第39話 花束の贈り物
「暴力沙汰とは感心しませんね、ハートウェル侯爵令嬢」
頬を打たれたにも拘わらず、ウィルフレッドは怒る様子も見せず、余裕の態度でハートウェル侯爵令嬢を諫める。
さすがに公爵を打ったとあっては、侯爵令嬢のほうも大人しく引き下がるしかなかったのだろう。
「申し訳ございません、シャルウィック公爵。私、頭に血が上って……」
慌てて頭を下げ、侍女を引き連れて足早に去って行く。
その後ろ姿が消えるのを確かめてから、ウィルフレッドが改めてエリーゼのほうを向いた。
「大丈夫でしたか? 大声が聞こえると思って、駆けつけてよかった」
「助けてくださってありがとうございます。あの、頬は大丈夫でしょうか……」
かなり強く叩かれたのか、頬には手形がくっきりと赤く残り、唇の端からは微かに血が滲んでいるのが見える。
彼は懐から取り出したハンカチで血を拭うと、なんてことないように穏やかに微笑んだ。
「貴女が傷ついていたかもしれないことを思うと、このくらい安いものです」
そんな気障な台詞を口にするのは、本の中の登場人物だけだと思っていただけに――失礼かもしれないが、なんだか妙に背中がぞわぞわする。それに優しい言葉をかけられると、彼によくない感情を抱いている身としては非常に居心地が悪い。
罪悪感をごまかすため、エリーゼはぎこちなく固まりそうな顔の筋肉を必死で動かし、取り繕うような笑みを浮かべた。
「よろしければノースフォード邸で、冷やしていかれませんか? 傷の手当てもしたいですし……」
外の異変に気づき、店から出てきたヘザーに目配せをすると、彼女は心得たようにクリスの背中をぽんと押す。そしてクリスがアウトサイドのほうへ走り出したのを確かめると、停留所の方向に足を向けた。
「お構いなく――と言いたいところですが、ちょうどそちらに伺おうと思っていたので、お言葉に甘えさせていただきましょう」
「うちに?」
言葉にしてすぐ、後悔した。『うち』だなんて、よくもそんな図々しい物言いが出来たものだ。これまでエリーゼがそう呼ぶのは、生まれ育った実家だけだったのに、まだたった二週間しか滞在していない他人の屋敷に、勝手に親しみを感じているなんて。
幸いにして、ウィルフレッドがそのささやかな失言を気にとめた様子はなかった。彼は虚空に向かってパチンと指を鳴らす。するとどこからか彼の従者らしき男性が、影のように現れる。
「馬車をノースフォード邸に付けてくれ。私は彼女の馬車に乗って向かう」
「承知致しました」
無駄なところの一切ない簡潔なやりとりを交わした後、男性は去って行く。
「婚約者候補として、貴女に贈り物を用意してきたのです」
「まあ……」
どんな反応をするのが正解か分からず、エリーゼは口ごもってしまう。気持ちは嬉しいが、今の自分はそれを受け取る心構えができていない。
結局何も言えないままに、馬車の迎えが来た。
町からノースフォード邸までは、そう距離が離れているわけではない。ドレスで歩くには少し遠いが、馬車に乗ればあっという間だ。
屋敷に到着し、メイドたちに客人が到着したことを告げ、手当てに必要な道具とお茶の準備を頼む。少し遅れてウィルフレッドの馬車も到着し、先ほどの従者が花束と木箱を手にやってきた。
「高貴な貴女に似合うと思って選びました」
従者から花束を受け取ったウィルフレッドが、恭しくエリーゼに差し出す。キキョウやダリア、クレマチスに小さな薔薇と、季節の花を彩りよくあしらい、白いリボンで纏めたものだった。
きっと高価なものだろうと一目でわかるほど豪華で、上品な品だ。
礼を言って、早速花束を花瓶に生けるよう、ヘザーに言いつける。
「それからこちらは、町で評判の店で買ったレモン・メレンゲパイです。よろしければ、ご一緒にいかがでしょうか」
――レモン・メレンゲパイ。
その言葉に思考が一瞬停止し、固まってしまう。
ギデオンとの思い出の食べ物を、他の男性と一緒に食べることに対する、本能的な忌避感が胸に広がっていく。
けれどそれは、エリーゼの身勝手な考えだ。ギデオンのほうは、そんなことなど気にとめていないに違いない。エリーゼが勝手に心の中の大事な場所にしまって、勝手に特別なもののように思っていただけ。それだけだ。
「どうかなさいましたか?」
「……いえ。後でメイドに切り分けさせますね。どうぞこちらへ」
ウィルフレッドを応接室に通し、ソファに座らせる。
エリーゼは彼と目線を合わせるようにかがんで、メイドの持ってきた清潔なガーゼで彼の口元を拭った。出血は収まっていたが、念のため消毒をして軟膏を塗っておくことにする。
「これでよし。念のため、後でお医者さまに診せてくださいね」
「驚いた。手慣れていらっしゃいますね」
「生まれ育った家では、怪我人が来ることもありましたから……」
「貴女に手当てしてもらいたいがために、頻繁に怪我を作ってくる男がいそうだ」
自分で言って自分でおかしくなったのか、ウィルフレッドが愉快そうに笑う。しかし、かつてそれで何度か嫌な思いをしたエリーゼにとっては、笑い事ではなかった。
(悪い方では、ないのかもしれないけど)
実際、ウィルフレッドはギデオンに声を荒らげたあの一件を覗けば、終始物腰柔らかな優しい紳士という印象だった。身分もあり、身のこなしは優雅で、顔立ちも非常に整っている。
先ほども、エリーゼの帰宅を出迎えたメイドたちが頬を染めながら、ちらちらと彼のほうを見つめていたほどだ。だから余計に、一体彼の何がこんなに引っかかっているのか分からなかった。
「お嬢さま、お茶とお菓子をお持ちいたしました」
「ありがとう。そこに置いてくれる?」
程なくしてやってきたヘザーによって、テーブルの上にティーセットと、レモン・メレンゲパイの乗った皿が手際よく並べられる。
ウィルフレッドに改めて感謝を伝え、フォークを手に取る。
紅茶を共にしている間、ウィルフレッドとは他愛のない会話を交わしたが、彼が帰る頃には何を話したか忘れるほどに、エリーゼは気もそぞろだった。
ただ、ギデオンと共に食べたあのレモン・メレンゲパイと違って、その日食べたレモン・メレンゲパイは、砂を噛むような味がした。
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