三章

第31話 初恋

「一、二、三、一、二、三……」


 広間に美しい旋律と小気味よい手拍子が響き渡り、それに合わせてドレスの裾が軽やかに翻る。ピアノが奏でるのは、オルテミアで昔から親しまれているワルツだ。

 この日、エリーゼはニコルズ夫人からダンスのレッスンを受けていた。


「胸を張って、首をすっと伸ばして。頭の天辺を糸で引っ張られているイメージです。……そう! お上手ですよ」


 踵の高い靴で歩くのに慣れてきたのもつかの間、今度はその靴でくるくる回ったり、跳ねたりしろというのだから忙しい。

 幸い、ダンスは不得手ではなかった。元婚約者と夜会で踊る場面も幾度かあったし、無様なステップでは笑われると、父に特訓に付き合ってもらっていたから。

 ただ、王都とグレイフィールドでは流行が違うため、その点は少し苦労したけれど、部屋の隅で見学しているヘザーも拍手を送ってくれている。


「失礼、調子はどうだ?」

「まだ少し固いところもありますが、大変筋がよろしいかと」

 

 不意に扉から顔を覗かせたギデオンに、夫人が笑顔で応じる。得意なダンスで褒められ、エリーゼも満面の笑みをギデオンに向ける。


「お聞きになりました、公爵閣下? あなたの同居人は、大変筋がよろしいんですって」


 褒めてほしくて冗談を言えば、彼は口の端を軽く持ち上げ、エリーゼに手を差し出した。意図がわからずほけっと突っ立つエリーゼの右手をそっと取り、広間の中央に導く。


「それでは、せっかくだからお手並み拝見と行こうか?」


 ピアニストに向かって合図をすると、ほどなくして軽やかな旋律が流れ出した。 

 予想外の出来事に完全に出遅れたエリーゼは、慌ててドレスの裾をつまんでお辞儀をする。

 ギデオンもまた、右手を心臓の位置に押し当てながら紳士の礼をとった。優雅な所作は、彼が王族の血を引く高貴な人間であることを遺憾なく伝えてくる。


 肩に手が触れ、ふたりの距離が縮まった。

 百合の香水がふわりと漂い、エリーゼの鼻をくすぐる。その上品な香りは、以前より甘いように感じた。


 ギデオンにリードされ、エリーゼはワルツのステップを踏む。これまでダンスを踊ってきた相手と比べるのもおこがましいほどに、彼のリードは驚くほど巧みで、踊りやすかった。

 純粋に、ダンスをこれほど楽しいと思ったのは初めてだった。心が弾み、ステップもこれまで以上に軽やかに踏めている気がする。自然と、笑みが溢れた。


「本当に上手いな。君はダンスが得意だったのか」

「ギデオンさまこそ。ダンスなんて爪の先ほども興味がないかと思っていました」

「君は私を、どんな人間だと思っているんだ」


 心外だと言わんばかりに、ギデオンの眉間に微かに皺が寄る。

 だけど、こうして実際に踊ってみるまで、ギデオンがこれほどダンスが上手だなんて露ほども思わなかったのだ。


「ダンスを踊ってる人たちを、腕組みして睨み付けてるみたいな……」

「失敬な。私だって、ダンスを楽しむことくらいある。こうして――」


 突然くるりとターンさせられ、エリーゼは目を白黒とさせた。


「パートナーを楽しませることだってできる」


 予定にないターンによろけそうになり、慌てて足の裏に力を込めて踏ん張る。


「ははっ」


 どうだと言わんばかりの視線を寄越され、エリーゼはぐいっとギデオンの腕を強く引いた。やられっぱなしは性に合わない。

 元々この曲にはない振り付けだったが、ギデオンは難なくそれを受け流した。エリーゼの背を支えると、そのまま流れるように弓なりに反らせる。


「あ、ちょ……っ」


 さすがにそれは予想外だ。今度こそ身体のバランスを崩してしまったエリーゼの背を、ギデオンがぐっと引き寄せた。彼の胸の中に抱え込まれる形となり、思わず身体を固くする。

 ギデオンの身体はしなやかだが硬く、軍を退役した今でも鍛えていることが容易に窺えた。背に添えられる腕は力強く、胸板は逞しい。


 彼の体温を感じられるほどの近しい距離にいることに気づき、遅れて頬がじわじわと熱を持ち始める。

 肌越しに、高鳴る鼓動が伝わってはいないだろうか――そう考え、ギデオンの鼓動もまた、普通より速いことに気づく。

 

 見上げれば、海のような青い瞳がこちらを見つめていた。逸らすこともできず、見つめ返す。彼の瞳の奥に浮かぶ感情がなんなのか、エリーゼには想像もつかない。

 ぐっと、背に添えられた手の力が増した気がした。


「あの、ギデオンさま……」


 何かを言わねばと口を開いたその時、ごほんと咳払いの音が響いた。見ればニコルズ夫人が、くいっと眼鏡の縁を持ち上げ、厳しい視線を寄越している。


「おふたりとも、ワルツの振り付けはそうではなかったはずですが」

「す、すまない……っ」

「ごめんなさいっ!」


 夫人の指摘に、ふたりは追い立てられたネズミのように、同時に素早く相手から距離をとったのだった。



「絶対、お似合いだと思うんですよ!」


 レッスンを終えて部屋に戻るなり、ヘザーの第一声はそれだった。部屋履きに履き替えながら、何を言い出すのかと視線を送れば、彼女は興奮を押さえるように両手を握りしめる。


「旦那さまとお嬢さまです! わたし、ワルツを踊っているおふたりを見て、うっとりしちゃいました」


 その時のことを思い出すようにほんのりと頬を上気させながら、天井を見上げた彼女は、ぐいっとエリーゼに迫った。


「使用人たちの間でも最近話題になってるんですよ! お嬢さまを見つめる旦那さまの眼差しが、見たことないほど優しいって」

「そ、そうかしら。そうだったら……いいんだけど」


 ついつい本音が零れてしまったことに気づいたのは、ヘザーが目を丸くしてエリーゼを見つめていたからだ。


「やっぱり! そうだったんですね!」

「ちょっとヘザー、声が大きいわ……!」


 誰かに――殊にギデオン本人に聞かれたら堪ったものではない。

 彼はただ、エリーゼの保護者として、また王家に仕える者として優しくしてくれているだけかもしれないのに。

 だけど、もし、それだけではなかったら。そんな想像は、エリーゼの胸を甘い期待にときめかせた。


 しかし、これまで恋をしたことのないエリーゼは往生際が悪かった。これが恋だと認めたら、何かが大きく変わってしまうような気がしたからだ。


「わたしは、ただ……ギデオンさまが笑うと、胸がきゅって締め付けられるような心地になったり、顔が熱くなるだけで……」

「それが恋っていうものですよ!」


 なのにヘザーは、容赦なく結論を口にする。


「目を閉じるとその人のことしか考えられなくて、その人といる時が一番幸せで……。その人が笑ってくれたら、自分まで嬉しくなる。それが恋です!」


 だから声が大きいと言うのに。

 けれどヘザーの発言で、エリーゼは自覚せざるを得なかった。


(わたしは、ギデオンさまに恋をしている……)


 いつからだったのかはわからない。何が理由なのかも。最初の印象は最悪だったし、むしろ嫌いだと思っていた。

 だけど、孤児院で並んで芋を剥いた時。

 落ち葉運びを手伝ってくれた時。

 家族との別れを、静かに見守ってくれた時――。


 舞い散る花びらが静かに折り重なるように、その感情はきっと自分でも気づかないほどにゆっくりと、エリーゼの心を満たしていった。

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