)マスターはスッキリするよりホッとしたのだった。

 その後ハクとマスターは元の教室には戻らず、入り口付近を明け方までウロウロする事になる。勿論座る場所は無く、入り口なので寒くてじっとしていられずに、気休めに、煙草をふかし続ける。ゆっくり吸ってみたりぷかぷかとやたら煙をはいてみたり……。開けたばかりの箱が空になる頃、ようやく、空が白ずんで来た。これで家に帰れる……とこれ程まで朝日を見てホッとして助かったと思った事はなかった。

 ハクはとりあえず自分のアパートに帰った。

玄関を開けると、すぐ台所。

「うわっ……、やっぱひでぇ……」

1Kのアパートは台所のダメージが一番だった。電子レンジが冷蔵庫の上から飛んでるし、コップに皿に数少ない陶器類は床に落ちて粉々になり足の踏み場がない。

「ホウキぐらい買っときゃ良かった……」 

ハクは玄関脇に置いてあった雑誌を表紙をちりとり、中の下級印刷紙をホウキ代わりにしてガラスの破片を片付けていく。少し前に進むとなかなかの飛距離を出してるレンジにたどり着く。元に戻そうと持ち上げたら扉が閉まらなくなっていた。

「壊れてんじゃん……」

と、ガッカリ。これは必需品だからないと辛い。

余計な出費だよな……どうせ停電で使えないけど、……電気いつ点くんだ……? 電気屋はいつ開くんだ? いや、それよりレンジが落ちた場所えらい傷付いてんだけど、これオレが弁償すんの⁈ ……あーもーめんどくせぇ……。いいやもう。考えんのやめた。

 先が見通せない状態に色々考えるのを諦め、代わりに黙々と掃除を始めた。

……愚痴っても何も変わんねーしな……。掃除をしていたら携帯が鳴って驚いた。

『琥珀⁈ 無事なの⁈』

 おふくろからだった、どっから電話してんのかと思ったら、公衆電話からだって、携帯同士は繋がらないのに、すげ〜なアナログ。つうか、やっぱ電波が悪いのか途中で切れてそれ以来連絡して無いけど、唯一の血縁者の無事を確認できたからまあいいよな。

 地震慣れしてしていたつもりでも、今回は全く別物であることは肌で感じていたがこの後暫く、煙草ひとつを買う為に毎日コンビニに並ぶなんて思ってもいなかった。

 食料も数に限りがあって、ひと家族十五点までの個数制限で欲しいものがギリ手に入らない超有名某大手スーパー。点数制限はないが、その日のうちに店に入れるのかどうかわからないほど人が並んでる大型店もあった。

 そんな大型店を横目に、ハクは店に備蓄してた米とパスタ。停電の為保存が効かない冷蔵庫の中身をマスターに貰い、食料品はしばらく買わずに済んで助かった。停電は4日目に解消され、それとともに断水も解消した。幸いな事にアパートはプロパンだった為、ガスは止まらず使え5日目にして、必要最低限の生活が出来て不自由さは無くなった。とゆうかこれで不便と言ったらバチが当たる気がした。

 市場が再開され、4月には店も再開できた。小型店舗が再開して、一般家庭もようやく落ち着いてきたのは5月のGW開けだろうか…。けれど、スーパーどころか、コンビニもドラッグストアも食料品の棚はまだスカスカだった。

「十分だわね……」

 とあるスーパーで、おばちゃん達の会話が聞こえてきた。

「本当ね、こんなに棚がスカスカなのに、困んないね」

「今まで豊か過ぎたんだよね……」

うんうんと頷きながら笑って喋っていた。

(確かに……そうだよな……)

何と無く入ったスーパーで思いがけずに同感する意見に会った。並ばずに買えるだけ助かる。……個数制限あるけどな。(主に煙草つーか、ほぼ煙草)


「オイ、なにさっきから黙り込んでんだよ?」

痺れを切らしたセキが話しかけた。

「あー、……オレどこまで話したっけ?」

「マスターが、あいつが海外行きやめた理由を話したとこ」

 あ、そんなに前? あいつの姉ちゃんの話したせいか、震災の時のことすっかり思い出しちまった。……けど、俺なんかモノ壊れただけで、大変なのは煙草買うのだけだったし、その程度だと辛えとか言っちゃいけないこのプレッシャーなんなの?

「はあ……」

腹式呼吸のような溜息。

「なんツーため息ついてんだよ?」

そんな凄え悩み事があるとは思えねーけど?

「地震と津波のコラボマジやべえ的なたわ言すら言えない風評感こえぇ」

「おまえそれ何のストレスだよ、欲求不満か?」

 ハクが震災当時を思い出してた事を知らないセキは、マスターのベガルタファンクラブから風評被害に話が飛んで、なにがどうした⁈ 訳がわからない。

「怖いのも辛いのも、笑いで飛ばしてやるってのが不謹慎とかいうのセレブ様⁈ 東北人の強さ舐めてねえ?」

「いや、おまえマジで抜いとけ?」

欲求不満が頭に来たか?

「笑い過ぎで泣きてえ」

「……」

ダメだこりゃ

「会話にならねえから帰るわ、じゃあな」

セキはそうゆうと店を出て行った。

「あーじゃあな」

ハクが言ったのが聞こえたかどうか……

 ハクのこのトリッキーぶりはセキを帰す口実みたいなモノで、ただ……ひとりになりたかった。あれから半年経ってるとは言え、辛い……。震災は当日よりその後の方が何倍も堪えた。

 高校生にコーラを売ったあの日………。ハクはようやく自分の生まれ育った場所を見に行く気になった。郷愁に囚われたとゆう訳ではなく、今、見ておかなきゃダメだ……と思ったのだ、後悔したく無い。GW明けの店休日にそれを実行した。

 ハクは沿岸部で育った。港町は男も女も逞しくて、母子家庭でも何も違和感も疎外感もなく育った。その町の……変わり果てた姿を見て涙が止まらなくなった。道路みちに泥はない、車両が通れる幅に物も無い、けどそこまでだ、瓦礫を片付ける余力は……無い。

 よく釣りに行った防波堤もアラを貰いに行った市場も……微妙に面影を残しているのが逆に物悲しかった……。

「ちきしょう……」

 吐き捨てる様に罵るように、言葉が口をついて出た。悔しいのか、悲しいのか……自分でも整理がつかない複雑な心境の中にいた。捌け口が無い……。この怒りを何処にぶつければいいんだ? 皆んな同じで皆んな我慢してるから、表に出すなって? 大人だから? ハイハイ。

 記憶を辿りながら、思いつく懐かしい筈の場所に単車で走って回ってみたが、思い出と一致する所は、記憶と重なる場所の景色が違い過ぎて、生まれ故郷とゆうより知らない場所を流してきた感にして自分を騙そうにも、町中を漂うヘドロの匂いが自分を現実に引き摺り戻し、その度に涙が頬を伝う。

 物悲しさが漂う夕暮れ時、アパートの近くの公園で近所のガキ共が、『津波ごっこ』や『地震ごっこ』してんの見かけて、しばらく眺めていると羨ましいと思ってる自分に気付いたハクは(身体はでかくなったけど、中身一緒だなぁ)とぼんやり思った。横で話し込んでた母親達が子供達の『ごっこ遊び』をやめさせて、「夕御飯だから帰るよ」と言って帰って行った。

(……飯か。そういや朝、コーヒー飲んだっきりだったな……)

腹は減ってるが、食欲は無かった。アパートの前を素通りすると、そのまま少し流す事にした。故郷からの帰り道の間に、気持ちは少し落ち着いた。でもアパートに帰って一人で居ると、今日の気分が繰り返す様で何となく嫌だった、休みの日はパチスロを打ちに行くのが日課だが、それも気乗りしない……。頭の中を空にして、愛車で数時間走り続けた。いつの間にか暗くなり、空腹の痛みが胃にきてようやく帰路に着く事にした。

 コンビニの横から裏路地を通りアパートに続く市道に出ようとしたとき、取り壊し中のビルの遮断する防音幕を潜って入って行く集団を見た。夜間だから工事はしてないが、危険だ。街灯が斜めになってズレた位置を照らしてる為、そいつらの顔は分からなかった。

 五……? 六人か……。男だけだよな。柄悪い歩き方してるし。背が高いのから低いのからバラエティに飛んでんな、女でも連れ込むんならお巡りにチクってやるけど、男だけだからまぁいいか。

 行こうとしたハクの目に飛び込んで来たのは、黒いジャージに赤いライン。

 ——ツマグロヒョウモン!

 てことは、あの背の高いの…あいつか。マジか……、3度目の偶然って、奇跡みてぇだな。——偶然? 奇跡? ……なんか違うな。これが……運命って奴?

「しょうがねぇな」

愛車を置く安全な場所を探しながら、俺も厄介な性格してんなぁ、と呆れて苦笑した。

 

 いつもはふらっと彷徨っていた一臣だったが、この何日かは当たりを付けて動いていて、やっと捕まった。ハクと話しをしてから3日後の事だった。

「一応聞くけど」

 解体中のビルを背後に相対峙している赤ラインの男とその愉快な仲間たちに聞いてみる。無駄なのは百も承知。

「俺の何が気に食わないわけ?」

「気に食わねえ? ムカつくんだよ。おめえみてぇなの」

自分達より背の高い奴に下から凄む男達。

「それ、ひとを殴る理由になる?」

一臣の落ち着き払った態度にカチンと来た男達は

「十分だろーがぁ‼︎」

問答無用で殴りかかってくる。ひとり目2人目は交わせる、けど5対1。3人目が掠ると、4人目でバランスを崩し、5人目に左の頬に確実にヒットされた。

「くっ……!」

殴られた勢いで倒れそうになったが、身体を捻ってこらえた、が、そのせいで痛みが響く、頬ではなく肋骨に。肋骨をやって1週間以上たつが、その当日ぶりに小刻みに息を吸う羽目に陥った。

(……動きづらい)

 歯痒い。自分が思った通りに動けないなら、相手を動かすしかない。そう結論を出すと走り出した。

「野郎、待ちやがれ!」

五人の内の三人が追い掛けてきた。防音幕沿いに裏まで行くと、取り壊し中のビルの剥き出しになった鉄骨を伝い上に登る。三階建のビルは二階部分が地震で潰された形になり、解体作業で潰れた部分より上が撤去され、一階部分を残された状態、剥き出しになった二階の床部分に到達すると、追い掛けてくる連中と対峙するよう向き直る。

「行き止まりに逃げるなんて、お前バカ?」

一番最初に追いついた男が煽る言葉を口にしたが、全く意に返さない。

(三人……。後のニ人は来ないのか? 一周したから位置的に……)

 真下をチラっと確認する。

(いた)

 体育教師より趣味の悪い男。一臣は躊躇なくそのまま標的に向かって飛び降りた。落ちる衝撃を和らげる為に、剥き出しにの2階の床部分の鉄骨に手を付き反動を利用して、趣味の悪い男の隣に立つグレーのマウンテンパーカーを着た少し体格のいい男の背中を狙う。

「うお!」

意表を突かれた男は、隣も巻き込み倒れ込む。

「はあ⁈」

突然姿を消した男を追うように2階の奴等が上から覗き込む、すると、仲間の2人を布団の様に重ねて、その上に立つそいつがいた。

「いってえっ。テメェら何してやがる! どけよ‼︎」

趣味の悪い男が自分の上に乗ってる2人に怒鳴りつける。

「やべえ、梶が切れたぞ! 早く下に降りっぞ」

 二階の三人の内、迷彩服を着た男が、黒いジャージとトレーナーを着た男らを促す。

ツマグロヒョウモンは『梶』とゆう名で、怒らせるとやばいらしい。一臣は2人の上からヒョイと降りた。途端、足元を掬われて前のめりに倒れた。梶が手に持ってたバットを地面で回した所為だった。

「甘い顔してりゃつけ上がりやがって、テメェ覚悟しやがれ!」

 つけ上がって無いし、いつ甘い顔したんだ? 覚悟って何を……? ひとつも理解できない。怒ってるのは分かるけど……さて。

 起き上がる寸前にグレーのパーカーの男に背後から羽交い締めにされ、そこへ立ち上がりながら右腕を突き上げた拳が、一臣の顎をすくった。

「!」

口を閉じていたので舌を噛み切るのは避けられたが、当たった部分の下唇から血が滴り落ちた。

「逃げねー様にしっかり押さえとけよ、安原」

「さっさとやっちまえよ」抑えるにも限度がある。

「てめえ、この前オレの蹴り食らったのに何で動いてやがんだよ、丈夫な奴だな。……けど、今日はそうはいかねぇ」

 梶は一臣を見下ろし、バットを振り上げるとニヤっと笑った。

「一生足引きずって、オレ様に逆らった事を後悔して生きな」

そのまま一臣の足先目掛けて思いっきりバットを振り下ろした‼︎

ガッ‼︎ ——バキッ!

「ぎゃあ!」

 後ろから2階から回って降りて来た3人の内の迷彩服の男の頭部に折れたバットが飛んで当たり、反動で男は倒れ込んで頭を押さえ込んだ。

「何だ⁈」

 一瞬の出来事に何が起きたか判らず、梶は折れたバットを見て驚いてる。

「へー、ブーツタイプの安全靴なんてあんだ?」

 みんなの後ろから突然知らない奴の、何やら少し呑気で感心したような声がして、みんなが振り返る。一臣を羽交い締めにしていたパーカー男の力が緩んだのを感じ伝わらない程度に身体の位置を少しずらした。

「誰だてめえ」

 長身でロン毛、革ジャンのハクに、梶がすかさず反応する。 

「俺? 通りすがりの野次馬。気にしない気にしない」

手をひらひらさせて、お構いなくな程で、バットをへし折った一臣のブーツを見つめ。

「鉄芯?」

と聞いたりする。

「セラミック」

普通に答える。 

「テメェら仲間か」

2人の会話でそう思った梶

「いやまさか」

知り合いだが

「仲間じゃない」

否定する一臣。

「ふざけんな! 工事中の囲ってある中にわざわざ入って来て知らねーだと⁈ あり得ねーだろ‼︎」

グレーのパーカーの男が起き上がって大声で怒鳴った。

「違わねーって。綺麗なねーちゃん連れてるから犯罪絡みなら警察にチクってやろうと思ってさ」

正義の味方のおれイケてんじゃん、なハク。

「綺麗なねーちゃん⁈」

梶達がキョロキョロと辺りを見渡して、一臣に視線が止まる。え?こいつ⁈

「嘘つけ! こんなデカい女が居るか⁈」

梶が一臣を指差して言う。

——どっかで聞いたセリフだな。なんだっけ。とハクは思案しつつ。

「居るだろ、どっかに」

答えた。確かにそうだ。

「それはさておき、男同士の喧嘩ならどーでもいいや、好きにしな」

もっともらしい事を言って、一臣を見た。殴られた痕が赤くなり唇から血が出ていた。

(よく顔いかれる奴だな…。やっかみだろうけど)

そう思ったら不意に仏心が起きたので、聞いてみる。

「手伝おうか?」

「……いらない」

真顔で断わる。あっさりしたものである。

「そう言うセリフは無傷で言うもんじゃね?」

しょーがねーな、こいつ。

「テメェ! やっぱ仲間じゃねーか!」

「知り合いだけど仲間じゃない」

正しい情報を伝える一臣。

「友達でもない」

ハクもそれに続く。そして更に。

「オレは只、オレのコーラちゃんが気になって」

「コーラちゃん⁈」

パーカー男、安原の反応が一々五月蝿い。

「知らねえ? ナイトライダーのコンピュータナビのコーラちゃん」

 ハクは生まれる前のアメリカTVドラマファンらしい、と言うより『トランザム』萌え。

「はあ⁈」

 当たり前の様に、梶とその仲間らは会話の中身がわからず、アホの如く口を開けた。

「それ、『キット』だと思うけど。ナイト2000 の人工知能『K.I.T.T.』」

 一臣は冷静に間違いを正す。

「あれ??」

うろ覚えの記憶を辿り、間違いに気づくが、何故知ってる⁈ と言う所までは気が回らなかった。

「そういえば…。じゃあ、色っぽいコーラちゃんは何に出てくんだ⁈」

「それは、知らない」

「お袋がみてたアメリカのテレビドラマのハズなんだけど…ん〜? 子供の頃だしなぁ、オレ小さかったからなぁ、心も身体も」

うろ覚え全開。冗談も成り切って無い。

「てめえらいい加減にしろよ!」

ふたりの意味深な会話に、とうとう梶が切れ出した。

「訳わかんねー事言ってんじゃねぇ!」

こちらはナイトライダーもトランザムもコーラちゃんも知らなかった。

怒った梶は勢いよく一臣の腹部に蹴りを入れる。

先程身体の位置をずらして抜きやすくして置いた右腕を引き抜き、足を掴んで蹴りを止めた。

それに驚いたのは安原、羽交い締めにしていた男が最も簡単に抜けたから。一連の会話の中で逃げようとも動こうともしない為、油断していた。

——やばい!

安原が思うより早く、一臣は足を掴んだまま安原を振り払い立ち上がった!すると、抵抗する間もなく梶は宙吊りにされた。

「テメェ!」

完全に浮いてる状態の梶は、恥ずかしさと怒りでもがき足掻いて折れたバットで自分を宙吊りにしている男の脚の脛をガンガン叩いた。だが、そこにも “芯” が入っていたため衝撃はあっても怪我をする程の痛みは出ない。

「残念」

上から言われて、カッとなった梶は闇雲に暴れ出し、反動で一臣の手から滑り落ちた。一方で振り解かれた安原は、一臣を羽交い締めし直そうとすぐに体勢を立て直した、が、逆にハクに捕まり羽交い締めにされた。

「忘れてねえ?」

と言いながら

「俺そんなに存在感ねぇの? それともオマエがあんこ足んねえの?」

「オマエら突っ立ってんじゃねぇ! さっさとコイツら潰せ‼︎」

 怒り狂った梶がリーボックの黒いジャージの男とノースフェイスの黒いトレーナーを着た男に指示する。しかしこちらの3人のうちひとりは戦意喪失、一対五が、二対四になり、あとから来た男が、やたらデカくて余裕ある態度でいる為かなりビビっていて、かかれと言われてもなかなか動けずにいた。そんな二人に郷を煮やすと。

「オマエら、オレよりそいつらの方が怖えのかよ……?」

と、ドスの効いた声で脅す。それを聞いたふたりは、我に帰ったように、一臣とハクに襲い掛かってきた。喧嘩慣れしてるとはいえ、格闘家ではなく所詮ゴロツキ、闇雲につっ込んでくるだけの男たちの様は既に何度か見てる一臣はワンステップでかわした。

勢い余ってよろけるが、リーボックの男は体制を立て直して再び一臣に向かって来た。

ノースフェイスの男は交わされて勢い付いたままハクに向かって殴り掛かってきたが、それを羽交い締めにしてた男を振り払うように自分の盾にして殴らせる。

「げっ!」

拳ズレ掠った程度だったが、安原を殴ってしまった男は一瞬ヤバイって顔したのをハクは見逃さなかった。

「何だオマエ、仲間じゃなくて舎弟かよ」

「おい」

ざけんなって顔して、自分に殴りかかった男を見つめる安原。力関係が一目瞭然である。

一臣に向かって来た男は再びかわされ、空振りしたまま勢い余ってよろけて転けた。交わすために身体を斜行した一臣を梶は狙っていた。脇腹に得意の蹴りを入れる為だ、躊躇なく、腹に渾身の蹴りを喰らわせる。 

メキッという音と共に。

「ぎゃあ!」

凄い悲鳴が聞こえ皆が一斉に振り向いた。

そこには、右足を抱えて転げ回る梶が居た。一臣は、ハクがいる方に振り向いて、梶の叫び声に気を取られている安原とノースフェイスを次々と薙ぎ払った。舎弟と思しきふたりは、梶の様子に何が起こったか分からず戦意喪失してる。だが安原は違った。倒れると直ぐに起き上がり向かって殴りかかってくる。

「テメェ何しやがった⁉︎」かかって来ながら安原が聞いてくる。

「別に……」

無表情で答える一臣に、安原は切れた。

「ふざけんな! んなわけねぇだろうが‼︎」

梶の尋常じゃない痛がり様に恐怖心さえ湧いてくる。

「……角度を変えただけなんだけど」

「何⁉︎」

さっきから何度も殴りかかるが紙一枚でかわされ続ける。緩急を付けリズミカルに軽くステップする足に上半身を付けていく。一年以上やって無くても身体が覚えているドリブルの技——サンバフリック。

「ざけんなっ……!」

空振りしすぎで体力消耗が激しく息切れする安原、足元がよたり始めた。それに気付いた一臣は現状を説明し始めた。

「……仲間の心配した方が良く無い?」

「ああ⁉︎」

「脛骨が折れてるから、病院連れて行った方がいい。出来れば足動かさずに」

折れてる。と、いいきった。そこへ、いつの間にか梶のそばに駆け寄っていた、2人が安原に引き攣った顔を向ける。

「そいつの言う通りかも……」

「ちょっ……ヤバイ」

 安原は2人に言われて梶を覗き込むと、顔色が真っ青で、唸り声を上げながら、小刻みに震えてる。人間は自分の想像を超えた痛みを感じると、恐怖心が湧いてくる、かなりの重傷の様である。

「チッ!」

安原は舌打ちすると、2人に梶を抱える様に支持した。

「救急車呼んだら?」

ハクがとぼけたことを言うと、安原は凄んで。

「——マジでふざけた野郎だな」

忌々しげに吐き捨てるように言うと、迷彩男を蹴飛ばして意識を戻し

「トットと起きやがれ。行くぞ!」

ふらつく迷彩男の背中を掴み、歩くように促す。そしてハクを睨み付け。

「オマエ……顔覚えたからな……」

そう言うと、ぺっと、唾を吐きながら、防音幕から出て言った。


「やれやれ」

 ハクは心底安心してその場に座り込んだ。

「あいつら、まんざら馬鹿でも無いんだな」

ところ構わず騒ぐ奴等かと思ってたけど、救急車を呼ばないなら警察にタレ込む事もないだろう、自分達がバツが悪いのが分かってるらしい。

「……何で来たの?」

一臣がハクに話しかけながら、痛むのか腹を抱えこむように隣にしゃがみ込む。

「それ、さっき全部言ったわ」

〈通りすがりに見かけて、俺の売ったコーラが気になった〉

「物好きだね」

あんなめんどくさい奴らに顔を覚えられて迄、首突っ込むなんて……普通は避ける。

「そーゆー使い方とは思わなかった」

安原という男ともうひとりの男を警戒しながらもハクはしっかりと見ていた、一臣が身体を捻って、梶の蹴りを脇腹で受けたのを。

しかも、同時に位置をずらして押し込んだのもハッキリ見て取れた。

あの瓶小さいからポケット入るしな。あー、……脛にあの瓶全力で当てたらそりゃ折れるわ……。

「そこまで考えてたのか……」

ハクがシミジミ言うと。

「いや、偶然の産物」

その考えを読み取った一臣は否定した。

「そうなん?」

「あいつのバット折るの失敗したら使うつもりで……」

思う所があったのか、何か言いたげだが、そこで言葉を切って黙り込んだので、ハクが話し始めた。

「……あいつらはさ、ただ自己満に浸りたいだけなのくらいわかってんだろ?」

ハクの言ったことに反応して顔を向けた。

「なまじっかお前みたいにデカくて強そうな奴みたら、劣等感刺激されて突っかかる、相手をボコれば勝ちだと思う奴らにだから五対一でも卑怯だとも思わんで平気だ。まともに相手してしょっぴかれでもしたら馬鹿らしいだろ?」

ハクは関わるなと言いたかった。

「……戦隊モノも5対1だけど、正義のヒーローらしいけど」

 それに対して何故か、一臣は小さい頃観たヒーロー者のTV番組を思い出し、ヒーローなのに多勢に無勢だなと思った当時を回想してみた。

「五人……七人くらいい居た気がする……」

一臣が付け加えた。

「……そういや……さり気なく、ライダー系も仲間増えてるな」

何故かヒーロー者のTV番組の話になった。子供の頃誰もが通るヒーロー・ヒロインタイムの犠牲者……いや、信者である。

「孤高を保ってるのはウルトラマンかな。いや、ラスボスで助っ人が来たような気がする。何だっけ……?あのサムライみたいな怪人……」

ハクが更に遠い記憶を辿って考えていると

「……ザムシャー」

一臣が真横で真面目な顔して怪人の(星人?)名前を答えた。

「あーそれ! ザムシャー。いや、ちょっと待てよ。そしたら、あの梶って野郎、戦隊のリーダーか?」

「ツマグロレッド」

「……ぶ!」

 ハクが堪らず吹き出した。何故か戦隊モノからヒーロー物のはなしにはなしが飛び火して、更に(人殺し〉 するんじゃないかと心配した奴が、真面目な顔で〈ザムシャー〉なんていうし、しかもツマグロレッドって……。緊張の糸がプッツリ切れて、ハクは腹を抱えて出して笑い出したのだ。

「ギャハハっ、やべー、ダメだ」

完全に壺った。ひとしきり笑って、一呼吸置くと

「俺さ、喧嘩なんてしたことねーんだわ」

 このタイミングでカミングアウト。

「じゃあ、何で……」

「なのに首突っ込んで、馬鹿だよな、おかしくねぇ?」

「……別に」

「は……」

 無表情で答える一臣に、普通だったら横でこんなに大爆笑してたら、釣られて笑うとか、呆れるとか有りそうだけど、俺ひとり大爆笑して馬鹿っぽいじゃねーか!

 それにしても、無関心なのか……でも返事はするし…。なんだこの違和感は……。自分も、あまり人に興味も無いし、事なかれ主義ではあるが……なんかやっぱコイツ気になる。

「お前……、俺の事アホとか頭おかしいとか思ってる?」

「思ってない」

「じゃあ可笑しくねーの?」

「……解らない」

「は?」何が?

「感覚が……おかしいとかの……感情が分からない」

 感情が無い? 嘘だろ? そんな奴がサッカーなんてするかよ、っつーか上手くなる訳ない……そんな馬鹿な。

「まさかだろ? 昔から?」

ストレートに聞いてみると、一臣はゆっくり首を横に振った。

「昔は普通に……得意では無かったけど(感情出すの)笑ったり怒ったり……してた」

 感情がないから悲壮感は無いけど、俯いてるその姿からなにかあったのは見て取れた。

「もしかして、震災からか?」

一臣は黙ったまま小さく頷いた。

「…お前さ、〈ふじもとかずおみ〉 ってんだろ? バルサFCの」

「……知ってたの?」

「マスターがな。気がついたんだ、お前見て。それで俺も思い出した。何処かで見た事有ると思ってたからな」

—その泣き黒子に。

「……」

一臣はそれに対して何も言わなかった。

「お前のねーちゃん……津波の犠牲になったんだってな……」

「……誰にも言った事無いけど……」

「サッカー関係の本の記事に書いてあったって、マスターが言ってたんだ。……その様子じゃあ取材された訳じゃねーんだな」

「……」

 そういえば、親がやたら電話で怒っていたの聞いた記憶がある。あれは、取材の申し込みだったのかも知れない。

「……俺は甘ったれらしい」

「何だそれ」

「……クラブチームのコーチから電話があって、『落ち着いたら練習に来ないか』と言われて断ったら、『辛いのはお前だけじゃない、甘ったれんな』と言われた」

サラッと言ったが、それを聞いたハクの方がイラッとした。

「いやいや、そうじゃねえだろ。何言ってんのそいつ。人によって尺が違うだろ⁈ やる気起こるかどうかなんて人によってちげーわ」

誰だってキツイだろ家族いなくなったら、一括りにすんじゃねえ。

「……走るのも、ボールを追いかけるのも……何なのかわからなくなった。だから……もういい……」

諦めた風でも無く、哀しげでも無く、ただ淡々と

……もういい。

と言ったその一言が、ハク心に突き刺さる様に残った。きっとこいつの才能が分かってる周りの大人たちはサッカーやらせたくてしょうがなくて色々言ってる。それも分かる、けどそれは、こいつの為に言ってるんじゃない。才能を見つけて伸ばしたって自慢したい虚栄心の自己満足の為だ。

「いんじゃねーの? 分かるわオレ……ヤル気出ねーの」

ハクは同情ではなく同感した。

「……オレさ自慢じゃないけど、全国大会で優勝した事あんだよな、小学生の時だけど……。知ってっか? 公式のドッジボール」

「公式……。知ってる。見た事ないけど」

一臣は自分の小学校でスポ小のドッヂボールチームがあったのを思い出した。けど校庭でやるドッヂボールとの違いまではわからなかった。

「ドッジボールってゆうと皆んな軽く見て馬鹿にするけど、学校のドッジとは別もんで奥が深くてさ、パスのルールとかも厳しくてかなりハードなんだぜ、5分のタイムトライアルだからチームワークが必要だし、レギュラーは3年から6年までで形成すんだけど、チームによってはかなり凸凹で実力に差があるしな。……けど、それはそれで味があってオモシれーんだわ」

ハクはケタケタと思い出し笑いしながら語る。

「6年の夏の東北大会で僅差で負けて全国逃した時、体育館が涙で埋まるんじゃないかってくらい泣いちまってさ、…悔しかったなぁ……あれ……。だから最後の春の全国大会で優勝した時同じくらい嬉し泣きしたんだ。全国大会のカラーコートがボヤけるくらい」

懐かしい記憶を掘り出したら、なんかこそばゆくなったハクは、おもむろに煙草を取出し一本くわえた。火をつける為ライターを擦るがつかない。何度かヤスリを回すが、手応えがスカスカだ、百均のフリント式ライターはこれだから……、何度も回転させなんとか火をつけたが、親指が黒くなった。

「吸うか?」

 喫煙者には見えないが、煙草を差し出し薦めてみた。一臣は首を横に振った。

「……まあ、そこまでは良かったんだけどな」

煙を深く吸い込んで、ゆっくり吐き出した。一臣は黙って聞いている。

「……ドッヂの公式戦って小学生までなんだ、だから中学校に入ると、チームのやつらは何かしらの運動部に入ってって、みんなは新しい事にチャレンジしに行ったけど……。俺、なん〜もする気起きなくて。……どうやら、燃え尽きたらしいんだわ」

 そんなやる気の無いオレに、『時間が経ったら何かやりたくなんじゃない?』なんて仲間に言われてそうかなぁなんて思ったけど…。

「なんか違うんだよな……中学校って雰囲気が……。全員同じ服着て、同じ方向向いて、凄い違和感あって、別世界に来たみたいだったんだよな……」

 ハクはなんでそんな風に思ったのか改めて考え様としたが、昔のもう済んでしまった事に対してなにも浮かばなかった。

「……別世界」

一臣は耳に残った言葉を口にした。

「……結局何もやる気は起きないまま、三年通って、親の希望で一応受験はしたけど、もちろん勉強なんてしてねーか成績も悲惨だし、ひでえ高校入って、ヤンキーだらけで話し合わねーからすぐ辞めちまってさ、今こんなだよ」

何で俺こんなに自分の事喋ってんだ…?

「……話しが逸れちまったけど、ようはやる気は本人次第で人から言われてやるもんじゃねーって事よ。定職付かずにふらふらしてる俺なんかじゃ説得力ねーと思うけどさ」

 苦笑いしながら隣りを見ると、やっぱり無表情で、共感してる訳もなかった。

「……一本貰える?」

と言っておもむろに手を差し出す。ハクは、 え?吸うの? と思ったが、ポケットから煙草を取出し、箱の底を弾くと2本顔を出した。そこから一本抜き出してくわえたのを見て、ばかライターを取出そうとしてやめた。自分の吸いかけの煙草を近づけた。火を移すと一臣は深く吸い込んだ。

「……お前、煙草吸うの?」

初めて煙草吸うと大概は咽せるもんだけど、普通に煙を吐いてるの見て喫煙してたのか聞いてみる。

「初めて吸った……」

「……器用な奴」

ハクは感心するより軽く呆れて、自分の煙草の火が消える前に2本目の煙草を吸おうとさっきと同じ動作で取出した。


『心配機能も下がるし、習慣性も有るし、煙草は百害あって一利なしだから』


 姉の言葉を思い出した。生まれて初めての煙草は、甘い香りがした。深く吸い込んだ後息を止めた、頭がクラクラしてくる、煙を吸ってゆっくり吐く、……そこに集中すると他に何も考えなくて済むのはいいのかも知れない。

 2人はただ黙って煙を吐き続けた。

「……いおみ」

沈黙が破られた。

「ン?」

「名前……『かずおみ』じゃなくて『いおみ』」

「へぇ。そうゆう読み方なんだな。変わってるよなぁ、って、俺もだけど」

 琥珀って変な名前って子供の頃から言われ続けてきたな、と思い出してぷっと笑った。

「いおみ……で、話しだいぶ飛んじまったけど、なんであんなんと喧嘩してんだよ、なんか意味あんの?」

ハクは改めて聞いてみた。

「……意味」

 一臣は最初に絡まれた連中のことを思い出した。夜、コンビニの前を通り掛かったら、店の前に居た3人の学生らしい男達に声を掛けられた。何を言ってるのか分からず、黙って行こうとしたら、突然殴られた。意味がわからず、抵抗する気力も無く、ただ黙って殴られた。程なくして気が済んだのか、その3人は捨て台詞を吐いて、去って行った。痛みで暫く起き上がれなかった。けどこの痛みが全身を走るたびに……。

(……生きてる……)

 その時夢から現実に戻された。何も感じなくなって、ひょっとして本当は、自分は死んでいるのではないかと思えるほど現実が掴め無くて、放浪を繰り返していた。

「おい、どうした?」

急に黙り込んだので、気になって声を掛けた。

「身体に痛みが有ると……生きてる気がして……」

「……Mかよ」

 茶化してみたが、無反応。こいつ……ひとにはわかんねーくらい、深い所で傷付いてやんな。ん? でも、待てよ。

「だったら黙って殴られてりゃいんじゃね? 喧嘩の理由じゃないよな。殴り返すのって悔しいからだろ? それって感情じゃね?」

と確信をつくことを捲し立てた。それに対して思案する風でも無く、

「さあ……。悔しいと思った事はないけど、ただ……」

「ただ……何だよ」

 ——俺は死にたいわけじゃない。

「あの、梶って奴だけやたらとしつこくて……」

「あのツマグロレッド執念深そうだもんな、今回の事で、逆に恨み買ったんじゃねーの?」

 逆に恨みを買う……。確かにそうだけど、会う度に絡んで来る上に、バットは振り回すし、殴り方にも躊躇が無くて危険だ。何より……親にバレて心配されるのが……しんどい。

「会ったときにシカトされる様になるには、彼奴より強くなるしかないのかと思って……」 

「……まあ、それもそうだ。けど、おまえ、出歩かない方いいとは思わんの?」

家で大人しくしてるのが手っ取り早いよなぁ、なんて思うハク。

「どうして?」

「会わなきゃいい話だろ。奴等の熱りが冷めるまで……」

「なんで俺が譲歩するの?」

「なんで……って」

「理不尽な目に遭ってるのに、こっちが道を譲るのは倫理に反する。言葉の道理が通じないなら、正面から受けるしかない」

「は……」

 なんつー奴なんだ、ここまでドストレートしてると、呆れる……いや、ハッキリ、スッキリっつーか、気を遣わなくて済む。

「前言撤回するわ」

「?」

「自慢じゃねーて言ったけど、ドッジで全国優勝したの、俺の唯一の自慢だわ」

誇らしげに言い切った。一度こんな風に意気揚々と自慢してみたかった。

「……」

「何だよ黙って、過去の栄光に縋って生きるの変かよ?」

世間的には、自慢しない方が偉い扱いされる。

「何で? ドッヂボールで日本一なら事実上、世界一じゃない?」

逆に謙遜する意味の方が分からない……一臣はそう考える。特にマイナースポーツなら、自己申告、自己発信しないと埋もれるだけ。

「え? 世界一⁈」

何故かハクの方が驚く。

「世界一……何、オレってひょっとしてすげーじゃん!」

 自画自賛して、笑い出した。笑いながら……自分自身がいつの間にか、不本意な人間になってる事に気がついた。気を遣い、空気読んで、内に秘める……。しばらく接客業に励んでいたせいか、いつから人の顔色を見る様になったのか……。それが大人になったという事なら納得するしかない、けどそれとは別に、心の中に酷く病んでる自分がいる事を改めて思い知らされる。

 ひとの我慢には限界がある。

こいつ……いおみと居ると特に、そこに触れて刺激される。

「良心つーか、魂つーか、核……根っこ……みたいな」

「……?」

「おまえ、馬鹿正直って言われた事ねぇ?」

「ある」

「即答かよ」

そういうとハクは呆れて笑った。


「あ、しまった」

 かのは時計代りの携帯を見て、いつもより時間をオーバーしている事に気が付いた。

「あらやだ、八時過ぎてる! ルイちゃん学校間に合うの⁉︎」

時計は、八時十分を表示している。高速インター側のビジネスホテルで清掃のバイトしている流衣は、いつもだと八時ジャストに終了して、自転車で二十分程の距離の学校へ向かう。だが今日は十分押してる。予鈴は八時三十分。

「なんとか大丈夫です。これ片付けますね!」

大丈夫と言いながらも、慌てて掃除道具を片そうとすると。

「それは、いいわよ、片付けは私がやっとくから。ほら早く行って!」

今日のバイト相方してる年配の伊藤は、娘より若い流衣を心配して早く上がるよう促す。

「ほら早く。気にしなくていいから!」

「すみません。お願いします!」

 流衣はその場をお願いして、控室に向かった。部屋に入ると、ホテルの制服から急いで学校の制服のブレザーに着替えて、自転車置き場にたどり着き学校まで猛ダッシュ。幸いな事に、田舎の学校だから裏の農道を通れば信号無し、そこに照らし合わせて時間を稼ぎ、なんとか予鈴がなり終える前に学校が目の前の所まで来た。しかしあと5分で教室までたどり着かないといけない。田舎の学校はチャリ通だらけ、勿論近場は満杯、ただでさえ一年生の置き場は一番奥なのに、更に奥しか空いてない。流衣は自転車を隙間に押し込んで、教室まで走る。追い越し走並みの体力を使い入口まで行くと、本鈴が鳴り始める。先生が前方の入口から入る所だった、先生が教室に入っだと同時に「起立」の声が響く。そのどさくさに紛れるように、自分は後ろからソーッと入る。席は一番後ろの奥。

「着席」

 日直の声が響いた。「礼」は間に合わずスルー、着席と同時に腰掛けた。先生が出席を取り始める。

(間に合った……)

ホッと胸を撫で下ろした所へ名前を呼ばれた。

「はい」

返事をして、ようやくひと仕事終えた気分。本来なら1日の始まりだが、流衣は朝6時から8時までホテルでのバイトに行く為、5時に起きて朝・昼兼用御飯のおにぎりを2個作り、補食として魚肉ソーセージと共に保冷バックに入れる。いつもなら、バイト終わりにお握りをひとつ食べるが今日はその暇が無かった。

(お腹すいた……休み時間に隠れて食べようかな……)

しかし空腹もさることながら、早起きして清掃作業をこなした後は、眠気が襲い出す。しかも1時間目の授業はお経の如く発音が一定している現国だ。そのお経が始まり授業に集中する事が出来無い、先生の声が子守唄に聴こえて仕方がない。あっという間に、身体が揺れだし、居眠りをし始めた。そして授業も中盤になりその時がやって来た。

「あー、次、出席番号5番。読んで」

先生が指名するが、反応がない。改めて出席簿を開き

「5番は……狩野か、狩野流衣。次読んで」

突然名前を呼ばれた流衣は驚き。一瞬で目が覚める。

「はい!」

立ち上がったものの、名指しされた所からの記憶しかない為、何をしたらいいのか分からず、焦りまくる。黒板に質問事項はない。

国語の授業。読む? 読むんだよね⁈

今——〈森鴎外〉だから65ページ? いや最初からの訳ないよね。色んな情報が一瞬で頭を過ぎる……。とそこに〈72〉という数字が視界に飛び込んで来た。右隣の席の机の角に、たった今、書かれたものだった。

 —72、—72

「どうした?」

なかなか読み出さないので先生は痺れを切らして催促した。

「あ、はい。『彼女は思いもよらない深い嘆きに遭遇して、前後をふりかえるひまもなく、ここに立って泣くのだろう』……」

 そしてそのまま1ページほど読み区切りのいい所で

「はいそこまで。次、出席番号15番。読んで」

流衣はホッとして着席した。ゆっくりと横を向いて隣の席を確認する。隣が男子なのは知ってたけど……

(誰だっけ……?)

 一生懸命に考えたが、名前が出て来ない。今は九月、四月に高校に入学し、既に半年が経っているが、流衣はクラスメイトの名前をほとんど知らない。夏休み明けの席替えでこの位置にきたが、その前は出席番号順でまえから5番目、今いる席はその二個後ろでほぼ変わらず、一番後ろの席で常に寝てる為。クラスの子の名前どころか顔すらも満足に覚えてない。共学の普通の公立高校だが、学年にひとクラスしかない英語科で、四十名中男子は四人しかいない女子校のようなクラス。そんな中今日初めて男子の顔を見た。

(……確か背の高い人……だよね? 後で名前聞いてみよう、半年も経つのに変かな? あ……左目の下に黒子がある……)

 なんて考えてたら、落ち着いてきてまたぼんやりし始めた。

 その日の放課後、掃除当番でもない為、流衣は授業が終わった三時に直ぐに学校を出て本日二つ目のバイト先のドラッグストアに向かい自転車を走らせていた。二十分程走り国道を越え、いつもの食堂等の店が立ち並ぶ道を行くと、とある店先に目が行く。背の高い隣の席の男子が、これまた背の高い見知らぬ男の人と一緒にいるようだった。あっ……と思った。でも私服なので確信が持てない、流衣は確認する為ゆっくり近づいて行った。

「えっと。藤本くん?」

 流衣は遠慮がちに声をかけた。

「は?」

 2人同時に振り向いたが、反応したのはハクだった。なんせ一臣に声をかける奴はタチの悪い野郎と決まっていたのに……〈女子〉の声。

(ウソだろ?)

 顔を見て本人だと確信した流衣は、挨拶する様にお隣さんに笑い掛け、安心して喋り出した。

「良かったここで会えて、お礼を言おうと思ったのに、気が付いたら居なくなっちゃってて、クラスの皆んなは『藤本帰ったんじゃね?』って言うし」

「あんた誰?」

一臣は覚えて無かった。流衣は“あれ?” と思ったが、自分も皆んなが言ってるの聞いて、ようやく名前分かったし、私の事知らなくて当然だよね、と思い、何とか思い出してもらおうと考えて……

「……私、同じクラスで隣の席の……72ページです」

 そう言って、反応を待った。これで思い出して貰えなかったらなんて言おう?? と考えながら。

「……ああ。何の用?」

そこまで説明されたので流石に思い出した。流衣は安堵の笑みを浮かべつつ

「あの、私いつも授業中ボーっとしてるから……助けてくれてありがとう」

(……寝てる、をボーっとしてるに変換しちゃった。図々しいかな……。変だと思われるかな……)

「別に」

ニル・アドミラリ。

 突っ込みを入れるわけもなく、会話を続ける意思が無い様子で、店に入ろうとする。

「おまえはエリカ様かっ」

ハクに突っ込まれた。一瞬立ち止まったけれど、全く意を解さぬまま店の中に入って行った。流衣は軽くフリーズしてる。

「あー……」

ハクは残念そうな声を上げた。

(……横に居るオレでさえ、最初の一言で同級生だってわかるのに……いくら興味が無いったって、女の子がわざわざ寄って来てお礼言ってんのに、野郎はともかく、女子にまで無関心ってヤバくねえの、あいつ……)

 溜息をついて、戸惑い顔の女子に向かって。

「悪いな、あいつ感情の調節弁が鍵かけたまんまぶっ壊れてるからさ」

弁護する様に言い訳をする

「……ぶっ壊れてる……」

流衣はクリッとした丸い瞳をさらに丸くした。

「んじゃな」

「鍵かけたまま……」

——隣の席の男子、の友達らしき背の高い長髪天パー男子の言った事が気になって、……流衣は呪文のように繰り返した。 

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