第36話 ギデオンの想い
エリーゼが走り去った後、ギデオンはのろのろと顔を上げた。彼女の後を追おうと思ったが、足がその場に縫い付けられたように、やけに重かった。
――いや、そもそも自分には、彼女を追う資格はないのかもしれない。
「――旦那さま」
いつからそこにいたのか、家令のスコットが静かに声をかけてくる。
「追わなくて、よろしいのですか?」
事情を察しているのかいないのか、彼の声は気遣わしげでありながら、どこかギデオンを責めるようでもあった。
「……部屋に戻る」
問いかけを無視するように別の言葉を告げて、その場を後にした。
自室でひとりきりになるなり、先ほどのエリーゼの表情が脳裏によみがえり、胸が引き絞られそうな痛みに襲われる。
「――くそっ」
悪態をつき、壁を殴る。拳がじんじんと痛むが、胸の痛みはそんなものではなかった。
『ギデオンさまは、わたしとシャルウィック公爵が結婚することに、賛成なんですか?』
賛成なわけがない。
本当なら自分の腕の中に囲って、ずっと手放したくはなかった。けれど、言えるわけがなかった。
エリーゼは王女だ。そして国王は、信頼する甥と愛娘との結婚を望んでいる。
同じ公爵とはいえ、その立場は平等ではない。ウィルフレッドは国王の内戚の甥で、内務長官で、外戚の従甥であり副長官のギデオンより、何もかもが上だ。
個人的には好かないが、ウィルフレッド・カーライルという男は非常に有能な男だ。公爵という立場にあぐらをかくこともなく、常に職務に対して熱心に当たり、国王だけでなく臣下たちからの信頼も厚い。
そして何より、女性からの人気も高かった。当然だろう。女性は皆、ウィルフレッドのような柔らかい雰囲気と、巧みな話術を持つ男性を好む。
朴訥で、鉄仮面で、つまらないギデオンとでは比較にもならない。
『わたしは――わたしは、あなたのことを……!』
ギデオンに突き放されたエリーゼの、あの涙をぐっと堪えるような痛ましい姿。彼女が何を言いたいかわかっていながら、制止したのは自分だ。なのに、本当は続きを聞きたかったなんて――身勝手にもほどがある。
いつからだろうか。エリーゼに笑顔を向けられるたび胸が甘く騒ぎ、もっと彼女の喜ぶ姿を見たいと思うようになったのは。彼女と言葉を交わすたび、もっと彼女の声を聞きたいと思うようになったのは。
不意に見せる弱々しい表情を見るたび、彼女を守れる男が自分であればよかったと――そう願うようになったのは。
それは孤児院で彼女の意外な姿を見たことがきっかけかもしれなかったし、家族と別れた後の凜とした姿を見たことがきっかけかもしれない。
否。あるいは、初めて彼女を目にした時にはすでに、心奪われていたのかもしれない。自由奔放で、大胆な悪女に。
けれど、その願いは本来、決して抱いてはいけないものだった。
エリーゼだって、今はギデオンに気持ちがあるかもしれないが、きっと親鳥を慕うひな鳥のようなもの。ウィルフレッドと交流していくうちに、それが本当の恋ではなかったと気づくだろう。
――自分で考えておきながら、ウィルフレッドに笑顔を向けるエリーゼを想像するだけで、胸の引きちぎられそうになった。醜い嫉妬で、ウィルフレッドを殺したくなった。
けれど、こんな想いは忘れなければ。心の奥深くに封じ、見ないふりをするのだ。
「間違っても、手が届くなどと思ってはいけない」
自分に言い聞かせるように、かすれた言葉を紡ぐ。
エリーゼは仕えるべき主君の娘。いずれ女王となる身だ。
ギデオンは決して、そのことを忘れてはいけなかった。いけなかったのだ。
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