第38話 悪意

「そうだ、参考までにお嬢さんにも教えておいてあげる。これが〝医者いらず〟の原料よ」


 女性が背後の棚から取り出したのは、ちょうどアーモンドくらいの大きさをした黒い種のようなものだった。表面は鈍い光沢を放っており、一見するとチョコレートのようにも見える。


「サンティラージャを初めとする、南方の国々でしか採れないティティカという豆なの。向こうの国では、少量を媚薬として飲んだりすることもあるわ」

「媚薬……」

「かつては惚れ薬とも言われていたようね。端的に言うと、性欲を高めるための薬よ。例えば許されぬ恋に落ちたふたりが、既成事実を作るために――」

「わーっ! わかります! 知ってます!!」


 子供のいるところで、なんという話をするのだ。真っ赤になったヘザーが、慌ててクリスの耳を塞いでいるではないか。

 エリーゼも、薬草学を学ぶ者として、一応その手の知識を持たないわけではない。ただ、積極的に摂取してこなかったというだけの話だ。

 

「よかったら小分けにしてる分があるから、持って帰っていいわよ。使う時は小指の先程度の量をカップ一杯分のお茶で溶いて使ってね。独特の匂いがあるから、たっぷり薄めないとバレちゃうわ」


 それに……、と女性は付け加える。


「原液を飲ませると、鼻血を出しながら昏倒しちゃうし」

「えっ、いえ、わたしは別に――」

「いいからいいから。あの堅物そうな旦那さまにでも使って迫っちゃいなさい!」


 女性は半ば強引に、エリーゼの手の中に赤い小瓶を握らせる。仕方なく、受け取った薬を懐に忍ばせる。あまりに押しが強すぎて、旦那さまではないと否定することもできなかった。


(まあ、薬の知識が増えれば今後何かの役に立つかもしれないし……)


 言い訳ではない、決して。断じて。

 また来てね、と見送られて店を出た後は、先日クッキーを買った菓子店に向かった。朝食をとった後であまり腹は空いていなかったが、クリスとヘザーに何か美味しいお菓子でも買ってあげようと思ったのだ。


 クッキーやマカロン、メレンゲ菓子やタルト。目にも美味しいお菓子を前に、ヘザーたちはきゃっきゃと浮かれている。

 同じショー・ケースを見ているはずなのに、心が全く躍らない。むしろ、前回ギデオンと来た時のことを思い出し、余計に気分が沈んでしまう。


(別のお店に、すればよかった)


 せっかく気分転換に出てきたのに、これでは意味がないではないか。


「ごめんなさい、ヘザー。ちょっと外の空気を吸ってくるわ」

「え!? 大丈夫ですか? ご一緒に――」

「すぐに戻るから大丈夫よ。お店からは絶対に離れないから」


 そう言い置いて、店の外に出る。幸いにして、ヘザーが追いかけてくるようなことはなかった。昨日からのエリーゼの一連の様子を見て、そっとしておいたほうがよいと気を遣ってくれたのかもしれなかった。


「ふー……」


 空を見上げて、たっぷりと深呼吸を繰り返す。このところ一段と気温が寒くなってきたせいか、吐く息はすっかり白くなり、煙のように立ち上った。

 赤や黄色に色づいた木々から離れて舞い落ちる落ち葉を見ている内に、少し心が落ち着いてくる。それでも未だに胸の奥の痛みは取れないまま、深く食い込んだ棘のように頑固にその場所に居座っていた。


「ふーー……」


 もう一度、先ほどより少しだけ時間を掛け、息を吐いて吸う。

 その時、サクリと落ち葉を踏みしめる音と共に、視界に見知った人の姿が映り込んだ。


「あら……あなたはギデオンの。こんなところで何をしてらっしゃるの?」

「ハートウェル侯爵令嬢」


 人通りの多い町中であっても、彼女はよく目立った。デザインこそ違うものの、今日も胸元が大きく開いた、鮮やかな真紅のドレスを身に着けていたからだ。

 脇には荷物を抱えた侍女らしき女性を連れている。


 あまり喜ばしくない遭遇である。だが、ギデオンの面子を潰さないためにも、一応挨拶だけはしておかねばなるまい。エリーゼはドレスの裾をつまみ、出来うる限りの美しい礼を取る。


「使用人のためにお菓子を買い求めに来ました。こちらのクッキーがとても美味しいので」

「まあ……。使用人のためだなんて、地方育ちの方は自由でいらっしゃるのね」


 地方育ちと彼女に言った覚えはないが、もしかすれば独特の訛りでも出ていたのだろうか。言葉使いにはちょっとした自信があったため、少しだけショックを受ける。

 しかし、それを表に出すのは矜持が許さなかった。


「ハートウェル侯爵令嬢こそ、どうなさったのですか?」

「王宮のお茶会へ持っていくお菓子を買いに来たのよ。陛下の叔母君でいらっしゃる、アデレイド殿下から正式に招かれましたの」


『正式に』という部分に特別力を込め、勝ち誇ったような笑みを向けられる。

 どんな顔をしていいか分からず、とりあえず「よかったですね」と告げる。侯爵令嬢がご機嫌に笑ったので、きっとその対応は間違っていなかったのだと思う。


「ところで、今日はギデオンは? ご一緒じゃないの?」

「今日は、お仕事で……」

「あら! 彼は長い休暇を取っていると聞いたけれど、どうしたのかしら? 田舎娘に屋敷にいることに、嫌気が差したのかしら」


 可哀想に、と言わんばかりに眉を下げ、大げさに驚いてみせる表情が癇に障る。

 けれど否定はできなかった。楽しい時間を過ごしていたと思っていたのはエリーゼだけで、ギデオンは本当は、王から押しつけられた役目を嫌がっていたのではないか。


 自分でも知らぬうちに、そんな心の落ち込みようが顔に表れていたらしい。侯爵令嬢は唇を弧の形に歪め、憐れむような視線をエリーゼに向ける。


「あらまあ、あまり落ち込まないようにね? あなたが悪いわけではないのよ。ただ、ギデオンは元々、私のような大人の女性が好きだったの。婚約破棄をした時は、あまりの落ち込みように胸が痛んだわ」

「……婚約期間中に、他の男性と浮気をしていたと聞きましたけど」

「なぁに? お説教でもするつもり? 私も若かったのよ。それに彼とはもう別れたわ」


 それがどうした、と思う。今更別れたところで、彼女が過去にギデオンを傷つけたことに変わりはない。それなのに、傷つけた当事者である彼女は、そんなことは過去の可愛い過ちのひとつだとでも言いたげだ。


「ねえ、あなた。ギデオンを私にくださらない? そうしたら、そうね、褒美をあげるわ。金貨三十枚でどう? 田舎娘には目が飛び出るほどの大金でしょう」

「はあ?」


 突拍子もない提案に、声が裏返った。遅れて、ふつふつと怒りが湧いてくる。

 ギデオンは物ではないと、何度言ったらわかるのだ。


「――馬鹿にしないでください」


 相手を睨めつけながら、低い声で呟く。よく聞こえなかったのか、侯爵令嬢は眉をひそめ、ほんの少し身を乗り出した。


「なんですって?」

「馬鹿にしないでくださいと言ったんです。金貨三十枚? くだらない!」

「あら……強欲なのね。それでは四十枚でどう?」


 この期に及んで、彼女はエリーゼが何に怒っているのか分かっていないようだった。そのことに、更に腹が立つ。


 もしエリーゼが彼の婚約者だったなら――浮気をしないのは大前提として――ハートウェル侯爵令嬢のように手放すことは決してしないのに。なんとしてでも自分のもとに繋ぎ止めて、大切に大切にするのに。

 それを簡単に手放しておいて、今更欲しいだなんて、虫が良いにも程がある。


「あなたにとってギデオンさまは、その程度の価値しかないんですか? だとすれば、あなたに彼はもったいないです」

「っ、言わせておけば、田舎娘ごときがいけしゃあしゃあと……!」


 顔に血の気を上らせた侯爵令嬢が右手を振り上げるのを見て、エリーゼは反射的に両手で頭や顔を庇う。

 バシッ、と肌を殴打する音が聞こえた。しかし、彼女の平手が打ったのは、エリーゼの頬ではなかった。


 恐る恐る、目を開ける。

 真っ先に視界に飛び込んできたのは、風に翻る艶やかなボルドーの外套。次いで、青灰色の瞳。ふわりと、どこか香ばしく、ビターな香りが漂う。


「――大丈夫ですか?」


 気遣わしげな声が、エリーゼの耳を打つ。シャルウィック公爵ウィルフレッド・カーライルが、ハートウェル侯爵令嬢の前に立ちはだかるようにして、そこに立っていた。

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