第32話 好きと嫌いの根拠

 想いを自覚したところで、何かが劇的に変わるかと思えば、別にそう言うことはなかった。何せギデオンは、エリーゼの気持ちになど微塵も気づいていないはずなのだから。


 恋はひとりで落ちるものだが、愛はふたりで育むものだ――と言ったのはどこの劇作家だっただろうか。

 つまりこの恋を恋愛に発展させるには告白するしかないのだが、それには必要なものがふたつある。勇気と、振られても落ち込まない強い心だ。


 だって、なんの好意もない金持ち男を手のひらで転がすのとは訳が違う。

 エリーゼはギデオンのことが好きで、大切で、嫌われたくなくて――。


(……嫌われてはない、わよね?)

 

 向かいの席で昼食をとるギデオンをちらりと盗み見しながら、恐る恐る自問自答する。

 笑顔を向けてもらえるし、普通に会話もしてもらえるし、こうして一緒に食事もとってくれる。ドレス選びの時なんてすごく熱心に手伝ってくれたし、なんと今日は、ダンスまで踊ったのだ。

 嫌われてはいないはずだ。多分、恐らく。


 けれどどんなに『嫌われていない根拠』を並べたところで、それは『好かれている根拠』にはなりえないのだということもわかっている。

 もし、告白して迷惑な顔をされたら――そんな想像に、勝手にうち沈んでしまう。


 一体世の恋人たちは、どうやって両思いになったのだろう。自分の好きな人が自分を好きで、互いにそれを知っているなんて、もはや奇跡ではないか。


 うんうん唸っていると、ふとギデオンと目が合う。

 ふ、と目元を優しく緩ませて口元を綻ばせる様子に、思わず目を細めてしまう。

 眩しい。想いを自覚したせいか、ギデオンの一挙手一投足が眩しくて堪らない。


「どうした、妙な顔をして」

「いえ、ちょっと眩しくて……」

「今日は曇りだが……一応カーテンを閉めておくか」


 目配せを受け、すかさずメイドがカーテンを閉めに行く。しかし窓の外に何かを見つけたらしく、すぐに手を止め、困ったような顔で振り向いた。


「あの、旦那さま。門のところに汚れた少年が立っているのですが……」

「何?」


 ギデオンが立ち上がり、窓際に歩み寄る。彼はしばらく外に目をこらした後、苦笑を浮かべてエリーゼを見た。


「どうやら、君の勝ちのようだ」

「え?」

「――例の少年だ。君が薬を渡した。約束通り、屋敷を訪ねてきている」



 エリーゼの指示により、少年はすぐに食堂へ連れてこられた。

 相変わらず薄汚れた繋ぎの服を身に着けており、顔には煤けたような跡がある。公爵邸の荘厳さに驚き、身を固くしているようだったが、エリーゼたちと目が合うなりぱっと表情を輝かせた。


「お姉ちゃん、おっさん!」


 その呼びかけに、思わずぎょっとしたのはその場にいた使用人たちだ。恐る恐るギデオンの様子を窺い、彼が苦笑していることを確かめ、胸を撫で下ろしている。

 もちろんギデオンも『おっさん』呼ばわりに思うところはあるのだろうが、さすがに子供相手に目くじらを立てるほど狭量ではないはずだ。


「こないだはありがとう! 貰った薬をあげたら、母ちゃん随分楽になったって!」

「お母さまのお加減がよくなってよかったわ」

「うん、お姉ちゃんたちのおかげだよ! それで、おいらは今日、何をしたらいいの? 皿洗い? 掃除? 洗濯?」


 少年はやる気に満ちあふれているようだ。茶色い瞳をきらきらと輝かせ、エリーゼを見上げてくる。

 エリーゼは膝を曲げて少年と視線を合わせた。何日も洗っていないであろう衣服はところどころがすり切れ、染みがついていて、妙な匂いがした。


「そうね。でもまずはお風呂に入って、身体を綺麗にしましょう。お仕事はそれからよ」



   ◆◆◆


 少年は、名をクリスと言った。

 生まれてこの方、まともに風呂に入ったことはないらしく、身体中垢やら砂埃やら煤やらで汚れており、湯で流すたび足下で茶色い水たまりが出来て大変だった。

 それでも根気強く石鹸で擦り、何度も湯で流すとすっかり汚れも落ちて綺麗になった。

 元々身に着けていた服はひとまず洗濯に回し、代わりに見習い下男のお仕着せを身に着けさせる。伸びすぎた前髪を切れば、見違えるほどさっぱりと小綺麗な印象だ。


「それじゃ今日は、お皿洗いを手伝ってもらおうかしら。やりかたはメイドたちに教えてもらってね」

「わかった! おいら、頑張るよ」


 張り切るクリスをヘザーに任せて台所へ送り出すと、ちょうどやってきた家令が声を掛けてくる。


「お嬢さま、旦那さまが書斎へお呼びです」

「ありがとう、すぐ行きます」


 階段を上がってギデオンの部屋まで辿り着くと、扉の前で深呼吸を繰り返した。想いを自覚してからというもの、どうしても彼のことを考えると緊張してしまう。

 それでもできるだけ平静を装って、ドアをノックしながら声を掛けた。


「ギデオンさま、エリーゼです」

「ああ、入ってくれ」


 部屋に入ると、ギデオンは机の前に腰掛けて書類作業をしている最中だった。その表情は、先ほどとは違ってどこか暗く見える。


「お疲れですか? 疲れに効くハーブティーをおいれしましょうか」

「ああ……いや。実は三日後に、国王陛下がお忍びでここを訪れることになったんだ。君の様子をご覧になりたいとのことらしい」


 王妃の喪中という状況を考慮すると、本来なら半年後のお披露目まで顔を合わせるべきではないのだが、きっと国王はそれまで待てないのだろう。

 生き別れの娘が長らく行方不明になり、ようやく見つかったのだ。無理もない。


「前々からご希望されていたものの、君がこちらで落ち着くまではとお待ちいただいていたのだが……」

「何か問題でも?」

「ああ、いや。……なんでもないんだ」


 首を軽く横に振って、ギデオンが笑う。

 その表情に小さな違和感を覚えたものの、きっと大したことではないのだろうと、追求はしなかった。


「とにかく当日までに、陛下をお迎えする準備を整えておこう。私も出来る限り君をフォローするから」

「わかりました」


血が繋がった実父とはいえ、相手は国王だ。どうしても緊張してしまう。それでもギデオンが側にいてくれれば、きっと大丈夫だと――このときのエリーゼは、呑気にそんなことを考えていた。 

 

 



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