第30話 元婚約者


 レストランは昼時らしく、大勢の客で賑わっていた。

 くすんだ水色の壁紙に、清潔感のある白いテーブルセット。ところどころに置かれたうさぎの置物が、店主のこだわりを感じさせる。


 給仕に案内され、窓際の日当たりの良い席に着いたふたりは、額を付き合わせるようにしてメニューに目を通した。


「白身魚の白ワインソースがけにします」

「では、私もそれを。パンも頼もうか」


 慣れた様子で給仕を呼んだギデオンが、料理と白ワイン、食後にレモンメレンゲパイを運んでくるように告げる。

 注文を受けた給仕は一旦その場を去り、程なくしてワインボトルを携えて戻ってきた。


「少しは気分転換できたか?」


 軽く乾杯をした後、甘く爽やかなワインに舌鼓を打っていると、唐突にそんな質問をされた。


「今朝はなんだか、元気がなかったようだから」

「え……」


 思いがけない言葉に、またたきを繰り返す。彼が自分を外出に誘ったのは、単にレターセットを買う必要性があったからなのだと思っていた。

 まさかこの朴訥とした公爵が、気落ちしている相手を励ますために外に連れ出してくれるなんて、想像もしていなかったのだ。


「心配してくれたんですか?」


 動揺のあまり、聞くつもりのなかった一言が唇からこぼれた。これではまるで、肯定されることを期待しているようではないか。

 しかし、しまったと後悔した時にはもうギデオンは当然のように頷いていた。


「するだろう、それは」

「わたしが王女だから、ですよね」


 ああ、今日はなんだかおかしい。言ってはいけない言葉が、次々と口を突いて出てしまう。

 怪訝そうにしながらも、ギデオンは律儀に答えてくれる。


「君の立場がどうあれだ。いつも明るい同居人がうち沈んでいたら、心配にもなる」


 それは本当なのだろう。生真面目な彼はきっと、意味のない嘘をつくようなタイプではない。エリーゼのことを純粋に心配し、どうすれば元気になるか、頭を悩ませてくれた。

 

 胸の奥がいっぱいになるような心地に、エリーゼはそっと胸元を押えていた。その感情をなんというのか、知らない。知らないけれど、口元は気を抜けば勝手に緩んで、弧を描きそうになってしまう。

 

 きゅっと唇を噛みしめ、込み上がる感情を堪える。

 しばらくそうしていて、エリーゼはようやく気づいた。これは喜びだ。けれど、これまでの人生で感じてきたそれとは大分様子が違って、少しだけ、苦しい。


「どうした? また、具合でも悪いのか?」


 いつまでも胸を押えたまま俯いているエリーゼを、心配する声が聞こえてくる。

 気遣わしげな優しい声を耳にするだけで、心臓がまたきゅんと跳ねる。大丈夫だけど、大丈夫ではなかった。

 幸いにしてその時ちょうど、給仕ができあがった料理を持ってきたため、ふたりの会話は一時中断された。


 食前の祈りを神にささげ、フォークとナイフを手に取る。

 白ワインでふっくらと蒸された白身魚は驚くほど柔らかく、臭みもまったくなかった。ソースをパンに付けて食べると、これもまた美味しい。

 付け合わせの野菜も、それぞれ素材の味が引き立つように絶妙な火加減で調理されている。

 

「これは美味いな」

「ええ、本当に。こんなに柔らかいお魚は初めてです」


 ぽつぽつとそんな会話を交わしながら、皿を空にする。

 そうして、あとはレモンメレンゲパイを待つばかりとなった時、頭上から耳慣れぬ声と、甘い香水の匂いが降ってきた。

 レストランには相応しくないほどの強い匂いであった。


「あら、ギデオン? ギデオンじゃない!」


 親しげな声に驚いて視線を挙げれば、黒髪に真っ赤な唇が印象的な青いドレスの女性が、笑顔で佇んでいる。

 しかし一方のギデオンは、にこりともせず固い表情だ。


「ハートウェル侯爵令嬢。貴女と私はもう他人だ。名前で呼ぶのは止めてもらいたい」

「あら、別にいいじゃない」


 氷のような冷ややかな声にも臆した様子を一切見せず、女性はいっそ馴れ馴れしいほどの態度でギデオンの肩に触れる。


「元婚約者に対して、つれない態度はよしてちょうだい」


(元婚約者! この女性が!)


 ヘザーの発言を思い出し、エリーゼは改めて女性を観察した。

 切れ長の目に、ぽってりとした唇の側にあるほくろが印象的だ。膨らむべきところが膨らみ、くびれるべきところがくびれた女性らしい見事な身体つき。

 同性であるエリーゼも思わず目を奪われてしまうほどの妖艶な美女を前に、しかし相変わらずギデオンは眉ひとつ動かさない。


「私の記憶違いでなければ、婚約は君のほうから破棄したはずだが」

「うふふ、まだ根に持っているの? それだけ私のこと好きだったってことかしら。あなた、大きな子犬みたいに私に尽くしてくれたものね」


 ギデオンと女性が過ごしてきた時間を示唆する言葉に。女性が付けている香水と同じか、それ以上に甘ったるい声に。胸の奥がざらりと不快な心地になる。

 ギデオンからではなく、女性のほうから婚約破棄をしたという事実が、無性に心を波立てる。

 モヤモヤとする気持ちを流し込むように、グラスに残ったワインを飲み干すと、女性はそこで初めてエリーゼの存在に気づいたようなそぶりを見せた。


「あら、お連れの方がいたの? ……ギデオンったら、しばらく見ないうちに随分と女性の趣味が変わったのね」


 見下したような嘲るような眼差しは、自分のほうが女性として上だと主張するかのようだ。

 確かに、都会の洗練された美女と比べれば、自分は野暮ったいのかもしれない。けれどそれをあえて口に出す辺り、見た目の美しさと心の美しさは比例しないようだ。

 

「彼女はそういう相手ではない。失礼なことを言うな」

「ごまかさなくたって良いじゃない。あなたがなんでもない女性とふたりで外出なんて、するはずないわ」


 そう言うと、彼女はエリーゼの肩に触れながら耳元に顔を近づけ、そっと囁いた。


「ねえ、彼って真面目すぎて、あなたみたいな若い女の子にはつまらないでしょう? 私に返してくれてもいいのよ」


 もちろんその声は、すぐ向かいの席にいたギデオンにも聞こえているはずだ。元婚約者の心ない言葉に、彼がどんな顔をしたのか確かめる勇気はない。

 代わりに、肩に置かれた女性の手をパシリと払いのけ、強い視線で睨み付ける。

 エリーゼは今、心の底から不快で、不機嫌だった。


「ギデオンさまは物ではありません。それに、真面目なのがギデオンさまのいいところです。残念ながらあなたには、その良さがわからなかったようですが」


 一息に言いたいことを言えば、女性はしばらく唖然としていた。やがてその頬がじわじわと血色を増していき、細い眉がつり上がる。


「――何よ、失礼な子ね!」


 甲高い声に、周囲の客たちの視線が集まる。さすがに気まずくなったのか、女性はぶつぶつと文句を言いながらも、踵を返して去って行った。

 やがて厨房の出入り口でまごまごと様子を見守っていた給仕が、ようやくレモンメレンゲパイを持ってやってくる。


 目の前にパイが置かれても、しばらくは手を付けなかった。

 ギデオンは先ほどから口元を手で押えたまま、ぴくりとも動かない。


(怒らせてしまったのかしら……)


 婚約破棄されたということは、ギデオンのほうはまだ彼女に気持ちがあったのかもしれない。そんな相手に対し、先ほどのような態度を取るのはまずかっただろう。

 謝罪しようと口を開き掛けた。しかし、吹き出すような音がそれを遮る。

 

「あの高慢なハートウェル侯爵令嬢の、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔……」


 ギデオンは肩を震わせながら、笑っていた。

 

「怒らないんですか?」

「怒る? なぜだ?」


 ギデオンが本気で意味がわからないと言う顔をしていたので、エリーゼは言いたくないことを言わなければならなくなってしまった。


「彼女のことが好きで、婚約していたんでしょう? それなのに、失礼な態度だったなぁって……」

「そんなことはない。元より彼女とは王命で婚約を結んだだけだし、むしろ嫌っているくらいだ。婚約破棄した時、彼女は別の男と浮気していたし、その後その男と結婚したしな」

「そう、だったんですか……」


 複雑な気持ちになりながらも、ひとまず彼が怒っていないことに安堵した。そして、彼の気持ちが最初からハートウェル侯爵令嬢になかったことや、彼女が既婚者だったことにも安堵する。


 安堵したついでに、食欲が湧いてきた。太陽に炙られた雲のような見た目をしたメレンゲの、なんと美味しそうなことか。デザートは別腹とは、よく言ったものである。

 フォークを手に取り、レモンメレンゲ・パイに刺す。ふわりと、軽い感触があった。

 ぱくりと頬張ると、軽やかなメレンゲと甘酸っぱく爽やかなレモン・カスタードクリーム、そしてサクサクのタルト生地の甘みが絶妙なハーモニーを奏でる。


 もくもくとパイを食べていると、ふと、自分を見るギデオンと目が合った。

 彼はまだ、先ほどの余韻に浸っているようだった。


「――〝あなたには、その良さがわからなかったようですが〟……か」

 

 くっくっと愉快そうに喉を鳴らし、目を細めて笑う。

 その日食べたレモンメレンゲパイの味を、多分エリーゼは一生忘れられそうになかった。

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