第37話 毒と薬
その晩は、泣きに泣いた。一生分の涙を流したかと思うほどに泣いた。途中で心配したヘザーが扉を叩いたが、まともに返事をすることもできなかった。
ほぼ一晩中泣き明かし、翌朝、後悔した。目は真っ赤に充血し、瞼は信じられないほど腫れぼったく膨れ上がっている。顔はパンパンにむくみ、鏡を見た瞬間思わず「うわ」とげんなりした声が漏れたほどだ。
こんな酷い状態で、朝食の席に顔を出すわけにはいかない。
未練がましく泣いていたなんて、ギデオンには絶対に知られたくなかった。
涙の跡がカピカピに乾いた顔を水で洗い流し、濡らしたタオルで目元を冷やす。更にヘザーに頼んでティーセットとお湯を持ってきてもらい、乾燥したたんぽぽの葉を濃いめに抽出して飲んだ。それでも大してむくみは取れず、みっともない有様にまた、泣きそうになる。
それでも、これ以上部屋に引きこもるわけにはいかない。何せ昨日は、無断で夕食をすっぽかしたのだ。
着替えたり髪を梳かしたりするのにも、普段以上に時間がかかった。更に、泣いた跡をごまかすために化粧までしたから、余計に時間がかかった。
のろのろと最低限の身なりを整えて部屋を出る。心に重石が乗っているようだ。廊下を歩く足取りも、いつもの倍くらい重かった。
それでもなんとか食堂に到着したエリーゼは、ドアを開けた瞬間拍子抜けした。そこに、ギデオンはいなかった。
きょろきょろと周囲を見回していると、料理を運んできた給仕係のメイドが告げる。
「旦那さまは、早くにお仕事へお出かけになりました」
「しばらくの間、お休みを取っていたはずじゃ……」
少なくとも二ヶ月は、エリーゼの淑女教育のために休暇を与えられたと言っていたのに。
「なんでも、どうしても旦那さまが当たらなければならないお仕事ができたそうで……。食事はお嬢さまおひとりで召し上がっていただくように、とのことでございました」
申し訳なさそうなメイドの言葉に、絶対に嘘だ、と直感が告げた。ギデオンはエリーゼと顔を合わせたくないばかりに、仕事があると嘘をついて家を空けたのだ。
そうまでして避けられている事実に、枯れたはずの涙がまた零れそうになる。
それでも、せっかく料理人が用意してくれた朝食を無駄にするわけにもいかない。半ば無理矢理胃の中を満たし、寂しい食事を強引に終わらせる。
そうして部屋へ戻ろうとした時、玄関から飛び込んでくる人影があった。
「お姉ちゃん! また来たよ」
クリスだ。遅れて、彼をここまで案内してきたであろうヘザーが、慌てた様子で追いかけてくる。
「こら、ノックもなしに勝手に入らないの!」
「えーだって、早くお姉ちゃんに会いたくて」
「だってじゃありません!」
ふたりの姉弟のようなやりとりに落ち込んでいた気分が少しだけ浮上し、エリーゼはくすくすと笑った。
「こんにちは、クリス。そろそろ来る頃かと思っていたわ」
実は先日クリスが屋敷にやってきた際、エリーゼは彼に労働の対価として賃金を支払っていた。そして、そのお金で母親の薬や食料を買えばいいと、ヘザーに頼んで、彼を買い物に連れていってもらったのだ。
別れ際、またいつでも手伝いに来てくれればいいと伝えれば、クリスは嬉しそうに何度も頷いていた。実際、クリスはとても真剣に皿洗いをしてくれ、キッチン・メイドからも評判がよかったのだ。
「お姉ちゃんのおかげで薬も買えたし、柔らかいパンや美味しい干し肉も手に入ったんだ。母ちゃん、こんな豪華なご飯は久しぶりだって、とっても喜んでたよ」
「よかったわ。でも、それはわたしじゃなくて、クリスが一生懸命働いたおかげよ」
エリーゼの言葉に、クリスは少し照れたように頭を掻き、照れ隠しのように話題を変えた。
「それで、今日は何をしたらいい? おいら、今日も頑張って働くよ」
「そうね……」
しばらく考え込み、ふと思いついた言葉を口にする。
「じゃあ、今日はわたしのボディガードをしてくれる?」
「ボディガード?」
「町にお出かけしたいの。お買い物とか、美味しいものを食べたりとか」
家にいても気分が塞がるばかりだし、いっそ外にでて気分転換でもしたい。するとヘザーが、ぎょっとしたように目を剥いた。
「お嬢さま、外出なんて旦那さまがお許しになりません!」
彼女はギデオンから、エリーゼが彼のいない時に屋敷の敷地外へ出ることのないよう、しっかりと言いつけられている。もちろんエリーゼもそのことは知っていた。知っていたが、そんなもの知ったことか。
どうせギデオンは、エリーゼのことなんてどうでもいいのだ。やさぐれた気持ちになりながら、ヘザーを説得にかかる。
「大丈夫よ、ちょっと行ってすぐ帰ってくるだけだし。ヘザーにも付いてきてもらえば、問題ないでしょう?」
「ですが……」
「付いてきてくれたら、美味しいお菓子を買ってあげる」
卑怯な手段だと分かっていながら、ヘザーが甘い物に目がないことを遠慮なく利用させてもらう。まだ十五歳にもならない少女にとって、エリーゼの提案は非常に魅惑的だっただろう。
「ちょ、ちょっとなら……」
結局、ヘザーはエリーゼの思惑に乗って頷いてくれた。
ヘザーとクリスを連れて町に出かけたエリーゼは、馬車を停留所に待たせて、まずは例の雑貨屋へ向かう。今日も店内には不思議な香りが漂い、あの褐色の肌をした女性が薬草をすりつぶしていた。
「あら、こんにちは」
チリンと鈴が鳴る音に気づき、女性が顔を上げる。エリーゼたちの姿を認めるなり、愛想良く微笑んだ。
「今日は何をお求めかしら」
「以前いただいたネロリア草と、アジューカの肝を」
「その子のお母さま用ね。すぐに用意するわ」
前回、ヘザーと共に買い物に来た時に事情を伝えていたのか、女性はクリスを見て納得したような顔をする。いくつもある棚から慣れた手つきで薬包紙を取り出し、クリスに手渡す。
「もう、変な薬に頼っちゃだめよ」
「変な薬?」
会計の際、聞き捨てならない言葉が聞こえたので繰り返すと、女性は深刻そうに眉を潜めて事情を話してくれた。なんでもアウトサイドでは、飲むとたちまち元気が出るという、魔法のような薬が横行しているらしい。
貧しい人々は『これがあれば医者いらず』と喜んでいるそうだが、当然魔法なんて存在するわけがない。そんなものは単なるまやかしだ。
「命の前借りというのかしらね。一時は元気になるものの、身体には大きな負担がかかって、またガクンと悪くなるの。それでまた、その薬を飲むでしょう? 余計に体調は悪化して……その繰り返し」
「そうですか……。薬というより、むしろ毒のようなものですね」
「血管を拡張する作用もあるから、少量の摂取ならむしろ一部の病には効くんだけれどねぇ……。まあ、それはどの薬にも言えることね」
アジューカの肝だって飲み過ぎれば失神するし、ネロリア草だって原液を飲めば逆に心臓の働きを弱めてしまう。
クリスの母も、初めはその薬に頼って、過重労働をこなしていたらしい。けれど徐々に体調がおかしくなり、弱っていき、ほとんど寝たきりになってしまったそうだ。クリスの母だけでなく、周囲にもその薬のせいで身体を壊したと思しき人間は非常に多いらしいが、彼らはそれが薬のせいとは気づいていないようだ。
「そこの少年には、周囲の人たちに薬を飲まないように伝えてほしいって頼んだんだけど……」
「誰も、おいらのいうことなんて聞いてくれなくて」
クリスが悲しげに目を伏せる。中にはクリスの言い分を信じる者もいたかもしれないが、その日暮らしが精一杯の貧民にとって、未来の自分の健康より今が大事なのだろう。
(ギデオンさまに――)
頼る相手として、真っ先にギデオンの名前が浮かぶ自分に嫌気が差す。
(ううん、陛下に相談してみよう)
エリーゼ一人の力ではどうにもならないことかもしれないが、国王にはその力があるはずだ。毒薬の流通を止め、アウトサイドにもきちんとした診療所を設けることができれば、不幸な患者も減ることだろう。
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